指定席は、もう売り切れていた ――学問のすすめと、110兆円の国策クラブ――
✦指定席は、もう売り切れていた
――学問のすすめと、
110兆円の国策クラブ――
………
危機の時代に、
最初に売り切れるのは、
お米でも、ガソリンでも、
半導体でもない。
次の世界の席だった。
サウジは、
ペトロダラーの席を取った。
三菱UFJは、
リーマンショックの席を取った。
SoftBankは、
Intelの席を取った。
日本政府は、
アメリカの
エネルギー供給網の席を
買いに行った。
そして庶民は、
スーパーで五キロ
三八八三円の米を見ながら、
ようやく気づいた。
「わしらの席、
どこにあるんじゃ?」
………
★目次
■第一章
席は、危機の前に売り切れる
■第二章
三菱UFJが
九十億ドルを出した日
■第三章
サウジの油は、
ドルに変わった
■第四章
Intelは半導体ではなく、
国家の椅子だった
■第五章
百十兆円の保険料
■第六章
心配しなくていい情報
■第七章
大手は部材を押さえた
■第八章
トヨタのラインが黙った
■第九章
金融ホルムズ海峡
■第十章
確率を閉じた国
■第十一章
弾薬の砂時計
■第十二章
米五キロ三八八三円
■第十三章
国策クラブに
入れなかった僕ら
■第十四章
家族共同体だけが
お米を炊いた
■第十五章
危機の前に席を取れ
❥Z 世代のあなたへ
★あとがき
ホームズとワトソンの
やすきよ風漫才
………
■第一章
席は、危機の前に売り切れる
ホルムズ海峡が閉じた、
とテレビが言った。
けれど、
67歳の元証券マンの
おじいちゃんは、
原油価格より先に、
別のものを見ていた。
株価だった。
米国株は、
戦争のニュースを聞きながら
上がっていた。
Intelは跳ねた。
AI関連は買われた。
軍需も買われた。
エネルギーも買われた。
世界は燃えているのに、
株価だけが避難所へ
走っているようだった。
高校一年生のゆづきは、
スマホを見ながら言った。
「おじいちゃん、
なんで戦争なのに
株が上がるん?」
おじいちゃんは、
スーパーの米売り場の前で
足を止めた。
五キロ三八八三円。
「ゆづき。
危機の時代に
値上がりするんは、
石油だけじゃないんじゃ」
「じゃあ、何が上がるん?」
「席じゃ」
「席?」
「次の世界で、
誰が先に座れるか。
その席の値段が
上がるんじゃ」
ゆづきは、
よくわからない顔をした。
けれど、
おじいちゃんは知っていた。
危機というものは、
正面から来るとは限らない。
爆弾ではなく、株価。
戦車ではなく、出資。
声明ではなく、倉庫の在庫。
祈りではなく、注文書。
そして、
危機の前に動いた者だけが、
あとからこう言う。
「運が良かった」と。
本当は違う。
先に座っただけなのだ。
■第二章
三菱UFJが
九十億ドルを出した日
おじいちゃんは、
2008年のことを思い出した。
リーマンショック。
アメリカの金融機関が、
次々に倒れかけた。
世界中の画面が赤く染まり、
証券会社のフロアでは、
電話のベルが
悲鳴のように鳴った。
その時、
モルガン・スタンレーが
沈みかけた。
そこへ、
日本の三菱UFJが
九十億ドルを出した。
当時、多くの人は言った。
「また日本がアメリカに
金を取られた」
「また貢がされた」
「また損を
日本がかぶるのか」
けれど年月が経つと、
景色は変わった。
三菱UFJは、
世界金融の奥の部屋に
入っていた。
ただの日本の銀行では
なくなっていた。
世界の大きな
金融テーブルの一角に、
名前を置いていた。
ゆづきが聞いた。
「おじいちゃん、
それって得したん?」
「すぐにはわからん。
けどな、
危機の時に
金を出すいうんは、
寄付とは違うんじゃ」
「じゃあ何?」
「座席料じゃ」
「座席料?」
「沈みかけた船に
金を出す者は、
次の船の一等席に
名前を書いてもらえる
ことがある」
ゆづきは黙った。
おじいちゃんは続けた。
「もちろん、
必ず成功する
わけじゃない。
ただな、
世界の本当の勝負は、
平和な時ではなく、
みんなが怖がって
財布を閉じた時に
始まるんじゃ」
ゆづきは、
自分の中学三年生の春を
思い出した。
一万人ぐらいの模試で、
七千番。
その時は、
自分の席などないと
思った。
けれど、机に向かった。
四千番まで上げた。
最後の一か月で
千番まで上げた。
誰かが
席をくれたわけではない。
自分で取りに行ったのだ。
おじいちゃんの話が、
少しだけわかった気がした。
■第三章
サウジの油は、
ドルに変わった
おじいちゃんは、
次にサウジの話をした。
「サウジアラビア
いう国はな、
石油だけで
大きくなったんじゃない」
「え、
石油の国じゃないん?」
「もちろん石油の国じゃ。
けど本当は、
石油をドルに変え、
そのドルを
アメリカの金融市場へ
戻す国でもあった」
ゆづきは、首をかしげた。
おじいちゃんは
買い物カゴに、
卵を一パック入れた。
前より高い卵だった。
「石油を売る。
ドルが入る。
そのドルで米国債を買う。
アメリカの武器も買う。
アメリカの軍事的な傘に入る。
そうやって、
石油はただの燃料ではなく、
世界秩序の
入場券になったんじゃ」
「それって、ずるいん?」
「ずるいとも言える。
賢いとも言える。
怖いとも言える」
おじいちゃんは、
少し声を落とした。
「中東いう場所はな、
昔から宗教と交易と
軍事が重なっとる。
ユダヤ、イスラム、
キリスト教。
聖地、油田、海峡、
金融、武器。
いろんなものが
絡み合っとる。
ただし、
そこを雑に
“誰かが世界を支配しとる”
みたいに言うたら、
話が腐る」
ゆづきは聞いた。
「じゃあ、
どう見ればいいん?」
「誰が悪魔かではなく、
誰が道を押さえたかを
見るんじゃ」
「道?」
「海の道。
お金の道。
宗教の道。
軍事の道。
エネルギーの道。
その道を押さえた者が、
世界を動かす」
ホルムズ海峡は、
ただの海ではなかった。
石油の道。
LNGの道。
ナフサの道。
保険の道。
船員の道。
そして、
不安の道だった。
その道が細ると、
日本の米売り場まで、
値札が変わる。
ゆづきは、
初めて海峡という言葉を、
遠い地図ではなく、
台所の話として聞いた。
■第四章
Intelは半導体ではなく、
国家の椅子だった
その日の夜、
ニュースは
Intelの株価急騰を伝えた。
米政府。
SoftBank。
NVIDIA。
AI。
半導体。
安全保障。
言葉だけを並べても、
もう普通の会社の
ニュースではなかった。
おじいちゃんは、
食卓で新聞を広げながら
言った。
「Intelはな、
半導体会社である前に、
国家の椅子になったんじゃ」
「会社が椅子になるん?」
「なる。
国が守りたい会社は、
椅子になる。
そこに座れる者は、
次の時代へ近づける」
SoftBankが出資する。
米政府が支援する。
NVIDIAが絡む。
市場が騒ぐ。
株価が跳ねる。
ゆづきは言った。
「それ、
インサイダーじゃないん?」
おじいちゃんは苦笑いした。
「法的にそう言うには
証拠がいる。
けどな、
庶民から見れば、
そう見えても仕方ない」
「なんで?」
「政府がルールを作る。
政府が株主になる。
政府が補助金を出す。
政府が国策を語る。
そこへ巨大資本が入る。
そして株が上がる」
「ゲームの運営が、
自分で
ガチャ引いとるみたい」
おじいちゃんは笑った。
「ゆづき、
その表現はうまい」
ゆづきは真顔で言った。
「でも、
普通の人はそのガチャ、
引けんじゃん」
「そうじゃ。
これが
国策クラブ資本主義じゃ」
市場は自由に見える。
しかし、
いちばん良い席は、
招待制だった。
■第五章
百十兆円の保険料
日本政府は、
アメリカに
巨額の投資を約束した。
一一〇兆円とも、
一二〇兆円とも言われた。
正確な計算よりも、
庶民にはその桁だけで
十分だった。
「なんでアメリカに
そんな金を出すん?」
「国内の中小企業は
苦しいのに」
「お米も高いのに」
「ガソリンも不安なのに」
ゆづきも聞いた。
「おじいちゃん、
それって貢いどるん?」
おじいちゃんは少し考えた。
「貢ぎ物にも見える。
けど、
別の見方をすれば、
保険料じゃ」
「保険料?」
「次の石油。
次のLNG。
次のナフサ。
次の半導体。
次の軍需部品。
その順番札を、
アメリカから
買っとるのかもしれん」
「じゃあ日本は助かるん?」
おじいちゃんは箸を置いた。
「国は助かるかもしれん」
「国は?」
「けど、
国民が同じ順番で
助かるとは限らん」
部屋の空気が少し重くなった。
大企業は、部材を押さえる。
政府は、供給網の席を買う。
金融機関は、
危機の奥の部屋へ入る。
巨大資本は、
半導体クラブに座る。
では、町工場は?
では、非正規労働者は?
では、米を五キロずつ買う
家庭は?
では、高校一年生の
ゆづきは?
ゆづきは、静かに言った。
「私たちの保険料は、
何なん?」
おじいちゃんは答えた。
「勉強。
備蓄。
家族。
判断力。
そして、
危機の前に動くことじゃ」
■第六章
心配しなくていい情報
早苗ちゃんは言った。
「もうちょっと
先になるけれども、
まもなくそんなに
心配していただかなくても
いい情報も
お伝えできるかと
思っている」
テレビの字幕は、
安心そうに流れた。
けれど、
町工場の社長は
安心しなかった。
机の上には、
四つの紙があった。
納期未定。
実績枠。
新規不可。
価格改定。
早苗ちゃんの声は、
遠かった。
取引先の声は、近かった。
ゆづきは
ニュースを見ながら聞いた。
「心配しなくていい情報って、
何なん?」
おじいちゃんは言った。
「たぶん、
国としては何か
押さえとるんじゃろう」
「石油?」
「石油かもしれん。
LNGかもしれん。
ナフサかもしれん。
アメリカからの
調達ルートかもしれん」
「じゃあ安心じゃん」
「いや。
国が押さえたものが、
町工場の明日のシンナーに
なるまでには、
長い道がある」
ナフサ。
エチレン。
ポリエチレン。
フィルム。
印刷。
製袋。
包装。
配送。
その道のどこか一か所が
詰まるだけで、
商品は店に並ばない。
政府は総量を見る。
現場は納期を見る。
この二つは、
似ているようで違う。
おじいちゃんはつぶやいた。
「“大丈夫”いう言葉はな、
倉庫の在庫表より、
ずっと軽いんじゃ」
■第七章
大手は部材を押さえた
大企業は早かった。
樹脂を押さえた。
塗料を押さえた。
接着剤を押さえた。
電子部品を押さえた。
ゴムを押さえた。
包装材を押さえた。
購買部門は、
すでに戦時体制だった。
しかし、
出遅れた中小企業には、
電話の向こうで
同じ言葉が返ってきた。
「申し訳ありません」
「今月は実績枠のみです」
「新規のお客様には
出せません」
「次回入荷は未定です」
住宅会社は、
あと一つの
部材が来なかった。
自動車部品会社は、
小さな樹脂クリップが
足りなかった。
塗装工場は、
シンナーが足りなかった。
設備工事業者は、
パッキンが足りなかった。
巨大な家が、
小さな部品で止まった。
ゆづきは
吹奏楽部のことを思い出した。
トランペットだけ
上手くても、
曲にはならない。
クラリネットが一人抜けても、
音が薄くなる。
打楽器が一拍ずれるだけで、
全体が崩れる。
日本経済も同じだった。
トヨタだけ強くても、
名もない町工場の
一部品が止まれば、
車は完成しない。
ゆづきは言った。
「おじいちゃん、
これって吹奏楽と
一緒じゃな」
おじいちゃんはうなずいた。
「そうじゃ。
経済いうんは、
巨大企業の
ソロ演奏じゃない。
小さな部品会社まで
含めた合奏なんじゃ」
そして、その合奏は、
一つのパート不足で
沈黙する。
■第八章
トヨタのラインが黙った
トヨタが、
四工場五ラインを止める。
ニュースは淡々と伝えた。
しかし、
おじいちゃんは
そのニュースを見た瞬間、
顔つきが変わった。
「これは、
ただの稼働調整じゃない」
「そんなに大変なん?」
「自動車は、
日本経済の心臓じゃ。
そこが止まるいうことは、
血流が弱るいうことじゃ」
中東向けの車が出しにくい。
輸出先の不安がある。
物流が読めない。
保険が重い。
船が遅れる。
需要が揺れる。
その結果、
遠いホルムズ海峡が、
愛知の工場カレンダーに
赤い休止日として現れた。
ラインが止まる。
部品納入が減る。
残業代が消える。
期間工の契約が不安になる。
下請けの資金繰りが悪くなる。
地域の飲食店が冷える。
スーパーの売上が鈍る。
家電を買う予定が延びる。
戦争は、
爆発音で始まるとは限らない。
最初に消えるのは、
地方の財布の中の
残業代かもしれない。
ゆづきは聞いた。
「テレビは、
まだ大丈夫って言ってるよ」
おじいちゃんは答えた。
「テレビは大丈夫と言える。
けど工場カレンダーは
嘘をつけん」
その日、ゆづきは初めて、
カレンダーがニュースより
正直なことを知った。
■第九章 金融ホルムズ海峡
アメリカは、
イラン関連の
暗号資産を凍結した。
三億四千四百万ドル。
おじいちゃんは
ニュースを見て、
静かに言った。
「次は、
お金の通り道じゃ」
ゆづきは聞いた。
「暗号資産って、
隠せるんじゃないん?」
「隠せると思われとった。
けど、ブロックチェーンは
足跡が残る。
透明な道を歩いて
逃げたつもりが、
逆に追跡されたんじゃ」
石油の道を止める。
船の保険を止める。
銀行口座を止める。
暗号資産ウォレットを止める。
世界は、物だけでなく、
お金まで通れなくなっていた。
おじいちゃんは言った。
「ホルムズ海峡は
海だけじゃない。
お金にも
ホルムズ海峡がある」
「金融ホルムズ海峡?」
「そうじゃ」
船が動かなければ、
石油は来ない。
決済が動かなければ、
商品は来ない。
保険が止まれば、
船は出ない。
ウォレットが止まれば、
資金は凍る。
ゆづきは、少し怖くなった。
「お金って、
自由に
動くもんじゃないん?」
「平和な時はな。
でも危機の時代には、
お金にも国境が戻ってくる」
それは見えない国境だった。
スマホの画面の中にある、
冷たい壁だった。
■第十章 確率を閉じた国
ブラジルが、
あるインターネット上の
賭け市場を止めたという
ニュースが流れた。
名前は、
Polymarket。
Kalshi。
ゆづきは、
スマホの画面を
見ながら首をかしげた。
「おじいちゃん、
これ何?」
おじいちゃんは、
新聞をたたんで言った。
「簡単に言えば、
未来の出来事に
賭ける場所じゃ」
「未来に賭ける?」
「そうじゃ。
競馬なら、
どの馬が勝つかに
賭けるじゃろ」
「うん」
「それと似たような
もんじゃ。
ただし、馬ではなく、
世の中の出来事に賭ける」
ゆづきは、
まだ少し分からない
顔をした。
おじいちゃんは、
もっと身近な
たとえに変えた。
「たとえばな。
明日、台風で学校が
休みになるかどうか。
普通なら、
みんなで噂するだけじゃ」
「うん。
休みになるかなーって言う」
「けど、
その噂にみんなが
お金を賭け始めたら
どうなる?」
ゆづきは少し考えた。
「本気で調べる人が
増えるかも…」
「そうじゃ。
天気図を見る。
風速を見る。
先生の過去の判断を見る。
教育委員会の
発表時間まで見る。
そして、
みんなが金を賭ける」
「それで?」
「すると、画面にこう出る」
おじいちゃんは、
指で空中に
文字を書くようにした。
明日、
学校が休みになる確率 70%
ゆづきは、
「ああ」と声を出した。
「そういうことか。
ただの噂が、
数字になるんだ」
「そうじゃ」
おじいちゃんはうなずいた。
「Polymarketや
Kalshiいうのは、
そういう場所じゃ。
未来の出来事に、
みんなが金を賭ける。
その結果、
“起きそうかどうか”が
数字になる」
「たとえば?」
「たとえば、
次の選挙で誰が勝つか。
戦争が広がるか。
ガソリンが
配給制になるか。
非常事態宣言が出るか」
ゆづきの顔が、
少し真剣になった。
「それ、怖いね」
「怖い…」
おじいちゃんは、
静かに言った。
「政府がテレビで
“大丈夫です”と言っても、
その横で画面に
こう出たらどうなる?」
おじいちゃんは、
もう一度、
空中に文字を書いた。
非常事態宣言が出る確率 60%
ゆづきは黙った。
「みんな、
政府の“大丈夫”より、
その数字を見ちゃうかも」
「そうじゃ」
おじいちゃんは言った。
「政府にとって怖いのは、
悪口だけじゃない。
デマだけでもない。
不安が数字になって、
みんなの目に
見えることなんじゃ」
ゆづきは、
ようやく分かってきた。
「つまり、
不安に点数がつく
みたいなこと?」
「そうじゃ。
もっと言えば、
不安にオッズがつく」
「オッズ?」
「競馬でいう、
この馬は何倍、
あの馬は何倍、
というやつじゃ」
「ああ、聞いたことある」
「世の中の不安にも、
オッズがつく時代に
なったんじゃ」
政府は言う。
大丈夫です。
冷静に。
買い急ぎをしないでください。
外出を
控えすぎないでください。
けれど、
画面の中の数字が、
静かに上がっていく。
燃料配給 40%
非常事態宣言 60%
政権支持率急落 70%
それを見た人は、
スーパーへ行く前に考える。
「本当に大丈夫なのか?」
ガソリンスタンドへ
行く前に考える。
「満タンにしておいた方が
いいのか?」
米売り場の前で考える。
「一袋余分に買うべきか?」
政府がいくら
「落ち着いてください」
と言っても、
数字は人の心を動かす。
おじいちゃんは言った。
「昔は、政府が怖がったのは
新聞だった」
ゆづきは聞いた。
「新聞?」
「そうじゃ。
新聞に書かれると、
国民が知ってしまう」
「それで?」
「次はテレビじゃ。
テレビで映ると、
もっと多くの人が
知ってしまう」
「その次はSNS?」
「そうじゃ。
SNSで広がると、
一気に火がつく」
おじいちゃんは、
そこで少し間を置いた。
「そして今度は、
ただの噂ではなく、
不安が数字になって
出てくる」
ゆづきは言った。
「だから、
ブラジルは
それを止めたの?」
「表向きは、
賭け事の規制じゃ。
勝手に賭けをさせたら
いけません、
という話じゃ」
「でも、裏では?」
「政府にとっては、
不安が数字になって
広がることも、
かなり
嫌だったんじゃろう」
ゆづきは、
スマホの画面を見つめた。
「でも、
画面を消しても、
不安は消えないよね」
おじいちゃんは、
少し笑った。
「そこじゃ」
「そこ?」
「値札を剥がしても、
商品の値段が
安くなるわけではない」
ゆづきは、
米売り場の値札を思い出した。
五キロ三八八三円。
値札を剥がせば、
米が安くなるわけではない。
同じように、
不安の数字を消しても、
不安そのものが
消えるわけではない。
おじいちゃんは言った。
「国が本当にやるべきことは、
数字を消すことじゃない。
その数字が上がる理由を、
一つずつ減らすことじゃ」
ゆづきは、
ゆっくりうなずいた。
「つまり、
非常事態宣言の
確率が高いなら、
その数字を
隠すんじゃなくて、
本当に出さなくて
済むように、
燃料とか物流とか
米とか、
ちゃんと手当てしないと
いけないってこと?」
おじいちゃんは、
うれしそうに笑った。
「そうじゃ。
よう分かったな」
ゆづきは言った。
「なんか、
テストの点数と似てるね」
「どういうことじゃ?」
「悪い点を隠しても、
頭が良くなるわけじゃない。
間違えたところを直さないと、
次も同じ点になる」
おじいちゃんは、
思わず吹き出した。
「ゆづき、
それが一番わかりやすい」
政府が怖がったのは、
点数表だった。
不安というテストの点数が、
国民に
見えてしまうことだった。
けれど、
点数表を破っても、
間違えた答案は
机の中に残っている。
戦争は、
爆発音で始まるんじゃない。
最初に始まるのは、
「大丈夫です」という言葉と、
画面に出た数字が、
食い違い始めることなんじゃ。
■第十一章 弾薬の砂時計
米軍が、ミサイルを
大量に使ったという
報道が出た。
JASSM-ER。
トマホーク。
パトリオット。
ATACMS。
数字は大きすぎて、
ゆづきにはすぐに
実感できなかった。
「おじいちゃん、
アメリカって
世界一強いんでしょ?」
「強い」
「なら大丈夫
なんじゃないん?」
「強い国でも、在庫は減る」
おじいちゃんは、
茶碗を持ち上げた。
「米びつに米が十キロある。
それは安心に見える。
けど毎日食べれば減る。
補充できなければ、
最後は空になる」
「ミサイルも
米びつと同じ?」
「同じじゃ」
世界一の軍事大国でも、
ミサイルは撃てば減る。
減った分は、すぐには戻らない。
半導体。
推進剤。
爆薬。
誘導装置。
特殊金属。
熟練工。
試験設備。
兵器もまた、
部品の集合体だった。
ゆづきは
ピアノの鍵盤を思い出した。
一音でも外れれば、
曲は濁る。
一つの部品がなければ、
ミサイルも完成しない。
おじいちゃんは言った。
「備蓄いうんはな、
持っとる間は安心じゃ。
けど使い始めた瞬間、
砂時計になる」
その言葉を、
ゆづきはノートに書いた。
「備蓄は、
安心の形をした砂時計」
■第十二章
米五キロ三八八三円
スーパーの棚で、
米がまた上がった。
五キロ三八八三円。
十週ぶりの値上がり。
たった十円。
けれど、その十円は重かった。
ゆづきは袋を持ち上げた。
「昔はもっと安かったん?」
おじいちゃんは笑った。
「昔話を始めたら、
おじいちゃんは長いぞ」
「じゃあ短く」
「お米はな、
日本人にとって
最後の安心だったんじゃ。
パンが高くても米がある。
外食が高くても
家で炊けばいい。
肉が高くても、
おにぎりで何とかなる」
「でも今は?」
「その最後の逃げ場が、
値札で揺れとる」
米は田んぼでできる。
けれど、
田んぼだけでは
米は食卓に来ない。
軽油。
肥料。
乾燥機。
精米機。
米袋。
トラック。
電気代。
人手。
全部がつながっている。
ホルムズ海峡が遠い海でも、
米袋の値段には近い。
ゆづきは言った。
「お米って、
食べ物じゃなくて、
システムなんだね」
おじいちゃんはうなずいた。
「そうじゃ。
そして、
米価は物価ではなく、
不信指数になる」
政府が大丈夫と言っても、
庶民は会見ではなく
値札を見る。
五キロ三八八三円。
その数字は、
どんな演説より静かに、
日本人の心をざわつかせた。
■第十三章
国策クラブに
入れなかった僕ら
ひろしは四十歳だった。
優しい男だった。
人間関係に弱く、
会社でお局にいじめられ、
心が折れた。
今は就職活動中だった。
妻のさおりは、三十七歳。
ゲーム翻訳の仕事で年収六百万円。
夫が休職してから、
家計を一人で支えていた。
さおりは
オーストラリアに
いたことがあり、
海外の友人から、
現地の燃料高や
物流不安を聞いていた。
けれど日本のテレビは、
まだ穏やかだった。
「大丈夫です」
「落ち着いてください」
「影響は限定的です」
ひろしは、
求人サイトを見ながら
つぶやいた。
「国策クラブに入れる会社
ばっかり強いな」
半導体。
防衛。
AI。
エネルギー。
データセンター。
インフラ保守。
一方で、
普通の中小企業は
苦しんでいた。
材料が来ない。
価格転嫁できない。
人手が足りない。
銀行が厳しい。
取引先が止まる。
おじいちゃんは、
ひろしに言った。
「国は助かるかもしれん。
大企業も
助かるかもしれん。
けど、
全部の人間が
同じ順番で助かるとは
限らん」
ひろしは苦笑いした。
「じゃあ、
僕らはどうすれば?」
おじいちゃんは、
ゆづきを見た。
「この子を見習うんじゃ」
ゆづきは驚いた。
「私?」
「中三の春、
模擬テスト
七千番だった子が、
最後は千番まで行った。
吹奏楽も続けた。
卒業式で
ピアノも弾いた。
国策クラブには
入れなくても、
自分の席を取りに
行くことはできる」
ひろしは黙った。
その言葉は、
励ましではなく、
少し痛い現実だった。
でも、痛い現実ほど、
人を動かすことがある。
■第十四章
家族共同体だけが
米を炊いた
危機が深まると、
人は急に
助け合えるわけではない。
普段から
連絡を取っているか。
米が何キロあるか。
薬は何日分あるか。
ガソリンは
半分を切らせていないか。
カセットボンベはあるか。
誰が高齢者を見に行くか。
誰が車を出すか。
そういうことを
知らない相手とは、
危機の初日に
共同体は作れない。
おじいちゃんは言った。
「共助は、
災害後に
生まれるんじゃない。
災害前に育っていた
関係だけが、
災害後に
共助と呼ばれるんじゃ」
さおりは、
家族LINEに
メッセージを送った。
米、あと何キロ?
水、何本?
薬、何日分?
ガソリン、半分以上ある?
モバイルバッテリーは?
カセットボンベは?
ゆづきは返信した。
「おじいちゃん、
これって家族の
作戦会議じゃな」
おじいちゃんは言った。
「そうじゃ。
家族共同体防衛じゃ」
国は大きすぎる。
SNSは速すぎる。
隣人関係は薄すぎる。
市場は冷たすぎる。
だから最後に残るのは、
普段から面倒を見て、
腹も立てて、
それでも
米びつの残りを知っている
家族だった。
その夜、家族は米を炊いた。
特別な
ごちそうではなかった。
けれど、湯気が立つだけで、
家の中に小さな国家ができた
ようだった。
■第十五章
危機の前に席を取れ
ゆづきは、
おじいちゃんに聞いた。
「結局、席を取るって、
どういうことなん?」
おじいちゃんは少し考えた。
「人を
押しのけることではない」
「じゃあ?」
「危機が来る前に、
自分で考えて動くことじゃ」
三菱UFJは、
金融危機の席を取った。
サウジは、
ペトロダラーの席を取った。
SoftBankは、
Intelの席を取った。
日本政府は、
米国供給網の席を
買いに行った。
大企業は、
部材の席を押さえた。
家族は、
米と水と燃料の席を取った。
では、ゆづきは?
ゆづきは、ノートを開いた。
中三春、七千番。
進学校前、四千番。
最後の一か月、千番。
彼女は、
自分の人生の席を
取りに行った。
吹奏楽部をやめなかった。
勉強も投げなかった。
卒業式でピアノを弾いた。
世界が
どれだけ指定席になっても、
自分で作れる椅子はある。
ゆづきは言った。
「おじいちゃん。
私、わかった気がする。
席って、
誰かが用意してくれるもの
じゃないんだね」
おじいちゃんはうなずいた。
「そうじゃ」
「でも私は、
人を押しのけて
座るんじゃなくて、
自分で椅子を
作れる人になりたい」
おじいちゃんは笑った。
「それが一番強い」
外では、
まだ世界が揺れていた。
ホルムズ海峡。
Intel。
SoftBank。
石油。
ナフサ。
暗号資産。
予測市場。
ミサイル在庫。
米五キロ三八八三円。
しかし、食卓には
炊きたての米があった。
ゆづきは箸を取った。
危機の時代に、
最初に売り切れるのは、
米でも、ガソリンでも、
半導体でもない。
次の世界の席だ。
けれど、
本当に大切な席は、
誰かが用意した
国策クラブの椅子ではない。
自分の手で作った椅子。
家族で守る食卓。
最後まで考える頭。
諦めずに座り続けた机。
そこに座れる者だけが、
本当の意味で
生き残るのかもしれない。
………
❥Z世代のあなたへ
あなたは、
もう気づいているかも
しれない。
世界は、
昔よりずっと便利になった。
スマホ一つで
ニュースも地図も
翻訳も買い物もできる。
でもその便利さの裏側で、
席はどんどん
指定席になっている。
いい会社の席。
いい大学の席。
安全なエネルギーの席。
半導体の席。
AIの席。
食料の席。
災害時の席。
そして、
次の時代を生きる席。
大人たちは、金で席を取る。
国家は、外交で席を取る。
企業は、在庫で席を取る。
でも、
あなたには
別の取り方がある。
学ぶこと。
考えること。
家族と話すこと。
備えること。
人の言葉を
うのみにしないこと。
怖がりすぎず、
油断しすぎないこと。
ゆづきは、
一万人中七千番から始めた。
それでも机に座り続けた。
吹奏楽を続けた。
最後の一か月で千番まで上がった。
卒業式でピアノを弾いた。
席がないと思った世界で、
自分の椅子を作った。
あなたも、
そこから始めればいい。
危機の時代に必要なのは、
誰かを押しのける力ではない。
自分の頭で考え、
自分の足で動き、
大切な人と食卓を守る力だ。
………
★あとがき
ホームズとワトソンの
やすきよ風漫才
✲ワトソン
「ホームズさん、
今回の話は
難しかったですねえ。
ホルムズ海峡かと思ったら、
三菱UFJ、サウジ、
Intel、SoftBank、
米五キロ三八八三円まで
出てきましたよ」
✲ホームズ
「ワトソン君、
危機いうんは
一品料理やない。
幕の内弁当や」
✲ワトソン
「弁当ですか?」
✲ホームズ
「石油あり、
半導体あり、
金融あり、
米あり、
ミサイルあり、
家族LINEあり」
✲ワトソン
「いや、
最後の家族LINEだけ
急に庶民的ですね」
✲ホームズ
「庶民的で何が悪い。
最後に人を救うのは、
国家戦略より
“米ある?”の一言や」
✲ワトソン
「でもホームズさん、
結局これは
アメリカに
金を出した者だけが
助かる話ですか?」
✲ホームズ
「半分当たりや」
✲ワトソン
「半分?」
✲ホームズ
「三菱UFJは
金融危機の席を取った。
SoftBankは
Intelの席を取った。
日本政府は
米国エネルギー供給網の
席を買いに行った」
✲ワトソン
「じゃあ、わしら庶民は?」
✲ホームズ
「スーパーの米売り場で、
五キロ三八八三円の
席を取っとる」
✲ワトソン
「それ、
全然うれしくない
やないですか!」
✲ホームズ
「だから言うとる。
庶民は庶民の席を取るんや。
米、水、薬、
カセットボンベ、
家族の連絡網」
✲ワトソン
「なんか急に
防災講座になりましたね」
✲ホームズ
「防災こそ最高の投資や。
利回りは命じゃ」
✲ワトソン
「重い! 急に重い!」
✲ホームズ
「笑え、ワトソン君。
笑えるうちに笑うんや。
危機が本当に来たら、
ツッコミより先に
トイレットペーパーが
なくなる」
✲ワトソン
「またそれですか!
オイルショックから
何回同じこと
しとるんですか!」
✲ホームズ
「人間は変わらん」
✲ワトソン
「じゃあ希望は
ないんですか?」
✲ホームズ
「ある」
✲ワトソン
「どこに?」
✲ホームズ
「ゆづきじゃ」
✲ワトソン
「高校一年生の?」
✲ホームズ
「そうじゃ。
七千番から千番まで
上がった子じゃ。
吹奏楽も続けて、
卒業式で
ピアノを弾いた子じゃ」
✲ワトソン
「それが希望?」
✲ホームズ
「国策クラブに
入れない者でも、
自分の椅子は作れる。
そこが希望じゃ」
✲ワトソン
「なるほど。
大人は金で席を取り、
子どもは努力で席を取る」
✲ホームズ
「そういうことじゃ」
✲ワトソン
「でもホームズさん、
わしは努力より先に
米を取りたいです」
✲ホームズ
「それも正しい」
✲ワトソン
「正しいんかい!」
✲ホームズ
「米を炊けん人間に、
未来は語れん」
✲ワトソン
「最後、
名言っぽく締めましたね」
✲ホームズ
「いや、
腹が減っとるだけじゃ」
✲ワトソン
「結局それかい!」
………
二人は笑った。
けれど笑い終わったあと、
ワトソンは
そっとスマホを開いた。
家族LINEに、こう送った。
「米、あと何キロある?」
その一文は、
どんな国策会議より小さく、
どんな演説より静かだった。
けれど、その夜、
一つの家族共同体が、
未来の席を一つだけ確保した。




