透明な 断絶…消毒液が消えた日
✦透明な断絶 ― 消毒液が消えた日 ―
【あらすじ】
日本には10万を超える
医療機関があり、
毎日1000万人以上が
通院している。
そのすべては
「消毒できること」を
前提に成り立っている。
もし、その前提が
静かに消えたら――
67歳の隠居した男は、
いつもの定期検診の日に
病院の異変に気づく。
入口の消毒液がない。
番号表示が動かない。
検査ができない…
それは戦争の影響でも、
石油不足でもない。
誰も知らない、
透明なインフラの崩壊だった。
■第1話 消毒できる ありがたさ
朝の空気は、
いつもと同じじゃった。
わしは、
いつものように家を出た。
血圧の薬をもらうための、
月に一度の定期検診。
67歳。
隠居しとるが、
体の管理だけは欠かさん。
日本にはな、
病院が約8,000、
診療所を入れたら
10万以上ある。
そして毎日、
1000万人以上が
病院に通っとる。
その一人が、わしじゃ。
病院の入口に立った瞬間、
違和感があった。
「……あれ?」
消毒液が、ない。
あの、手をかざしたら
シュッと出るやつ。
あの、少し甘いような
アルコールの匂い。
スタンドだけが、
空っぽで立っとる。
誰も気にしとらん。
そのまま中へ入っていく。
わしも、そうした。
受付の前で、
さらにおかしいことに
気づいた。
番号表示が、消えとる。
いつもなら
順番を知らせる画面が
真っ暗で、
番号札を持った人間が、
ただ立ち尽くしとる。
「呼ばれんのんじゃ」
誰かが、小さく言うた。
待合室は、妙に静かじゃった。
テレビはついとる。
中東のニュースを流しとる。
ホルムズ海峡。
封鎖。
報復。
けど、誰も見とらん。
トイレに入って、
わしははっきり気づいた。
石けんはある。
水も出る。
けどな――
あの
アルコールの匂いが、ない。
手を洗ったあとに、
「きれいになった」と感じる、
あの最後の一手がない。
「今日は検査、
遅れるかもしれません」
受付の女性が言うた。
「心電図も、採血も、
ちょっと……」
「なんで?」
誰かが聞く。
答えは、出ん。
その時、奥の方から声が聞こえた。
「消毒ができんのんじゃ」
空気が、変わった。
日本では、毎日とんでもない数の
検査や処置が行われとる。
注射。採血。検査。手術。
全部に共通しとる前提がある。
消毒できること。
それが、できん。
わしは、
その時やっと理解した。
入口の消毒液。
トイレの違和感。
機械の停止。
全部、つながった。
テレビはまだ言うとる。
「原油価格が――」
違う。
そうじゃない。
「IPA」
(イソプロピルアルコール)
無色透明の液体。
水と混ざり、すぐ乾き、
汚れを落とし、菌を減らす。
医療でも、工場でも、
何かを使う前、触る前、
仕上げる前に使われる。
目立たん。
けど、ほぼすべての工程の
“前提”におる。
それがない。
注射が打てん。
検査ができん。
器具が使えん。
医療が、止まる。
そしてそれは、
病院だけの話じゃない。
半導体も作れん。
車もできん。
スマホも止まる。
塗装も、修理も、
メンテナンスもできん。
エレベーターは動くかもしれん。
けどな――
壊れるんじゃ。
直す手段が、もうないけえな。
わしは、自分の手を見た。
さっき消毒できんかった手じゃ。
その時、やっと言葉になった。
戦争で止まるんは、石油じゃない。
「きれいにする力」
そのものなんじゃ。
病院を出た時、
世界はまだ普通に見えた。
人は歩いとる。
車も走っとる。
けどな――
もう戻れんところに
入っとる気がした。
透明なものが消えた時、
世界は音もなく壊れていく。
それに気づいとる人間は、
まだ、ほとんどおらんのじゃ。
■第2話 薬が出ない日
その三日後じゃった。
わしは、
もう一度あの病院へ行った。
血圧の薬が、
あと二日分しか残っとらん。
「まあ今回は
大丈夫じゃろう」
そう思いながら、家を出た。
入口の消毒液は、
相変わらず空じゃった。
もう誰も気にしとらん。
受付の前は、
前より混んどった。
番号表示は動いとる。
けどな――
人の流れが、明らかに遅い。
「処方、遅れとるみたいじゃ」
隣のじいさんが言うた。
待合室の奥で、声が上がった。
「薬が出ん言うのは
どういうことじゃ!」
受付の女性が頭を下げとる。
「申し訳ありません。
調剤が遅れております」
わしの番が来た。
診察は、
あっという間に終わった。
「薬、いつも通り
出しときます」
医者はそう言うた。
けどな――
問題は、その後じゃった。
薬局で、番号を呼ばれた。
「本日、一部のお薬は
後日のお渡しになります」
「後日?」
「はい……包装資材と印字が
間に合っておりません」
意味が分からんかった。
薬はあるんじゃろ?
なんで出せんのじゃ?
「ラベルが貼れないんです」
薬剤師が、小さく言うた。
袋がない。
印字ができない。
識別ができない。
「間違えたら
いけませんので……」
その一言で、全部わかった。
薬いうのはな、
ただの粒じゃない。
名前があって、
量が決まっとって、
誰のものか分かるようにして、
初めて“薬”になるんじゃ。
それを支えとるのも、
見えん工程じゃ。
印刷機。インク。
クリーニング。部品の管理。
そのどこかに、
あの透明な液体が関わっとる。
IPA。
それが足りんと、
薬はあっても、薬として渡せん。
「次は、いつ来ますか?」
わしは聞いた。
「……わかりません」
外に出た。
手の中には、半分だけの薬。
残りは、未定。
その時、初めて思うた。
病院が止まるいうのは、
診察ができんことじゃない。
「続けられんこと」なんじゃ。
毎日飲むはずの薬が、
途切れる。
それが、一番静かで、
一番確実な
崩壊なんかもしれんな。
空を見上げた。
何も変わっとらん。
けどな――
わしの生活は、
もう崩れ始めとる。
■第3話 スマホ修理が消える日
それから一週間後じゃ。
孫のゆづきから
電話がかかってきた。
「じいちゃん、スマホ壊れた」
画面が映らんらしい。
「まあ、修理出したらええ」
そう言うた。
けどな――
孫の返事は、予想外じゃった。
「修理できんって言われた」
わしは、一瞬黙った。
「なんでじゃ?」
「部品はあるけど、
直せんらしい」
意味が分からん。
次の日、
わしはその店に行ってみた。
店員が、疲れた顔で
説明してくれた。
「基板の洗浄ができないんです」
「洗浄?」
「はい。精密部品は、
修理の前に洗浄します」
そこで、
またあの言葉が出てきた。
IPA。
「これがないと、
汚れが取れないんです」
ホコリ。皮脂。微細なゴミ。
それを取らずに組み立てると、
誤作動が起きる。
「だから、直しても
保証できないんです」
つまり――
直せん。
スマホは、まだ動く。
けどな、
壊れたら終わり。
それは、
スマホだけじゃない。
車も。家電も。時計も。
全部、同じじゃ。
作れるうちはええ。
けど、直せん世界は、
必ず壊れる。
わしは、自分の古い携帯を見た。
まだ使える。
けどな――
「これが最後かもしれんな」
そう思うた。
外では、いつも通り人が歩いとる。
電車も動いとる。
けどな――世界はもう、
“使い捨て”に変わっとる。
直せん世界は、続かん。
そのことに気づいとる人間は、
まだ、ほとんどおらんのじゃ。
■第4話 エレベーターが止まる日
あれから、二週間が経った。
町は、まだ普通に見える。
コンビニも開いとる。
電車も動いとる。
けどな――
どこか、ぎこちない。
わしはその日、
病院とは違う用事で、
駅前のビルに来とった。
エレベーターに乗る。
いつも通りじゃ。
…のはずじゃった。
「ガタン」
妙な揺れがあった。
誰も何も言わん。
だけど、全員が一瞬だけ
顔を上げた。
ドアが開く。
何事もなかったように、
人が降りる。
「最近、多いんですよ」
後ろの若い男が、
小さく言うた。
「止まることは
ないんですけどね」
その言葉が、妙に引っかかった。
止まらん。
けど、壊れとる。
ビルの管理室の前を
通ったとき、
扉が少し開いとった。
中で、作業員が言いよる。
「洗浄できんと、部品がもたん」
「応急で回すしかない」
また、その言葉じゃ。
洗浄。IPA。
精密機器はな、
動くだけじゃ足りん。
“きれいな状態で動く”
ことが前提なんじゃ。
それが崩れると、
最初に起きるんは――
違和感。
次に起きるんは――
故障じゃ。
エレベーターは、まだ動いとる。
けどな――
“いつ止まるか分からんもの”
に変わっとる。
それはもう、安心して乗れる
乗り物じゃない。
わしは、
階段を使うようになった。
年寄りが、
エレベーターを避ける。
そんな時代が来るとは、
思わんかった。
■第5話 偽物の消毒液が出回る日
三週間目に入った頃じゃ。
町の空気が、変わった。
「これ、本物か?」
スーパーで、
そんな声が聞こえるようになった。
棚には、消毒液が並んどる。
けどな――
誰も、信用しとらん。
「アルコール濃度、書いてないぞ」
「これ、水ちゃうんか?」
疑い始めたんじゃ。
あの“透明な安心”を。
ニュースでは、ようやく報じ始めた。
「粗悪な消毒液が流通」
中身は薄められたもの。
ひどいものは、ただの水。
けどな――
見分けがつかん。
透明じゃけえ。
わしは、
ある病院の前で立ち止まった。
入口に、消毒液が置いてある。
久しぶりに見る光景じゃ。
けど、誰も使っとらん。
ただ、見とる。
「……効くんか?」
誰かが、つぶやいた。
その瞬間、
世界が一段階変わった気がした。
今までは、
“足りない”だけじゃった。
これからは――
“信じられない”になる。
消毒しても、不安。
触れても、不安。
人と人との距離が、
一気に遠くなる。
わしは、
そのボトルを見つめたまま、
手を出せんかった。
■第6話 触れることが怖くなる日
一ヶ月が過ぎた。
世界は、静かに変わった。
人が、触れんようになった。
電車のつり革。ドアノブ。手すり。
誰もが、一瞬ためらう。
病院では、もっとはっきりしとる。
医者が、
患者に触れる前に、止まる。
ほんの、一瞬。
けどな――
その一瞬が、すべてを物語っとる。
「……いきますね」
その声に、
覚悟が混じるようになった。
昔は違うた。触ることは、
当たり前じゃった。
助けるための行為じゃった。
けどな――今は違う。
触れることが、リスクになった。
わしは、孫の手を取ろうとして、
止まった。
「じいちゃん?」
その声が、
少し寂しそうじゃった。
わしは、笑ってごまかした。
けどな――
心の中では、
はっきり分かっとった。
この世界は、
もう元には戻らん。
“きれいにする力”を
失った世界では、
人は、人に触れることすら、
ためらうようになる。
それが、
ほんまの崩壊なんかもしれんな。
■第7話 選別される命
二ヶ月が過ぎた。
病院は、まだ開いとる。
けどな――
“全部は診れん”ようになっとる。
「優先順位を決めます」
受付に、
そう書かれるようになった。
重症者。緊急。若い人。
順番が変わった。
わしみたいな、
慢性の患者は後回しじゃ。
「薬、もう少し
我慢できますか?」
医者が、
申し訳なさそうに言うた。
責める気にはなれん。
わかっとる。
限界なんじゃ。
ベッドも足りん。
消毒も足りん。
人も足りん。
全部が足りん。
隣のベッドでは、
若い男が運ばれてきた。
事故らしい。
血まみれじゃ。
医者が、迷わずそっちへ行く。
それでええ。
それが正しい。
けどな――
その瞬間、わしは理解した。
これは「医療崩壊」じゃない。
“選別”じゃ。
誰を助けるか。
誰を後にするか。
それを、人が決めとる。
わしは、静かに目を閉じた。
その時じゃ。
ふっと、息を深く吸うた。
久しぶりに、
意識して呼吸をした。
胸の奥に、
空気が入ってくる。
(ああ……まだ、生きとる)
その瞬間、
不思議と、怖さが消えた。
助けてもらうことばかり、
考えとった。
けどな――
「生きとること」自体が、
すでに与えられとるんじゃないか。
そう思えた。
■最終話 それでも人は触れる
三ヶ月が過ぎた。
世界は、すっかり変わった。
医療は、縮んだ。
工業も、止まりかけとる。
修理はできん。
新品も少ない。
けどな――
人は、まだ生きとる。
ある日、わしは外で転んだ。
足をひねったらしい。
立てん。
周りの人が、一瞬止まった。
触れるか、どうか。
迷う。
その空気が、
はっきり分かった。
その時じゃ。
一人の若い子が、
手を差し出した。
「大丈夫ですか?」
その手は、少し震えとった。
怖いんじゃ。
感染もある。
リスクもある。
けどな――
それでも、手を出してくれた。
わしは、その手を取った。
温かかった。
消毒されとるかどうかなんて、
もう関係なかった。
ただ、人の手じゃった。
立ち上がったあと、
その子は照れくさそうに笑った。
「気をつけてくださいね」
それだけ言うて、
去っていった。
わしは、その場に
少し立ち尽くした。
涙が出そうになった。
その時、はっきり分かった。
この世界は、確かに壊れた。
けどな――
全部がなくなったわけじゃない。
消毒はできん。
完璧な安全もない。
だけど、
「人が人を助ける気持ち」は、
まだ残っとる。
わしは、静かに手を合わせた。
祈るいうのはな、
何かを願うことじゃない。
もうすでに与えられとるものに、
気づくことなんかもしれんな。
呼吸できること。
立てること。
誰かが手を差し伸べてくれること。
それを、ただ受け取る。
それが、わしにとっての
“他力本願”じゃ。
空を見上げた。
世界は変わった。
けどな――
まだ、あたたかい。
それだけで、
十分なんかもしれんな。




