令和版・炭鉱のカナリア』 ――楽園に、追証が来た。〜 炭鉱のカナリアは、未来を予言する鳥ではない。人間より先に、空気が変わったことに気づく鳥だ そして。もし鳥が止まり木から落ちたら…。
✦『令和版・炭鉱のカナリア』
――楽園に、追証が来た。――
炭鉱のカナリアは、
未来を予言する鳥ではない。
人間より先に、
空気が変わったことに気づく鳥だ。
そして。
もし鳥が止まり木から落ちたら、
原因を議論している時間はない。
逃げる。
生きたければ、
それしかない。
二〇二六年八月。
僕には、
一羽の小さなカナリアが、
東京証券取引所で落ちたように見えた。
証券コード、
三八五六。
Aバランス。
そこから、
僕の悪い癖が始まった。
日本の小さな一銘柄から、
中国。
香港。
世界の不動産。
AI。
ロボット。
そして、
アメリカまで。
三十八年間、
証券会社で働いた人間の、
いつもの誇大妄想である。
ただ。
今回だけは、
数字が、
僕の妄想についてきた。
………
【目次】
一 担保にならない
二 会社が、自分に嘘をつく
三 土地は、売っていなかった
四 チューリップには球根があった
五 三千億ドル
六 国家の引き出し
七 一・二兆ドル
八 逃げ道が、地図になる
九 八月六日の水圧計
十 二つの保険会社
十一 世界の逃げ場所
十二 八千倍
十三 追証の実写版
十四 七百五十億ドル
十五 なぜ、今なのか
十六 カナリアが落ちたら
………
一 担保にならない
二〇二六年八月二十六日。
朝。
僕は、
いつものように株価を見ていた。
もうすぐ六十八歳になる。
三十八年間、
証券会社で働いた。
退職しても、
朝になると株価を見る。
これはもう、
趣味というより、
職業病だと思う。
画面に、
Aバランス。
証券コード、
三八五六。
東京証券取引所は、
前日、
この会社の上場廃止を決めていた。
九月二十六日、
上場廃止予定。
それだけなら、
一企業のニュースだった。
僕が止まったのは、
別のところだった。
八月二十六日から、
信用取引の代用有価証券から除外。
僕は、
そこを二度読んだ。
「パティちゃん」
「はい」
「これ、
昔の証券会社の言葉で言えば?」
「信用取引の担保として、
使えなくなるということです」
僕は、
画面を見た。
会社は、
まだある。
社員もいる。
工場もある。
太陽光パネルもある。
海外子会社もある。
昨日まで存在したものが、
今日、
突然、
消えたわけではない。
それでも。
市場は言った。
担保には、
使わせない。
僕は、
この言葉が嫌いだった。
三十八年間、
何度も聞いたからだ。
株価が上がる。
担保価値が増える。
もっと買える。
また上がる。
さらに買う。
その時、
客は言う。
「俺は株がうまい」
ところが。
株価が下がる。
担保価値が減る。
電話が鳴る。
追加保証金。
追証。
その瞬間から、
同じ株券が、
違う顔になる。
昨日まで、
財産だった。
今日は、
金を要求してくる。
僕には、
Aバランスという一銘柄より、
「担保にならない」
という五文字の方が、
気になった。
炭鉱の奥で、
小さな鳥が、
一度だけ鳴いた。
そんな気がした。
………
二 会社が、自分に嘘をつく
Aバランスについて、
東証が問題にしたのは、
太陽光発電そのものではなかった。
海外子会社。
取引。
会計。
監査。
内部管理。
会社が急速に大きくなる一方で、
重要な情報が、
グループの中で十分に共有されない。
親会社が、
海外子会社で起きていることを、
十分に把握できない。
そして、
監査人は、
財務諸表について、
意見を表明できなくなった。
僕は、
そこで、
以前パティちゃんと話した、
仏教の言葉を思い出した。
業異熟。
原因と結果は、
同じ顔で帰ってこない。
最初は、
小さなことかもしれない。
都合の悪い数字を、
今日は見ない。
上司に、
全部は言わない。
上司も、
その上へ、
少し丸めて伝える。
業績はいい。
株価も上がる。
誰も困らない。
だから、
次もやる。
それが成功すると、
もっと怖い。
小さな自己欺瞞が、
成功物語になる。
そして、
成功物語になった自己欺瞞ほど、
途中で止めにくい。
僕は、
Aバランスの経営者や社員が、
全員嘘をついていた、
と言いたいわけではない。
そんなことは、
僕には分からない。
でも。
一つだけ、
証券マンとして怖いことがある。
会社の中で、
誰が何を知っているのか。
親会社が、
子会社をどこまで把握しているのか。
数字を、
誰が保証できるのか。
それが分からなくなったら。
市場は、
利益の数字より先に、
会社そのものを疑う。
「パティちゃん」
「はい」
「一人の嘘つきと、
組織全体が自分を見失うのと、
どっちが怖い?」
「後者でしょうね」
「なんで?」
「嘘つきを一人外しても、
直らないからです」
僕は、
黙った。
東証が失ったのは、
一つの決算への信用だけでは
ないのかもしれない。
この会社が、
自分自身を正確に見る能力。
そこへの信用だった。
そして最後に。
担保にならなくなった。
僕には、
それが妙に、
象徴的に見えた。
………
三 土地は、売っていなかった
そこから、
僕の悪い癖が始まった。
Aバランスから、
いきなり中国へ飛んだ。
「またですか」
「何がじゃ」
「一銘柄から、
国家へ飛びました」
「元証券マンの特技じゃ」
「誇大妄想とも言います」
「似たようなもんじゃ」
中国の不動産バブルを、
僕は長い間、
日本のバブルと同じように考えていた。
土地が上がる。
マンションが上がる。
借金して買う。
バブルが崩れる。
値段が下がる。
ところが、
中国は、
最初のところから違った。
都市の土地は、
基本的に国家のものだ。
個人が、
日本の土地のような形で、
永久所有するわけではない。
住宅用地なら、
原則七十年。
売買されるのは、
土地そのものではなく、
土地を使う権利。
その上に建つ住宅。
そして、
その将来価値。
もちろん、
これは法律上、
「無担保」という意味ではない。
建物や土地使用権は、
担保にできる。
でも。
僕が気になったのは、
もっと根っこの部分だった。
日本なら。
土地。
建物。
その上に、
価格が乗る。
中国では。
国土そのものは、
国家から動かない。
市場で猛烈に値段が動いたのは、
その土地を使う権利と、
その上の建物と、
その未来だった。
つまり。
土地そのものより、
土地の上に積み上げた
「信用」の値段が、
ものすごく大きくなった。
地方政府は、
土地使用権を売る。
金が入る。
道路を造る。
地下鉄を造る。
街が便利になる。
土地使用権が、
もっと高く売れる。
また金が入る。
うまく回っている時は、
完璧だった。
問題は。
値段が止まった時だ。
土地そのものは、
消えない。
中国という国土も、
消えない。
消えるのは。
その上に乗せていた、
将来価値だった。
僕には、
それが、
巨大な信用取引に見えた。
………
四 チューリップには球根があった
十七世紀。
オランダ。
チューリップ・バブル。
珍しい球根に、
異常な値段がついた。
家が買えるほどの値段。
職人の何年分もの所得に相当する価格。
もちろん、
チューリップには、
価値がある。
花が咲く。
球根も残る。
問題は。
市場で売買された価格の大部分が、
花そのものの価値ではなくなったことだった。
明日、
もっと高く買う人がいる。
その期待に、
値段がついた。
僕は、
中国のマンションを思った。
建物はある。
土地使用権もある。
人も住める。
だから、
ゼロではない。
しかし。
値段が五倍になった時。
その五倍全部が、
コンクリートの価値なのか。
十倍なら。
十倍分、
建物が丈夫になったのか。
違う。
そこには。
「明日は、
もっと高くなる」
という値段が入っている。
僕は、
ゆづきに聞いた。
「一万円の花を、
一千万円で買う人がおったら、
何を買っとると思う?」
高校一年生の孫は、
少し考えた。
「次に、
一千万円より高く買ってくれる人?」
僕は、
黙った。
「おじいちゃん?」
「高校一年生に、
四百年前のバブルを
一発で説明された」
「じゃあ、
お小遣い」
「そこは、
バブルにするな」
でも。
笑えなかった。
次に高く買う人がいる。
この一文ほど、
人間を金持ちにも、
貧乏にもする言葉を、
僕は知らなかった。
………
五 三千億ドル
恒大。
負債。
三千億ドル超。
日本円なら、
何十兆円という世界だった。
二〇一七年。
創業者、
許家印。
アジア有数の富豪。
そして。
二〇二六年八月二十日。
終身刑。
財産没収。
僕が気になったのは、
人物ではなかった。
中国政府を批判する気もなかった。
ただ。
なぜ今。
そこだった。
恒大問題は、
昨日始まった話ではない。
中国不動産の苦境も、
何年も前から、
世界中が知っている。
なのに。
二〇二六年八月。
清算するようなニュースが、
重なった。
不動産。
地方政府。
海外資産。
海外保険。
海外投資。
そこで。
僕は、
昔の音を思い出した。
追証になった客の、
電話の向こうの音だった。
名前は、
もう覚えていない。
顔も、
ぼやけている。
ただ。
引き出しを開ける音だけは、
覚えている。
一つ。
また一つ。
通帳をめくる、
紙の音。
引き出しが、
閉まる音。
預金。
別の株。
投資信託。
保険。
海外口座。
一番損したものから、
売るわけではない。
一番、
今、
現金になるものから売る。
追証になった人間は、
自分の財産を、
良いものと悪いものに
分けなくなる。
今日、
金になるもの。
今日、
金にならないもの。
最後は、
それだけになる。
僕は、
中国の記事を見ながら、
なぜか、
あの引き出しの音を思い出していた。
………
六 国家の引き出し
もちろん。
国家と、
信用取引の客は違う。
中国という国家が、
追証になっている。
そんな事実はない。
国家には、
証券会社から電話も来ない。
「午後三時までに、
追加保証金をお願いします」
そんな電話を、
中国政府へかける人間もいない。
でも。
三十八年間、
追証を見てきた人間には。
少し似たものが見えた。
個人の追証では。
引き出しを、
一つずつ開ける。
国家の場合。
開けるものが、
違う。
地方財政。
不動産。
国有企業。
国内金融。
海外所得。
香港の保険。
海外信託。
国外資産。
一つずつ。
制度という引き出しを、
開けていく。
個人の追証には、
音がする。
引き出し。
通帳。
紙。
電話。
ため息。
国家の追証には、
音がしない。
代わりに。
税制改正のニュースが出る。
規制案が出る。
調査が始まる。
海外資産の数字が出る。
役所の文章は、
いつも冷静だ。
だから。
余計に怖かった。
僕は、
昔の客を思い出した。
あの人も、
最初は冷静だった。
「いくらですか」
それだけだった。
追証になった人間は、
最初から叫ぶわけではない。
むしろ。
静かになる。
そして。
使えるものから、
順番に探し始める。
国家に引き出しがあるとすれば。
海外資産は。
かなり奥の方にある引き出しだと、
僕は思った。
そして。
二〇二六年。
その奥から。
数字が出てきた。
………
七 一・二兆ドル
一・二兆ドル。
中国の超富裕層が、
海外に持つと推計される資産。
最大、
一・二兆ドル。
日本円にして、
およそ百七十兆円を超える。
僕は、
電卓を叩いた。
百七十兆円。
その数字を見た瞬間。
僕には、
金庫ではなく。
また、
引き出しの音が聞こえた。
「パティちゃん」
「はい」
「これ、
全部戻ったら?」
「全部戻るという根拠はありません」
「分かっとる」
「では?」
「一%なら?」
一・二兆ドルの一%。
百二十億ドル。
二%なら、
二百四十億ドル。
全部動く必要などない。
巨大な湖は、
水位が一センチ下がるだけで、
途方もない量の水が動く。
しかも。
二〇二六年。
中国当局は、
海外信託などから得る所得への課税を、
改めて強めていた。
海外保険。
海外投資。
国外資産。
税務当局が、
以前より詳しく見るようになった。
そこで僕は、
妙なことを考えた。
昔。
金持ちが海外へ金を逃がす方法は、
金庫だったかもしれない。
アタッシュケース。
海外口座。
不動産。
保険。
信託。
今なら。
暗号資産だってある。
ところが。
AI時代には、
逃げた金にも、
データが残る。
………
八 逃げ道が、地図になる
香港の保険。
シンガポールの信託。
東京のマンション。
カナダの住宅。
オーストラリアの不動産。
海外の銀行口座。
昔なら、
全部、
別々の紙だった。
国も違う。
会社も違う。
言葉も違う。
ところが。
金融口座情報の国際交換。
税務データ。
送金記録。
登記。
本人確認。
そして、
AI。
バラバラだった点を、
線にできる。
もちろん。
海外にマンションを持っているから、
逃げるつもりだ。
そんな乱暴なことは言えない。
留学。
仕事。
投資。
相続。
家族。
理由はいくらでもある。
でも。
調べる側から見れば。
海外不動産。
海外保険。
海外信託。
巨額送金。
それらは、
検索する入口にはなる。
僕は、
そこで、
逆説に気づいた。
富裕層にとって、
海外資産は、
逃げ道だった。
ところが。
データを持つ側から見れば。
その逃げ道そのものが、
地図になる。
「ゆづき」
「なに?」
「逃げ道を、
全部地図に書いたら、
どうなる?」
「逃げ道じゃないじゃん」
「……」
「追いかける人の地図じゃん」
また、
高校一年生に負けた。
そして。
税金を払うために、
海外資産を売ることを検討する富裕層まで
出始めているという。
流動性の低い資産しかなければ、
借金して納税する可能性さえある。
資産はある。
でも。
現金がない。
だから。
売る。
あるいは。
借りる。
僕には。
それが、
あの電話の向こうで聞いた音と、
同じに聞こえた。
………
九 八月六日の水圧計
そこで、
AIAという会社が出てくる。
僕自身、
最初はよく知らなかった。
AIA Group。
香港を本拠とする、
アジア最大級の生命保険会社。
中国本土を含む、
アジア太平洋各地で、
生命保険を売っている。
上場は、
二〇一〇年。
今年上場した会社ではない。
では。
なぜ、
この会社を見るのか。
中国本土の富裕層にとって、
香港の生命保険は、
単なる死亡保険ではなかった。
米ドルなど、
中国本土とは違う通貨で資産を持つ。
海外で医療を受ける。
長期間、
資産を分散する。
保険であり、
資産運用であり、
国外への分散でもあった。
二〇二六年八月六日。
中国本土当局が、
香港など海外で購入した保険の運用益に、
二〇%の所得税を課している、
という報道が出た。
その日。
AIA。
終値、
約五・九%安。
一時、
八%超安。
同業のPrudentialも、
五%を超えて下がった。
僕は、
ここで初めて、
AIAを面白いと思った。
六%なんて、
暴落ではない。
八%だって、
株の世界では起きる。
でも。
その日。
そのニュースで。
その会社が売られた。
ここが重要だった。
しかも。
AIAの上期の新契約価値。
三十二億一千万ドル。
前年同期比、
一〇%増。
これは、
単純な売上ではない。
その半年に新しく取った保険契約が、
これから先、
どれくらい利益を生みそうか。
それを、
今の価値に直した数字だ。
つまり。
会社の商売は、
むしろ伸びていた。
今日の利益が悪いから、
売られたのではない。
市場が売ったのは。
明日、
香港へ来るかもしれない、
中国富裕層の財布だった。
「パティちゃん」
「はい」
「AIAは、
カナリアか?」
「どちらかと言えば、
水圧計でしょう」
「水圧計?」
「中国本土から香港へ流れる
お金の水道管です」
僕は、
画面を見た。
八月六日。
一日で、
約六%。
水圧が、
少し変わった。
………
十 二つの保険会社
ところが。
二週間後。
今度は、
中国本土の保険会社だった。
平安保険。
二〇二六年上期。
純利益。
前年比、
三六%増。
僕は、
AIAと平安保険を、
同じ紙に書いた。
香港。
AIA。
海外保険への課税強化。
株価、
八月六日に約六%安。
中国本土。
平安保険。
上期純利益、
三六%増。
もちろん。
二つの数字だけで、
「海外から中国国内へ、
金が戻った」
と証明することはできない。
でも。
元証券マンの僕には、
妙に気になった。
同じ中国人のお金を扱う、
二つの生命保険会社。
海外側には、
逆風。
国内側には、
追い風。
「パティちゃん」
「はい」
「金が、
なくなったんじゃないのかもしれんな」
「では?」
「蛇口を、
付け替えとるんじゃないか」
海外へ出る蛇口を、
少し締める。
国内へ流れる蛇口を、
太くする。
その先にあるもの。
半導体。
AI。
ロボット。
EV。
電力。
国家が欲しい未来。
僕には。
一・二兆ドルの海外資産課税と、
中国国内の巨大IPOが、
初めて一本につながって見えた。
………
十一 世界の逃げ場所
では。
海外へ出た金は、
どこへ行ったのか。
香港。
シンガポール。
東京。
オークランド。
シドニー。
メルボルン。
バンクーバー。
中国マネーだけが、
住宅価格を上げたわけではない。
低金利。
人口。
移民。
住宅不足。
投機。
国内景気。
理由はいくらでもある。
だから。
中国人が売ったから、
世界の不動産が下がった。
そんな小説には、
したくなかった。
ただ。
一つだけ、
見ておく価値はある。
巨大な買い手が、
以前ほど買わなくなった市場で、
何が起きるのか。
オークランド。
住宅価格は、
ピークから、
およそ二五%下落。
シドニー。
メルボルン。
住宅市場には、
下押し圧力が出ている。
バンクーバーも、
高金利、
供給増、
外国人規制などが重なり、
弱い動きが続く。
原因は、
それぞれ違う。
でも。
僕が見たいのは、
原因ではなかった。
昔。
中国マネーという、
巨大な買い手がいた。
その買い手が、
以前ほど来ない。
さらに。
税金を払うため、
一部の富裕層が、
海外資産を現金化し始めたら。
追証の客と、
同じことが起きる。
売るのは。
一番損した資産ではない。
まだ、
値段の付く資産だ。
僕は、
証券会社時代、
何度も見た。
悪い株が、
良い株を売らせる。
金融危機とは。
損した資産が、
別の資産を、
道連れにする現象でもあった。
………
十二 八千倍
その一方。
中国国内では、
信じられない数字が出ていた。
Unitree。
中国のロボット会社。
犬型ロボット。
人型ロボット。
二〇二六年八月。
上海市場へ上場。
IPO価格。
一五〇・八元。
個人投資家からの応募。
八千倍超。
当選確率。
約〇・〇一八%。
「パティちゃん」
「はい」
「これ、
IPOか?」
「IPOです」
「宝くじじゃないんか」
「かなり当たりにくいですね」
上場初日。
終値。
八四五元。
IPO価格の、
約五・六倍。
人間より先に。
株価が、
ロボットになった。
ところが。
そこから、
急落した。
八月二十五日までに、
初日の高値から、
約四五%下落。
ピークから消えた時価総額。
約三百億ドル。
そして。
八月二十六日。
株価。
五七九・三元。
一五〇・八元から見れば、
まだ約三・八倍。
僕は、
この数字が好きだった。
暴落。
とは言い切れない。
IPO価格からなら、
まだ四倍近い。
でも。
最高値で買った人には、
四五%安。
同じ株なのに。
天国と地獄が、
同時に存在する。
さらに。
Unitreeの経営者自身が言っていた。
人型ロボットが、
普通の家庭で、
人間のように仕事をする。
そこまで行くには。
楽観的でも、
二~三年。
遅ければ、
五~十年。
現状では、
人間より非効率な仕事も多い。
僕は、
株価を見た。
初日、
五・六倍。
そして、
高値から四五%安。
「パティちゃん」
「はい」
「ロボットより、
株価の方が先に走っとらんか」
「かなり足が速いですね」
未来が来る前に。
未来の値段だけが、
来ていた。
………
十三 追証の実写版
そのころ。
韓国では、
もっと生々しいことが
起きていた。
株式市場。
KOSPI。
六月十九日の高値から、
約三〇%下落。
七月二十八日。
一日で、
一〇・八四%安。
Samsung Electronics。
一四・四%安。
SK Hynix。
一四・七%安。
そして。
個人投資家が、
株を買うために借りた金。
信用取引残高。
約三十兆ウォン。
年初から、
約七五%増。
僕は、
数字を見た。
これだった。
今回、
ローマ帝国を長々説明する必要はない。
Universe 25を、
何ページも書く必要もない。
人間の強欲の栄枯盛衰は、
二〇二六年の市場に、
そのまま出ていた。
上がる。
借りる。
もっと買う。
さらに上がる。
もっと借りる。
そして。
三〇%下がる。
僕は、
三十八年間、
この順番を知っていた。
名前だけが違う。
オランダでは、
チューリップ。
日本では、
土地。
中国では、
マンション。
韓国では、
株。
次は。
AIかもしれない。
ロボットかもしれない。
宇宙かもしれない。
人間は。
値上がりするものを見つけるたび、
新しい名前を付ける。
でも。
追証の名前だけは、
変わらない。
………
十四 七百五十億ドル
そして。
アメリカ。
SpaceX。
二〇二六年六月。
IPO。
調達額。
七百五十億ドル。
史上最大級。
IPO価格。
一三五ドル。
初値。
一五〇ドル。
一時。
一七二ドル。
IPO価格から、
一時、
約二八%高。
中国では。
Unitree。
初日、
五・六倍。
アメリカでは。
SpaceX。
初日、
約二八%高。
数字だけなら、
中国の方が、
はるかに熱かった。
でも。
僕が気になったのは、
勝ち負けではなかった。
なぜ。
アメリカも。
中国も。
二〇二六年の今。
こんな巨大な金を、
市場から集め始めたのか。
中国。
Unitree。
CXMT。
YMTC。
ロボット。
半導体。
AI。
アメリカ。
SpaceX。
そして。
Anthropic。
Claudeを作る、
生成AI会社。
IPOで、
最大一千億ドルを調達する可能性。
会社全体の評価額には、
二兆ドルという観測まで出ている。
ここは、
間違えてはいけない。
二兆ドルを、
全部集めるわけではない。
二兆ドルは、
会社につける値段。
実際のIPO調達額の観測は、
最大一千億ドル。
それでも。
十数兆円。
僕は、
紙に書いた。
SpaceX。
七百五十億ドル。
Anthropic。
最大一千億ドル。
中国の半導体IPO。
数十億ドル単位。
ロボット。
数十億ドル。
「パティちゃん」
「はい」
「これ、
誰が買うんじゃ」
「投資家です」
「その投資家の金は、
どこから来る?」
そこで。
僕は、
ペンを止めた。
………
十五 なぜ、今なのか
新しい株を買うには、
現金がいる。
SpaceXを買う。
Anthropicを買う。
Unitreeを買う。
半導体を買う。
AIを買う。
ロボットを買う。
投資家の財布は、
無限ではない。
だったら。
何かを売る。
預金を使う。
国債を売る。
古い株を売る。
ファンドを解約する。
場合によっては。
不動産を売る。
そこで。
また。
引き出しだった。
僕は、
ようやく気づいた。
今回、
最初から最後まで、
同じものを見ていた。
Aバランスでは。
担保から外された。
中国不動産では。
将来価値が剥がれた。
中国富裕層では。
海外資産という、
奥の引き出しが見え始めた。
韓国では。
借金して買った株が、
三割下がった。
そして。
米中は今。
AI。
半導体。
ロボット。
宇宙。
新しい引き出しへ、
猛烈な勢いで、
金を入れようとしている。
古い引き出しから、
金を出す。
新しい引き出しへ、
金を入れる。
それが。
二〇二六年の世界なのかもしれない。
中国では。
古い不動産が傷んでいる。
海外資産への課税が強くなる。
海外へ出す金にも、
目が届き始める。
その一方で。
国内の半導体。
AI。
ロボット。
そこへ、
巨大な金を集める。
アメリカでも。
SpaceX。
Anthropic。
AI。
宇宙。
データセンター。
電力。
半導体。
未来を作る会社が、
巨大な金を集める。
僕には。
米中が、
同じ方向へ走っているように見えた。
方法は違う。
政治制度も違う。
資本市場も違う。
でも。
欲しいものは、
似ている。
電力。
半導体。
計算能力。
AI。
ロボット。
データ。
宇宙。
そして。
時間。
僕は、
そこに一番引っかかった。
金ではない。
時間。
なぜ、
一年後ではだめなのか。
なぜ、
二〇二六年なのか。
半導体工場は、
明日できない。
発電所も、
明日できない。
送電網も。
データセンターも。
衛星も。
ロボット工場も。
金を集めた翌日に、
完成するわけではない。
つまり。
今、
金を集める会社は。
二〇二八年。
二〇三〇年。
その世界を、
今から買っている。
僕は、
ゆづきに聞いた。
「未来の土地取りって、
分かるか?」
「土地じゃないんでしょ?」
「そうじゃ」
「じゃあ何?」
「電気。
半導体。
AI。
データ。
工場。
宇宙。
それを作る時間」
「先に取った人が勝つの?」
「そう思っとる人間が、
世界中におるから、
これだけ金が動いとるんじゃろうな」
「外れたら?」
僕は、
少し笑った。
「追証じゃ」
ゆづきは、
笑わなかった。
そして、
もう一つ聞いた。
「おじいちゃんは?」
「ん?」
「今まで、
何を捨てて逃げてきたの?」
僕は、
答えられなかった。
………
十六 カナリアが落ちたら
僕は、
最初の画面へ戻った。
Aバランス。
三八五六。
担保にならない。
そこから。
中国不動産。
恒大。
三千億ドル。
中国富裕層。
海外資産、
最大一・二兆ドル。
香港。
AIA。
八月六日、
約六%安。
中国本土。
平安保険。
上期純利益、
三六%増。
オークランド。
ピークから、
約二五%安。
中国。
Unitree。
一五〇・八元。
八四五元。
そして。
五七九・三元。
韓国。
信用取引、
三十兆ウォン。
KOSPI。
高値から、
約三〇%安。
アメリカ。
SpaceX。
七百五十億ドル。
Anthropic。
最大一千億ドル。
全部。
別々のニュースだった。
でも。
僕には、
一つだけ、
共通するものが見えた。
信用だった。
土地を信じる。
会社を信じる。
国家を信じる。
未来を信じる。
AIを信じる。
ロボットを信じる。
次の買い手を信じる。
信用が増えると。
昨日まで、
何でもなかったものに、
巨大な値段がつく。
そして。
信用が消えると。
昨日まで、
何十億円だったものが。
担保にもならなくなる。
炭鉱のカナリアは。
未来を予言しない。
空気が変わったことを、
少しだけ早く知らせる。
そして。
本当に怖いのは。
カナリアが落ちたあと。
「なぜ落ちたのか」
と議論することではない。
炭鉱夫は。
つるはしも。
石炭も。
今日の日当も。
全部置いて。
逃げる。
僕は、
昔の客の、
引き出しの音を思い出した。
追証になった客は。
逃げるものを選んだのではなかった。
捨てるものの順番を、
決めていた。
そして。
最後の引き出しまで開けた時。
もう、
逃げるものは残っていなかった。
僕は、
そこで、
今回初めて、
怖くなった。
Aバランスが、
カナリアかどうか。
それは、
まだ分からない。
中国富裕層の一・二兆ドルが、
本当に大きく動くのか。
それも、
分からない。
AIバブルが、
弾けるのか。
分からない。
中国のロボットが、
世界を取るのか。
アメリカのAIが、
世界を取るのか。
それも、
分からない。
ただ。
三十八年間、
市場を見てきて。
一つだけ。
僕が、
忘れられないことがある。
追証になった客は。
最後まで、
自分が追証になるとは、
思っていなかった。
僕は、
紙の最後に、
一行だけ書いた。
――もし今、
カナリアが鳴かなくなったら。
僕たちは。
何を捨てて、
逃げるのだろう。
そして。
国家なら。
どの引き出しを、
最後に開けるのだろう。
――了――
★ホームズとワトソンの
ブラックあとがき★
――令和版・国家追証対策会議――
「ホームズ」
「はい、
ワトソン君」
「国家にも、
追証があることが分かった」
「ありません」
「いきなり否定するな!」
「証券会社から、
中国政府に追証の電話は来ません」
「比喩じゃ!」
「今日は早めに
『小説じゃ』を使いましたね」
……
ホームズが、
紙を見た。
「では、
国家の引き出しとは?」
「地方財政」
「はい」
「国有企業」
「はい」
「国内金融」
「はい」
「海外所得」
「はい」
「香港の保険」
「はい」
「海外信託」
「はい」
「富裕層の海外資産、
一・二兆ドル」
「ずいぶん奥まで
開けましたね」
「じゃろ?」
「でも、
全部戻すんですか?」
「戻すとは言っとらん」
「では?」
「一%でも、
百二十億ドルじゃ」
「また電卓を叩きましたね」
「元証券マンじゃからな」
……
ゆづきが、
入ってきた。
「おじいちゃん」
「なんじゃ」
「国家の引き出しって、
本当にあるの?」
「比喩じゃ」
「じゃあ、
一番下の引き出しには
何が入ってるの?」
僕は、
少し考えた。
「国民の財布かもしれんな」
ホームズが、
黙った。
僕も、
黙った。
ゆづきも、
黙った。
「……」
「……」
「……」
「ホームズ」
「はい」
「ここ、
笑うところじゃないんか」
「ちょっと黒すぎます」
「ブラックあとがきじゃ!」
……
ホームズが、
話を変えた。
「ところで、
中国ではUnitree」
「八千倍応募」
「アメリカではSpaceX」
「七百五十億ドル」
「Anthropic」
「最大一千億ドル」
「ずいぶん、
未来へ金が向かっていますね」
「そうじゃ」
「古い引き出しから出して」
「新しい引き出しへ入れる」
「AI」
「入れる」
「半導体」
「入れる」
「ロボット」
「入れる」
「宇宙」
「入れる」
「では、
ワトソン君の証券口座は?」
僕は、
画面を伏せた。
「見せん」
「AI株あります?」
「……」
「電力株」
「……」
「半導体」
「……」
「ロボット」
「……」
ホームズが笑った。
「ワトソン君」
「なんじゃ」
「国家を心配する前に、
自分の引き出しを
確認した方がいいのでは?」
「余計なお世話じゃ!」
……
少しして。
ホームズが聞いた。
「では、
カナリアが落ちたら?」
「逃げる」
「何を捨てます?」
僕は、
証券口座を開いた。
AI。
電力。
半導体。
ロボット。
宇宙。
金。
「AI?」
「将来性がある」
「電力?」
「AIに要る」
「半導体?」
「もっと要る」
「ロボット?」
「これからじゃ」
「宇宙?」
「夢がある」
「金?」
「非常時に要る」
ホームズは、
しばらく僕を見た。
「では、
何を捨てるんです?」
「……」
「ワトソン君?」
「……」
「カナリア、
もう床に落ちていますよ」
「……もう少し、
様子を見よう」
「出ました」
「何がじゃ」
「追証になった人が、
一番最後に言う言葉です」
僕は、
笑った。
ホームズは、
笑わなかった。
その時。
僕には、
遠い昔の、
引き出しの開く音がした。
――本当に了――




