近未来経済パニック三部作 『帰る国のない経済』 第二部 ✦『旅券を持たない火』 ――鳥は、 国境を知らなかった。 ウイルスも、船も、無人機も、値札だけを連れてきた。――
✦近未来経済パニック三部作
『帰る国のない経済』
第二部
✦『旅券を持たない火』
――鳥は、
国境を知らなかった。
ウイルスも、
船も、
無人機も、
値札だけを連れてきた。――
………
「まず、
何が止まるかを見よう」
昨夜、
おじいちゃんは
そう言った。
翌朝。
最初に止まりかけていたのは、
飼料を積んだ船だった。
そして、
テレビから流れてきたニュースは、
南半球の海岸で見つかった
三十三羽の海鳥のニュースだった。
「おじいちゃん。
鳥インフルエンザって、
鳥が風邪をひく話でしょ?」
「最初はな」
「最初は?」
「鳥が一羽倒れただけなら、
小さなニュースに見える」
「違うの?」
おじいちゃんは、
食卓へ卵を一個置いた。
「この卵が、
スーパーへ来るまでに、
いくつの国を通っとると思う?」
「卵は日本で産まれたんじゃないの?」
「鶏は日本におる。
じゃが、
餌はどうじゃ」
トウモロコシ。
大豆かす。
燃料。
肥料。
包装資材。
冷蔵倉庫。
貨物船。
港。
保険。
電気。
ゆづきは、
卵の周りに並べられた紙を見た。
「卵一個なのに、
世界中がつながってる」
「その線を、
鳥と病原体と無人機が、
同時に横切り始めた」
テレビから、
南半球のニュースが流れた。
野鳥から、
高病原性鳥インフルエンザが
確認されたという。
まだ、
養鶏場への侵入は
確認されていない。
人への危険も、
現時点では低いとされている。
小さなニュースだった。
けれど、
元証券マンのおじいちゃんが
見ていたのは、
倒れた鳥の数ではなかった。
次に止まるもの。
次に不足するもの。
次に値段が上がるもの。
そして、
誰も感染していないのに、
先に壊れ始める経済だった。
………
★目次
■第一章
三十三羽目の海鳥
■第二章
鶏舎の屋根を閉める日
■第三章
卵の中にある八十七袋
■第四章
一隻遅れて、三百台止まる
■第五章
港へ飛んできた無人機
■第六章
国会を通らない関税
■第七章
動かない船に増える命
■第八章
四十二度の冷蔵庫
■第九章
三十八%の食料防衛線
■第十章
火は旅券を持たない
………
■第一章
三十三羽目の海鳥
二〇二六年七月三十一日。
午前八時四十五分。
西日本の田園町にある
古い家の台所で、
海外ニュースが流れていた。
画面に映っていたのは、
オーストラリアの海岸だった。
白い波。
黒い岩場。
防護服を着た職員。
砂浜には、
一羽の海鳥が
横たわっていた。
「また鳥インフルエンザ?」
高校一年生のゆづきが尋ねた。
「そうらしい」
南極や亜南極の海域から
移動してきた野鳥によって、
H5型のウイルスが
運ばれた可能性があるという。
確認された野鳥は、
三十三羽。
五つの地域へ
点が広がっていた。
「三十三羽だけ?」
「今、
見つかった数はな」
「オーストラリアって、
もっと鳥が多いでしょ」
「多い」
「じゃあ、
そんなに大きな話じゃないよね」
おじいちゃんは、
画面の地図を指した。
三十三羽。
数だけを見れば、
高校の一クラスにも満たない。
けれど、
その三十三羽は、
一つの浜辺に
並んでいたのではない。
離れた海岸。
別の州。
さらに別の島。
点だった印が、
海岸線に沿って
少しずつ増えていた。
「少ないのに、
広いね」
「そこを見るんじゃ」
「三十三という数より?」
「どこで見つかったかじゃ」
鳥は、
道路を走らない。
料金所も通らない。
空港の検疫も受けない。
国籍も申告しない。
数千キロを移動する。
途中で島へ降りる。
港へ降りる。
養鶏場の近くにある
池や水田へ降りる。
「まだ養鶏場では、
見つかってないんでしょ?」
「そこが、
今日の安心材料じゃ」
「じゃあ大丈夫?」
「今日の安心と、
来月の安全は同じではない」
おじいちゃんは、
紙に三つの言葉を書いた。
野鳥。
飼育鳥。
食料価格。
「この三つがつながった時、
ニュースの場所が変わる」
「海岸からスーパーへ?」
「そうじゃ」
テレビでは、
住民に対して、
弱った鳥へ触れないこと、
見つけた場合は通報することが
呼びかけられていた。
ゆづきは、
冷蔵庫を開けた。
卵が、
九個入っていた。
海の向こうの三十三羽と、
冷蔵庫の九個は、
まだ何もつながっていなかった。
養鶏場での確認は、
まだゼロ。
だからこそ、
ニュースは小さかった。
けれど、
小さいことと、
遠いことは、
同じではなかった。
少ないのに、
広かった。
鳥には見えない線が、
少しずつ
食卓へ近づいていた。
………
■第二章
鶏舎の屋根を閉める日
鳥インフルエンザの侵入を防ぐため、
養鶏場では、
鶏を屋外へ出さず、
建物の中で飼う措置が
取られることがある。
「鳥を外へ出さなければ、
解決じゃないの?」
「感染の危険は、
減らせるかもしれん」
「じゃあ、
すぐやればいいじゃん」
おじいちゃんは、
庭へ出た。
夏の朝なのに、
すでに空気は重かった。
「締め切った鶏舎の中は、
どうなると思う?」
「暑くなる」
「換気扇を回す」
「電気を使う」
「餌と水を、
全部中へ運ぶ」
「人手もいる」
鶏舎を閉めれば、
外から入る野鳥との接触は減る。
その一方で、
換気。
冷房。
給水。
清掃。
消毒。
作業量と電気代が増える。
おじいちゃんは、
紙へ大きく数字を書いた。
六割から七割。
「何の数字?」
「鶏や豚を育てる費用のうち、
餌が占める割合じゃ」
「半分より多いの?」
「経営によって違いはある。
じゃが、
餌代が生産費の大部分を占める」
「じゃあ、
餌が少し上がるだけでも?」
「農家にとっては、
小さな話ではない」
餌が一割上がる。
電気代も上がる。
消毒費も上がる。
人件費も上がる。
包装資材も上がる。
それでも、
スーパーは、
急には値上げできない。
「農家が全部かぶるの?」
「最初は、
そうなることもある」
「また最初は、だ」
「値段を上げれば、
客が離れる。
上げなければ、
農家が耐えられん」
「どっちも苦しいね」
「安い卵は、
安いまま守れるとは限らん」
放し飼いを表示していた卵は、
鶏を屋内へ入れれば、
表示の扱いを
考え直す必要も出てくる。
病気が入っていなくても、
対策費がかかる。
何も起きていなくても、
屋根を閉める。
網を張る。
車を洗う。
靴を消毒する。
「第一部の国境と同じだね」
「人間の国境には、
警察と監視カメラを置く」
「鶏舎の国境には?」
「網と屋根と消毒設備じゃ」
どちらも、
越えてくるものを止めるために、
金がかかる。
「何も起きてないのに?」
「何も起こさないために、
払う金がある」
その日の午後。
気温は、
四十度近くまで上がった。
町外れの養鶏場では、
大型の換気扇が
一斉に回り始めた。
鳥を守るために、
屋根を閉めた。
閉めた屋根の下で、
今度は暑さとの戦いが始まった。
何も起こさないためにも、
金がかかった。
………
■第三章
卵の中にある八十七袋
「この卵、
日本で産まれたんでしょ」
「そうじゃ」
「だったら、
外国の船が止まっても
関係ないんじゃない?」
ゆづきは、
卵を持ち上げた。
おじいちゃんは、
百個の小さな四角を
紙に書いた。
そのうち、
十三個を丸で囲んだ。
「何これ?」
「日本の濃厚飼料の自給率を、
百袋に置き換えた」
「濃厚飼料?」
「トウモロコシや大豆かすのような、
鶏や豚を育てるための
栄養価の高い餌じゃ」
「日本で作れるのは?」
「およそ十三袋」
ゆづきは、
残った八十七個の四角を見た。
「じゃあ、
八十七袋は?」
「海の向こうに頼っとる」
「ほとんど外国じゃん」
「国産の卵と、
国内だけで作った卵は、
同じ意味ではないんじゃ」
外国の畑で、
トウモロコシが育つ。
港へ運ぶ。
飼料船へ積む。
海を渡る。
日本の港で降ろす。
飼料工場で配合する。
トラックで養鶏場へ運ぶ。
鶏が食べる。
卵を産む。
卵を洗う。
選別する。
箱へ入れる。
冷蔵車で運ぶ。
店へ並べる。
「卵一個に、
こんなに人がいるの?」
「人だけではない」
港湾クレーン。
穀物サイロ。
飼料工場。
大型トラック。
冷蔵庫。
段ボール。
プラスチック容器。
電力。
通信。
「一か所止まったら?」
「すぐには止まらん。
在庫があるからな」
「じゃあ安心」
「何日分あるかによる」
三日。
一週間。
一か月。
会社や商品によって、
持っている余裕は違う。
平常時、
在庫は少ない方が効率的だ。
倉庫代がかからない。
古くならない。
資金が寝ない。
「在庫を持たない方が、
会社は儲かるんだね」
「平常時にはな」
「また最初は」
「効率を上げるほど、
一本の船が遅れた時の影響は
大きくなることがある」
ゆづきは、
十三個の丸と、
残された八十七個を見た。
海が静かであること。
港が開いていること。
船が予定通り来ること。
それらを前提に、
日本の卵は、
毎日同じ場所へ並んでいた。
殻を割っても、
外国の畑は見えない。
だが、
国産の卵の中には、
海の向こうの
八十七袋が入っていた。
………
■第四章
一隻遅れて、三百台止まる
港に着く予定だった
飼料船が一日遅れた。
それだけなら、
ニュースにはならない。
海が荒れた。
港が混んだ。
検査が長引いた。
別の船の荷下ろしが遅れた。
「一日くらい、
待てばいいじゃん」
「船だけならな」
接岸場所が空かない。
次の船が沖で待つ。
港湾作業員の予定がずれる。
トラックの予約がずれる。
飼料工場の製造計画がずれる。
養鶏場の在庫が減る。
「一隻が遅れただけなのに?」
「港は、
一隻ずつ独立して
動いとらん」
おじいちゃんは、
電卓を出した。
「仮に、
一日に千トン使う工場があるとする」
「千トン?」
「仮の計算じゃ」
「三日止まったら?」
ゆづきは、
電卓を押した。
三千トン。
「十トントラックなら?」
三百台。
「三百台……」
ゆづきは、
港から養鶏場まで、
大型トラックが列を作る光景を
想像した。
「一日遅れた船が、
三百台分の穴になることもあるんだ」
「使う量によって違う。
じゃが、
遅れは日数だけでは測れん」
一日遅れた船が、
次の船を半日遅らせる。
その船が、
さらに次の船を遅らせる。
港の外には、
荷物を積んだ船が並び始める。
「電車の遅れみたい」
「似とる。
じゃが、
船は積んどる量が大きい」
到着が遅れても、
すぐに店の棚は空にならない。
最初に変化するのは、
企業同士の取引価格だった。
早く必要な会社が、
高い値段を出す。
別の港から運ぶ。
トラックを追加する。
在庫を持つ会社から買う。
「スーパーの値段が上がる前に、
会社の中で値段が上がるんだ」
「そうじゃ」
「株価は?」
「市場が気づけば動く」
「気づかなかったら?」
「決算が出てから驚く」
元証券マンのおじいちゃんは、
港の混雑を示す画面を見た。
株価には、
まだ大きな変化はなかった。
テレビでも、
船の遅れは
小さくしか報じられていない。
けれど、
港の沖には、
予定になかった船の列が
一本増えていた。
一隻の遅れは、
一隻では終わらなかった。
………
■第五章
港へ飛んできた無人機
次の朝。
海外ニュースの画面に、
黒い煙が映った。
エジプトの港で、
ガスを扱う船が損傷した。
原因は、
所属不明の無人機とみられていた。
現場は、
スエズ運河に近い。
中東の石油やガスを運ぶ船にとって、
重要な航路だった。
「無人機一機で、
港が止まるの?」
「港全体が止まったとは限らん」
「じゃあ、
そんなに大変じゃない?」
「船会社が、
次も飛んでくると思ったら
どうする」
航路を変える。
危険な港を避ける。
警備を増やす。
乗組員への危険手当を増やす。
保険会社へ連絡する。
荷主と追加費用を交渉する。
「攻撃されなくても、
怖いだけでお金がかかるんだ」
「経済は、
実際の損害だけでは動かん」
「不安でも動く?」
「不安の値段が、
運賃と保険料に変わる」
スエズ運河を通らず、
アフリカ南端を回る。
船や港によって違うが、
一週間前後、
場合によっては、
それ以上遅れることもある。
「一週間なら、
七日分の燃料と給料?」
「それだけではない」
「まだあるの?」
「七日間、
その船を次の仕事に使えん」
「同じ船なのに、
運べる回数が減るんだ」
「そうじゃ」
世界にある船の数が、
急に減ったわけではない。
一回の航海が長くなり、
船が戻ってこない。
その結果、
使える船が少なく見える。
運賃が上がる。
「無人機一機が、
船を何十隻も
消したみたいになるんだ」
「時間を奪うからな」
テレビには、
損傷した船の近くで
消火活動を続ける人々が
映っていた。
火は、
小さくなっていた。
けれど、
航海日数。
運賃。
保険料。
危険手当。
燃料費。
その中では、
別の火が燃え始めていた。
無人機が壊したのは、
船体だけではなかった。
世界の物流から、
時間を奪った。
………
■第六章
国会を通らない関税
「海上保険って、
船が壊れた時に
お金を払ってくれるんでしょ?」
「それだけではないが、
大まかにはそうじゃ」
「じゃあ、
保険会社が損するだけ?」
おじいちゃんは、
首を振った。
危険な海域を通る船には、
追加の保険料がかかることがある。
戦争。
無人機。
ミサイル。
機雷。
海賊。
港の治安。
危険度が上がれば、
保険料も上がる。
「そのお金は、
船会社が払うの?」
「最初はな」
「また最初は」
おじいちゃんは、
紙へ六つの名前を書いた。
船会社。
荷主。
飼料工場。
養鶏場。
卸売会社。
スーパー。
「六つもある」
「全部が同じ割合で
上げるわけではない」
「でも、
一か所だけで止まらない?」
「そうじゃ」
船会社は、
運賃へ上乗せする。
荷主は、
仕入れ価格へ上乗せする。
工場は、
製造費へ上乗せする。
卸売会社は、
配送費へ上乗せする。
スーパーは、
販売価格へ上乗せする。
最後に、
消費者が払う。
「海上保険なのに、
私が買う卵へ入るの?」
「少しずつな」
「税金みたい」
「港も国会も通らん、
見えない関税じゃ」
その日の夕方。
ゆづきは、
おじいちゃんと
スーパーへ行った。
卵売場には、
昨日までと同じ商品が
並んでいた。
同じ鶏。
同じ十個入り。
同じ白い容器。
けれど、
値札の上には、
新しい値札が
重ねられていた。
値上げは、
わずか十数円だった。
「これだけ?」
ゆづきが言った。
おじいちゃんは、
新しい値札の下に隠れた
古い数字を見た。
「最初はな」
「また最初は、なの?」
「ニュースが、
値札へ着いたんじゃ」
「無人機が?」
「無人機そのものは、
ここまで飛んできとらん」
「じゃあ何が?」
「不安じゃ」
海の向こうの無人機は、
瀬戸内のスーパーまで
飛んできてはいなかった。
けれど、
その不安だけは、
卵売場へ先に到着していた。
国会で審議されていない。
選挙で決めてもいない。
それでも、
家計から支払われる。
海上保険は、
国会を通らない関税になった。
………
■第七章
動かない船に増える命
中東の海域では、
多数の商船が
長期間動けない状態になっていた。
「船が動かないなら、
燃料を使わなくていいね」
ゆづきが言った。
「それだけならな」
船は、
海の上へ浮かんでいるだけでも、
少しずつ変化する。
船底へ、
藻が付く。
フジツボが付く。
小さな貝や生物が付く。
バラスト水の中には、
別の海域の微生物や
幼生が入っていることがある。
「船が水族館みたいになるの?」
「小さな生態系を
運ぶことがある」
長く止まった船が、
再び世界各地の港へ向かう。
船底に付いた生物も移動する。
別の海へ入る。
そこで増える。
「外来生物?」
「そうなる可能性がある」
漁業へ影響する。
養殖場へ入り込む。
港の設備へ付着する。
取水口を詰まらせる。
病原体を運ぶ可能性もある。
「船が止まってる間に、
荷物じゃないものが増えるんだ」
「人間が積んでいない荷物じゃ」
出港前に、
船底を検査する。
清掃する。
バラスト水を管理する。
港で監視する。
すべてに、
時間と費用がかかる。
「急いで動かしたいのに、
検査しないと危ない」
「検査すれば、
さらに遅れる」
「どっちにしても止まるね」
おじいちゃんは、
紙へ書いた。
戦争による停止。
再出港前の検査。
港での混雑。
生態系への被害。
漁業価格への影響。
「戦争が終わっても、
船が動けば終わりじゃないんだ」
「止まっていた時間が、
別の危機を育てることがある」
空では、
渡り鳥が病原体を運ぶ。
海では、
止まった船が生き物を運ぶ。
どちらも、
人間が注文していない荷物だった。
海の上では、
船の列が静かに揺れていた。
目に見える炎はなかった。
けれど、
船底では、
次の侵入者が育っていた。
止まっていた時間が、
次の危機を育てていた。
………
■第八章
四十二度の冷蔵庫
その週。
町の最高気温は、
四十二度に近づいた。
スーパーの入口から、
冷たい空気が漏れていた。
冷凍食品売場。
精肉売場。
牛乳。
卵。
弁当。
店の中では、
大型の冷蔵設備が
休まず動いていた。
「暑い時ほど、
食べ物を冷やさないといけないね」
「じゃが、
暑い時ほど電気を使う」
おじいちゃんは、
家庭の電力使用を示した
資料を見せた。
エアコン。
冷蔵庫。
照明。
「夏の家庭では、
この三つだけで、
使う電気の半分以上になることがある」
「止めにくいものばかりだね」
「暑い日に節電しようとすると、
必要な電気から削ることになる」
家庭のエアコン。
工場の冷却設備。
鶏舎の換気扇。
冷蔵倉庫。
冷凍トラック。
港の冷凍コンテナ。
病院。
すべてが、
同じ時間帯に
電気を必要とする。
「電気が足りなくなったら?」
「どこかが、
使用を減らす」
「家のエアコンは止められないよ」
「病院も止めにくい」
「鶏舎も止めたら危ない」
「冷蔵倉庫もな」
止められない設備ばかりだった。
午後三時十二分。
電力会社から、
大口利用者へ、
電力使用量を減らすよう
通知が出た。
冷蔵倉庫。
食品工場。
養鶏場。
病院。
それぞれの管理者が、
同じ画面を見た。
そして、
ほとんど同じ返事をした。
――止められません。
食べ物を守る設備。
体を守る設備。
暑さから人を守る設備。
止められない設備ばかりが、
一斉に節電を求められていた。
「じゃあ、
どうするの?」
「非常用発電機を動かす」
「燃料を使う?」
「そうじゃ」
「でも、
その燃料も船で来るんでしょ?」
「そうじゃ」
港の混乱で、
燃料が高くなる。
燃料価格が上がり、
発電費が上がる。
冷蔵費が上がる。
食品価格が上がる。
「全部つながって戻ってきた」
「経済の危機は、
輪になることがある」
猛暑で電力需要が増える。
燃料輸送が不安定になる。
発電費が上がる。
冷蔵費が上がる。
食品価格が上がる。
高いから、
家庭が冷房を控える。
体調を崩す人が増える。
病院の負担が増える。
病院も、
さらに電気を使う。
「節約したら、
別のところでお金がかかるんだ」
「安く済ませたつもりが、
後から高い請求書になる」
前年の夏には、
電気とガスの料金を支えるため、
国が二千八百億円を超える規模の
対策を用意した。
「暑さだけで、
そんなにお金が動くの?」
「暑さは、
もう天気だけの話ではない」
同じ時間。
町外れの養鶏場では、
鶏舎の温度を下げるため、
換気扇が最大出力で回っていた。
冷蔵庫も。
病院も。
工場も。
家庭も。
誰も、
止めることができなかった。
四十二度の町で、
止められない設備ばかりが、
節電を求められていた。
………
■第九章
三十八%の食料防衛線
おじいちゃんは、
紙の上に、
二〇三一年と書いた。
「また五年後?」
「今の流れが続いた場合の、
個人的な仮説じゃ」
「今回は何が起きるの?」
「起きると決まった話ではない」
「悪い未来なら、
外れた方がいいんだよね」
「覚えたな」
おじいちゃんは、
百まで書いた紙を、
三十八のところで折った。
「何の数字?」
「日本の食料自給率を、
カロリーで見た数字じゃ」
「三十八%?」
「年度によって動くが、
半分には届かん」
「残りは?」
「輸入じゃ」
ゆづきは、
折った先に残った
六十二という数字を見た。
「平常時には、
船が運んできてくれる」
「船が止まったら?」
おじいちゃんは、
六十二の部分を指で隠した。
二〇三一年。
各国の養鶏場では、
野鳥の移動を予測するAIが
使われるようになる。
衛星画像。
気象データ。
野鳥の発信器。
海水温。
感染確認地点。
渡り鳥が近づけば、
鶏を屋内へ移す。
飼料や水を覆う。
車両を消毒する。
「鳥の天気予報みたい」
「感染危険予報じゃな」
一方、
港では、
無人機の監視システムが増える。
海上レーダー。
電波妨害装置。
迎撃用無人機。
自動警備艇。
「食べ物を運ぶ港が、
軍事基地みたいになるの?」
「境目が薄くなるかもしれん」
港湾警備費は、
運賃へ加わる。
養鶏場の感染対策費は、
卵の価格へ加わる。
電力網の増強費は、
電気料金へ加わる。
備蓄倉庫の建設費は、
税金か商品価格へ加わる。
「全部、
消費者が払うの?」
「誰かが払わんと、
仕組みは作れん」
食料安全保障は、
農家だけの問題ではなくなる。
港。
船。
電力。
通信。
防衛。
感染症監視。
保険。
それらを、
一つの仕組みとして
守る必要が出てくる。
「でも、
守るために値段が上がったら、
買えない人が増えるよ」
「そこが、
次の問題じゃ」
二〇三一年。
食料危機は、
棚が空になる形では
来ないかもしれない。
卵もある。
肉もある。
牛乳もある。
けれど、
感染対策費。
電気代。
警備費。
保険料。
輸送費。
そのすべてが
値札へ入り、
商品だけが、
少しずつ遠くなる。
安全な食べ物はある。
だが高い。
安い食べ物はある。
だが供給が不安定。
備蓄はある。
だが、
誰に先に配るのか。
「食べ物がないパニックじゃなくて、
買えないパニックになる?」
おじいちゃんは、
答えなかった。
卵の値札を、
紙の中央へ置いた。
五年後の食料危機は、
店の棚が空になることだけではない。
棚に並んでいるのに、
手を伸ばせない人が増える。
食べ物はある。
けれど、
買える人が減っていく。
値札だけが、
遠くなる。
………
■第十章
火は旅券を持たない
その夜。
ゆづきは、
第一部で使った三枚の地図を
もう一度、
机へ広げた。
人の移動経路。
渡り鳥の移動経路。
海上輸送路。
そこへ、
四枚目の地図を重ねた。
無人機の攻撃が確認された港。
五枚目。
鳥インフルエンザが
確認された海岸。
六枚目。
四十度を超えた地域。
赤い点が、
世界地図に増えていった。
「これ、
全部別々のニュースだよね」
「新聞ではな」
「本当は?」
おじいちゃんは、
線を一本引いた。
鳥が海を越えた。
港の検査が増えた。
船が遅れた。
飼料が遅れた。
電気代が上がった。
保険料が上がった。
そして最後に、
卵の値札が上がった。
始まりは、
南半球の三十三羽だった。
終点は、
瀬戸内のスーパーだった。
「一周した」
「そうじゃ」
「どこが最初だったの?」
「もう、
どこが最初か分からん」
一つの危機が、
別の危機の原因になる。
別の危機が、
最初の危機をさらに大きくする。
その輪が回り始めると、
原因と結果の区別が
つかなくなる。
テレビから、
新しい速報が流れた。
海上輸送の不安定化によって、
一部の化学原料の到着に
遅れが出る可能性があるという。
「化学原料?」
「飼料袋にも、
食品容器にも、
冷蔵設備にも、
消毒用品にも使う」
「またエチレンにつながるの?」
おじいちゃんは、
少し笑った。
「世界は、
前のパニックを忘れた頃に、
別の入口から
同じ工場へ戻ってくる」
港で火が上がった。
船が止まった。
保険料が上がった。
飼料が遅れた。
鳥が海を越えた。
病原体が見つかった。
熱波が電力を奪った。
それぞれは、
小さなニュースに見えた。
だが、
元証券マンのおじいちゃんには、
一本の決算書に見えていた。
ゆづきは、
地図の中央へ書いた。
――旅券を持たない火。
「火って、
港で燃えた炎のこと?」
「それもある」
「鳥インフルエンザ?」
「それもある」
「猛暑?」
「それもじゃ」
「じゃあ、
本当の火は何?」
おじいちゃんは、
食卓の卵を指した。
「一つの危機が、
別の値段へ燃え移ることじゃ」
国境を越えたのは、
炎ではなかった。
不安。
保険料。
運賃。
電気代。
食料価格。
それらは、
入国審査を受けなかった。
パスポートも、
ビザも、
帰る国も必要なかった。
窓の外では、
一羽の鳥が
夜の田んぼへ降りた。
その向こうを、
貨物列車が走っていた。
スマートフォンには、
次のニュースが表示された。
世界の巨大企業が、
AI半導体工場のために、
五年先の電力と、
十年先の土地と、
二十年先の資源を
押さえ始めていた。
その中心の一つとして、
韓国の巨大企業が映った。
画面の隣には、
若者向けの求人票が
表示されていた。
契約期間。
一日。
ゆづきは、
画面を拡大した。
五年間の工場投資。
十年間の電力契約。
二十年間の資源確保。
その隣に、
一日契約の若者。
「おじいちゃん」
「何じゃ」
「会社は、
ずっと先まで予約してるね」
「そうじゃな」
「若者は?」
おじいちゃんは、
求人票を見た。
返事はしなかった。
世界の火は、
海を渡り終えた。
次に燃え始めるのは、
会社の未来と、
若者の時間だった。
――第二部・完――
――第三部
『五年契約の会社、
一日契約の若者』
へ続く――
………
★あとがき★
本作は、
二〇二六年現在に報じられている、
渡り鳥と鳥インフルエンザ、
猛暑、養鶏、飼料輸送、
港湾、貨物船、無人機、
海上保険などのニュースを
出発点にした
近未来経済パニック小説です。
作中では、
別々に見えるニュースが、
物流、電力、食料価格を通して、
どこへつながる可能性があるのかを
想像しました。
作中に登場する、
三十三羽、
飼料費六割から七割、
濃厚飼料自給率十三%、
食料自給率三十八%などの数字は、
現在公表されている資料や報道を
参考にしています。
ただし、
経営形態、年度、計算方法によって、
数字は変わります。
一隻の船の遅れを、
三千トン、
十トントラック三百台分とした場面は、
物流の大きさを分かりやすくするための
仮定計算です。
また、
描かれた五年後は、
必ず起きると断定するものではありません。
現在の数字や出来事から考えた、
作者個人の未来仮説です。
新しい事実が分かれば、
考えの方を直します。
そして、
悪い未来なら、
人間が準備して
外した方がいい。
………
★ホームズとワトソンの
卵一個の国際会議★
ワトソン
「ホームズ。
今日の朝食は卵じゃ」
ホームズ
「見れば分かる」
ワトソン
「純国産じゃ」
ホームズ
「飼料は?」
ワトソン
「外国かもしれん」
ホームズ
「濃厚飼料の自給率は?」
ワトソン
「十三%くらいじゃ」
ホームズ
「残りは?」
ワトソン
「八十七%」
ホームズ
「どこから来る?」
ワトソン
「海の向こうじゃ」
ホームズ
「では、
君の純国産の卵には、
外国が八十七袋入っている」
ワトソン
「殻に入りきらんわ!」
ホームズ
「飼料費は、
生産費の六割から七割を
占めることもある」
ワトソン
「数字を言うな。
卵が重くなる」
ホームズ
「運んだ船の保険は?」
ワトソン
「もう食べにくくなるから、
聞くな!」
ホームズ
「君の卵には、
国際情勢が入っている」
ワトソン
「コレステロールだけかと思った」
ホームズ
「無人機が港を攻撃した」
ワトソン
「卵と関係ない」
ホームズ
「保険料が上がった」
ワトソン
「まだ関係ない」
ホームズ
「船が遠回りした」
ワトソン
「少し怪しくなった」
ホームズ
「飼料が遅れた」
ワトソン
「卵が心配になった」
ホームズ
「鶏舎の電気代も上がった」
ワトソン
「わしの朝食を狙っとるのか!」
ホームズ
「世界は、
君の朝食を中心に回っていない」
ワトソン
「では鳥を止めろ」
ホームズ
「どこの国境で?」
ワトソン
「空に柵を作る」
ホームズ
「熱波は?」
ワトソン
「入国禁止」
ホームズ
「無人機は?」
ワトソン
「パスポートを見せろ」
ホームズ
「病原体は?」
ワトソン
「顔認証じゃ」
ホームズ
「顔がない」
ワトソン
「処理エラーやないか!」
ホームズ
「日本の食料自給率は、
カロリーで三十八%ほどだ」
ワトソン
「残りの六十二%は?」
ホームズ
「船に聞け」
ワトソン
「船が遅れとる!」
ホームズ
「ようやく第二部が分かったな」
ワトソン
「では、
次は何が来る?」
ホームズ
「会社は、
五年先の電力を予約した」
ワトソン
「安心じゃな」
ホームズ
「十年先の土地も押さえた」
ワトソン
「さらに安心じゃ」
ホームズ
「若者の契約は一日だ」
ワトソン
「人間だけ短すぎるやないか!」
ホームズ
「ようやく第三部へ進めるな」
二人
「第三部へ続きます」
………
✦近未来経済パニック三部作
『帰る国のない経済』
第一部
『帰る国のない椅子』
第二部
『旅券を持たない火』
第三部
『五年契約の会社、
一日契約の若者』
――第二部・完――




