生活の通行料社会 ――67歳の元証券マンだけが見抜いた、日本人がまだ気づいていない「普通が有料化する国」の正体――
✦生活の通行料社会
――67歳の
元証券マンだけが見抜いた、
日本人がまだ気づいていない
「普通が有料化する国」
の正体――
………
日本は、
まだ滅びていなかった。
株価も動いていた。
電車も走っていた。
スーパーも開いていた。
スマホもつながっていた。
早苗ちゃんは言った。
「大丈夫です。
落ち着いて、
いつも通り
生活してください」
けれど、
67歳の元証券会社勤務の
おじいちゃんには、
その言葉がどうしても
信じられなかった。
なぜなら、
本当に危ない相場は、
暴落の前に
小さな板が薄くなるからだ。
証券会社で働いていた頃、
彼はそれを何度も見てきた。
買い板はある。
売買もある。
新聞はまだ楽観的。
評論家もまだ笑っている。
けれど、
一番下の方で、
誰かがそっと
逃げ始めている。
その匂いを、
67歳になった今でも、
彼の鼻は覚えていた。
今回、
その匂いは
株式市場からではなかった。
スーパーの
惣菜パン売り場からした。
ゴミ袋の棚からした。
宅急便の窓口からした。
火葬場の料金表からした。
クレジットカードの
引き落とし明細からした。
そして彼は気づいた。
日本は物不足で
滅びるのではない。
普通のことをするたびに、
小さな料金所が
立ち始めたのだ。
………
★目次
■第一章
スーパーの千円を
カードで払う国
■第二章
四百円の惣菜パンと
朝食四万八千円の衝撃
■第三章
サラダ油は
食卓の原油だった
■第四章
缶詰は魚ではない
安かった時代を
閉じ込めた金庫だ
■第五章
ゴミ袋が消えた日
行政の証明書が破れた
■第六章
宅急便四千円
やさしさに送料がついた日
■第七章
欧州便は旅行券ではない
帰還権になった
■第八章
AIが買い占めた
じいちゃんの思い出の箱
■第九章
母を送るにも
二万七千円の
補助金がいる国
■第十章
早苗ちゃんの
「大丈夫」は
誰に向けた言葉なのか
■第十一章
台所は国会より先に
日本経済の異常を
知っていた
■第十二章
アメリカの傘の下で
細っていく日本人の暮らし
■第十三章
自由市場の顔をした
静かな配給国家
■第十四章
距離が高級品になる日
■第十五章
近くで生きろ、
在庫を持て、
出口を増やせ
❥世代のあなたへ
★あとがき
ホームズとワトソンの
やすきよ漫才風
………
■第一章
スーパーの千円を
カードで払う国
67歳の元証券会社勤務の
おじいちゃんは、
その日、
スーパーのレジで足を止めた。
別に大事件が
起きたわけではない。
店員が叫んだわけでもない。
客が倒れたわけでもない。
棚が空になったわけでもない。
ただ、
前に並んでいた若い母親が、
二千円ちょっとの買い物を
クレジットカードで
払っただけだった。
食パン。
卵。
納豆。
牛乳。
豆腐。
バナナ。
子ども用の小さなゼリー。
贅沢品など、
ひとつもなかった。
合計、二千三百八十六円。
母親は
財布を開かなかった。
現金ではなかった。
スマホ決済でもなかった。
クレジットカードだった。
ピッ。
その音を聞いた瞬間、
おじいちゃんの中で、
昔の証券マンの
回路が動いた。
これは
便利になった音ではない。
生活が一か月先へ逃げた音だ。
昔、
クレジットカードは
背広を買う時に
出すものだった。
旅行へ行く時。
家電を買う時。
百貨店で
少し背伸びする時。
ところが今は違う。
豆腐を買う。
納豆を買う。
卵を買う。
牛乳を買う。
そのために
カードが出てくる。
政府は言う。
「キャッシュレス化が
進みました。
決済額は
過去最高です。
日本も
便利になりました」
けれど、
おじいちゃんには
違って見えた。
日本人は
現金を嫌いになった
のではない。
現金が先に
足りなくなったのだ。
スーパーの千円。
ドラッグストアの二千円。
ガソリン代。
電気代。
スマホ代。
病院代。
全部がカードに乗る。
カードは、
金持ちの道具では
なくなった。
それは、
生活を翌月へ送る
細い橋になった。
おじいちゃんは、
自分のレシートを見た。
合計、三千百二十円。
彼もまた、
カードで払っていた。
笑えなかった。
「わしも同じじゃがな」
そうつぶやいて、
おじいちゃんは店を出た。
外はまだ平和だった。
けれど彼には、
レジの音が
相場の警告音に
聞こえていた。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
日本人の未来の給料が、
今日の食卓に
削られていく音だった。
………
■第二章
四百円の惣菜パンと
朝食四万八千円の衝撃
翌朝、
おじいちゃんは
パン売り場で止まった。
惣菜パン、税込四百円。
彼は、
値札をじっと見た。
四百円。
小さなパン一個で、
四百円。
具は、
ソーセージとマヨネーズ。
昔なら、
百円台で売られていたような
顔をしている。
けれど今、
そのパンは
堂々と四百円の札を
つけていた。
おじいちゃんは、
頭の中で計算した。
家族四人なら、
一人一個で千六百円。
朝だけで千六百円。
三十日なら、
四万八千円。
彼は思わず笑った。
「朝ごはんが、
家賃の一部に
なっとるがな」
その時、
横にいた母親が、
子どもに言われていた。
「これ食べたい」
母親は手を伸ばした。
けれど、
値札を見て止まった。
一秒。
二秒。
三秒。
そして、
その手は静かに戻った。
「今日は食パンにしようか」
その声は優しかった。
けれど、
おじいちゃんには分かった。
あれは節約の声だ。
子どもを傷つけないように
家計を守る声だ。
証券会社時代、
彼は倒産寸前の会社を
何度も見た。
最初に消えるのは、
大きな広告ではない。
社員旅行が消える。
お茶菓子が消える。
コピー用紙の使い方が
厳しくなる。
蛍光灯が一本外される。
会社は、
小さな節約から壊れ始める。
家庭も同じだった。
惣菜パンを一個戻す。
この小さな動作が、
日本経済の
本当の決算書だった。
おじいちゃんは、
パン売り場を見つめた。
パンは、
小麦だけでできていない。
油。
砂糖。
卵。
乳製品。
ソーセージ。
マヨネーズ。
包装フィルム。
工場の電気。
配送トラックの軽油。
人件費。
四百円の惣菜パンは、
日本経済の縮図だった。
小麦が上がったのではない。
袋が上がり、
油が上がり、
軽油が上がり、
人件費が上がり、
最後に、
子どもの朝ごはんが
上がったのだ。
おじいちゃんは、
小さくつぶやいた。
「これはパンじゃない。
家族四人の朝に立った
料金所じゃ」
その日、
彼はパンを買わなかった。
代わりに、
米を炊いた。
米も高かった。
それでも、
四百円の惣菜パンよりは、
まだ戦える気がした。
………
■第三章
サラダ油は
食卓の原油だった
サラダ油の棚もまた、
おじいちゃんに
語りかけていた。
四月に値上げ。
六月にまた値上げ。
家庭用で一割以上。
業務用では二割近い
ものもある。
食用油のボトルは、
昔と同じ
透明な顔をしていた。
けれど、
値札だけが
別人のようになっていた。
おじいちゃんは、
一本を手に取った。
油。
昔は、
貧しい食卓を
助けるものだった。
少しの油で、
野菜はおかずになった。
少しの油で、
卵はごちそうになった。
少しの油で、
子どもは笑った。
けれど今は逆だ。
油そのものが、
食卓を苦しめている。
サラダ油。
オリーブオイル。
マヨネーズ。
ドレッシング。
惣菜。
揚げ物。
パン。
菓子。
冷凍食品。
給食。
外食。
油は、
台所の端にいるふりをして、
本当は
食卓の中心に座っていた。
おじいちゃんは、
ボトルの裏を読んだ。
原料。
容器。
ラベル。
物流。
その全部の奥に、
原油がいた。
ナフサがいた。
軽油がいた。
重油がいた。
電気がいた。
船がいた。
保険料がいた。
食べられる油を
作るために、
食べられない油が
必要だった。
おじいちゃんは、
そこで
初めて本当に理解した。
サラダ油は、
食卓の原油だった。
テレビでは、
遠い海峡のニュースを
やっていた。
ホルムズ海峡。
中東情勢。
原油価格。
タンカー。
制裁。
封鎖。
それらは、
昔なら
遠いニュースだった。
けれど今は違う。
遠い海峡は、
台所のフライパンに
つながっている。
戦争は、
ミサイルで
台所に来なかった。
まず、
サラダ油の
値札になって来た。
その日から、
おじいちゃんの家では
揚げ物の回数が減った。
じゅうじゅう
という音が減った。
台所は静かになった。
日本の危機は、
爆発音ではなく、
消えた揚げ物の音で
始まっていた。
………
■第四章
缶詰は魚ではない
安かった時代を
閉じ込めた金庫だ
缶詰売り場で、
おじいちゃんは
立ち止まった。
サバ缶。
イワシ缶。
ツナ缶。
焼き鳥缶。
フルーツ缶。
昔は、
安い保存食だった。
今は、
値札が重い。
一年前、
百円台で買えたものが、
二百円台、
三百円台になっている。
おじいちゃんは、
サバ缶を一つ持った。
去年、
もっと買っておけばよかった。
その瞬間、
彼の中でまた
証券マンの感覚が戻った。
これは株と同じだ。
安い時に
現物を
仕込んでいた人が勝つ。
ただし、
今回の現物は
株券ではない。
缶詰だ。
缶詰には、
賞味期限がある。
二年。
三年。
商品によっては、
もっと持つ。
冷蔵庫はいらない。
電気もいらない。
停電にも強い。
開ければ食べられる。
つまり、
缶詰は単なる食品ではない。
未来の食費を、
今日の値段で固定する
道具なのだ。
おじいちゃんは、
缶を手のひらで転がした。
この中に入っているのは、
魚だけではない。
漁船の軽油。
空缶の鉄。
段ボール。
港の人手。
工場の電気。
トラックの燃料。
スーパーの棚。
そして、
「明日も同じ値段で買える」
と信じていた日本人の油断。
おじいちゃんは、
サバ缶を三つ
かごに入れた。
近くの父親が笑った。
「じいさん、
買い占めかい?」
おじいちゃんは首を振った。
「違う。
未来の朝飯を、
今日の値段で
買うとるだけじゃ」
父親は笑わなかった。
自分のかごにも、
サバ缶を一つ入れた。
缶詰は
魚を保存するものではない。
安かった時代を
保存するものになった。
それは、
小さな金庫だった。
中には魚ではなく、
安心が入っていた。
………
■第五章
ゴミ袋が消えた日
行政の証明書が破れた
ある日、
指定ゴミ袋の
棚が空になった。
最初は大きいサイズ
だけだった。
次に中サイズが消えた。
最後に、
小さい袋まで消えた。
自治体は言った。
「指定袋が
不足しているため、
当面の間、
透明または半透明の
市販袋でも
出してかまいません」
町の人は驚いた。
じゃあ、
今までの指定袋は
何だったのか。
指定袋でなければ
回収しない。
そう言われて、
みんな高い袋を買ってきた。
袋代の中には、
ごみ処理費用も入っている。
まじめに買った人ほど、
損をしたような
気持ちになる。
おじいちゃんは、
自治体の張り紙を見て、
目を細めた。
「制度いうんは、
袋一枚で
破れるんじゃな」
指定ゴミ袋は、
ただのビニールでは
なかった。
それは、
行政がまだ
町を管理できています、
という薄い証明書だった。
その証明書が
棚から消えた時、
町の人は初めて知った。
自分たちの暮らしは、
石油で包まれていた。
ゴミ袋の奥には、
ナフサがある。
ナフサの奥には、
原油がある。
原油の奥には、
海峡がある。
遠い海で
何かが詰まると、
台所の
生ゴミを入れる袋が消える。
食べ物がなくなる前に、
食べたあとの袋が
なくなった。
おじいちゃんは、
それをただの
品薄とは思わなかった。
これは
行政のストレステストだ。
袋ひとつで混乱する
自治体が、
燃料不足や停電や
下水トラブルの時に、
本当に住民を守れるのか。
夏が来れば、
生ゴミは腐る。
紙おむつも出る。
介護ごみも出る。
ペットの排泄物も出る。
ゴミ袋は、
命に直結しないように
見える。
けれど、
衛生には直結している。
町の平和は、
薄いビニール一枚で
保たれていた。
おじいちゃんは、
空っぽの棚を見てつぶやいた。
「ゴミ袋が消えた町は、
もう未来の匂いがしとる」
………
■第六章
宅急便四千円
やさしさに
送料がついた日
宅急便の窓口に、
老いた母親が立っていた。
箱の中には、
米が少し。
缶詰が二つ。
孫の服。
薬。
手紙。
都会に住む
娘へ送る荷物だった。
昔なら、
千円ちょっとで送れた。
けれど窓口の人は言った。
「燃料追加料金と
地域加算を含めて、
三千八百円です」
母親は黙った。
中身より、
運ぶ方が高い。
おじいちゃんは、
その後ろで
伝票を持っていた。
胸が詰まった。
宅急便は、
通販だけの仕組みでは
なかった。
田舎の親が米を送る。
娘が服を送る。
孫にみかんを送る。
父の形見を送る。
薬を送る。
書類を送る。
それは、
離れて暮らす
家族の血管だった。
けれど今、
その血管に
燃料サーチャージが
貼られた。
軽油が高い。
ドライバーが足りない。
再配達が重い。
遠距離ほど高い。
小さい荷物でも
手間は変わらない。
荷物が
高くなったのではない。
距離が
高くなったのだ。
おじいちゃんは、
窓口の
母親の背中を見て思った。
昔、
宅急便はやさしさだった。
けれど
燃料が足りなくなった夏、
やさしさには
四千円の伝票が貼られた。
母親は、
結局その荷物を送った。
支払いは
クレジットカードだった。
やさしさも、
未来の給料で送る時代に
なった。
おじいちゃんは、
自分の伝票を破った。
今日は送らない。
そう決めた。
彼は初めて知った。
日本は、
物を買えない
国になる前に、
物を運べない
国になるかもしれない。
そして
物が運べなくなる時、
最初に届かなくなるのは、
商品ではない。
人の気持ちだった。
………
■第七章
欧州便は旅行券ではない
帰還権になった
若い男が、
スマホを握りしめて
震えていた。
彼はオランダにいた。
留学でも、
観光でも、
出張でもない。
本当は、
すぐ日本へ帰る予定だった。
けれど画面には、
欠航、
満席、
高額運賃、
燃油サーチャージ、
乗継不能、
という文字が並んでいた。
飛行機はある。
空港もある。
航空会社もある。
それでも、
帰れない。
理由は、
燃料だった。
ヨーロッパで
給油しなければ、
日本へ戻れない。
金を出しても、
燃料が配分制なら飛べない。
おじいちゃんは、
その話をニュースで見た。
彼は昔、
海外旅行を
夢の象徴だと思っていた。
飛行機に乗れば、
世界は近くなる。
そう信じていた。
けれど今、
航空券は
旅行券ではなくなった。
帰還権になった。
行くことよりも、
帰って来ることの方が
難しい時代が来た。
地図の上では、
日本とオランダの距離は
九千キロほどだった。
けれど
燃料が配られる時代には、
日本は月より遠くなる。
空港のカウンターで、
係員が言う。
「機材はあります。
乗員もいます。
ただ、
燃料計画が立ちません」
男はカードを出す。
係員は首を横に振る。
「お金の問題では
ありません」
その言葉が一番怖い。
お金で解決できるうちは、
まだ資本主義だった。
お金で
解決できなくなった時、
世界は
配分の時代に入る。
おじいちゃんは、
テレビを消した。
海外旅行は、
ぜいたく品に
なったのではない。
帰って来ることが、
高級な権利になったのだ。
………
■第八章
AIが買い占めた
じいちゃんの思い出の箱
おじいちゃんは、
カメラ用の
メモリーカード
を買おうとした。
去年、
一万円だった。
二枚買っても二万円。
それが今、
一枚四万円。
二枚で八万円。
差額、六万円。
おじいちゃんは、
画面を二度見した。
「カードが、
中古の自転車より
高いがな」
原因は、
AIだった。
データセンター。
SSD。
NAND。
DRAM。
高性能メモリー。
サーバー。
生成AI。
世界中の巨大企業が、
記憶装置を
買い集めていた。
AIが学習するために、
人間の記録媒体が
高くなる。
おじいちゃんは、
怒るより先に呆れた。
昔のフィルム時代、
写真には金がかかった。
デジカメ時代になって、
メモリーカード一枚で
何千枚も
撮れるようになった。
それは、
思い出を
安く残せる時代だった。
けれど今、
その自由に値札が貼られた。
孫の運動会。
妻の笑顔。
桜。
仏壇。
古い家紋。
何気ない夕焼け。
それらを
保存する小さな箱が、
AIに買い占められている。
おじいちゃんは、
カートに入れた
カードを消した。
一年前、
一万円で
三千枚の思い出を買えた。
今年、
同じ思い出の入口に、
四万円の値札が
貼られていた。
AIは、
人間の未来を
予測するために、
人間の思い出を
保存する
小さな箱を高くした。
おじいちゃんは、
カメラを撫でて言った。
「便利な未来いうんは、
じいさんの記憶まで
買い占めるんか」
その時、
彼は新しいトレンドを
見つけた。
食べること。
捨てること。
送ること。
帰ること。
そして、
記録すること。
普通に生きる行為すべてに、
料金所が立ち始めている。
………
■第九章
母を送るにも
二万七千円の
補助金がいる国
東京で、
母が亡くなった
家族の話を聞いた。
火葬料、
八万七千円。
補助金、
二万七千円。
差し引き、
六万円。
ただし、
まず払うのは家族。
あとから申請。
領収書を保管。
書類を書く。
振込を待つ。
おじいちゃんは、
その話を聞いて黙った。
死ぬことまで、
補助金の対象になったのか。
いや、
正確には違う。
死ぬことではない。
送ることが高くなったのだ。
火葬場。
安置。
搬送。
棺。
骨壺。
ドライアイス。
葬儀社。
僧侶。
会食。
香典返し。
悲しみより先に、
料金表が来る。
涙より先に、
見積書が来る。
母は死んだ。
けれど
最初に棺へ入ったのは、
母ではなかった。
領収書だった。
政府や自治体は言う。
「助成しています」
けれどおじいちゃんは、
その言葉を聞いて思った。
助成しないと送れない
時代になった、
ということではないのか。
生きるにも金がいる。
食べるにも金がいる。
病院へ行くにも
金がいる。
捨てるにも金がいる。
送るにも金がいる。
そして、
弔うにも金がいる。
二万七千円
という補助金は、
優しさではなく、
死を見送る費用まで
配分対象になった
証拠だった。
おじいちゃんは、
仏壇の前で手を合わせた。
「母ちゃん、
えらい時代になったわ」
線香の煙は、
静かに上へ昇った。
その煙だけが、
まだ無料だった。
………
■第十章
早苗ちゃんの
「大丈夫」は
誰に向けた言葉なのか
早苗ちゃんは言った。
「大丈夫です。
心配しないでください。
いつも通り
生活してください」
その言葉は、
とてもきれいだった。
テレビの中では、
背景も、
表情も、
言葉遣いも整っていた。
けれど、
おじいちゃんには、
どうしても引っかかった。
誰に向けて言っているのか。
スーパーで
カードを出す母親か。
四百円の惣菜パンを
戻す子どもか。
ゴミ袋を探す介護家庭か。
宅急便四千円で
黙り込む老母か。
ヨーロッパで
帰国便を探す若者か。
火葬料の領収書を
握る家族か。
それとも、
ニューヨークの債券市場か。
米国債の投資家か。
基地を動かす人たちか。
港を守る人たちか。
データセンターの
電力を心配する企業か。
おじいちゃんは思った。
政府の「大丈夫」は、
主語が違う。
日本国は大丈夫。
米国債は大丈夫。
基地は大丈夫。
港は大丈夫。
金融決済は大丈夫。
大企業の投資案件は
大丈夫。
けれど、
台所は大丈夫か。
玄関は大丈夫か。
財布は大丈夫か。
カードの引き落とし日は
大丈夫か。
国家の大丈夫と、
生活者の大丈夫は違う。
おじいちゃんは、
テレビに向かって言った。
「大丈夫なのは、
わしらの
暮らしじゃねえな」
国は
心臓と脳を見ている。
現場は
指先の冷たさを見ている。
心臓が動いているから、
人は死んでいない。
けれど、
指先が
冷たくなっているなら、
そこには
別の危険がある。
日本は生きている。
でも、
暮らしの指先は冷え始めていた。
………
■第十一章
台所は国会より先に
日本経済の異常を
知っていた
国会では、
消費税の話をしていた。
「システム変更には
一年かかる」
そう言う人がいた。
一方で、
現場の社長は言った。
「税率を変えるだけなら、
一日でできます」
おじいちゃんは、
両方を聞いて笑った。
「できる話と、
やる気の話を
混ぜとるな」
政府には
政府の理屈がある。
制度。
財源。
周知。
経過措置。
請求書。
インボイス。
会計処理。
補助金。
混乱防止。
確かに、
全部を整えれば
時間はかかる。
けれど現場には、
別の現実がある。
油は今日上がる。
パンは今日上がる。
缶詰は今日上がる。
ゴミ袋は今日消える。
宅急便は今日高くなる。
カードの引き落とし日は、
予定通り来る。
国会の答弁より、
台所の値札の方が早い。
おじいちゃんは、
スーパーの棚を見ながら
考えた。
これからの経済指標は、
霞が関だけでは読めない。
株価よりゴミ袋。
GDPより惣菜パン。
為替よりサラダ油。
外交より宅急便。
日銀より
カード引き落とし。
これは、
棚前エコノミーだ。
✲生活の棚が、
国より先に
未来を教える
かつて彼は、
株価チャートを
読んでいた。
今は、
パンの値札を読む。
昔は、
出来高を見ていた。
今は、
ゴミ袋の在庫を見る。
証券会社時代の勘が、
67歳の今、
スーパーで
よみがえっていた。
おじいちゃんは確信した。
次の日本経済を読む場所は、
証券取引所ではない。
台所だ。
………
■第十二章
アメリカの傘の下で
細っていく
日本人の暮らし
日本は、
アメリカに金を出した。
半導体。
造船。
エネルギー。
医薬品。
金属。
LNG。
重要鉱物。
データセンター。
米国債も持っている。
何十兆円、
あるいは百兆円規模の話が、
遠い会議室で進んでいた。
おじいちゃんは、
それを陰謀論として
笑えなかった。
証券会社にいた人間として、
彼は知っていた。
✲金を出すところには、
必ず見返りがある
もし、
裏に暗黙の了解があるなら、
こうだろう。
日本は
アメリカを金で支える。
アメリカは
日本を国家として
倒させない。
ただし、
庶民の生活までは
保証しない。
基地は動く。
港は動く。
空港は動く。
電力中枢は守られる。
金融決済は止まらない。
大企業の
プロジェクトは進む。
しかし、
母ちゃんの惣菜パンは
四百円になる。
ゴミ袋は欠品する。
宅急便は四千円になる。
火葬には
補助金が必要になる。
クレジットカードの
引き落としは重くなる。
おじいちゃんは、
テレビの中の首相を見た。
「大丈夫です」
その言葉は、
国民に向けられた
言葉ではなく、
ニューヨークの市場と、
テキサスのLNG基地と、
太平洋の空母に
向けられているように
聞こえた。
日本は
滅びないかもしれない。
けれど、
普通の暮らしは細っていく。
アメリカの傘の下で、
濡れないのは
国家だけかもしれない。
傘の端にいる庶民は、
少しずつ雨に濡れていた。
………
■第十三章
自由市場の顔をした
静かな配給国家
配給は、
紙の切符で来るとは
限らない。
現代の配給は、
もっと静かに来る。
お一人様一点まで。
入荷未定。
数量制限。
発送停止。
予約販売。
抽選販売。
燃料サーチャージ。
補助対象。
優先配送。
透明袋でも可。
帰国便満席。
カード限度額。
これらは全部、
現代の配給だった。
国は、
配給です、
とは言わない。
店は、
在庫状況によります、
と言う。
航空会社は、
運航計画の都合、
と言う。
宅配会社は、
燃料費高騰のため、
と言う。
自治体は、
緊急措置、
と言う。
カード会社は、
与信管理、
と言う。
言葉は違う。
けれど中身は同じだった。
✲限られたものを、
誰に、
いくらで、
どれだけ渡すか?
日本は
まだ自由市場の国だった。
ただし、
自由には条件がついた。
早く来た人。
高く払える人。
カードが通る人。
在庫を持っていた人。
近くに住んでいる人。
送料を払える人。
そういう人から順番に、
商品へ近づける。
おじいちゃんは、
これを見て思った。
これは配給国家だ。
ただし、
自由市場の顔をした
静かな配給国家だ。
戦時中のような切符はない。
けれど、
価格と在庫と優先順位が、
見えない切符になっている。
一番怖いのは、
誰もそれを配給だと
思っていないことだった。
………
■第十四章
距離が高級品になる日
昔、
日本人は遠くの安さを
信じていた。
遠くの工場。
遠くの倉庫。
遠くの通販。
遠くの海外旅行。
遠くの安い労働力。
遠くから来るから安い。
そう思っていた。
けれど、
燃料が上がり、
船が詰まり、
飛行機が減り、
宅急便が高くなると、
遠くの安さは消えた。
遠くは、
ただ高いだけになった。
オランダから帰る航空券。
北海道から届く魚。
九州から送る野菜。
海外の部品。
ネット通販の小物。
修理センターへ送る家電。
全部に、
距離の値段がついた。
おじいちゃんは言った。
「商品が
高くなったんじゃない。
距離が
高くなったんじゃ」
ここで、
新しい日本経済が始まる。
✲近くで買う。
✲近くで直す。
✲近くで食べる。
✲近くで遊ぶ。
✲近くで助け合う。
✲地元の商店が
見直される。
✲修理屋が見直される。
✲地域倉庫が見直される。
✲冷凍倉庫が見直される。
✲共同配送が見直される。
✲在庫を持つ会社が
見直される。
持たない経営は、
危機の時代には弱かった。
在庫はコストではない。
保険だった。
おじいちゃんは、
自分の家の棚を見た。
缶詰。
乾麺。
ゴミ袋。
電池。
薬。
少しの現金。
メモリーカード。
味噌。
塩。
砂糖。
それは、
貧乏くさい備蓄では
なかった。
未来の通行料を、
少しだけ
前払いしたものだった。
距離が
高級品になる時代には、
近くで生きられる人が強い。
おじいちゃんは、
それをZ世代に伝えたいと
思った。
………
■第十五章
近くで生きろ、
在庫を持て、
出口を増やせ
君たちは、
生まれた時から
便利な世界にいた。
スマホで買える。
翌日届く。
カードで払える。
動画は保存できる。
海外にも行ける。
ゴミは出せる。
パンは買える。
油はある。
宅急便は届く。
けれど、
その全部は
当たり前ではなかった。
指定袋がなければ、
ゴミは出せない。
燃料がなければ、
飛行機は飛ばない。
軽油がなければ、
宅急便は届かない。
ナフサがなければ、
袋は作れない。
NANDがなければ、
思い出は保存できない。
カードが止まれば、
棚に商品があっても
買えない。
これからの時代、
強い人は、
高い物を買える人
だけではない。
✲近くで生きられる人。
✲在庫を少し持てる人。
✲便利を疑える人。
✲安かった時代を
保存できる人。
✲距離を減らせる人。
✲ゴミを減らせる人。
✲返品しない買い方が
できる人。
✲自分の生活の出口を
複数持てる人。
そういう人が強い。
逃げることは
負けではない。
危ない場所に
最後まで立っていることが、
本当の負けだ。
国は大丈夫と
言うかもしれない。
けれど、
君の財布と台所と玄関は、
君自身が見るしかない。
ニュースより棚を見ろ。
株価よりゴミ袋を見ろ。
GDPより惣菜パンを見ろ。
為替よりサラダ油を見ろ。
外交より
宅急便の伝票を見ろ。
日銀より
カードの引き落とし日を
見ろ。
未来は、
大きなニュースで来るとは
限らない。
未来は、
四百円の惣菜パンと、
四千円の送料と、
入荷未定のゴミ袋の
顔をして来る。
その時、
君は気づいてほしい。
普通に生きることは、
ただの習慣ではない。
それは、
たくさんの燃料と、
袋と、
船と、
電線と、
人の手で支えられた奇跡
だったのだ。
………
❥Z世代のあなたへ
君たちは、
貧しくなれと
言われているのではない。
賢くなれと
言われている。
たくさん買う人より、
長く使う人。
遠くから安く買う人より、
近くで確実に手に入れる人。
全部を外部に任せる人より、
少しだけ自分で備える人。
便利に流される人より、
便利が止まった時の道を
知っている人。
これからの日本では、
そういう人が生き残る。
必要なのは、
根性論ではない。
生活の設計図だ。
食べる出口。
捨てる出口。
送る出口。
帰る出口。
払う出口。
記録する出口。
弔う出口。
✲出口を一つにするな。
✲カードだけに頼るな。
✲通販だけに頼るな。
✲遠くの安さだけに
頼るな。
✲政府の大丈夫だけに
頼るな。
君の生活は、
君の足元から作れる。
近くで生きろ。
在庫を持て。
逃げ道を作れ。
それは怖がることではない。
新しい時代の、
静かな知恵だ。
………
★あとがき
ホームズとワトソンの
やすきよ漫才風
✲ワトソン
「ホームズさん、
今回の事件、
犯人は誰ですか。
ホルムズ海峡ですか。
ナフサですか。
軽油ですか。
AIですか。
アメリカですか」
✲ホームズ
「ワトソン君、
犯人を
一人にしたがるのは
推理小説の
読みすぎだよ」
✲ワトソン
「いや、
あなた探偵でしょうが」
✲ホームズ
「今回の犯人は
一人ではない。
惣菜パン、サラダ油、
缶詰、ゴミ袋、
宅急便、航空券、
火葬料、
メモリーカード。
全員が少しずつ共犯だ」
✲ワトソン
「小物ばっかりじゃ
ないですか」
✲ホームズ
「そこが重要だ。
大事件は
大きな顔で来ない。
日本の未来は、
四百円の惣菜パン
という顔で
やって来た」
✲ワトソン
「ほな、
わしの朝ごはんも
容疑者ですか」
✲ホームズ
「君の朝ごはんは、
かなり怪しい」
✲ワトソン
「なんでやねん。
パン食べただけやがな」
✲ホームズ
「そのパンの中には、
小麦、油、包装、軽油、
人件費、ナフサ、
物流、電気が入っている」
✲ワトソン
「パンやなくて、
国際会議やないか」
✲ホームズ
「その通り。
君は毎朝、
国際会議を
かじっていたのだ」
✲ワトソン
「いややなあ。
わし、
そんな難しいもん
食べとうないわ」
✲ホームズ
「難しいものを、
簡単な顔で
食べられていた。
それが
平和というものだ」
✲ワトソン
「ほな、
ゴミ袋は何ですか」
✲ホームズ
「行政の証明書だ」
✲ワトソン
「ビニール袋が証明書?」
✲ホームズ
「そうだ。
町がまだ
片づくという証明書だ。
それが消えたら、
町は
“まだ管理されています”
と言えなくなる」
✲ワトソン
「じゃあ宅急便は?」
✲ホームズ
「やさしさだ」
✲ワトソン
「やさしさ?」
✲ホームズ
「母が送る米。
父の形見。
孫へのみかん。
箱の中身は物だが、
本当に届いていたのは
気持ちだった」
✲ワトソン
「それが四千円」
✲ホームズ
「やさしさにも
燃料サーチャージが
つく時代だ」
✲ワトソン
「泣けるわ。
笑わせるんか
泣かせるんか、
どっちなんですか」
✲ホームズ
「両方だ。
やすきよ漫才の極意だよ」
✲ワトソン
「ほな最後に聞きます。
日本は
大丈夫なんですか」
✲ホームズ
「日本国は
大丈夫かもしれない」
✲ワトソン
「おお、よかった」
✲ホームズ
「だが、
君の朝ごはんと、
君のゴミ袋と、
君の送料と、
君のカード引き落とし日は、
大丈夫とは限らない」
✲ワトソン
「それ
一番困るやつやないか」
✲ホームズ
「だから、
この物語を書いた」
✲ワトソン
「つまり、
国より先に台所を見ろと」
✲ホームズ
「その通りだ」
✲ワトソン
「株価よりゴミ袋」
✲ホームズ
「GDPより惣菜パン」
✲ワトソン
「外交より宅急便」
✲ホームズ
「日銀より
カードの引き落とし日」
✲ワトソン
「なんや、
経済学が急に
生活感まみれに
なったなあ」
✲ホームズ
「本当の経済とは、
もともと生活のことだよ」
✲ワトソン
「最後にひとつだけ。
ホームズさん、
これから
どう生きれば
ええんですか」
✲ホームズ
「近くで生きることだ。
少し備えることだ。
遠くの安さを疑うことだ。
そして普通の暮らしを
馬鹿にしないことだ」
✲ワトソン
「普通の暮らし?」
✲ホームズ
「そうだ。
ゴミを出せる。
荷物を送れる。
パンを買える。
帰って来られる。
母を送れる。
思い出を残せる」
✲ワトソン
「それが
普通やと思っとった」
✲ホームズ
「普通ではない。
それは、
たくさんの人と
燃料と袋と船と電気が
支えていた奇跡だ」
✲ワトソン
「ホームズさん」
✲ホームズ
「なんだい」
✲ワトソン
「わし、
明日から
ゴミ袋を大事に
使いますわ」
✲ホームズ
「それでいい。
名探偵への第一歩は、
事件現場を
見ることではない」
✲ワトソン
「何を見るんです?」
✲ホームズ
「自分の台所を
見ることだ」
✲ワトソン
「やすし師匠なら、
ここでこう言いますな」
✲ホームズ
「なんと?」
✲ワトソン
「怒るでしかし。
ゴミ袋まで
高いんかい!」
✲ホームズ
「そして、
きよし師匠ならこう返す」
✲ワトソン
「まあまあ、
落ち着きなはれ。
袋の中には、
日本の未来が
入ってますねん」
✲ホームズ
「ふふ。
笑っているうちは、
まだ間に合う」
✲ワトソン
「泣く前に、備える」
✲ホームズ
「その通りだ、ワトソン君」
✲ワトソン
「ほな読者のみなさん」
✲ホームズ
「惣菜パンの値札を見たら、
思い出してほしい」
✲ワトソン
「日本は、
爆発音で変わるんやない」
✲ホームズ
「普通のものに、
小さな料金所が
立った時に
変わるのだ」
✲ワトソン
「笑うて読んで、
ちょっと泣いて」
✲ホームズ
「そして明日、
台所を見てほしい」
✲ワトソン
「そこに、
未来の日本があるけえな」




