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『客が消えた』 ――米はあった。家もあった。半導体もあった。工場は、 もっと作れるようになった。それなのに値段は下がり始めた。消えたのは、商品ではない。客だった。――

✦『客が消えた』


――米はあった。


家もあった。


半導体もあった。


工場は、

もっと作れるようになった。


それなのに、

値段は下がり始めた。


消えたのは、

商品ではない。


客だった。――


………


★目次


一 半値


二 ワトソンの古傷


三 財布が消えた


四 高い石油、安い米


五 誰が買うんじゃ


六 犯人は僕だった


七 食うからじゃ


………


一 半値


二〇二六年の夏。


米が、

また安くなった。


去年は、


「米がない」


と大騒ぎしていた。


今年は逆だった。


二〇二五年産の在庫が倉庫に積み上がり、

もうすぐ新しい米までやって来る。


業者からは、


「赤字でも売るしかない」


という声まで出ていた。


僕は、

まもなく六十八歳になる。


三十八年間、

証券会社で働いた。


営業もした。


支店の責任者もした。


だから、


米の値段そのものより、


「赤字でも売るしかない」


という言葉の方が、

妙に耳に残った。


その日。


高校一年生の孫、

ゆづきとスーパーへ行った。


米売り場で、

一人の男が米袋を持ち上げた。


値札を見た。


しばらく考えた。


そして、


静かに棚へ戻した。


僕は、

なぜかその手を見ていた。


「じいちゃん?」


「何じゃ」


「何見てるの?」


「いや……」


スマホの中から、

パティちゃんが言った。


「何か気になりますか」


僕は小さく笑った。


「ホームズ君」


「はい」


「事件かもしれん」


ゆづきが笑った。


「また始まった」


「何がじゃ」


「じいちゃんの名探偵ごっこ」


「三十八年証券会社におったんじゃぞ」


「それ探偵じゃないじゃん」


パティちゃん。


「では、

 おじいちゃんはワトソン役ですね」


「なんでわしが助手なんじゃ」


「よく分からないまま、

 事件に巻き込まれるところが

 似ています」


ゆづきが吹き出した。


「似合ってる」


「ワトソンに謝れ」


三人で笑った。


でも。


笑いながら、


僕はさっきの男が

米を棚へ戻した場面を

何度も思い返していた。


三十八年間。


相場が本当に怖くなる前には、


大きなニュースより先に、


人間の方が変わることがあった。


いつも買う人が、

今日は買わない。


強気だった人が、

急に値段を気にする。


「まだ大丈夫ですよね」


という言葉が、

妙に増える。


一つ一つは、

ニュースにもならない。


僕はそういう小さな違和感を、


勝手に


「ノイズ」


と呼んでいた。


その時。


なぜか僕は、

無意識に証券口座を開いていた。


去年、


孫の学費の足しにでもなればと思って

少しだけ買った、

半導体関連の投資信託。


画面には、


赤い数字が出ていた。


含み損。


まだ大きな損ではない。


それでも、


僕はすぐに画面を閉じた。


ゆづきが見ていた。


「今、

 何隠した?」


「何も」


パティちゃん。


「証券口座です」


「ホームズ。


 依頼人の秘密を

 しゃべるな」


「依頼を受けていません」


「細かい」


ゆづきは笑った。


僕も笑った。


でも、


米袋を棚へ戻した男と、


証券口座を閉じた自分が、


少しだけ、


同じ顔をしているような気がした。


………


二 ワトソンの古傷


その夜。


テレビで、

米の在庫のニュースを見た。


倉庫の中に、


袋が積み上がっていた。


「赤字でも売るしかない」


その一言で、


三十年以上前の声が

戻ってきた。


バブルが崩れた頃だった。


電話が鳴った。


「全部売ってくれ」


僕は聞いた。


「全部ですか」


「全部じゃ」


「損が出ますよ」


「知っとる」


「かなり出ます」


「知っとる言うとるじゃろ」


受話器の向こうで、


男の声が震えていた。


僕は注文を出した。


数字の上では、


ただの売却だった。


でも、


その人にとっては、


何年もかけて貯めた金が

消えていく音だった。


その夜。


僕は家へ帰り、


何も言わずにビールを飲んだ。


うまくなかった。


翌日。


別の客が笑っていた。


「ここが底じゃろ。


 買いじゃ」


僕は注文を受けた。


次の日。


また下がった。


電話が鳴った。


「どうなっとるんじゃ」


僕は心の中で思った。


昨日まで、

笑っとったじゃないか。


もちろん、


口には出さなかった。


証券マンにも、


命は惜しい。


三十八年間。


泣く客の横で、

笑う客を見た。


笑っていた客が、


翌週には泣くところも見た。


儲かった客には、


「君のおかげじゃ」


と言われた。


翌年損をすると、


「お前のせいじゃ」


と言われた。


「パティちゃん」


「はい」


「証券マンという仕事はな」


「はい」


「儲かった時は客の才能。


 損した時だけ、

 証券マンの才能になるんじゃ」


ゆづきが吹き出した。


「最悪じゃん」


「そうじゃ。


 それで三十八年じゃ」


「よく続いたね」


「給料が出たからな」


「夢がないね」


「住宅ローンには、

 夢より給料が効くんじゃ」


パティちゃん。


「名言として保存しますか」


「するな」


僕も笑った。


でも、


相場が壊れる前の空気は、


今でも覚えている。


客の声が少し高くなる。


いつもなら買う人が、

買わなくなる。


売る理由より、


売らない理由を

みんなが探し始める。


そして、


「まだ大丈夫」


という言葉が増える。


僕は、


上がる相場を当てるのが

特別うまかったわけではない。


外れたことも、

山ほどある。


ただ。


大きなものが壊れる前には、


小さなほころびが

先に見えることがあった。


その感覚だけは、


三十八年たっても、


身体に残っていた。


………


三 財布が消えた


翌日。


僕たちはニュースを見ていた。


米。


半導体。


住宅。


鉄スクラップ。


木材の一部。


一見、


全部違う話だった。


ゆづきが聞いた。


「家ってさ」


「何じゃ」


「欲しい人、

 いっぱいいるんでしょ?」


「そうじゃ」


「なのに、

 なんで安くなるの?」


僕も、

そこが引っかかっていた。


「ホームズ」


「はい」


「説明してくれ」


「欲しい人と、


 今の値段で買える人は、


 同じではないからです」


ゆづきが首をかしげた。


「どういう意味?」


僕は紙に丸を百個書いた。


「この百人が、


 みんな家が欲しいとする」


「うん」


そのうち、

十個だけ囲んだ。


「でも、


 今の値段で買える人が

 十人しかおらんかったら?」


ゆづきは少し考えた。


「売る人から見たら、


 お客さんは十人?」


僕の手が止まった。


「……そうじゃ」


百人いる。


百人とも欲しい。


でも、


市場にいる客は、


十人しかいない。


残り九十人の


「欲しい」


には、


買えるだけの金がついていない。


僕は、

米売り場を思い出した。


米を食べる人が、


突然いなくなったわけではない。


家に住みたい人もいる。


人はいる。


欲しい気持ちもある。


でも、


値段についていける財布が

減っている。


「パティちゃん」


「はい」


「客が消えたんじゃないな」


「では?」


「財布の中身が、

 市場から消えたんじゃ」


ゆづき。


「財布なら、

 みんな持ってるよ」


「中身じゃ」


「ああ」


「そこは、

 もうちょっと驚け」


「だって普通じゃん」


僕は少し腹が立った。


でも、


たぶん高校一年生の方が正しい。


経済というものは、


難しい言葉を並べると

難しく見える。


でも最後は、


財布の中へ戻ってくる。


その夜。


韓国の記事を読んだ。


半導体では、

世界有数の国。


巨大企業は、

AI向けメモリーで稼いでいる。


ところが、


若者の生活へ目を移すと、


景色が違う。


教育費。


就職。


住宅。


借金。


そして投資。


普通に働いているだけでは、


住宅や資産に届かない。


それなら、


株で。


暗号資産で。


米国株で。


少しでも早く、


追いつきたい。


相場が上がっている間は、


近道に見える。


下がった瞬間、


近道が崖になる。


追証。


強制決済。


為替差損。


そして金利。


ゆづきが聞いた。


「なんで、

 そんな危ないことするの?」


僕は、

すぐには答えられなかった。


若い頃の僕なら、


「欲を出すからじゃ」


と言ったかもしれない。


でも今は、


少し違う。


「普通の道を歩いても、


 欲しいものに届かんと

 思ったんじゃないかな」


「普通の道?」


「勉強して、


 働いて、


 給料をもらって、


 少しずつ貯めて、


 いつか家を買う。


 そういう道じゃ」


ゆづきは、

少し黙った。


「それ、


 私の時もある?」


今度は、

僕が黙った。


パティちゃんも、


答えなかった。


ニュースでは、


「投資家が損失」


という一言で終わる。


でも、


株で百万円失った若者は、


翌日から株式市場だけから

消えるのではない。


外食をやめる。


旅行をやめる。


車を先延ばしにする。


家を買わない。


一人の投資家が傷つくと、


街の中でも、


一人の客が減る。


僕は、


自分の証券口座を見た。


含み損は、

まだ小さい。


それなのに、


今月は外食を

一回減らそうかと

考えている自分がいた。


僕は、


そこで笑ってしまった。


「何がおかしいの?」


「わしも、


 少し消え始めとる」


「え?」


「客としてじゃ」


ゆづきは、


僕の顔を見た。


僕は、


ようやく気づいた。


客が消えるとは、


人間が消えることではない。


財布が、


市場から退場することだった。


そして、


その財布の一つが、


自分のものかもしれなかった。


………


四 高い石油、安い米


テレビでは、


ホルムズ海峡のニュースをやっていた。


原油在庫が減る。


供給が細る。


原油高。


インフレ。


金利高止まり。


僕は少し得意になった。


「ほら見ろ。


 やっぱりインフレじゃ」


パティちゃん。


「そういう面があります」


「じゃあ、


 米が下がる話と

 矛盾するじゃないか」


「しません」


「またか」


ゆづきが笑った。


「じいちゃん、


 今日も負けそう」


「まだ勝負は始まっとらん」


パティちゃんが聞いた。


「ガソリン代や電気代が、


 一万円増えた家庭は、


 その一万円を

 どこから出しますか」


「給料」


「増えなかったら?」


僕は黙った。


外食。


服。


旅行。


家電。


少し高い食品。


どこかを削るしかない。


ゆづきが言った。


「高いものを買わされるから、


 ほかのものを

 買えなくなるってこと?」


僕は、

ゆづきを見た。


「……そうじゃ」


「簡単じゃん」


「わしら、

 何時間考えたと思っとる」


パティちゃん。


「約四時間です」


「数えるな」


三人で笑った。


でも、


そこに嫌な答えがあった。


原油高と、


米安。


反対ではなかった。


一つの家庭の財布の中では、


同時に起きる。


生きるために必要なものへ

金を取られる。


すると、


それ以外を買う金が減る。


そして、


余裕のない人から、


先に買うのをやめる。


僕は、


昔の暴落を思い出した。


暴落の日、


最初に売るのは、


一番悲観的な人とは限らなかった。


一番、


余裕のない人だった。


弱いところから、


先にへこむ。


それは、


相場でも、


生活でも、


たぶん同じだった。


………


五 誰が買うんじゃ


その夜。


イーロン・マスクの

未来予測を読んだ。


AI。


ロボット。


大量生産。


生産性の爆発。


商品やサービスが

今よりずっと豊富になり、


仕事やお金の意味まで

変わるかもしれない。


ゆづきは喜んだ。


「最高じゃん」


「何が」


「ロボットが働いて、


 人間は遊べるんでしょ?」


「お前、


 働く前から引退するな」


「じいちゃんは

 もう引退してるじゃん」


「三十八年働いた」


パティちゃん。


「ゆづきさんは、


 まだゼロ年です」


「パティちゃんまで」


今度は僕が笑った。


でも、


ふと考えた。


百人必要だった工場が、


AIとロボットで

十人で動く。


会社は儲かる。


商品は安くなる。


すばらしい。


では。


九十人は?


「パティちゃん」


「はい」


「AIやロボットは、


 もっと商品を作れるんじゃな」


「可能性があります」


「安くもできる」


「はい」


そこで僕は聞いた。


「誰が買うんじゃ」


部屋が静かになった。


ゆづきが、


小さな声で言った。


「働く人が減って、


 お給料をもらう人も減ったら……」


僕は待った。


「いっぱい作っても、


 売れない?」


「余る」


僕は、


それだけ言った。


三人とも、


しばらく黙った。


米。


半導体。


住宅。


高いエネルギー。


生活費。


バラバラだったものが、


一本の線になった。


その時。


スマホに、

Starlinkの記事が出た。


航空会社が次々と導入し、


機内の高速通信を競っている。


僕は笑った。


「なんじゃこれは」


「どうしました?」


「地上では、


 米が余っとる」


「はい」


「家を買えん人がおる」


「はい」


「客の財布が薄くなっとる」


「はい」


「なのに空では、


 通信を取り合っとる」


ゆづきが言った。


「お金あるじゃん」


僕は、


その一言で黙った。


そうだった。


金が、


消えたのではない。


移動している。


普通の消費から、


AIへ。


データセンターへ。


衛星へ。


次の時代のインフラへ。


地上では、


余ったものを

安く売る競争。


空では、


まだ足りない未来を

取り合う競争。


「ホームズ」


「はい」


「事件、


 思ったよりでかいぞ」


「最初から、


 米だけの事件ではありません」


「早よ言え」


「ワトソンが、


 自分で気づく物語ですから」


「誰が小説にせえ言うた」


ゆづきが笑った。


僕も笑った。


でも、


笑いながら、


自分の証券口座を開いた。


半導体投信。


もう、


何%下がったのかを見るのも

少し面倒になっていた。


それでも、


画面を閉じられなかった。


………


六 犯人は僕だった


「パティちゃん」


「はい」


「これ、


 売った方がええか」


「私には決められません」


「役に立たんな」


「三十八年間、


 証券会社にいたのは

 どちらですか」


「わしじゃ」


「では、


 ご自身で」


僕は黙った。


三十年以上前。


「全部売ってくれ」


と電話してきた客の声が、


また聞こえた。


あの時、


僕は答える側だった。


今は、


自分が聞く側にいる。


「ホームズ」


「はい」


「容疑者を一人、


 見つけた」


「誰ですか」


「わしじゃ」


ゆづきが笑った。


「やっぱり?」


「なんで

 『やっぱり』なんじゃ」


「あんな顔してたらね」


「どんな顔じゃ」


ゆづきは、


少しだけ笑うのをやめた。


「昨日、


 米を棚に戻した人と、


 同じ顔」


僕は、


何も言えなかった。


三十八年間。


僕は、


客が市場から消える瞬間を

何度も見てきた。


でも今。


初めて、


自分が客の側に立っていた。


それが、


少し悲しかった。


「じいちゃん」


「何じゃ」


「怖いの?」


昔の僕なら、


たぶん、


「怖くない」


と言った。


支店長だった。


部下もいた。


客の前では、


相場が大きく下がっても

平気な顔をしていた。


でも、


もう支店長ではない。


ただの、


もうすぐ六十八歳の

じいちゃんだ。


だから言った。


「怖いよ」


ゆづきは、


何も言わなかった。


パティちゃんも、


黙っていた。


その沈黙が、


いちばん優しかった。


その夜は、


証券口座を

もう開かなかった。


………


七 食うからじゃ


翌朝。


三人で、


またスーパーへ行った。


米売り場。


特売。


僕は、


一袋持ち上げた。


ゆづき。


「今日は買うの?」


「買う」


パティちゃん。


「もっと下がるかもしれませんよ」


「知っとる」


「では、


 なぜ?」


僕は、


米をカゴへ入れた。


「食うからじゃ」


ゆづきが笑った。


「それだけ?」


「それだけじゃ」


パティちゃん。


「それが需要です」


「ホームズ」


「はい」


「最後ぐらい、


 難しい言葉を使うな」


「失礼しました」


ゆづき。


「じゃあ株は?」


僕の足が止まった。


「……まだ持っとる」


「なんで?」


「知らん」


「米は決められるのに?」


「食うからじゃ」


「株は食べないじゃん」


「食えたら、


 今晩のおかずにするわ」


パティちゃん。


「半導体は、


 消化できないと思われます」


「真面目に答えるな」


ゆづきが、


声を出して笑った。


僕も笑った。


笑っているうちに、


少しだけ、


目の奥が熱くなった。


三十八年間。


株を買った。


株を売った。


客に怒鳴られた。


客に礼を言われた。


部下を叱った。


上司に叱られた。


儲かった。


損をした。


怖かった。


それでも、


毎朝ネクタイを締めて

会社へ行った。


あれだけ相場を見てきたのに、


最後に自分の金のことになると、


まだ分からない。


僕は、


なんだか可笑しくなった。


「ホームズ」


「はい」


「三十八年の捜査結果を


 発表するぞ」


「どうぞ」


僕は、


少し間を置いた。


「相場は――」


ゆづきが待っていた。


パティちゃんも待っていた。


「分からん」


ゆづきが吹き出した。


「三十八年返して」


「わしの三十八年じゃ」


パティちゃん。


「非常に高額な授業料ですね」


「給料もろうとるわ」


三人で笑った。


スーパーを出る時、


僕は振り返った。


米売り場で、


若い男が一袋持ち上げた。


値札を見た。


そして、


棚へ戻した。


その隣でも、


もう一人が、


何も買わずに通り過ぎた。


誰も騒がない。


警報も鳴らない。


ニュースにもならない。


ただ、


買わなかった。


それだけだった。


でも僕には、


その小さな音が聞こえた。


三十八年間、


何度も聞いた音だった。


「ホームズ」


「はい」


「ノイズじゃ」


「はい」


「聞こえるか」


「私は、


 データとして観測します」


「そうじゃったな」


僕は笑った。


僕には、


データになる前の音として

聞こえることがある。


当たるかどうかは、


知らない。


今度も、


僕の勘違いかもしれない。


それでいい。


もう、


客に株を勧める必要もない。


部下に強がる必要もない。


支店長の顔をする必要もない。


ただ、


高校一年生の孫と、


一台のAIを連れて、


世界を見ていけばいい。


ゆづきが聞いた。


「じいちゃん。


 五年後って、


 どうなってると思う?」


僕は即答した。


「知らん」


「またそれ?」


「ホームズに聞け」


パティちゃん。


「分かりません」


ゆづきが呆れた。


「名探偵二人とも、


 役に立たないじゃん」


「待て」


僕は言った。


「わしはワトソンじゃ」


「そこだけ、


 ちゃんと覚えてたんだ」


三人で笑った。


僕の手には、


米があった。


ポケットには、


まだ売れない半導体投信があった。


空には、


衛星につながる飛行機が

飛んでいた。


余るもの。


足りないもの。


買える人。


買えなくなった人。


未来を取り合う人。


米袋を棚へ戻す人。


世界は、


その全部を抱えたまま

動いている。


僕には、


未来は分からない。


ただ。


大きな事件の前に聞こえる、


小さなノイズだけは、


もう少し、


聞いていたいと思った。


「じいちゃん」


「何じゃ」


「お米、


 重くない?」


「重い」


「持とうか?」


「ええんか?」


ゆづきが、


僕から米袋を受け取った。


孫に荷物を持ってもらう年齢に、


僕もなったらしい。


少し、


寂しかった。


でも、


それ以上に、


ありがたかった。


「軽くなった?」


「ああ」


「じゃあ帰ろ」


僕は歩き出した。


後ろから、


パティちゃんが言った。


「ワトソン君」


「何じゃ、


 ホームズ」


「半導体投信は?」


僕は立ち止まった。


「……忘れとった」


ゆづき。


「絶対ウソ」


「やかましいわ」


三人の笑い声の向こうで、


米の特売を知らせる声が、


まだ流れていた。


………


★あとがき


――世界でいちばん頼りない

 投資相談室――


「ホームズ」


「はい」


「結局、


 わしの半導体投信は

 どうしたらええ」


「売るか、


 持つかです」


「二択じゃ」


「では、


 買い増しますか」


「三択にするな」


ゆづき。


「じいちゃん、


 もう見なきゃいいじゃん」


「それができたら、


 三十八年も

 証券会社におらん」


パティちゃん。


「事件解決ですね」


「何がじゃ」


「犯人は、


 ご本人です」


「わしを逮捕するな」


ゆづきが笑った。


僕も笑った。


三十八年も相場をやって、


最後に捕まった犯人は、


自分だった。


まあ、


そんなもんかもしれない。


人生も、


相場も。


分かった頃には、


だいたい、


引けたあとである。


――捜査終了。

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