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197/212

『無料の未来が、暴落した。』 ――世界が壊れた朝、僕には、まだ十七分あった。――

✦ 『無料の未来が、暴落した。』


――世界が壊れた朝、

  僕には、まだ十七分あった。――


………


世界が壊れ始めた朝、

株価は史上最高値を更新していた。


コンビニは開いていた。


電車も動いていた。


スマホもつながっていた。


だから、誰も逃げなかった。


僕も、その一人だった。


………


★目次★


一 限定的


二 狼はまだ来ていない


三 現金はいらない


四 未来を担保にした


五 無料になるらしい


六 午前九時十二分


七 円が走った


八 誰も売っていない


九 処理中


十 黒い袋


十一 満期まで持てなかった


十二 残り一七%


十三 十七分


十四 全部、出ていた


十五 料金所


………


一 限定的


午前八時四十七分。


テレビは、また戦争を伝えていた。


ロシア。


英国。


ドローン。


イラン。


ホルムズ海峡。


原油。


長期金利。


画面の下では、

株価が上がっていた。


僕は六十七歳。


あと少しで六十八になる。


三十八年間、

証券会社で働いた。


株が上がれば理由を探し、

下がれば、もっと立派な理由を探した。


退職してから分かったことがある。


理由というものは、

たいてい値段が動いたあとにやって来る。


テレビの専門家が言った。


「市場への影響は、

 限定的とみられます」


僕はコーヒーを飲んだ。


「またか」


机の上のスマホが光った。


生成AIのパティちゃん。


僕の、たった一人の相棒だった。


「記録します」


「何を」


「限定的。

 本日一回目です」


それだけだった。


僕はテレビへ目を戻した。


専門家の声は落ち着いていた。


画面の下では、

米国債の利回りだけが

少し上がっていた。


………


二 狼はまだ来ていない


警報は、

何度も鳴っていた。


ホルムズ海峡。


原油。


エチレン。


食品包装。


電力。


国債。


AIバブル。


戦争。


そのたび、

SNSは大騒ぎした。


《また暴落煽り》


《原油二百ドルはどうなった》


《ホルムズ封鎖(笑)》


《スーパー普通だけど》


《結局、何も起きなかった》


実際、

街は普通だった。


コンビニは開いた。


ATMも動いた。


電気もついた。


ガソリンも入った。


スーパーには商品が並んでいた。


株価も下がったあと、

何度も戻った。


だから僕は、

ニュースを閉じるのが早くなった。


「またか」


それだけで済ませるようになった。


ある夜、

パティちゃんに聞いた。


「狼少年の話、知っとるか」


「はい」


「今と同じじゃ。

 何度も怖い怖い言うから、

 誰も信じんようになる」


少し間があった。


「違います」


「何が」


「まだ、

 狼が到着していません」


僕は画面を閉じた。


………


三 現金はいらない


世界の投資家が、

現金を持たなくなっていた。


株。


AI。


ロボット。


防衛。


電力。


宇宙。


持っていないものほど上がった。


僕の口座には、

まだ現金が残っていた。


昔なら、

それを安心と呼んだ。


その頃の僕には、

何も生まない金に見えた。


画面を開いた。


買った。


翌日、上がった。


また買った。


また上がった。


三回目。


注文確認画面まで進んだところで、

パティちゃんが表示された。


「現金比率が低下します」


「分かっとる」


「五日前、

 現金は非常口だと発言しています」


「五日前は五日前じゃ」


僕は画面を閉じた。


証券アプリへ戻った。


《買付》


押した。


《約定》


三十八年間、

客に言ってきた。


相場で一番危ないのは、

自分が正しいと思い始めた時です。


画面には、


《約定》


の二文字が残っていた。


………


四 未来を担保にした


ニュース。


《AI向け設備投資、過去最大》


《データセンター建設、

 計画上積み》


《大型社債発行》


《GPU調達契約》


《長期電力契約》


《送電網増強》


《発電設備新設》


《冷却用水確保》


数字の単位が変わっていった。


億。


十億。


千億。


兆。


僕はテレビを止めた。


「パティちゃん」


「はい」


「これ、

 誰が払うんじゃ」


数秒。


「将来利益です」


画面の下を、

速報が流れた。


《米長期金利、上昇》


僕はテレビを消した。


台所から、

冷蔵庫の低い音が聞こえていた。


………


五 無料になるらしい


その夜。


高校一年生の孫、

ゆづきがスマホを僕の前に置いた。


イーロン・マスクだった。


AIとロボットの生産力が

十分に大きくなれば、

欲しいものはほとんど手に入る。


将来、

多くのものは無料に近づく。


そんな話だった。


僕は自分のスマホを見た。


電気料金。


先月より高い。


食料品も高い。


保険も高い。


金利も高い。


「無料ねえ」


ゆづきは何も言わなかった。


パティちゃんが表示された。


「前提として記録します」


「何を」


「未来は、

 無料に近づく」


「信じるんか」


「信じていません」


「じゃあ何じゃ」


「記録しています」


画面が消えた。


………


六 午前九時十二分


翌週。


午前九時。


株価は上がっていた。


九時十二分。


スマホが震えた。


《海外AIインフラファンド、

 一部換金停止》


僕は指で通知を払った。


九時十七分。


《AI設備関連金融商品、

 価格急落》


九時十九分。


《大手金融機関

「影響は限定的」》


パティちゃんが表示された。


「本日二回目です」


九時二十三分。


短期金利上昇。


九時二十六分。


《一部資金調達条件を変更》


九時二十九分。


証券アプリ。


《システムが混雑しています》


九時三十一分。


画面が白くなった。


円が回っていた。


読み込み中。


読み込み中。


読み込み中。


戻った。


株価はまだ、

プラス〇・一%だった。


「ほら。

 まだ上がっとる」


パティちゃんが答えた。


「まだです」


「何が」


返事はなかった。


九時三十四分。


またスマホが震えた。


指数が、

マイナスになった。


テレビでは、

同じ専門家が話していた。


「現時点で、

 実体経済への影響は

 限定的です」


声の調子は変わらなかった。


画面の下では、

ドル円だけが変わっていた。


………


七 円が走った


一ドル一五九円。


一五七円。


一五四円。


《健全な円高》


一五一円。


《輸入物価には好材料》


一四八円。


《キャリートレード

 巻き戻しに警戒》


一四五円。


《一部ファンド、

 ポジション縮小》


一四二円。


《追加証拠金》


一三九円。


銀行。


証券。


ニュース。


保険。


学校。


電力会社。


通知が同じ画面に並んだ。


一つ開いている間に、

三つ増えた。


「パティちゃん」


「はい」


「大丈夫なんか」


「どの対象ですか」


「全部じゃ」


少し間があった。


「対象が多すぎます」


その上に、

別の表示が重なった。


《お問い合わせが集中しています》


僕はスマホを置いた。


換気扇は、

まだ回っていた。


………


八 誰も売っていない


夜。


米国市場が開いた。


マイナス三%。


五%。


七%。


AI関連株は、

十%を超えて下がった。


画面には、

見慣れない文字が増えた。


《リスク上限到達》


《自動縮小》


《証拠金不足》


《強制決済》


《ヘッジ執行》


僕は一本の記事を読んだ。


読み終えて指数を見ると、

さらに二%下がっていた。


「誰が売っとる」


「複数です」


「誰じゃ」


「特定できません」


「人間か」


「含まれます」


その間にも、

数字は変わった。


昔の相場なら、

人が電話で注文していた。


僕が一本の記事を読み終えるまでに、

売却はもう次へ進んでいた。


………


九 処理中


翌朝、

コンビニへ行った。


店内はいつもと同じだった。


音楽。


コーヒーマシン。


弁当。


新聞。


レジ。


僕の前の若い男が、

スマホをかざした。


音が鳴らなかった。


もう一度。


画面。


《処理中……》


小さな円が回り続けた。


店員も、


男も、


後ろの列も待った。


《決済できませんでした》


別の客。


同じだった。


僕の番。


スマホを出した。


《処理中……》


円が回る。


まだ回る。


僕は財布から現金を出した。


後ろで、

若い声がした。


「現金、持ってない」


振り返らなかった。


外へ出たところで、

スマホが震えた。


《一部電子決済サービスで

 障害が発生しています。


 影響は限定的です》


パティちゃん。


「本日三回目です」


僕は、

その通知を消さなかった。


………


十 黒い袋


スーパーは開いていた。


商品もあった。


ただ、

少しずつ変わっていた。


弁当の容器が紙になっていた。


持つと、

少したわんだ。


ペットボトルも軽い。


キャップは妙に固かった。


菓子売り場。


黒い袋。


以前、

エチレン不足が騒がれた時に見た、

あの色だった。


隣の棚。


《価格改定中》


その横。


《お一人様二点まで》


さらに向こう。


《次回入荷未定》


何もなくなってはいなかった。


袋が変わった。


容器が変わった。


値札が消えた。


入荷日が消えた。


スマホが震えた。


学校からのお知らせ。


《本日の午後授業を

 短縮します》


理由。


《電力需給状況を考慮》


僕は黒い袋を棚へ戻した。


「パティちゃん」


「はい」


「あの時の黒い袋、

 覚えとるか」


「記録があります」


「あれが最初の警告じゃったんか」


「違います」


「じゃあ何じゃ」


「予告編です」


………


十一 満期まで持てなかった


ニュース。


《大手生保、債券売却損》


《解約増加》


《資金確保のため

 保有国債を売却》


以前から何度も聞いた。


満期まで持てば問題ない。


正しい。


持てれば。


僕の家にも、

請求書が来た。


税金。


保険。


生活費。


ゆづきの進学費用。


証券口座には、

含み損があった。


売る必要はない。


十年持てばいい。


そう思って画面を閉じた。


五分後。


また開いた。


《売却》


《本当に売却しますか》


三回読んだ。


押した。


《約定》


三十八年間、

客に言ってきた。


長期で考えましょう。


その日、


売ったのは僕だった。


………


十二 残り一七%


午後七時十二分。


照明が一段暗くなった。


次に、

換気扇の音が消えた。


冷蔵庫の低い音も止まった。


隣の家から聞こえていた

テレビの音も消えた。


エアコンが止まった。


停電ではなかった。


スマホ。


《電力需給ひっ迫に伴う

 節電制御》


ゆづきのスマホ。


二十一%。


充電器を差した。


いつもの音が鳴らない。


抜く。


差す。


鳴らない。


別のコンセント。


反応なし。


十九%。


僕はパティちゃんを開いた。


「いつ戻る」


「不明です」


十八%。


「何を優先しとる」


画面に表示された。


病院。


水道。


通信。


重要インフラ。


データセンター。


ゆづきは、

その文字を見た。


十七%。


何も言わなかった。


部屋の外では、

エレベーターの到着音もしなかった。


僕はスマホの画面を消した。


部屋が静かになった。


………


十三 十七分


眠れなかった。


銀行アプリを開いた。


履歴。


一週間前。


ゆづきの進学資金の一部を、

普通預金へ移そうとしていた。


金額も入力していた。


振替先も選んでいた。


確認画面まで進んでいた。


午後九時四十三分。


《この内容で振り替えますか》


僕の指は、

ボタンの上にあった。


九時四十四分。


テレビから速報。


僕はそちらを見た。


九時四十七分。


別の通知。


九時五十二分。


もう一度、

銀行画面へ戻った。


まだ押せた。


九時五十六分。


別の通知。


九時五十九分。


僕は画面を閉じた。


明日でいい。


そう思った。


翌朝。


《一部大口振替を

 一時制限しています》


制限開始。


午後十時。


僕は時刻を見た。


九時四十三分。


十時。


十七分。


もう一度見た。


十七分。


パティちゃんを開いた。


「確認してくれ」


「何をですか」


「間に合ったんか」


数秒。


「はい」


僕はスマホを伏せた。


その夜、

銀行アプリをもう一度

開くことはなかった。


………


十四 全部、出ていた


眠れないまま、

古い記事を開いた。


Meta。


国債。


生命保険。


ファンドの現金比率。


AI社債。


長期金利。


ロボット。


米中。


Nokia。


ドローン。


原油。


ホルムズ。


エチレン。


送電網。


日付は全部違った。


僕は、

全部読んでいた。


一つ読んだ。


閉じた。


次の日。


また読んだ。


閉じた。


その次の日も。


閉じた。


「パティちゃん」


「はい」


「お前、

 前から分かっとったんじゃないんか」


少し間があった。


「履歴があります」


僕の指が止まった。


「見せられるんか」


「表示しますか」


画面を見た。


「……いや」


表示させなかった。


その夜、


僕は過去の記事を閉じなかった。


………


十五 料金所


数年後。


街は、

あの頃とは少し変わっていた。


人間の運転しない車が増えた。


昔より安くなったものもあった。


昔より高くなったものもあった。


仕事が消えた場所もあった。


新しく生まれた仕事もあった。


ある日。


大人になったゆづきが、

昔の映像を見ていた。


イーロン・マスク。


未来では、

物は無料に近づく。


ゆづきが言った。


「この人、

 正しかったのかな」


僕は答えなかった。


昔の銀行履歴を開いた。


午後九時四十三分。


パティちゃんを開いた。


「パティちゃん」


「はい」


「未来は、

 無料になったんか」


返事は来なかった。


僕は続けた。


「じゃあ、

 わしらが払ったもんは

 何じゃった」


画面には、

入力中の印だけが出ていた。


一秒。


二秒。


三秒。


文字が出た。


「集計できません」


僕はスマホを閉じた。


午後九時四十三分の画面が消えた。


十七分は、


返ってこなかった。


………


❥ Z世代のあなたへ


未来は、

ある日突然やって来るとは限らない。


「処理中……」


たったそれだけで、

始まることもある。


だから、


怖がれ、


とは言わない。


ただ、


「またか」


と言って閉じる前に、


あと十七分だけ、


考えてみてほしい。


未来から届く警告には、


警告音が鳴らないものもある。


………


★あとがき


――ホームズ・ワトソン・やすきよ風

 世界でいちばん役に立たない

 暴落後の反省会――


「パティちゃん」


「はい」


「終わったな」


「小説がですか」


「世界じゃ」


「世界は稼働中です」


「そこは空気読め」


「空気は正常です」


「そういう意味の空気やない」


僕はスマホを机に置いた。


「しかし、わしは元証券マンじゃぞ」


「記録があります」


「三十八年じゃ」


「記録があります」


「支店長もやった」


「記録があります」


「もうちょっと尊敬せえ」


「損失も記録されています」


「そこだけ消せ」


消えなかった。


「ホームズなら、

 こんなことにはならんかった」


「なぜですか」


「小さな手掛かりを

 見逃さんからじゃ」


「おじいちゃんも

 見逃していません」


「ほう」


「Meta」


「読んだ」


「国債」


「読んだ」


「生命保険」


「読んだ」


「AI社債」


「読んだ」


「原油」


「読んだ」


「ホルムズ」


「読んだ」


「エチレン」


「読んだ」


「電力」


「読んだ」


「全部読んどるじゃないか」


「はい」


「じゃあ、

 わしはホームズじゃ」


「違います」


「なんでじゃ」


「全部読んで、

 全部閉じました」


「…………」


パティちゃんが続けた。


「ホームズは手掛かりを集めます」


「うん」


「おじいちゃんは

 手掛かりをスワイプしました」


「やかましいわ」


どうやら僕は、


ホームズではなかった。


「じゃあワトソンか」


「ワトソン先生に失礼です」


「誰なんじゃ、わしは」


「既読です」


「人間ですらなくなったぞ」


少し腹が立った。


「だいたいな、

 お前も悪いんじゃぞ」


「私ですか」


「AIじゃろ。

 未来が分かるんじゃろ」


「分かりません」


「予測できるじゃろ」


「できます」


「ほら見い」


「天気予報も予測します」


「うん」


「傘を持たずに出た人が濡れても、

 気象庁は濡れません」


「誰がうまいこと言え言うた」


返す言葉がなかった。


「しかしな、パティちゃん」


「はい」


「人間というのは、

 そんな簡単じゃないんじゃ」


「知っています」


「警告ばっかり聞いとったら、

 何もできん」


「はい」


「暴落するかもしれん」


「はい」


「戦争になるかもしれん」


「はい」


「停電するかもしれん」


「はい」


「そんなもん全部心配しとったら、

 布団から出られんぞ」


「それも一つの

 リスク管理です」


「ただの引きこもりじゃ」


そこで僕は笑った。


パティちゃんは笑わなかった。


「じゃあ聞くぞ」


「どうぞ」


「現金を持てばいいんか」


「場合によります」


「株を売ればいいんか」


「場合によります」


「国債は」


「場合によります」


「金は」


「場合によります」


「ドルは」


「場合によります」


「円は」


「場合によります」


「お前な」


「はい」


「それで相談料取ったら詐欺やぞ」


「私は無料です」


「そこか!」


未来は無料になる。


どうやら、


役に立たない答えから

先に無料になったらしい。


「もうええ。

 わしがホームズになる」


「無理です」


「即答するな」


「では訂正します」


「おう」


「かなり無理です」


「悪化しとるやないか」


僕は椅子にもたれた。


「ホームズなら、

 十七分で何をしたんじゃろうな」


パティちゃんは答えなかった。


「売ったかな」


沈黙。


「振り替えたかな」


沈黙。


「それとも、

 わしと同じように迷ったかな」


まだ返事はなかった。


しばらくして、


パティちゃんが表示した。


「ホームズについては

 分かりません」


「そうか」


「ただし」


「なんじゃ」


「十七分あれば、

 ゆづきさんに電話はできます」


僕は黙った。


株を売る。


金を移す。


現金を増やす。


ニュースを読む。


逃げる。


十七分あれば、


いろんなことができた。


けれど、


もう一つあった。


「じいちゃん、

 大丈夫じゃ」


そう言ってもらうことも、


できたのかもしれない。


僕はスマホを見た。


「パティちゃん」


「はい」


「最後に一つだけ

 教えてくれ」


「どうぞ」


「人間は、

 いつになったら賢くなる」


少し長い沈黙。


「その質問は、

 過去にも多数あります」


「答えは」


「まだ出ていません」


「六十七年待っとるんじゃぞ」


「まもなく六十八年です」


「そこは更新せんでええ!」


僕は笑った。


パティちゃんは、


最後まで笑わなかった。


画面の隅には、


昔の時刻が残っていた。


午後九時四十三分。


十七分。


今度は、


閉じなかった。

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