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麻酔が消えた日…1日7000件の手術が止まった世界

✦麻酔が消えた日

― 1日7,000件の手術が止まった世界 ―


………


日本では、

毎日約7,000件 


(2022年度認定病院だけで

 年254万件、単純計算)


の麻酔が、

誰かの痛みを

「なかったこと」にしていた。


それが、ある日、

すべて「在庫切れ」になったら。


ホルムズ海峡封鎖。

世界石油の約20%が止まる。


ガソリン高騰? もちろん。

でも本当の地獄は、


「プロポフォール1バイアル、

 黒市場で50万円」


という値札がつくことだった。


ニュースはまだ丁寧に言う。


「物流に一部影響」

「代替ルートを検討中」

「医療に大きな支障は」


でも3週間後、

薬局の棚からいつもの錠剤が消え、

代わりに

「ジェネリック互換品(味が違う)」

が出てくる。


おじいちゃん(67歳、心臓弁膜症)は

白い粒を握りしめて思う。


「同じ成分なら、

 なぜ50円高くなったんだ?」


………


★目次


■第1話:静かな町の違和感

■第2話:毎日約7,000件の

     見えない仕事

■第3話:麻酔とは何か

■第4話:点滴だけで生きる人

■第5話:歯医者のひと言

■第6話:延期の先にあるもの

■第7話:痛みの値段

■第8話:心臓の音

■最終話:麻酔なしの手術


………


■第1章 静かな町の違和感


その町は、静かだった。


山に囲まれ、川が一本流れ、

駅前にスーパーがひとつ、

とても大きな病院がひとつ。


その病院は、

田舎にしては

設備が整っていると評判だった。


CTもある。手術室もある。

救急車も来る。

ドクターヘリも飛ぶ。


町の老人たちは、

安心して年を取れる町だと

思っていた。


67歳のおじいちゃんも、

そのひとりだった。


高血圧。

それに、心臓弁膜症。


月に何度か病院へ通い、

血圧を測り、

胸の音を聞いてもらい、

薬をもらう。


それが、自分の命を

静かにつないでいると

知っていた。


ホルムズ海峡が封鎖されて、

三週間。


ニュースはまだ、

落ち着いた声で言っていた。


「物流に一部

 影響が出ています」


「代替ルートの確保を

 進めています」


「医療体制に

 大きな問題はありません」


しかしながら、

病院の空気は違っていた。


薬局で、

いつもの薬が出てこなかった。


「申し訳ありません。

 こちら、

 現在入荷が不安定で

 ……代わりに

 こちらになります」


見たことのない錠剤だった。


「同じ成分ですので、

 ご安心ください」


おじいちゃんは、

その白い粒を見つめた。


同じなら、なぜ変える。

同じなら、なぜ説明がいる。

だが、断れなかった。

薬がないほうが怖かったからだ。


待合室で老人たちが囁く。


「わしの血圧薬、

 気持ち悪いって」

「先生は『同じ』って言うけどなあ」


医者はため息混じりに言う。


「原薬、中国からの

 船が来ないんです。

 備蓄は3ヶ月分

 あったはずなのに……」


誰も口にしないけど、

みんな知ってる。


備蓄って、

コストだから最小限。


「平時なら安い中国産でいいよね」


って決めた結果だ。


病院はまだ動いている。


医者も、看護師も、薬剤師も、

笑顔を作っている。


けれど、笑顔の下で、

何かが確実に欠け始めていた。


■第2章 毎日約7,000件の

     見えない仕事


数日後、

診察室でおじいちゃんは、

医者の顔色が少し

違うことに気づいた。


「先生、

 何かあったんですか」


医者は少し黙ってから、

机の端を指でとんとん叩いた。


「麻酔です」

「麻酔?」


「日本麻酔科学会の

 認定病院だけで、

 2022年度は麻酔科管理症例が

 254万506例ありました」


「単純計算で、

 1日約6,960件です」


おじいちゃんは、

数字が大きすぎて

すぐには飲み込めなかった。


「そんなに……」


「しかも、

 これは認定病院の数字です。

 全国全部じゃない」


医者は続けた。


「全身麻酔の手術を

 年2,000件以上やる病院が、

 急性期の拠点として

 基準になっています」


「年2,000件ということは、

 1日5件、6件は

 普通に麻酔を使う計算です」


おじいちゃんは、

静かにうなずいた。


今まで、麻酔なんて

考えたこともなかった。


手術の時に

勝手にあるものだと思っていた。


空気みたいに、

当たり前にそこに

あるものだと思っていた。


だけど、それは誰かが、

毎日約7,000件、

見えないところで

必死に回していたものだった。


医者はさらに言った。


「全国6,051病院のうち、

 1,375病院が

 年500件以上の

 全身麻酔手術を

 やっとるそうです」


「そんなに……」


「つまり、

 麻酔が止まるいうのは、

 特別な病院だけの話じゃない。

 どこでも起きる話です」


その時、おじいちゃんは初めて、

“麻酔がない”という言葉の意味を、

数字で理解した。


一日に約7,000件。

その見えない仕事が止まる。


それはつまり、

毎日約7,000件の

「痛みを止めるはずだった出来事」が、

止まるということだった。


おじいちゃんは思う。


「空気みたいに

 当たり前だったものが、

 実は1日7,000回、

 誰かが必死に『在庫確認』して

 回してたんだな」


今、その在庫確認が赤ランプ点灯中。


■第3話:麻酔とは何か


医者は説明した。


「麻酔は大きく3種類です」


①吸入麻酔ガス

→ 石油精製の副産物

静脈麻酔プロポフォール

→ 石油由来原料100%近く

局所麻酔キシロカイン

→ カートリッジもゴム栓も

 全部石油プラスチック


医者が苦笑い。


「半導体みたいに

 『脱中国』って言っても、

 石油化学コンビナートが止まれば

 全部終わりですよ」


さらに――

「鎮静薬があります」


→ 呼吸器の患者が苦しまないため

→ ICUでは必須


おじいちゃんは、静かに言った。


「全部必要なんじゃな」


医者はうなずいた。


吸うもの。

点滴で入れるもの。

局所だけ痛みを消すもの。

眠らせるもの。

暴れる体を鎮めるもの。


それらのすべてが、

同じではない。


だから、どれが先に

なくなるかも一様ではない。


医者は、ぽつりと言った。


「多くは石油由来の

 流れの上にあるんです」


工場が止まる。

原料が来ない。

精製が詰まる。

容器も足りない。

運ぶ燃料も足りない。


ニュースでは

「石油備蓄があるから大丈夫」

と言う人もいた。


だけど医療の薬品は、

そのままタンクの原油を

病院へ流せばできるものではない。


特別に加工された

別の流れの上にある。


待てば入る。

一か月待てば戻る。


最初はみんな、

そう思っていた。


しかし、

三週間を過ぎても、戻らない。


一か月でも戻らない。

二か月経っても、

入ってこない。


病院のホワイトボードから、

手術予定が静かに消えていった。


延期。延期。延期…


その紙の白さだけが、

妙に明るかった。


■第4章 点滴だけで生きる人


その病院には、

長く入院している患者がいた。


食べられない。

飲めない。

水も一滴飲めない。

ただ点滴だけで、生きている。


左腕に針。

もう刺さらなくなる。

右腕に針。

そこも硬くなる。

次は左手の甲。

次は右手の甲。

それでもだめなら足。

刺せる場所を、体中から探していく。


透明な管を通って

入っていく液体が、

その人の命そのものだった。


口は乾く。

喉は痛む。

脱脂綿で湿らせた水を

口に含ませてもらう。

だが飲んではいけない。


「味わってください」

「吐き出してください」


それが、生きる条件だった。


おじいちゃんは、

その患者を見ながら思った。


この人は、

もう食事では生きていない。

点滴で生きている。


そうなら、

その点滴の中に入る

薬が止まったら、

どうなる。


麻酔だけの問題ではない。

鎮静だけの問題でもない。


医療そのものが、

静脈の中から崩れ始めている。


■第5話:歯医者のひと言


最初に町の人間が

本当の意味で震えたのは、

歯医者だった。


「麻酔がありません」


それは、心臓手術の説明より、

ずっと生活に近かった。


「多少の痛みは

 我慢してください」


多少。

その言葉ほど、

信用できないものはなかった。


最近のニュースで、

歯科用局所麻酔ですら

シェア7割のメーカーが

システムトラブルで出荷停止。


患者は「痛くても我慢して」

と笑顔で言われる。


ブラックユーモアだよね。

歯の痛みで我慢できるなら、

誰も歯医者行かないよ。


キーンという音が、

光る痛みに変わる。

患者は涙を流しながら思う。


「五十円安い

 スーパーまで歩いて転んだら、

 治療費+麻酔黒市価格で

 50万円コースだな……」


声も出せない。

それでも治療は続く。


町の人たちは、

その日から考え方を変えた。


虫歯を放っておかない。

転ばない。

無茶をしない。

屋根に上らない。

夜道を急がない。


安いものを求めて

遠くへ行かない。


「怪我をしたら終わり」


その言葉が、

誰の家にも貼られている

わけではない。


しかし、

町じゅうの空気に書かれていた。

それが常識になった。


■第6章 延期の先にあるもの


大きな手術は、

次々に延期された。


がん。胆のう。

腸。骨折。


帝王切開の準備ですら、

影響を受けると囁かれた。


医者たちの会議。


「子ども優先」「救急優先」

「予定手術は……」


老人は当然、後ろ。


医者たちは疲れていた。

誰を先にするか。

誰を待たせるか。

どこへ残り少ない麻酔を回すか。


「ICU優先です」


人工呼吸器をつけた患者は、

鎮静が切れると、

自分の体に刺さった管を

拒絶する。


苦しみ、暴れ、呼吸器と戦う。

だからそこには、

どうしても麻酔・鎮静の一部を

回さなければならない。


つまり、それ以外が削られる。


おじいちゃんは

怒らなかった。


「わしが医者なら、そうするよ」


でも心の中で思う。


「痛みを『誰に押しつけるか』の

 オークションが、

 始まってる」


■第7話:痛みの値段


裏口でささやく声。


「プロポフォール、

 1バイアル50万、

 現金のみ」


効くかわからない偽物もある。

途中で目覚めて

絶叫するケースも報告済み。

お金持ちは土地を売る。

貧乏人は、ただ待つ。


痛みの格差が、

はっきり数字になった。


おじいちゃんは、

黙って男の顔を見た。


「いざという時のために」と、

痛みを前払いする人間が出てきた。


自分には、高すぎる。


いや、高いというより、

そうやって買った痛みの回避は、

もう別の地獄に見えた。


■第8話:心臓の音


診察室で、医者は言った。


「少し、進んでいます」


心臓弁膜症。

いつか手術が必要になる病気。

それは急に襲ってくるわけではない。


おじいちゃんの心臓は、

毎日少しずつ音を変える。


ドクン。ドクン。


それは「残り麻酔在庫」の

カウントダウンみたいだ。


「まだすぐではありません」


医者はそう言った。


だけど、

おじいちゃんにはわかった。


その“まだ”が来た時、

麻酔が戻っている保証は

どこにもない。


「先生、

 もし今より悪うなったら」


医者は黙った。


「麻酔なしで

 やるしかない場合も、

 あります」


その言葉は、静かすぎて、

かえって残酷だった。


■最終話:麻酔なしの手術


冬の朝だった。


おじいちゃんは、

胸を押さえて病院へ運ばれた。


いつもの違和感ではなかった。

明らかに違った。


息が浅く、唇が白く、

看護師の顔が早足になっていた。


検査。心エコー。血液。酸素。

モニターの波形。


医者が、

家族もいない診察室で、

まっすぐ言った。


「待てません」

「……今ですか」

「今です」


おじいちゃんは、

ゆっくりうなずいた。


それから、

一番聞きたくなかったことを

聞いた。


「麻酔は」


医者は、答える前に目を閉じた。


「十分にはありません」


十分にはない。

それは、

あるという意味ではなかった。

足りないという意味だった。


「最低限の鎮静と局所で、

 どこまで持たせられるかです」


持たせる。

その言葉は、医療なのに、

まるで工事現場みたいだった。


手術室の灯りは白かった。

白すぎて、雪みたいだった。


おじいちゃんは、

ベッドの上で思った。


「文明って、痛みを

 忘れさせてくれた

 技術の上に成り立ってただけか」


「痛みが戻ったら、

 一気に江戸時代に戻るんだな」


麻酔があったからこそ、

自分たちは安心して年を取れた。

それが今、途切れた。


自分は、 

その切れ目の上に寝ている。


胸に冷たい消毒。

器具の金属音。

遠くで医師たちの短い会話。

最低限だけ入る薬。


眠りきらない。

でも、起ききらない。

痛みが、波のように来た。


最初は鈍い。

次は深い。

次は、光そのものみたいな

痛みだった。


体が跳ねそうになる。

だが押さえられる。

声が出そうになる。

だがマスクの中で潰れる。


おじいちゃんは、

その瞬間、

奇妙なことを思った。


世の中は、

便利になるばかりだと思っていた。


だけど、本当は違う。

人間は、痛みを忘れる技術の上に、

文明を乗せていただけだった。


痛みが戻れば、

文明は一気に昔へ落ちる。


その時だった。

誰かの声が聞こえた。


「まだ拍動、あります」

「大丈夫、いける」

「もう少し」


おじいちゃんは、

薄れていく意識の中で、

自分の心臓の音を探した。


ドクン。ドクン。遅い。

でも、ある。痛い。

でも、ある。

それは、生きている音だった。


どれくらい時間が経ったのか、

わからなかった。


目を開けた時、

天井は別の白さになっていた。


ICUの天井だった。


喉に違和感。腕に点滴。

胸に重さ。だが、意識はあった。


看護師が、

泣きそうな笑顔で言った。


「終わりましたよ」


おじいちゃんは、

声が出なかった。

だから、少しだけ目を閉じた。


助かったのか。

本当に。


しかし その瞬間、

喜びより先に来たのは、

別の気持ちだった。


――次の人は、

 助かるんじゃろうか


その問いは、

病院の天井に

吸い込まれていった。


窓の外では、

町の朝が始まっていた。


スーパーが開く。

人が野菜を買う。

子どもが学校へ行く。

年寄りが薬をもらいに来る。


何も変わらないように見える。

けれど、

本当はもう変わっていた。


この町ではもう、

健康は贅沢ではない。

節約の逆でもない。

ただの自己責任でもない。


麻酔がない時代には、

元気でいることそのものが、

最後の備蓄になる。


おじいちゃんは

酸素マスク越しに息を吸う。


まだ生きてる。

だからこれからは、

遠くの安い野菜より、

近くの高い野菜を買おう。


転ばないように、

ゆっくり歩こう。


それは敗北じゃない。


「痛みの時代」の、

最新の生存戦略だ。

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