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『世界同時・生存コスト暴騰』 ――気候、物価、金利、戦争が、人間の居場所を奪い始めた。――

✦『世界同時・生存コスト暴騰』


――気候、物価、金利、戦争が、

 人間の居場所を奪い始めた。――


………


二〇二六年。


世界は、


まだ壊れていなかった。


銀行は開いている。


スーパーには、


食料が並んでいる。


蛇口をひねれば、


水も出る。


夜になれば、


電気も点く。


船は海を渡り、


AIに話しかければ、


すぐに返事が来る。


だから、


誰も逃げなかった。


けれど、


世界のあちこちで、


似たような声が聞こえ始めていた。


「給料は入ったんです。


 でも、金が残らないんです」


「家はあるんです。


 でも、来年の保険が心配なんです」


「働きたいんです。


 でも、仕事がないんです」


「この水は、これからも、


 僕らのものなんでしょうか」


僕は最初、


それぞれ別のニュースだと思っていた。


違った。


全部、


同じものの値上がりだった。


人間が、


明日も同じ場所で暮らすための値段。


僕はそれを、


「生存コスト」


と呼ぶことにした。


………


★目次


一 給料日の午後九時


二 薄い封筒


三 四十年遅れの請求書


四 十セントを削った人


五 二十二歳、仕事なし


六 住宅ローンは三十一年残っていた


七 AIには喉がない


八 船が来なくなった朝


九 車より先に売られたもの


十 一つの財布


十一 居場所の値段


十二 「まだ大丈夫」が終わる日


❥Z世代のあなたへ


★ホームズとワトソン

 世界経済・やすきよ風大反省会


………


✦一


✲給料日の午後九時


午後九時。


男はソファに座り、


スマホを開いた。


朝には、


給料が振り込まれていた。


住宅ローン。


電気代。


保険。


食料。


ガソリン。


一つずつ、


数字が消えていった。


そして、


残高。


男は、


しばらく画面を見ていた。


月末まで、


あと十二日。


「十二日か……」


スマホを、


伏せた。


家はある。


仕事もある。


給料も入った。


なのに、


十二日が長い。


場所は、


オーストラリア。


政策金利は、


四・三五%。


住宅ローン利用者の約三割、


約百六十万人が、


返済ストレスの危険圏にあるという


民間推計も出ている。


百六十万人。


大きな数字だ。


でも本当は、


百六十万個の、


月末の財布だ。


食料も高い。


保険も高い。


電気も高い。


ローンも重い。


それなのに、


住宅価格は、


下がり始めた。


昔、


家を持てば安心だと、


僕らは教えられた。


ところが今は、


家を持っているから、


動けない人までいる。


まだ、


督促状は来ない。


まだ、


家を売らなくていい。


まだ、


破産していない。


男は翌朝、


いつもの時間に起きて、


いつもの会社へ向かった。


まだ、


暮らせているからだ。


………


✦二


✲薄い封筒


ニュージーランド。


食卓の上に、


一通の封筒が置かれていた。


保険会社からだった。


封筒は、


薄かった。


女性は、


すぐには開けなかった。


家は、


一度も流されていない。


壁もある。


屋根もある。


昨日と同じ家が、


窓の向こうに建っている。


それでも、


洪水。


地滑り。


高潮。


地震。


自然災害のリスクは、


少しずつ保険料へ入ってくる。


住宅価格は、


二〇二一年のピークから、


一時、


約一五%下落した。


「家はあるのにね」


女性が、


窓の外を見た。


「これから、


 ここに住むことの方が、


 高くなっていくのかしら」


住宅ローンは、


何十年も続く。


けれど、


保険会社が、その何十年を


保証してくれるわけではない。


僕は、


その時間の差が怖かった。


銀行は、


三十年先まで金を貸す。


保険会社は、


来年を見ている。


そして人間だけが、


三十年後も、


同じ家に住んでいるつもりでいる。


女性は、


ようやく封筒を開けた。


家は、


まだある。


だから、


まだ引っ越さない。


………


✦三


✲四十年遅れの請求書


中国。


男は、


スマホの中の結婚写真を、


消せずにいた。


写真の中では、


二人とも笑っている。


現実には、


一人しかいない。


結婚相手を探した。


仲介サービスを利用した。


婚資を払った。


相手の女性は、


慎ましく、


献身的に見えた。


男は、


貯金のほとんどを渡した。


約七万四千ドル相当。


そして、


女性は消えた。


「眠れないんです」


男は言った。


「両親にも、


 どうしてそんなに払ったんだと、


 責められました」


僕は最初、


結婚詐欺のニュースだと思った。


でも、


その後ろに、


もっと大きな数字があった。


中国では、


男性が女性より、


約三千万人多い。


一人っ子政策の時代。


一人だけなら、


男の子を。


そんな選択が、


長い年月、


積み重なった。


そして今、


国家は、


結婚してほしい。


子供を産んでほしい。


そう願っている。


でも、


四十年前に生まれなかった女の子へ、


「今から、


 生まれてきてもらえませんか」


とは言えない。


男は、


もう一度、


結婚写真を見た。


国家が作った人口のゆがみ。


その請求書は、


四十年遅れて、


一人の男の財布と、


一人の男の心へ届いた。


………


✦四


✲十セントを削った人


夜明け前。


男たちは、


スラム街を出た。


古い車に乗せられ、


農場へ向かう。


イタリア。


トマト畑。


日が昇る。


暑くなる。


「早く!」


「もっと早く!」


後ろから声が飛ぶ。


移民労働者。


違法な仲介。


低賃金。


劣悪な住環境。


現代の奴隷制。


そんな言葉まで使われる。


僕は最初、


悪い仲介人の話だと思った。


ところが、


ある経営者の言葉が、


耳に残った。


商品一つに、


あと十セント。


それだけ余計に払ってもらえれば、


労働環境を変えられる。


十セント。


その日の夕方。


僕は、


スーパーのトマト売り場を想像した。


百円。


九十円。


八十円。


僕なら、


どれを取るだろう。


たぶん、


安い方だ。


僕は、


奴隷制に反対している。


その手で、


一番安いトマトを取る。


畑では、


男が汗を拭いた。


スーパーでは、


誰かが値札を見る。


その二人は、


会ったこともない。


でも、


十セントで、


つながっている。


では、


その十セントを削ったのは、


親分か。


農家か。


スーパーか。


それとも、


僕なのだろうか。


………


✦五


✲二十二歳、仕事なし


二十二歳だった。


働きたかった。


町には、


仕事がなかった。


畑には、


水もなかった。


若者は、


小さなバッグに荷物を詰めた。


母親が、


玄関まで来た。


「いつ帰るの?」


若者は、


答えなかった。


帰る日を、


自分でも知らなかったからだ。


サブサハラ・アフリカの一部では、


若者は多い。


でも、


仕事がない。


水が足りない。


食料も足りない。


だから、


若者は、


暮らせる場所を探して移動する。


一方、


日本や欧州では、


逆のことが起きている。


仕事はある。


でも、


働く若者が足りない。


若者がいるのに、


仕事がない国。


仕事があるのに、


若者がいない国。


同じ地球なのに、


人と仕事の場所が、


噛み合っていない。


若者は、


故郷を振り返った。


そこには、


家がある。


家族もいる。


足りないのは、


そこで生きていける未来だった。


………


✦六


✲住宅ローンは三十一年残っていた


住宅ローンは、


あと三十一年。


でも、


その家が、


三十一年間、


安全とは限らない。


山火事。


洪水。


地滑り。


災害が増えれば、


保険料も上がる。


場合によっては、


保険に入りにくくなる。


男は、


保険会社から届いた通知を、


テーブルに置いた。


「家はあるんです…」


男は言った。


「ローンも、


 ちゃんと払っています。


 なのに、


 ここに住み続けることが、


 毎年高くなっていくんです」


窓の向こうには、


昨日と同じ家がある。


屋根もある。


壁もある。


何も壊れていない。


それなのに、


安心だけが、


少しずつ高くなっていく。


住宅ローンは、


あと三十一年。


でも、


その土地に、


三十一年住める保証はない。


男は、


通知を引き出しに入れた。


そして、


玄関の鍵を閉め、


いつものように、


仕事へ向かった。


………


✦七


✲AIには喉がない


テキサス。


巨大な建物が、


次々と計画される。


窓は、


ほとんどない。


中にいるのは、


人間ではない。


サーバーだ。


AIデータセンター。


企業には、


金がある。


半導体も買える。


土地も買える。


発電設備にも投資できる。


でも、


必要なのは、


それだけではない。


電気。


水。


送電網。


そして、


住民の同意。


データセンター建設に反対する人が、


過半に達する調査も出ている。


近くに暮らす女性が、


蛇口からコップへ水を入れた。


そして、


建設予定地の方を見た。


「この水は、


 誰のものなんですか」


僕は、


その言葉が気になった。


AIには、


喉がない。


汗もかかない。


暑いとも言わない。


それでも、


AIを動かすために、


現実の水が必要になる。


企業は、


土地を買える。


発電所にも投資できる。


政治家とも話せる。


でも、


住民の「はい」だけは、


簡単には買えない。


女性は、


コップの水を飲んだ。


蛇口からは、


いつもと同じように、


水が流れていた。


だからこそ、


彼女は、


建設予定地から目を離せなかった。


………


✦八


✲船が来なくなった朝


台湾。


港で、


男が海を見ていた。


来るはずの船が、


来ない。


攻撃されたわけではない。


沈められたわけでもない。


ただ、


来なかった。


僕は、


台湾有事とは、


中国軍が上陸することだと思っていた。


でも、


もっと静かな戦争がある。


船を止める。


検査する。


保険料が上がる。


海運会社が、


航路を変える。


LNGが来ない。


原料が来ない。


半導体が、


出ていかない。


ミサイルは、


一本も飛ばない。


ニュースキャスターは言う。


「戦争が始まったわけではありません」


その言葉が流れている間にも、


株は落ちる。


工場は止まる。


世界中の企業が、


半導体を探し始める。


港の男は、


腕時計を見た。


船は、


来ない。


台湾が、


しばらく耐えられたとしても、


問題は、


そのあとだ。


アメリカは来るのか。


いつ来るのか。


僕は、


そこで気づいた。


台湾に、


一番備蓄できないもの。


それは、


時間だった。


一発も、


撃たれていない。


戦争とは、


まだ呼ばれていない。


だからこそ、


怖かった。


………


✦九


✲車より先に売られたもの


中国。


新しいEVが、


次々と工場から出てくる。


値段は下がる。


電池も安くなる。


国内で売れなければ、


海外へ売る。


競争は、


激しくなる。


ある会社員が、


スマホを開いた。


自分の会社の車について、


一本の動画が流れていた。


「あの車は危ない」


「あの会社は終わる」


男は、


画面を見つめた。


「これ、間違いだよ……」


中国政府は、


自動車関連の偽情報を削除し、


取り締まりを強めている。


でも、


一度広がった言葉を、


全部回収することは難しい。


昔、


会社を潰すには、


工場を壊した。


今は、


工場へ行かなくてもいい。


スマホ一台で、


信用を壊せる。


男は、


スマホを伏せた。


窓の向こうでは、


工場が、


今日も動いていた。


車も、


そこにある。


本物の車はある。


でも、


本物だと信じてもらえるとは限らない。


工場で車は作れる。


けれど、


失った信用は、


同じラインでは作れない。


………


✦十


✲一つの財布


僕は、


ノートを開いた。


住宅ローン。


保険。


結婚。


トマト。


仕事。


水。


電気。


時間。


信用。


全部、


別々のニュースだった。


でも、


自分の財布を見ると、


少し違って見えた。


住宅ローン。


保険。


電気。


食料。


水。


移動。


安全。


全部、


同じ財布から出ていく。


政府には、


政府の事情がある。


中央銀行には、


中央銀行の事情がある。


企業にも、


保険会社にも、


農場にも、


事情がある。


政策は、


別々の机で作られる。


でも、


払うのは、


いつも一人だった。


生活は、


一つの財布で行われる。


僕は、


ノートの真ん中に、


一本の線を引いた。


その線の上には、


世界のニュース。


その線の下には、


一人の人間の生活。


そして、


真ん中に書いた。


「生存コスト」


ニュースの数字が、


初めて、


一つの財布の中でつながった。


………


✦十一


✲居場所の値段


中国には、


結婚したい男がいる。


イタリアには、


働いているのに、


スラムから出られない男がいる。


アフリカには、


働きたいのに、


仕事のない若者がいる。


オーストラリアには、


家を持っているのに、


月末の金が残らない家族がいる。


ニュージーランドには、


家はあるのに、


来年の保険を心配する人がいる。


テキサスには、


AIを置く場所と、


人間が暮らす場所の争いがある。


台湾には、


時間が足りない。


僕は、


ようやく分かった。


世界で高くなっているのは、


家だけではない。


水だけでもない。


電気だけでもない。


安全に暮らせる。


働ける。


食べられる。


水が飲める。


借金を返せる。


家族を作れる。


そして、


「明日も、


 ここにいていい」


と思える。


そのために必要な金と、


安心と、


時間。


つまり、


人間の居場所そのものが、


高くなっている。


居場所は、


消えたのではない。


値上がりしていた。


………


✦十二


✲「まだ大丈夫」が終わる日


世界は、


まだ壊れていない。


銀行は、


開いている。


オーストラリアの男は、


翌朝も会社へ行った。


ニュージーランドの女性は、


薄い封筒を食卓に置いた。


中国の男は、


消せない結婚写真を見ている。


イタリアの男は、


今日もトマトを摘む。


アフリカの若者は、


小さなバッグを持って、


故郷を出た。


テキサスの女性は、


蛇口から水をくむ。


台湾の男は、


港で船を待つ。


中国の会社員は、


スマホを伏せた。


世界は、


今日も、


動いている。


だから、


「まだ大丈夫」


と言える。


でも、


ある日。


給料日の残高が、


ゼロになる。


保険会社が、


「更新できません」


と言う。


船が、


来なくなる。


蛇口から、


水が出なくなる。


仕事が、


なくなる。


信用が、


消える。


その日、


「まだ大丈夫」は、


突然、


「もう遅い」


に変わる。


僕が今回、


一番怖かったのは、


世界が壊れたことではない。


まだ、


壊れていないことだった。


人間は、


壊れるまでは、


そこに住む。


払えるまでは、


ローンを払う。


働けるまでは、


働く。


水が出るまでは、


蛇口をひねる。


船が来るまでは、


港で待つ。


そして、


逃げる理由が、


はっきりしたときには、


逃げる場所まで、


高くなっている。


二〇二六年。


世界で一番高くなり始めたもの。


それは、


「ここで、


 明日も暮らしていい」


という権利なのかもしれない。


………


❥Z世代のあなたへ


あなたが、


三十五年ローンで買う家は、


三十五年後も、


安心して住めますか。


あなたが、


就職する町には、


三十五年後も、


水がありますか。


あなたが、


今日見た動画は、


本当に、


誰かが確かめた情報ですか。


あなたが、


安全だと思っている国は、


明日も、


同じでしょうか。


僕には、


答えがありません。


六十七年生きても、


分かりません。


でも、


一つだけ、


今回のニュースから


思ったことがあります。


未来を考えるというのは、


怖がることではない。


「まだ大丈夫」


と言われたときに、


本当にそうなのか、


一度だけ、


自分で確かめてみること。


それくらいなら、


僕にもできる。


あなたにも、


できると思う。


だから僕は、


明日も、


ニュースを見る。


世界が壊れたことを知るためではない。


まだ壊れていない世界で、


何が少しずつ変わっているのかを、


見落とさないために。


………


★ホームズとワトソン

 世界経済・やすきよ風大反省会


ワトソン


「先生!


 絶対に安全な場所を

 見つけました!」


ホームズ


「どこじゃ」


ワトソン


「月です」


ホームズ


「住めるか!」


ワトソン


「山火事ありません」


ホームズ


「空気もないわ!」


ワトソン


「洪水ありません」


ホームズ


「水もない!」


ワトソン


「固定資産税もありません」


ホームズ


「家そのものがないわ!」


ワトソン


「じゃあ、


 地球で探します」


ホームズ


「最初からそう言わんか!」


ワトソン


「オーストラリア」


ホームズ


「住宅ローン」


ワトソン


「ニュージーランド」


ホームズ


「保険」


ワトソン


「テキサス」


ホームズ


「水と電気」


ワトソン


「台湾」


ホームズ


「時間」


ワトソン


「中国」


ホームズ


「信用」


ワトソン


「先生!


 どこへ行っても、


 何か足りんじゃないですか!」


ホームズ


「今ごろ気づいたんか!」


ワトソン


「じゃあ、


 一番足りないものは?」


ホームズ


「安心して暮らせる場所じゃ」


ワトソン


「最初から、


 そう言ってくださいよ!」


ホームズ


「お前が月から始めたんじゃ!」


二人は、


笑った。


少しして、


ワトソンが聞いた。


「先生」


「何じゃ」


「じゃあ、


 僕らは、


 どこに住めばいいんです?」


ホームズは、


世界地図を見た。


「これからは、


 国の名前だけでは、


 決められん」


「じゃあ、


 何を見るんです?」


「水。


 仕事。


 災害。


 保険。


 戦争。


 ちゃんと、


 暮らせるかどうかじゃ」


ワトソンは、


少し黙った。


「面倒な時代ですね」


「ほんまにな」


ホームズは、


世界地図を畳んだ。


「でも、


 まだ選べる」


外では、


いつも通り、


電気が点いていた。


蛇口から、


水も出た。


銀行も、


開いていた。


スーパーには、


トマトも並んでいた。


世界は、


まだ、


壊れていなかった。


だからこそ、


二人は、


明日もニュースを見ることにした。


――気候、物価、金利、戦争が、


 人間の居場所を奪い始めた。――


             了

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