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土地の追証 ――ホルムズ海峡が閉じた日、百軒ばあさんの家賃王国が静かに燃え始めた――

✦土地の追証


――ホルムズ海峡が閉じた日、

 百軒ばあさんの家賃王国が

 静かに燃え始めた――


………


■冒頭の決め台詞


本当に怖い時代の変わり目は、

爆発音で始まるんじゃない。


電気もつく。

スマホも動く。

スーパーにも、

まだ商品は並んでいる。


だからみんな言う。


「まだ大丈夫」


けれど、


昨日まで

二十五万円だった給湯器が、

今日は納期未定になる。


昨日まで来ていた職人が、

今日は材料待ちになる。


昨日まで安かった

電気代とガス代が、

じわじわ家計を削り始める。


昨日まで眠っていた金利が、

白い封筒になって

銀行から届く。


それでも日本人は、

鍋の中のカエルみたいに、

ぬるい顔で笑っていた。


この国は、

茹でガエル王国だった。


そして、

一番先に煮え始めたのは、

貧乏人ではなかった。


百軒の借家を持つ、

六十五歳の

百軒ばあさんだった。


………


★目次


■第一章 

 デフレの奥様


■第二章 

 借金が知恵に見えた時代


■第三章 

 ホルムズ海峡が閉じた朝


■第四章 

 物が来ない国


■第五章 

 百軒王国の電卓


■第六章 

 原状回復という白い刃


■第七章 

 写真を撮る借主たち


■第八章 

 家賃五千円の戦争


■第九章 

 上げたい大家、

 下げたい借主


■第十章 

 エアコンだけじゃない


■第十一章 

 修繕不能の夏


■第十二章 

 手数料を惜しんだ女


■第十三章 

 借主は

 AIを連れて内見に来た


■第十四章 

 土地の追証


■第十五章 

 茹でガエル王国の

 自己破産第一号


❥Z世代のあなたへ


★あとがき

 ホームズとワトソンの

 やすきよ風・

 笑いと涙の締め


………


■第一章

 デフレの奥様


百軒ばあさんは、

六十五歳だった。


町ではまだ、

「奥様」

と呼ばれていた。


借家百軒。

土地。

駐車場。

古い倉。

畑。

田んぼの名残。


それらを全部足せば、

見た目には百億円。


銀行から見れば、

立派な担保。


町の人から見れば、

昔ながらの名士。


そして本人から見れば、

自分の人生の正しさだった。


日本は長い間、

不思議な国だった。


物価はあまり上がらない。

給料もあまり上がらない。

金利も上がらない。

修繕費も読める。

職人も呼べる。

材料も届く。


借主も、

まだ大家に遠慮していた。


それは、

多くの若者にとっては

苦しい時代だった。


でも、

百軒ばあさんにとっては

違った。


失われた三十年は、

彼女にとっては

失われていなかった。


むしろ、

その三十年こそ、

彼女の黄金時代だった。


家賃八万円。

百軒で月八百万円。

一年で九千六百万円。


給料が上がらない国では、

家賃収入の安定が

神様のように見えた。


物価が上がらない国では、

修繕計画も立てやすかった。


金利が眠っている国では、

借金は怖いものではなく、

知恵に見えた。


百軒ばあさんは、

その国で勝っていた。


冷たいことは、

「しっかり者」

と呼ばれた。


情を切ることは、

「家を守る」

と呼ばれた。


借金を使うことは、

「相続税対策」

と呼ばれた。


百軒ばあさんは、

その言葉の上に座って、

我が世の春を謳歌していた。


けれど、

その春は、

本当は長すぎた冬だった。


本人だけが、

それに気づいていなかった。


………


■第二章

 借金が知恵に見えた時代


百軒ばあさんの家には、

五十億円の借入があった。


普通の人なら、

その数字だけで

息が詰まる。


五十億円。


家でもない。

車でもない。

宝くじでもない。


借金である。


けれど百軒ばあさんには、

それが借金ではなく、

「家を守る知恵」

に見えていた。


銀行員は、

昔、笑顔で来た。


「奥様、

 土地がありますから」


「借入を使えば、

 相続税対策になります」


「家賃収入がありますから」


「低金利ですから」


「大きく金利が上がるとは

 考えにくいです」


言葉は甘かった。


借金ではない。

対策。


危険ではない。

活用。


欲ではない。

家を守る知恵。


そのころの日本では、

金利がとても低かった。


お金を借りても、

利息が軽く見えた。


だから、

土地を持つ人は考えた。


借りて建てる。

借りて税金を減らす。

借りて家賃を生む。


それが賢い。

それが正しい。

それが名士のやり方。


百軒ばあさんも、

そう信じた。


けれど、

その魔法には条件があった。


物価が上がらないこと。

金利が上がらないこと。

材料が届くこと。

職人が来ること。

借主が家賃を払うこと。

空室が増えないこと。


社会がずっと

昨日のままであること。


つまり、

デフレのぬるい湯の中でだけ

効く魔法だった。


ぬるい湯は、

気持ちがいい。


だから人は、

温度計を見なくなる。


百軒ばあさんも、

見なかった。


鍋の下で

火がついていることに、

気づかなかった。


………


■第三章

 ホルムズ海峡が閉じた朝


変化は、

遠い海から来た。


ホルムズ海峡。


百軒ばあさんの町からは、

あまりに遠い。


軽トラでは行けない。

新幹線でも行けない。

町内会の回覧板にも

載らない。


だから最初、

彼女は言った。


「遠い国の話でしょう」

「日本には関係ないわ」

「騒ぎすぎよ」


けれど、

遠い海の話は、

少しずつ町へ届いた。


船が迷う。

保険料が上がる。

原油が揺れる。

ガスが揺れる。

ナフサが揺れる。


ナフサというのは、

石油からできる

材料のもとである。


それが、

いろんな物に変わる。


樹脂。

接着剤。

塗料。

シンナー。

防水材。

床材。

包装材。

電線の被覆。


給湯器やエアコンの部品にも

つながっていく。


つまり、

ホルムズ海峡は

遠い海ではなかった。


三号棟の

給湯器の中にあった。


七号棟の

雨漏りの屋根にあった。


十五号棟の

エアコンの部品にあった。


テレビでは、

トランプ大統領の

ホルムズ海峡をめぐる

逆封鎖戦略が語られていた。


完全に止めるのではない。

通れるかもしれない。

でも通れないかもしれない。


船が待つ。

保険料が上がる。

企業が迷う。

価格が動く。

納期が消える。


それが一番怖かった。


爆発ではない。

不確実性である。


百軒ばあさんは、

まだ笑っていた。


「日本は大丈夫」


その言葉は、

日本人が大好きな毛布だった。


けれど、

毛布をかぶっても、

鍋の湯は熱くなっていた。


………


■第四章

 物が来ない国


ホルムズ海峡が詰まってから、

日本は急に

壊れたわけではない。

もっと嫌な壊れ方をした。


少しずつ、

来なくなった。


給湯器が来ない。

エアコン部品が来ない。

塗料が来ない。

シンナーが読めない。

防水材が値上がりする。

床材が遅れる。

クロスが高い。

接着剤が数量制限。

職人が来られない。

トラック代が上がる。

電気代が上がる。

ガス代が上がる。


食料も、

いきなり

消えるのではない。


棚の奥行きが薄くなる。

安売りが消える。

いつもの商品が高くなる。

お一人様一点が増える。


前は普通に買えたものが、

妙にありがたく見える。


百軒ばあさんは、

最初それを

生活者の愚痴だと

思っていた。


「最近は何でも高いのね」


その程度だった。


しかし数週間後、

それは自分の借家へ

真っすぐ刺さった。


三号棟の給湯器。

五号棟のエアコン。

七号棟の雨漏り。

九号棟のトイレ。

十一号棟の床の沈み。

十五号棟の外壁。


全部、

「物が来ない国」

の問題になった。


工務店に電話した。


「いつ直るの」


工務店は言った。


「奥さん、

 物がないんです」


「高くてもいいから」


「高いだけなら

 まだええんです」


「じゃあ何が問題なの」


「ないんです」


その一言は、

金利より怖かった。


高いなら、

まだ計算できる。


ないものは、

計算できない。


百軒ばあさんは、

そこで初めて、

インフレの本当の怖さを

少しだけ知った。


値段が上がることではない。

値段を出せなくなることだ。


………


■第五章

 百軒王国の電卓


百軒ばあさんは、

電卓を叩いた。


家賃八万円。

百軒で月八百万円。

一年で九千六百万円。


昔は、

この数字を見るだけで

安心できた。


けれど今は、

その下に並ぶ数字が

違っていた。


火災保険。

固定資産税。

管理料。

修繕費。

空室損。

原状回復。

給湯器交換。

エアコン交換。

雨漏り補修。

電気代。

ガス代。

銀行借入利息。


材料費は、

二倍。

三倍。


見積書は、

すぐ古くなる。


納期は、

読めない。


そして、

金利が上がる。


五十億円の借入。


金利一%なら、

年五千万円。


二%なら、

年一億円。


三%なら、

年一億五千万円。


四%なら、

年二億円。


百軒満室で、

年九千六百万円。


三%になれば、

利息だけで負ける。

満室なのに負ける。

空室がなくても負ける。


家賃を全部集めても、

銀行の利息に飲まれる。


百軒ばあさんは、

電卓を閉じた。


閉じても、

数字は消えなかった。


デフレ時代には、

百軒は王国だった。


インフレ時代には、

百軒は百の出血口だった。


………


■第六章

 原状回復という白い刃


朝のテレビでは、

賃貸トラブルの漫画が

流れていた。


原状回復。


住んでいる間にできた

汚れや傷を直すこと。


百軒ばあさんは、

最初、

鼻で笑った。


「汚したら、

 敷金から引けばいい」


昔は、

それで通った。


けれど

画面の中の専門家は、

静かに言った。


「普通に生活して

 できた傷みや、

 古くなって

 自然に傷んだ部分は、

 貸主負担になる場合が

 あります」


タバコのにおい。

テレビや冷蔵庫の裏の跡。

家具を置いた床のへこみ。

小さな画鋲の穴。


全部が、

当然のように借主負担とは

限らない。


百軒ばあさんは、

思わず言った。


「は?」


テレビの漫画の

登場人物も、

同じ顔をしていた。


「は?」


彼女は、

その顔が嫌だった。

自分に似ていたからだ。


昔の大家の勘では、

もう勝てない。


契約書。

写真。

説明。

記録。


そういうものが必要になる。


しかも今は、

修繕費が二倍三倍の時代。


借主に請求できない部分は、

そのまま大家の腹に刺さる。


原状回復とは、

部屋を元に戻すことだと

彼女は思っていた。


違った。


誰がいくら払うのかを、

白い紙の上で切り分ける

刃だった。


その刃は、

百軒ばあさんの

古い常識を

静かに切り始めた。


………


■第七章

 写真を撮る借主たち


退去立会いで、

若い借主は

スマホを出した。


入居時の写真。


床。

壁。

浴室。

キッチン。

エアコン。

冷蔵庫置き場。

玄関。


全部、

日付つきで残っていた。


百軒ばあさんは、

あきれた。


「そんなに撮るものなの」


借主は言った。


「あとで揉めたくないので」


揉めたくない。


その言葉は、

今の若者の生活防衛だった。


彼らは、

大家を

信用していないのではない。


時代を信用していない。


給料は伸びない。

家賃は高い。

食費は上がる。

電気代もガス代も上がる。

奨学金もある。

スマホ代もある。

将来も見えない。


そんな中で、

敷金十万円は大金だ。


家賃五千円の値上げも、

軽くない。


だから、

写真を撮る。


検索する。

録音する。

スクリーンショットを残す。


百軒ばあさんには、

それが生意気に見えた。


しかし違った。


若者は

偉くなったのではない。


貧しくなったから、

賢くならざるを得なかった。


令和の借主は、

大家に噛みつくために

知恵をつけたのではない。


生き残るために、

知恵をつけたのだ。


………


■第八章

 家賃五千円の戦争


百軒ばあさんは、

家賃を上げるしかない

と思った。


全戸五千円。


百軒なら月五十万円。

一年で六百万円。


一万円なら、

一年で千二百万円。


それでも、

五十億円の金利一%上昇、

年五千万円には届かない。


けれど、

何もしないよりは

ましだった。


管理会社に言った。


「全戸、

 五千円上げてください」


担当者は、

すぐに返事をしなかった。


「五千円は、

 借主さんにとって

 年間六万円です」


百軒ばあさんは言った。


「六万円くらい」


担当者は言った。


「その六万円で、

 子どもの制服を

 買う家もあります」


「薬代にしている

 人もいます」


「ガス代の値上がりで、

 もう消えている家庭も

 あります」


「食費で

 限界の人もいます」


百軒ばあさんは、

黙った。


自分にとっての

五千万円は、

大きい。


他人にとっての

六万円は、

小さく見える。


人間は、

自分の痛みだけを

実物大で見る。


他人の痛みは、

いつも縮小された

地図になる。


インフレの時代、

家賃五千円は、

ただの数字ではなかった。


それは、

誰かの食費であり、

薬代であり、

通学定期であり、

子どもの靴であり、

冬のガス代だった。


大家の悲鳴を、

借主への請求書に

変えた時、

町は静かに割れ始めた。


………


■第九章

 上げたい大家、

 下げたい借主


百軒ばあさんは、

家賃を上げたい。


借主は、

家賃を下げたい。


その二つが、

同じ借家の中で

ぶつかった。


テレビでは、

家賃を上げる時の

ルールが説明されていた。


税金が上がった。

物価が上がった。


近くの

同じような物件と比べて、

家賃が安すぎる。


そういう理由があれば、

家賃を上げる

話し合いはできる。


百軒ばあさんは思った。


「全部

 当てはまるじゃない」


物価は上がった。

修繕費も上がった。

保険も上がった。

金利も上がった。

電気代もガス代も

上がった。


だから家賃も上げる。


しかし管理会社は言った。


「一方的には

 上げられません」


「資料が必要です」


「近くの物件との

 比較が必要です」


「借主さんの 

 合意も必要です」


百軒ばあさんは言った。


「私の家なのに?」


担当者は答えた。


「貸している以上、

 契約があります」


契約。


その言葉が、

彼女には窮屈だった。


契約とは、

紙に書いた約束である。


自分の家だからといって、

一方的に

変えられるものではない。


百軒ばあさんは、

そこを

分かっていなかった。


家賃を上げたい大家。

家賃を下げたい借主。


その間にあるのは、

情ではない。


契約書だった。


………


■第十章

 エアコンだけじゃない


夏が近づくにつれ、

電話が増えた。


三号棟のエアコン。

五号棟の給湯器。

七号棟の雨漏り。

九号棟のトイレ。

十一号棟のブレーカー。

十五号棟の床の沈み。


テレビでは、

家賃を下げる話が 

流れていた。


借主のせいではない

故障で、

普通に住めない状態

になれば、

家賃が下がることがある。


エアコンだけじゃない。


電気。

ガス。

水道。

トイレ。

風呂。

雨漏り。


百軒ばあさんは、

その言葉を見た時、

胃が冷えた。


今まで家賃は、

土地が生む果実だと 

思っていた。


違った。


水が出る。

お湯が出る。

トイレが流れる。

雨が漏らない。

エアコンが動く。

床が抜けない。

鍵が閉まる。


その全部を毎月保って、

初めて家賃は入る。


家賃とは、

住める状態の

納品代金だった。


しかし今、

その納品ができない。


物がない。

職人が来ない。

部品が読めない。

価格が変わる。


そして借主は、

もう黙って待たない。


インフレは、

大家の電卓だけでなく、

借主の我慢も

燃やしていた。


………


■第十一章

 修繕不能の夏


昔の修繕は、

電話一本で始まった。


水道屋。

電気屋。

ガス屋。

大工。

塗装屋。内装屋。


だいたい誰かが来てくれた。


今は違った。


「部品待ちです」


「職人が詰まっています」


「材料がありません」


「見積もりは仮です」


「来月には価格が変わります」


「納期未定です」


納期未定。


その四文字は、

百軒ばあさんにとって

幽霊より怖かった。


幽霊なら、

出るだけだ。


納期未定は、

直らない。


エアコン故障十二軒。

給湯器六軒。

雨漏り五軒。

トイレ不良四軒。

換気扇八軒。


一つ一つは、

よくある修理。


百軒集まると、

経営危機になる。


しかも、

修繕費は上がる。


二倍。

三倍。

時には見積もり不能。


直せば現金が飛ぶ。

直せなければ家賃減額。


修繕不能の夏は、

大家にとって、

火事より 

静かな災害だった。


………


■第十二章

 手数料を惜しんだ女


百軒ばあさんは、

管理会社の請求書を見た。


管理料。

退去立会い費。

修繕手配費。

更新事務手数料。

募集費。


「何でもかんでも

 手数料ね」


家賃八万円。

百軒で月八百万円。


管理料五%なら、

月四十万円。

一年で四百八十万円。


その数字が惜しくなった。


ホルムズ後の時代では、

四百八十万円は軽くない。


給湯器が何台も買える。

屋根の応急修理もできる。

銀行への説明にもなる。


テレビでは、

不動産の直接取引が

紹介されていた。


仲介業者を通さず、

貸主と借主が

直接取引することもできる。


百軒ばあさんは思った。


「私がやればいい」


しかし、

直接やるということは、

手数料が

消えることではなかった。


苦情が直接来る。

怒りが直接来る。

質問が直接来る。

録音が直接向く。

契約書の不備が直接刺さる。


管理会社は、

手数料を

取るだけではなかった。


人間同士が

直接ぶつからないための

防音材だった。


百軒ばあさんは、

その防音材を自分で

剥がそうとしていた。


………


■第十三章

 借主はAIを連れて

 内見に来た


百軒ばあさんが

本当に震えたのは、

退去の時だけではなかった。


入居の時だった。


日曜日の午後、

二十代の若い男女が

内見に来た。


服は地味だった。

靴も安そうだった。


しかし二人とも、

スマホを握っていた。


百軒ばあさんは、

最初それを軽く見た。


スマホばかり見て、

最近の若い人は

落ち着きがない。


そう思った。


管理会社の担当が、

初期費用の概算を出した。


家賃十万円。

敷金十万円。

礼金十万円。


仲介手数料十一万円。

鍵交換代二万二千円。

消毒代二万二千円。


保証会社料五万円。

火災保険二万円。


クリーニング

特約六万円。


合計、

四十八万四千円。


若い男は、

見積書を

スマホで撮った。


若い女は、

その場で何かを

打ち込んだ。


百軒ばあさんは、

少しむっとした。


「写真を

 撮るものなの?」


若い女は、

顔を上げた。


「AIに

 確認してもらうので」


百軒ばあさんは、

聞き返した。


「AI?」


若い女は、

悪びれずに言った。


「初期費用で

 交渉できるところを

 見てもらいます」


数秒後、

スマホの画面に

文章が出た。


仲介手数料は

交渉できる可能性あり。


礼金なし物件も

希望できる。


鍵交換代は

契約内容を確認。


消毒代は

任意か確認。


重要事項説明書は

持ち帰って確認。


原状回復の特約は、

金額と範囲を事前確認。


若い男が言った。


「仲介手数料、

 相談できますか」


若い女が続けた。


「礼金なしなら

 前向きに考えたいです」


「鍵交換代は

 貸主負担で

 相談できますか」


「消毒代は

 任意ですか」


「重要事項説明書を

 持ち帰って確認してから

 返事します」


百軒ばあさんは、

言葉を失った。


昔の借主は、

こんなことを

言わなかった。


初期費用は高いもの。

礼金は払うもの。

仲介手数料は一か月。

鍵交換代も消毒代も、

そういうもの。


そう思っていた。


けれど令和の借主は、

そう思わない。


疑問を持つ。

検索する。

AIに聞く。


その場で 

反論の言葉を手に入れる。


若い女が、

最後に言った。


「すみません。

 これ全部払うと、

 引っ越し後の生活費が

 残らないので」


その声には、

怒りはなかった。


ただ、

切実さがあった。


百軒ばあさんは、

その声が嫌だった。


怒ってくれた方が、

まだよかった。


切実な人間は、

値切っているのではない。

生き残ろうとしている。


初期費用

四十八万四千円。


AIが削れると示した額は、

約二十万円。


一人なら二十万円。

十人なら二百万円。

二十人なら四百万円。


百軒ばあさんは、

目の前の若者ではなく、

その後ろにいる

見えない群れを見た。


AI。

YouTube。

SNS。

漫画。

節約テンプレ。

消費生活センター。


もう借主は、

裸で不動産屋に来ない。


情報を着て来る。


そしてその情報は、

百軒ばあさんの

古い利益を、

一枚ずつ脱がせていく。


百軒ばあさんは、

小さくつぶやいた。


「最近の若い人は、

 ほんとうに

 細かいのね」


若い女は、

静かに答えた。


「細かくしないと、

 暮らせないんです」


その一言で、

部屋の空気が変わった。


これは、

ケチな若者の話ではない。


インフレの時代に、

若者が

初期費用二十万円を

命綱として守る話だった。


昔の借主は、

財布だけを持って

内見に来た。


令和の借主は、

AIと、

YouTubeと、

SNSと、

何千人分の失敗談を

連れて来る。


百軒ばあさんが

相手にしていたのは、

目の前の

若者二人ではなかった。


情報で武装した、

新しい日本の生活防衛

そのものだった。


………


■第十四章

 土地の追証


銀行の白い封筒は、

朝から

テーブルの上にあった。


百軒ばあさんは、

夕方になって

ようやく開けた。


担保評価見直しの

ご案内。


その文字は、

きれいに印刷されていた。


きれいな文字ほど、

ときどき残酷だ。


銀行の応接室で、

担当者は淡々と話した。


「築年数」

「空室率」

「修繕履歴」

「家賃水準」

「地域需要」

「売却可能価格」

「今後の金利」

「追加担保」


百軒ばあさんは言った。


「土地はあります」


担当者はうなずいた。


「はい。

 土地はございます」


その返事が、

一番冷たかった。


土地はございます。

だからこそ、

処分対象になります。


そう聞こえた。


彼女にとって土地は、

先祖だった。


嫁ぎ先の誇りだった。

町で奥様と呼ばれる

理由だった。


しかし

銀行にとって土地は、

回収可能資産だった。


先祖ではない。

思い出ではない。

仏壇の横にあるもの 

でもない。


担保だった。


証券会社なら、

分かる。


担保価値が下がった。

不足分を入れてください。

入れられないなら、

売ります。


株なら株の追証。

不動産なら土地の追証。


百軒ばあさんは、

五十億円の借金で

土地に首輪をつけていた。


その首輪を、

銀行が静かに引いた。


マイナス金利の時代には、

首輪は見えなかった。


十年国債が

二・四%の顔をした時、

その首輪は急に重くなった。


五十億円の一%は、

年五千万円。


二%なら、

年一億円。


三%なら、

年一億五千万円。


百軒満室で

年九千六百万円。


満室でも負ける。


それが、

不動産版の追証だった。


………


■第十五章

 茹でガエル王国の

 自己破産第一号


日本人の多くは、

まだ気づいていなかった。


スーパーには

まだ商品がある。

電気もつく。

スマホも動く。

テレビも笑っている。


だから言う。


「まだ大丈夫」

「なんとかなる」

「騒ぎすぎ」


しかし、

日本はもう

デフレの国ではなかった。


物がない。

物が高い。

物が遅い。


電気代が上がる。

ガス代が上がる。


食料が細る。

建築資材が

二倍三倍になる。


家電が来ない。

部品が来ない。


金利が上がる。


この国は、

茹でガエル王国だった。


湯の温度は上がっている。


けれど鍋の中の人間は、

まだニュースの

字幕を見ながら

笑っている。


その中で、

最初に悲鳴を上げたのは、

意外にも

貧しい人間ではなかった。


百軒の借家を持つ

奥様だった。


デフレ時代の勝者。

土地担保の女王。

相続税対策の成功者。

低金利の愛人。


その彼女が、

インフレ経済の 

最初の犠牲者になった。


百軒ばあさんは、

まだ破産していない。


まだ奥様と呼ばれている。

まだ大きな家にいる。

まだ仏壇に花がある。

まだ銀行は丁寧語を使う。


だからこそ、

地獄だった。


本当の地獄は、

落ちた瞬間ではない。


落ちるかもしれないと

知って、

まだ足場が残っている

時間である。


百軒の電話が鳴った。


エアコン。

給湯器。

雨漏り。

トイレ。

床の沈み。

退去精算。

家賃値上げ拒否。

賃料減額請求。

入居時写真。

敷金返還。

初期費用交渉。

AIのチェック。

修理代相殺。   

空室。


百軒あるということは、

百軒分、

電話が鳴る 

ということだった。


百軒ばあさんは、

百軒の家を

持っていたのではない。


百軒分の、

逃げられない

責任を持っていた。


土地は裏切らなかった。


ただ、

助けてもくれなかった。


家は残った。


けれど、

家を持つ人間の心が、

先に崩れた。


白い封筒には、

こう書かれていた。


担保評価の見直し。


証券会社の人間なら、

すぐに分かる。


それは、

土地の追証だった。


そしてその日、

茹でガエル王国ニッポンで、

自己破産第一号の足音は、

借家オーナーの玄関から

聞こえ始めた。


………


❥Z世代のあなたへ


この物語は、

百軒ばあさんだけの話では

ありません。


あなたが借りる部屋。

あなたが払う家賃。

あなたが 

退去する時の敷金。

あなたが

検索する原状回復。

あなたが

撮る入居時写真。

あなたが

我慢する

エアコンの故障。

あなたが

AIに見せる

初期費用の見積書。


それら全部が、

新しい

日本の生活防衛です。


昔は、

大家が強かった。


不動産屋が言うことを、

そのまま信じる人も 

多かった。


でも今は違います。


スマホがあります。

AIがあります。

YouTubeがあります。

SNSがあります。

漫画で学べる時代です。


知っている人と、

知らない人の差は、

一回の引っ越しで

十万円、二十万円に

なることがあります。


それは、

ただの節約では

ありません。


物価が上がる時代の、

命綱です。


でも、

大家を敵だと

思いすぎてもいけません。


大家もまた、

苦しい時代に

入っています。


金利が上がる。

修繕費が上がる。

保険料が上がる。

部品が来ない。

職人が足りない。

銀行が担保を見る。


この時代は、

大家と借主を

敵同士にしていきます。


でも本当の敵は、

一人の大家でも、

一人の借主でも

ありません。


時代が変わったのに、

昔の勝ち方を

まだ信じていることです。


百軒ばあさんは、

土地を持っていました。


家も持っていました。

通帳も持っていました。


けれど、

時代を読む目を

持っていませんでした。


だから、

百軒持って、

全部に

追い詰められたのです。


………


★あとがき

 ホームズとワトソンの

 やすきよ風・

 笑いと涙の締め


✲ワトソン


先生、

今回は怖いのに

分かりやすかったですね。


✲ホームズ


小学生でも分かる怖さが、

一番深いんじゃ。


✲ワトソン


ホルムズ海峡から、

給湯器まで

つながるとは。


✲ホームズ


海峡は遠いが、

部品は近い。


✲ワトソン


名言っぽい!


✲ホームズ


怒ってもナフサは来ない。


✲ワトソン


また出た!

怒ってもナフサは来ない!


✲ホームズ


ついでに

給湯器も来ない。


✲ワトソン


エアコンも来ない。


✲ホームズ


シンナーも読めない。


✲ワトソン


銀行は来るのに?


✲ホームズ


銀行は来る。


✲ワトソン


そこだけ皆勤賞!


✲ホームズ


返済日は

世界で一番まじめじゃ。


✲ワトソン


先生、

五十億円の借金って、

やっぱり怖いですね。


✲ホームズ


金利一%で年五千万円。


✲ワトソン


二%で一億円。


✲ホームズ


三%で一億五千万円。


✲ワトソン


百軒満室で

年九千六百万円。


✲ホームズ


満室でも負ける。


✲ワトソン


空室なしで

負けるんですか?


✲ホームズ


あるんじゃ。

借金が大きすぎると、

満室は勝利ではなくなる。


✲ワトソン


不動産ホラーですね。


✲ホームズ


証券会社風に言えば、

土地の追証じゃ。


✲ワトソン


出ました!

今日の主役!


✲ホームズ


担保価値が

下がりました。

追加で

入れてください。

入れられないなら

売ります。


✲ワトソン


株なら株の追証。

土地なら土地の追証。


✲ホームズ


先祖代々の土地も、

銀行から見れば

担保じゃ。


✲ワトソン


でも先生、

今回いちばん

現代的だったのは

AIですね。


✲ホームズ


借主は

もう一人で来ない。


✲ワトソン


AIとYouTubeとSNSを

連れて来る。


✲ホームズ


昔の借主は

財布だけ持って来た。


✲ワトソン


令和の借主は、

検索結果を持って来る。


✲ホームズ


そして見積書を

AIに見せる。


✲ワトソン


百軒ばあさん、

たまらんですね。


✲ホームズ


だが若者も遊びで

やっているわけではない。


✲ワトソン


生活防衛ですね。


✲ホームズ


そうじゃ。


✲ワトソン


家賃五千円も、

敷金十万円も、

初期費用二十万円も、

若者には大きい。


✲ホームズ


だから写真を撮る。

契約書を読む。

AIに聞く。


✲ワトソン


令和の

三種の神器ですね。


✲ホームズ


スマホ。

記録。

質問。


✲ワトソン


先生、

最後にZ世代へ一言。


✲ホームズ


知らないまま判を押すな。


✲ワトソン


大家さんへ一言。


✲ホームズ


昔の感覚で貸すな。


✲ワトソン


銀行へ一言。


✲ホームズ


白い封筒は怖い。


✲ワトソン


急に感想!


✲ホームズ


そして日本人全員へ一言。


✲ワトソン


お願いします。


✲ホームズ


鍋の温度を見ろ。


✲ワトソン


茹でガエル王国

ですもんね。


✲ホームズ


電気がついていても、

安心とは限らん。


✲ワトソン


スーパーに

商品があっても?


✲ホームズ


棚の奥行きを見ろ。


✲ワトソン


給湯器が 

動いていても?


✲ホームズ


次の部品が

来るかを見ろ。


✲ワトソン


土地を持っていても?


✲ホームズ


金利を見ろ。


✲ワトソン


最後に決め台詞を。


✲ホームズ


土地は裏切らない。


✲ワトソン


はい。


✲ホームズ


ただし、

助けてもくれない。


✲ワトソン


泣けますね。


✲ホームズ


助けるのは、

最後は人間じゃ。


✲ワトソン


その人間を粗末にしたら?


✲ホームズ


いつか

白い封筒になって

戻ってくる。


✲ワトソン


怖っ。


✲ホームズ


これが

令和の大家怪談じゃ。


✲ワトソン


では締めましょう。


✲ホームズ


契約書は読め。


✲ワトソン


写真は撮れ。


✲ホームズ


AIには聞け。


✲ワトソン


金利は見ろ。


✲ホームズ


怒っても

ナフサは来ない。


✲ワトソン


そして?


✲ホームズ


土地の追証には

気をつけろ。


✲ワトソン


令和の

茹でガエル王国、

これにて一件落着!


✲ホームズ


いや。


✲ワトソン


え?


✲ホームズ


まだ一件目じゃ。


✲ワトソン


……それ、

一番怖いやつですやん。


………


         完

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