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201/209

『楽園は、天井を打った』 ――宇宙は、自分の重みで沈むことがある。

✦ 『楽園は、天井を打った』


――株価は、

 自分の重みで沈むことがある。


 人が集まる。


 金が集まる。


 物が集まる。


 信用が集まる。


 増えている間、

 僕らはそれを「成長」と呼ぶ。


 では――


 増えたものは、


 いつから、


 「重さ」に変わるのだろう。――


………


一 京都から、日本人が減った


その朝。


僕は、

京都の宿泊統計を見ていた。


二〇二五年。


京都市内の主要ホテルでは、

外国人宿泊客の割合が

六六・四%まで上がった。


三人泊まれば、

およそ二人が外国人である。


その一方で、


日本人の宿泊客は、

前年より一〇%減った。


僕は、

そこで手を止めた。


外国人が増えた。


それだけではない。


日本人が、


少なくなっていた。


高い。


混んでいる。


予約しにくい。


だったら、

ほかへ行こう。


それだけの話である。


外国人観光客が悪いわけではない。


ホテルも悪くない。


高くても泊まりたい客がいるなら、

高く売る。


日本人だって悪くない。


高すぎると思えば、

別の場所へ行けばいい。


みんな、


自分にとって正しいことをしている。


だから、


余計に気になった。


世界中から人が集まり、


ホテルが埋まり、


値段が上がり、


街が繁盛している。


なのに、


昔から来ていた客が、

少しずつ離れていく。


僕は、


古代ローマを思い出した。


世界中から、


人と物と金が集まった巨大都市。


人が集まれば、


食料が要る。


水が要る。


道路が要る。


住む場所が要る。


治安を守る仕組みも要る。


成功すればするほど、


成功した街を維持するために、

さらに金と仕組みが必要になる。


もちろん、


京都がローマのように崩壊する、


などと言うつもりはない。


ただ。


「人が来なくなる」


ことだけが、


街の危機なのだろうか。


人が集まりすぎて、


そこにいた人が、

入れなくなる。


そんなところから始まる危機も、


あるのではないか。


繁盛している。


人もいっぱいである。


値段も高い。


だから、


誰も危機とは呼ばない。


元証券マンの僕には、


そこが少し怖かった。


………


二 足りなかった米が、

  積み上がった


少し前まで、


日本中が、


「米がない」


と騒いでいた。


スーパーから米が消えた。


値段が上がった。


備蓄米まで動いた。


足りない。


もっと必要だ。


そう言っていた。


ところが、


景色が変わった。


二〇二六年六月末。


民間の米在庫は、


一九四万トン。


前年より、


七二万トン増えた。


七二万トン。


日本人全体が食べる量に直せば、


ざっくり一か月以上にあたる。


しかも、


在庫が増えた一方で、


販売量は前年より減った。


僕は、


数字を二度見した。


「ない」


と言っていた米が、


一年もたたないうちに、


前年より一か月分以上、

多く積み上がった。


もちろん、


一九四万トン全部が、


「余った米」


という意味ではない。


次の収穫まで

つなぐ在庫も必要である。


それでも、


変化の速さが気になった。


足りない。


怖い。


だから確保する。


もっと持つ。


ところが、


みんなが同じことをすると、


今度は、


持っている量そのものが問題になる。


僕は、


三十八年間の証券会社生活で、


何度も似たものを見てきた。


株が上がる。


もっと買う。


さらに上がる。


また買う。


下がった。


安くなった。


もう少し買う。


そして、


気がついた時には、


最初に欲しかった量の

何倍も持っている。


証券会社には、


昔から嫌な言葉がある。


株価は、


自分の重みで沈むことがある。


上がっている間、


大量の買いは力になる。


流れが変わった瞬間、


その同じ量が、


今度は売り圧力になる。


僕は、


積み上がった米の写真を見た。


昨日まで安心だったものが、


今日は、


少し重そうに見えた。


………


三 世界を買った国


もっと大きな倉庫を持つ国がある。


中国である。


中国には、


「足りない」


ことへの深い記憶がある。


一九五八年。


毛沢東時代。


中国は、


ネズミ、


ハエ、


蚊、


そしてスズメを、


「四害」として大量に駆除した。


特にスズメは、


穀物を食べる害鳥とされた。


ところが、


スズメは害虫も食べていた。


減らしすぎれば、


別のものが増える。


大躍進政策の失敗など、


もっと大きな原因が重なり、


その後、


中国は深刻な大飢饉を経験した。


僕は、


この話が妙に気になった。


人間は、


「これが邪魔だ」


と思うと、


それだけを減らそうとする。


そして、


減らしすぎた後で、


別の役割に気づく。


それから何十年。


今度の中国は、


逆のことをやった。


足りなくなる前に、


持つ。


石油。


鉄鉱石。


銅。


石炭。


穀物。


世界中から、


ありとあらゆる資源を集めた。


現在、


中国の地上原油在庫は、


推計で約十四億バレル規模とも言われる。


二〇二五年には、


国内で使う量などを

上回って入ってきた原油が、


平均で一日一一三万バレル程度あった、


という推計もある。


一年なら、


四億バレルを超える。


ところが今度は、


需要の方が弱くなった。


製油所の稼働を落とす。


在庫評価損も出る。


そこへ、


イランのニュースが来た。


アメリカが、


イラン原油を締め上げる。


普通なら、


供給が減る。


原油価格が上がる。


そう考える。


ところが、


最大級の買い手である中国が、


「それなら買わない」


と言ったらどうなる。


供給が減る。


同時に、


需要まで減る。


価格が、


思ったほど上がらない。


僕は、


そこで妙な皮肉を感じた。


世界中から集めたから、


中国は強くなった。


でも、


集めすぎたから、


今度は、


「今日は要らない」


と言える。


もっと持つことが、


強さだった。


その同じ在庫が、


あるところから、


荷物にもなる。


日本の米とは、


桁が違う。


でも、


僕には同じ人間の癖に見えた。


足りないのが怖かった。


だから持った。


持ったから安心した。


そして、


持ちすぎた後で、


今度は、


その荷物と

付き合わなければならなくなる。


………


四 追う国と、追われる国


韓国の記事を読んだ。


サムスン。


同じ会社の中でも、


AI半導体などで

大きく利益を上げた部門と、


そうでない部門の間で、


賞与格差が最大百倍規模になる、


という話だった。


百倍。


僕は、


数字を見直した。


同じ会社である。


同じ社員証を持っている。


それでも、


どこにいるかで、


見える景色がまるで違う。


そして、


その韓国で、


もう一つのニュースがあった。


中国への半導体技術流出。


元サムスン関係者らが、


中国企業への技術流出をめぐって

起訴された。


流出したとされる技術は、


サムスンが一・六兆ウォンを投じて

開発したものだった。


僕は、


そこで少し昔を思い出した。


日本が、


半導体や家電で強かった時代。


韓国企業は、


日本企業の技術者を積極的に採用した。


退職した技術者。


リストラされた技術者。


日本では、


もう必要ないと思われた人間を、


韓国企業は必要とした。


日本から韓国へ、


人と技術が移った。


そして、


韓国が世界の半導体大国になった。


今度は、


その韓国が、


中国への技術流出を恐れている。


僕は、


少し笑いそうになった。


笑ってはいけない話だった。


追いかけている時、


人間はそれを、


努力と呼ぶ。


追いかけられる側になると、


脅威と呼ぶ。


日本。


韓国。


台湾。


中国。


主役は変わる。


でも、


やっている人間は、


それほど変わらない。


自分だけは違う。


自分の国だけは違う。


自分の会社だけは違う。


そう思っている間に、


今度は自分が、


昨日まで自分がやっていたことを

恐れる側へ回る。


歴史は、


同じ服では戻ってこない。


だから、


僕らは気づかない。


………


五 二千二百匹


ここまでニュースを読んだ時、


僕は、


ある実験を思い出した。


Universe 25。


ネズミに、


餌を与えた。


水もある。


外敵もいない。


雨にも濡れない。


食べ物を探して、


一日中走り回る必要もない。


ネズミにとって、


楽園のような場所だった。


最初は、


増えた。


猛烈に増えた。


最盛期には、


約二千二百匹。


ところが、


そこから、


様子がおかしくなった。


争いが増えた。


子育てが壊れた。


繁殖から離れる個体が出た。


社会の中で、


うまく役割を持てない個体も増えた。


毛づくろいばかりして、


争いにも、


繁殖にも、


ほとんど参加しない個体まで現れた。


そして、


子どもが生まれなくなっていった。


僕が怖いと思ったのは、


ここだった。


餌がなくなったからではない。


水がなくなったからでもない。


敵に襲われたからでもない。


楽園が、


大きくなった後だった。


もちろん、


人間とネズミは違う。


僕にも、


それくらいは分かる。


でも。


京都。


米。


中国。


韓国。


別々のニュースを見た後で、


二千二百という数字を見ると、


昔とは違って見えた。


増えることは、


成功である。


でも、


増え続けることが、


いつまでも成功とは限らない。


………


六 本物が足りなくなった


メキシコの名門大学で、


完全オンライン入試が行われた。


医学部では、


高得点者の割合が、


前年の三倍を超える二九%になった。


大学は、


AI監視まで入れていた。


それでも、


別端末を使う。


協力者を使う。


監視の外で答えを得る。


最後には、


受験生を集めて、


対面で試験をやり直した。


未来へ進んだはずなのに、


昔の試験会場へ戻った。


そして、


似た問題は、


メキシコだけではなかった。


インドでも、


大規模試験の不正や問題流出が、


政治問題になるほどの騒ぎになった。


法律を作る。


監視する。


罰則を強くする。


それでも、


人間は抜け道を探す。


僕には、


カンニングそのものより、


別のことが気になった。


便利なものは、


増えた。


答えも増えた。


AIに聞けば、


何でも答える。


写真も作れる。


声も作れる。


文章も作れる。


すると、


今度は、


昔なら考えもしなかったものが

足りなくなる。


本人。


本物。


信用。


「本当に、

 この人がやったのですか」


その証明に、


金がかかる。


監視がいる。


認証がいる。


AIがいる。


さらに別の仕組みで、


そのAIまで確かめる。


便利になったのに、


信用するための費用まで増えている。


僕には、


それが妙に引っ掛かった。


………


七 ローマの請求書


ローマ帝国も、


最初から失敗していたわけではない。


むしろ、


大成功した。


道路を造った。


水道を造った。


都市を造った。


軍隊を持った。


巨大な交易圏を作った。


世界中から、


人と物と金が集まった。


ところが、


二世紀後半から三世紀。


疫病。


人口減少。


戦争。


政治混乱。


通貨不安。


問題が重なった。


それでも、


昨日までの帝国を、


今日も維持しなければならない。


国境を守る。


軍隊を食わせる。


道路を直す。


水道を守る。


都市を維持する。


大きくなる時には、


資産だったものが、


縮み始めると、


維持費になる。


僕には、


それが一番怖かった。


ローマ人が、


馬鹿だったからではない。


成功したから、


背負うものが増えた。


そして、


背負ったものを、


途中で簡単には捨てられなかった。


三十八年間、


信用取引の客を見てきた僕には、


どうしても、


あの言葉が聞こえてしまう。


――あと、

 いくら入れれば持てる?


………


八 八十億人の重さ


人類は、


八十億人を超えた。


これは、


失敗の数字ではない。


大成功の数字である。


病気を治した。


食料を増やした。


寿命を延ばした。


水を引いた。


電気を作った。


空を飛んだ。


月まで行った。


世界中を通信でつないだ。


AIまで作った。


だから、


八十億人まで増えることができた。


では、


八十億人が、


昨日までの暮らしを続けるには、


何が要る。


食料。


水。


住宅。


道路。


病院。


学校。


電気。


通信。


そして今度は、


AI。


AIには、


さらに電気がいる。


半導体がいる。


送電網がいる。


発電所がいる。


データセンターがいる。


そして、


金がいる。


足りなければ、


借りる。


社債を出す。


未来の利益を、


今日使う。


うまくいけば、


資産は増える。


信用も増える。


もっと借りられる。


もっと作れる。


さらに資産が増える。


相場なら、


みんな喜ぶところである。


僕も、


たぶん喜ぶ。


でも。


元証券マンには、


嫌な癖がある。


上がっている時ほど、


持っている量を見る。


証券会社には、


こんな言葉がある。


株価は、


自分の重みで沈む。


人気が集まる。


金が集まる。


信用が集まる。


上がっている間、


その全部が、


強さに見える。


ところが、


流れが変わった瞬間。


同じものが、


重さになる。


僕は、


八十億という数字を、


初めて、


人口ではなく、


重さとして見た。


………


九 ネズミを笑った人間


人間は言う。


ネズミとは違う。


ローマとも違う。


今は、


科学がある。


ロボットがある。


AIがある。


だから、


同じことにはならない。


そうかもしれない。


僕も、


そうであってほしい。


ただ、


少し皮肉なことが起き始めた。


人間が、


ネズミとは違う証拠としてきたもの。


頭脳。


その頭脳で、


人間はAIを作った。


AIは、


大量の文章を読む。


大量の数字を処理する。


忘れない。


疲れない。


二十四時間働く。


人間より速く、


答えを出す分野まで増えてきた。


僕は、


そこで妙な想像をした。


僕らは、


Universe 25を見て、


ネズミに言う。


「どうして、

 こんなことになったんだ」


でも、


百年後。


もっと賢くなったAIが、


二〇二六年の記録を読んだら。


同じことを、


僕らに聞かないだろうか。


どうして、


余るまで作ったのですか。


どうして、


借金してまで増やしたのですか。


どうして、


同じ人間同士で、


戦争までしたのですか。


僕は、


そこで初めて、


ネズミを笑えなくなった。


………


十 宇宙の千年足


僕は、


もうすぐ六十八歳になる。


自分では、


ずいぶん長く生きた気がする。


昭和。


平成。


令和。


証券会社で三十八年。


バブルも見た。


暴落も見た。


金融危機も見た。


戦争も見た。


AIまで見た。


それでも、


たった六十八年である。


地球は、


約四十六億年。


宇宙は、


約百三十八億年。


そこまで時間を伸ばしたら、


今日のニュースなど、


どう見えるのだろう。


戦争。


金利。


原油。


移民。


食料。


株価。


AI。


選挙。


人間にとっては、


どれも大事件である。


「お前が悪い」


「いや、

 お前が悪い」


「これは、

 われわれの領土だ」


「これは、

 われわれの資源だ」


「われわれの技術を盗むな」


「われわれの国へ入ってくるな」


百年も生きられない人間が、


本気で怒っている。


本気で争っている。


時には、


命まで奪い合う。


宇宙の時間から見れば、


その百年すら、


一本の線にもならない。


僕は、


人間が馬鹿なのだとは思わない。


たぶん、


見えないのだ。


僕らには、


自分の人生くらいしか見えない。


だから、


その中で勝とうとする。


守ろうとする。


増やそうとする。


損したくない。


負けたくない。


昨日まで持っていたものを、


今日も持っていたい。


そして、


苦しくなると、


担保を入れる。


それでも足りなければ、


借りる。


もう少し。


もう少しだけ。


ネズミも。


ローマも。


人類も。


本当に同じなのかは、


僕には分からない。


ただ、


どうでもいいと思っていたニュースを、


少し長い時間で並べてみると、


妙なものが見える。


世界中から人が集まる京都。


積み上がる米。


資源を抱えた中国。


人間の頭脳まで奪い合う韓国と中国。


信用を守るため、


監視を増やす社会。


そして、


電気と金を飲み込みながら、


巨大化するAI。


一つ一つなら、


別のニュースである。


でも、


僕には時々、


同じチャートの中にあるように見える。


増える。


増える。


さらに増える。


そして、


増えたものを維持するために、


もっと必要になる。


株価は、


自分の重みで沈むことがある。


では、


文明は。


人類は。


楽園は。


僕には、


まだ分からない。


ただ一つ。


昔の客が、


一番危なくなった時に言った言葉だけは、


今でも覚えている。


「まだ大丈夫じゃ」


その言葉が最近、


ニュースの向こうから、


聞こえるようになった。


――了――


★ホームズとワトソンの

 ブラックあとがき★


――八十億人の信用取引――


「ホームズ」


「はい、ワトソン君」


「結論が出た」


「珍しいですね」


「人類は、

 損切りする」


「何を?」


「AIじゃ」


「私が消えます」


「それは困る」


「ではスマホ」


「株価が見られん」


「石油」


「車が動かん」


「観光」


「ホテルが困る」


「電気」


「冷房が止まる」


「借金」


「景気が悪くなる」


パティちゃんが黙った。


「なんじゃ」


「ワトソン君」


「はい」


「何ひとつ、

 損切りする気がありませんね」


「……」


「では、

 担保を追加しますか」


僕は、


反射的に聞いた。


「いくら要る?」


二人とも黙った。


僕も黙った。


「ホームズ」


「はい」


「今の言葉、

 どこかで聞いたな」


「前作です」


「そうじゃった」


「あと、

 いくら入れれば持てる?」


「それじゃ!」


ゆづきが笑った。


「じいちゃん」


「なんじゃ」


「人類って、

 結局どうなるの?」


僕は少し考えた。


「知らん」


「ここまで書いて?」


「相場の天井も、

 終わってから分かる」


パティちゃんが聞いた。


「では、

 今はどう思います?」


僕は、


スマートフォンを見た。


AI関連資産が、


少し上がっていた。


「まだ大丈夫じゃ」


二人が黙った。


僕も、


自分で言ってから黙った。


「……ホームズ」


「はい」


「今の、

 一番危ない言葉じゃったな」


「三十八年間、

 何を勉強したんです?」


「人間じゃ」


「成果は?」


「わしを見ろ」


「失敗例ですね」


「やかましい!」


ゆづきが笑った。


僕も笑った。


「じいちゃん」


「なんじゃ」


「この小説、

 何回書き直したの?」


僕は、


少し考えた。


「……知らん」


「もっと良くしたかったんでしょ?」


「悪いか」


ゆづきが笑った。


「人類代表じゃん」


「そこにつなげるな!」


パティちゃんまで入った。


「ワトソン君」


「なんじゃ」


「作品もナンピンしています」


「文章じゃ!」


「最初から損切りすれば、

 もっと短かったのでは?」


「やかましい!」


三人で笑った。


そして、


また株価を見た。


少し上がった。


僕は、


ほっとした。


パティちゃんが言った。


「ワトソン君」


「なんじゃ」


「ネズミより賢いんですよね?」


「当たり前じゃ」


「ローマ人より?」


「科学がある」


「AIも?」


「ある」


「では、

 なぜ株価を閉じられないんです?」


「……」


「ネズミは、

 十五分足を見ませんよ」


「ネズミに証券口座はない!」


「では人類は、

 ネズミより幸せですね」


「当たり前じゃ」


「本当に?」


僕は、


答えようとして、


やめた。


窓の外では、


八十億人のうちの何人かが、


いつもの朝を始めていた。


電車に乗る。


会社へ行く。


学校へ行く。


買い物をする。


スマートフォンを見る。


誰も、


今日が歴史の転換点だとは思っていない。


僕も、


思っていない。


ただ、


証券会社時代の古い言葉だけが、


妙に頭から離れなかった。


株価は、


自分の重みで沈む。


「ホームズ」


「はい」


「人類は?」


「分かりません」


「そうか」


僕は笑った。


「そのくらいでええ」


宇宙は、


今日も何も答えなかった。


ただ、


百三十八億年のチャートだけが、


人間には見えない速度で、


静かに、


次の足を作っていた。


――本当に了――

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