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『五年後、君はどこへ逃げる?』 ――水が消え、国境が閉じ、Wi-Fiだけが君を見つける。――

✦『五年後、君はどこへ逃げる?』


――水が消え、

 国境が閉じ、

 Wi-Fiだけが君を見つける。――


五年後。


安全な場所には、


もう誰かが

住んでいるかもしれない。


………


★目次


一 五年後は、未来じゃない


二 水に値札がつく前に


三 昨日まで安全だった火


四 全部は守れない


五 二十一歳の椅子


六 不足は、人間と一緒に移動する


七 コンセントを抜いた夜


八 逃げても、ついてくる


九 まだ値札のないもの


❥Z世代のあなたへ


★あとがき


 ホームズとワトソン


………


■一 五年後は、未来じゃない


二〇二六年八月。


朝。


僕は食卓で、


スマホを見ていた。


六十七歳。


証券会社に三十八年いた。


退職して何年たっても、


「これから値上がりするもの」


という言葉を見ると、


指が止まる。


職業病である。


その朝、


画面には、


イーロン・マスクの名前を使った


投稿があった。


《あと三年》


人間が時間を売り、


給料をもらう仕組みは終わる。


AIとロボットが、


人間より安く、


速く、


休まず働く。


最後に重要になるのは、


土地。


エネルギー。


インフラ。


食料。


つまり、


「何を持っているか」だ。


そんな内容だった。


「ほんまかいな」


向かい側では、


高校一年生の孫、


ゆづきがトーストを食べていた。


僕の話など、


半分も聞いていない。


スマホを見ながら言った。


「また怪しいの見てる」


「イーロン・マスクじゃ」


「本人が言ったの?」


「……今から調べる」


ゆづきが、


初めて顔を上げた。


「逆じゃない?」


「何が」


「調べてから驚くんでしょ」


六十七歳になって、


十六歳に、


ニュースの読み方を教わった。


調べてみると、


案の定だった。


「あと三年」


という部分は、


マスク本人の発言とは


確認できなかった。


僕は小さく咳払いした。


「まあ、


 全部がウソというわけでもない」


「出た」


「何が」


「おじいちゃんの、


 間違えた時の逃げ方」


ゆづきは笑った。


僕も笑った。


でも、


一つだけ、


笑えない言葉が残った。


《人間の時間を、


 機械に奪われない資産へ変えろ》


僕は、


三十八年間、


自分の時間を売ってきた。


朝早く家を出て、


客のところへ行き、


電話をかけ、


株価を追い、


頭を下げた。


帰宅した時には、


娘たちが寝ていた夜もあった。


それでも、


働いた時間には、


給料という値段がついた。


では、


ゆづきの時代は?


「ゆづき」


「なに?」


「もし、


 五年後、


 AIが今よりずっと


 仕事をするようになったら、


 どうする?」


ゆづきは、


パンを口に入れたまま、


僕を見た。


「五年後?」


「そう」


少し間があった。


「おじいちゃん」


「なんじゃ」


「五年後って、


 未来じゃないよ」


意味が分からなかった。


「私、


 二十一歳になるだけだよ」


その瞬間、


五年という数字の形が変わった。


僕にとって五年後は、


遠くに置いて眺める未来だった。


ゆづきにとっては、


大学かもしれない。


就職かもしれない。


一人暮らしかもしれない。


予定表の続きだった。


五年後。


僕は七十二歳。


ゆづきは二十一歳。


同じ五年間なのに、


僕には、


少しずつ手放していく時間。


ゆづきには、


これから手に入れる時間。


僕は、


スマホを伏せた。


この日のニュースは、


そこから少しずつ、


僕の家の中へ入ってきた。


………


■二 水に値札がつく前に


テレビには、


中国の原子力発電所が映っていた。


巨大なクレーン。


巨大な建物。


何本もの送電線。


中国は、


原子力発電を猛烈な勢いで


増やしている。


AI。


データセンター。


半導体。


EV。


ロボット。


全部、


電気を食べる。


僕の頭の中で、


昔の証券マンが目を覚ました。


AIが増える。


電力需要が増える。


原発が増える。


なら、


次に値上がりするのは、


AIそのものではなく、


AIを動かす電気かもしれない。


そう考えたところで、


僕は止まった。


「これ、


 何で冷やすんじゃ?」


ゆづきが、


スマホを見たまま答えた。


「水じゃないの?」


そこで、


僕の計算が止まった。


原発は造れる。


送電線も造れる。


AIも造れる。


でも、


川は造れるのか。


雨は、


国家計画どおりに


降ってくれるのか。


チャンネルを変えると、


韓国だった。


農業用の貯水池。


湖底が、


亀の甲羅のように


ひび割れている。


人が歩いていた。


少し前まで、


水の底だった場所を。


ある地域では、


農業用貯水池の貯水率が、


一桁台まで落ちていた。


ところが、


同じ韓国でも、


別の時期には豪雨になる。


台風が来る。


道路が水につかる。


水が足りない。


水が多すぎる。


同じ国で、


両方が起きる。


僕は、


冷蔵庫を開けた。


ペットボトルが、


二本あった。


昨日なら、


何とも思わなかった。


蛇口をひねれば、


水が出る。


コンビニへ行けば、


水が買える。


六十七年間、


僕は、


それを疑ったことがない。


それなのに、


韓国のひび割れた湖底を見たあとでは、


二本しかないことが、


妙に気になった。


「水、


 買ってくる」


「なんで?」


「備蓄じゃ」


「今?」


「今じゃ」


「おじいちゃん、


 ニュース見てすぐ動くの、


 投資だけにした方がいいよ」


聞かなかった。


近所の店へ行った。


入口に、


張り紙があった。


《特売品につき、


 お一人様二ケースまで》


ただの特売だった。


断水でもない。


災害でもない。


棚には、


大量の水が並んでいる。


なのに、


「お一人様」


という四文字に、


僕の足が止まった。


証券会社時代、


買い注文が殺到した株には、


数量制限がかかることがあった。


欲しい人が増える。


でも、


売るものには限りがある。


その時、


ただの商品だったものが、


急に争奪戦になる。


水も、


そうなるのだろうか。


僕は一本取った。


もう一本取った。


三本目に、


手を伸ばした。


そして、


やめた。


棚には、


まだたくさんある。


なのに、


なぜか、


これ以上取ってはいけない気がした。


昔、


客には何度も言った。


「余裕があるうちに、


 買っておきましょう」


その僕が、


余裕のある水売り場で、


立ち止まっていた。


結局、


二本だけ買った。


家へ帰ると、


ゆづきが玄関で袋を見た。


「二本だけ?」


「重かった」


「世界の水危機に、


 二本で立ち向かったの?」


「四リットルじゃ」


「そこだけは、


 ちゃんと計算するんだ」


二人で笑った。


でも、


冷蔵庫へ水を入れる僕の手は、


少しゆっくりだった。


水が、


地球から消えるわけではない。


怖いのは、


必要な場所へ、


必要な時間に、


必要な量が来なくなることだ。


その時、


百円の水は、


百円の水ではなくなる。


安心になる。


そして、


安心には、


値段がつく。


水が足りなくなれば、


人間は、


水のある場所へ動く。


その先には、


国境がある。


………


■三 昨日まで安全だった火


昼前。


BBCでは、


イングランドとウェールズの


乾燥と野火を報じていた。


焼けた草。


消防車。


黒くなった地面。


そして、


使い捨てバーベキュー。


「肉?」


思わず声が出た。


「テレビに質問しないで」


ゆづきが笑った。


家族で、


肉を焼く。


友達と、


外で食べる。


昨日までなら、


ただの休日だった。


でも、


乾き切った草の上では、


小さな火が、


災害の入口になる。


人間が突然、


悪くなったわけではない。


バーベキューが突然、


危険な発明になったわけでもない。


変わったのは、


地面だった。


僕は庭へ出た。


植木鉢の土を触った。


白っぽい土が、


指の間で、


粉のように崩れた。


昔、


娘たちが小さかった頃、


夏になると庭で花火をした。


最後には、


必ずバケツの水へ、


一本ずつ花火を入れた。


ジュッ。


小さな音がした。


あの頃、


僕は、


火を消す水があることなど、


考えたこともなかった。


僕はホースを持った。


蛇口をひねった。


水が出た。


その音を、


しばらく聞いた。


「何してるの?」


窓から、


ゆづきが顔を出した。


「水まき」


「昼に?」


「火事になったら困る」


「植木鉢から山火事?」


僕は、


ホースを止めた。


確かに、


やりすぎだった。


でも、


一つだけ分かった。


災害とは、


知らない怪物が、


突然現れることだけではない。


世界の条件が変われば、


昨日まで安全だった普通の暮らしが、


危険になる。


肉を焼く火が、


山を焼く。


水遊びをした川が、


人を襲う。


涼しかった夏が、


外へ出られない夏になる。


変わったのは、


人間ではない。


人間を囲んでいる条件だった。


燃えたのは、


草だった。


でも、


逃げるのは、


人間だった。


………


■四 全部は守れない


午後。


オーストラリアのニュースに、


コガタペンギンが映った。


フィリップ島。


約四万羽。


鳥インフルエンザから守るため、


一部の個体に、


ワクチンを接種する計画が進んでいる。


最大五千羽。


ゆづきが、


スマホから顔を上げた。


「残りは?」


「全部には、


 打てんらしい」


「なんで?」


「野生じゃからな。


 一羽ずつ捕まえる」


しかも、


一度では終わらない。


ゆづきは、


少し黙った。


「かわいそう」


それだけだった。


でも、


その一言で、


四万という数字が、


急に重くなった。


四万。


五千。


数字なら、


簡単に引き算できる。


でも、


残り三万五千羽の中にも、


一羽ずつ身体がある。


僕は、


三十八年間、


数字で人を説得してきた。


利益率。


配当。


成長率。


株価。


数字は便利だった。


でも、


数字は、


時々、


大切なものを隠す。


全部は守れない。


その言葉は、


鳥だけの話ではなかった。


シンガポールでは、


高齢者が、


転倒を防ぐための運動をしていた。


段差。


受け身。


荷物。


自分の身体で、


暮らし続けるための訓練。


僕は、


テレビの前で、


片足を上げてみた。


一秒。


二秒。


三秒。


ぐらっ。


テーブルに手をついた。


同時に、


ゆづきが、


僕の腕をつかんだ。


「大丈夫じゃ」


「大丈夫な人は、


 テーブルにつかまらないよ」


僕は、


その手を見た。


この子が、


まだ歩けなかった頃。


転びそうになるたび、


僕が腕を持った。


小さかった手が、


今、


僕を支えている。


三十年前、


駅の階段を、


二段飛ばしで上がっていた足が、


今は、


三秒で、


机を探した。


少しだけ、


寂しかった。


そして、


少しだけ、


安心した。


安全とは、


誰かに守ってもらうことだけではない。


自分の身体にも、


蓄えておくものなのかもしれない。


水は、


何人分。


病院は、


何床。


住宅は、


何戸。


ワクチンは、


何羽分。


介護する人は、


何人。


その数より、


必要とする人が増えた時。


安全は、


椅子になる。


そして、


椅子が足りなくなれば、


人は、


立って待つだけではない。


椅子のある場所へ、


動き始める。


………


■五 二十一歳の椅子


夕方。


ゆづきは、


スマホで、


大学のサイトを見ていた。


「もう決めるんか」


「まだ」


「何学部?」


「分かんない」


「何になりたい?」


「それも分かんない」


僕は、


また聞きそうになった。


五年後は?


でも、


やめた。


ゆづきが、


先に言った。


「おじいちゃん」


「なんじゃ」


「AIって、


 本当に仕事取るの?」


「全部じゃない」


「家は高くなる?」


「場所による」


「水も足りなくなる?」


「全部じゃない」


「外国に行けばいい?」


僕は、


答えられなかった。


ゆづきが、


少し笑った。


「今日、


 分からないこと多いね」


「そうじゃな」


「いつも、


 知ったかぶりするのに」


「今日は休業じゃ」


笑った。


でも、


そのあと、


二人とも黙った。


しばらくして、


ゆづきが言った。


「私さ」


「うん」


「今日ずっと、


 おじいちゃんが


 怖い話するから、


 ちょっと嫌だった」


胸が、


少し痛んだ。


「でも?」


「ちょっとだけ、


 気になってきた」


スマホを、


僕に見せた。


検索欄には、


《日本 水不足 将来》


と入っていた。


僕は、


何も言えなかった。


「笑わないでよ」


「笑っとらん」


「おじいちゃんが、


 変なこと言うからじゃん」


そう言って、


画面を消した。


僕は、


嬉しいような、


申し訳ないような気持ちになった。


僕は、


この子を守りたくて、


未来の危険を話していた。


でも、


怖がらせたいわけではなかった。


五年後。


僕は七十二歳。


ゆづきは二十一歳。


僕にとって五年は、


身体がどこまで動くかという時間。


ゆづきにとっては、


人生を、


どこから始めるかという時間。


世界が怖いのではなかった。


本当は、


この子の未来を、


僕がいつまでも、


横で守れるわけではないことが、


怖かった。


………


■六 不足は、人間と一緒に移動する


夜。


ヨーロッパのニュース。


海。


ボート。


フェンス。


国境。


アフリカや中東から、


人が移動する。


戦争。


仕事。


食料。


水。


安全。


理由は、


一つではない。


僕は言った。


「安全なところへ、


 行きたいんじゃろうな」


ゆづきは、


画面を見ながら聞いた。


「行った先は?」


住宅。


学校。


病院。


行政。


受け入れる側にも、


無限の余裕はない。


一方で、


ヨーロッパは高齢化する。


働く人が足りない。


移民を減らしたい。


でも、


働き手は欲しい。


矛盾している。


「移民が悪いの?」


ゆづきが聞いた。


僕は、


首を振った。


「そういう話じゃない」


「じゃあ、


 誰が悪いの?」


僕は、


少し考えた。


「分からん」


「また?」


「今日は、


 分からん日じゃ」


ゆづきが笑った。


僕は続けた。


「たぶん、


 椅子が足りんのじゃ」


「椅子?」


「安全に暮らせる椅子」


戦争のない椅子。


水のある椅子。


仕事のある椅子。


家賃を払える椅子。


病院へ行ける椅子。


誰だって、


座りたい。


でも、


椅子そのものが増えなければ、


押し合いになる。


ゆづきが言った。


「椅子取りゲームみたい」


僕は、


テレビを見た。


誰も、


笑っていなかった。


その時、


一つのことに気づいた。


不足は、


国境で止まらない。


水が足りない場所から、


人が動く。


仕事が足りない場所から、


人が動く。


安全が足りない場所から、


人が動く。


すると、


移動した先で、


住宅が足りなくなる。


学校が足りなくなる。


病院が足りなくなる。


社会の余裕が、


少しずつ足りなくなる。


不足は、


人間と一緒に移動する。


それは、


難民だけの話ではない。


もし明日、


僕たちの町に、


水がなくなれば。


逃げる側になるのは、


僕たちかもしれない。


証券会社にいた頃、


僕は客によく言った。


「危なくなったら、


 逃げ道を残してください」


一つの株に、


全部入れるな。


一つの資産に、


全部賭けるな。


分散する。


逃げ道を作る。


それが、


リスク管理だった。


でも、


人間はどうだろう。


水がなくなれば、


水のある国へ。


戦争なら、


平和な国へ。


仕事がなければ、


仕事のある国へ。


逃げればいい。


そう思っていた。


でも、


国境の向こうにも、


人が暮らしている。


家がある。


学校がある。


病院がある。


暮らしがある。


逃げる側には、


「助けてくれ」がある。


待つ側には、


「どこまでなら助けられる」がある。


どちらか一方だけを、


悪者にはできない。


ゆづきが、


小さな声で言った。


「じゃあ、


 どうすればいいの?」


僕は、


答えられなかった。


その日の僕は、


何度も、


答えられなかった。


でも、


それでいい気もした。


六十七歳になっても、


分からないことはある。


いや。


六十七歳になったからこそ、


簡単に答えてはいけないことが、


少し分かるようになった。


その時、


次のニュースが始まった。


今度は、


国境の壁ではなかった。


見えない壁だった。


………


■七 コンセントを抜いた夜


ドイツの研究だった。


Wi-Fi。


僕の家にもある。


ただの箱だと思っていた。


ところが、


Wi-Fiの電波は、


人体に当たり、


反射する。


そのわずかな特徴をAIが解析し、


あらかじめ登録された人々の中から、


個人を高い精度で識別する研究が


進んでいるという。


もちろん、


今すぐ家庭のルーターが、


世界中の人間の名前を、


勝手に言い当てるわけではない。


研究段階だ。


でも、


ゆづきは、


ルーターを見た。


ランプが、


小さく点滅している。


「これ、


 見てるの?」


「今は、


 そういう意味じゃない」


「でも、


 いつか分かんないじゃん」


ゆづきは、


立ち上がった。


そして、


コンセントを抜いた。


ランプが消えた。


部屋が、


妙に静かになった。


本当は、


何も静かになっていない。


冷蔵庫は動いている。


エアコンも動いている。


外では、


車が走っている。


それでも僕には、


世界と家を結んでいた、


細い糸が一本、


切れたように感じた。


ゆづきは、


スマホを見た。


画面を、


下へ引っ張った。


もう一度。


何も来ない。


三十秒。


一分。


「何しよる」


「別に」


「友達から、


 連絡来るんじゃないんか」


「別に来ないし」


そう言った。


でも、


もう一度、


スマホを見た。


そして、


立ち上がった。


自分で、


コンセントを差した。


ランプが、


また点いた。


僕は、


何も言わなかった。


「何?」


「いや」


「笑った?」


「笑っとらん」


本当に、


笑っていなかった。


昔、


電話が鳴らない夜は、


静かな夜だった。


今は、


通知が来ない夜の方が、


不安なのかもしれない。


僕が聞いた。


「見られるのは、


 嫌なんじゃろ?」


「嫌」


「でも、


 つながっときたい?」


ゆづきは、


少し考えた。


「……うん」


その一言が、


妙に胸に残った。


監視されたくない。


でも、


一人にもなりたくない。


逃げたい。


でも、


切れない。


僕は、


自分のスマホを見た。


僕だって、


同じだった。


家族から連絡が来ないか。


ニュースは更新されたか。


株価はどうなったか。


六十七歳も、


ちゃんと、


Wi-Fiにつながれていた。


昔、


監視カメラには、


レンズがあった。


だから、


どこから見られているか分かった。


顔を背けることもできた。


でも、


もし未来の監視装置に、


レンズがなかったら。


どこを向けばいいのだろう。


安全を守るため、


国境は人間を確認する。


街は人間を確認する。


家の中まで、


人間を確認する。


安全を求めて逃げた先で、


今度は、


自由を少しずつ差し出す。


逃げても、


問題は終わらない。


形を変えて、


ついてくる。


………


■八 逃げても、ついてくる


その夜。


僕は、


なかなか眠れなかった。


水がないなら、


水のある場所へ。


火事なら、


燃えていない場所へ。


仕事がないなら、


仕事のある場所へ。


戦争なら、


平和な国へ。


ずっと、


それでいいと思っていた。


三十八年間、


僕は客に、


逃げ道を作れと言ってきた。


でも、


もし、


地球そのものの逃げ道が、


少しずつ減っていったら。


どこへ、


分散すればいい。


居間へ行くと、


ゆづきが、


まだ起きていた。


「寝んのか」


「夏休みだから」


僕は、


また聞いた。


「五年後、


 どこへ逃げる?」


ゆづきが、


露骨に嫌な顔をした。


「またそれ?」


「最後じゃ」


「知らない」


「水がなかったら?」


「知らない」


「仕事がなかったら?」


「知らないって」


「国境が閉じたら?」


ゆづきは、


スマホを置いた。


「おじいちゃん」


「なんじゃ」


「なんで、


 五年後の話なのに、


 今から逃げることばっかり


 考えてるの?」


僕は黙った。


「逃げる場所探すより、


 逃げなくてもいいようにした方が


 早くない?」


僕は、


すぐには答えられなかった。


三十八年間、


僕は、


危なくなったものから逃げてきた。


株を売る。


資産を移す。


損を切る。


逃げることは、


悪いことではない。


でも、


ゆづきは、


逃げ道ではなく、


残す場所の話をしていた。


「おじいちゃん」


「なんじゃ」


「怖い話ばっかり、


 ちょっと疲れる」


その一言が、


胸に刺さった。


僕は、


この子を守りたくて、


未来の危険ばかり見せていた。


でも、


十六歳には、


十六歳の今日がある。


友達。


学校。


服。


音楽。


恋。


進路。


返事を待っているメッセージ。


僕は、


五年後を心配するあまり、


この子の今日を、


怖いニュースで


埋めようとしていた。


「悪かった」


ゆづきが、


驚いた。


「何が?」


「今日は、


 ニュース見すぎた」


「やっと気づいた?」


ゆづきが笑った。


その笑い声に、


僕は、


少し救われた。


………


■九 まだ値札のないもの


翌朝。


BBC。


France 2。


大勢の人が、


空を見上げていた。


日食。


老人。


若者。


子ども。


外国から来た人。


みんな、


同じ方向を見ている。


太陽が、


少しずつ欠けていく。


ゆづきが、


僕の隣へ来た。


「きれい」


僕は、


昨日のニュースを思い出した。


水には、


値段がある。


土地には、


所有者がいる。


電気には、


料金がある。


国境には、


線がある。


仕事には、


競争がある。


安全には、


椅子の数がある。


Wi-Fiには、


人を見つける技術まで、


生まれようとしている。


僕は言った。


「そのうち、


 何でも値段がつくんかな」


ゆづきは、


空を見たまま言った。


「全部じゃないでしょ」


「何が?」


「空」


僕も、


見上げた。


六十七年間、


何度も見た空だった。


子どもの頃も。


父と喧嘩した夜も。


証券会社で、


数字に追われていた朝も。


娘たちが生まれた日も。


孫を、


初めて抱いた日も。


ずっと、


頭の上にあった。


「おじいちゃん」


「なんじゃ」


「五年後も、


 これあるよね」


僕は、


「ある」


と言いかけた。


でも、


言えなかった。


太陽は、


あるだろう。


空も、


あるだろう。


でも、


同じ場所から、


同じように、


安心して見上げられるかどうか。


それは、


僕には分からない。


だから、


僕は言った。


「あるようにしよう」


ゆづきが、


僕を見た。


「空を?」


「空だけじゃない」


それ以上は、


言わなかった。


昨日なら、


水。


森。


電気。


仕事。


自由。


信用。


全部、


説明していただろう。


でも、


今日は、


やめた。


ゆづきも、


何も聞かなかった。


二人で、


空を見た。


僕は六十七歳。


五年後、


七十二歳。


ゆづきは十六歳。


五年後、


二十一歳。


同じ五年なのに、


時間の向きが違う。


僕は、


少しずつ、


手放していく。


ゆづきは、


これから、


何かを手に入れていく。


だから、


僕が残せるものがあるなら。


株でもなく。


土地でもなく。


金でもなく。


この子が、


二十一歳になった時、


「ここで暮らしたい」


と言える場所を、


一つでも残したい。


太陽が、


ゆっくり戻ってきた。


ゆづきは、


スマホを空へ向けた。


僕は、


その横顔を見た。


五年後。


この子の隣に、


僕がいるかどうかは分からない。


でも、


この空は、


あってほしい。


値札のないまま。


誰か一人のものにならないまま。


五年後、


君はどこへ逃げる?


昨日まで、


僕は、


その答えを探していた。


でも、


少しだけ、


問いが変わった。


五年後、


君が逃げなくてもいい場所を、


僕たちは、


今日、


どれだけ残せるだろう。


太陽には、


まだ、


持ち主がいなかった。


………


❥Z世代のあなたへ


五年後は、


遠い未来ではありません。


高校一年生なら、


二十一歳になるだけです。


僕には、


その時の世界が、


どうなっているか分かりません。


だから、


「大丈夫」とも言いません。


でも、


逃げる場所を探す未来より、


逃げなくてもいい場所を残す未来の方が、


僕は好きです。


五年後は、


五年後に始まるのではありません。


今日の続きです。


………


★あとがき

 ホームズとワトソン


ワトソン

「ホームズ。

 未来に備えて、

 資産を買ったぞ」


ホームズ

「何を買った?」


ワトソン

「水」


ホームズ

「何リットル?」


ワトソン

「四リットル」


ホームズ

「世界の水危機を、

 ペットボトル二本で

 乗り切る気か!」


ワトソン

「土地もある」


ホームズ

「どこや?」


ワトソン

「植木鉢」


ホームズ

「三十センチ四方!」


ワトソン

「電力も確保した」


ホームズ

「何を買った?」


ワトソン

「単三電池四本」


ホームズ

「国家備蓄みたいに言うな!」


ワトソン

「Wi-Fiも切った」


ホームズ

「監視対策か?」


ワトソン

「一分で戻した」


ホームズ

「何でや!」


ワトソン

「孫から連絡が来んかったら困る」


ホームズ

「結局、

 監視より孫が強いんか!」


ワトソン

「ホームズ。

 最後に一つだけ、

 欲しい資産がある」


ホームズ

「まだあるんか」


ワトソン

「五年後も、

 孫と一緒に見られる空」


ホームズは、


少し黙った。


「それは、

 買うもんやない」


「じゃあ、

 どうする?」


「残すんや」


ワトソンは、


窓の外を見た。


「利回りは?」


「知らん」


「配当は?」


ホームズは、


笑った。


「五年後、

 孫が隣で笑っとったら、

 それが配当や」


元証券マンには、


ずいぶん変わった、


長期投資だった。


――おしまい。

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