『ゾンビ・デフレ』 ✲経済の避難訓練 ――暴落は止まった。けれど火種は、まだ見えない場所で息をしていた。――
✦『ゾンビ・デフレ』
✲経済の避難訓練
――暴落は止まった。
けれど火種は、
まだ見えない場所で
息をしていた。――
………
【投稿時の一行あらすじ】
暴落した株価が戻った。
テレビは言った。
「最悪期は過ぎました」
けれど、
六十七歳のおじいちゃんだけは、
首を横に振った。
「本当に怖いのは、
暴落した日じゃない。
みんなが安心した日なんじゃ」
山火事には、
冬を越して、
雪や土の下で燃え続ける
「ゾンビ火災」がある。
もし経済にも、
物価高の下で、
静かに育つ
デフレの火種があるとしたら。
値札は上がる。
株価も上がる。
AIは商品を作り続ける。
けれど、
買える人は減っていく。
これは予言ではない。
まだ見えない火に備える、
おじいちゃんと孫の
経済避難訓練である。
………
★目次★
■第一章
安心という警報
■第二章
雪の下の火
■第三章
パン一個の真実
■第四章
AI特需という花火
■第五章
数字は踊る
■第六章
借金の王様
■第七章
戦争は商品になる
■第八章
平和には値札がない
■第九章
牛乳を一本やめた日
■第十章
上流と下流
■第十一章
五本の導火線
■第十二章
友達のお父さんの反論
■第十三章
同じ町の違う季節
■第十四章
作る力と買う力
■第十五章
春は、まだ来ていなかった
★あとがき
オスのロバと損切り
………
■第一章
安心という警報
「おじいちゃん。
株、戻ったんだって」
高校生のゆづきが、
スマホを見ながら言った。
「昨日までは、
大暴落だって騒いでいたのに。
今日はもう、
絶好の買い場だったって」
ゆづきは、
画面を指で滑らせた。
「アナリストって、
まるで講談師だね」
「講談師?」
「下がれば危機を語り、
上がれば安心を売る。
見てきたように
明日を話すけど――
結局、
どっちを信じればいいの?」
僕は、
コーヒーを一口飲んだ。
「相場が動くたびに、
予想もコロコロ変わるからな」
「でも、
株価は戻ったんでしょ?」
ゆづきは、
テレビへ目を向けた。
「だったら、
みんなが
『もう安心だ』って思うのも、
無理はないよね?」
画面の中では、
笑顔の解説者が話していた。
『市場は落ち着きを
取り戻しました』
『過度な不安は
後退しています』
『最悪期は、
過ぎたと見られます』
僕は、
リモコンでテレビを消した。
解説者の声が消え、
部屋に静けさが戻った。
「株価が戻ったことは、
悪いことではない」
「じゃあ、
よかったんでしょ?」
「株価だけを見ればな」
「どういうこと?」
「株価は戻った」
僕は、
指を一本立てた。
「じゃが、
住宅ローンは残っとる」
もう一本立てた。
「スーパーの値札も、
元へ戻っとらん」
さらに一本。
「戦争も、
会社の不安も、
終わっとらん」
ゆづきは、
僕が消したテレビの
黒い画面を見つめた。
「戻ったのは、
株価だけかもしれないんだ」
「そうじゃ」
「世の中まで、
元へ戻ったわけじゃない」
「数字が戻ったことと、
暮らしがよくなったことは、
同じではない」
窓の外では、
蝉が鳴いていた。
株価も、
為替も、
景気も知らない声で、
去年と同じように
鳴いていた。
暴落は、
誰の目にも見える。
けれど、
安心の中に残った火種は、
見えにくい。
僕には、
暴落そのものより、
その油断の方が、
少し怖かった。
………
■第二章
雪の下の火
僕は、
新聞の隅に載っていた
一枚の写真を指さした。
雪の残る森から、
細い煙が
立ち上っていた。
「これ、
山火事?」
「去年の火事じゃ」
「去年?」
「地上の炎は、
冬になって消えた」
「じゃあ、
終わったんでしょ?」
「終わったように
見えただけじゃ」
僕は、
写真の地面を指さした。
「火は、
土や泥炭の中に残り、
雪の下で
ゆっくり燃え続けることがある」
「雪があるのに?」
「春になって、
雪が解ける。
乾いた風が吹く。
枯れ草へ火が移る」
「それで、
終わったはずの火事が、
もう一度始まる?」
「そうじゃ」
ゆづきは、
写真を見つめた。
「ゾンビみたい」
「だから、
ゾンビ火災と
呼ばれることがある」
僕は、
ノートに書いた。
『消えたのではない。
見えなくなっただけ。』
「経済にも、
同じような火が
あるんじゃないかと思う」
「ゾンビ経済?」
「いや」
僕は、
その下へ書き足した。
『ゾンビ・デフレ』
「デフレって、
物の値段が下がることでしょ?
今は何でも高いよ」
「だからこそ、
地面の下を見るんじゃ」
ゆづきは、
首をかしげた。
その顔が、
僕にはうれしかった。
すぐに納得する人より、
首をかしげる人の方が、
火種を見つけることがある。
………
■第三章
パン一個の真実
翌朝。
テレビには、
さらに上昇する
株価のグラフが映っていた。
『投資家心理が
改善しています』
『本日も高値を
更新しました』
ゆづきが言った。
「これは、
いいニュースでしょ?」
「いいニュースかもしれんな」
「また、
かもしれない?」
僕は、
食卓にあった
百円のパンを持ち上げた。
「このパンが、
千円になったとする」
「千円?」
「百円なら、
十人が買う」
僕は、
指を十本広げた。
「千円になったら?」
「一人しか
買わないかも」
「そうじゃ」
僕は、
パンの値札を指さした。
「値札だけを見れば、
百円から千円へ上がった」
「インフレだね」
「じゃが、
買う人は、
十人から一人へ減っとる」
「みんな、
買えなくなってる」
「そこに、
デフレの種がある」
ゆづきは、
首をかしげた。
「でも、
まだ値段は
下がってないよ」
「売れ残れば、
店はどうする?」
「値下げする」
「それでも売れなければ?」
「作る数を減らす」
「作る数を減らせば?」
「働く人も、
減るかもしれない」
「仕事や給料が減れば、
ほかの物も
買えなくなる」
ゆづきは、
パンを見つめた。
「最初は、
値上がりだったのに」
「高くしすぎて、
買える人が減ると、
次は値下げの力が
強くなるんじゃ」
僕は、
パンを二つに割った。
「こっちは、
太っていく値札」
片方を、
ゆづきの前へ置いた。
「こっちは、
痩せていくお客さん」
もう片方を、
僕の前へ置いた。
「同じパンの周りで、
インフレと、
デフレの種が
同時に育つことがある」
「それが、
ゾンビデフレ?」
「まだ、
ゾンビの指先くらいじゃ」
ゆづきは、
パンを一口食べた。
「百円のままの方が、
おいしいね」
「千円なら、
パンではなく、
記念品じゃ」
二人で笑った。
けれど、
テレビの中では、
『今日も高値更新です』
という声が、
何度も繰り返されていた。
僕には、
上へ伸びる株価の線の下で、
買える人の数だけが、
静かに減っているように見えた。
………
■第四章
AI特需という花火
その日の夜。
ニュースは、
巨大なデータセンターを
映していた。
広い建物。
青く光る機械。
太い送電線。
『AI関連投資は、
史上最大規模へ』
『新しい産業革命が
始まっています』
ゆづきの目が輝いた。
「AIがあれば、
何でも作れるようになるんでしょ?」
「作れるじゃろうな」
「だったら、
景気もよくなるじゃん」
「最初はな」
「最初は?」
僕は、
庭のホースを指さした。
「花に水をやれば、
花は育つ」
「うん」
「じゃが、
水を止める人が
おらんかったら?」
「庭が水浸しになる」
「AIも、
同じかもしれん」
「作りすぎるってこと?」
「文章。
映像。
広告。
設計。
商品。
工場の生産」
僕は、
画面の中の
青い光を見た。
「AIは、
人間より速く、
安く、
たくさん作る」
「便利じゃない?」
「便利じゃ」
僕は、
少し間を置いた。
「けれど、
AIは供給を増やしてくれる。
じゃが、
需要まで増やしてくれる
わけではない」
「商品を作れても、
買う人は作れない?」
「そうじゃ」
「給料が増えなかったら、
買いたくても買えない」
「売れなければ、
値段を下げる。
もっと安く作る。
人を減らす」
「人を減らしたら、
買える人がまた減る」
「ぐるぐる回る」
「悪い方に?」
「悪い方にな」
画面の中では、
巨大な施設が、
未来そのもののように
光っていた。
「便利な機械が、
悪いわけではない」
僕は言った。
「じゃが、
供給ばかり増えて、
需要が育たなければ、
花火のあとに、
煙だけが残ることがある」
………
■第五章
数字は踊る
数日後。
僕とゆづきは、
スーパーへ買い物に出た。
入口には、
特売の赤い札が
並んでいた。
けれど、
買い物かごを持った人たちは、
商品を手に取っては、
値札を見て、
また棚へ戻していた。
肉を戻す人。
果物を戻す人。
お菓子を戻す親子。
レジの前では、
一人の女性が、
財布の中を
何度も確かめていた。
帰宅すると、
テレビは言った。
『株価は高値圏を維持』
『企業収益は過去最高』
『景気は緩やかに回復』
ゆづきが、
テレビの画面と、
買い物袋を
交互に見た。
「どっちが本当なの?」
「どっちも、
本当なんじゃろうな」
「そんなのおかしいよ」
「見ている場所が、
違うんじゃ」
「どういうこと?」
「株価は、
主に大きな会社の未来を見る。
企業収益は、
会社がどれだけ利益を出したかを見る」
僕は、
買い物袋を指さした。
「じゃが、
スーパーで肉を戻した人の
ため息までは、
数字に映りにくい」
ゆづきは、
冷蔵庫へ肉を入れながら言った。
「数字は踊ってる」
「うん」
「でも、
財布は座布団に座ったまま」
僕は、
思わず振り返った。
「もう一回言ってくれ」
「数字は踊る。
財布は座布団に座ったまま」
「それ、
ノートに書いてええか?」
「百円で売ってあげる」
「高いな」
「インフレだからね」
「そこは値切らせてもらう」
二人で笑った。
けれど僕は、
本当にノートへ書いた。
『数字は踊る。
財布は、
座布団に座ったまま。』
会社の利益が増えても、
暮らしている人が、
買う物を一つずつ
減らしているなら、
景気の地面は、
テレビが言うほど
温まってはいない。
………
■第六章
借金の王様
その夜。
僕は、
古い家計簿を
ゆづきに見せた。
家賃。
食費。
電気代。
住宅ローン。
赤い字で、
何度も、
『来月へ』
と書かれていた。
「昔も、
大変だったんだね」
「大変じゃった」
「でも、
今より物価は
安かったんでしょ?」
「いや。
昭和も物価は上がっとった」
「じゃあ、
今と同じ?」
「違う」
僕は、
紙に王様を描いた。
立派な冠。
長いマント。
足には、
住宅ローンと書いた鎖。
「借金の王様?」
「そうじゃ」
「絵が弱そう」
「王様の威厳を、
わしの画力に求めるな」
僕は、
王様の横に書いた。
『昭和。
長期金利が、
八パーセント近い時代もあった。』
「高いね」
「高かった。
じゃが、
経済も給料も
伸びとった」
「だから、
借金を返せたの?」
「借金は重かった。
けれど、
成長が後ろから
押してくれたんじゃ」
僕は、
その下に書いた。
『今。
ゼロ金利に慣れた社会で、
金利が上がり始めている。』
「たった少し上がっただけで?」
「長い間、
鎖が軽いと思い込んどったからな」
「だから、
五十年ローンまで組んだ?」
「今日の金利が、
未来も続くと思ってな」
僕は、
王様の鎖を黒く塗った。
「じゃが今は、
給料が少ししか増えん人も多い。
そこへ、
食費や電気代が上がる」
「さらに金利まで上がったら?」
「家計は、
動けなくなる」
「どうなるの?」
「家を売る。
株を売る。
土地を売る」
「売る人が増えたら、
値段も下がるね」
「そうじゃ。
資産が下がり、
銀行が貸さなくなり、
会社も人も、
金を使わなくなる」
僕は、
王様の足元から、
黒い煙を描いた。
「何これ?」
「ゾンビデフレの火種じゃ」
「物価は上がってるのに?」
「地上ではインフレ。
地下では、
需要が冷え始めとる」
僕は、
最後に書いた。
『歴史は、
同じ顔では戻らない。
けれど、
同じ借金と油断を連れて、
何度でも帰ってくる。』
………
■第七章
戦争は商品になる
翌朝。
ラジオは、
遠い国の戦争を
伝えていた。
ミサイル。
無人機。
軍艦。
燃料。
防空システム。
ゆづきが言った。
「戦争になると、
株が上がる会社も
あるんだね」
「ある」
「人が困ってるのに?」
「市場は、
悲しいかどうかではなく、
注文が増えるかどうかを見る」
「冷たいね」
「市場に心はない」
僕は言った。
「心を持つのは、
市場に参加する
人間の方じゃ」
僕は、
机の上のコップを
わざと倒した。
水がこぼれた。
「拭いてくれ」
「おじいちゃんが
倒したんでしょ」
「雑巾を売る店は、
もうかった」
「だからって、
水をこぼした人が
豊かになったとは
言えないよ」
「そういうことじゃ」
ゆづきは、
雑巾で机を拭いた。
「戦争は、
壊した物を直す仕事を
増やすんだ」
「じゃが、
壊さなければ、
最初から必要なかった仕事もある」
「売上は増えても、
暮らしは貧しくなる」
僕は、
黙ってうなずいた。
数字の上では、
戦争が景気を押し上げることがある。
けれど、
数字の外では、
家も、
学校も、
時間も、
人の心も壊れていく。
………
■第八章
平和には値札がない
机を拭き終えたゆづきが、
雑巾を絞りながら聞いた。
「じゃあ、
平和には、
いくらの値段が付くの?」
「付かん」
「ゼロ円?」
「値札がないんじゃ」
「どうして?」
「橋が壊れれば、
工事の請求書が出る」
「うん」
「じゃが、
橋が壊れずに済んだことには、
請求書が出ん」
「人が逃げなくて済むのに?」
「数字にならん」
「学校へ普通に行けるのに?」
「ニュースにもなりにくい」
ゆづきは、
少し怒ったように言った。
「じゃあ、
平和って、
もうからないじゃん」
「市場の値札だけで見ればな」
僕は、
新しい紙に書いた。
『戦争は商品になる。
平和は空気になる。』
「空気?」
「なくなるまで、
誰も値段を考えん」
ゆづきは、
窓を開けた。
夏の風が、
部屋へ入ってきた。
その風は、
誰にも請求書を
渡さなかった。
………
■第九章
牛乳を一本やめた日
「でも、おじいちゃん」
ゆづきが言った。
「今は物価が高いんだから、
デフレじゃないよね?」
「今すぐ、
デフレだとは言っとらん」
「じゃあ、
何を心配してるの?」
僕は、
冷蔵庫を開けた。
昨日買った肉は、
半分だけ使われ、
残りは冷凍されていた。
「値段が高くなると、
人は最初に何をする?」
「我慢する」
「外食を減らす」
「服を買わない」
「車を長く使う」
「スマホも、
買い替えない」
僕は、
一つずつ指を折った。
「デフレは、
値札が下がった日に、
突然生まれるわけではない」
「その前から?」
「買うのをやめた時から、
デフレの火種が
静かに生まれる」
「でも、
店は値上げしてるよ」
「原料や電気代が
高いからな」
「店は高く売りたい。
客は買う量を減らす」
「両方苦しいんだ」
「店は売れん。
客は買えん」
僕は、
空になりかけた
牛乳パックを持ち上げた。
「人は、
値札が下がった時に、
初めてデフレに気づく」
「本当は?」
「牛乳を、
一本買わなくなった時から、
火種は生まれとるかもしれん」
………
■第十章
上流と下流
僕は、
赤鉛筆で、
一本の川を描いた。
川の上流には、
原油。
小麦。
銅。
砂糖。
そして、
『世界の商品価格』
と書いた。
「二〇二二年ごろの高値から、
今はかなり下がっとる」
「でも、
スーパーの値段は、
上がり続けてるよ」
「そこが、
今の経済の
不思議なところじゃ」
僕は、
川の下流に、
スーパーを描いた。
パン。
肉。
牛乳。
電気代。
ガソリン代。
その横へ、
上向きの矢印を描いた。
「上流の原材料価格は、
下がってきた」
「デフレの方向」
「じゃが、
下流の消費者物価は、
まだ上がっとる」
「こっちは、
インフレの方向」
僕は、
二つの矢印を指さした。
上流は下へ。
下流は上へ。
「材料が安くなったなら、
商品も安くなりそうなのに」
「円安。
電気代。
運送代。
人件費。
一度上げた販売価格」
「そういうものが、
下流の値札に残ってる?」
「そうじゃ」
「上流は冷えてるのに、
下流だけ熱いんだ」
「しかも、
高い値段に耐えられない人は、
買う量を減らす」
「店の売上が落ちる」
「会社は作る量を減らす」
「給料も上がりにくくなる」
「最後は、
下流の値段も
下がり始める?」
「その時、
上流で先に冷えていたものが、
暮らしの場所まで流れてくる」
僕は、
川の底から、
白い顔を描いた。
「何、それ?」
「ゾンビデフレじゃ」
「もう目を覚ましてるの?」
「火種ならな」
僕は、
紙の隅に書いた。
『上流は冷え、
下流だけが熱を持つ。
その間で、
需要は静かに弱っていく。』
………
■第十一章
五本の導火線
僕は、
大きな紙を
床へ広げた。
中心に、
『ゾンビ・デフレ』
と書いた。
その周りへ、
五本の線を伸ばした。
一つ目。
人口減少。
『買う人が減る』
二つ目。
家計疲労。
『買う量が減る』
三つ目。
AIと機械。
『作る量が増える』
四つ目。
富の集中。
『お金が一部へ集まり、
買う力が広がらない』
五つ目。
借金と金利。
『未来に使えるお金が減る』
ゆづきは、
紙の上に座り込んだ。
「全部、
つながってるの?」
「つながるかもしれん」
「また、
かもしれない」
「経済で一番大事な言葉じゃ」
ゆづきは、
紙を読み上げた。
「買う人は減る。
買う量も減る。
でも、
作る量は増える」
「そうなると?」
「商品が余る」
「余れば?」
「値段を下げる」
「会社は?」
「人を減らす」
「人が減れば?」
「もっと買えなくなる」
ゆづきは、
紙の中心を見つめた。
「これが、
地下の火?」
「五本の導火線じゃ」
「まだ、
火は見えてない」
「見えんから、
怖いんじゃ」
僕は、
紙の下に書いた。
『地上では、
値札が熱い。
地下では、
需要が冷たい。』
………
■第十二章
友達のお父さんの反論
ゆづきは、
紙を見つめたまま、
しばらく黙っていた。
「でも、おじいちゃん」
「何じゃ?」
「友達のお父さん、
ボーナスが増えたって」
「ほう」
「新しい工場も建って、
求人も増えたって」
「うん」
「だったら、
景気はいいんじゃないの?」
僕は、
少し考えた。
「景気がいい人も、
確かにおる」
「じゃあ、
ゾンビデフレは間違い?」
「全部が間違いとは限らん」
僕は、
紙に、
大きな会社と、
小さな店を描いた。
「大きな会社は、
海外でもうけて、
給料やボーナスを
増やせることがある」
「小さな会社は?」
「材料代や電気代が上がっても、
簡単には値上げできんことがある」
「同じ会社でも、
全然違うんだ」
僕は、
大きな財布と、
小さな財布を描いた。
「給料が高い人は、
物価が上がっても、
まだ買い物ができる」
「給料が少ない人は?」
「食べ物が高くなるだけで、
服や外食を
あきらめることになる」
「住む場所でも違う?」
「東京には、
新しい会社や仕事が
集まりやすい」
「地方は?」
「店や働く場所が、
減っている町もある」
ゆづきは、
紙を見つめた。
「同じ日本なのに、
暖かい部屋と、
寒い部屋があるみたい」
「そうじゃ」
「家全体の平均気温だけ見たら、
寒がっている人が
見えなくなる」
「景気がいいという数字は、
うそではない」
僕は言った。
「じゃが、
みんなが豊かになったという
意味でもない」
「だから、
平均だけじゃなくて、
どこが暖かくて、
どこが冷たいかを見るんだね」
「その通りじゃ」
………
■第十三章
同じ町の違う季節
翌日。
僕とゆづきは、
町を歩いた。
空は青く、
風も弱かった。
駅前には、
新しいビルが建っていた。
大きな看板には、
『未来産業拠点』
と書かれていた。
作業服を着た若者たちが、
笑いながら歩いていた。
「ほら」
ゆづきが言った。
「暖かい場所」
「そうじゃな」
少し先では、
新しい飲食店に、
行列ができていた。
スマホで写真を撮る人。
家族連れ。
制服姿の高校生。
「景気、
いいじゃん」
「ここだけ見ればな」
さらに歩くと、
古い商店街に出た。
一軒の店には、
白い紙が貼られていた。
『長い間、
ありがとうございました』
隣の店も、
シャッターが下りていた。
その先のスーパーでは、
客が半額シールを待っていた。
無人レジの近くに立つ店員は、
一人だけだった。
町の外れには、
巨大な工場が建っていた。
明るい照明。
長い壁。
何台ものトラック。
けれど、
工場の向かいにあった
小さな食堂は、
閉まっていた。
入口には、
色あせたメニューが残っていた。
『日替わり定食 七百円』
椅子は、
机の上へ、
逆さに置かれていた。
ゆづきが、
ガラス越しに中を見た。
「新しい工場ができても、
全部の店が
もうかるわけじゃないんだね」
「そうじゃな」
その夜。
ニュースは、
株価の最高値を
伝えていた。
画面の下には、
求人募集の文字。
さらにその下には、
小さく、
店舗閉鎖のニュースが
流れていた。
大きな数字と、
小さな文字。
同じ画面の中で、
別々の季節が、
同時に流れていた。
僕は、
ノートに書いた。
『青空の日ほど、
影は薄くなる。』
ゆづきが、
その横へ書き足した。
『薄いから、
消えたとは限らない。』
………
■第十四章
作る力と買う力
翌朝。
ゆづきは、
昨日歩いた町のことを、
ノートにまとめていた。
新しい工場。
増えたボーナス。
行列のできる店。
閉まった商店。
半額を待つ客。
無人レジ。
「おじいちゃん」
「何じゃ?」
「私、
分かったかもしれない」
僕は、
コーヒーカップを置いた。
「聞かせてくれ」
「全部が悪いわけじゃない」
「うん」
「新しい工場もできる。
給料が増える人もいる。
伸びる会社もある」
「そうじゃ」
「でも、
その暖かさが、
町全体へ広がるとは限らない」
ゆづきは、
ノートの中央に、
大きな矢印を描いた。
『作る力は強くなる』
その下に、
反対向きの矢印を描いた。
『買う力は弱くなる』
「物価は高い。
だから、
買う量を減らす人が出る」
「うん」
「人口も減る」
「うん」
「AIや機械は、
作る量を増やす」
「そうじゃ」
「でも、
買う人まで増えるとは限らない」
「うん」
「お金が一部に集まると、
株価は上がっても、
町の全部の店には
回ってこない」
「その通りじゃ」
「借金と金利で、
未来に使えるお金も減る」
ゆづきは、
二本の矢印を見つめた。
「作る力が強くなって、
買う力が弱くなったら?」
「物が余る」
「会社は値段を下げる」
「うん」
「利益を守るために、
人や店を減らす」
「そうじゃ」
「仕事や給料が減った人は、
もっと買わなくなる」
僕は、
黙ってうなずいた。
「地上では、
物価が上がってる」
「うん」
「でも地下では、
買う力が弱くなっている
場所がある」
「そうじゃ」
「その弱さが、
雪の下の火みたいに、
残っているかもしれない」
僕は、
ゆっくり答えた。
「それが、
わしの考える、
ゾンビ・デフレじゃ」
「でも、
絶対に来るとは限らない」
「限らん」
「暖かい場所が、
もっと広がるかもしれない」
「それが一番ええ」
「給料が増えて、
みんなが買えるように
なるかもしれない」
「そうなれば、
火種は消える」
ゆづきは、
ノートの隅に
大きく書いた。
『予言ではない。
経済の避難訓練。』
僕は、
その文字を見つめた。
「それ、
百円で売ってくれ」
「今度は千円」
「値上げが激しいな」
「私の言葉は、
インフレです」
「なら、
買うのを延期する」
「需要が減った!」
「ほら、
デフレの火種じゃ」
二人で、
大笑いした。
………
■第十五章
春は、まだ来ていなかった
夕方。
縁側に、
夏の終わりの風が
吹いていた。
ラジオは、
明るい声で言った。
『株価は回復しています』
『景気は持ち直しています』
『物価上昇は続いています』
ゆづきが、
ラジオを消した。
「結局、
景気はいいの?
悪いの?」
僕は、
庭を見た。
木の下には、
小さな芽が出ていた。
その隣には、
黒く焦げた枝が
落ちていた。
「どちらも、
同時にあるんじゃ」
「春の芽と、
火事のあとが?」
「そうじゃ」
株価は上がる。
物価も上がる。
大企業はもうかる。
新しい工場も建つ。
けれど、
その足元では、
家計が買う量を減らし、
小さな会社が苦しみ、
借金の金利が重くなり、
世界の商品価格は、
高値から下がっている。
僕は、
焦げた枝を拾った。
「見えるところでは、
インフレが続いとる」
「うん」
「見えないところでは、
デフレの火種が
残っとる」
「それが、
ゾンビデフレ?」
「そうじゃ」
「もう、
始まってるの?」
「デフレそのものが、
始まったとは言えん」
僕は、
焦げた枝を見た。
「じゃが、
火種なら、
もうある」
「どこに?」
「肉を棚へ戻した人の
手の中に」
「ほかには?」
「五十年ローンを組んだ人の
通帳の中に」
「会社では?」
「売れない商品を作り続ける
機械の横に」
僕は、
ノートの最後に書いた。
『デフレの火種は、
値下げから生まれるのではない。
高すぎて、
買えなくなった時に生まれる。』
ゆづきは、
その一行を読んだ。
「じゃあ、
株が戻ったからって、
春が来たわけじゃないんだ」
「そうじゃ」
「まだ、
雪の下に火がある」
僕は、
焦げた枝を、
芽の横へ置いた。
春は、
まだ来ていなかった。
けれど、
火種は、
見えない場所で
息をしていた。
だから僕は、
株価の上昇を
春とは呼ばない。
暮らしが楽になり、
買う人が戻り、
働く人の給料が増え、
借金に追われず、
明日の買い物を
怖がらなくなるまで。
その時が来て、
初めて、
春と呼ぶことにした。
………
★あとがき
オスのロバと損切り
ある日。
僕は、
昔の仏教説話を
ゆづきに聞かせた。
「誰もロバを見たことのない国へ、
一人の旅人が来た」
「ロバ?」
「旅人は言った。
『ロバの乳は、
とてもおいしい』とな」
「それで?」
「国の人たちは、
苦労して一頭のロバを
手に入れた」
「乳を飲むために?」
「そうじゃ。
じゃが、
誰も搾り方を知らん」
頭を触る人。
耳を引っ張る人。
足を握る人。
しっぽを持ち上げる人。
みんな真剣だった。
遊んでいる者は、
一人もいなかった。
「やがて一人が、
乳の出そうな場所をつかんで、
叫んだ」
「見つけた?」
「いや」
僕は言った。
「そのロバは、
オスじゃった」
ゆづきが笑った。
「それじゃ、
どれだけ頑張っても、
乳は出ないよ」
「そうじゃ。
頑張りが足りないんではない。
見る場所を、
間違えとるんじゃ」
僕は、
少し黙った。
「わしも、
定年の十年ほど前までは、
よく似た生き方をしとった」
「おじいちゃんも、
ロバを搾ってたの?」
「本物ではない」
「安心した」
「もっと働け。
もっと我慢しろ。
もっと自分を追い込め。
そうすれば幸せになると、
思い込んどった」
「幸せは出た?」
「疲れだけは、
よく出た」
ゆづきが笑った。
僕も笑った。
「今の経済も、
少し似とる」
株価が上がった。
だから安心。
物価が上がった。
だからデフレは終わり。
AIがたくさん作る。
だから未来は豊か。
「でも、
本当に確かめることは、
別なんだね」
「何をじゃ?」
「給料は、
物価より増えたか」
「うん」
「高くなった商品を、
買える人も増えたか」
「うん」
「作った商品を、
買う人は残っているか」
「その通りじゃ」
「そこを見ないで、
株価だけ握っても、
乳は出ない」
僕は、
思わずゆづきを見た。
「わしの説明より、
うまいな」
「百円ね」
「またか」
「おじいちゃん!」
「何じゃ!」
「結局、
株は上がるの?
下がるの?」
「分からん!」
「十五章も使って、
それか!」
「分からんことを、
分かった顔で言わん!
それが今日の結論じゃ!」
「じゃあ、
ゾンビデフレは来るの?」
「来ん方がええ!」
「予想を当てる気、
ないんか!」
「世界が無事なら、
わしの予想など、
紙くずでええ!」
「それで、
間違っとったら?」
「直す!」
「簡単に言うな!」
「間違いを抱えたまま、
持ち続ける方が危ない!」
「株みたいに言うな!」
「人生も、
損切りは早めじゃ!」
「最後まで、
証券会社が抜けとらんわ!」
おしまい




