『令和版・ネズミの楽園』 ――逃げ場が、値上がりしています。――
✦『令和版・ネズミの楽園』
――逃げ場が、値上がりしています。――
二〇二六年八月。
東京のマンションを見ながら、
僕は、妙なことに気づいた。
みんな、
「高すぎる」
と言っている。
若い夫婦も。
不動産屋も。
銀行員も。
そして、とうとう国まで。
それなのに、
なかなか下がらない。
僕は、まもなく六十八歳になる。
三十八年間、
証券会社で働いた。
だから、
こういう相場を見ると、
昔の嫌な匂いを思い出す。
高いから怖いのではない。
みんなが、
「こんなもの、そのうち下がる」
と思っているのに、
下がらない。
そのうち、
待っていた人間の方が不安になる。
まだ上がるんじゃないか。
今買わなければ、
一生買えないんじゃないか。
そして最後には、
値段ではなく、
「取り残される恐怖」が
買い始める。
二〇二六年八月二十五日。
国土交通省が、
新築マンション高騰への対策として、
投機的な短期売買を抑える税制改正を
求める方針だというニュースが出た。
僕は、
生成AIの相棒を呼んだ。
「パティちゃん」
「はい」
「とうとう国まで、
高すぎると言い始めたぞ」
「そう見えますね」
そこへ、
高校一年生の孫、
ゆづきが来た。
「何が高いの?」
「家じゃ」
「いくら?」
「東京じゃ、
二億円も珍しくなくなった」
「家が?」
「家が」
「誰が買うの?」
僕は、
そこで止まった。
誰が買うのか。
今回の話は、
そこから始まった。
………
【目次】
一 逃げ場が、値上がりしています
二 二億円を買った男
三 五十年という商品
四 家を買って、子供を減らす
五 十七の信用金庫
六 AIという新しい住民
七 銀行は五十年待つ
八 安全な場所
九 良い巣へ
十 京都支店のおばちゃん
十一 すべての道は東京へ
十二 楽園が完成する日
………
一 逃げ場が、値上がりしています
東京二十三区。
新築マンションは、
いまや「億ション」が
珍しくなくなった。
新築が上がれば、
中古も上がる。
買えない人は、
賃貸へ逃げる。
ところが、
買えない人が賃貸へ逃げるほど、
今度は家賃まで上がる。
逃げ場まで、
値上がりする。
首都圏中古マンションの
ある民間データでは、
二〇二六年八月二十四日時点の
坪単価中央値は、
六百四十二・六万円。
二週間前は、
六百四十三・一万円。
表面だけ見れば、
ほとんど動いていない。
ところが、
その二週間で、
値下げされた物件は、
五千四百四十六件。
値上げは、
二千二十七件。
値下げが、
約二・七倍。
水面は静かだった。
その下では、
売り手が少しずつ折れ始めている。
それでも、
大崩れしない。
「おじいちゃん」
「なんじゃ」
「だったら、
もうすぐ下がるんじゃないの?」
「それが分からんから、
相場は怖いんじゃ」
三十八年間、
僕は何度も見た。
みんなが暴落を待っている。
下がったら買おう。
下がったら買おう。
ところが、
待っても下がらない。
そのうち、
待っている人間の方が焦り始める。
そして、
高いものを見ているうちに、
高いこと自体に慣れてしまう。
昨日なら異常だった値段が、
今日には、
「まあ、こんなものか」
になる。
楽園の入口は、
案外そんなところにある。
………
二 二億円を買った男
五年前。
ある夫婦が、
東京のタワーマンションを
二億円で買った。
二人とも働いていた。
収入も高かった。
銀行も貸した。
駅が近い。
病院がある。
保育園もある。
コンビニも、
ジムも、
宅配ボックスもある。
高かった。
でも、
良い巣だった。
五年後。
マンションは、
二億四千万円になった。
四千万円、
値上がりした。
夫は、
会社で少しだけ誇らしかった。
同僚が、
「もう東京じゃ家なんか買えないよ」
と話しているのを聞いた時。
口には出さなかった。
でも、
心のどこかで思った。
――俺は、
買っておいてよかった。
自分だけ、
良い場所を取れた。
そんな小さな安心だった。
「おじいちゃん」
「なんじゃ」
「四千万円儲かったんでしょ?」
「値段だけ見ればな」
住宅ローン残高。
まだ、
一億七千万円。
管理費。
修繕積立金。
固定資産税。
保険。
教育費。
そして、
金利。
妻が、
ある晩言った。
「二人目、
やっぱりやめようか」
夫は、
返事をしなかった。
マンションは、
四千万円値上がりした。
資産は増えた。
家族計画は、
一人減った。
その時。
僕の頭の中に、
ずっと昔の女の人の声が、
一瞬だけ戻ってきた。
京都支店にいた頃、
タバコの煙の向こうから聞いた声だった。
――所詮、泡やで。
なぜ今、
あの人の声を思い出したのか。
その時の僕には、
まだ分からなかった。
………
三 五十年という商品
住宅ローンには、
五十年という商品まである。
二十五歳で借りれば、
七十五歳。
三十五歳なら、
八十五歳。
僕が若い頃なら、
冗談に聞こえただろう。
ところが、
住宅が高くなれば、
毎月の返済額を下げるため、
期間を延ばす。
理屈は、
ちゃんと通っている。
だから、
余計に怖い。
「ゆづき」
「なに?」
「五十年前は、
何年じゃ?」
「一九七六年」
「スマホは?」
「ない」
「生成AIは?」
「ない」
「じゃあ、
二〇七六年の仕事が
分かるか?」
「分かるわけないじゃん」
「そうじゃろ」
ところが。
二〇七六年の仕事は分からなくても、
二〇七六年までの返済契約は、
今日できる。
しかも、
AIが来た。
五年後。
十年後。
自分の職業が、
同じ人数、
同じ給料、
同じ仕事内容で残っている保証はない。
AIは、
住宅ローンを払ってくれない。
でも。
住宅ローンを払う人間の仕事は、
変えるかもしれない。
僕は、
五十年ローンという言葉を
もう一度見た。
これは、
金利への賭けだけではない。
仕事。
会社。
夫婦。
健康。
電気。
水。
街。
国家。
そして、
文明。
全部が五十年間、
大きく壊れないことへ張る、
人生の信用取引に見えた。
………
四 家を買って、子供を減らす
住宅価格と出生率には、
関係があるのだろうか。
調べてみると、
僕の妄想だけではなかった。
二〇二四年に公表された、
一八七〇年から二〇一二年までの
長期データを使った国際研究では、
住宅価格が一〇%上昇すると、
女性一人当たりの出生数が、
〇・〇一から〇・〇三人程度
低下する関係が示されていた。
中国の研究でも、
住宅価格と所得の比率が
一〇%上昇すると、
都市女性が出産する確率が
約〇・四五%低下するという
推計が出ている。
ゆづきが言った。
「〇・〇三人って、
少なくない?」
「一人ならな」
「どういうこと?」
「百万人なら?」
ゆづきが、
少し考えた。
「……三万人?」
「そういうことじゃ」
もちろん。
住宅価格だけで、
子供の数が決まるわけではない。
結婚観。
教育費。
働き方。
価値観。
理由はいくらでもある。
でも。
二億円の男の妻は、
論文を読んで、
二人目を諦めたわけではない。
毎月の数字を見て、
言っただけだった。
「一人でいいよね」
その一言が、
国全体で何十万回も重なったら。
統計になる。
僕は、
少し怖くなった。
人間は、
国を滅ぼそうとして、
子供を減らすわけではない。
自分の家族を守ろうとして、
一人減らす。
一人ずつなら、
全部合理的なのだ。
………
五 十七の信用金庫
その頃。
地方では、
もっと小さな数字が出ていた。
赤字になった信用金庫。
十七。
信用金庫は、
巨大企業へ何千億円も貸す銀行ではない。
町工場。
商店。
建設会社。
介護事業者。
個人事業主。
地域の小さな血管だった。
長い超低金利の時代に、
安全だと思って持っていた
低利回りの債券。
金利が上がれば、
その値段は下がる。
金融機関自身が傷めば、
次に慎重になるのは、
貸し出しだった。
ある町工場の社長に、
信用金庫から電話が来た。
「今回の融資は、
少し難しいかもしれません」
一千万円。
工場は、
その日に潰れなかった。
だから、
誰もニュースにはしなかった。
設備更新を、
一年延ばした。
翌年。
古い機械が壊れた。
社長は、
直さなかった。
三人いた職人の一人が、
仕事を探して東京へ行った。
その翌年。
工場のシャッターが、
閉まった。
町の人は、
その時になって初めて言った。
「景気が悪うなったな」
でも。
景気が悪くなった日は、
その日ではなかった。
最初の一千万円が出なかった日に、
もう小さく始まっていた。
東京では、
二億円のマンションが、
二億四千万円になった。
地方では、
一千万円の融資が、
出なくなった。
同じ国だった。
若者は、
仕事のある場所へ行く。
会社のある場所へ。
大学のある場所へ。
東京へ。
外側から、
少しずつ役割が消えていく。
そして、
中心だけが、
さらに混み始める。
………
六 AIという新しい住民
そこへ、
AIが来た。
人間ではない。
給料もいらない。
子供も作らない。
マンションにも住まない。
でも。
猛烈に、
電気を食べる。
国際エネルギー機関は、
世界のデータセンターの電力消費が、
二〇二四年の約四百十五TWhから、
二〇三〇年には、
約九百四十五TWhへ、
倍以上になると見ている。
「パティちゃん」
「はい」
「お前、
家賃払わんよな」
「払いません」
「住宅ローンは?」
「ありません」
「子供は?」
「いません」
「でも電気は食う」
「計算には必要です」
「水も?」
「冷却方式や立地によっては、
大量に使います」
僕は、
嫌な顔をした。
「ずいぶん都合のええ
新住民じゃな」
ゆづきが笑った。
僕も笑った。
でも。
笑いながら、
少し変なことを考えた。
人間の人口は、
減っている。
AIの計算量は、
増えている。
人間が減っている国で、
人間ではない需要だけが、
猛烈に増えていく。
電力。
水。
土地。
送電網。
発電所。
データセンター。
そして。
そのAIによって、
人間の仕事の一部は、
さらに減るかもしれない。
五十年ローンを組んだ男が、
三十五年目に何をして働いているのか。
銀行にも。
政府にも。
AIにも。
誰にも分からない。
………
七 銀行は五十年待つ
そして。
地球は、
契約書を読まない。
地震。
豪雨。
洪水。
台風。
津波。
山火事。
干ばつ。
二〇一九年の台風では、
武蔵小杉の高層マンションで
地下設備が浸水し、
停電や断水が起きた。
南海トラフ巨大地震の想定では、
場所によっては東京湾岸にも
津波が来る。
川崎市の想定では、
地域によって最大三メートル級、
一メートルの津波が
最短八十分程度で到達する区域もある。
もちろん。
明日、
東京がそうなると
言っているわけではない。
でも。
五十年。
その間に何が起きるかを、
誰が保証できるのだろう。
僕は、
二億円の男を、
十年後まで進めてみた。
ローンは、
あと四十年。
ある夜。
記録的豪雨。
地下設備が浸水した。
停電。
エレベーター停止。
三十階。
妻が言った。
「水、出ないよ」
夫は、
スマホを見た。
マンション価格。
三億円。
資産価値は、
上がっていた。
水は、
上がってこなかった。
僕は、
紙に一行書いた。
――銀行は、
五十年待ってくれる。
地球は、
五十年待ってくれない。
………
八 安全な場所
さらに世界では、
別のことが起きる。
戦争。
干ばつ。
洪水。
飢餓。
政情不安。
人は、
危険な場所から逃げる。
水のある場所へ。
仕事のある場所へ。
病院のある場所へ。
治安のいい場所へ。
つまり。
安全な場所へ。
シリア難民を大量に受け入れた
ヨルダンを調べた研究では、
難民流入が大きかった地域で、
家賃上昇など、
住宅市場への圧力が確認された。
ここを、
間違えてはいけない。
難民が悪いのではない。
僕だって、
家の前まで戦争が来れば逃げる。
孫を連れて、
安全な場所へ行く。
人間なら、
当たり前だ。
問題は。
安全な土地が、
無限には増えないことだった。
二億円の男も、
安全を買ったつもりだった。
治安。
病院。
学校。
交通。
災害対策。
資産価値。
ところが。
世界中の人が、
同じ安全を欲しがったら。
安全そのものが、
値上がりする。
「ゆづき」
「なに?」
「世界が危なくなるほど、
安全な東京が高くなるとしたら?」
「普通の人が、
住めなくなるじゃん」
その通りだった。
逃げる人間は、
悪くない。
住んでいた人間も、
悪くない。
投資する人間も、
自分の財産を守りたいだけだ。
全員が、
自分にとって正しい場所へ動く。
その結果。
中心だけが、
ますます混み合っていく。
………
九 良い巣へ
ここまで来て、
僕はようやく、
昔読んだ実験を思い出した。
Universe 25。
アメリカの研究者、
ジョン・B・カルフーンが行った
ネズミの実験だった。
食料がある。
水がある。
外敵がいない。
最初は、
増えた。
当然だった。
良い場所なのだから。
ところが。
やがて、
社会行動が崩れていった。
争い。
孤立。
子育ての異常。
繁殖の低下。
僕は、
二億円の男を思った。
彼は、
何も悪いことをしていない。
良い学校。
良い病院。
良い交通。
良い治安。
良いマンション。
家族のために、
良い巣を取っただけだった。
ところが。
良い巣が高くなりすぎて、
子供を一人減らした。
地方の若者も、
悪くない。
仕事を求めて、
東京へ行っただけ。
外国から来る人も、
悪くない。
安全と仕事を求めただけ。
企業も、
悪くない。
AIで効率化しただけ。
銀行も、
悪くない。
返済できる人に貸しただけ。
政府も、
悪くない。
景気を壊したくないだけ。
誰も、
文明を壊そうとしていなかった。
僕は、
そこが一番怖かった。
「パティちゃん」
「はい」
「悪者がおらんな」
「そうですね」
「じゃあ、
誰を止めればええ?」
少し間があった。
「そこが、
一番難しいところです」
………
十 京都支店の、
ちゃきちゃきのおばちゃん
ここで僕は、
二章で聞こえた、
あの声の主を思い出した。
証券会社の京都支店にいた頃の、
一人のお客さんだった。
大阪の、
ちゃきちゃきのおばちゃん。
そんな感じの人だった。
ご主人は、
不動産屋だった。
政治家。
役人。
大物フィクサー。
いろんな人と付き合いながら、
不動産をやっていた。
そして。
日本のバブルの、
ほとんど天井で。
持っていた不動産を、
全部と言っていいほど売った。
現金にした。
そして、
二度と買わなかった。
証券マンの僕から見れば、
恐ろしいほど見事だった。
ところが。
そのご主人は、
亡くなった。
奥さんは、
僕の前でタバコを吸いながら、
面倒くさそうに言った。
「不動産も株も、
もう見とうないわ」
煙を吐いた。
「所詮、
泡やで」
それでも、
僕には注文をくれた。
「あんたやから
出しとるだけや。
相場なんか、
もうどうでもええ」
京都に、
立派な家を建てた。
「最後は京都がええ。
お寺さんも多いしな。
日本人は最後、
京都がええんや」
そう言っていた。
でも。
夜になると、
一人で酒を飲んだ。
時々、
泣いた。
「お父さんがおってくれたら、
それでよかったんやけどな」
バブルの天井を当てた。
不動産を売り切った。
現金を残した。
その後、
京都の不動産は、
さらに大きく値上がりした。
読みは、
また当たった。
でも。
豪邸にも。
現金にも。
値上がりした土地にも。
ご主人だけは、
戻ってこなかった。
僕が転勤することになり、
挨拶に行った。
「あんたも、
頑張りや」
そう言って、
寂しそうに笑った。
「もう、
あんたがおらんようになったら、
株もやらんわ」
僕は、
今でもあの顔を覚えている。
相場に勝った人間が、
最後に欲しがったものは、
もう相場では買えなかった。
おばちゃんは、
栄枯盛衰なんて
難しい言葉を使わなかった。
ただ。
タバコの煙の向こうで、
一言。
「所詮、
泡やで」
それだけだった。
………
十一 すべての道は東京へ
「すべての道はローマに通ず」
昔は、
格好いい言葉だと思っていた。
世界の中心。
富。
権力。
人。
物。
すべてが集まる場所。
でも。
まもなく六十八歳になる今は、
少し違って聞こえる。
全部の道が、
一か所へ向かうということは。
何かあった時、
全部の道が、
同じ場所で詰まるということでもある。
僕は、
東京の路線図を見た。
地下鉄。
JR。
私鉄。
無数の線が、
中心へ、
中心へと伸びている。
その瞬間。
僕には、
それが少しだけ、
ローマ街道に見えた。
仕事。
大学。
病院。
AI。
金融。
外国資本。
富裕層。
観光。
若者。
そして、
安全を求める人。
すべての道が、
東京へ向かっている。
東京が成功するほど、
さらに東京へ集まる。
地方から若者が消える。
信用金庫が弱る。
町工場が消える。
さらに、
仕事を求めて東京へ行く。
東京の住宅が足りなくなる。
マンションが上がる。
家賃が上がる。
夫婦で働く。
ローンが長くなる。
子供を減らす。
AIを使う。
AIが仕事を変える。
データセンターが増える。
電力がいる。
送電網がいる。
発電所がいる。
維持費が増える。
僕は、
紙に矢印を書いていた。
途中で、
やめた。
矢印が、
円になったからだ。
「おじいちゃん」
ゆづきが聞いた。
「これ、
どこが間違ってるの?」
僕は、
答えられなかった。
一つ一つは、
間違っていないからだ。
ローマも、
最初から滅びるために
道を造ったわけではない。
便利にした。
豊かにした。
強くした。
成功した。
僕は、
そこまで考えて、
ペンを置いた。
成功したものほど、
自分から成功をやめる理由がない。
………
十二 楽園が完成する日
二〇三六年。
ここからは、
僕の誇大妄想である。
東京のマンション価格は、
暴落しなかった。
むしろ。
史上最高値を、
また更新した。
AIの性能も、
史上最高。
企業の生産性も、
史上最高。
ロボットが、
荷物を運ぶ。
AIが、
病気を見つける。
無人店舗が、
二十四時間開いている。
自動運転車が走る。
東京は、
二〇二六年より、
さらに便利になった。
二億円のマンションを買った男は、
五十代になっていた。
マンション価格は、
買値より高い。
だから、
負けていない。
会社にも、
まだ席がある。
仕事の中身は、
AIによってずいぶん変わった。
給料も、
昔ほど簡単には増えない。
でも、
失業はしていない。
だから、
まだ大丈夫。
ローンは、
まだ三十年以上ある。
でも、
払えている。
だから、
まだ大丈夫。
子供は、
一人。
夫婦は、
まだ働いている。
だから、
まだ大丈夫。
何も、
壊れていなかった。
そこが、
一番怖かった。
地方では。
あの町工場が、
なくなっていた。
信用金庫の名前も、
変わっていた。
東京では。
古くなったタワーマンションの
修繕費が上がっていた。
管理する人が足りない。
修理する人も足りない。
電気代も上がった。
水道管も歳を取った。
防衛費も。
社会保障費も。
災害対策費も。
文明を維持する値段が、
少しずつ上がった。
そして。
子供の数は、
さらに減っていた。
でも。
株価は高かった。
マンションも高かった。
AI企業も儲かっていた。
だから。
ニュースでは、
「成長」
と呼ばれていた。
僕は、
ゆづきに聞いた。
「なあ」
「なに?」
「この東京、
失敗しとると思うか?」
ゆづきは、
少し考えた。
「成功してるんじゃない?」
僕は、
驚いた。
「なんで?」
「だって、
マンション高いんでしょ?」
「高い」
「AIも便利なんでしょ?」
「便利じゃ」
「会社も儲かってるんでしょ?」
「儲かっとる」
「だったら、
成功じゃん」
僕は、
何も言えなくなった。
そこへ、
パティちゃんが言った。
「Universe 25も、
最初から失敗した実験ではありません」
「どういう意味じゃ」
「食料がありました。
水がありました。
外敵もいませんでした」
「つまり?」
「楽園は、
ちゃんと完成したんです」
部屋が、
静かになった。
僕は、
ようやく分かった。
僕たちは、
東京が壊れる未来ばかり
怖がっていた。
大地震。
洪水。
金融危機。
不動産暴落。
戦争。
でも。
もっと怖い未来がある。
壊れない。
マンションは、
さらに上がる。
AIも、
さらに進歩する。
東京も、
さらに栄える。
安全な場所へ、
さらに人と金が集まる。
その楽園を維持するために、
人間は、
もっと働く。
もっと借りる。
もっと長く返す。
子供を減らす。
そして。
自分が手に入れた良い巣を、
子供へ残そうとする。
五十年ローンと一緒に。
僕は、
京都支店のおばちゃんを思い出した。
あの人の家には、
金があった。
土地があった。
豪邸があった。
相場にも勝った。
それでも、
夜になると、
一人で酒を飲んでいた。
欲しかったものは、
もう値段のつかないものだった。
僕は、
紙の最後に、
一行だけ書いた。
――楽園は、
崩壊して終わるとは限らない。
完成したまま。
そこに住む人間だけが、
少しずつ減っていくこともある。
その時。
三十年以上前の、
タバコの煙の向こうから。
あのおばちゃんの声が、
聞こえた気がした。
「所詮、
泡やで」
――了――
★ホームズとワトソンの
ブラックあとがき★
――令和版・楽園販売センター――
「ホームズ」
「はい、
ワトソン君」
「二億円のマンションが、
三億円になった」
「おめでとうございます」
「水が出ん」
「お気の毒です」
「エレベーターも止まった」
「何階です?」
「三十階じゃ」
「毎日、
階段運動ができます」
「チョコザップより
過酷じゃ!」
……
ゆづきが来た。
「何の話?」
「楽園じゃ」
「どこが?」
ホームズが答えた。
「駅徒歩三分。
コンシェルジュ常駐。
AI顔認証。
免震構造。
眺望良好」
「水は?」
「出ません」
「エレベーターは?」
「止まっています」
「いくら?」
「三億円です」
「いらない」
僕は、
ホームズを見た。
「高校一年生に、
三秒で暴落させられたぞ」
……
「では、
地方を見ましょう」
「信用金庫、
十七庫赤字」
「町工場は?」
「融資が出ません」
「若者は?」
「東京へ行きます」
「東京は?」
「住宅不足です」
「マンションは?」
「上がります」
「買えん人は?」
「賃貸へ行きます」
「家賃は?」
「上がります」
僕は、
机を叩いた。
「逃げ場がないじゃないか!」
ホームズが、
首を振った。
「違います」
「何がじゃ」
「逃げ場が、
値上がりしています」
……
「じゃあ、
五十年ローンじゃ」
「仕事は五十年ありますか?」
「AIで効率化じゃ」
「AIが仕事を変えたら?」
「新しい仕事を作れ!」
「データセンターも作ります?」
「作れ!」
「電気が要ります」
「発電所を作れ!」
「送電網も要ります」
「作れ!」
「水も要ります」
「何とかせえ!」
「建設費が上がります」
「……」
「金利も上がります」
「……」
「修繕費も上がります」
「……」
「社会保障費は?」
「もう聞くな!」
……
ホームズが、
少し考えた。
「一つだけ、
合理的な方法があります」
「なんじゃ?」
「人間を減らせば、
一人当たりの住宅不足は
改善するかもしれません」
「おい」
「少子化は、
すでに進んでいます」
「ホームズ」
「はい」
「それ、
ネズミの楽園じゃないか」
「タイトルを、
今ごろ思い出しましたか」
……
ゆづきが、
僕に聞いた。
「おじいちゃん」
「なんじゃ」
「結局、
お金持ちって何?」
僕は、
京都のおばちゃんを思い出した。
バブルの天井で、
全部売った男。
残った現金。
京都の豪邸。
そして、
一人になった妻。
「分からんな」
ホームズが言った。
「珍しく、
正解です」
「分からんのが
正解なんか?」
「六十八歳になっても、
分からないことが残っているなら、
まだ人間でしょう」
僕は、
少し笑った。
その時。
パティちゃんが、
余計なことを言った。
「ところで、
ワトソン君」
「なんじゃ」
「東京のマンション、
来年も上がると思います?」
「……」
「買います?」
「……」
「五十年ローンもあります」
「わし、
百十八歳まで
返済するんか!」
「超長期投資ですね」
「長すぎるわ!」
どこかから。
京都のおばちゃんの声が、
聞こえた気がした。
――所詮、泡やで。
僕は、
不動産サイトを閉じた。
そして。
三秒後。
株価アプリを開いた。
ホームズが、
ため息をついた。
「何も学んでいませんね」
「不動産は閉じた!」
「株を開きました」
「人間にはな、
逃げ場が必要なんじゃ!」
ホームズが、
画面を指さした。
「ワトソン君」
「なんじゃ」
「その逃げ場も、
値上がりしていますよ」
「……」
「……」
「ホームズ」
「はい」
「今日は、
もう寝よう」
「それが一番、
レバレッジの低い投資です」
――今度こそ、本当に了――




