日本は、約束の時間に来なくなった ――韓国のLINE、シンガポールの空、君が見つけた「止まらない国」の仕事――
✦日本は、約束の時間に
来なくなった
――韓国のLINE、
シンガポールの空、
君が見つけた
「止まらない国」の仕事――
………
ほんまに
怖い時代いうんは、
爆発音で始まるんやない。
ゴールデンウィークの朝、
韓国の友人から届いた、
たった一通の
LINEで始まるんじゃ。
「さおり、そっちはまだ
普通に工事してる?」
その一文を見た時、
日本はまだ、
観光地の顔をして
笑っとった。
けれど、
ひろしには見えた。
韓国のナフサ。
シンガポールの空。
欧州の欠航。
日本の地方空港。
軽油。
包装フィルム。
下水ポンプ。
3Dプリンター。
ペロブスカイトの壁。
そして、
就職活動中の自分。
全部が、
一枚のドミノに見えた。
倒れていくドミノと、
その下から立ち上がる、
もう一つのドミノ。
………
★目次
■第一章
ゴールデンウィークの
LINE
■第二章
韓国の友人は、
ナフサという言葉を
使った
■第三章
シンガポールの空は、
まだ飛んでいた
■第四章
日本は、
まだ観光地の顔を
していた
■第五章
空港の床下貨物が
痩せる
■第六章
“明日届く”が、
明日ではなくなる
■第七章
ひろしのノートに、
二つのドミノが並んだ
■第八章
家は建っていた、
けれど直せなかった
■第九章
送料無料という
魔法が解けた
■第十章
◯進工具
――日本を削り直す
小さな刃物
■第十一章
◯水化学
――ビルの壁が、
発電所になった日
■第十二章
三つの会社、
三つの未来
■第十三章
ひろしは、
水の会社を選んだ
■第十四章
面接で初めて、
自分の言葉が出た日
■第十五章
約束の時間に
来なくなった日本で
❥Z世代のあなたへ
――非常口は、
バズらない場所にある
★あとがき
ホームズとワトソンの、
やすきよ漫才風締め
………
■第一章
ゴールデンウィークのLINE
ゴールデンウィークの朝、
東京はまだ
平和な顔をしとった。
テレビでは、
空港の出国ラッシュを
映しとる。
キャスターは笑顔で言う。
「今年の
ゴールデンウィークも、
各地の観光地は
大変なにぎわいです」
練馬区のマンションで、
さおりは
その声を聞きながら、
冷めかけたコーヒー
を飲んどった。
家賃は月二十万円。
ゲーム翻訳の仕事で、
さおりの年収は六百万円。
数字だけ見れば、
東京でも悪くない。
けど、
夫のひろしは四十歳。
前の会社で心を削られ、
今は就職活動中じゃった。
つまり六百万円は、
余裕の数字やなかった。
まだ沈んでいない証拠
ぐらいの意味しかなかった。
その時、スマホが震えた。
韓国の友人からだった。
さおりが
オーストラリアの
日本語学校に
三年通っていた頃、
同じクラスで
知り合った友人だ。
さおりは何気なく開いた。
そこには、
こう書かれていた。
「さおり、
そっちはまだ
普通に工事してる?」
さおりは、
その一文を
しばらく見つめた。
普通に工事してる?
なんでもない言葉なのに、
妙に怖かった。
続けて、もう一通。
「こっちは
断熱材が入りにくいって。
ナフサ不足で、
来月から現場が
止まるかもしれん」
ナフサ。
友達とのLINEに、
そんな言葉が出てくる日が
来るとは思わんかった。
さおりは振り返った。
「ひろしさん」
「ん?」
「韓国の友達が、
ナフサって言っとる」
ひろしは箸を止めた。
朝食の納豆が、
急に別のものに見えた。
豆でできとるように見えて、
容器も、タレ袋も、
フィルムも、
石油の都合でできとる。
テレビではまだ、
観光地が笑っとる。
でもスマホの中で、
世界は少しずつ
違う音を立て始めとった。
ひろしは言うた。
「それ、たぶん最初の音だ」
「何の?」
「日本にも来るドミノの音」
■第二章
韓国の友人は、
ナフサという言葉を使った
韓国の友人は、
さらに詳しくLINEしてきた。
✲「韓国は原油の約六割、
ナフサ輸入の
約五割以上を、
ホルムズ海峡に関係する
ルートに頼っとるらしい。
政府は代替ルートから、
原油二億七千三百万バレルを
確保した、
というニュースも
流れとるという」
さおりは
その数字を読み上げた。
「二億七千三百万バレルって、
すごい量よね」
ひろしはうなずいた。
「すごい量じゃ。
でもな、
政府がそんな数字を
言い始めた時点で、
もう市場任せでは
危ないってことなんよ」
韓国の友人の LINE は続く。
「政府が
石化原料の買いだめを
禁止したって。
エチレン、プロピレン、
ブタジエン、ベンゼン……
普通の人が
こんな言葉を
聞くようになった」
ひろしは
黙ってノートを開いた。
エチレン。
プロピレン。
ブタジエン。
ベンゼン。
トルエン。
キシレン。
それは、
化学の教科書の
言葉やなかった。
食品トレー。
ゴミ袋。
断熱材。
防水材。
タイヤ。
塗料。
接着剤。
医療用チューブ。
生活の形そのものを作る、
透明な骨じゃった。
ひろしはノートに書いた。
ガソリンより先に、
透明なものが痩せる。
さおりが言うた。
「韓国って、
半導体は強いんでしょ?」
「強い。
だから余計に怖い」
「どういうこと?」
「心臓は強いのに、
足元が痩せるんよ」
韓国はまだ倒れていない。
半導体は走っとる。
輸出の数字も強い。
けど、
建設現場では
断熱材が足りない。
道路では
アスファルトが二割、
三割上がる。
工場では
ナフサの在庫を数えている。
政府は
原料の買いだめを
監視し始めた。
ひろしは言うた。
「韓国は、
日本の未来を
少し早く映しとる
鏡かもしれん」
さおりはスマホを伏せた。
テレビの中では、
新幹線のホームで
子どもが笑っとる。
でも、
ひろしには
その笑顔の奥に、
まだ見えない部品不足の
影が見え始めとった。
■第三章
シンガポールの空は、
まだ飛んでいた
昼前、今度は
シンガポールの友人から
LINEが来た。
さおりが
学生時代に知り合った、
航空会社に勤めている
友人じゃ。
「最近、
チャンギが
すごく混んでる」
シンガポールの
友人からのLINEに、
さおりは首をかしげた。
「チャンギって、何?」
ひろしが
スマホをのぞき込んだ。
「シンガポールの空港。
チャンギ空港。
アジアの巨大な
乗り換え駅みたいな
場所だよ」
日本人にとって空港は、
旅の始まりか、
旅の終わりに見える。
けれど
シンガポールにとって
空港は、
世界中の人と
荷物が通り過ぎる、
空の交差点だった。
友人のLINEは続く。
「ヨーロッパから来る人が
増えてる。
中東の空港を避けて、
シンガポールで
乗り継ぐ人が多い。
航空会社も、
燃料がちゃんと読める
空港を選び始めてる感じ」
さおりは言った。
「日本は
人気の旅行先なのに?」
ひろしは静かに答えた。
「人気があることと、
飛行機が寄りやすいことは
別なんだ」
「どういうこと?」
「日本は目的地。
でも
シンガポールは通過点。
飛行機が燃料を入れて、
人を乗り換えさせて、
荷物を積み替えて、
また次へ飛べる場所なんだ」
さおりは、
少しだけ表情を曇らせた。
「目的地より、
通過点の方が
強い時代になるの?」
「燃料が不安な時代には、
そうなる。
飛行機は、
行きたい場所じゃなくて、
飛び続けられる場所を
選ぶからね」
さおりは
画面を見たまま言うた。
「シンガポールって、
やっぱり強いんかな」
ひろしは検索を始めた。
シンガポール。
チャンギ空港。
石油精製。
航空燃料。
SAF。
ハブ機能。
金融。
港湾。
ひろしは言うた。
「日本は目的地なんよ」
「目的地?」
「うん。
来てもらわんと稼げん。
でもシンガポールは
通過点でも稼げる」
さおりは少し黙った。
「つまり、日本は旅行先。
シンガポールは交差点」
「そう。
危機の時は、
交差点が強い」
航空会社にとって、
空港は景色で選ぶ
場所ではない。
燃料があるか。
値段が読めるか。
整備できるか。
乗り継ぎ客がいるか。
貨物を積めるか。
政府の対応が早いか。
シンガポールは、
それを国全体で作っとる。
一方、日本は美しい。
食べ物もうまい。
治安もいい。
温泉もある。
アニメもゲームも文化もある。
けど、遠い。
遠いということは、
燃料を食うということじゃ。
ひろしはノートに書いた。
燃料が高い時代、
遠いことは罪になる。
さおりは窓の外を見た。
東京の空は青かった。
でもその青空に、
飛んで来るはずだった
欧州の飛行機が、
少しずつ少なくなっていく
未来が見えた気がした。
日本は、
世界に選ばれる
観光地だった。
けれどシンガポールは、
世界の飛行機が
止まりたがる場所だった。
■第四章
日本は、
まだ観光地の顔をしていた
テレビは
相変わらず明るかった。
「訪日外国人で、
浅草は
大変なにぎわいです」
「円安を背景に、
インバウンド消費が
好調です」
映像の中で、
外国人観光客が
抹茶アイスを持って
笑っとる。
さおりは言うた。
「これだけ見ると、
日本ってまだ強そうよね」
ひろしはうなずいた。
「うん。需要はある」
「じゃあ大丈夫?」
「違う。
需要があることと、
来られることは別なんよ」
日本は円安で安い。
料理もうまい。
安全。
清潔。
コンビニも便利。
電車も時間通り。
でも航空券が高くなると、
話は変わる。
ヨーロッパから来る
観光客にとって、
日本のラーメンが千円でも、
飛行機代が
何十万円も上がれば、
日本は安い国ではなくなる。
中は安いが、
行くまでが高い国。
ひろしは、そう書いた。
観光地は
すぐには困らない。
予約も残っとる。
ホテルも埋まっとる。
けど、次の予約が鈍る。
欧州の長期滞在客が減る。
高単価の客が減る。
地方へ足を伸ばす
客が減る。
人数は残る。
でも厚みが消える。
さおりは言うた。
「客数はあるのに、
利益が薄くなる
ってこと?」
「そう。
店もホテルも、
光熱費と人件費と
食材費が上がっとる。
そこへ
高いお客さんが減る」
「しんどいね」
「しんどい。
でも最初は
数字に出にくい」
ひろしはテレビを消した。
静かになった部屋で、
スマホだけが光っとった。
日本はまだ、
観光地の顔をしていた。
けれど、その顔の下で、
飛行機代と燃料代と
貨物枠が、
少しずつ
表情を変え始めとった。
■第五章
空港の床下貨物が痩せる
ひろしは、
航空会社のニュースを
読み始めた。
✲「欧州では、
ジェット燃料の高騰で、
長距離便一人あたり
百ドル以上のコスト増
という分析もある。
ルフトハンザは、
十月までに
短距離便を中心に
約二万便削減するという。
KLMも欧州内便を
百六十便減らす」
数字は大きい。
けれど、
ひろしが見ていたのは
乗客ではなかった。
床下貨物だった。
旅客機の下には、
人のスーツケースだけが
入っとるわけではない。
医薬品。
検査試薬。
半導体部材。
欧州製の工作機械部品。
補修用の小さなネジ。
高級食材。
研究用の特殊材料。
人が乗る飛行機が減ると、
その下の荷物も減る。
さおりは言うた。
「飛行機が減るって、
旅行だけじゃないんだ」
「うん。
工場や病院の血管が細る」
「血管?」
「そう。
大きな船は大動脈。
飛行機の床下貨物は
毛細血管」
小さな部品は、
船では遅すぎることがある。
試薬は、
温度管理がいることがある。
補修部品は、
一日遅れるだけで
工場が止まることがある。
さおりは言うた。
「たった一個の部品で?」
ひろしはうなずいた。
「たった一個で」
ひろしはノートに書いた。
一便減るとは、
観光客が減ることではない。
病院の小箱が遅れ、
町工場のネジが
届かなくなることだ。
その時、
ひろしはふと思った。
自分も、
社会のどこかで
遅れていた部品みたいな
ものかもしれない。
前の会社では、
うまくはまらなかった。
でも、
別の機械なら、
まだ必要とされるのかも
しれない。
■第六章
“明日届く”が、
明日ではなくなる
さおりがネット通販で、
浄水器の替えフィルターを
注文しようとした。
画面には、こう出ていた。
在庫あり。
最短明日お届け。
さおりは少し安心した。
けれど次の画面で、
表示が変わった。
✲「一部地域で配送遅延が
発生しています。
配送日時は
確定後に
お知らせします」
「ひろし、これ見て」
ひろしは画面を見て、
小さく笑った。
「出たな」
「何が?」
「デジタルと物理のズレ」
スマホの中では、
何でもある。
在庫もある。
ボタンも押せる。
決済も通る。
でも現実には、
梱包材がいる。
倉庫で人が動く。
トラックが走る。
軽油がいる。
高速道路を通る。
配送員が届ける。
どこか一つが詰まれば、
“明日”は明日ではなくなる。
ひろしは言うた。
「昔は棚が空なら
危機が分かった。
今は画面に
商品があるから、
危機が見えにくい」
さおりは画面を閉じた。
「画面の中だけ、
まだ便利なんだ」
ひろしは
その言葉をノートに書いた。
画面の中だけ、
日本はまだ便利だった。
“明日届く”という言葉は、
日本人にとって、
ほとんど空気のような
約束だった。
けれど、
その約束は、
トラックの軽油と、
倉庫の人手と、
空港の貨物枠と、
包装フィルムの
上に立っていた。
便利さは、
アプリの中に
あるのではなかった。
便利さは、
物理でできていた。
■第七章
ひろしのノートに、
二つのドミノが並んだ
ひろしはその夜、
ノートを広げた。
最初のページに、
こう書いた。
日本は沈没するのではない。
約束の時間に来なくなる。
そこから、矢印を引いた。
✲欧州ジェット燃料高騰
→航空会社の減便
→日本便の高額化
→欧州インバウンド鈍化
→航空貨物の床下縮小
→医薬品・部品の遅延
→韓国のナフサ不足
→包装フィルム・断熱材・
塗料不足
→建設・修繕の遅れ
→軽油高
→物流回数減少
→まだら欠品
→時間格差
→政府の配分
→株価と生活実感の乖離
さおりは横から見て言うた。
「それ、経済の地図?」
「うん。
でも就職の地図でもある」
「就職?」
「これを見ると、
これから必要になる
仕事が見える」
ひろしは失業中だった。
いや、正確には、
心が折れてから、
自分を失業者と
呼ぶことすら怖かった。
求人を見ると、
胸が苦しくなる。
面接を考えると、
前の職場の会議室を
思い出す。
「普通ここ気づくよね」
お局さんの低い声が、
まだ耳の奥に残っとる。
けれど、
ノートの中のドミノを
見ている時だけ、
ひろしの呼吸は少し整った。
自分の不安が、
社会の不安とつながる。
それは
怖いことでもあったが、
同時に、
道が見えることでもあった。
ひろしは、
もう一つの線を引いた。
赤い線ではない。
青い線だった。
✲修繕
✲再生
✲水
✲下水
✲倉庫
✲発電
✲地域エネルギー
✲3Dプリンター
✲遠隔保守
✲無人農機
✲小さく高い部品
さおりが聞いた。
「それは?」
ひろしは言った。
✲「倒れた後に、
立ち上がる方のドミノ」
■第八章
家は建っていた、
けれど直せなかった
韓国の友人から、
またLINEが来た。
「アスファルトが
二割から三割
上がったって。
断熱材も、防水材も、
シーリング材も不安。
マンション工事、
延期になるかもしれん」
さおりは言うた。
「建設って、
鉄とセメントじゃないの?」
ひろしは首を振った。
「それだけじゃない」
家には、
断熱材がいる。
防水材がいる。
塩ビ管がいる。
接着剤がいる。
シーリング材がいる。
塗料がいる。
アスファルトがいる。
それらの多くは、
石油化学の世界と
つながっとる。
ナフサが詰まれば、
家も道路も
風呂もトイレも、
じわじわ詰まる。
ひろしは言うた。
「怖いのは、
新築が止まること
だけじゃない。
修理が
できなくなることだ」
「修理?」
「雨漏り。給湯器。風呂。
トイレ。配管。外壁。
壊れた時に、
部材がない。
職人が足りない。
燃料が高い。
それで待たされる」
さおりは、
自分たちの風呂場を見た。
何でもないユニットバス。
毎晩、
当たり前にお湯が出る。
それが、
急に高級品に見えた。
ひろしはノートに書いた。
家は建っていた。
けれど、直せなくなっていた。
古いものを大切に使う日本。
けれど、現代の古いものは、
世界中から届く
交換部品に支えられていた。
直せるということは、
部品が届く
ということだった。
そして、その前提が、
少しずつ崩れ始めていた。
■第九章
送料無料という
魔法が解けた
次に変わったのは、
送料だった。
さおりが
日用品を注文すると、
以前は無料だった配送に、
小さな文字がついた。
✲大型商品配送追加料金。
一部地域は
別途見積もり
さおりは
ため息をついた。
「なんか最近、
送料が増えたね」
ひろしは言うた。
「送料無料って、
魔法だったんだよ」
「魔法?」
「誰かが
軽油代を払ってた。
誰かが
人件費を削ってた。
誰かが
時間指定に追われてた。
それを、
無料って言ってただけ」
軽油が高い。
運転手が足りない。
荷物は増える。
地方は遠い。
低単価でかさばる商品は、
運ぶほど赤字になる。
すると物流会社は選ぶ。
利益の出る荷物。
大企業の荷物。
医療・重要部品。
都市部。
高い料金を払う客。
後回しになるのは、
安いもの。
大きいもの。
遠い場所。
急がないと見なされた荷物。
ひろしは言うた。
「これからは、
届く速さに階級ができる」
「時間格差?」
「そう。
お金がある人は早く届く。
地方や中小企業は
待たされる」
さおりは黙った。
それはただの
不便ではなかった。
同じ商品を注文しても、
東京の大企業には翌朝届く。
地方の町工場には三週間後。
ひろしは書いた。
貧しさとは、
お金がないことではなかった。
待たされることだった。
送料無料という
魔法が解けた時、
日本人は初めて、
自分が誰かの軽油の上で
生きていることを
知ることになる。
■第十章
◯進工具
――日本を削り直す
小さな刃物
最初の反撃の音は、
大きな工場では
鳴らなかった。
防衛企業の株価でもない。
AI企業の決算でもない。
巨大な港の
クレーンでもない。
北関東の、
古い町工場で鳴った。
キーン。
夜明け前の静かな工場に、
金属を削る高い音が響いた。
その音を鳴らしていたのは、
巨大な機械ではなかった。
親指ほどの部品を、
ミクロン単位で仕上げる、
一本の小さな刃物だった。
ケースには、
こう印字されていた。
✲◯進工具
(東京証券取引所に
上場している会社)
けれど、
一般の人は
ほとんど知らない。
◯進工具は、
スマホを作る会社ではない。
けれど、
スマホの中の
小さな部品を
作るための金型や、
その金型を
さらに正確に削るための
刃物を作っている。
つまり、
スマホの画面には
出てこない。
スマホの箱にも
名前は書かれない。
でも、
そのスマホが
生まれるずっと手前の、
工場の奥の奥で、
◯進工具の小さな刃は
回っている。
人が毎日触っている
スマホの中には、
目に見えないほど
小さな世界がある。
その小さな世界を作るには、
さらに小さく、
さらに硬く、
さらに正確な刃物がいる。
◯進工具は、
その刃物を作る会社だった。
スマホを作る会社ではない。
AIで世界を
変える会社でもない。
テレビCMで
名前を連呼する会社でもない。
作っているのは、
小さな小さな切削工具。
超硬小径エンドミル。
金属を削る刃物。
それだけ聞くと、
地味に聞こえる。
けれど、
ホルムズ海峡が沈黙し、
航空貨物が痩せ、
ドイツ製の部品が
届かなくなった時、
その小さな刃物の
意味が変わった。
それは、
ただの工具ではなくなった。
日本を
もう一度動かすための、
小さな鍵になった。
さて、
●●精密加工所は、
北関東の古い町工場だった。
かつては、
大手メーカーの下請けとして、
小さな金属部品を削っていた。
けれど、時代は変わった。
安い部品は海外から来る。
大量生産には勝てない。
息子は東京へ出た。
銀行は将来性がないと言った。
工場の奥には、
古い高精度旋盤と、
数年前に補助金で入れたまま、
ほとんど使われていなかった
金属3Dプリンターがあった。
工場主は、
いつも自分の工場を
見ながら思っていた。
「うちはもう、
時代遅れなんかもしれんな」
だが、
時代の方が急に戻ってきた。
ある日、電話が鳴った。
相手は、
精密検査装置を扱う
中堅メーカーだった。
声は焦っていた。
「ドイツ製の部品が
届かないんです。
航空便が減って、
納期未定で。
図面はありません。
現物だけあります。
作れますか?」
工場主は黙った。
昔なら断っていた。
図面がない。
材料も違う。
責任が重い。
採算も読めない。
だが今は違う。
新品は届かない。
輸入部品は未定。
ラインは止まりかけている。
その部品がなければ、
数千万円の検査装置が止まる。
検査装置が止まれば、
工場が止まる。
工場が止まれば、
納品が止まる。
納品が止まれば、
その先の病院も、
半導体工場も、
自動車部品工場も、
どこかで遅れる。
工場主は現物を手に取った。
親指の先ほどの、
小さな金属部品だった。
普通の人には、
ただの銀色の
かけらにしか見えない。
だが、
工場主には違って見えた。
これは部品ではない。
止まりかけた日本の歯車だ。
山辺は、
油の染みた作業着の袖で、
その小さな部品を拭いた。
そして言った。
「新品が届かんなら、
ここで作る。
それだけのことじゃ」
その夜、
町工場に
久しぶりに明かりがついた。
3Dスキャナーが、
部品の形を読み取る。
ソフトが、
曲線を再構成する。
金属3Dプリンターが、
薄い層を一枚ずつ重ねていく。
若い作業員は、
少し興奮していた。
「親方、
これで完成ですか?」
工場主は首を振った。
「形はできた。
でも、
まだ部品にはなっとらん」
「どういうことですか?」
「3Dプリンターは形を作る。
けど、
精密機械に入れるなら、
最後は削らんといけん」
金属3Dプリンターで
作った部品は、
見た目は似ていた。
だが、
表面はわずかに粗い。
穴の縁は少し甘い。
寸法は、
あとほんの少しだけ足りない。
その「ほんの少し」が、
精密機械の世界では
命取りになる。
一ミリではない。
一センチでもない。
ミクロンの世界。
髪の毛一本より細い差が、
数千万円の機械を止める。
工場主は
工具棚の奥を開けた。
そこに、
透明なケースに入った、
細い細い刃物があった。
✲◯進工具の小径エンドミル
若い作業員が聞いた。
「そんな細い刃で、
本当に削れるんですか?」
山辺は笑った。
「大きい刃物で
削れるもんは、
誰でも削れる。
けど
今の日本に必要なんは、
小さいもんを、
正確に削る力じゃ」
機械が動き出した。
キーン。
高く、細い音が、
夜の町工場に響いた。
それは、
力任せに金属を
削る音ではなかった。
金属の表面から、
髪より細い切りくずが、
静かに剥がれていく音だった。
◯進工具の小さな刃が、
3Dプリンターで
作った荒い形を、
使える部品へ変えていく。
最新技術と、
古い職人の手。
デジタルの形と、
アナログの仕上げ。
その真ん中で、
小さな刃物が回っていた。
工場主は
モニターの数値を見ながら
言った。
「よう見とけ。
日本の強さは、
でかいもんを
作ることだけじゃない」
若い作業員は、
機械の中を見つめた。
「じゃあ、何ですか?」
工場主は答えた。
「小さいもんを、
狂いなく作ることじゃ」
朝方、
最初の試作品ができた。
工場主は、
その部品を手のひらに乗せた。
親指の先ほどの、
小さな金属部品。
しかしその部品が、
止まりかけたラインを動かす。
そのラインが、
別の工場を動かす。
その工場が、
病院の検査装置や、
半導体の部材や、
自動車の安全部品に
つながっていく。
たった一つの部品。
たった一本の小さな刃物。
けれど、それがなければ、
日本のどこかで、
また一つ「未定」が
増えていた。
工場主は小さく笑った。
「海外に負けたんじゃない。
安さに負けとっただけじゃ」
………
ひろしは、
この記事を読んだ時、
しばらく画面から
目を離せなかった。
◯進工具。
聞いたことのない人には、
ただの地味な
工具会社に見える。
けれど、
ひろしには違って見えた。
この会社は、
ドミノの倒れた後に
出てくる会社だ。
新品が届かない時。
輸入部品が
未定になった時。
古い機械を
直さなければならない時。
3Dプリンターで
作った部品を、
本当に使える部品へ
仕上げる時。
その最後の最後に、
小さな刃物が必要になる。
ひろしはノートに書いた。
大きな船が止まった時、
日本を動かし直したのは、
小さな刃物だった。
さらに、もう一行。
重くて安いものを
運ぶ時代が終わるなら、
小さくて高くて、
正確なものを作る会社が、
日本の背骨になる。
さおりが
横からのぞき込んだ。
「◯進工具って、
そんなに大事なの?」
ひろしはうなずいた。
「表には出にくい。
でも、
こういう会社がないと、
町工場は
最後の仕上げができん」
「3Dプリンターがあれば
何でも
できるんじゃないの?」
「できない。
形は作れても、
精度は仕上げないと
出ない。
最後は削る。
そこに刃物がいる」
「小さい刃物が?」
「そう。
小さい刃物が、
大きな機械を救う」
さおりは少し笑った。
「なんか、
ひろしさんみたい」
「え?」
「目立たないけど、
最後のところで
必要になる感じ」
ひろしは
照れたように笑った。
でもその言葉は、
少しだけ胸に残った。
■第十一章
◯水化学
――ビルの壁が、
発電所になった日
東京では、
ビルの屋根と壁が
少しずつ変わり始めていた。
最初に変わったのは、
派手な超高層ビルの
ガラス窓ではなかった。
学校の体育館。
物流倉庫の金属屋根。
工場の折板屋根。
高速道路の管理施設。
自治体の避難所。
そういう、
ふだん誰も見上げない場所から
変化は始まった。
そこに、
薄い黒い
フィルムのようなものが
貼られていった。
それは広告でも、
目隠しでもなかった。
✲ペロブスカイト太陽電池
重たい太陽光パネルを
屋上に置けない建物でも、
曲がった面でも、
古い屋根でも、
建物の外皮に沿わせて
貼ることができる、
発電するフィルムだった。
その中心にいたのが、
東証プライム上場の
化学メーカー、
◯水化学だった。
もともとは、
住宅、樹脂、
インフラ材料で
知られた会社だった。
大きな油田を
持っているわけではない。
巨大な発電所を
持っているわけでもない。
けれど、
その会社が作っていた
薄い太陽電池フィルムは、
ホルムズ海峡が
詰まったあと、
ただの環境商品では
なくなった。
それは、
建物が
自分で電気を作るための
発電する皮膚になった。
昔は、
こう言われていた。
「まだ高い」
「耐久性が心配」
「本格普及は先」
「太陽光は
屋根に置くものでしょ」
「壁に貼っても、
そんなに発電できるの?」
けれど、
燃料が跳ね上がり、
電気代が上がり、
停電不安が出始めると、
その評価は変わった。
少し高くてもいい。
学校の体育館が、
災害時に
最低限の灯りを持てるなら。
物流倉庫が、
冷凍機を
少しでも長く動かせるなら。
工場の屋根が、
昼間の電力を
少しでも自分でまかなえるなら。
自治体の避難所が、
夜にスマホを充電できる
場所になるなら。
遠い海の向こうの燃料を
待つより、
自分の建物で
少しでも電気を作る方が、
はるかに
安心に見える時代になった。
ひろしとさおりは、
新宿のビル群を見上げていた。
昔の夜景は、
ただ明るかった。
広告看板が光り、
店は遅くまで開き、
ビルは外から来た燃料で
当たり前のように輝いていた。
けれど今の夜景は、
少し静かだった。
看板は減った。
24時間営業の灯りも減った。
それでも、
ビルの屋根や壁には、
昼間に集めた光を使った
控えめな明かりが灯っていた。
さおりが言った。
「前より暗いのに、
なんか安心するね」
ひろしはうなずいた。
「派手じゃないけど、
自分で光っとる
感じがする」
さおりは、
ビルの壁を見上げた。
「これって、
普通の
太陽光パネルとは違うの?」
ひろしは答えた。
「普通のパネルは重い。
屋根の強さもいる。
置ける場所も限られる。
でも、
このフィルム型は軽い。
貼れる場所が増える。
学校、倉庫、
工場、避難所。
今まで
発電所じゃなかった
建物が、
小さな発電所になれる」
「壁や屋根が、
電気を作るってこと?」
「そう。
建物が、
ただ電気を使う
箱じゃなくなる。
自分で少し作る箱になる」
それは、
日本にとって
小さな革命だった。
これまでの日本は、
遠い国から燃料を買い、
大きな発電所で電気を作り、
長い送電線で町へ届けてきた。
その仕組みは強かった。
けれど同時に、
遠い海峡に弱かった。
ホルムズ海峡が詰まる。
LNGが高くなる。
原油が高くなる。
タンカーが遅れる。
保険料が上がる。
発電コストが上がる。
すると、
東京の夜景まで、
遠い海の機嫌に左右される。
ひろしは言った。
「今までの日本は、
海の向こうの燃料で
光ってた。
でもこれからは、
屋根と壁で
少しずつ光を拾う
国になる」
さおりは、
小さく笑った。
「なんか、
地味だけど強いね」
「うん。
日本らしい強さかもしれん。
巨大な油田を
持つんじゃない。
でも、学校の屋根も、
工場の壁も、
倉庫の屋根も、
ぜんぶ少しずつ
発電所にしていく」
◯水化学のフィルムは、
万能の魔法ではなかった。
これだけで日本中の電気を
まかなえるわけではない。
夜は発電しない。
雨の日は弱い。
耐久性も、施工も、
コストも、
まだ課題はある。
けれど、
危機の時代に必要なのは、
一発で全部を解決する魔法
ではなかった。
必要なのは、
止まりにくくするための
小さな保険を、
社会のあちこちに
貼っていくことだった。
一枚のフィルム。
一つの屋根。
一つの体育館。
一つの倉庫。
一つの避難所。
それが集まれば、
国の弱さは少しずつ減る。
ひろしはノートを開いた。
そして書いた。
石油を買う力より、
電気を自分で作る力が、
国の信用になった。
さらに、もう一行。
ホルムズ海峡が詰まった時、
日本人はようやく気づいた。
エネルギーは、
遠い海の向こうだけに
あるのではない。
学校の屋根にも、
工場の壁にも、
まだ使われていない光が
眠っていたのだ。
さおりは、
その文字を見て言った。
「これ、
ひろしさんの
就職活動にも似てるね」
「え?」
「どこか遠くのすごい会社に
人生を預けるんじゃなくて、
自分の足元で、
少しずつ光を作る感じ」
ひろしは、
少し照れたように笑った。
たしかにそうかもしれない。
日本も、
ひろしも、
遠くの大きな答えを
待ちすぎていたのかもしれない。
でも本当は、
足元にまだ、
使っていない光が残っていた。
東京の夜は、
昔より少し暗い。
けれど、
その暗さの中に、
前より確かな光があった。
日本は、
遠くの油で光る国から、
自分の壁で光を集める国へ、
少しずつ変わり始めていた。
■第十二章
三つの会社、三つの未来
ひろしは
求人票を三つ並べた。
ひとつ目は、
非常用電源の会社。
病院、工場、
通信施設、自治体向けに、
発電機や蓄電池を
扱う会社だった。
「悪くない」
ひろしは言うた。
「停電不安が
出る時代には必要だ。
でも、
発電機だけだと
燃料がいる」
ふたつ目は、
冷凍冷蔵倉庫と
在庫管理の会社。
食品、医薬品、
部品を保管する。
非常用電源つきの
倉庫もある。
「これもいい」
ひろしは言うた。
「倉庫は
時間を貯める装置だ。
未来の不安を、
少し凍らせておける」
さおりは笑った。
「ひろしさん、
倉庫にまで
詩をつけるんだね」
「倉庫は詩だよ。
地味だけど」
三つ目は、
水処理と下水設備の
会社だった。
自治体の下水処理場。
ポンプ場。
汚泥処理。
非常用電源。
老朽設備の更新。
水処理設備の省エネ化。
災害時BCP。
ひろしは、
その求人票をじっと見た。
止まると困る。
毎日必要。
誰も拍手しない。
けれど、
止まれば都市が壊れる。
水。
下水。
ポンプ。
汚泥。
電気。
修繕。
老朽化。
自治体。
地域。
今まで整理してきた
プラスのドミノが、
全部ここに重なっとった。
さおりは聞いた。
「ひろしさんは、
どれがいいと思う?」
ひろしは長く黙った。
そして言った。
「水かな」
「水?」
「うん。
僕は、
上へ伸びる会社より、
下で支える会社に行きたい」
それは、
ひろしらしい答えだった。
■第十三章
ひろしは、水の会社を選んだ
ひろしは
応募書類を書き始めた。
会社名は、
◯◯水環境システム
株式会社。
実在の会社ではない。
水処理、下水、汚泥、
ポンプ、非常用電源、
自治体向け設備更新を扱う、
地味なインフラ会社だった。
求人職種は、
技術営業兼
プロジェクト管理。
派手な営業ではない。
自治体と現場技術者の
間に立ち、
古い設備の更新計画を組み、
災害時に止まらない
仕組みを提案する仕事だった。
ひろしは
理工学系の大学を出とる。
数字も読める。
資料も作れる。
複雑な情報を
一枚の地図にするのは
得意だった。
ただ、人間関係に弱い。
そこが不安だった。
前の会社で、
お局さんに削られた記憶が、
まだ体に残っとる。
出社前に吐いた朝。
眠れなかった夜。
「普通ここ気づくよね」
という低い声。
履歴書を書きながら、
ひろしの手が止まった。
「また壊れたらどうしよう」
さおりは、台
所から振り返った。
「壊れたんじゃないよ」
「え?」
「前の場所が、
ひろしさんに
合わなかっただけ
かもしれんよ」
ひろしは黙った。
さおりは続けた。
「派手な
会社じゃなくていい。
帰ってきた時に、
顔が壊れてない
会社にして」
その言葉で、
ひろしは少し
泣きそうになった。
志望動機欄に、
彼はこう書いた。
社会が
不安定になる時代に、
止まってはいけない
インフラを支える仕事に
関わりたい。
それは、
就職活動の言葉である
と同時に、
ひろし自身への
願いでもあった。
■第十四章
面接で初めて、
自分の言葉が出た日
面接の日、
ひろしは早めに家を出た。
電車の中で、
スマホのニュースを見た。
株価は堅調。
防衛関連が上昇。
資源関連も強い。
政府は安定供給に万全。
訪日客は高水準。
いつも通りの言葉。
でもひろしには、
その裏のドミノが見えた。
韓国のナフサ。
シンガポールのハブ。
欧州の減便。
航空貨物の床下。
断熱材。
軽油。
下水ポンプ。
時間格差。
3Dプリンター。
ペロブスカイト。
遠隔保守。
修繕国家。
面接室は、
思ったより小さかった。
面接官は三人。
一人が聞いた。
「前職では、
かなりつらい
経験をされたようですが、
なぜ当社を
志望されたのですか?」
ひろしは一瞬、
言葉に詰まった。
前なら、
無難な答えを探した。
御社の理念に共感しました。
社会貢献性に
魅力を感じました。
これまでの経験を
活かしたいです。
でも、
その言葉では足りなかった。
ひろしは、
少し息を吸って言った。
「止まると困る場所に、
立ちたいと思いました」
面接官の一人が、
顔を上げた。
「止まると困る場所、
ですか?」
「はい」
ひろしは続けた。
「今、
世界のニュースを見ていると、
飛行機も、物流も、
建設も、医療も、
すべてが
燃料や部品や人手に
支えられていたことが
分かります。
便利さは、
当たり前では
ありませんでした」
声は少し震えとった。
でも、止まらなかった。
「水と下水は、
誰も普段は見ません。
でも止まれば、
生活は一日で変わります。
都市のいちばん下で、
人が生きる前提を
守っている仕事だと
思いました」
面接室が静かになった。
ひろしは最後に言った。
「私は前職で、
強く働くことが
できませんでした。
でも、
弱い場所に
気づくことはできます。
社会の弱い場所を、
少しでも止めない側に
立ちたいです」
その瞬間、
ひろしは初めて、
面接で自分の言葉を
話した気がした。
■第十五章
約束の時間に
来なくなった日本で
面接の帰り、
ひろしはさおりにLINEした。
「終わった。
うまく言えたか
分からんけど、
止まると困る場所に
立ちたい、
って言えた」
すぐ返事が来た。
「それ、ひろしさんらしい。
派手じゃないけど、
ちゃんと生きる感じがする」
ひろしは駅のホームで、
その文を何度も読んだ。
電車は三分遅れていた。
昔なら、
少しイライラしたかもしれない。
けれど今のひろしには、
三分遅れた電車すら、
いろんな人の努力の上で
動いているように見えた。
運転士。
整備士。
電力。
信号。
水。
下水。
駅員。
清掃。
部品。
燃料。
通信。
当たり前は、
たくさんの地味な仕事で
できていた。
夜、練馬区のマンションで、
さおりとひろしは
窓の外を見た。
東京は、
昔より少し暗かった。
コンビニの灯りは残っている。
電車の音もする。
救急車も走る。
スマホの通知も鳴る。
けれど、
24時間の喧騒は少し減った。
配送は一週間待ちが増えた。
遠くの安いものは減った。
航空券は高くなった。
店は早く閉まるようになった。
日本は、
以前より不便になった。
けれど、
誰かがつぶやいた。
「静かだけど、力強いな」
その言葉は、
新しい日本を
一番よく表していた。
かつて日本は、
便利な国だった。
何でも早く届く。
どこでも同じものが買える。
夜中でも店が開いている。
海外から安く入る。
燃料は高くても何とかなる。
でも、
それは強さではなかった。
遠くに依存した便利さだった。
新しい日本は、
その便利さを
少し失った代わりに、
足元を見つけた。
水路。
屋根。
町工場。
倉庫。
下水処理場。
農地。
地域の店。
古い機械。
修理できる手。
待てる心。
ひろしはノートの最後に書いた。
石油という麻薬が切れた時、
日本人は初めて、
自分たちの足元に
眠る資源に気づいた。
それは油田ではなかった。
直せるという誇り。
待てるという余裕。
自分で作るという意地。
ドミノは、
倒れ切ったのではない。
古い日本を押し倒し、
新しい日本の土台を
固めただけだった。
さおりが聞いた。
「日本は
沈んだんじゃないんだね」
ひろしはうなずいた。
「うん。
浮き草みたいな
便利さをやめて、
根を張り始めたんだと思う」
窓の外で、
東京の夜は少し暗い。
でも、
その暗さの中に、
前より確かな光があった。
日本は、
便利な国ではなくなった。
けれど、
止まらない国に
なろうとしていた。
それは、
遅いけれど強い、
新しい日本の始まりだった。
………
❥Z世代のあなたへ
――非常口は、
バズらない場所にある
ここまで
読んでくれてありがとう。
この話は、
たぶん少し重たい。
ホルムズ海峡。
ナフサ。
ジェット燃料。
航空貨物。
軽油。
下水。
水処理。
物流。
建設資材。
3Dプリンター。
ペロブスカイト。
就職活動。
どれも、
SNSでバズる言葉では
ないかもしれない。
でも、あなたの暮らしは、
そういう
地味なものの上に
乗っている。
スマホは光る。
アプリは動く。
AIは答える。
キャッシュレスで
決済もできる。
けれど、
物が届かなければ、
生活は止まる。
水が流れなければ、
都市は止まる。
下水が詰まれば、
清潔な暮らしは終わる。
軽油が高ければ、
荷物は遅れる。
ナフサが詰まれば、
包装も建材も
医療資材も痩せる。
飛行機が減れば、
人だけでなく、
部品も薬も遅れる。
これからの時代、
「かっこいい会社」
だけを見ていると、
大事な場所を
見落とすかもしれない。
AI。
ゲーム。
金融。
外資。
コンサル。
半導体。
もちろん、それらも大事。
でも、もう一つ見てほしい。
最後まで必要な仕事。
水。
電気。
下水。
物流。
修繕。
保守。
農業。
倉庫。
医療。
地域インフラ。
誰も拍手しない。
でも止まった瞬間、
みんなが困る仕事。
ひろしは強い人間ではない。
会社で傷つき、
自信をなくし、
就職活動が怖くなった
四十歳の男だ。
でも彼は、
弱いからこそ、
弱い場所に気づいた。
それはZ世代にも言える。
あなたが不安を感じるなら、
それは弱さだけではない。
時代のひび割れを、
少し早く
見ているのかもしれない。
派手な場所だけが
未来じゃない。
非常口は、
たいてい地味な場所にある。
そして
本当に大事な仕事は、
バズらない。
でも、
最後まで必要とされる。
………
★あとがき
ホームズとワトソンの、
やすきよ漫才風締め
✲ホームズ
どうもこんばんは。
ホルムズ海峡を調べすぎて、
近所の排水溝まで
国際情勢に見えてきた男、
ホームズです。
✲ワトソン
病気や!
排水溝は排水溝や!
そこに
イランもシンガポールも
おらん!
✲ホームズ
甘いな、ワトソン君。
排水溝が詰まれば、
文明は一日で現実に戻る。
✲ワトソン
いきなり臭いところから
入るな!
もうちょっとロマン出せ!
✲ホームズ
ロマンは空港に置いてきた。
ジェット燃料が高すぎて、
ロマンは減便になった。
✲ワトソン
ロマンまで欠航かい!
✲ホームズ
しかも代替便は
シンガポール経由だ。
✲ワトソン
そこだけ妙に現実的やな!
✲ホームズ
今回の事件で
分かったことがある。
日本人は
ガソリンの値段を見る。
しかし本当に
先に痩せるのは、
包装フィルム、断熱材、
航空貨物、
そして下水ポンプだ。
✲ワトソン
嫌な四天王やな!
RPGで出てきても
全然ワクワクせん!
✲ホームズ
だが、
その四天王が倒れると、
町は普通に暮らせなくなる。
✲ワトソン
まあ、確かに。
トイレットペーパーは
あるのに、
下水が詰まったら
終わりやもんな。
✲ホームズ
そう。
文明とは、
スマホではなく、
流したあとに
消えてくれる力である。
✲ワトソン
名言みたいに言うな!
内容が
うん●寄りなんよ!
✲ホームズ
君はまだ分かっていない。
水と下水こそ、
都市の胃袋なのだ。
✲ワトソン
胃袋かい。
じゃあ東京は今、
何食べとるんや?
✲ホームズ
補助金と燃料と
見ないふりだ。
✲ワトソン
消化に悪そうやな!
✲ホームズ
だがワトソン君、
希望もある。
✲ワトソン
お、やっと明るい話か?
✲ホームズ
町工場の3Dプリンターだ。
✲ワトソン
急に町工場!
✲ホームズ
海外から部品が来ない。
ならば、ここで作る。
古い旋盤と
新しいプリンターが握手する。
これが日本の再起動だ。
✲ワトソン
ええやん。
ちょっと映画っぽいな。
✲ホームズ
そしてビルの壁には
ペロブスカイト。
壁が電気を作る。
窓が光を拾う。
街が発電所になる。
✲ワトソン
それはかっこええな。
ただし電気代の請求書は
見たくない。
✲ホームズ
だからこそ
自分で作るのだよ。
✲ワトソン
出た、
令和の自給自足。
✲ホームズ
さらに遠隔保守。
人を飛ばさず、
知識を飛ばす。
燃料で体を運ぶ時代から、
回線で判断を運ぶ時代へ。
✲ワトソン
お前、
今日はちょっと
未来っぽいやないか。
✲ホームズ
しかし最後は下水に戻る。
✲ワトソン
戻るな!
✲ホームズ
戻る。
なぜなら、
どんな未来都市でも、
トイレは流れねばならない。
✲ワトソン
それは否定できん!
✲ホームズ
そして今回の
主人公ひろし君。
彼は強い男ではなかった。
会社で削られ、
就職活動中で、
家賃二十万円に
首を締められていた。
✲ワトソン
現実的すぎるわ。
ドラゴンも魔王も
出てこんのに、
家賃二十万円だけで
十分怖い。
✲ホームズ
だが彼は見つけた。
これからの時代、
伸びる会社より、
止まると困る会社だと。
✲ワトソン
それはええな。
バズる会社やなくて、
なくなったら困る会社。
✲ホームズ
そうだ。
AIがどれだけ賢くても、
トイレが流れなければ
人間は謙虚になる。
✲ワトソン
またトイレに戻った!
お前の推理、
最後ぜんぶ
下水に流れるな!
✲ホームズ
流れることこそ
平和なのだよ。
✲ワトソン
深いようで、
やっぱり臭い!
✲ホームズ
しかしワトソン君。
Z世代の読者に
伝えたいのはそこだ。
✲ワトソン
どこや。下水か?
✲ホームズ
違う。
派手な夢だけが
未来ではないということだ。
✲ワトソン
おお、急にまともになった。
✲ホームズ
時代が不安になると、
人はキラキラした会社を探す。
だが本当に強いのは、
水、電気、物流、保守、
修繕、農業、倉庫。
そういう地味な場所だ。
✲ワトソン
非常口は、
バズらない場所にある、
やな。
✲ホームズ
その通り。
そして、
ひろし君のように
一度折れた人間でも、
社会の折れそうな場所に
気づける。
✲ワトソン
弱さが、
地図になるわけやな。
✲ホームズ
そうだ。
弱い人間は、
弱い場所を知っている。
そこに立てば、
その弱さは仕事になる。
✲ワトソン
ええ話やないか。
最後に下水で終わらんで
よかったわ。
✲ホームズ
いや、最後に一つだけ。
✲ワトソン
まだあるんかい!
✲ホームズ
日本は沈没したのではない。
✲ワトソン
おお。
✲ホームズ
ただ、
約束の時間に
来なくなったのだ。
✲ワトソン
ほう。
✲ホームズ
だからこそ、
約束を守り直す仕事が
必要になる。
✲ワトソン
……ええ締めやな。
✲ホームズ
水を流す人。
電気を守る人。
荷物を届ける人。
機械を直す人。
畑を耕す人。
町を支える人。
✲ワトソン
派手やないけど、
そういう人らがおらんと、
わしら一日も生きられんな。
✲ホームズ
その通り。
だから読者の皆さん。
✲ワトソン
就職先に迷ったら?
✲ホームズ
バズる会社だけを見るな。
✲ワトソン
儲かりそうな
会社だけでもなく?
✲ホームズ
そう。
最後まで必要な場所を見よ。
✲ワトソン
非常口は?
✲ホームズ
意外と地味な場所にある。
✲ワトソン
ほな、今日はこのへんで。
✲ホームズ
次回は、
「納豆の容器から
読み解く世界資本主義」
だ。
✲ワトソン
もうええわ!
ほな終わり!




