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ジョークでできた世界

◆『ジョークでできた世界』


六十七歳の老人は、

ふるさとの小さな家で

仙人のように暮らしていた。


朝だけは必ず

近所のスーパーで

買い物をする。


味覚を喜ぶ……

これは、

彼の至福のひと時だった。


「毎日、こうして

 美味しいご飯を味わえる……

 これがな、一番の幸せじゃな」


「あの一休和尚も、

 こう言うとったわい。

 『歳を取れば取るほど、

 ご飯とお酒が、

 ほんまに美味しくなる』

 とな」


「若い頃は、

 ただ腹を満たすだけやった。

 でも今は違う。

 一口一口に、

 無常の世のありがたさが

 染みてくるんじゃ」


「すべては移ろいゆく。

 このご飯も、わしの命も、

 いつか消える。

 だからこそ、

 『今』この味を、

 心から味わう……

 それが、年を取った者の

 小さな悟りじゃな」


「若い時には、

 この喜びは

 分からんかった。

 欲や執着で目が

 曇っとったからじゃ」


「これは年寄りの特権じゃ。

 健康な体を保ってきて、

 ほんまによかった」


「健康な体だけは、

 わしの唯一の自慢じゃ」


その朝、

いつもの棚は地獄絵図だった。


ポテトチップス——ない。

ドライフルーツ——空。

レーズンもマンゴーも

バナナチップスも消え、

端っこに一つだけ残っていたのは

イラン産デーツ一袋だけ。


レジの店員(五十代の女)が

ため息をついた。


「輸入コンテナが

 全部止まっとるんよ。

 エチレンガスが

 足りないんですって」


「エチレン? 

 果物が熟れるあのガスか?」


「はい。それがないと、

 船の中で全部

 腐っちゃうんです」


「あと、ポリエチレンも

 作れなくて

 ……包装自体が

 なくなってるんですよ」


老人は

デーツの袋をカゴに入れながら、

くすっと笑った。


「ほうか。世界は

 フルーツの熟れ具合で

 死ぬんじゃな。

 安いジョークや」


翌朝。

そのデーツも消えていた。


店員が小声で囁く。


「今度はプロパンガスが

 先になくなったそうです」

 

「みんな原油ばっかり 

 心配してたのに、

 LPGの方が先に

 枯渇するとは……」


老人は

空の棚を眺めながら呟いた。


「人間もガスみたいに、

 急に消えるんじゃろうな。

 笑えるわ」


それから十日。

連鎖は容赦なく加速した。


スーパーの

冷凍食品コーナーも半分死んだ。


理由は、

店員の女性 曰く


「冷凍庫の

 冷媒ガス(エチレン由来)

 が作れんらしいよ」


野菜売り場は空っぽ。


「肥料の原料が

 天然ガスだから」


——近所の主婦が

 ぼそっと言った。


「もう畑で育たんらしいわ。

 ガスがなくなると

 野菜も死ぬんやね」


電車は一日十本に減った。


「燃料調整です」


遅延は 

「変電設備の

 プラスチック部品交換待ち」。


ホームの液晶表示は、

点滅しながらこう出ていた。


『本日も調整運行、

 恐れ入ります。

 引き続きのご利用

 ありがとうございます』


老人はベンチで

思わず笑った。


「便利いうのは、

 最初から

 ジョークやったんじゃ。

 エチレン一本で

 支えとった世界や」


健康診断の予約は

キャンセルされた。


「CT用造影剤が

 中国から来ないんです。

 プラスチックシリンジも

 在庫ゼロです」


血圧の薬は、

奇跡的に残っていた

——しかし箱がない。


裸の錠剤が、

ただの透明なポリ袋

(これもあと二日で

 なくなるという)

に入れられて渡された。


薬剤師が

申し訳なさそうに頭を下げた。


「ポリエチレンがないんです。

 エチレン止まると、

 包装全部アウトで……」


老人は裸の錠剤を

掌に載せて眺めた。


「ほうか。わしの命は今、

 プラスチック一枚で

 守られてたんじゃな」


「安すぎるジョークや。

 死ぬときも裸でええんか」


病院はもう戦場だった。

透析室のベッドは

半分しか回らない。


「透析用チューブと

 IVバッグが

 全部輸入ストップです」


点滴を受けているおばあさんが、

隣のベッドで弱々しく笑った。


「チューブがないなら、

 死ぬしかないよね」


「でも死んでも

 火葬場も順番待ちやし

 ……先着順で地獄やわ」


火葬場の前には、

白い冷蔵コンテナが十台並んでいた。

看板にはこう書いてある。


『死体一時保管所 

 プロパン不足のため

 一日三体しか焼けません

 順番待ちリストはこちら

 (現在待ち人数:214名)』


棺桶の代わりに使われているのは、

スーパーの段ボール箱。


葬儀屋のおっさんが

肩を震わせて笑った。


「プラスチック棺も

 作れんらしい。

 火葬したら箱が溶けて

 骨だけ残るそうですよ」


「エコ葬儀ってやつ? 

 笑えるやろ?」


老人はデーツの最後の一個を

握りしめながら思った。


「全部一本の糸で

 つながっとるんじゃ」


「エチレンが切れたら果物が腐り、

 プロパンがなくなったら

 電車と冷蔵庫が死に、

 プラスチックが消えたら

 薬もチューブも棺桶も消える」


「そして最後は人間まで

 ——順番待ちじゃ」


その夜。

老人は最後に残っていた

デーツを一つ口に入れた。


ねっとりとした甘さが、

遠いイランの砂漠を

思い出させた。


「これが最後の味かもしれん」


ベッドに横になりながら、

老人は小さく笑った。


「まあええわ。

 世界は笑うために

 できとるんじゃけえな。

 死ぬのもジョークや」


深く息を吸い、ゆっくり吐いた。

——そして朝が来た。


いつものスーパー。

ポテトチップスが山積み。

ドライフルーツが色とりどり。

イラン産デーツも普通に並んでいる。


電車は時間通り。

薬局には箱入りの血圧薬。

病院の透析室は満床で、

チューブもIVバッグも当たり前にある。


火葬場の煙突からは

白い煙がのんびり上がっていた。


老人はカゴを手に、

しばらく呆然と立っていた。


やがて、

くすくすと笑い出した。


「なんじゃ、全部夢か……」


ポテトチップスの袋と

デーツをカゴに入れながら、

彼はレジに向かって小さく呟いた。


「まあええわ。

 ジョークは全部、

 埋めるためにあるんじゃけえな」


パリッ。

ねっとり。


二つの音が、

まるで優しい子守唄のように響いた。

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