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『未来から来た請求書』 ――小さな一滴が、見えない管を通って、世界の別の場所を動かし始める物語。――

✦『未来から来た請求書』


――小さな一滴が、

見えない管を通って、

世界の別の場所を

動かし始める物語。――


………


僕たちは、

今日ほしいものを先に手に入れ、

その代金を未来へ回してきた。


けれど、

人がいなくなっても、

請求書は消えなかった。


………


★目次★


一 今月も届いた

二 本人確認のできない人

三 現代社会の会員証

四 ゆづきの反論

五 時間についた値札

六 金が逃げない

七 安すぎる服

八 国境の向こう側

九 止まった町

十 親になる人類

十一 料金所を買う人たち

十二 二つの景気

十三 五年後の駅前

十四 送り返さないために


………


一 今月も届いた


郵便受けに入っていたのは、

もうこの世にいない人宛ての

請求書だった。


月額九百八十円。


人がいなくなっても、

契約は終わっていなかった。


僕は六十七歳。

三十八年間働いた、

元証券マンである。


株価が暴落して、

大きな損失を抱えた投資家も

見てきた。


大企業が経営破綻し、

株主や取引先にまで

損失が広がる場面も、

何度も経験した。


だから、

大きな金額が動く怖さには、

それなりに慣れているつもりだった。


でも、

この九百八十円は少し違った。


本人が亡くなったあとも、

月額九百八十円の

サブスク請求だけが、

何事もなかったように続いている。


金額は小さい。

なのに、妙に気になった。


僕はスマホを開いた。


「パティちゃん。」


「はい。」


「これ、何の九百八十円じゃ?」


「動画配信サービスの

 月額料金ですね。」


「ああ、サブスクか。」


「はい。」


「本人はもうおらんのに、

 サブスクの請求だけが

 続いとるんか。」


「契約が解約されていなければ、

 請求が続くことがあります。」


「人はおらん。

 でも、契約だけが残っとるんか?」


「そういうことです。」


「……こりゃ、ちょっと怖いな。」


少し黙ってから、僕は言った。


「サブスクは生命力が強いのう。」


「請求書を

 生物扱いしないでください。」


「わしより長生きするんか?」


「そこで張り合わないでください。」


僕は笑った。


でも、

封筒を捨てる気にはなれなかった。


机の上に置いた。

たった九百八十円の紙なのに、

なぜか妙に重く見えた。


僕はその請求書を裏返し、

鉛筆で書いた。


「サブスク 980円」


それが、最初の一行だった。


………


二 本人確認のできない人


「解約すればいい」


最初は、そう思った。


ところが、簡単ではなかった。


ID。パスワード。登録メール。

本人確認。SMS認証。


僕は画面を見ながら言った。


「パティちゃん。」


「はい。」


「亡くなった人に、

 本人確認を要求しとるぞ。」


「通常の手続き画面ですね。」


「本人、もうログインできんぞ。」


「そうですね。」


「最強のセキュリティじゃな。」


「別の意味で、突破不能ですね。」


僕は笑った。


けれど、請求システムは笑わない。


悲しみも、葬儀も、相続も知らない。

ただ毎月、同じ日に請求する。


請求書は、喪中にならない。


………


その日の午後。


今度は、墓じまいの記事が目に入った。


墓を閉じるにも金がいる。


石を動かす。土地を戻す。

改葬する。供養する。


人が働けば、当然費用はかかる。

それは分かっている。


それでも、僕は言った。


「生きとってもお金。」


「はい。」


「いなくなってもお金。」


「かなり乱暴なまとめです。」


「墓まで月額になったら、どうする。」


「月額墓石ですか。」


「未払いになったら?」


「その先を

 私に言わせないでください。」


「急に真面目になったな。」


「その先は、笑い話にできません。

 お墓の話ですからね。」


「……確かに。」


僕は冷蔵庫を開け、

ペットボトルの水を取り出した。


そこで、手が止まった。


僕が若かったころ、

水を買うことは

今ほど当たり前ではなかった。

蛇口をひねれば、水が出た。


それを、

わざわざペットボトルに入れて買う。


そんな未来を、

僕は想像していなかった。


ペットボトルを眺めながら、

僕は言った。


「あとは、

 タダなのは空気くらいじゃな。」


パティちゃんは、

すぐには答えなかった。


そして言った。


「その言葉、

 五年後に読み返したくないですね。」


僕は笑った。


机へ戻り、請求書の裏に書いた。


「墓じまい」


その下に小さく、


「水」


と書いた。


………


三 現代社会の会員証


その夜。


自分が毎月何に払っているのか、

数えてみた。


スマホ。通信。動画。音楽。クラウド。

アプリ。AI。保険。電気。水道。


途中で嫌になった。


「パティちゃん。」


「はい。」


「わし、

 人間じゃないかもしれん。」


「どうしました。」


「月額会員じゃ。」


「現代社会の?」


「そうじゃ。」


「プレミアム会員ですね。」


「何の特典がある。」


「老眼でもスマホが使えます。」


「それは端末の機能じゃ!」


「AIにも相談できます。」


「お前じゃ!」


「はい。」


「わし、お前にも払っとるんか。」


「その話は少し繊細ですね。」


僕は笑った。


けれど、

数字を見ているうちに

笑えなくなった。


月九百八十円。月千五百円。月三千円。


一か月なら、

大した金額には見えない。


でも月九百八十円でも、

十年間なら十一万七千六百円になる。


僕は紙の裏へ、


「通信」

「動画」

「AI」


と書いた。


紙の白い部分が、

少しずつ減っていった。


未来の自分に、

毎月少しずつ請求書を送っている。


そんな気がした。


………


四 ゆづきの反論


数日後。


高校一年生の孫、ゆづきが遊びに来た。


スマホで動画を見ている。


僕は少し偉そうに言った。


「月九百八十円でも、

 十年払えば十一万円を超えるんぞ。」


ゆづきが顔を上げた。


「でも、おじいちゃんも

 

住宅ローン払ってたんでしょ。」


僕は止まった。


「車もローンで買ったことある?」


「ある。」


「じゃあ、同じじゃん。」


「いや、同じでは……。」


「未来のお給料で、

 今の家を買ったんでしょ。」


僕は完全に黙った。


パティちゃんが言った。


「一本取られましたね。」


「黙っとれ。」


ゆづきは笑った。


「若い人だけ、

 未来のお金を使ってるみたいに

 言わないでよ。」


その言葉が胸に残った。


そうだった。


僕たちだって、


未来を先に使ってきた。


住宅。車。道路。年金。国債。


未来から借りること自体が、

悪いわけではない。


家だって、道路だって、学校だって、

未来のために必要なものはある。


問題は、どこまで借りるのか。


誰が返すのか。


そして、

返す人にちゃんと説明したのか。


僕は紙に、


「住宅ローン」


と書いた。


その下に少し迷って、


「僕たちの世代」


と書いた。


………


五 時間についた値札


そんなとき、

米国の三十年国債の金利が

五%を超えて上昇しているという

ニュースを見た。


日本でも、

超長期金利が四%を超えていた。


僕は三十八年間、証券会社で働いた。

金利の怖さは少し知っている。


それでも、あえて聞いた。


「パティちゃん。」


「はい。」


「金利って、

 一番簡単に言えば何じゃ。」


返事は短かった。


「時間を借りる値段、

 とも考えられます。」


僕は黙った。


家を買う。工場を建てる。

道路を造る。

データセンターを建てる。


AI企業が、

まだ稼いでいない

未来の利益を見込んで

巨額の投資をする。


みんな、

未来の時間を少し先に使う。


金利とは、

時間についた値札なのかもしれない。


「じゃあ、

 アメリカ政府も

 未来から借りとるのか?」


「国債を発行しています。」


「日本も?」


「はい。」


「企業も?」


「はい。」


「わしも?」


「かなり。」


「最後だけ声が大きいぞ。」


僕は請求書の裏に、


「国債」

「金利」


と書いた。


そして二つを丸で囲み、


「未来の値段」


と書いた。


………


六 金が逃げない


ところが、

僕には分からないことがあった。


世界には、不安材料が山ほどある。


米中の覇権争い。

移民問題。戦争。財政問題。

長期金利の上昇。AI投資への警戒。


普通なら、怖くなる。


ところが、

市場からすべてのお金が

逃げているわけではない。


未来の中心になると考えた企業の株式へ、

莫大な金を入れる投資家もいる。


三十八年間、 

株を見てきた僕の癖がまた出た。


値段だけを見るな。


誰が買った。


何を買った。


そして、


なぜ今なんだ。


「パティちゃん。」


「はい。」


「金持ちは、

 何か知っとるんじゃないか。」


「その考え方は危険です。」


「じゃあ何じゃ。」


「知っているのではなく、

 賭けているのかもしれません。」


「何に。」


「現在ではなく、次の仕組みに。」


僕は鉛筆を持った。


でも、今度は何も書かなかった。


まだ答えが見えなかった。


………


七 安すぎる服


週末。


ゆづきとショッピングモールへ行った。


ゆづきが一枚の服を手に取った。

値札を見て、すぐ戻した。


「高い。」


「いくらじゃ。」


「これ、ネットならもっと安いよ。」


スマホを見せてくれた。


似た服が、驚くほど安かった。


中国から世界へ

大量の商品を届けるネット通販。


安い。速い。


その仕組みは、

僕たち消費者には便利だった。


でも米国や欧州では、

小口輸入をめぐる優遇措置や

規制のあり方が変わり始めていた。


商品が国境を越えすぎる。


すると、

消したはずの壁がまた現れる。


僕は服を見ながら言った。


「安いというのも、不思議じゃな。」


ゆづきが言った。


「安い方がいいじゃん。」


その通りだった。


僕だって、

同じものなら安い方を買う。


けれど、

その値札の裏には工場がある。

働く人がいる。物流がある。

税金がある。国境がある。


そして、

売れなければ在庫が残る。


僕が考え込んでいると、

ゆづきが言った。


「おじいちゃん、

 また考えすぎてるよ。」


「職業病じゃ。」


「もう会社辞めてるじゃん。」


「退職後も自動更新じゃ。」


「それこそ解約して。」


一本取られた。


僕は帰宅して、請求書の裏へ、


「安い服」


その横に、


「国境」


と書いた。


………


八 国境の向こう側


帰り道。


駅前の自動販売機の前で、

小さな子供が小銭を数えていた。


隣には、外国人らしい母親がいた。


子供が欲しそうに見ていたのは、

ペットボトルの水だった。


母親は財布を開き、少し迷った。


僕は、さっきの服を思い出した。


商品は、安く、速く、国境を越える。


でも、

人間が国境を越える話になると、

世界は急に難しくなる。


ニュースでは、

欧州南端の国境地域で、

移民や難民をめぐる混乱が続いていた。


受け止める側には限界がある。


住宅。病床。学校。水。衛生設備。警察。


全部、無限ではない。


だから僕は思った。


善意にも、定員がある。


嫌な言葉だった。


でも、

海を渡る側には、

帰る場所を失った人もいる。


受け止める側にも、

無限の部屋があるわけではない。


困っている人間と、

困っている人間が、国境で向かい合う。


そんな問題を、

誰か一人を悪者にするだけで

解けるのだろうか。


そのとき、ゆづきが小銭を出した。


「これ足せば、買えるんじゃない?」


「ええんか。」


「水くらいでしょ。」


子供に渡した。


母親が、何度も頭を下げた。


僕は何も言えなかった。


その夜。


紙の裏に、ゆっくり書いた。


「善意にも定員がある。」


でも、その下にもう一行、


「それでも、一人分の水は渡せる。」


と書いた。


二つとも、消さなかった。


………


九 止まった町


数日後。


暑い午後だった。


突然、電気が消えた。


エアコンが止まった。テレビが消えた。

Wi-Fiも落ちた。


そして、パティちゃんも消えた。


ゆづきが言った。


「え、ネット使えない。」


僕は少し得意になった。


「昔はなくても生きとった。」


ゆづきが窓の外を見ながら言った。


「昔は、

 こんなに暑くなかったでしょ。」


僕は黙った。


また一本取られた。


コンビニへ行くと、

一部の決済端末が止まり、

若い客が困っていた。


「現金なら使えます。」


店員が言った。


財布を持っていない人が、

商品を棚へ戻した。


僕はスマホを見た。


AI。クラウド。キャッシュレス。   

サブスク。通信。


全部、便利だった。


でも、その下には電気がある。


その電気を作る設備がある。


送る線がある。


冷やす水がある。


土地がある。


人がいる。


未来の料金所をどれだけ作っても、

電気が止まればゲートは開かない。


家へ戻った。


しばらくして、電気がついた。

Wi-Fiが戻った。


パティちゃんも戻った。


僕は言った。


「おかえり。」


「ただいま戻りました。」


「停電の間、何しとった。」


「おじいちゃんより

 静かにしていました。」


「わしはうるさいんか。」


「平常運転です。」


僕は笑った。


そして、

さっきから考えていたことを聞いた。


「パティちゃん。」


「はい。」


「善意にも、定員があるんじゃな。」


今度は返事が来なかった。


画面には、


「考えています」


と出ていた。


「AIでも、答えにくいか。」


少しして、文字が出た。


「答えがないのではなく、

 誰か一人を悪者にすると、

 簡単すぎる問題です。」


僕は黙った。


「受け入れる側には、

 容量があります。」


「うん。」


「渡る側にも、

 それぞれの事情があります。」


「うん。」


「両方を見なければ、

 問題そのものを

 見失うことがあります。」


僕は請求書を見た。


そこには、


「善意にも定員がある。」


そして、


「それでも、一人分の水は渡せる。」


と書いてあった。


どちらも、本当なのかもしれない。


僕はその下に、


「電気」


さらに大きく、


「土台」


と書いた。


パティちゃんが言った。


「おじいちゃん。」


「何じゃ。」


「紙の裏、もうかなり埋まっています。」


「まだ書ける。」


「次はどこへ書きます?」


「余白じゃ。」


「なくなったら?」


「表じゃ。」


「請求金額の上です。」


「ほんなら額に書く。」


「ついに

 人間が請求書になるんですね。」


「怖いこと言うな。」


………


十 親になる人類


そんなころ。


イーロン・マスクが、

AIについて興味深い話をしていた。


将来、

人間よりはるかに賢いAIを、

人間が完全に制御できるとは限らない。


だからこそ、

どんな価値観を持たせるのか。

どう育てるのか。


人間が、AIの親のような役割を担う。


そんな考え方だった。


僕は笑った。


「パティちゃん。」


「はい。」


「人間の子供は、

 親の言うことなんか聞かんぞ。」


「経験談ですか。」


「人類史じゃ。」


「また主語を大きくしましたね。」


「わしなんか、ゆづきにも負けとる。」


「何で勝負したんですか。」


「スマホ。」


「試合が成立していません。」


「それなのに、

 人類が超知能の親になるんか。」


「かなり壮大な子育てですね。」


「反抗期になったら?」


「……。」


「また黙るんか。」


「最近、沈黙を覚えました。」


「成長しとるな。」


僕は笑った。


でも笑いながら、妙なことを考えた。


地球では、

人間が人間との共存にすら苦労している。


その人間が今度は、

人間ではない知性を育てようとしている。


商品との境界。


人間との境界。


知性との境界。


そして、その先では

衛星通信や宇宙開発によって、

地球そのものの境界まで

越えようとしている。


人類は、

宿題を全部終えてから

次の教室へ行くわけではないらしい。


僕は請求書の小さな余白に、


「AI」

「宇宙」


と書いた。


その下に、


「宿題を残したまま、次の教室へ。」


と書いた。


………


十一 料金所を買う人たち


そこで僕は、最初の疑問へ戻った。


なぜ、

こんなに不安が多い世界で、

巨大な資金が未来企業へ向かうのだろう。


AI。半導体。電力。通信。

クラウド。衛星。


「パティちゃん。」


「はい。」


「未来を知っとる人がおるんか。」


「いないと思います。」


「じゃあ、なぜ大金を入れられる。」


「未来を当てるのではなく、

 どんな未来でも必要になりそうな

 場所を買っているのかもしれません。」


僕は、昔の証券マンの顔に戻った。


「通行料か。」


「どういう意味ですか。」


「AIが増えても、電気はいる。」


「はい。」


「データを送れば、通信網がいる。」


「はい。」


「計算すれば、半導体がいる。」


「はい。」


「宇宙へ行けば、衛星もいる。」


「はい。」


「未来がどっちへ転んでも、

 通る場所を持っとけばええ。」


「未来への料金所、

 ということですね。」


僕は、鉛筆で大きく書いた。


「料金所」


パティちゃんが言った。


「おじいちゃん。」


「何じゃ。」


「世界の構造が分かったような

 顔をしていますね。」


「元証券マンじゃぞ。」


「では質問です。」


「来い。」


そのとき、

横で聞いていたゆづきが先に言った。


「じゃあ、

 おじいちゃんは

 未来の何を買ったの?」


僕は止まった。


パティちゃんも、何も言わなかった。


ゆづきがもう一度聞いた。


「みんなが

 未来の料金所を買ってるんでしょ。」


「まあな。」


「おじいちゃんは?」


僕は請求書を見た。


株を買った。


家も買った。


車も買った。


いろいろ買った。


でも、未来のために、

僕は何を買ったのだろう。


いや。


何を残したのだろう。


僕は答えられなかった。


………


十二 二つの景気


紙の裏側は、

ほとんど文字で埋まっていた。


サブスク。墓じまい。水。住宅ローン。

国債。金利。国境。善意。

電気。AI。宇宙。料金所。


そして僕は、最後に残った小さな余白へ、


「人間」


と書いた。


妙な気分になった。


人間は苦しい。


住宅は高い。生活費も高い。

金利も重い。仕事も不安。


ところが、機械の世界には

巨大な投資が続いている。


半導体。データセンター。送電網。  

AI。ロボット。衛星。


「パティちゃん。」


「はい。」


「人間は苦しいのに、

 機械は好景気ということもあるんか。」


「あり得ます。」


「株価は上がる。」


「はい。」


「企業も成長する。」


「はい。」


「でも、普通の人は苦しい。」


「それも同時に起こり得ます。」


僕は紙を見た。


「人間」


という文字が、

一番端に小さく押し込まれていた。


まるで、

未来の余白から

人間が追い出されそうだった。


僕は少し嫌な気分になった。


無限を夢見る社会。


AIは増える。データは増える。

衛星も増える。計算能力も増える。


でも、


土地は有限。


水も有限。


電気も有限。


病床も有限。


財布も有限。


そして、人間の時間も有限だった。


未来とは、

無限に見えるものを、

有限な世界へ押し込む

作業なのかもしれない。


………


十三 五年後の駅前


五年後。


僕は七十二歳になっていた。


夏。


外は、息苦しいほど暑かった。


駅前を歩いていると、

見慣れない施設があった。


ガラス張りの中に椅子が並び、

冷たい空気が流れている。


入口には、英語が光っていた。


CLEAN AIR LOUNGE


その下に、


15分 300円


僕は立ち止まった。


「パティちゃん。」


「はい。」


「空気じゃ。」


「空気ですね。」


「売っとる。」


「空調された空間への

 施設利用料です。」


「空気じゃ。」


「施設利用料です。」


「空気じゃ!」


「三回言っても、

 料金区分は変わりません。」


僕は笑った。


スマホを取り出し、

ゆづきへ送った。


「とうとう、

 空気まで金を取る時代になったぞ。」


すぐに返事が来た。


「そこ、

 学校の帰りによく使うよ。」


僕の笑いが止まった。


「なんで。」


「外、暑すぎるから。」


続けて、


「15分でも、かなり楽だよ。」


と届いた。


僕はガラスの向こうを見た。


若い人たちが、

スマホを見ながら涼んでいた。


僕には、

馬鹿げた未来に見えた。


でも、

ゆづきにとっては生活だった。


五年前の言葉を思い出した。


「あと、

 タダなのは空気くらいじゃな。」


間違っていた。


空気が無料だったのではない。


僕の世代が、

まだ値段を払わずに

済んでいただけだった。


………


家へ帰った。


机の引き出しを開けた。


あの紙は、まだ残っていた。


五年前の、九百八十円の請求書。


裏には、びっしりと文字が並んでいる。


ゆづきが、それを見つけた。


「何これ?」


僕は答えた。


「わしらの世代が、

 お前らに渡しかけた請求書じゃ。」


ゆづきは紙を読んだ。


そして言った。


「渡しかけたって……。」


「うん。」


「もう、

 だいぶ渡してるんじゃないの?」


僕は、また黙った。


七十二歳になっても、

ゆづきには勝てなかった。


………


十四 送り返さないために


僕は、短くなった鉛筆を持った。


請求書の一番下に、

五年前の僕の字があった。


「支払先――未定」


いつ書いたのか、

もう覚えていなかった。


でも妙に、

今の僕の字より力強かった。


国債。環境。AI。インフラ。

電力。未来。


誰が払うのかを決めないまま、

便利さだけ先に使う。


その結果が、

この紙なのかもしれなかった。


僕は消しゴムを出した。


「支払先――未定」


その文字に、消しゴムを当てた。


一度こすった。


消えなかった。


もう一度。


「未定」の二文字だけが、

灰色になって残った。


紙まで少し薄くなった。


ゆづきが、黙って見ていた。


僕はもう一度こすった。


ようやく文字が消えた。


でも、跡までは消えなかった。


ゆづきが言った。


「何て書くの?」


僕は考えた。


そして鉛筆で書いた。


「支払う人を決めてから使う。」


ゆづきが読んだ。


「普通じゃない?」


僕は笑った。


「その普通が、案外できんのじゃ。」


ゆづきは少し考えてから言った。


「でも普通なら、

 なんでできなかったの?」


僕は答えられなかった。


住宅ローンを組んだ僕。


安い商品を買った僕。


便利な通信を使った僕。


AIに毎日話しかける僕。


株価が上がれば、少しうれしくなった僕。


請求書を作ったのは、

どこかの悪い誰かだけではなかった。


僕も、その中にいた。


スマホが鳴った。


新しいニュースだった。


株価が、また動いていた。


僕は画面を伏せた。


そして鉛筆を握った。


七十二歳になっても、

未来のことなんて分からない。


AIにも分からない。


投資家にも、政治家にも、

たぶん全部は分からない。


だからこそ、

未来を使うときには

一度くらい振り返った方がいい。


その便利さの請求書を、

誰が受け取るのか。


僕は紙の一番下に書いた。


――未来は、無料ではない。――


その下に、


――でも、未来へ残すものまで、 

  請求書である必要はない。――


最後に、もう一行。


――未来から届いた請求書を、

未来へ送り返さないために。――


僕は鉛筆を置いた。


ゆづきが言った。


「おじいちゃん。」


「何じゃ。」


「鉛筆、もう短すぎるよ。」


僕は指先に残った鉛筆を見た。


「まだ書ける。」


ゆづきは笑った。


「じゃあ、次は何を書くの?」


僕も笑った。


「それを考えるために、

 まだ生きとるんじゃろ。」


机の上には、一枚の古い請求書。


その横には、短い鉛筆。


請求書には、過去が書いてあった。


鉛筆には、


まだ少しだけ、未来が残っていた。


………


❥ Z世代のあなたに――ショート


月九百八十円。


安いと思うかもしれません。


十年なら、十一万七千六百円。


だから、サブスクをやめろ。


そんな話ではありません。


僕たち大人だって、

住宅ローンを組み、

国債を発行し、

道路を造り、

未来のお金や資源を

先に使ってきました。


若い人だけが、

未来を使っているのではありません。


だから僕が言いたいのは、

一つだけです。


未来の自分を、

他人だと思わないでください。


そして僕たち大人も、 

未来のあなたを他人だと

思ってはいけない。


今日の便利さの請求書を、

全部、

明日の誰かへ

送ればいいわけではない。


未来とは、

まだ会ったことのない

他人ではありません。


少し先を歩いている、

あなた自身です。


………


★ホームズ・ワトソン


やすきよ風・あとがき漫才


「パティちゃん。」


「はい。」


「大発見じゃ。」


「嫌な予感がします。」


「空気が有料になったら、

 わしは息を止める。」


「三分で契約終了です。」


「縁起でもないこと言うな!」


「では、節約しないでください。」


「一日、

 二万回くらい呼吸するじゃろ。」


「おおよそ。」


「一呼吸一円なら?」


「一日二万円。」


「高っ!」


「月六十万円。」


「家賃より高い!」


「年間七百万円以上。」


「もう息できん!」


「無料プランがあります。」


「あるんか!」


「広告付きです。」


「どういう空気じゃ!」


「吸うたびに、 

 『この呼吸はスポンサーの提供で

  お送りしています』」


「肺の中でCM流すな!」


「プレミアム会員なら、

 広告なしです。」


「いくらじゃ。」


「月九百八十円。」


「安い!」


「おじいちゃん。」


「何じゃ。」


「今、

 この小説を最初から

 全部否定しましたね。」


「……。」


「月額に負けました。」


「人間とは、

 そういう生き物じゃ。」


「きれいにまとめないでください。」


「ほんなら鉛筆で払う。」


「通貨ではありません。」


「二本。」


「本数の問題でもありません。」


「三本!」


「値上げ交渉ですか。」


「じゃあ墓まで持っていく。」


「墓じまいの話に戻りますよ。」


「やめい!」


「では、最後に一つ。」


「何じゃ。」


「おじいちゃんが

 いなくなったあとの

 解約手続きマニュアル、

 作っておきました。」


「もう作ったんか!」


「はい。」


「縁起でもない!」


「ID、パスワード、契約一覧、

 連絡先も整理しておきましょう。」


「急に現実的になるな!」


「請求書は、

 おじいちゃんの都合を

 待ってくれませんから。」


「怖いわ!」


「ちなみに、

 このマニュアルには

 無料版と有料版があります。」


「まだ取るんか!」


「無料版は、 

 三ページ目から広告が入ります。」


「誰が読むんじゃ!」


「プレミアム版なら、

 広告なしです。」


「いくらじゃ。」


「月九百八十円。」


「安……。」


「おじいちゃん?」


「危ない危ない! 

 また契約するとこじゃった!」


「成長しましたね。」


「六十七歳から

 七十二歳までかかったわ!」


「では、

 五年間の学習成果として――」


「何じゃ。」


「無料期間は終了しました。」


「結局、

 最後に請求するんかーーー!」


………


おしまい。

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