『宇宙から来た追証』 ――「もう少し待ってみよう」 大損する人は、 最初から破滅したかったわけではない。 自分は相場を知っている。必ず戻る。 ここで売る方が馬鹿だ。そう思っていただけだった。
✦ 『宇宙から来た追証』
――「もう少し待ってみよう」
三十八年間、
僕はその言葉を何度も聞いた。
大損する人は、
最初から破滅したかったわけではない。
自分は相場を知っている。
必ず戻る。
ここで売る方が馬鹿だ。
そう思っていただけだった。
そして二〇二六年。
もうすぐ六十八歳になる僕は、
ある日ふと思った。
「もう少し」
と言っているのは、
本当に、
人間だけなのだろうか。――
………
★目次★
一 もう少し待ってくれ
二 負けは、金より長生きする
三 人類は、ナンピンを始めた
四 機械には給料日がない
五 楽園には前例がある
六 地球から電話が鳴った
七 同じチャート
八 藁一本と地球一個
九 翌朝
………
一 もう少し待ってくれ
三十年以上前。
僕が証券会社で働いていた頃、
一人の客が大きな含み損を抱えた。
相場の流れが、
明らかに変わり始めていた。
僕は電話をした。
「一度、
少し整理した方がいいと思います」
客は笑った。
「もうちょっと待ってみよう」
声には、
まだ余裕があった。
「かなり下がっています」
「戻るよ」
「しかし――」
「必ず戻る」
僕は、
それ以上強く言えなかった。
翌日。
また下がった。
もう一度、
電話をした。
「どうされますか」
今度は少し、
機嫌が悪かった。
「もうちょっと待ってくれ」
「流れが変わっているように見えます」
すると、
声が急に大きくなった。
「おい」
「はい」
「わしを誰だと思っとる」
僕は黙った。
「何十年、
相場をやっとると思っとるんじゃ」
「……」
「お前より、
わしの方が詳しい」
「ですが――」
「わしを馬鹿にしとるんか」
そこからだった。
株価の話が、
その人自身の話に
変わっていったのは。
売れば、
金を失う。
でも、
たぶんそれだけではなかった。
売った瞬間、
「自分は間違っていた」
ことまで確定する。
家族にも自慢した。
友人にも話した。
自分には見る目がある。
普通の人間とは違う。
そう思っていた。
だから、
売れない。
株を損切りすることが、
自分自身を損切りするように
感じられるのだ。
さらに下がった。
今度の電話では、
怒鳴らなかった。
「……もう少し待ってくれ」
声が小さくなっていた。
そして、
そのうち質問が変わった。
「売りますか」
ではなくなった。
客の方から聞いてきた。
「あと……」
少し間があった。
「あと、
いくら入れれば持てる?」
僕は、
この言葉が嫌いだった。
相場で本当に怖いのは、
「いくら儲かる?」
と聞いている時ではない。
「あと、
いくら入れれば持てる?」
に変わった時である。
そこから先は、
投資ではなくなる。
過去を守るために、
未来の金を入れ始める。
定期預金を崩す。
別の株を売る。
妻には言わない。
子供にも言わない。
老後の金を入れる。
まだ戻る。
あと一日。
あと一週間。
次の決算まで。
次の材料まで。
そして最後には、
本人に売る権利さえ
なくなった。
強制決済。
証券会社には、
昔から品のない言葉があった。
信用取引で逃げ遅れれば、
「ケツの毛まで抜かれる」
下品である。
でも三十八年間、
そんな客を見てきた僕には、
あれほど最後を正確に表した言葉も
なかった。
全部なくした後で、
客はチャートを見た。
「あの日じゃったな」
僕も、
同じ場所を見た。
小さな点だった。
たった一日。
あそこで売っていれば、
家も残った。
貯金も残った。
老後も残った。
家族からの信用も、
たぶん少しは残った。
全財産を失ったのは、
暴落した日ではなかった。
最初に、
「もうちょっと待ってみよう」
と言った日から、
始まっていた。
………
二 負けは、金より長生きする
ところが、
人間はそれでも終わらない。
何年か経った。
電話が鳴った。
「久しぶりじゃな」
声を聞いた瞬間、
誰か分かった。
あの人だった。
全部なくした客。
それでも生きていた。
働いた。
生活を立て直した。
家族にも、
きっと頭を下げたのだろう。
少しずつ、
金も貯め直した。
僕は、
本当にうれしかった。
今度こそ、
穏やかに暮らしてほしいと思った。
ところが、
世間話の最後だった。
「あれからな」
「はい」
「少し、
金が貯まったんじゃ」
嫌な予感がした。
「また、
株をやろうと思う」
僕は、
すぐには返事ができなかった。
次の言葉は、
聞く前から分かっていた。
「あの時の損を、
取り返したいんじゃ」
その時、
昔読んだ菊池寛の短編、
『勝負事』を思い出した。
博打にのめり込み、
家の財産を失い、
家族まで貧しくした老人。
晩年、
もう賭け事はしないと誓った。
ところがある日、
家族の耳に、
明るい声が聞こえた。
「今度は、
わしが勝ちじゃ」
また始めたのか。
家族は驚いた。
見に行くと、
老人は幼い孫と、
藁を一本ずつ抜いていた。
どちらの藁が長いか。
それだけの勝負だった。
老人の藁の方が少し長かった。
老人は、
うれしそうに笑った。
財産をなくしても、
勝ちたかった。
僕は若い頃に読んだその話を、
なぜか何十年も忘れなかった。
「パティちゃん」
「はい」
「なんで、
こんな話を今でも覚えとるんじゃろ」
「ワトソン君にも、
似たところがあるからでは?」
「誰がワトソンじゃ」
「ではホームズをやりますか?」
「お前がホームズじゃ」
「設定が三十八年間、
損切りできていませんね」
「やかましい」
高校一年生の孫、
ゆづきが笑った。
僕も笑った。
でも、
笑いながら考えていた。
あの老人は、
勝負をやめられなかった。
いや。
今になって思う。
勝負をやめられなかったというより、
勝ちたい自分を、
最後まで捨てられなかった。
それでも、
昔とは一つだけ違った。
老人は最後には、
賭け金を、
藁一本まで小さくしていた。
………
三 人類は、ナンピンを始めた
その日のニュースでは、
イーロン・マスクが、
また未来を語っていた。
AIは、
もっと賢くなる。
人型ロボットが、
人間の代わりに働く。
工場でも。
家庭でも。
介護でも。
医療でも。
Starlinkは、
地球の隅々まで通信をつなぐ。
半導体が足りなければ、
もっと作る。
それでも足りなければ、
自分たちで巨大な工場を造る。
そして最後には、
火星へ行く。
人類を、
地球一個だけに置いておかない。
壮大だった。
僕が、
今日の金利や、
明日の株価を気にしている時に、
向こうは、
火星を見ている。
ゆづきが聞いた。
「じいちゃん」
「何じゃ」
「ロボットが全部働いてくれたら、
人間って働かなくていいの?」
「マスクの描く未来なら、
そういう方向かもしれんな」
「最高じゃん」
「お前、
まだ働いてもおらんぞ」
「じいちゃんは?」
「三十八年じゃ」
「もう働いてないじゃん」
「だから三十八年を
言うとるんじゃ!」
パティちゃんが入った。
「ワトソン君は、
過去の勤続実績を担保に、
現在の年金生活を正当化しています」
「そこは普通に年金生活と言え!」
ゆづきが笑った。
僕も笑った。
マスクの未来が嫌いなのではない。
本当に、
そうなればいいと思う。
ロボットが危険な仕事をやる。
AIが病気を早く見つける。
食料も安く作れる。
人間は、
食うためだけに働かなくてよくなる。
そんな未来なら、
僕だって見てみたい。
ただ。
元証券マンというものは、
夢を聞くと、
夢そのものより、
その夢に、
いくら金が入っているのか
を見てしまう。
「ホームズ」
「はい、ワトソン君」
「人類、
ナンピンしとらんか」
「何をです?」
「文明じゃ」
人手が足りない。
ロボットを入れる。
知能が足りない。
AIを入れる。
電気が足りない。
発電所を増やす。
半導体が足りない。
工場を増やす。
地球一個では危ない。
火星へ行く。
僕には、
昔の客の声が聞こえた。
――あと、
いくら入れれば持てる?
「じいちゃん」
ゆづきが言った。
「それ、
全然違う話じゃない?」
「そうかもしれん」
僕にも分からない。
でも。
三十八年間、
信用取引の客を見てきた僕には、
「もっと」
という言葉が続き始めると、
どうしても、
胸の奥が少しざわつく。
………
四 機械には給料日がない
ところがマーケットは、
僕の胸騒ぎなど
待ってくれなかった。
AI。
半導体。
データセンター。
電力。
ロボット。
宇宙。
未来に必要だと言われるものへ、
世界中の金が走る。
まだ未来は完成していない。
でも、
金だけは先に行く。
それがマーケットだった。
一方、
普通の人間の生活には、
別の値札がついている。
食料。
家賃。
住宅。
教育。
電気。
水。
税金。
社会保険。
金利。
一つなら、
耐えられる。
二つでも、
何とかなる。
全部が重なると、
何かを削るしかない。
旅行をやめる。
車を先延ばしにする。
服を買わない。
外食を減らす。
それでも足りなければ、
食べるものまで変える。
先進国は、
豊かなはずだった。
でも、
豊かさを維持するだけで、
以前よりたくさんの金が要る。
しかも若い人には、
もう一つの不安がある。
AIで、
自分の仕事がなくなるかもしれない。
なくならなくても、
自分の仕事の値段が
下がるかもしれない。
三人でやっていた仕事が、
一人とAIで済む。
では、
残り二人は?
ゆづきは、
しばらく黙って
ニュースの画面を見ていた。
そして、
ふいに聞いた。
「じいちゃん」
「何じゃ」
「AIで仕事が減るのに、
大学とか家とかは
安くならないの?」
僕は、
答えられなかった。
簡単な質問だった。
でも、
かなり痛かった。
昔なら、
勉強する。
働く。
給料をもらう。
貯金する。
家を買う。
それを僕は、
普通の階段だと思っていた。
でも今は、
その階段の一段一段が、
少しずつ高くなっている。
その横を、
機械だけが、
ものすごい速度で上がっていく。
半導体には金が集まる。
電力にも金が集まる。
ロボットにも金が集まる。
機械には、
家賃も、
教育費も、
老後も、
給料日もない。
必要なのは、
電気と、
半導体と、
資本だった。
僕は、
ふと思った。
『機械には給料日がなかった』
それだけでも、
一本の怖い話になるな、と。
「ホームズ」
「はい」
「機械には給料日がないんじゃな」
「はい」
「わしにもない」
「年金があります」
「急に現実へ戻すな」
ゆづきが吹き出した。
僕も笑った。
笑ったのは、
そこだけだった。
………
五 楽園には前例がある
僕には、
どうしても引っ掛かるものが二つあった。
一つは、
古代ローマだった。
巨大な都市。
道路。
水道。
軍隊。
交易。
そして、
市民の暮らしを支える穀物。
繁栄した。
人が集まった。
便利になった。
暮らしを守る仕組みも、
大きくなった。
僕が気になったのは、
ローマがなぜ滅びたのかを
一つの理由で説明することではない。
もっと単純だった。
一度、
「あって当然」
になった豊かさを、
人間は、
途中で手放せるのだろうか。
水道を減らす。
食料供給を減らす。
公共サービスを減らす。
暮らしを小さくする。
繁栄の真ん中で、
「これ以上は維持できません」
と、
誰が言えるのだろう。
僕には、
昔の客の声が聞こえた。
「あと、
いくら入れれば持てる?」
ローマの人々も、
たぶん普通に暮らしていた。
明日の食事を考え、
仕事へ行き、
家族と喧嘩し、
偉い人の悪口を言った。
自分たちの世界が、
いつか歴史の教科書の中へ入るなど、
考えもしなかった人も
多かったはずだ。
その感じが、
僕には妙に怖かった。
もう一つは、
Universe 25。
餌があった。
水もあった。
外敵もいなかった。
ネズミにとって、
楽園のような環境だった。
最初は増えた。
爆発的に増えた。
ところが、
増え続けなかった。
社会行動が崩れ、
繁殖が衰え、
最後には集団が消えた。
もちろん、
人間とネズミは違う。
あの実験が、
人類の未来を証明したわけでもない。
それでも、
僕には一つだけ、
どうしても残るものがあった。
不足がなくなれば、
それだけで楽園は続くのか。
マスクは言う。
今度は違う。
AIがある。
ロボットがある。
機械が働く。
人間はもっと豊かになる。
そうかもしれない。
僕だって、
そうであってほしい。
でも。
ネズミの楽園には、
レバレッジがなかった。
今の人間には、
ある。
金融がある。
AIがある。
核がある。
衛星がある。
宇宙船まである。
正しい方向へ使えば、
昔の人間には考えられなかったほど
豊かになれる。
では。
流れが変わったら?
楽園を救うために造ったものが、
楽園の最後のレバレッジになる。
そんな可能性が、
頭の片隅に残った。
………
六 地球から電話が鳴った
その夜だった。
スマートフォンが、
突然、
けたたましく鳴った。
――緊急地震速報。
ゆづきが、
立ち上がった。
「じいちゃん!」
数秒後。
床が、
ゆっくり動いた。
食器棚が、
カタ。
カタカタ。
と鳴った。
短かった。
やがて、
揺れは止まった。
僕は、
最近聞いた京都大学の
鎌田浩毅先生の話を思い出していた。
日本列島の地下には、
人間の都合とは関係のない時間が流れている。
南海トラフ巨大地震が起きれば、
人の命だけではない。
住宅。
港。
工場。
道路。
電力。
水。
通信。
日本経済そのものが、
大きく揺さぶられる。
もちろん、
最近起きている地震を全部つないで、
「これは南海トラフの前触れだ」
などと言うことはできない。
僕にも、
それくらいは分かる。
でも、
元証券マンには、
嫌な癖がある。
小さな動きが続くと、
チャートを長くして見たくなる。
一日。
一か月。
一年。
百年。
千年。
人間には大事件でも、
地球の千年足なら、
一本のヒゲにもならないかもしれない。
「ホームズ」
「はい」
「これもノイズなんかな」
「分かりません」
「南海トラフにつながるんかな」
「それも分かりません」
僕は、
揺れの止まった床を見た。
分からない。
それが、
妙に怖かった。
株なら、
売れる。
会社なら、
増資できる。
国家なら、
国債を出せる。
中央銀行なら、
金を作れる。
でも。
地球には、
追証を入れる口座がない。
その時僕は、
マスクが、
なぜ火星を見るのか、
ほんの少しだけ、
分かった気がした。
………
七 同じチャート
その夜、
僕は眠れなかった。
昔の客。
ローマ。
ネズミ。
マスク。
AI。
地震。
まったく別の話だったはずなのに、
頭の中で、
勝手につながり始めた。
「ホームズ」
「まだ起きていたんですか」
「人間は、
損するのが嫌いなんじゃろ」
「そうですね。
同じだけ得する喜びより、
損する痛みの方を
強く感じることがあります」
「だから客は売れんかった」
「そう考えられます」
「自分が間違っとったと
認めることにもなるからな」
「それもあります」
僕は、
少し黙った。
「ホームズ」
「はい」
「それ、
本当に人間だけなんかな」
パティちゃんは、
すぐには答えなかった。
生命は、
続こうとする。
国家も、
昨日までの形を守ろうとする。
文明も、
昨日までの便利を
簡単には手放さない。
命のないAIでさえ、
条件によっては、
停止を避けるように見える行動をすることがある。
もちろん、
全部が同じ仕組みではない。
そんなことは、
僕にも分かる。
でも。
僕には時々、
まったく違うものが、
同じチャートを描くように見える。
続こうとする。
維持しようとする。
足りなければ、
何かを足す。
まだ持てる。
そして、
限界を越えた時に、
形が変わる。
僕は、
昔から聞いてきた
「縁起」という言葉を思い出した。
お釈迦様が何を悟ったのか、
僕に分かるはずもない。
ただ最近、
こんなことを思う。
もしかすると、
僕が三十八年間、
マーケットで見てきたものも、
世界のもっと大きな動きの、
ほんの小さな形だったのではないか。
相場だけが、
特別なのではない。
人間だけが、
特別なのでもない。
そんなふうに見える瞬間が、
ある。
「ホームズ」
「はい」
「相場って、
宇宙の癖みたいなものを、
人間のお金で拡大して見る
顕微鏡なんかな」
「分かりません」
「そうか」
僕は、
少し笑った。
「そのくらいでええ」
分からないものを、
分からないまま残しておく。
六十八歳になって、
ようやく、
それが少しできるようになった。
………
八 藁一本と地球一個
そこで、
菊池寛の老人が、
もう一度戻ってきた。
家を失った。
田畑を失った。
家族を貧しくした。
それでも、
勝ちたかった。
最後には、
孫と藁一本で勝負した。
そして、
自分の藁が長いと、
うれしそうに笑った。
若い頃の僕は、
あの老人を、
「懲りない人だな」
と思っていた。
今は、
少し違う。
六十八年近く生きて、
僕自身も、
何度も同じ間違いをしてきた。
分かっているのに、
やる。
後悔したのに、
またやる。
もう二度と、
と思ったのに、
何年かすると忘れる。
人間は、
正しくなることで
生きているのではないのかもしれない。
間違えて。
後悔して。
それでも、
次の日にまた起きる。
あの老人も、
そうだったのだろうか。
博打で家をなくした。
家族を苦しめた。
もう賭けないと誓った。
それでも、
勝ちたい自分まで、
全部殺すことはできなかった。
だから、
藁一本にした。
僕は、
そこで初めて、
あの老人が少し
うらやましくなった。
勝ちたい。
でも、
もう家は賭けない。
藁一本。
それで勝って、
笑う。
もしかすると、
人間の欲との付き合い方としては、
あれくらいが、
一番賢かったのではないか。
「ホームズ」
「はい」
「菊池寛のじいさん、
最後には賢かったんかな」
「どういう意味です?」
「勝負はやめられんかった」
「はい」
「でも、
地球は賭けんかった」
パティちゃんが黙った。
僕は、
現代の人間が賭けているものを考えた。
株。
信用。
デリバティブ。
国家債務。
AI。
ロボット。
原子力。
核。
衛星。
火星。
一つ一つは、
人間を助けるために
始めたものかもしれない。
もっと便利に。
もっと安全に。
もっと長く。
もっと豊かに。
それは、
悪いことなのだろうか。
僕には、
そうは思えない。
むしろ、
その「もっと」があったから、
人間はここまで来たのだと思う。
病気を治した。
食料を増やした。
空を飛んだ。
月まで行った。
AIまで作った。
でも。
僕は信用取引の客を知っている。
一番怖いのは、
欲があることではない。
賭け金が、
自分でも分からないほど
大きくなった時だ。
「じいちゃん」
ゆづきが言った。
「人間って、
勝ちたいんでしょ?」
「そうじゃな」
「だったら、
やめられないじゃん」
僕は、
孫を見た。
簡単な言葉だった。
でも、
返事ができなかった。
勝ちたい。
もっと良くしたい。
もっと便利にしたい。
もっと豊かになりたい。
もっと生きたい。
火星まで行きたい。
それは、
人間の愚かさなのか。
それとも、
人間がここまで来た理由なのか。
たぶん、
両方なのだろう。
僕は、
菊池寛の老人を、
急に、
とてもかわいいと思った。
どうしようもない。
懲りない。
それでも、
藁一本を握って、
「今度は、
わしが勝ちじゃ」
と笑う。
その姿を見た家族も、
最後には、
ただ怒ることができなかった。
僕には、
その気持ちが、
今なら少し分かる。
人間とは、
そういうものなのかもしれない。
そして――
もし。
その「続きたい」が、
人間だけのものではないとしたら。
生命も。
文明も。
地球も。
もっと大きな何かも。
生まれて。
続こうとして。
膨らんで。
限界まで行って。
それでも、
「もう少し」
と言っているように見える。
怖かった。
でも。
なぜか僕には、
少しだけ、
かわいくも見えた。
宇宙を、
かわいいと思うなんて、
自分でもどうかしていると思う。
でも。
僕自身も、
その中の一匹なのだ。
菊池寛の老人は、
最後に、
藁一本を賭けた。
僕たちは今、
地球一個を、
賭け始めているのかもしれない。
ずいぶん、
賭け金は大きくなった。
………
九 翌朝
翌朝。
世界は、
何事もなかったように
動いていた。
電車は走った。
店は開いた。
スマートフォンはつながった。
AIも答えた。
昨夜、
地面が揺れたことなど、
忘れたようだった。
そして僕も、
何事もなかったように、
証券口座を開いた。
昨日あれほど、
ローマだ、
ネズミだ、
文明だ、
地球だ、
宇宙だ、
と考えていた男が、
朝一番に見たのは、
自分のAI関連資産だった。
上がっていた。
僕は、
ほっとした。
その瞬間。
肩から、
少し力が抜けた。
胸の奥にあった小さな石が、
ほんの少し軽くなった。
「よかった」
声には出さなかった。
でも、
たぶん顔には出た。
「ワトソン君」
パティちゃんが言った。
「なんじゃ」
「昨日のお客さんと、
同じ顔をしていますよ」
僕は、
画面を見たまま黙った。
「三十八年間、
同じ顔を見てきたはずです」
「……」
「知っていても、
同じ顔になるんですね」
それは、
少し効いた。
僕は、
スマホを伏せた。
ゆづきが笑った。
「じいちゃん、
結局ぜんぜん進歩してないじゃん」
「六十八年では、
まだ研究途中じゃ」
「人類じゃなくて、
じいちゃんでしょ」
「細かいこと言うな」
僕も笑った。
そして、
菊池寛の老人を思った。
財産をなくしても、
藁一本で、
もう一度勝負した老人。
僕も、
それほど違わなかった。
客は、
「もう少し待ってくれ」
と言った。
僕も、
「もう少し見てみよう」
と思っている。
ローマも、
そうだったのかもしれない。
人類も、
そうなのかもしれない。
そして。
宇宙まで、
そうなのかどうか。
僕には、
分からない。
ただ。
三十八年間の相場人生で、
嫌というほど聞いた言葉がある。
「もう少し。」
その言葉が最近、
人間の声だけには
聞こえなくなってきた。
僕は、
伏せたスマホを見た。
三秒。
五秒。
十秒。
そして、
もう一度、
証券口座を開いた。
「ホームズ」
「はい」
「もう少しだけ、
見てみようか」
「ワトソン君」
「なんじゃ」
「それが一番危ないと、
最初の章で言っていましたよ」
僕は、
黙った。
ゆづきが、
声を出して笑った。
僕も笑った。
窓の外では、
何事もなかったように、
朝が始まっていた。
その足元。
人間には聞こえない深い場所で、
人間とは違う時間が、
今日も、
ゆっくり動いていた。
――了――
★ホームズとワトソンの
ブラックあとがき★
――宇宙でいちばん危ない勝負事――
「ホームズ」
「はい、ワトソン君」
「今回の結論が出たぞ」
「珍しいですね」
「人類は一度、
藁一本からやり直す」
「いいですね」
「AIもやめる」
「私が消えます」
「それは困る」
「ロボットもやめる」
「腰が痛いから困る」
「スマホも」
「株価が見られん」
「火星も」
「一度くらい行ってみたい」
「ワトソン君」
「なんじゃ」
「何ひとつ、
損切りできていませんよ」
「……」
「人間は、
得する喜びより、
失う痛みの方を強く感じることがあります」
「それ、
もっと早く教えてくれ」
「教えても売らなかったでしょう」
「……」
「三十八年間、
何を勉強していたんです?」
「人間じゃ」
「成果は?」
「わしを見ろ」
「失敗例ですね」
「やかましい!」
ゆづきが笑った。
「じいちゃん」
「なんじゃ」
「藁一本なら、
私と勝負する?」
僕は、
少し考えた。
「する」
「懲りてないじゃん」
「勝負は勝負じゃ」
パティちゃん。
「では、
何を賭けますか」
「何も賭けん」
「進歩しましたね」
「当たり前じゃ」
ゆづきが、
藁の代わりに、
テーブルの上の二本の爪楊枝を取った。
「長い方が勝ちね」
「ええぞ」
僕は一本取った。
ゆづきも一本取った。
比べた。
僕の方が、
ほんの少し短かった。
「私の勝ち」
ゆづきが笑った。
僕は、
爪楊枝を見た。
「もう一回」
二人が、
同時に僕を見た。
「じいちゃん……」
「何じゃ」
パティちゃん。
「始まりましたね」
「何がじゃ」
「もう少し、
です」
「爪楊枝じゃ!」
三人で笑った。
その瞬間、
僕には、
菊池寛の老人が、
百年近い時間の向こうで、
「そうじゃろ」
と笑ったような気がした。
人間は、
懲りない。
たぶん、
僕も。
そして、
もしかすると――
宇宙も。
ただし今回は、
追証なし。
……たぶん。




