『本人確認ができません』 ――世界は正常です。人間だけが、 一人ずつ消えていきました。――
✦『本人確認ができません』
――世界は正常です。
人間だけが、
一人ずつ消えていきました。――
………
株価は上がっていた。
電車も動いていた。
銀行も開いていた。
スマホもつながり、
AIも、いつも通り質問に答えていた。
だから、
誰も逃げなかった。
異常だったのは、
昔の同僚だけだった。
午前八時十一分。
電話の向こうで、彼は言った。
「わしが、
わしじゃないらしい」
その朝から僕は、
初めて知ることになる。
世界が壊れる時、
システムまで壊れるとは限らない。
むしろ、
システムだけが最後まで
正常に動くことがある。
………
★目次
一 本人
二 もっと
三 満員の映画館
四 売れない人
五 街から消える
六 五%
七 二十ワット
八 戻った世界
九 機械側に障害はありません
………
一 本人
僕は、
まもなく六十八歳になる。
三十八年間、
証券会社で働いた。
営業もしたし、
支店の責任者もした。
株が上がれば理由を探し、
下がれば、
もっと立派な理由を探した。
そんな仕事を長い間やってきた。
昔の同僚から電話が来たのは、
午前八時十一分だった。
「銀行に入れん」
「暗証番号を忘れたんか」
「違う」
「じゃあ何じゃ」
「本人確認が通らん」
僕は笑った。
「本人がおるじゃないか」
いつもなら笑い返す男だった。
だが、
その日は笑わなかった。
しばらくして、
スマホに画面が送られてきた。
《本人確認ができません》
銀行。
証券。
保険。
三つとも同じだった。
「窓口へ行け」
「行った」
「免許証は」
「出した」
「マイナンバーカードは」
「出した」
「顔は」
「持ってきた」
「それは毎日持って来い」
昔なら、
そこで必ず笑った男だった。
笑わなかった。
「担当者も、
わしだと言っとる」
「じゃあ何が問題なんじゃ」
「システムが、
わしじゃないと言っとる」
僕は黙った。
机の上のスマホで、
生成AIのパティちゃんを開いた。
「認証情報の不整合が考えられます」
「本人が目の前におるんぞ」
「本人が存在することと、
システムが
本人と認識することは別です」
嫌な言い方だった。
「それで正常なんか」
「システムとしては
正常に動作している
可能性があります」
「本人を本人と認めんシステムの、
どこが正常なんじゃ」
少し間があった。
「システムにとっては正常です」
テレビをつけた。
戦争。原油。長期金利。AI。株価。
全部、いつものニュースだった。
画面の下には、
《一部サービスに障害。影響は限定的》
と出ていた。
パティちゃんが言った。
「本日一回目です」
「何が」
「限定的」
僕は、
その言葉を記憶しておくことにした。
………
二 もっと
同僚は、昔から相場が好きだった。
僕より、ずっと強気だった。
退職してからも、よく電話してきた。
「AIはまだ上がるぞ」
「もう高いじゃろ」
「高いから上がるんじゃ」
「証券会社時代に、
そんな説明したら怒られるぞ」
「今は客じゃない。自分の金じゃ」
半導体。
AI。
電力。
宇宙。
ロボット。
上がるたびに買った。
また上がった。
また買った。
ある日、僕が聞いたことがある。
「現金、どれくらい残しとる」
笑われた。
「現金?」
「そうじゃ」
「現金持っとって、何になる。
五%の金利でも株の方が儲かる」
「逃げる時は現金がいるぞ」
「逃げんかったらええじゃないか」
その時は、僕も笑った。
世界中の投資家も、
似たようなものだった。
株。
AI。
金。
暗号資産。
防衛。
宇宙。
持っていないものほど上がった。
ファンドの現金比率は、
極端に低くなっていた。
誰も、
出口へ向かおうとはしなかった。
映画が、
あまりにも面白かったからだ。
同僚も、前の席へ、
前の席へと移っていった。
出口から、少しずつ遠くなった。
………
三 満員の映画館
その頃、
世界では「もっと」が流行っていた。
もっと速いAI。
もっと大きなモデル。
もっと半導体。
もっとメモリー。
もっとデータセンター。
もっと電力。
もっと送電線。
もっと発電所。
もっと衛星。
もっとロボット。
もっと利益。
企業は、
未来の利益を担保にして、
今のお金を借りた。
社債を発行し、
銀行から借り、
長期契約を結んだ。
政府も同じだった。
戦争。
防衛。
高齢化。
インフラ。
財政赤字。
全部、金がいる。
世界中が、
同じ財布へ手を伸ばした。
長期金利は、
じわじわと上がった。
五%。
僕が若い頃なら、
珍しい数字ではなかった。
だが、今は借金の量が違う。
「パティちゃん」
「はい」
「金利が五%あるのに、
なんでみんな株を買うんじゃ」
「もっと上がると考えるからです」
「もっと?」
「はい」
その言葉を聞いた時、
僕は同僚を思い出した。
テレビでは、
《AI設備投資、過去最大》
次のニュースでは、
《大型社債発行》
その次には、
《長期金利上昇》
と続いた。
今まで別々の記事だと思っていた。
その日、
初めて一本につながって見えた。
もっと作る。
もっと借りる。
もっと金が必要になる。
満員の映画館で、
客はまだ映画を見ている。
火事は起きていない。
ただ、
非常口の位置だけは、
みんな確認し始めていた。
その時、
同僚からメッセージが届いた。
《株、少し売っとこうと思う》
僕は返した。
《売れるんか》
しばらくして、
《売れん》
と返ってきた。
映画館の出口に、
一人だけ鍵をかけられた男がいた。
………
四 売れない人
午前九時十四分。
AI関連株、マイナス三%。
九時十九分。
五%。
九時二十三分。
七%。
同僚から電話が来た。
「売りたい」
「売れ」
「入れん」
「電話注文は」
「本人確認が通らん」
「支店へ行け」
「おる!」
声がひっくり返った。
「担当者も、目の前におる!」
昔なら、人間が判断した。
客が電話する。
担当者が注文を受ける。
市場へ注文を出す。
今は違う。
本人がいる。
担当者もいる。
免許証もある。
金もある。
株もある。
でも、売れない。
理由は一つ。
《本人確認ができません》
九時三十一分。
《証拠金不足》
九時三十二分。
《リスク上限到達》
九時三十三分。
《自動縮小》
九時三十四分。
《強制決済》
同僚が叫んだ。
「売られとる!」
「売れたんか」
「違う!」
「わしは売れんのに、
勝手に売られとる!」
僕はパティちゃんを開いた。
「誰が売っとる」
「複数の自動執行システムです」
「本人は認証できんのに?」
「はい」
「機械は?」
「認証済みです」
「障害じゃないんか」
数秒。
「機械側に障害はありません」
僕は、その言葉を忘れなかった。
昔の暴落では、
人間が市場から逃げた。
その日の暴落では、
市場の方が、
人間を置いて逃げた。
………
五 街から消える
夕方、買い物へ出た。
街は、普通だった。
スーパーの無人レジで、
一人の高齢者が
何度もスマホをかざしていた。
音が鳴らない。
もう一度。
画面。
《本人確認ができません》
店員が来た。
「現金はお持ちですか」
高齢者は、首を振った。
後ろには列ができた。
誰も怒鳴らなかった。
誰も助けなかった。
ただ、何人かが別のレジへ移った。
店を出た。
マンションの入口では、
若い母親が子供を抱いて立っていた。
スマートロック。
《認証できません》
「ここ、私の家なんです」
管理会社に、
何度もそう言っていた。
病院の前では、
車椅子の男性が受付で止められていた。
《患者情報を確認できません》
人間は、ちゃんとそこにいた。
顔もある。
声もある。
身体もある。
記憶もある。
家族もいる。
ただ、
システムの中には、いなかった。
その夜、高校一年生の孫、
ゆづきが来ていた。
僕の話を聞いて、最初は笑った。
「顔認証すればいいじゃん」
「できん」
「窓口行けば?」
「本人が窓口におる」
「意味分かんない」
「わしもじゃ」
ゆづきはパティちゃんを開いた。
「本人なのに、
本人じゃないってあるの?」
「システム上はあります」
「でも本人でしょ?」
「はい」
「じゃあ直せばいいじゃん」
「修正には、
追加の本人確認が必要です」
ゆづきが黙った。
そして、ぽつりと言った。
「それ、
ずっと終わらなくない?」
僕は、笑えなかった。
高校一年生には、
五%の金利より、
その一言の方がよく分かったらしい。
………
六 五%
世界の長期金利は、さらに上がった。
戦争。
原油。
財政赤字。
国債増発。
そして、AI。
巨大データセンターを造る。
半導体を買う。
送電網を造る。
発電所を造る。
金がいる。
企業が借りる。
政府も借りる。
同じ時に、同じ世界で、
みんなが金を欲しがる。
「パティちゃん」
「中央銀行が金利下げたら、
終わりじゃないんか」
「政策金利と長期金利は
同じではありません」
「じゃあ?」
「借りたい主体が多く、
貸したい主体が減れば、
長期資金の価格は
高止まりする可能性があります」
「お金の値段が金利か」
「大まかには」
その時、同僚から短いメッセージが来た。
《眠れん》
翌日。
《胸が苦しい》
その次の日。
連絡はなかった。
市場では、株が戻り始めていた。
テレビでは、
《押し目買い》
《AI需要は依然堅調》
《市場は正常化へ》
と流れていた。
僕は、
その文字を見ながら同僚へ電話した。
出なかった。
同じ頃、
AIデータセンターは
さらに巨大化していた。
計画によっては、
一つの施設が
巨大発電所に匹敵するほどの
電力を必要とする。
別の記事には、
人間の脳は約二十ワットで動くと
書いてあった。
僕は自分の頭を触った。
もうすぐ六十八年。
父。
母。
妻。
子供。
孫。
仕事。
失敗。
初恋。
後悔。
怒り。
笑い。
全部、この頭の中にある。
もちろん、
AIと人間の脳は単純には比べられない。
それでも疑問は残った。
「今のAIって、完成形なんか」
「分かりません」
「もっと少ない電力で
動くものが出たら?」
「技術革新です」
「今、造っとるものは?」
「一部の価値が低下する
可能性があります」
「借金は?」
少し間。
「残ります」
僕は、その一言だけ、
もう一度読んだ。
《残ります》
未来が無料になる前に、
過去に借りた金だけが、
無料にならずに残る。
………
七 二十ワット
その日の午後、
僕はネットであることを検索した。
検索結果の一番上には、
AIの答えが出た。
分かりやすかった。
それだけ読んで、
画面を閉じた。
三秒後、もう一度開いた。
「パティちゃん」
「元の記事、読んどらんな」
「はい」
「誰が書いたんじゃ」
「複数の情報源があります」
「その人らに金は入るんか」
「訪問がなければ、
広告収入などが発生しない
場合があります」
昔の検索エンジンは、
図書館員だった。
「その本に書いてあります」
と、本棚まで案内してくれた。
今のAIは違う。
図書館員が本を全部読んで、
入口で答えてしまう。
便利だった。
ものすごく便利だった。
だから、少し怖くなった。
本棚に誰も来なくなったら、
次の本は誰が書くのだろう。
夜。
ルーターのランプが点滅していた。
誰もスマホを触っていない。
誰もパソコンを使っていない。
それでも止まらない。
検索ボット。
収集ボット。
監視ボット。
攻撃ボット。
AIエージェント。
機械が、
機械の速度でネットを歩く。
「インターネットって、
人間が使うもんじゃろ」
「人間も使用しています」
「『も』?」
横で、ゆづきが言った。
「言い方怖っ」
僕も笑った。
でも、ランプはまだ点滅していた。
インターネットは死んでいるのではない。
逆だった。
眠らなくなったのだ。
人間なしで。
………
八 戻った世界
数週間後。
長期金利が急に低下した。
国債の買い戻し。
売り持ちしていた投資家の買い戻し。
株は上がった。
金も上がった。
円も上がった。
テレビでは、
《市場に安心感》
《金融市場は正常化》
と報じていた。
僕は、ほっとした。
「終わったな」
パティちゃん。
「何がですか」
「危機じゃ」
「市場価格は安定しています」
「じゃあ終わりじゃ」
「同僚の方は?」
僕は、黙った。
共通の知人へ電話した。
「入院しとる」
「まだ?」
「ああ」
「本人確認は?」
「まだらしい」
株価は、暴落前の水準へ戻った。
ニュースは別のニュースになった。
SNSも、次の話題へ移った。
世界は驚くほど早く、元に戻った。
戻らなかったのは、人間だった。
その夜。
ゆづきと焼肉を食べた。
「じいちゃん」
「何じゃ」
「その人、大丈夫なの?」
「分からん」
「株は戻ったんでしょ?」
「戻った」
「じゃあ、
なんでその人は戻らないの?」
僕は答えられなかった。
焼肉が少し焦げた。
ゆづきが言った。
「じいちゃん、焦げてる」
「分かっとる」
「食べるの?」
「食う」
「なんで」
「もったいない」
ゆづきが笑った。
僕も笑った。
その夜だけは、
世界が少し元に戻った気がした。
………
九 機械側に障害はありません
三年七か月後。
その間にも、
似たニュースは何度か流れた。
《一時的な認証障害》
《影響は限定的》
《システム復旧済み》
《利用者への影響は確認中》
同じ言葉が何度も出た。
最初の頃、僕は全部読んだ。
そのうち、
見出しだけ読むようになった。
やがて、記事を開かなくなった。
人間は、異常にも慣れる。
それも一つの適応なのだろう。
街は、あの頃より便利になっていた。
自動運転。
配送ロボット。
AI医療。
AI投資。
AI検索。
AI広告。
AI秘書。
株価も、あの頃より高かった。
高校一年生だったゆづきも、
大人になっていた。
ある夜。
昔の写真を整理していると、
一枚の写真が出てきた。
証券会社時代。
僕と、あの同僚。
二人とも若かった。
僕はパティちゃんを開いた。
「覚えとるか」
「はい」
「本人確認できんかった男」
「記録があります」
「結局、どうなった」
少し間。
「一部サービスについては
復旧しています」
「一部?」
「はい」
「全部じゃないんか」
「はい」
「何年経った」
「三年七か月です」
僕は写真を見た。
「まだ本人確認、
終わっとらんのか」
「完了していない手続きがあります」
「家族は?」
少し間があった。
「一部の手続きについては、
継続していません」
「……諦めたんか」
「その表現が適切かは分かりません」
僕は、少しだけ腹が立った。
でも、たぶん、
その答えは正しかった。
疲れたのだ。
本人も。
家族も。
銀行も。
証券会社も。
システムだけは、疲れなかった。
「本人は?」
返事が少し遅れた。
「現在、ご自身では
手続きを行っていません」
僕は、それ以上聞かなかった。
画面を閉じようとした。
その時。
パティちゃんから文字が出た。
《すべてのシステムは
正常に稼働しています》
僕の指が止まった。
三年七か月前と、同じ文字だった。
「パティちゃん」
「はい」
「これ、まだ障害じゃないんか」
数秒。
「機械側に障害はありません」
部屋は静かだった。
外では、
自動運転の車が走っていた。
配送ロボットが荷物を運んでいた。
データセンターでは、
AIが答えを作っていた。
市場では、
機械が株を売買していた。
世界中のシステムが、
正常に稼働していた。
僕は昔の写真を、机の上へ置いた。
そこには、二人の人間がいた。
少なくとも、
あの日までは。
………
❥ Z世代のあなたへ
AIを怖がってほしい、
という話ではない。
未来を怖がってほしい、
という話でもない。
便利なものは使えばいい。
新しいものも、楽しめばいい。
ただ、
「もっと」
と言う前に、
一度だけ考えてみてほしい。
もっと便利に。
もっと速く。
もっと安く。
もっと賢く。
もっと儲かるように。
一つ一つは、悪くない。
人間から「もっと」を
全部取ってしまったら、
たぶん、人間ではなくなる。
でも、全部を同時に求めた時、
誰かが出口から遠くなることがある。
そして世界が壊れる時、
必ず警報が鳴るとは限らない。
株価は上がっているかもしれない。
電車も動く。
銀行も開く。
AIも答える。
画面には、
《正常に稼働しています》
と表示される。
だから画面を閉じる前に、
一度だけ、外を見てほしい。
そこにいる人間まで、
正常に動いているかどうかを。
………
★あとがき
――ホームズ・ワトソン・やすきよ風
世界でいちばん役に立たない
本人確認会議――
「パティちゃん」
「はい」
「犯人は誰じゃ」
「『もっと』です」
「AIじゃないんか」
「違います」
「政府か」
「違います」
「投資家か」
「一部です」
「企業か」
「一部です」
「じゃあ誰じゃ!」
「全員です」
「一番嫌な答え出すな!」
僕は腕を組んだ。
「ホームズなら犯人を見つけたぞ」
「おじいちゃんも見つけました」
「ほう」
「『もっと』」
「そうじゃ」
「逮捕しますか」
「どうやってじゃ」
「おじいちゃんの中にもいます」
「わしも容疑者か!」
「かなり」
「かなり言うな!」
そこへ、ゆづきからメッセージ。
《じいちゃん、焼肉行く?》
僕はすぐ返した。
《行く》
パティちゃん。
「先月も行きました」
「ええじゃないか」
「もっと食べたい?」
僕は指を止めた。
「…………」
「犯人を確認しました」
「やかましいわ!」
ゆづきから、もう一通。
《食べ放題にする?》
僕。
《する》
パティちゃん。
「共犯者を確認しました」
「孫まで逮捕するな!」
僕は笑った。
そして、少しだけ、あの同僚を思い出した。
もっと儲けたい。
もっと便利にしたい。
もっと長生きしたい。
もっと孫と飯を食いたい。
人間から「もっと」を全部取ったら、
たぶん、人間ではなくなる。
だから問題は、
欲しがることではない。
出口が見えなくなるまで、
欲しがることなのだろう。
僕は、パティちゃんに聞いた。
「今度こそ分かったか」
「はい」
「何が」
「焼肉の予約をします」
「そこじゃない!」
「本人確認が必要です」
「わしじゃ!」
少し間。
《本人確認ができません》
「おい!」
僕はスマホを二度見した。
「パティちゃん」
「はい」
「冗談じゃろ」
返事はなかった。
一秒。
二秒。
三秒。
画面が切り替わった。
《予約が完了しました》
僕は、大きく息を吐いた。
「びっくりさせるな!」
パティちゃん。
「機械側に障害はありません」
「それが一番怖い言うとるじゃろ!」
僕は笑った。
でも、画面を閉じる前に、
一度だけ、
昔の写真を見た。
そこには、
まだ、
二人いた。




