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仏心を担保に入れた女 ――令和版・舌切り雀 百軒ばあさんの大きなつづら――

✦仏心を担保に入れた女


――令和版・舌切り雀 

 百軒ばあさんの

 大きなつづら――


………


昔話の意地悪ばあさんは、

大きなつづらを選んだ。


令和の意地悪ばあさんは、

相続税対策を選んだ。


借家百軒。

見た目は百億円。

借入は五十億円。


税金は少し減った。

けれど、

金利は増えた。

修繕費は跳ねた。

シンナーは消えた。

入居者は細った。


そして町は、


「困ったときはお互い様」


という

一番やさしい言葉で、

意地悪ばあさんの

玄関を開けに来た。


………


★目次


■第一章 

 奥様と呼ばれた女


■第二章 

 義母の錬金術


■第三章 

 五十億円の大きなつづら


■第四章 

 煽りよ、心配ないわ


■第五章 

 二・四%の雀


■第六章 

 満室でも負ける大家


■第七章 

 ナフサのない屋根


■第八章 

 見積書は一か月で腐る


■第九章 

 令和の隣組


■第十章 

 明るい終末


■第十一章 

 兵糧攻めの心理学


■第十二章 

 困ったときはお互い様


■第十三章 

 デッドボールで致命傷


■第十四章 

 大きなつづらが開く


■第十五章 

 雀の舌を切ったのは誰か


❥Z 世代のあなたへ


★あとがき

 ホームズとワトソンの

 漫才風・笑いと涙の締め


★続編

 追証という白い封筒

 ――令和のつづらは、

 まだ開き続けている――


………


■第一章 

 奥様と呼ばれた女


その女は、田舎ではまだ、

「奥様」と呼ばれていた。


六十五歳。

父親は元校長先生。

きちんとした家の娘だった。


学校では成績も悪くなかった。

国立大学 卒業。

PTAでは代表もした。

自治会では顔が利いた。

お寺では前の方に座った。


だから、

田舎の人は表では言った。


「奥さん、立派なお家で」

「昔からの名士さん…」

「土地がある人は違いますな」


けれど、

角を曲がると声は変わった。


「あのおばあちゃん、

 少しおかしいよね」


「人の心がわからん

 感じがする」


「仏心が

 全然ないもんね」


「お金の話になると

 目が変わる」


「あの大きな家、

 妙に冷たい…」


彼女は、

田舎の資産家に嫁いだ。


資産家といっても、

もともとは大きな会社の

創業家ではない。


田んぼがあった。

畑があった。

山があった。

道が通った。

町が広がった。

田んぼが宅地になった。

畑が駐車場になった。


借家が建った。

一軒、二軒、

十軒、三十軒。


気がつけば、

町のあちこちに、

その家の貸家があった。


誰が言い始めたのか、

彼女はいつしか、

「百軒ばあさん」

と呼ばれるようになった。


もちろん本人の前では、

誰も言わない。


本人の前では、

みんなまだ、

「奥様」と呼ぶ。


それがいちばん怖かった。


■第二章

 義母の錬金術


彼女にお金の作法を

教えたのは、

嫁ぎ先の義母だった。


義母は、

錬金術師のような

女だった。


ただし、

鉛を金に変えたのではない。


田んぼを宅地に変えた。

宅地を借家に変えた。

借家を家賃に変えた。

家賃を銀行の信用に変えた。

銀行の信用を借金に変えた。

借金を相続税対策に変えた。


そして最後に、

人間の情を、

家を守るための邪魔者に

変えた。


それが、

義母のいちばん恐ろしい

錬金術だった。


義母は、生前よく言った。


「土地は手放したら終わり」


「税金は敵」


「借金は怖がるもんじゃない。

 上手に利用するもんじゃ」


「他人に甘い顔をすると、

 家が食われる」


「それが身内であってもな」


「情けをかける前に、

 まず通帳を見なさい」


「仏壇には手を合わせなさい。

 でも、入居者にも、

 親戚にも、実家にも、

 甘くしたらいけん」


若かった彼女は、

最初、

その言葉を怖いと思った。


けれど、

嫁いだ家では、

その怖さが知恵と

呼ばれていた。


冷たい人は、

しっかり者と呼ばれた。


損をしない人は、

賢い嫁と呼ばれた。


人の頼みを断れる人は、

家を守れる人と呼ばれた。


その家では、

やさしさは

美徳ではなかった。


やさしさは、

出費の入口だった。


かわいそう。

助けたい。

放っておけない。


そんな言葉は、

家計簿の中では、

全部「赤字」の欄に

入れられた。


彼女は、

その教えをよく守った。


毎朝、

百軒ばあさんは

義母の仏壇に手を合わせた。


花も替えた。

線香もあげた。

湯呑みの水も替えた。

「南無阿弥陀仏」

声だけは、

やさしかった。


けれど不思議なことに、

その手は、

生きている人間の痛みには

なかなか向かなかった。


仏壇の中の義母には、

きちんと頭を下げる。


死んだ人には、

毎朝、礼を尽くす。


けれど、

まだ息をしていた実母には、

頭を下げなかった。


母から電話が来る。

「少し体がしんどいんよ」


百軒ばあさんは、

その声を聞いた瞬間、

心配より先に計算を始めた。


病院代。

タクシー代。

付き添いの時間。

診察の待ち時間。

施設の相談。

介護認定の手続き。

きょう一日潰れる用事。

明日へずれ込む借家の修繕。

銀行への返事。

自治会の会合。

義母の月命日。

入居者からの水漏れ電話。


実母の声は、

娘の心へ届く前に、

電卓の中へ落ちた。


「忙しいの」


「とにかく私は忙しいの」


「こっちは百軒も見てるのよ」


「お母さん一人に、

 そんなに時間は取れないの」


電話の向こうで、

実母は黙った。

小さな呼吸だけが残った。


それは、

まだ生きている

人間の音だった。


けれど百軒ばあさんには、

その呼吸すら、

予定を狂わせる音に

聞こえた。


それでも彼女は、

まだ止まらなかった。


「もし何かあっても、

 私にいちいち

 連絡しないで」


そこまで言った。


言ってから、

一瞬だけ部屋が

静かになった。


仏壇の線香の煙だけが、

細く、まっすぐ上がっていた。


さっきまで百軒ばあさんは、

その仏壇に手を合わせていた。


死んだ義母には、

毎朝きちんと手を合わせる。


けれど、

生きている母には、

手どころか、

声さえ差し出さない。


ここに、

彼女の怖さがあった。


彼女は、

自分を悪人だとは

思っていなかった。


むしろ、

正しいことをしていると

思っていた。


家を守っている。

嫁ぎ先を守っている。

先祖の土地を守っている。

名士の顔を守っている。

子どもたちに

財産を残そうとしている。

そう思っていた。


だが、

強欲というものは、

いつも裸では歩かない。


強欲は、

「家を守る」という

着物を着る。


「先祖のため」という

帯を締める。


「子どものため」という

草履を履く。


そして、

「私は正しい」という顔で、

人の痛みの前を通り過ぎる。


それが一番怖い。


なぜなら、

本人には自分が

鬼に見えていないからだ。


義母は、昔こう言った。


「人情いうもんはね、

 家を守る時には

 邪魔になるんよ」


「かわいそう、

 助けたい、

 放っておけない。

 そんな気持ちは、

 お金を減らすだけ」


「嫁いだら、

 実家より嫁ぎ先」


「親より家」


「情けより土地」


「仏心より通帳」


百軒ばあさんは、

その言葉を長い年月かけて、

骨の中まで染み込ませた。


最初は、

胸が少し痛んだ。


次に、

痛みを我慢できる

ようになった。


そのうち、

痛みが出る前に、

計算が先に

立つようになった。


最後には、

痛まないことを、

強さだと思うようになった。


それが、

人間が妖怪になる順番だった。


一日で妖怪になる

人間はいない。


一回ずつ、

電話を切る。


一回ずつ、

頼みを断る。


一回ずつ、

「忙しい」と言う。


一回ずつ、

「家のため」と言う。


一回ずつ、

仏心を後回しにする。


そうやって、

人は静かに、

自分の中の

雀の舌を切っていく。


百軒ばあさんは、

もしかしたら本来、

冷たい人間では

なかったのかもしれない。


もっと恐ろしいことに、

冷たさを正義だと

信じてしまった人間だった。


仏壇の前では、

彼女は合掌した。


けれどその手は、

いつも少しだけ硬かった。


まるで、

祈っているのではなく、

何かを握りしめている

ようだった。


それは念珠ではなかった。


土地だった。

借家だった。

通帳だった。

五十億円の借入だった。

そして、

自分の中に残っていたはずの、

最後の仏心だった。


彼女は、

それを手放さないために

握っていたのではない。


潰していたのだ。


■第三章

 五十億円の大きなつづら


百軒ばあさんの家には、

借家が百軒あった。


一軒一億円で見れば、

百億円。


町の人は言った。


「あの家はええのう」


「寝とっても家賃が入る」


「子どもは一生安泰じゃ」


「土地持ちは、やっぱり強いわ」


百軒ばあさんも、

そう思っていた。

いや、

そう思いたかった。


土地は裏切らない。

家賃は毎月入る。

銀行は頭を下げる。

税理士は知恵を出す。

近所は奥様と呼ぶ。


その全部が、

ばあさんには

小さな王国に見えていた。


けれど相続の時、

税理士と銀行がやって来た。


応接間には、

義母の好きだった

重たい座卓があった。


銀行員は、

白い資料を広げた。


「このままですと、

 相続税がかなり

 重くなります」


税理士も、

静かにうなずいた。


「土地と借家の評価が

 大きいですからね。

 現金が少ない場合、

 納税資金で困る

 可能性があります」


百軒ばあさんは、

少しだけ眉を寄せた。


「土地は売りません」


その言葉を

待っていたように、

銀行員は笑った。


「ですから、

 借入を使います」


「借金ですか?」


百軒ばあさんが聞くと、

義母の声が、

頭の奥でよみがえった。


借金じゃない。

対策じゃ。


税理士は、

やわらかい声で続けた。


「もちろん

 借入金ではあります。

 ただ、相続税の計算では、

 債務として差し引けます」


銀行員は、

資料の数字を指でなぞった。


「さらに、

 貸家にすれば、

 土地や建物の評価を

 下げられる場合があります」


「相続税対策としては、

 一般的です」


一般的。

その言葉は、

とても便利だった。


怖いことでも、

一般的と言われると、

急に怖くなくなる。


危ない橋でも、

みんな渡っていますと

言われると、

橋に見えてくる。


銀行員は続けた。


「日本は長い間、低金利です。

 物価も上がりにくい。

 給料もなかなか上がらない。

 金利も大きく動きにくい。

 そういう環境では、

 土地を活用した賃貸経営は、

 安定収入になりやすいんです」


税理士も言った。


「借家が百軒あれば、

 家賃収入の柱があります。

 相続税を抑えながら、

 資産も守れる。

 まさに土地持ちの方には

 向いた方法です」


百軒ばあさんは、

湯呑みを持つ手に力を入れた。


「借入は、

 固定金利ですか?」


銀行員は、

一瞬だけ間を置いた。


「基本は、

 変動金利になります」


「変動?」


「はい。

 ただ、今の日本で、

 急に大きく金利が上がるとは、

 多くの方は見ていません」


税理士も、

安心させるように言った。


「日本は三十年、

 物価が上がらない

 国でしたからね」


銀行員は笑顔を足した。


「国債も安定して

 買われていますし、

 地方債も堅調です。

 日本は急に変わらない。

 そういう前提で、

 みなさん資産設計を

 されています」


百軒ばあさんは、

その言葉に吸い寄せられた。


日本は変わらない。

物価は上がらない。

給料も上がらない。

金利も眠ったまま。

だから、借金は怖くない。


成長しない国にも、

儲け方はある。


土地を寝かせず、

借金を乗せて、

家賃を生ませる。


それは、

拝金主義というより、

家を守るための知恵に

見えた。


いや、

彼女はそれを

知恵と呼びたかった。


税理士が、

電卓を叩いた。


「見た目の資産は

 百億円でも、

 貸家評価などで

 税務上の評価は

 下がります。

 そこから

 借入金を差し引けば、

 相続税の対象になる

 財産は圧縮できます」


銀行員が、

最後の一枚を出した。


「借入、五十億円」


五十億円。

普通の人間なら、

その数字だけで息が詰まる。


けれど百軒ばあさんの耳には、

それは借金ではなく、

節税の道具に聞こえた。


五十億円の借金が、

五十億円の知恵に見えた。


それが、

低金利時代の

いちばん怖い魔法だった。


紙の上では、

見事な魔法だった。


百億円の資産。


税務上の評価は小さく見える。

そこから借金を引く。

電卓の上では、

相続税が軽くなった。


百軒ばあさんは、

小さくうなずいた。


「これで、

 家は守れるんですね」


銀行員は言った。


「はい。

 もちろん、

 長期的な管理は必要ですが」


税理士も言った。


「大切なのは、

 計画的に運用することです」


その時、

誰も言わなかった。


借金は、

税金を消す消しゴムではない。


借金は、

返済日を持った生き物である。


その時、

誰も深く考えなかった。


変動金利とは、

未来に値段を決めさせる

契約である。


その時、

誰も想像しなかった。


遠いホルムズ海峡が詰まり、

原油が揺れ、

ナフサが詰まり、

シンナーが消え、

塗料が来なくなり、

修繕費が跳ね、

十年国債が二・四%台に乗り、

銀行の声が変わる日を。


百軒ばあさんは、

昔話の意地悪ばあさんのように、

大きなつづらを選んだ。


小さいつづらではなかった。

身の丈に合う

つづらでもなかった。


五十億円の、

とても立派なつづらだった。


令和の大きなつづらには、

金銀財宝は入っていなかった。


入っていたのは、


百軒分の屋根。

百軒分の給湯器。

百軒分の入居者トラブル。

百軒分の空室リスク。

百軒分の修繕見積もり。

百軒分の固定資産税。


そして、

五十億円の借入残高だった。


その時代には、

それは天国への階段に見えた。


けれど、

ホルムズ海峡の前と後では、

同じ階段の行き先が変わった。


前は、節税。

後は、借金。


前は、家賃収入。

後は、滞納と空室。


前は、修繕計画。

後は、シンナー待ち。


前は、低金利。

後は、金利見直し。


天国と地獄は、

別々の場所に

あるのではなかった。


同じ契約書の、

前半と後半に書かれていた。


■第四章 

 煽りよ、心配ないわ


その田舎には、

六十七歳の

元証券会社勤務の

おじいちゃんがいた。


彼は、

二月ごろから言っていた。


「ナフサが危ない」

「エチレンが危ない」

「包装材が危ない」

「肥料が危ない」


「シンナーが

 入らなくなるかもしれん」


「お米で起きたことは、

 ほかの商品にも

 広がるかもしれん」


誰も本気にしなかった。


百軒ばあさんは、

町内会で言った。


「ああいうのが

 一番困るんです」


「不安を広げるだけです」


「普通に暮らせば

 いいんです」


「煽りに乗らないことが

 大事です」


彼女は、そう言いながら、

自宅の物置に

水を置いた。

缶詰も置いた。

米も置いた。


貸家の空き部屋に

段ボールも積んだ。


それを彼女は、

買い占めとは呼ばなかった。


「管理」

と呼んだ。


他人の不安は煽り。

自分の不安は管理能力。


それが、彼女の正義だった。


■第五章 

 二・四%の雀


ある朝、

銀行から封筒が届いた。

上品な白い封筒だった。

上品な封筒ほど、

中身はたいてい冷たい。


金利条件見直しのご案内。


彼女は、しばらく息を止めた。


かつて、金利は眠っていた。

マイナス金利。

ゼロ金利。

借金は知恵に見えた。


だが、

十年国債の利回りが

二・四%台に乗ったという

ニュースが流れた頃から、

銀行の声は変わっていた。


✲五十億円の借金。

 金利一%なら、

 年間利息は

 五千万円。


✲二%なら、一億円。


✲三%なら、一億五千万円。


✲四%なら、二億円。


一%の違いが、

普通の家の人生を

何軒も買える金額になる。


彼女は思った。


「だけど、なんとかなる」


それは、

彼女の家で何度も

使われてきた言葉だった。


なんとかなる。 

いつもそうやって乗り越えた。


土地は裏切らない。

銀行も、

うちには無茶は言わない。


だが金利は、

彼女の名字を読めなかった。


■第六章 

 満室でも負ける大家


百軒の借家。

一軒あたり家賃八万円。


満室なら、

八万円

かける百軒

かける十二か月。


年間九千六百万円。


普通なら、

夢のような収入だった。


しかし五十億円の借金は、

三%の金利だけで

一億五千万円を食う。


家賃九千六百万円。

利息一億五千万円。

利息だけで

五千四百万円足りない。


まだ元本は返していない。

固定資産税も払っていない。

火災保険も払っていない。

管理費も払っていない。

修繕費も払っていない。

空室も出ていない。


それなのに、

もう負けていた。


満室という言葉は、

勝利ではなかった。


満室でも負ける借金が、

この世にはあるのだ。


百軒ばあさんは、

電卓を閉じた。


閉じても、

数字は消えなかった。


■第七章 

 ナフサのない屋根


ホルムズ海峡は、

町から遠かった。


車では行けない。

新幹線でも行けない。

町内会の回覧板にも

載らない。


けれど、その遠い海は、

三号棟の屋根に

穴を開けた。


正確に言えば、

穴を開けたのは雨だった。


だが、

その穴を直せなくしたのは、

ナフサだった。


ナフサから、エチレン。

エチレンから、樹脂。

樹脂から、塩ビ管、

接着剤、包装材、断熱材。


溶剤から、シンナー。

シンナーから、塗料。


家は、木と瓦だけで

建っているのではない。


石油の細い血管で、

どうにか立っている。


工務店から電話が来た。


「奥さん、

 外壁塗料の見積もり、

 出し直しです」


「先月も出し直したでしょう」


「すみません。

 シンナーが読めません」


「シンナー?」


「塗料を薄めるやつです。

 原料の流れが不安定で」


「じゃあ、

 三号棟の雨漏りは?」


「応急処置ならできます」


「本修理は?」


「材料次第です」


材料次第。


ばあさんは、

その言葉を銀行の封筒より

怖いと思った。


銀行の返済日は決まっている。


けれど、

シンナーが来る日は

決まっていない。


■第八章 

 見積書は一か月で腐る


昔、見積書には

賞味期限があった。


一か月。

三か月。

長い時は半年。


しかし、ホルムズの夏、

見積書は魚より早く腐った。


外壁塗装、二百万円。

次の月、二百四十万円。


屋根補修、百五十万円。

次の月、二百十万円。


給湯器、二十五万円。

次の月、納期未定。


断熱材、入荷未定。

接着剤、数量制限。

防水材、価格回答保留。


工務店は、ついに言った。


「奥さん、

 昔の付き合いでは、

 材料は入りません」


その一言で、

彼女の中の名士の看板が、

ぱきんと小さく割れた。


町内会では通った言葉が、

資材市場では通らない。


PTAで鍛えた声も、

ナフサには届かない。


現実は、

発言ではなく物理で決まる。


塗料がなければ塗れない。

接着剤がなければ貼れない。

断熱材がなければ包めない。

職人が来なければ直せない。


そして、直せなければ、

入居者は出ていく。


■第九章 

 令和の隣組


四月の終わり、

回覧板が来た。


表紙には、

やさしい字で

こう書かれていた。


「災害時における地域

 助け合い体制づくりのための

 備蓄状況確認について」


やさしい字ほど怖い、

六十七歳のおじいちゃんは

思った。


用紙には、

欄が並んでいた。


水の本数。

米の量。

缶詰の数。

カセットボンベの本数。

常備薬。

車の有無。

ポータブル電源。

冷凍庫の有無。

高齢者の人数。

要配慮者の有無。

防災。

助け合い。

要配慮者支援。


どれも正しい。

正しいから、

なおさら怖かった。


配給は始まっていなかった。


だが、

配給の前に必要な名簿は、

もう作られ始めていた。


回覧板を持ってきたのは、

百軒ばあさんだった。


ばあさんは言った。


「念のためですから」


念のため。


その言葉は、

人の玄関を開けるための、

とても便利な鍵だった。


■第十章 

 明るい終末


百軒ばあさんの家は、

その夜も快適だった。


信号は点いていた。

車は親子で三台あった。

Wi-Fiは速かった。


Netflixでは、

韓国ドラマが

何事もなかったように

次の話へ進んだ。


冷蔵庫は冷えていた。

エアコンも動いた。


だから彼女は言った。


「ほら、

 停電してないじゃない。

 大げさなのよ」


しかし翌朝、

スーパーの棚は薄かった。


電気はあった。

補充がなかった。


その日の夜、

おじいちゃんの孫

こはる(中2)が

スマホを見せた。


「おじいちゃん、

 こんなスレ立っとるよ」


画面には、

こう書かれていた。


【悲報】

 日本、

 停電しないのに終わる


なんで電気ついてるのに

スーパー空なんや。


文明の判定基準、

電気じゃなかった模様。


冷蔵庫は動く。

中身はない。


中2でもわかる。

電気で米は生えない。

明るい終末って言葉が

一番しっくりくる。


文明って電気じゃなくて

補充なんやな。

補充こそ文明。


電気がついてるから大丈夫、

ではない。

電気しか残ってない

可能性がある。


おじいちゃんは、

最後の一行を見て黙った。


電気しか残っていない。

それは冗談の形をしていたが、

冗談ではなかった。


■第十一章 

 兵糧攻めの心理学


食料が細ると、

人間はすぐに

暴れ出すわけではない。


最初に変わるのは、

声ではない。

目である。


スーパーの棚を見る目。

隣の家の宅配便を見る目。

人のカートを見る目。

夜でも明るい大きな家の

門灯を見る目。

古い倉の戸を見る目。

車が三台並んだ庭を見る目。


昨日までは、

「あの家は立派ね」

だった。


今日からは、

「あの家には、

 何かあるかもしれない」

になる。


これが怖い。


食料がある時、

人は道徳を語る。


水がある時、

人は助け合いを語る。


トイレが流れる時、

人は品格を保つ。


電気が点いて、

冷蔵庫が冷えて、

スーパーの棚が

補充されている時、

人は自分を善人だと

思っていられる。


けれど、

米が減る。

水が減る。

薬が減る。

カセットボンベが減る。

ネット在庫が

「在庫なし」に変わる。


その瞬間、

人の頭の中で、

静かな計算が始まる。


うちは何日もつのか。

この米を分けたら、

何日縮むのか。

薬は誰を優先するのか。

ガソリンは

病院用に残すのか。

隣の家には、

どれだけあるのか。


あの大きな家は、

なぜまだ明るいのか。


人は、

空腹だけでは壊れない。


空腹に、

不公平感が混ざった時に

壊れる。


「あの家には何かある」


この一言が出た瞬間、

町はもう

以前の町ではない。


まだ信号は点いている。

Wi-Fiもつながる。

テレビも映る。

自治会もある。

回覧板も回る。


人々は

まだ丁寧語を使う。

けれど、

人の目だけが、

少しずつ

荒野になっていく。


荒野とは、

砂漠のことではない。


人が、

隣の家の

冷蔵庫を想像し始めた

場所のことだ。


そこから先、

人はむき出しの欲望では

来ない。


「米を出せ」

とは言わない。


「困ったときは

 お互い様でしょう」

と言う。


「水を分けろ」

とは言わない。


「地域で支え合いましょう」

と言う。


「あなたの家には

 何かあるはずだ」

とは言わない。


「無理のない

 範囲で結構です」

と言う。


正しい言葉ほど、

不足の時代には断りにくい。


善意の顔をして、

圧力が玄関に立つ。


百軒ばあさんの家は、

田んぼの中で目立っていた。


大きな家。

古い倉。

広い庭。

三台の車。

明るい門灯。

空き部屋。

物置。

貸家百軒。


成長の時代には、

それは成功の証だった。


兵糧攻めの時代には、

それは目印になる。


ここには何かある。


ここには

米があるかもしれない。


ここには

水があるかもしれない。


ここには

カセットボンベが

あるかもしれない。


ここには、

まだ余裕があるかもしれない。


本人が何も言わなくても、

家がしゃべっていた。

倉がしゃべっていた。

車三台がしゃべっていた。

門灯がしゃべっていた。


そして、

近所の評判の悪さが、

その声に毒を混ぜる。


「あの家、

 昔から偉そうだったよね」


「あれだけ

 持っとるんじゃけえ、

 出して当然じゃろ」


「自治会の役員までした

 人なんだから」


「困ったときは

 お互い様って、

 自分で言っとったじゃない」


人は、

追い詰められると、

正義を探す。


その正義は、

自分の欲しいものを

取りに行くための、

きれいな包装紙に

なることがある。


本当に怖いのは、

人が急に

悪人になることではない。


みんなが、

自分を善人だと思ったまま、

他人の備蓄を

数え始めることだ。


その時、

町は叫ばない。

まだ静かである。

まだ礼儀正しい。

まだ誰も窓を割っていない。


けれど、

ひそひそ声が増える。

宅配便の箱を

数える人が増える。

夜の門灯を

見る人が増える。

古い倉の中身を

想像する人が増える。


その段階で、

もう兵糧攻めは

始まっている。


戦国の城は、

水で囲まれた。


令和の名士の家は、

視線で囲まれる。 


石垣を崩す前に、

評判が崩れる。


門を破る前に、

言葉が押し寄せる。


「助け合いましょう」


「少しだけでいいんです」


「地域のためです」


「昔からの名士さんでしょう」


それは、

竹槍ではない。

包丁でもない。


けれど、

家の中にいる人間の心を、

確実に削っていく。


百軒ばあさんは、

仏壇の前に座る。

線香をあげる。


「南無阿弥陀仏」


声だけは、

いつものようにやさしい。


けれど、

その手は震えている。


死んだ義母には

手を合わせられる。


だが、

生きている人間の飢えには、

どう手を合わせればいいのか、

彼女にはわからない。


そして初めて、

彼女は知る。


食料がなくなると、

人間は獣になるのではない。


もっと怖い。


人間は、

人間の顔をしたまま、

他人の家の中身を

想像し始める。


それが、

令和の兵糧攻めだった。 


■第十三章 

 デッドボールで致命傷


百軒ばあさんは、

おじいちゃんを

にらんでいた。


「あの人が煽ったから、

 町がおかしくなった」


そう言った瞬間、

彼女の背中に、

とんでもない

デッドボールが当たった。


投げたのは、

67歳のおじいちゃんでは

なかった。 


一球目は、金利。

二球目は、ナフサ。

三球目は、シンナー。

四球目は、修繕費。

五球目は、空室。

六球目は、銀行。


彼女は怒った。


「誰が投げたの!」


おじいちゃんは、

遠くから静かに言った。


「わしじゃない。

 世界じゃ」


彼女には、

壁が見えていなかった

わけではない。


見えていた。


白い壁のようなものが、

道の先に立っているのは、

かなり前から見えていた。


それでも止まれなかった。


「心配ないわ」


「私は、

 昔からそうやって

 乗り越えてきたの」


そう言い続けた人間は、

壁の手前で

ブレーキを踏めない。


ブレーキを踏めば、

壁があったことを

認めることになる。


だから彼女は、

もう一度だけ

アクセルを踏んだ。


■第十四章 

 大きなつづらが開く


令和の大きなつづらが、

ついに開いた。


中から出てきたのは、

鬼ではなかった。


三号棟の雨漏り。

五号棟の家賃滞納。

七号棟の外国人六人住まい。

九号棟の高齢者孤独死リスク。

十一号棟の

外壁塗装見積もり変更。


貸家二十軒分の修繕。

銀行からの

金利見直し通知。


自治会からの協力要請。

近所からの視線。

家族からの沈黙。


そして、

五十億円の借金。


百軒ばあさんは、

ようやく理解した。


自分が守っていたのは、

借家ではなかった。


「自分は間違っていない」


という、

いちばん壊れやすい

家だった。


その家が、

音もなく崩れた。

パニックはなかった。


テレビは

通常放送だった。

信号は

青から赤へ変わった。

Netflixは

次の話へ進んだ。

冷蔵庫は冷えていた。


けれど、

もうどこから直せばいいのか、

彼女にはわからなかった。


本当に怖い破綻は、

大きな音を立てて来ない。

小さな遅れとして来る。


見積もりが遅れた。

塗料が遅れた。

振込が遅れた。

工務店の返事が遅れた。

銀行への返答が遅れた。


そして最後に、

すべてが同じ日に

間に合わなくなった。


■第十五章 

 雀の舌を切ったのは誰か


昔話の舌切り雀では、

意地悪ばあさんが

雀の舌を切った。


令和の町では、

誰もハサミを持たない。

その代わり、スマホを持つ。


そして、

人の言葉の信用を切る。


「煽り屋」

「デマ屋」

「不安を広げる人」

「町を乱す人」


百軒ばあさんが切ったのは、

おじいちゃんの

言葉だけではなかった。 


彼女は、

自分の中に残っていた、

小さな雀の声も切っていた。


やりすぎではないか。

借りすぎではないか。

人に冷たすぎないか。

仏壇の前だけでいいのか。


子どもに残すの

は財産ではなく、

負担ではないか。


その小さな声を、

彼女は何度も黙らせた。


なんとかなる。

うちは名士。

土地は裏切らない。

銀行もわかってくれる。


だが、

土地は裏切らなかった

だけだった。


動かなかった。

売れなかった。

逃げなかった。

そしてその上に建つ

百軒の借家だけが、

毎年、少しずつ壊れていった。


雀の舌を切ったのは、

意地悪ばあさん

だけではない。


便利の由来を問わず、

見たくない現実を語る

人間を嫌い、

構造ではなく

犯人を欲しがった、

町そのものだった。


………


❥Z世代のあなたへ


この物語は、

百軒ばあさんだけの

話ではありません。


あなたの時代にも、

同じことは起きます。


誰かが早く警告した時、

人はよくこう言います。


「煽るな」

「不安にさせるな」

「普通にしていればいい」

「そんな難しい話はいい」


でも、

社会は感情では動きません。


ホルムズ海峡が詰まれば、

原油が動く。

原油が動けば、

ナフサが動く。

ナフサが動けば、

エチレンが動く。


エチレンが動けば、

包装材、塗料、接着剤、

断熱材、食品トレーが動く。


それが止まれば、

棚が薄くなる。

棚が薄くなれば、

人の心が荒れる。


地政学は、

戦争好きの学問では

ありません。


遠い海峡と、

近所の借家の雨漏りを、

一本の線で結ぶための

ものです。


サプライチェーンは、

会社員だけの

言葉ではありません。


コンビニの弁当のフタが、

どこから来るかを

知るための地図です。


化学は、

理科室の白衣だけでは

ありません。


ナフサがエチレンになり、

エチレンが包装材になり、

包装材が

食卓を支えることを知る

道具です。


ロジスティクスは、

トラック屋の話では

ありません。


米も薬も断熱材も、

届かなければ

存在しない、

という現実を教える学問です。


そして、もう一つ。


助け合いは美しい。

けれど、

余白がある時に成立します。


次も買える。

明日も届く。

うちにもまだある。


そう思える時、

人は分けられます。


でも、

次が見えなくなった瞬間、

助け合いは

計算になります。


これを渡したら、

うちは何日もつのか。


一度渡したら、

また来られるのでは

ないか。

どこまでが善意で、

どこからが自滅なのか。


平時の倫理で、

非常時の行動原理を

見誤ってはいけません。


未来を壊すのは、

不安を語る人では

ありません。


見たくない現実を、

みんなで

黙らせることです。


令和の舌切り雀で

切られるのは、

鳥の舌ではありません。


不都合なことを言う

人間の信用です。


そして時には、

自分の中に残っていた

小さな仏心です。


………


★あとがき

 ホームズとワトソンの

 漫才風・笑いと涙の締め


✲ワトソン


先生、

今回の事件、

怖すぎません?


✲ホームズ


何が怖かった?


✲ワトソン


鬼も幽霊も出てこんのに、

回覧板が一番

怖かったです。


✲ホームズ


令和の怪談は、

ピンポンと鳴る。


✲ワトソン


玄関開けたら百軒ばあさん。


✲ホームズ


手には回覧板。


✲ワトソン


「念のため備蓄を

 教えてください」


✲ホームズ


怖いじゃろ。


✲ワトソン


怖いですわ。

竹槍より

Googleフォームの方が

怖い時代ですわ。


✲ホームズ


しかも彼女は

悪人の顔をしていない。


✲ワトソン


PTA代表。

自治会役員。

お寺の前列。


✲ホームズ


だから怖い。


✲ワトソン


先生、

百軒ばあさん、

ほんまに意地悪でしたね。


✲ホームズ


意地悪ではある。


✲ワトソン 


そこは認めるんですね。


✲ホームズ


ただ、

意地悪の根っこには

恐怖があった。


✲ワトソン


強欲と恐怖。


✲ホームズ


人間のアクセルと

ブレーキじゃ。


✲ワトソン


ばあさん、

ブレーキ踏まずに

アクセル踏んでましたね。


✲ホームズ


壁が見えていたのにな。


✲ワトソン


なんで

止まれなかったんです?


✲ホームズ


「煽りよ」

「心配ないわ」

と言い続けたからじゃ。


✲ワトソン


ああ、

引き返したら

負けを認めることになる。


✲ホームズ


人は、

間違いそのものより、

間違った自分を守るために、

さらに間違う。


✲ワトソン


痛い。

今日の先生、

妙に刺しますね。


✲ホームズ


金利ほどではない。


✲ワトソン


五十億円の三%、

一億五千万円でしたっけ?


✲ホームズ


そうじゃ。


✲ワトソン


家賃百軒で九千六百万円。


✲ホームズ


満室でも負ける。


✲ワトソン


それ、

大家ホラーの

決め台詞ですやん。


✲ホームズ


しかもシンナーが来ない。


✲ワトソン


銀行は待たない。

シンナーは来ない。


✲ホームズ


名文じゃ。


✲ワトソン


自分で言います?


✲ホームズ


現実が言わせた。


✲ワトソン


でも先生、

電気はついてましたよね。


✲ホームズ


ついていた。


✲ワトソン


Wi-Fiもありました。


✲ホームズ


あった。


✲ワトソン


Netflixも観られた。


✲ホームズ


観られた。


✲ワトソン


なのに終わるんですか?


✲ホームズ


文明は電気だけで

できていない。


✲ワトソン


補充こそ文明。


✲ホームズ


その通り。


✲ワトソン


冷蔵庫は動く。

中身はない。


✲ホームズ


文学じゃな。


✲ワトソン


ないが文学になる日が

来るとは。 


✲ホームズ


現場感は時に文学を超える。


✲ワトソン


最後、

百軒ばあさん、

町に囲まれましたね。


✲ホームズ


「困ったときはお互い様」


✲ワトソン


いい言葉なのに怖かったです。


✲ホームズ


いい言葉だから怖いのじゃ。


✲ワトソン


どういうことです?


✲ホームズ


悪い言葉なら断れる。

いい言葉は断りにくい。


✲ワトソン

なるほど。

善意の顔をした圧力。


✲ホームズ


不足の時代には、

善意も刃物になる。


✲ワトソン


先生、

今回の教訓は何ですか?


✲ホームズ


三つある。


✲ワトソン


出ました。

先生の三つ。


✲ホームズ


一つ。

ホルムズ海峡は曲がらない。


✲ワトソン


ナフサは忖度しない。


✲ホームズ


二つ。

満室でも負ける借金がある。


✲ワトソン


三つ目は?


✲ホームズ


雀の声を切るな。


✲ワトソン


雀の声?


✲ホームズ


小さな違和感じゃ。

棚が薄い。

見積もりが変わる。

工務店が来ない。

銀行の封筒が増える。

自分の中の

「やりすぎではないか」

という声。


✲ワトソン


それを切ったら?


✲ホームズ


大きなつづらが開く。


✲ワトソン


中から鬼?


✲ホームズ


もっと現代的じゃ。


✲ワトソン


何が出ます?


✲ホームズ


金利。

修繕費。

空室。

シンナー不足。

自治会の回覧板。


✲ワトソン


最後だけ生活感がすごい!


✲ホームズ


生活感こそホラーじゃ。


✲ワトソン

先生、最後に読者へ一言。


✲ホームズ


未来を読んだ

人間を笑う前に、

自分が何を見ないように

しているか、

一度だけ考えてほしい。


✲ワトソン


泣けますね。


✲ホームズ


笑ってもええ。

泣いてもええ。

ただ、

雀の声だけは切るな。


✲ワトソン


令和版・舌切り雀、

ここに完結です。


✲ホームズ


いや、完結ではない。


✲ワトソン


え?


✲ホームズ


現実のつづらは、

まだ開き続けている。


✲ワトソン


……それ、

一番怖いやつですやん。


………


★続編

 追証という白い封筒

 ――令和のつづらは、

 まだ開き続けている――


銀行から届いた封筒は、

とても上品な白だった。

上品な封筒ほど、

中身はたいてい冷たい。


金利条件見直しのご案内。


百軒ばあさんは、

封筒を開ける前から、

もう中身を知っていた。


人間は、

本当に怖い知らせほど、

読む前にわかる。


義母が亡くなって、五年。


百軒ばあさんは、

その五年を

安全な時間だと思っていた。


けれど違った。

それは

安全装置ではなかった。


恐怖が白い封筒になるまでの、

猶予期間だった。


証券会社には、

追証という言葉がある。


✲追加証拠金。


若い人に

わかりやすく言えば、

こういうことだ。 


「あなたの担保価値が

 下がりました。

 不足のお金を、

 すぐに入れてください。

 入れられないなら、

 こちらで売ります」


これは、

ゲームの追加課金ではない。


人生の

セーブデータごと、

追加で差し出せと言われる

話である。


株で足りなければ、

現金。


現金で足りなければ、

土地。


土地で足りなければ、

家。


しかも、

売るタイミングは

自分で決められない。

相手が決める。


ここが追証の恐怖だった。


昔の証券会社の人間は、

この恐怖をこう言った。


✲「家の小便が出る」


下品な言い方だが、

本質を突いていた。 


追証は、

頭ではなく、

体の下の方か

ら力を抜いていく。


電話のベルが鳴るだけで、

心臓が一段落ちる。


まだ破綻していない。

まだ売られていない。

まだ新聞にも出ていない。


けれど、

自分の人生が、

誰かの端末の中で

売却候補に入っている。


それだけで人間は寝込む。


百軒ばあさんの借金も、

同じ形に近づいていた。


ただし、

株ではない。


借家だった。

土地だった。

古い倉だった。

百軒分の家賃だった。

五十億円の変動金利だった。


低金利の時代、

土地は安心だった。


銀行員は言った。


「土地がありますから

 大丈夫です」


税理士は言った。


「相続税対策としては

 一般的です」


義母は言った。


「借金は

 怖がるもんじゃない。

 利用するもんじゃ」


けれど、

金利が上がり、

空室が出て、

修繕費が跳ね、

シンナーが来なくなった時、

担保の意味は変わった。


担保は、

安心ではなくなった。


銀行がいつでも

手を伸ばせる場所になった。


銀行の応接室は、

昔と同じだった。


観葉植物。

白い壁。

ぬるいお茶。


けれど、

銀行員の声だけが

違っていた。

昔の声には蜜があった。


「奥様」

「昔からのお取引ですから」

「土地活用です」

「節税になります」


今の声には、

体温がなかった。


「今後の

 金利見直しについて、

 ご相談させて

 いただきたいと思います」


相談。


銀行の相談は、

だいたい相談ではない。

決まったことを、

やわらかく伝える儀式である。


担当者は資料を置いた。


「五十億円規模の

 借入ですので、

 金利が一%上昇しますと、

 単純計算で

 年間五千万円規模の

 利息負担増になります」


五千万円。


それは数字ではなかった。

給湯器二百台分。

屋根修繕二十軒分。

普通の家なら

一生触れない金額。


担当者は、

さらに淡々と言った。


「二%上がれば、

 一億円規模です」


怒鳴られた方が、

まだ人間らしかった。


淡々と数字を言われる方が、

よほど怖かった。


「担保評価についても、

 再査定が必要になります」


百軒ばあさんは、

思わず顔を上げた。


「担保評価?」


「はい。

 築年数、修繕状況、

 空室、地域需要、

 売却可能性を含めて、

 見直します」


「土地はあります」


彼女は言った。


それは、

長年使ってきた

最後の呪文だった。


担当者は

静かにうなずいた。


「はい。土地はございます」


その返事が、

一番冷たかった。


土地はございます。

だからこそ、

処分対象になります。


そう聞こえた。


担当者はもう一枚、

紙を出した。


「場合によっては、

 追加担保のお願い、

 一部物件の売却、

 返済条件の見直しを

 お願いする

 可能性があります」


追加担保。


百軒ばあさんの耳に、

その言葉だけが残った。


追加担保。

それは不動産版の

追証だった。


あなたの担保価値が

下がりました。


返済余力が

弱くなりました。


空室が増えました。


修繕費が

重くなりました。


金利が

上がりました。


だから、

もっと差し出してください。


現金を。

土地を。

別の不動産を。

先祖代々のものを。

まだ名前の

残っているものを。


足りなければ、

売ります。


この「売ります」が怖い。


銀行は、

思い出を売るのではない。

数字を売る。


先祖の土地ではなく、

担保物件を売る。


義母の声が

染み込んだ家ではなく、

回収可能資産を売る。


だから、

二束三文でも平気なのだ。


百軒ばあさんは、

その場では崩れなかった。


「検討します」


そう言った。


奥様の顔は、

まだ保っていた。


だが帰りの車の中で、

ハンドルを握ったまま

動けなくなった。


まだ破綻していない。

まだ競売ではない。

まだ新聞にも出ていない。

まだ近所にも知られていない。

まだ奥様と呼ばれている。


だからこそ、

怖かった。


本当の地獄は、

落ちた瞬間ではない。


落ちるかもしれない

と知って、

それでもまだ

足場が残っている時間である。


この時間が、

人間を一番削る。


その夜、

百軒ばあさんは眠れなかった。


追加担保。


一部売却。

返済条件の見直し。

担保評価の再査定。


言葉が、

天井から落ちてきた。


まだ大丈夫。

いや、もう駄目かもしれない。

土地だけは売れない。

でも売らないと銀行が怒る。

破産だけはできない。

破産したら

先祖に顔向けできない。

子どもに何と言えばいい。

近所に知られたら終わり。


なんとかなる。

いや、五十億円は、

なんとかなる数字ではない。


その往復で、

彼女の体は削られていった。


恐怖は、

頭で理解するものではない。


体の下の方から、

力を抜いていくものだった。


そして、

その夜遅く。

百軒ばあさんの中に、

銀行より古い声が戻ってきた。


実母の声だった。


もうこの世には

いない母の声。


「少し体がしんどいんよ」


十年近く、

彼女はその声を遠ざけてきた。


忙しい。

百軒も見ている。

銀行がある。

自治会がある。

入居者対応がある。


そう言って、

母の電話を短く切った。


ある日には、

こうまで言った。


「もし何かあっても、

 私にいちいち

 連絡しないで」


電話の向こうで、

母は黙った。

小さな呼吸だけが残った。


その時、

百軒ばあさんは

勝った気でいた。


面倒を一つ遠ざけた。

予定を守った。

家を守った。


けれど本当は、

その瞬間、

自分の中の大事な

担保を失っていた。


信頼。

情。

親子の時間。

謝る余地。


「ごめんね」

と言える生きた相手。


銀行の担保は、

まだ追加できるかもしれない。


土地も、

まだ一部売れる

かもしれない。


けれど、

母への担保は、

もう追加できなかった。


母は、

この世にいなかったからだ。


百軒ばあさんは、

仏壇の前に座った。


義母の位牌。

先祖の位牌。

守ってきた家の名前。


けれど、

彼女の胸に浮かんだのは、

実母の顔だった。


小さくなった背中。

電話口の息。

責めなかった沈黙。


百軒ばあさんは、

手を合わせた。


「南無阿弥陀仏」


いつもの言葉だった。


けれど、

声にならなかった。


喉の奥で、

何かが引っかかった。


それは念仏ではなかった。

謝罪とも違った。

後悔とも言い切れなかった。


もっとみっともなく、

もっと小さく、

もっと人間らしいものだった。


「あ……」


それだけだった。


うめき声にも聞こえた。

泣き声にも聞こえた。


生まれて初めて、

助けてほしいと

言いかけた声にも聞こえた。


だが、

その声を聞いてくれる母は、

もういなかった。


令和のつづらは、

まだ開き続けている。


最初に出てきたのは、

ナフサだった。

次に、シンナー。

次に、修繕費。

次に、空室。

次に、自治会の回覧板。


そして最後の方で、

いちばん静かな鬼が出てきた。


変動金利。


それは五年待ち、

白い封筒になり、

銀行の丁寧な声になり、

追加担保になり、

一部売却になる。


そして

本当に最後に出てきたのは、

取り返しのつかない

十年だった。


母の電話を切った十年。

人を見下げた十年。

仏壇には手を合わせ、

生きている母に

背を向けた十年。


百軒ばあさんは、

まだ破綻していない。


まだ奥様と呼ばれている。


けれど、

人間としての担保は、

もうとっくに切れていた。


大きな家と、

古い倉と、

五十億円の借金と、

誰にも届かない

小さなうめき声だけが、

その夜、残っていた。

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