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近未来経済パニック三部作・完結編 『五年契約の会社、一日契約の若者』 ――会社は、五年後の電気を予約した。けれど人間には、明日の椅子さえ残さなかった。――

✦近未来経済パニック三部作・完結編


『五年契約の会社、一日契約の若者』


――会社は、


 五年後の電気を予約した。


 けれど人間には、


 明日の椅子さえ


 残さなかった。――


………


★目次


■第一章

 五年先を予約した会社


■第二章

 練馬区の就職見習い


■第三章

 一日契約と五十年ローン


■第四章

 椅子と火


■第五章

 三尺の人


■第六章

 百年前の貯金通帳


■第七章

 最後の一本


■第八章

 三尺先の来週


★Z世代のあなたへ


★あとがき

 三尺の人を探してください


★ホームズとワトソン

 最後の後日談


………


■第一章

 五年先を予約した会社


瀬戸内の海から、


少し内陸へ入った田園町に、


巨大な工場が建とうとしていた。


白い壁。


窓の少ない建物。


何本もの太い配管。


夜になると、


工事現場だけが、


青白く光った。


遠くから見ると、


田んぼの真ん中へ、


未来の宇宙船が着陸したようだった。


人工知能。


半導体。


自動運転。


人型ロボット。


無人倉庫。


これからの世界を動かす部品を、


この工場で造るのだという。


駅には、


大きな広告が貼られていた。


――五年後の世界を、


 この町から変える。


高校一年生のゆづきは、


広告を見上げた。


「すごいね。


 この町にも、


 未来が来るんだ」


隣にいたのは、


六十七歳の

元証券マンのおじいちゃんだった。


おじいちゃんは、


広告よりも、


その向こうの田んぼを見ていた。


「未来なら、


 前から来とる」


「こんな大きな工場、


 今までなかったでしょ」


「建物が大きいことと、


 未来が大きいことは、


 同じとは限らん」


工場を建てる会社は、


五年分の電力を確保した。


大量の水を使う契約も結んだ。


設備の保守は二十年。


非常用発電機。


通信回線。


交換用の部品。


機械が止まらないように、


何重にも予備が用意されていた。


ところが、


求人票には、


小さな文字が書かれていた。


――契約期間、一日。


――更新の可能性あり。


ゆづきは、


スマートフォンの画面を拡大した。


「一日だけ?」


「そう書いとるな」


「会社は、


 五年先の電気を押さえたんでしょ」


「そうじゃ」


「機械には、


 二十年の計画があるんでしょ」


「そうじゃ」


「人間は?」


おじいちゃんは、


求人票を見た。


「人間だけは、


 明日にならんと分からんらしい」


広告の中では、


若い男女が笑っていた。


未来をつくる仕事。


世界へつながる職場。


地域とともに成長する会社。


けれど、


本当にそこで働く人には、


翌日の椅子さえ、


約束されていなかった。


「おじいちゃん」


「何じゃ」


「元証券マンなら、


 この会社の株を買う?」


「最初はな」


「また出た。


 おじいちゃんの『最初はな』」


「会社が困った時に、


 最初に何を切るかを見る…」


「人?」


「そこを見ずに株を買うと、


 わしみたいになる」


「何があったの?」


「企業秘密じゃ」


「もう退職してるでしょ」


「退職しても、


 損失は非公開じゃ」


「損したんだ」


おじいちゃんは、


急に田んぼを見始めた。


その求人票を、


東京・練馬区で見つめている、


四十歳の男がいた。


………


■第二章

 練馬区の就職見習い


東京都練馬区。


古いマンションの一室で、


三十八歳のさおりは、


海外ゲームのせりふを、


日本語へ翻訳していた。


画面の中では、


銀色の鎧を着た勇者が、


魔王へ剣を向けていた。


《この世界の未来は、


 私たちの手にかかっている》


さおりは、


何度も読み直した。


直訳では固い。


若い人が読んでも、


心に入る言葉にしなければならない。


しばらく考え、


こう訳した。


《この世界の明日は、


 僕たちが守る》


隣の部屋では、


四十歳の夫、ひろしが、


求人サイトを見ていた。


正式には、


就職活動中。


けれど、


短い仕事を試しながら、


自分に何ができるのかを

探している途中だった。


ひろしは、


自分の状態を、


「就職見習い中」


と呼んでいた。


「就職に、


 見習いってあるの?」


さおりが聞いた。


「僕が第一号をやってる」


「制度を勝手に作らないで」


「新しい働き方だよ」


「無職を言い換えても、


 収入は増えないよ」


「じゃあ、


 キャリア・スタンバイ中」


「余計に怪しくなった」


二人は笑った。


けれど、


生活は軽くなかった。


家計の中心は、


さおりのゲーム翻訳の収入だった。


仕事が多い月もあった。


少ない月もあった。


発売前には、


夜中まで働くこともあった。


一つの作品が終われば、


次の依頼がいつ来るか分からない。


夫婦の暮らしは、


さおりの細い綱一本で、


何とかつながっていた。


「瀬戸内の方で、


 新しい工場が人を募集してる」


ひろしが言った。


「正社員?」


「最初は研修」


「その後は?」


「契約」


「何年?」


ひろしは、


求人票を拡大した。


「一日」


さおりは、


しばらく画面を見た。


「日帰り旅行?」


「仕事だよ」


「一日ごとに、人生を更新するの?」


「更新の可能性あり」


「可能性は何パーセント?」


「書いてない」


「ゲームなら、


 確率を表示しないと怒られるよ」


「求人は、


 レアアイテムより厳しいな」


ひろしは笑った。


しかし、


すぐ真顔へ戻った。


「いつまでも、


 さおり一人に背負わせたくない」


「二人の生活でしょ」


「そうだけど」


「私が働いて、


 ひろしが次を探す。


 今はそれでいいよ」


優しい言い方だった。


だからこそ、


ひろしには苦しかった。


画面の中の勇者には、


世界を救う仕事があった。


ひろしには、


明日の仕事がなかった。


それでも翌朝、


ひろしは、


応募ボタンを押した。


………


■第三章

 一日契約と五十年ローン


ひろしは以前、


東京の物流倉庫で、


一日契約の仕事をしていた。


朝六時。


スマートフォンに、


その日の募集が届く。


応募ボタンを押す。


採用されれば働ける。


少し遅れれば、


仕事はない。


倉庫には、


新しい搬送ロボットが導入されていた。


荷物を運ぶ。


棚を探す。


個数を数える。


止まらない。


迷わない。


文句を言わない。


休憩も取らない。


現場責任者は、


機械を見ながら言った。


「早い。


 安い。


 間違えない。


 これからは、


 この三つが勝つんですよ」


ひろしは、


一日だけ使う社員証を、


機械へかざした。


社員証に、名前はなかった。


番号だけだった。


仕事が終わると、


社員証を返した。


「明日も仕事がありますか」


ひろしが尋ねた。


「明日の物量によります」


「いつ分かりますか」


「明日の朝です」


倉庫のロボットには、


五年の保守契約があった。


電池の交換時期も、


部品の在庫も決められていた。


ひろしには、


翌朝まで予定がなかった。


帰りの電車で、


住宅会社の広告が目に入った。


――五十年住宅ローン。


四十歳から五十年。


払い終える時、九十歳。


仕事は一日契約。


借金は五十年契約。


人間の収入は短くなり、


人間の支払いだけが、


長くなっていた。


その夜、


ひろしは、


さおりへ言った。


「僕、五十年ローンを組もうかな」


さおりの手が止まった。


「急にどうしたの?」


「九十歳まで働く理由ができる」


「理由より先に、体がなくなるよ」


「家だけは残る」


「支払いも残る」


「僕の生きた証しが」


「銀行に残るね」


「今日の翻訳、


 毒が強くない?」


「魔王のせりふを訳してたから」


「僕が魔王に見える?」


「家計に関しては、


 中ボスぐらい」


「まだラスボスじゃないんだ」


「そこだけ前向きなんだね」


仕事は一日。


借金は五十年。


ひろしは初めて、


東京を離れることを考えた。


………


■第四章

 椅子と火


第一部で、ゆづきは知った。


国は、働く人を呼んだ。


けれど、


住宅。


学校。


通訳。


相談員。


暮らすための椅子を、


十分には置かなかった。


今度は、


外国から来た人だけではない。


一日契約で呼ばれる、


ひろしの椅子がなかった。


第二部で、ゆづきは知った。


火は、国境を越える。


災害が起きた時、


社会を守るのは、


普段は無駄に見える予備だった。


余分な水。


待機していた人。


二本目の道路。


空いている病床。


使われていない椅子。


予備とは、ぜいたくではない。


壊れた時に、


人間へ戻るための時間だった。


ところが未来工場は、


機械の予備部品を用意しながら、


人間の余裕だけを削ろうとしていた。


一人が休めば、別の人を呼ぶ。


遅ければ、次の日は呼ばない。


教育に時間をかけず、


すぐ使える人だけを選ぶ。


「人が壊れたら?」


ゆづきが聞いた。


「次の人を呼ぶ」


「その次の人も壊れたら?」


おじいちゃんは、


遠くの工場を見た。


「いつか、


 呼べる人がおらんようになる」


しばらくして、ゆづきが言った。


「学校でね、


 友達に話してみたんだよ」


「何を?」


「人間関係にも、


 予備資金が必要だって」


「ええ話じゃ」


「みんなに引かれた」


「言い方が悪い」


「おじいちゃんの言い方だよ」


「わしなら、


 友達は分散投資せえと言う」


「もっと引かれるよ!」


「一人に全財産を預けるな」


「友情を金融商品にするな!」


笑った後、


ゆづきは、


もう一度工場を見た。


「昔のこの町には、


 人の椅子を残した会社はなかったの?」


おじいちゃんは、


少し考えた。


「おったかも…」


「誰?」


「三尺の人じゃ」


「誰、それ?」


………


■第五章

 三尺の人


夏の終わり。


ゆづきとおじいちゃんは、


自転車で瀬戸内の海へ向かった。


途中には、


長い坂道があった。


ゆづきは、


自転車を押しながら言った。


「海って、こんなに遠かった?」


「地図には、


 坂道の気持ちは書いてない」


「また人生みたいなこと言ってる」


「最初はな」


「坂道でまで、


 その言葉を使わないで」


やがて、


白い砂浜が見えた。


穏やかな波。


遠くを進む船。


家族連れ。


犬を散歩させる人。


この海岸は、


日本で最も古い

海水浴場の一つと伝えられていた。


始まりには、


一人の医師が関わっていた。


「お医者さんが、


 海水浴場を作ったの?」


「海を作ったわけじゃない」


「じゃあ、


 何を作ったの?」


「海を、


 人の健康に使うという考え方じゃ」


海は昔から、


そこにあった。


波も砂浜も、


誰かが作ったものではない。


けれど、


海を健康へ役立てるという使い道は、


誰かが始めなければ広がらない。


「同じ海なのに、


 人によって変わるんだね」


「海は変わらん」


おじいちゃんは言った。


「変わるのは、使い道じゃ」


水を、何に変えるか。


土地を、何に変えるか。


利益を、何に変えるか。


それを決めるのが、人間だった。


海から少し離れた町には、


百年以上前に造られた、


大きな病院があった。


さらに、


医師を育てる学校もあった。


百年前。


その町には、一人の実業家がいた。


工場を経営し、大きな利益を得た。


十年先が見える人だと、


周囲から言われた。


けれど、


その人が見ていた十年先は、


会社の利益だけではなかった。


働く人が病気になった時、


どこで診てもらうのか。


子どもが、


美しいものを見ずに育ったら、


どんな大人になるのか。


農業や労働の問題を、


誰も研究しなければ、


社会はどこで間違うのか。


その人は、


利益を病院へ変えた。


美術へ変えた。


研究へ変えた。


教育へ変えた。


「その人が、町を作ったんだね」


ゆづきが言った。


おじいちゃんは、首を横に振った。


「反対かもしれん」


「反対?」


「町が、


 その人を作ったんかもしれん」


海を健康へ変えた医師。


水路を直した人。


旅人へ水を渡した人。


家の前を掃く時、


隣へ三尺だけ進んだ人。


名前の残らなかった人たちが、


小さな善意を、


何十年も町へ預けてきた。


その土の中から、


自分の利益を、


町へ返す実業家が育った。


「それで、三尺の人なの?」


「わしが、そう呼んどる」


「本当の名前は?」


「まだ早い」


「もう第五章だよ」


「章数で人の名前を決めるな」


「読者も待ってるよ」


「待つことも、心の予備じゃ」


「都合よく第二部を使うな!」


三尺の人が残したものは、


百年後、


練馬区から来る夫婦を待っていた。


………


■第六章

 百年前の貯金通帳


ひろしとさおりは、


未来工場の研修説明会へ参加した。


練馬区から、


新幹線と在来線を乗り継いだ。


さおりのゲーム翻訳は、


インターネットがあれば、


東京以外でも続けられる可能性があった。


家賃は下がる…。


けれど、


新しい土地では、


生活も人間関係も、


一から作らなければならない。


説明会には、


二十代から五十代まで、


さまざまな人が集まっていた。


会社の担当者は、


未来について説明した。


世界市場。


人工知能。


成長率。


電力契約。


設備投資。


しかし、


人の契約については、


説明が短かった。


「まずは一日単位で勤務していただき、


 適性を確認します」


一人の男性が質問した。


「何日働けば、長い契約になりますか」


「勤務状況によります」


「基準はありますか」


「総合的に判断します」


「いつ判断されますか」


「個別に異なります」


会社には、五年先の計画があった。


働く人には、


何日先まで頑張ればいいのかさえ、


示されなかった。


帰り道、


ひろしとさおりは、


古い病院の中庭へ立ち寄った。


大きな窓。


木の椅子。


庭を流れる細い水。


「この病院、


 百年以上前に造られたんだって」


さおりが言った。


「工場経営者が、


 町のために造ったらしい」


近くにいたおじいちゃんが答えた。


ひろしは尋ねた。


「工場の経営者が、どうして病院を?」


「儲けた金を、


 何に変えるか考えたんじゃろう」


「普通は、次の工場へ使いませんか」


「それも必要じゃ」


「じゃあ、どうして町へ?」


おじいちゃんは、


中庭の水路を見た。


「自分が飲み切れん水を、


 下流へ流したんじゃろう」


金も水に似ていた。


一か所でせき止めれば、


そこだけは豊かになる。


しかし、


下流の田畑は乾いていく。


「僕には、


 病院を造るようなお金はありません」


ひろしが言った。


「病院を造らんでもええ」


「じゃあ、何ができますか」


「自分が持っとるものを、


 三尺だけ隣へ渡せばええ」


「三尺?」


「一メートルほどじゃ」


世界全部を救う必要はない。


町中の人を助ける必要もない。


自分の境界を、少しだけ越える。


「一メートルで、何か変わりますか」


「次の人も、


 一メートル伸ばしたらどうなる」


ひろしは、


長い病院の廊下を見た。


百年前の一メートルが、


何人もの手で延ばされ、


自分たち夫婦の所まで

来たのかもしれなかった。


「町にも、貯金があるんだね」


さおりが言った。


病院。


学校。


海岸。


道路。


水路。


相談できる人。


誰かが座るまで、


空けてある椅子。


それらは、前の世代が残した、


町の心の貯金だった。


ひろしが、小さな声で言った。


「僕の口座は、


 あまり残ってないですけど」


さおりが答えた。


「心の貯金も、


 今月は赤字じゃない?」


「君への感謝が入ってる」


「利息は?」


「毎日増えてる」


「引き出せる?」


「皿洗いで返します」


「現物支給なんだ」


ひろしの冗談は、少しだけ滑った。


けれど、さおりは笑った。


説明会を終えたひろしは、


一日契約の研修へ参加することを決めた。


その頃、


ゆづきは、


未来工場へ送る手紙を書き始めていた。


………


■第七章

 最後の一本


未来工場は、


大きな利益計画を発表した。


工場が動けば、


人が来る。


店が増える。


住宅が建つ。


土地の値段が上がる。


町は豊かになる。


そう説明された。


しかし、


古い水道管の交換は、


予算不足で延期された。


学校の相談員は増えなかった。


外国から来る家族のための通訳も、


足りなかった。


一日契約者が、


技能を学ぶ場所もなかった。


工場は、


町の水を使う。


電気を使う。


道路を使う。


病院を使う。


町で育った人を使う。


けれど、


利益の多くは、


町の外へ流れていく予定だった。


ゆづきは、会社へ提案書を書いた。


《この町は、


 百年前の人が預けたものを、


 今も使っています》


古い病院。


医師を育てる学校。


海岸。


橋。


水路。


誰かのために残された椅子。


《会社が、


 町の財産を使うことは、


 悪いことではありません》


《しかし、


 引き出すだけでは、


 いつか町の貯金はなくなります》


第二部で、


ゆづきは、


最後の一本の水について考えた。


水が残り一本になった時、


誰へ渡すのか。


最後の一本は、


その人が何を大切にしているかを、


はっきり映した。


今回の最後の一本は、


水ではなかった。


利益だった。


《五年分の電気を確保できる会社なら、


 一日契約で働く人にも、


 五年後へつながる椅子を、


 一脚だけ残せないでしょうか》


ゆづきが求めたのは、


大きな革命ではなかった。


一日契約者が相談できる窓口。


働きながら学べる教室。


移住してきた家族が、


最初の一か月を暮らせる住宅。


病院や避難所へ電気を送る、


非常用設備。


仕事を失った人が、


次を探す間だけ座れる場所。


会社の利益を、


全部渡してほしいのではない。


最後の一本だけでも、


会社の塀の外へ流してほしい。


それだけだった。


会社から、すぐに返事は来なかった。


町の人たちは、待つのをやめた。


古い病院が、


空いていた一室を提供した。


学校が、


夜間の教室を貸した。


商店が、


使わなくなった机を運んだ。


元技術者が、


機械の基礎を教えた。


外国から来た住民が、


新しく来た家族の通訳を始めた。


さおりは、


ゲーム翻訳の経験を生かし、


外国語の説明書を、


分かりやすい日本語へ直した。


ひろしは、


研修生として働き始めた。


最初の契約は、一日だった。


次は三日。


その次は一週間。


まだ、正社員ではない。


それでも、昨日までとは違っていた。


次へ進むために、  


何を覚えればよいかが、


示されていた。


一日が、


次の一日へつながっていた。


「おじいちゃん」


「何じゃ」


「これも三尺?」


「いや。


 今日は椅子一脚分じゃ」


「単位が変わった」


「三尺ばかりでは、


 肩が凝る」


「言ってるのは口でしょ」


未来工場は、


ゆづきの手紙を受け取った。


けれど、


会社が本当に動いたのかどうかは、


まだ誰にも分からなかった。


………


■第八章

 三尺先の来週


春。


田んぼに、


新しい水が入った。


未来工場は動き始めた。


古い病院も、


変わらず人を受け入れていた。


医師を育てる学校では、


新しい学生が歩いていた。


海辺では、


町の人が砂浜のごみを拾っていた。


ひろしは、


研修施設で、


自分より一週間遅れて入った若者へ、


機械の操作を教えていた。


「ここを間違えたら、


 次は呼ばれませんか」


若者が聞いた。


「僕も最初、


 同じ所を間違えました」


「でも、


 人に教えたら、


 自分の仕事を取られませんか」


東京の倉庫では、


仕事を教えない人もいた。


自分だけが知っていることを残せば、


切られにくい。


そう考えたからだった。


ひろしは、


少し考えて答えた。


「一人しかできない仕事は、


 その人が休んだら止まります」


「二人できれば?」


「仕事は続きます」


「それでいいんですか」


「たぶん、


 町って、


 そうやって続くんだと思います」


ひろしには、


病院を造るほどのお金はなかった。


美術館も造れない。


研究所も造れない。


けれど、


自分が覚えた一日分の経験を、


次の人の明日へ渡すことはできた。


おじいちゃんは、


その様子を見ながら言った。


「小さな三尺の人が、一人増えたな」


ゆづきが笑った。


「ひろしさんは、実業家じゃないよ」


「会社を持っとる人だけが、


 町を作るんじゃない」


「じゃあ、誰が作るの?」


「自分が持っとるものを、


 少し先へ渡した人じゃ」


その日の夕方。


未来工場から、


正式な発表があった。


地域の研修制度へ、会社が資金を出す。


短期住宅を増やす。


病院の非常用電源に協力する。


一日契約で働いた人にも、


技能と勤務実績が積み上がる制度をつくる。


会社全体から見れば、小さな金額だった。


利益の一部にすぎなかった。


それでも、


初めて、


会社の最後の一本が、


塀の外へ流れた。


ゆづきのスマートフォンが鳴った。


ひろしからだった。


《来週も、仕事が決まりました》


以前のひろしには、


明日の予定さえなかった。


今も、永遠の保証はない。


工場が、永久に続くわけでもない。


町が、絶対に安全なわけでもない。


人間は、未来を完全には予約できない。


けれど、


次の一歩へつながる椅子を、


置くことはできる。


第一部。


人を受け入れた町は、


暮らすための椅子を置かなかった。


第二部。


危機が来るまで、


予備を無駄だと思っていた。


第三部。


会社は五年先を予約し、


人間を一日で返そうとした。


三つの物語は、


同じ場所へ戻ってきた。


人が必要なのは、 


永遠の保証ではなかった。


失敗した時に、


もう一度座れる椅子。


火が来た時に、


次へ渡れる予備。


自分の分を使った後、


少し先へ流す水。


百年以上前。


町は、


一人の大きな三尺の人を生んだ。


その人は、


得たものを町へ返した。


返された病院や学校が、


次の人を育てた。


そして今、


一日契約だった四十歳の男が、


自分の一日分の経験を、


次の若者へ渡した。


人が町を作り、町が人を作る。


その人がまた、町へ何かを預ける。


それが、


町の運気なのかもしれなかった。


目には見えない。


株価にも映らない。


観光案内にも、


すべては書かれていない。


けれど、


古い病院の窓。


海辺の砂浜。


田んぼを流れる水路。


誰かのために空けられた椅子。


そこには、


確かに残っていた。


ゆづきは、最後に尋ねた。


「ねえ。


 三尺の人の名前、


 結局教えてくれないの?」


おじいちゃんは、


少し笑った。


「名前より先に、


 覚えてほしいことがある」


「何?」


「何を持っとったかではなく、


 何に変えたかじゃ」


「それを覚えたら?」


「自分で探してみい」


「検索させる気だ」


「今の若者は、検索が得意じゃろう」


「おじいちゃん、最後まで横着したね」


「答えを全部言わんことも、


 教育の予備じゃ」


「そんな予備はいらない!」


会社は、


空いた椅子を損失と呼んだ。


この町は、


その椅子を、


次の人の未来と呼んだ。


………


★Z世代のあなたへ


これから、


働く場所や暮らす町を選ぶ時、


給料だけを見ないでください。


家賃だけでもありません。


大企業があるか。


新しい工場が来るか。


地価が上がるか。


それだけでもありません。


その町が、


これまで得たものを、


何に変えてきたかを見てください。


利益を、病院へ変えたのか。


学校へ変えたのか。


困った時に座れる椅子へ変えたのか。


町の運気とは、


空から降ってくる幸運ではありません。


前の人が残した一メートルを、


次の人が、


もう一メートル伸ばす。


それが何十年も続き、


まだ生まれていない人の選択肢まで、


少しずつ増えている状態。


それが、


町の運気なのかもしれません。


現代の社会は、速くなりました。


安くなりました。


間違いも減りました。


けれど、人間は間違えます。


遅れる日もあります。


一度では覚えられないこともあります。


失敗した人を、


その日のうちに交換する社会では、


いつか、


誰も安心して挑戦できなくなります。


利益は悪ではありません。


成功も悪ではありません。


問題は、得たものを何に変えるかです。


利益を、株価だけに変えるのか。


それとも、


次の人が座れる椅子へ変えるのか。


未来を見るとは、


未来を当てることではありません。


今あるものを、


何に変えるか決めることです。


………


★あとがき

 三尺の人を探してください★


この物語に登場する、


「三尺の人」には、


モデルがいます。


瀬戸内のある町で、


工場から得た利益を、


病院。


美術。


研究。


教育へ変えた実業家です。


この物語では、


あえて名前を書きませんでした。


名前を覚えるより先に、


その人が、


何を何へ変えたのかを、


考えてほしかったからです。


手がかりは、


古い病院。


美術館。


海辺。


そして、


十年先を見る力です。


興味を持った人は、


探してみてください。


一人の実業家だけでなく、


その人を生んだ町の流れまで、


見えてくるかもしれません。


………


★ホームズとワトソン

 最後の後日談★


日曜日の午後。


ゆづきが冷蔵庫を開けた。


「ホームズ先生」


「何じゃ、ワトソン君」


「事件です」


「未来工場で事故か」


「プリンです」


「国際価格が上がったか」


「一個減ってます」


おじいちゃんは、


静かに新聞を広げた。


「会社は、


 五年先のプリンを予約した」


「冷蔵庫には、


 昨日買った三個しかなかったよ」


「一日契約で食べた」


「都合のいい時だけ、


 ひろしさんになるな」


おじいちゃんの口元には、


少しだけカラメルがついていた。


「証拠があるね」


「情報戦じゃ」


「顔に残ってます」


「人工知能が作った映像かもしれん」


「口から、プリンの匂いがしてます」


しばらくして、


おじいちゃんが言った。


「明日、三個買う」


「私とおじいちゃんと、


 もう一個は?」


「次に来る人の分じゃ」


「誰が来るの?」


「まだ分からん」


「分からない人のために買うの?」


「空いた椅子と同じじゃ」


ゆづきは笑った。


「おじいちゃんが、


 夜中に食べるんじゃないの?」


「それは、


 現在を大切にした場合じゃ」


「思想が、


 冷蔵庫から三尺も出てない!」


二人の笑い声が、


古い家に響いた。


食卓には、


一脚の空いた椅子があった。


けれど、


もう誰も、


その椅子を無駄とは呼ばなかった。


まだ会ったことのない、


次の人のために、


空けてある椅子だった。

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