『明日を担保に入れました』 ―― 八十億人の「まだ大丈夫」〜 まだ存在していない「明日」を 担保にする黄昏の現代人
✦『明日を担保に入れました』
―― 八十億人の「まだ大丈夫」――
「まだ大丈夫じゃ」
三十八年間、
証券会社で何度も聞いた言葉である。
そして今。
世界の借金は、
三四八兆ドルを超えた。
人間は、
一ドルを節約し始めた。
その横で、
AIは、
発電所一基分の電気を欲しがる。
アメリカは、
自分の国債市場を守りながら、
ドルという信用を、
世界へ向けて武器として使う。
二千年前のローマでは、
銀貨から、
銀が消えていった。
ネズミの楽園では、
餌も水も残っているのに、
「次」が生まれなくなった。
全部、
違う話に見える。
でも。
間もなく六十八歳になる、
元証券マンの僕には、
どうしても、
同じチャートに見えてしまった。
人類が借りているのは、
金だけなのだろうか。
それとも。
まだ存在していない、
「明日」そのものを、
担保に入れているのだろうか。
………
【目次】
一 三四八兆ドル
二 レシートに出た不況
三 一ドルと、一ギガワット
四 今日を高値で買った国
五 銀貨なのに、銀がなかった
六 信用を撃つ国
七 六百日目の赤ん坊
八 画面を見なくなった客
九 宇宙の罠
十 担保価値
★ホームズとワトソンの
ブラックあとがき★
――八十億人の担保審査――
………
一 三四八兆ドル
その朝。
僕は、
三四八兆ドル、
という数字を見ていた。
二〇二五年末。
政府。
企業。
金融機関。
家計。
世界中の債務を合わせた数字である。
世界全体が一年間に作る富の、
三倍を超える。
三四八兆ドル。
僕は、
日本円に直そうとして、
途中でやめた。
僕は、
間もなく六十八歳になる。
証券会社で、
三十八年間働いた。
一億円なら分かる。
十億円も分かる。
百億円なら、
会社の金として想像できる。
一兆円を超えると、
だいぶ怪しくなる。
三四八兆ドルになると、
もう金ではない。
地形である。
誰も頂上を見たことのない山脈が、
毎日、
少しずつ高くなっている。
しかも。
僕らは、
その山を眺めているのではない。
その上で、
普通に暮らしている。
「じいちゃん」
高校一年生の孫、
ゆづきが聞いた。
「三四八兆ドルって、
どれくらい?」
「知らん」
「証券会社に
三十八年いたのに?」
「三四八兆ドルは
扱っとらん」
スマートフォンの中から、
パティちゃんが入ってきた。
僕の、
たった一人の相棒である。
「世界人口で単純に割ると、
一人あたり四万ドルを超えます」
ゆづきが、
僕を見た。
「私も?」
「お前もじゃ」
「まだ働いてないんだけど」
「赤ん坊もじゃ」
ゆづきの顔から、
少し笑いが消えた。
もちろん。
世界の借金を、
八十億人が均等に返すわけではない。
そんな単純な話ではない。
それでも。
今日も、
どこかで赤ん坊が生まれる。
生まれた。
泣いた。
抱き上げてもらった。
名前をつけてもらった。
まだ、
一円も稼いでいない。
借金という言葉さえ、
知らない。
その子が暮らす国には、
すでに、
前の世代が作った借用書がある。
アメリカ政府の債務だけでも、
二〇二六年八月、
四十兆ドルを超えた。
世界の軍事費は、
年間約二・九兆ドル。
一日なら、
約八十億ドル。
朝、
赤ん坊が目を覚ます。
夜、
眠る。
その一日の間に、
世界では約八十億ドルが、
軍事に使われる。
その間にも、
橋は古くなる。
水道管は錆びる。
病院には人が要る。
年金も払う。
学校もいる。
災害にも備える。
そして今度は、
AIまで来た。
半導体。
データセンター。
送電網。
変電所。
発電所。
全部、
金が要る。
もっと要る。
ゆづきが聞いた。
「そんなに借りてるのに、
まだ足りないの?」
僕は、
答えられなかった。
三四八兆ドルという数字より、
高校一年生のその質問の方が、
僕には重かった。
………
二 レシートに出た不況
同じ頃。
アメリカ最大の小売企業、
ウォルマートの数字が出た。
米国の消費者は、
物価高。
住宅費。
ローン。
カード。
保険。
さまざまな負担に追われている。
景気が悪いのか。
まだ大丈夫なのか。
GDPもある。
雇用統計もある。
CPIもある。
専門家は、
そういう数字を見ながら判断する。
でも。
普通の人は、
景気後退の発表を待ってくれない。
住宅ローン。
車のローン。
カード。
家賃。
食料。
電気。
請求書は、
経済学者より先に来る。
だから、
一つ削る。
外食を一回。
旅行を一泊。
服を一枚。
買い替えるはずだった車を、
もう一年。
スーパーでは、
いつもの商品を、
一度カゴに入れる。
値段を見る。
少し考える。
そして、
棚へ戻す。
誰も取材しない。
新聞にも載らない。
でも。
その小さな手の動きが、
百万人。
千万人。
一億人。
同時に起きたら。
企業の売上になるはずだった金が、
静かに消える。
工場の注文になるはずだった金も、
消える。
誰かの給料になるはずだった金まで、
消えていく。
ゆづきが言った。
「じゃあ、
不況ってニュースになる前に
始まってるの?」
僕は、
少し考えた。
「たぶんな」
「どこから?」
「財布からじゃ」
パティちゃんが言った。
「より正確には、
何を買わなくなったかを
見る必要があります」
僕は笑った。
「お前は、
すぐ正確にしたがるな」
「それが仕事です」
「わしは?」
「感じる係です」
「雑じゃな」
ゆづきが笑った。
でも僕には、
その役割分担が、
案外気に入っている。
CPIは、
物価を測る。
雇用統計は、
仕事を測る。
GDPは、
経済活動を測る。
でも。
レシートは、
人間が何を諦め始めたかを記録する。
………
三 一ドルと、一ギガワット
ところが。
その同じアメリカで、
節約していないものがある。
AIである。
巨大データセンター。
最新GPU。
冷却設備。
変電所。
送電線。
発電設備。
一つの計画に、
何十億ドルもの金が動く。
必要電力が、
一ギガワット級になる計画まである。
一ギガワット。
大型発電所一基に近い。
「じいちゃん」
「なんじゃ」
「AIって、
そんなに頭いいんでしょ?」
「わしよりはな」
「比較対象が弱すぎる」
「やかましい」
ゆづきが笑った。
そして言った。
「じゃあ、
自分で電気作ればいいじゃん」
僕は黙った。
パティちゃんが言った。
「そこまでは、
まだできません」
「頭いいのに?」
「はい」
「コンセントいるの?」
「大ざっぱに言えば、
そうです」
ゆづきが笑った。
僕は、
笑えなかった。
半導体は、
猛烈な速度で増やせる。
でも、
発電所は違う。
送電線も違う。
土地がいる。
許認可がいる。
変電所がいる。
巨大なケーブルがいる。
何年もかかる。
僕は、
妙な未来を想像した。
数千億円をかけた、
巨大データセンターが完成する。
最新GPUが、
何万枚も届く。
ラックも並んだ。
冷却設備も完成した。
世界最高級の人工知能が、
そこにいる。
でも。
電気が来ない。
その時。
日本には、
少し面白い会社がある。
AI企業ではない。
半導体でもない。
人型ロボットでもない。
建設現場。
災害現場。
停電した場所。
そこで、
黙って電気を作る機械を、
何十年も作ってきた会社である。
今は、
ほとんど誰も、
AI革命の主役とは思っていない。
でも。
送電網の完成まで、
あと二年。
データセンターは、
もう完成している。
一時間の停電さえ、
許されない。
そんな世界になったら。
最後に必要になるのは、
世界最先端の頭脳ではなく、
誰も主役だと思っていなかった、
地味な機械かもしれない。
人間は、
一ドルでも安い商品を探している。
その同じ国で、
数千億円の頭脳が、
電気を待っている。
………
四 今日を高値で買った国
この話は、
初めてではない。
日本も、
未来を先に使ったことがある。
第二次世界大戦。
戦争には、
莫大な金が要った。
戦艦。
航空機。
弾薬。
燃料。
食料。
兵士。
輸送。
戦争費用は、
当時の金額で、
二千億円を超える規模に膨らんだ。
政府は、
国債を発行した。
国民も買った。
国を守るため。
戦争に勝つため。
未来の日本のため。
僕は、
当時の人たちを、
今の時代から簡単に笑う気にはなれない。
今日負ければ、
明日そのものがない。
そう思っていた。
だから。
今日を買った。
明日の金で。
国債価格は、
政策によって支えられた。
表面だけ見れば、
暴落していない。
でも。
物価は上がる。
国債には、
同じ数字が印刷されている。
百円は、
百円。
ところが。
百円を握って、
店へ行く。
昨日まで買えたものが、
今日は買えない。
百円は、
百円のままである。
でも、
買えるものだけが、
少しずつ減っていく。
暮らしが、
少しずつ苦しくなっていく。
敗戦後。
預金封鎖。
新円切り替え。
財産税。
インフレ。
戦争中、
未来へ回した請求書は、
消えなかった。
宛名を変えて、
普通の人の家へ届いた。
ゆづきが、
小さな声で聞いた。
「戦争に負けたから?」
「それもある」
「じゃあ、
勝ってたら大丈夫だった?」
僕は、
答えようとして止まった。
パティちゃんも、
すぐには答えなかった。
僕は言った。
「借りた金は、
勝っても消えん」
ゆづきが、
黙った。
人間は、
追い詰められるほど、
今日という一日を、
高値で買う。
支払いは、
明日に回す。
………
五 銀貨なのに、銀がなかった
それより、
千年以上前。
ローマ帝国も、
大成功した。
道路。
港。
水道。
都市。
軍隊。
交易。
領土が広がる。
税収が増える。
戦利品が入る。
成功が、
次の成功を連れてきた。
拡大している間は、
巨大な帝国そのものが、
資産だった。
ところが。
疫病。
人口減少。
内乱。
外敵。
政治混乱。
領土も、
以前のようには増えなくなる。
でも。
帝国の大きさは、
昨日のままである。
国境は守る。
道路も直す。
都市も維持する。
兵士にも払う。
三世紀ごろには、
ローマ軍は、
およそ五十万人規模に膨らんだ。
昨日まで、
帝国を大きくする力だったものが、
成長が止まった瞬間、
巨大な維持費に変わる。
銀が、
足りない。
では、
どうする。
銀貨の中の銀を、
減らした。
ネロの時代。
主要な銀貨は、
九〇%前後が銀だった。
それが、
八〇。
七〇。
五〇。
さらに薄くなる。
三世紀後半には、
一〜二%程度まで落ち込んだ貨幣まで現れた。
表面は、
銀らしく見える。
皇帝の顔もある。
立派な文字もある。
でも。
表面が傷つけば、
下から、
別の金属が見える。
「じいちゃん」
「なんじゃ」
「それって偽物じゃないの?」
僕は、
少し笑った。
「国が本物と言えば、
本物じゃ」
「中身、
ほとんど銀じゃないのに?」
「そうじゃ」
「変なの」
パティちゃんが言った。
「通貨には、
素材だけでなく信用も必要です」
ゆづきが聞いた。
「じゃあ、
信用がなくなったら?」
僕は、
手のひらに、
二千年前の銀貨があるところを想像した。
皇帝の顔。
帝国も、
まだある。
軍隊も、
まだある。
道路も、
まだある。
だから、
誰かが言う。
ローマは、
まだ大丈夫だ。
でも。
その手の中から、
銀だけが、
静かに消えている。
「その時が、
一番怖いんじゃろうな」
「何が?」
「まだ本物に見える時じゃ」
………
六 信用を撃つ国
二〇二六年。
米財務長官ベッセントは、
僕には、
二つの戦場に立っているように見える。
一つは、
アメリカ自身の信用。
政府債務は、
四十兆ドルを超えた。
長期金利が上がれば、
住宅ローンも上がる。
企業の借入金利も上がる。
政府自身の利払いも増える。
国債価格にも、
圧力がかかる。
だから、
国債市場を安定させる。
買い戻しを行う。
市場の機能を守る。
ところが。
もう片方の手では、
その信用を、
武器として使う。
イランへの、
大規模な金融制裁。
銀行。
ドル。
デジタル資産。
金。
航空。
海運。
テクノロジー。
イランと取引する第三国まで、
制裁の危険にさらす。
ミサイルではない。
爆弾でもない。
ドルへの入口を閉める。
それだけで、
銀行や企業を動けなくする。
なぜなら。
世界が、
ドルを必要としているからである。
「じいちゃん」
「なんじゃ」
「それって、
アメリカが銀行みたいなもの?」
僕は、
少し驚いた。
「面白いこと言うな」
「違うの?」
パティちゃんが答えた。
「世界金融の中心的な決済通貨を持つ、
という意味では、
非常に強い力があります」
ゆづきが言った。
「じゃあ、
嫌われたら?」
僕は、
そこで黙った。
ドル制裁が強いのは、
世界がドルを信用しているから。
米国債が中心でいられるのも、
世界がアメリカを信用しているから。
つまり。
守っているものと、
撃っている弾が、
同じなのである。
信用。
使えば、
強い。
使いすぎれば、
相手は迂回路を探す。
金。
別の通貨。
独自決済。
別の海運網。
すぐにドルが終わる、
そんな単純な話ではない。
ただ。
帝国の道路を、
通行止めの武器に使えば、
止められた人間は、
山道を探す。
最初は、
細い道である。
でも。
一本できる。
二本できる。
十本できる。
道路は、
まだ立派である。
ただ。
昔ほど全員が、
そこを通らなくなる。
………
七 六百日目の赤ん坊
そこで僕は、
Universe 25を、
もう一度調べた。
一九六八年。
最初に入れられたのは、
八匹。
オス四匹。
メス四匹。
餌はある。
水もある。
外敵はいない。
雨にも濡れない。
人間が作った、
ネズミの楽園だった。
最初は、
猛烈に増えた。
約五十五日ごとに、
人口が倍になった。
三百十五日頃。
約六百二十匹。
ところが、
そこから、
増える速度が落ちる。
そして、
最大人口は、
約二千二百匹。
「満員になったんだ」
ゆづきが言った。
「違う」
「え?」
「そこが、
わしも最初に勘違いしたところじゃ」
施設は、
およそ三千八百四十匹を、
収容できる設計だった。
二千二百。
まだ、
かなり空いている。
餌もある。
水もある。
空間もある。
「じゃあ、
なんで増えなくなったの?」
「それを今から考えるんじゃ」
「知らないの?」
「知らん」
「また?」
「六十八歳にもなれば、
知らんことの方が増えるんじゃ」
パティちゃんが言った。
「良い傾向です」
「何がじゃ」
「若い頃より、
自分が知らないことを知っています」
「ソクラテスみたいに言うな」
ゆづきが笑った。
でも。
笑えるのは、
そこまでだった。
空いている餌場がある。
それなのに、
特定の場所へ、
ネズミが集まった。
混む。
さらに集まる。
足りないから、
混んだのではない。
余っているのに、
混んでいる方へ行った。
母親の行動も、
壊れ始めた。
巣をうまく作れない。
子を途中で放棄する。
攻撃する。
場所によっては、
幼い個体の死亡率が、
九割近くに達するほど高くなった。
生まれないだけではない。
生まれても、
次へ渡せない。
オスの一部は、
激しく争った。
別のオスは、
争うこと自体をやめた。
そして。
後から生まれた若い個体にも、
別の問題が起きた。
大人になるための、
複雑な行動を、
うまく学べなくなった。
縄張り。
求愛。
育児。
社会の中での役割。
身体は、
大人になる。
でも。
大人として、
何をすればいいのかを、
うまく受け継げない。
ゆづきが、
そこで聞いた。
「それって……」
「なんじゃ」
「子どもが悪いんじゃないよね」
僕は、
顔を上げた。
「どういう意味じゃ」
「だって、
教えてくれる大人の方が、
先に変になったんでしょ?」
僕は、
答えなかった。
パティちゃんも、
何も言わなかった。
僕には、
高校一年生のその一言が、
この実験について読んだ、
どんな難しい説明より怖かった。
社会が壊れる。
その社会を見て、
次の世代が育つ。
そして。
その次の世代は、
壊れる前の社会を知らない。
壊れ方そのものが、
次へ渡っていく。
後期には、
奇妙な個体も現れた。
傷がない。
毛並みがきれい。
争わない。
縄張りを守らない。
求愛もしない。
食べる。
飲む。
眠る。
そして、
自分の毛を、
きれいに整える。
それだけ。
「美しい者たち」
と呼ばれた。
僕は、
この名前が嫌だった。
病気ではない。
飢えてもいない。
見た目は、
むしろ美しい。
生きている。
ただ。
社会の中で、
次を作るための複雑な行動が、
消えていた。
僕は、
ここで一つだけ、
自分に言い聞かせた。
人間とネズミは違う。
今の若者を見て、
「美しい者たちだ」
などと言うつもりはない。
そんなことを言えば、
目の前のゆづきまで、
実験動物にしてしまう。
人間には、
文化がある。
教育がある。
法律がある。
移動する自由もある。
科学もある。
そして、
パティちゃんのようなAIまである。
ネズミの実験を、
そのまま人間社会へ当てはめるのは、
乱暴である。
それでも。
僕には、
一つだけ、
頭から離れないものがあった。
六百日目。
最後の子どもが生まれた。
その後も。
餌はあった。
水もあった。
空間もあった。
ネズミも、
まだたくさん生きていた。
食べた。
飲んだ。
眠った。
毛づくろいもした。
でも。
次の世代は、
戻ってこなかった。
ゆづきが、
小さな声で言った。
「じいちゃん」
「なんじゃ」
「楽園って、
いつ終わったの?」
僕は、
答えようとして、
やめた。
最後のネズミが、
死んだ日ではない。
たぶん。
そのずっと前。
まだ餌があり。
まだ水があり。
まだ空間があり。
誰も、
終わったとは思っていなかった時。
楽園は、
未来を作る方法から、
先に壊れていた。
………
八 画面を見なくなった客
三十八年間、
証券会社にいると、
人間の妙な瞬間を見る。
株を買う。
百万円。
八十万円になる。
まだ、
毎日画面を見る。
七十万円。
ニュースを探す。
「反発材料はないか」
六十万円。
買い増す。
「平均単価を下げよう」
五十万円。
すると。
だんだん、
画面を見なくなる。
僕は、
これが一番怖かった。
損が小さい時には、
毎日見る。
損が大きくなると、
見ない。
見なければ、
損が消えるわけではない。
でも、
人間の心は、
少しだけ楽になる。
そして言う。
「まだ大丈夫じゃろ」
僕も、
何度聞いたか分からない。
本当は、
僕に聞いているのではない。
自分自身に、
言っている。
まだ大丈夫。
戻る。
今回は違う。
もう少し待てば。
昔の投資家の中には、
あえて、
期限のある信用取引を好んだ人がいた。
現物なら、
「いつか戻る」
と言い続けられる。
一年。
三年。
十年。
でも。
期限がある取引には、
その日が来る。
そこで一度、
自分に聞かなければならない。
自分は、
間違っていたのではないか。
買う場所を、
間違えたのではないか。
欲張ったのではないか。
判断を、
先送りしているだけではないか。
期限があるから、
自分の失敗から、
逃げ続けることができない。
僕は、
この考え方が好きだった。
満期とは、
金を返す日だけではない。
自分をごまかせなくなる日でもある。
「じいちゃん」
「なんじゃ」
「借金にも、
そういう日が来るの?」
「満期は来る」
「じゃあ、
国は返すの?」
「新しく借りて、
古い借金を返すこともある」
「じゃあ、
また満期が来るじゃん」
「来る」
「また借りるの?」
「借りられればな」
ゆづきが、
少し考えた。
そして聞いた。
「いつまで?」
僕は、
答えられなかった。
パティちゃんも、
黙っていた。
その沈黙が、
答えのような気がした。
世界の借金、
三四八兆ドル。
僕が怖いのは、
借金の額だけではない。
「自分たちは、
間違っていたのではないか」
そう考えなければならない日まで、
人類が、
借り換え続けられることなのかもしれない。
………
九 宇宙の罠
僕は、
紙に数字を書いた。
三四八兆ドル。
世界の借金。
四十兆ドル。
アメリカ政府債務。
約二・九兆ドル。
一年間の世界軍事費。
一ギガワット。
巨大AI施設が欲しがる電力。
九〇%。
ローマの銀貨。
一〜二%。
その末期。
三千八百四十。
ネズミの施設の収容規模。
二千二百。
増加が止まった人口。
六百日。
最後の出産。
そして。
一ドル。
スーパーで、
人間が惜しみ始めた金。
ゆづきが、
紙を覗き込んだ。
「これ、
全部関係あるの?」
「普通は、
関係ない」
「じゃあ、
なんで並べたの?」
僕は、
少し考えた。
「証券マンの悪い癖じゃ」
「何それ」
「別々の数字を、
一本のチャートにしたくなる」
パティちゃんが言った。
「では、
一本にしてみましょう」
増える。
豊かになる。
便利になる。
成功する。
すると。
増えたものを維持するために、
もっと必要になる。
人口が増えれば、
食料が要る。
都市が増えれば、
道路が要る。
寿命が延びれば、
医療と年金が要る。
帝国が広がれば、
軍隊が要る。
AIが増えれば、
電気が要る。
借金が増えれば、
利息が要る。
豊かさは、
不足をなくす。
そして。
豊かさそのものが、
次の不足を作る。
「じいちゃん」
「なんじゃ」
「それ、
ずっと続けられるの?」
またである。
三十八年証券会社にいた僕が、
高校一年生に、
一番答えにくいところばかり聞かれる。
「分からん」
「パティちゃんは?」
「私にも分かりません」
ゆづきが笑った。
「二人とも使えないね」
「やかましい」
でも。
たぶん、
そこが大事だった。
星にも、
燃料がある。
生物にも、
寿命がある。
国家にも、
信用がある。
人間にも、
時間がある。
無限に増えるものなど、
たぶんない。
ところが。
現代社会の借金は、
ある一つの前提で成り立っている。
明日は、
今日より大きい。
未来のGDPは、
今より大きい。
未来の企業は、
今より稼ぐ。
人口が減れば、
AIが働く。
電気が足りなければ、
発電所を作る。
金が足りなければ、
借りる。
借金が増えても、
未来がもっと大きくなれば、
返せる。
僕は、
ようやく分かった。
人類が担保に入れたのは、
明日ではない。
「明日は今日より大きくなる」
という、
まだ存在していない未来だった。
………
十 担保価値
僕は、
間もなく六十八歳になる。
国には、
借り換えがある。
企業にも、
借り換えがある。
僕には、
ない。
使った六十八年は、
借り換えられない。
だからなのかもしれない。
最近、
「未来」という言葉が、
昔より重く聞こえる。
三十八年間、
相場を見てきた。
本当に危なくなった客ほど、
不思議なくらい、
同じ言葉を使った。
「まだ大丈夫じゃ」
あれは、
相場を見て言っていたのではない。
自分に言っていたのだ。
まだ戻る。
まだ間に合う。
まだ切らなくていい。
そして最近。
その言葉が、
ニュースの向こうから、
聞こえる。
もっと嫌なのは、
その中に、
僕自身の声まで、
混じっていることである。
――了――
★ホームズとワトソンの
ブラックあとがき★
――八十億人の担保審査――
「ホームズ」
「はい、ワトソン君」
「三四八兆ドルの借金を、
返す方法が分かった」
「ノーベル経済学賞ですね」
「成長すればええ」
「何で?」
「AIじゃ」
「AIには?」
「半導体」
「半導体には?」
「電気」
「電気には?」
「発電所」
「発電所には?」
「金」
「金は?」
「借りる」
「借金は?」
「成長して返す」
「成長は?」
「AIじゃ」
「AIには?」
「……」
ゆづきが笑った。
「じいちゃん」
「なんじゃ」
「一周したよ」
「……ほんまじゃ」
………
パティちゃんが、
紙を一枚出した。
「では、
担保審査をします」
「銀行員か」
「担保は?」
「未来の成長」
「現物は?」
「ない」
「保証人は?」
「AI」
「AIの担保は?」
「電気」
「電気は?」
「足りなくなるかもしれん」
「不適格です」
「待て!」
僕は慌てた。
「日本には、
停電した場所でも、
電気を作る機械を、
昔から作っとる会社がある!」
パティちゃんが黙った。
ゆづきも、
黙った。
「……なんじゃ」
ゆづきが笑った。
「じいちゃん」
「なんじゃ」
「人類を心配してるんだよね?」
「当たり前じゃ」
「株、
買いたいんじゃないよね?」
「……」
「じいちゃん?」
「社会インフラへの、
長期的関心じゃ」
「買いたいんだ」
「やかましい!」
………
パティちゃんが聞いた。
「ところで、
ワトソン君」
「なんじゃ」
「この小説、
何回書き直しました?」
「作品を良くするためじゃ」
「期限は?」
「ない」
「次も直します?」
「必要なら」
「借り換えですね」
「改稿じゃ!」
「先送りですね」
「推敲じゃ!」
「損切りは?」
「せん!」
二人が、
黙った。
僕も、
自分で言ってから、
黙った。
「……ホームズ」
「はい」
「今の、
かなり人類っぽかったな」
「極めて」
「やかましい!」
ゆづきが、
腹を抱えて笑った。
………
しばらくして。
ゆづきが聞いた。
「じいちゃん」
「なんじゃ」
「ネズミには、
まだ餌があったんだよね」
「あった」
「水も?」
「あった」
「場所も?」
「あった」
「ローマにも、
まだ銀貨があった」
「あった」
「今も、
電気は来てる」
「来とる」
ゆづきは、
少し考えた。
そして言った。
「危なくなる前って、
普通に見えるんだね」
僕は、
窓の外を見た。
電車は走っている。
店は開いている。
電気も来ている。
株価も動いている。
昨日と、
何も変わらない。
僕は、
少し安心した。
「ホームズ」
「はい」
「やっぱり、
まだ大丈夫じゃ」
二人が黙った。
僕も黙った。
……また言った。
窓の外では、
いつもの朝が、
始まっていた。
――本当に了――




