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日本は、流したものを受け止められなくなった ――餃子の町と練馬のトイレ、美果が差し出した「出口産業」という蜘蛛の糸――

✦日本は、

 流したものを

 受け止められなくなった


――餃子の町と練馬のトイレ、

  美果が差し出した

  「出口産業」という

  蜘蛛の糸――


………


ほんまに怖い時代いうんは、

爆発音で始まるんやない。


ミサイルでもない。

株価暴落でもない。

テレビの緊急速報でもない。


日本では、まず、

入札結果の欄に、


「全社辞退」


と書かれた。


その油は、

車を走らせる油ではなかった。


飛行機を

飛ばす油でもなかった。


県民が毎日流したものを、

最後に泥として焼くための、

六百七十二キロリットルの

重油だった。


東京はまだ笑っていた。


練馬のマンションでは、

まだトイレも流れていた。


けれど、

67歳の元証券マンの

おじいちゃんだけは、

その小さなニュースを見て、

ぽつりと言った。


「ひろし君。

 これは原油の話じゃない。

 これは、うん●の話じゃ」


………


★目次


■第一章 

 餃子の町へ逃げた朝


■第二章 

 六百七十二キロリットルの

 空白


■第三章 

 餃子を食べれば、

 出口がいる


■第四章 

 ひろしのパズルに、

 うん●がはまった


■第五章 

 ゴミ袋ではなく、

 火が消えかけていた


■第六章 

 生ゴミが腐り始めた町


■第七章 

 ごみは友情では燃えない


■第八章 

 練馬、午前七時二十一分


■第九章 

 垂直の地獄


■第十章 

 入口の栗田、出口の月島


■第十一章 

 美果は、泥の前で笑っていた


■第十二章 

 元気なふりはする。

 でも元気な人間ではない


■第十三章 

 メタンは、

 泥の中で眠っていた


■第十四章 

 蜘蛛の糸は、

 処理場の奥に垂れていた


■第十五章 

 出口から立ち直る国


❥Z 世代のあなたへ


★あとがき


ホームズとワトソン、

 便器の前で考える

――やすきよ漫才風・

   笑いと涙の出口編――


………


■第一章 

 餃子の町へ逃げた朝


練馬のマンションで、

ひろしは求人票を見ていた。


四十歳。


理工系の大学を出て、

頭は切れる。


けれど前の会社で、

人間関係に削られた。


お局さんの低い声。


「普通、ここ気づくよね」


その一言が、

今でも耳の奥に残っている。


求人票を開くたび、

胸の奥が少し硬くなる。


水処理。

下水。

ポンプ。

汚泥。

設備保守。

自治体向け技術営業。


ホルムズ海峡封鎖の後、

ひろしは、


「止まると困る場所に

 立ちたい」


と思うようになっていた。


けれど、

まだ一歩が出ない。


さおりは三十七歳。


ゲーム翻訳の仕事をしている。


年収六百万円。


数字だけ見れば、

東京でも悪くない。


でも、

練馬の家賃は月二十万円。


夫が就職活動中の六百万円は、

豊かさの数字ではない。


まだ沈んでいない証拠。

それくらいの

意味しかなかった。


その朝、

67歳の元証券会社勤務の

おじいちゃんが、

ふたりを訪ねてきた。


手には小さな旅行バッグ。


そして妙に明るい顔。


「ひろし君、

 さおり。

 突然 じゃが

 餃子でも食べに行こうや」


さおりは目を丸くした。


「急に?」


「急に行くから、

 気分転換になるんじゃ。

 練馬で求人票ばっかり

 見とったら、

 心まで詰まる」


ひろしは困った顔をした。


「でも、就活が……」


「就活じゃからこそ 

 行くんじゃ」


おじいちゃんは、

スマホをひろしに見せた。


そこには、

小さな地方ニュース。


下水汚泥焼却用重油、

入札不調。

六百七十二キロリットル、

全社辞退。


ひろしは首をかしげた。


「重油……下水汚泥……?」


おじいちゃんは

低い声で言った。


「先日、

 君は水の会社を

 選ぼうとした。

 今度は、

 もう一段

 下を見るんじゃ」


「下?」


「水を使ったあとじゃ。

 流したあとの世界じゃ」


さおりが眉をひそめた。


「お父さん、

 餃子を

 食べに行くんでしょ?」


おじいちゃんは、

にやりと笑った。


「もちろん食べる。

 けどな、食べたら出る」


さおりはため息をついた。


「朝から最悪の

 旅行案内だよね」


ひろしは、

少しだけ笑った。


その笑いは久しぶりだった。


三人は、

北関東の餃子の町へ向かった。


表向きは気分転換。


けれど、

おじいちゃんだけは

知っていた。


これは観光ではない。


日本の腹の底を

見に行く旅だった。


■第二章 

 六百七十二キロリットル

 の空白


北関東の中核市、北都宮市。


宇都宮に似た、

餃子で有名な町。


駅前は明るかった。


若者が動画を撮る。

家族連れが笑う。

外国人観光客が、

餃子マップを片手に歩く。


店の前には行列。


鉄板の上で、

餃子がじゅうじゅう

音を立てている。


町は、

まだ平和な顔をしていた。


けれど、

その町から数キロ離れた

北部水再生センターでは、

まったく違う空気が

流れていた。


湿った泥の匂い。

薬品の匂い。

鉄と油の匂い。


そして、

会議室の机には一枚の紙。


✲下水汚泥焼却用重油調達

✲予定数量 

 六百七十二キロリットル

✲入札結果 不落

✲理由 全社辞退


管理係長は、

その紙を何度も見返した。


六百七十二キロリットル。


それは車のための油ではない。

観光バスのための油でもない。

市民が毎日流したものを、

最後に泥として焼くための

油だった。


若い職員が言った。


「係長……

 これ、まずいですよね」


管理係長は

返事をしなかった。


返事をしなくても、

わかっていた。


これは、

ただの入札不調ではない。


町の出口が、

紙の上で止まり始めたのだ。


その頃、

駅前のベンチで、

おじいちゃんが

同じニュースを読んでいた。


ひろしが横からのぞき込む。


「これ、

 そんなに大事なんですか?」


おじいちゃんは答えた。


「大事じゃ。

 株で言えば、

 誰も買わん市場じゃ」


「誰も買わない?」


「業者が売りたがらん。

 行政の値段では出せん。

 入札が成立せん。

 つまり、

 町の腹薬に値段がつかん」


さおりが言った。


「腹薬?」


おじいちゃんは言った。


「この重油は、

 町の腹薬じゃ。

 町が食べて、

 流して、

 泥になったものを、

 最後に焼く薬なんじゃ」


ひろしは、

その瞬間、

餃子の匂いが

少し違って感じた。


おいしい匂いの奥に、

処理場の泥の匂いが

重なった。


■第三章 

 餃子を食べれば、

 出口がいる


三人は餃子店に入った。


焼き餃子。

水餃子。

揚げ餃子。


さおりは久しぶりに笑った。


「おいしい。

 これは来てよかったかも」


ひろしも、

少し表情が緩んだ。


けれど、おじいちゃんは、

餃子を食べながら、

町の別の顔を見ていた。


「ひろし君」


「はい」


「この餃子は、

 どこへ行く?」


さおりが箸を止めた。


「お父さん、また?」


おじいちゃんは笑った。


「大事な話じゃ」


ひろしは、

紙ナプキンにペンで図を書いた。


餃子

観光客

トイレ

下水

汚泥

脱水

焼却

重油

ホルムズ海峡


さおりは目を細めた。


「ひろしさん、

 餃子を食べながら、

 うん●の図を書かないで」


「ごめん。

 でも、つながった」


「何が?」


「餃子とホルムズ海峡」


さおりは思わず笑った。


「普通つながらないから」


おじいちゃんは

満足そうにうなずいた。


「そこじゃ。

 普通の人はつながらん。

 でも、

 現実はつながっとる」


食べる町には、

出す町がついてくる。


観光客が増えれば、

トイレも増える。


ホテルの排水。

飲食店の生ゴミ。

駅のトイレ。

コンビニのトイレ。


人は流せば終わったと思う。


けれど、

流したものは消えない。


地下へ行く。

管を通る。

処理場へ集まる。

泥になる。


そして、

その泥を燃やす油が必要になる。


ひろしは、

ナプキンの図を見つめた。


前作で見たドミノに、

新しいピースがはまった。


汚泥。

都市の出口。

誰も見たくない場所。


でも、

止まった瞬間に全員が困る場所。


■第四章 

 ひろしのパズルに、

 うん●がはまった


ひろしは、

ホテルの部屋で

ノートを広げた。


先日のドミノを書き直す。


ホルムズ海峡

中東原油

ナフサ不足

包装フィルム

ゴミ袋

重油不足

焼却炉

下水汚泥

生ゴミ

収集車の軽油

練馬のトイレ


さおりが 

ベッドの上から見ていた。


「ひろしさん、

 顔つき変わったね」


「え?」


「求人票見てる時より、

 パズル解いてる時の方が

 元気」


ひろしは

少し恥ずかしそうに笑った。


「仕事になれば

 いいんだけどね」


おじいちゃんが、

窓際の椅子で

お茶を飲みながら言った。


「なる」


「本当ですか?」


「危機の時代は、

 一つの専門だけでは

 足りん。

 原油とゴミ袋と

 下水と企業を、

 一枚の地図にできる

 人間がいる」


ひろしは黙った。


前の会社では、

細かいと言われた。

空気を読めと言われた。

気にしすぎだと言われた。


でも、

社会が複雑に

詰まり始めた時、

その『気にしすぎ』が、

役に立つのかもしれなかった。


ひろしはノートに書いた。


日本は、

約束の時間に来なくなった。

そして次に、

流したものを

受け止められなくなった。


おじいちゃんは、

その一文を見て言った。


「ええな。

 将来のお題ができた」


さおりは、

苦笑いした。


「題名ができる前に、

 社会が大変なんですけど」


おじいちゃんは答えた。


「大変な時ほど、

 題名をつけるんじゃ。

 名前をつけんと、

 人間は怖さを

 見られんからのう」


■第五章 

 ゴミ袋ではなく、

 火が消えかけていた


ニュースでは、

指定ゴミ袋の品薄が

取り上げられていた。


ナフサ不足。

ポリエチレン。

印刷用インキ。


自治体指定袋。

購入制限。


さおりは言った。


「ゴミ袋がないと困るね」


ひろしはうなずいた。


「困る。

 でも、

 本丸はそこじゃない」


「本丸?」


「袋があっても、

 収集車が来なければ

 ゴミは残る。

 収集車が来ても、

 焼却炉に

 火がつかなければ

 燃えない」


おじいちゃんが続けた。


「生ゴミは水を含んどる。

 水を燃やすには熱がいる。

 熱を安定させるには、

 重油やガスがいる」


さおりは、

納豆パックを思い出した。


豆でできているように

見えて、

容器も、

タレ袋も、

フィルムも、

石油の都合でできている。


でも、

容器が減れば終わりではない。


食べ残し。

水分。

生ゴミ。

汚泥。


生きている限り、

出るものがある。


ひろしは言った。


「納豆パックがなくなっても、

 うん●は出る」


さおりは頭を抱えた。


「ひろしさん、

 だんだん言葉が

 直接的になってきた」


おじいちゃんは笑った。


「直接でええ。

 国が遠回しに

 言いすぎるから、

 みんな危機に

 気づかんのじゃ」


ひろしはノートに書いた。


ゴミ袋ではなく、

火が消えかけていた。


その一文を見て、

さおりは黙った。


これは、

袋の話ではなかった。


都市が、

自分の汚れを燃やす力を

失い始めている話だった。


■第六章 

 生ゴミが腐り始めた町


最初に気づいたのは、

人間ではなかった。


カラスだった。


北都宮市の住宅街。

朝のゴミ置き場に、

黒い袋が積まれていた。


いつもなら

午前九時には収集車が来る。

けれど、その日は来なかった。


十時。

十一時。

正午。


袋はそのまま。

五月の太陽が、

黒い袋を温める。


中の生ゴミが、

ゆっくり発酵し始める。


最初は、

少し酸っぱい匂いだった。


次に、

濡れた雑巾のような匂い。


そのあと、

魚の内臓と

古い油が混ざったような、

鼻の奥へ貼りつく

匂いになった。


カラスが一羽、

電線から降りてきた。


くちばしで袋を突いた。

小さな穴が開いた。


そこから、

餃子の皮。

魚の骨。

納豆パック。

茶色い汁。

白く濁った水分。


それが、

アスファルトの上へ流れた。


主婦がベランダから叫んだ。


「ちょっと!カラス!」


でもカラスは逃げなかった。


逃げる必要がなかった。


人間のシステムの方が、

先に逃げ始めていたからだ。


夕方、

自治体ホームページに

お知らせが出た。


「燃料供給の不安定化

 および

 処理施設の混雑により、

 可燃ゴミの収集に

 遅れが生じています。

 生ゴミの水切り、

 排出抑制に

 ご協力ください。


ご協力。


その柔らかい言葉の下で、

町は腐り始めた。


さおりは

ニュースを見ながら言った。


「これ、怖い。

 爆発してないのに、

 生活が腐っていく」


おじいちゃんは答えた。


「そうじゃ。

 戦争は火薬だけで

 来るんじゃない。

 生ゴミの匂いで

 来ることもある」


ひろしは、

その言葉をノートに書いた。


■第七章 

 ごみは友情では燃えない


北都宮市の異変は、

周辺自治体へ広がり始めた。


汚泥を受け入れてほしい。

焼却灰だけでも。

脱水ケーキだけでも。

生ゴミだけでも。


電話は、

埼玉県の

彩野市清掃センターにも

届いた。


所長は、

何度も同じ言葉を言った。


「申し訳ありません。

 市外からの

 受け入れはできません」


冷たい声だった。


でも、

所長は

冷たい人間ではなかった。


彩野市の焼却炉も、

すでにぎりぎりだった。


三基ある炉のうち

一基は修繕中。


燃料は高い。

生ゴミは重い。

軽油も不安定。


ここで他市の

汚泥を受け入れれば、

自分の市民の

ゴミが燃やせなくなる。


所長は、職員に言った。


「ゲートを閉めろ」


若い職員が驚いた。


「本当に?」


「本当にだ」


「でも、困ってるんですよ、

 向こうも」


所長は、苦しそうに言った。


「うちも困っとる」


ゲートが閉まった。


その音は小さかった。


けれど、その小さな音は、

助け合いの

終わりの音でもあった。


ひろしはニュースを見て、

小さく言った。


「ごみの鎖国……」


おじいちゃんが続けた。


「ごみは友情では燃えん。

 汚泥は善意では乾かん」


さおりは、

しばらく黙っていた。


そして言った。


「助け合いって、

 余裕がある時の

 言葉なんだね」


誰もすぐには

答えられなかった。


■第八章 

 練馬、午前七時二十一分


東京へ戻った翌朝。


練馬のマンションで、

さおりは

トイレの音に気づいた。


ゴボリ。


便器の奥から、

低い音がした。


最初は気のせいだと思った。


けれど、

二度目に流した時、

音は大きくなった。


ゴボゴボゴボ。


まるで、

下の方で誰かが

苦しそうに息をしている

ようだった。


「ひろしさん」


「ん?」


「トイレ、変」


ひろしは、

すぐに立ち上がった。


スマホを見ると、

管理組合アプリに

通知が来ていた。


「緊急連絡

 下水本管の

 流下能力低下により、

 一部住戸で

 排水音・逆流兆候が

 確認されています。

 不要不急の排水、洗濯、

 浴槽排水を

 お控えください」


さおりは、

通知の文字を見て固まった。


「不要不急の排水って

 ……何?」


ひろしは答えられなかった。


SNSでは、

ハッシュタグが流れていた。


✲トイレを流すな

✲練馬ゴボゴボ

✲出口がない国


誰かが書いていた。


俺たち、

毎日どこに流してたんだ?


さおりは、

便器の水面を見つめた。


家賃二十万円のマンション。

床暖房。

宅配ボックス。

オートロック。

眺めのいいベランダ。

最新のシステムキッチン。


その全部が、

一本の土管に

負けようとしていた。


さおりはつぶやいた。


「私たち、

 部屋に家賃を払ってると

 思ってたけど、

 本当は土管にも

 払ってたんだね」


ひろしは、

その言葉をノートに書いた。


どんなに高級なタワマンも、

最後は一本の

土管でつながっている。


■第九章 

 垂直の地獄


マンションの掲示板に、

新しい紙が貼られた。


「全住戸へ

 排水制限のお願い」


お願い。


その言葉は、

いつもより薄っぺらく見えた。


上の階では、

まだ誰かが

洗濯機を回していた。


別の階では、

浴槽の水を抜いていた。


子どもがトイレを流した。


すると、

下の階の住戸で、

排水口から

黒い水が上がった。


最初は、

台所の排水口。


次に、

洗面台。


そして、

トイレ。


マンションは

縦に暮らす場所だった。


けれど下水が詰まると、

それは縦に地獄を作る

装置になる。


上が流せば、

下が受ける。


誰かの普通が、

誰かの床へ逆流する。


管理会社の電話は

つながらない。


廊下には、

除菌スプレーを持った

住民が立っている。


ドラッグストアから、

簡易トイレが消えた。


消臭剤も消えた。

猫砂も消えた。

ペットシーツも消えた。


SNSには、

怒りと恐怖と冗談が

混じった投稿が並んだ。


✲東京でキャンプ生活始まった。

 ただし部屋の中。


✲タワマン買ったら、

 下水の優先順位も

 買えると思ってた。


✲うん●が民主主義すぎる。

 みんな平等に困る。


さおりはスマホを閉じた。

笑えなかった。


ひろしは静かに言った。


「これが、

 出口がないってことなんだ」


おじいちゃんは、

窓の外の東京を見ていた。


「地獄いうんは、

 火の海だけじゃない。

 流れない水と、

 腐った生ゴミと、

 閉まらない

 トイレのふたでも来る」


■第十章 

 入口の栗田、出口の月島


その日の午後、

おじいちゃんは、

ひろしのノートに

二つの名前を書いた。


栗田工業

月島ホールディングス


「ひろし君。

 ここから先は、

 企業名も見た方がええ」


「企業名?」


「日本経済には、

 入口を守る会社と、

 出口を守る会社がある」


おじいちゃんは、

まず栗田工業を指した。


「栗田は、入口の水じゃ。

 水処理薬品。

 水処理装置。

 超純水。

 工場水。

 排水処理。

 半導体も食品工場も薬も、

 ちゃんとした水がなければ動かん」


ひろしは言った。


「水を、

 使える水にする会社」


「そうじゃ」


おじいちゃんは、

次に

月島ホールディングスを

指した。


「月島は、

 出口の泥じゃ。

 下水汚泥を脱水し、

 乾かし、焼き、

 バイオガスを取り、

 資源に戻そうとする。

 派手じゃない。

 でも国の腹を支えとる」


さおりが言った。


「株の話ですか?」


おじいちゃんは首を振った。


「株だけの話じゃない。

 日本の骨の話じゃ」


ひろしは、

二つの名前を見つめた。


入口と出口。


水を使えるものにする会社。


使った後の水と泥を、

もう一度社会へ戻す会社。


先日、

ひろしは

水の会社を選ぼうとした。


でも今回、

その意味が深くなった。


水は入口だけではない。

出口まで見なければ、

社会は理解できない。


おじいちゃんは言った。


「株式市場は、

 いつも入口に拍手する。

 広告、IT、金融、消費。

 でも本当に国を支えるのは、

 出口で泥をかぶる

 会社なんじゃ」


■第十一章 

 美果は、

 泥の前で笑っていた


ひろしは、

月島系の水環境会社の

説明会に参加した。


場所は、

下水処理場の見学施設。


案内に出てきた女性を見て、

ひろしは少し驚いた。


美果。


五十歳。

白いヘルメット。

作業着。

顔色は少し青白い。


けれど、

目だけは妙に明るかった。


「ようこそ。

 ここが、

 都市の出口です」


美果は笑って言った。


誰かが苦笑した。

美果は気にしない。


「臭いでしょう?」


誰も答えなかった。

美果はさらに笑った。


「でもね、

 未来はだいたい、

 臭い場所にあるんです」


ひろしは、

その言葉に引っかかった。


見学コースでは、


汚泥脱水機、

乾燥設備、

焼却炉、

消化タンク、

バイオガス設備、

発電機、

リン回収の実験装置


が並んでいた。


美果は、

一つ一つ説明した。


難しい言葉で逃げない。


でも、

気持ち悪さもごまかさない。


「汚泥は、水分が多い。

 だから重い。

 燃やしにくい。

 運びにくい。

 放っておくと腐る。

 つまり、

 都市の本音みたいな

 ものです」


ひろしは聞いた。


「本音?」


美果はうなずいた。


「きれいな顔をしている

 町ほど、

 裏側で

 重いものを抱えてます」


その言葉は、

ひろし自身にも刺さった。


■第十二章 

 元気なふりはする。

 でも元気な人間ではない


見学のあと、

ひろしとさおりは、

美果と少し話す機会を得た。


自動販売機の前。


美果は缶コーヒーを買った。


手袋を外す手が、

少し震えていた。


さおりが気づいた。

でも何も言わなかった。


美果は自分から言った。


「私、

 抗がん剤を打ちながら

 働いてるのね…」


ひろしは言葉を失った。


さおりも、

すぐには返事が

できなかった。


美果は

困ったように笑った。


「そんな顔しないで。

 かわいそうな人を

 やってる暇はないの。

 この町の汚泥、

 今日も増えてるから」


ひろしは、

胸の奥がぎゅっとなった。


美果は続けた。


「私は

 元気なふりはする。

 でも、

 元気な人間ではないのよ」


さおりが小さく言った。


「隠さないんですね」


「隠しきれないものは、

 隠さない方が楽なの」


美果は、

処理場の方を見た。


「汚泥も病気も、

 見ないふりをすると

 悪くなる。

 受け止めて、

 処理して、

 少しでも

 次に回すしかない」


ひろしは、

その言葉に動けなくなった。


美果は、

ひろしの顔を見て言った。


「あなた、就職活動中?」


「はい」


「前の会社で、

 少し傷ついた顔をしてる」


ひろしは、

思わず目を伏せた。


美果は責めなかった。


「大丈夫。

 傷ついた人は、

 壊れそうな場所に

 気づけるから」


ひろしは初めて、

自分の弱さが、

別の形に見えた。


■第十三章 

 メタンは、

 泥の中で眠っていた


美果は、

ひろしたちを

消化タンクの前へ

連れて行った。


巨大な丸いタンク。


中では、

汚泥と有機物が

発酵している。


「ここで

 メタンガスが出ます」


美果は言った。


ひろしが聞いた。


「生ゴミも

 混ぜられるんですか?」


「条件が合えばね。

 生ゴミは

 焼却炉では厄介者。

 水分が多いから、

 燃やすのに

 エネルギーを食う。

 でも発酵槽では、

 燃料の卵になる」


さおりが言った。


「燃やすんじゃなくて、

 発酵させる」


「そう。

 重油で燃やすだけの時代は、

 もう限界に来てる」


美果は、

発電機の方を指した。


「メタンガスで発電する。

 余った熱で乾燥を助ける。

 リンを回収して

 肥料にする。

 汚泥を捨てるものではなく、

 地域の資源として扱う」


ひろしはノートに書いた。


メタンは、

泥の中で眠っていた。


美果はそれを見て笑った。


「詩人ね」


「いえ、パズルです」


「パズル?」


「はい。

 汚泥、生ゴミ、

 重油、肥料、電気。

 全部バラバラに見えて、

 本当は一枚の絵になる

 気がします」


美果は静かにうなずいた。


「いい目ね。

 この仕事に

 向いてるかもしれない」


ひろしは、

少しだけ背筋が伸びた。


■第十四章 

 蜘蛛の糸は、

 処理場の奥に垂れていた


北都宮市で、

小さな実証事業が始まった。


すべてを救うものではない。


町全体の汚泥を、

一気に資源化できる

わけでもない。


でも、

確かに動き出した。


生ゴミと汚泥の一部を、

混合メタン発酵へ回す。


発生したガスで、

処理場内の発電機を回す。


余った熱で、

汚泥の乾燥を助ける。


回収したリンは、

地元農家の試験圃場へ運ばれる。


それは、

天国への階段というには、

あまりにも細かった。


豪華な階段ではない。

黄金の橋でもない。


どちらかと言えば、

蜘蛛の糸だった。


泥の上に垂れた、

細い細い糸。


でも、

それをつかまなければ、

町は沈む。


美果は言った。


「非常口ってね、

 明るい正面玄関には

 ないの。

 だいたい、

 暗くて臭くて、

 誰も行きたがらない

 場所にあるのよ」


ひろしは、

発電機の低い音を聞いた。


それは、

派手な希望ではなかった。


花火のような音でもない。


でも、

確かに灯っていた。


生ゴミと汚泥から、

町の電気が

少しだけ戻ってきている。


さおりが言った。


「うん●を流すだけで、

 町の電気が

 少し灯るんですね」


美果は笑った。


「言い方は強いけど、

 まあそうね」


おじいちゃんは、

発電機を見ながら言った。


「株式市場は、

 こういう音を

 まだ聞いとらん」


ひろしが聞いた。


「この音、

 何に聞こえますか?」


おじいちゃんは答えた。


「日本が、

 出口から立ち直る音じゃ」


■第十五章 

 出口から立ち直る国


冬の初め。


ひろしは、

美果の会社に入社した。


正式には、

水環境インフラの

技術営業

兼プロジェクト管理。


自治体と技術者の

間に立つ仕事。


現場の言葉を、

役所の計画に変える仕事。


数字を、

人が動ける

地図に変える仕事。


派手ではない。

スーツも泥で汚れる。

会議室では

難しい顔をされる。

現場では

機械音に声を消される。


でも、

ひろしには

不思議と怖くなかった。


ここには、

異音を聞く意味があった。


練馬の夜。


さおりとひろしは、

マンションの

ベランダに立っていた。


東京は、

前より少し暗かった。


店は早く

閉まるようになった。

配送は少し遅くなった。

航空券は高くなった。

何でもすぐ届く

日本ではなくなった。


でも、

ひろしには、

その暗さの中に、

前より確かな光が見えた。


水処理場。

下水ポンプ。


ゴミ焼却場。

汚泥資源化施設。


町工場。

倉庫。

農地。

学校の屋根。

ビルの壁。


見えなかった場所に、

日本の非常口があった。


さおりが言った。


「日本は、

 もう便利な国じゃ

 なくなるのかな」


ひろしは少し考えた。


「便利な国では、

 なくなるかもしれない。

 でも、

 止まらない国には

 なれるかもしれない」


おじいちゃんが、

後ろから言った。


「その通りじゃ」


いつの間にか、

おじいちゃんも

ベランダに来ていた。


「入口を増やす時代は

 終わった。

 これからは出口を作れる

 人間が強い」


ひろしのスマホに、

美果からメッセージが届いた。


明日、また現場。

無理せず、でも逃げずに。

未来は、

誰も見たくなかった場所から

始まるのよ。


ひろしは、

その画面を

さおりに見せた。


さおりは微笑んだ。


「美果さんらしいね」


東京の夜は、

少し静かだった。


でも、その静けさは、

終わりの静けさでは

なかった。


足元から、

何かを組み直している

静けさだった。


ひろしは、

ノートの最後にこう書いた。


日本は、

約束の時間に

来なくなった。


そして、

流したものを

受け止められなくなった。


けれど、そこで初めて、

出口を作る仕事に

光が当たった。


処理場の朝は、

株式市場より早く始まる。


ひろしは、

その朝へ向かって

歩き始めた。


………


❥Z世代のあなたへ


ここまで

読んでくれてありがとう。


この話は、

少し変な小説かもしれません。


餃子。

トイレ。

うん●。

生ゴミ。

汚泥。

重油。

栗田工業。

月島ホールディングス。

抗がん剤。

練馬のマンション。

就職活動。


普通なら、

ひとつの物語に

並ばない言葉ばかりです。


でも、

これからの日本では、

こういう言葉が

つながっていきます。


スマホは大事です。

AIも大事です。

ゲームも、

金融も、

広告も、

動画も、

もちろん大事です。


けれど、

トイレが流れなければ、

どれも

急に現実感を失います。


ゴミが回収されなければ、

町は臭います。


生ゴミが腐れば、

生活は一日で

地獄になります。


下水処理場が止まれば、

学校も会社も

病院も困ります。


重油が詰まれば、

焼却炉の

火が危なくなります。


軽油が詰まれば、

収集車もトラックも

動きにくくなります。


未来は、

キラキラした

入口だけでは守れません。


これから大事になるのは、

出口を作る仕事です。


水を使える水にする仕事。

使った後の水を

受け止める仕事。


汚泥を燃やすだけでなく、

ガスや肥料や

熱に変える仕事。


ゴミを遠くへ

運ぶのではなく、

地域で回す仕事。


地味です。


臭いかもしれません。

バズらないかもしれません。


でも、

止まった瞬間、

みんなが困る仕事です。


ひろしは、

強い人間ではありません。


一度、会社で傷つきました。

就職活動も怖かった。

でも彼は、

弱いからこそ、

社会の弱い場所に

気づきました。


美果は、

抗がん剤を打ちながら

働いています。


元気なふりはするけれど、

元気な人間ではない。


それでも、

今日も現場に立ちます。


なぜなら、

都市の出口は、

誰かが守らなければ

ならないからです。


あなたがもし、

自分は弱いと

思っているなら、

それは終わりでは

ありません。


弱い人は、

弱い場所に気づけます。


異音を聞けます。


壊れる前の

小さな揺れを感じられます。


その力は、

これからの日本で、

とても大切になります。


非常口は、

明るい正面玄関にあるとは

限りません。


暗くて、

臭くて、

誰も行きたがらない場所に

あるかもしれません。


でもそこに、

次の仕事があります。

次の希望があります。


未来は、

誰も見たくなかった

場所から始まります。


………


❥あとがき

 ホームズとワトソン、

 便器の前で考える


 ――やすきよ漫才風・

  笑いと涙の出口編――


✲ワトソン  


ホームズ、大変です!


✲ホームズ


どうした、ワトソン君。

また事件か?


✲ワトソン


事件です!

日本が、

うん●を燃やせません!


✲ホームズ


ワトソン君。

君は医師なのに、

言い方が小学生だな。


✲ワトソン


でも本質でしょう!


✲ホームズ


悔しいが、本質だ。


✲ワトソン


まさか、

重油の入札不調から

トイレに来るとは

思いませんでした。


✲ホームズ


人類の文明は、

いつも意外なところで

つながっている。

餃子、下水、重油、

ホルムズ海峡。


✲ワトソン


嫌な四点セットですね!


✲ホームズ


だが、見事な推理線だ。


✲ワトソン


普通の人は餃子を食べて、

「ああ、おいしい」

で終わりますよ。


✲ホームズ


ひろし君は違った。

彼には、

餃子の皿の向こうに、

下水処理場が見えた。


✲ワトソン


見えたくない!


✲ホームズ


だが見なければならない。

食べる自由には、

出す出口が必要なのだ。


✲ワトソン


名言みたいに言うな!

内容が便器寄りなのに!


✲ホームズ


便器こそ、

近代文明の玉座だ。


✲ワトソン


玉座って言うな!

もう座りにくいわ!


✲ホームズ


今回の本当の主役は

誰だと思う?


✲ワトソン


ひろしさん?


✲ホームズ


違う。


✲ワトソン


おじいちゃん?


✲ホームズ


違う。


✲ワトソン


美果さん?


✲ホームズ


もちろん

美果さんは大切だ。

だが、さらに奥にいる。


✲ワトソン


まさか……汚泥?


✲ホームズ


その通り。


✲ワトソン


汚泥が主役の小説、

嫌やなあ!


✲ホームズ


汚泥は証人だ。

我々がどれだけ

便利さを

他人任せにしてきたかを

証言している。


✲ワトソン


急に深い!


✲ホームズ


入口ばかり見ていた国は、

出口で現実を知る。


✲ワトソン


入口って、

ITとか金融とか広告とか?


✲ホームズ


そうだ。

そして出口とは、 

水、下水、ゴミ、

汚泥、修繕、保守だ。


✲ワトソン


地味ですね。


✲ホームズ


地味だから強い。


✲ワトソン


バズらないですね。


✲ホームズ


バズらないから必要だ。


✲ワトソン


でもホームズ、

美果さんは

すごかったですね。


✲ホームズ


ああ。

彼女は、

この物語の背骨だ。


✲ワトソン


抗がん剤を打ちながら、

処理場で笑っている。


✲ホームズ


強い人とは、

壊れない人ではない。

壊れそうな場所を

知りながら、

今日の仕事をする人だ。


✲ワトソン


……それは泣けますね。


✲ホームズ


ひろし君も同じだ。

彼は弱い。

だが、異音を聞ける。


✲ワトソン


異音?


✲ホームズ


機械も都市も人間も、

壊れる前に

小さな音を出す。

多くの人は聞き逃す。

だが、

傷ついた人間は、

その音に敏感だ。


✲ワトソン


弱さが

能力になるんですね。


✲ホームズ


その通り。


✲ワトソン


じゃあ僕の弱さも

能力になりますか?


✲ホームズ


君の場合は、

まず話を最後まで聞く能力を

身につけたまえ。


✲ワトソン


ひどい!


✲ホームズ


それもまた、異音だ。


✲ワトソン


僕自身が異音なんですか!


✲ホームズ


少し大きめの異音だ。


✲ワトソン


やかましいわ!


✲ホームズ


さて、今回の教訓だ。


✲ワトソン


はい。


✲ホームズ


栗田工業は

入口の水を守る。

月島ホールディングスは

出口の泥を引き受ける。

どちらも派手ではない。

だが、国の骨に近い。


✲ワトソン


入口と出口の

日本経済ですね。


✲ホームズ


そうだ。

そして、

この二つの間に、

我々の生活がある。


✲ワトソン


スマホも、

餃子も、

トイレも?


✲ホームズ


全部だ。


✲ワトソン


でも、

最後に希望があって

よかったです。

メタン発酵とか、

リン回収とか、

発電とか。


✲ホームズ


絶望だけでは、

人は動かない。

非常口が見えて、

初めて走れる。


✲ワトソン


非常口は、

どこにありました?


✲ホームズ


正面玄関ではない。

華やかなビルの

ロビーでもない。

処理場の奥、

泥の中、

誰も見たくなかった

場所にあった。


✲ワトソン


臭そうですね。


✲ホームズ


未来は、

少し臭いくらいが

ちょうどいい。


✲ワトソン


名言なのか、

暴言なのか分からない!


✲ホームズ


どちらでもよい。

大事なのは、

流したものの

先を見ることだ。


✲ワトソン


ホームズ、

最後に一言お願いします。


✲ホームズ


よろしい。

人間は、

食べることを文明にした。

けれど、

出すことを他人任せにした。

その他人が、

ある日、重油を買えなくなった。

そこでやっと、

私たちは気づいた。

未来は、

きれいな場所からだけ

始まるのではない。

処理場の奥。

泥の中。

病気を抱えて

笑う人の横顔。

傷ついた男が

聞き取った小さな異音。

そこからも、

未来は始まる。


✲ワトソン


……泣けますね。


✲ホームズ


うむ。


✲ワトソン


ただ、

場所が便器の前なのが

悔しいです。


✲ホームズ


それが人生だ、

ワトソン君。


✲ワトソン


人生、

流せませんね。


✲ホームズ


だから、

資源に変えるのだ。


✲ワトソン


最後まで

うまいこと言うなあ!


✲ホームズ


入口ばかり見ていた国よ。

そろそろ出口を見よ。

便器の先に、

まだ日本の未来は

残っている。


✲ワトソン


最低で、

最高の締めですね。


✲ホームズ


やっと分かったか。


✲ワトソン


はい。

未来は、

臭くても、

まだ燃える。


✲ホームズ


いや、

これからは発酵させるのだ。


✲ワトソン


そこ、細かい!


✲ホームズ


細部にこそ、文明は宿る。


(完)

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