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近未来経済パニック三部作  『帰る国のない経済』 第一部 ✦『帰る国のない椅子』 ――人を送り返せば、 難民問題は終わるのか。 それとも、次に動くのは、 家賃と賃金と選挙なのか――

✦近未来経済パニック三部作

 『帰る国のない経済』


              第一部


✦『帰る国のない椅子』


――人を送り返せば、


 難民問題は終わるのか。


 それとも、


 次に動くのは、


 家賃と賃金と選挙なのか。――


✲ 2026年7月31日


………


「おじいちゃん。


 難民としての人生って、


 どこまで逃げれば終わるの?」


「終わらんこともある」


「海を渡っても?」


「渡った先で、


 また『帰れ』と言われる」


「でも、


 返されることが分かっているなら、


 最初から行かなきゃいいじゃん」


おじいちゃんは、


パンをちぎる手を止めた。


「ゆづきは、


 今晩もこの家で眠れる

 と思っとるじゃろ」


「うん」


「明日も学校へ行ける。


 冷蔵庫には食べ物がある。


 具合が悪くなれば、


 病院へ行ける」


「それが普通じゃないの?」


「その普通が、


 一晩でなくなる人がおる」


「一晩で?」


「家を追われる。


 仕事を失う。


 同じ土地に生まれたのに、


 『お前はこの国の人間ではない』


 と言われる」


ゆづきは、


テレビに映る海岸を見た。


波打ち際に、


片方だけの青い靴があった。


「安全な場所へ


 逃げているんじゃないの?」


「安全な道がないから、


 危険の中で、


 まだ少しだけ生きられそうな方を


 選んどるんじゃ」


テレビの画面に、


新しい数字が表示された。


数千人。


国境。


緊急派兵。


収容能力超過。


けれど、


元証券マンだったおじいちゃんが


見ていたのは、


海岸の人数だけではなかった。


その人たちが動いた後に、


一緒に動き始める数字だった。


家賃。


賃金。


食料価格。


病床。


学校。


警察予算。


選挙。


国境を越えたのは、


人間だけではなかった。


社会の値段も、


動き始めていた。


………


★目次


■第一章

 数千人が泳いだ朝


■第二章

 国境の蛇口を握る国


■第三章

 十二万六千人の仮住まい


■第四章

 最初の五千人を返す


■第五章

 八十年前から残る十二議席


■第六章

 不足の犯人にされた人々


■第七章

 百年前に町へ投資した男


■第八章

 難民にも価格が付く


■第九章

 五年後の国境決算書


■第十章

 鳥には見えない線


………


■第一章

 数千人が泳いだ朝


二〇二六年七月三十一日。


午前六時十三分。


西日本の田園町にある


古い家の台所で、


海外ニュースが流れていた。


高校一年生のゆづきは、


牛乳を注ぎながら、


テレビを見た。


アフリカ大陸の北岸にある


スペイン領セウタ。


海を泳いで渡る若者。


国境の柵を越える人々。


子どもを抱く女性。


道路をふさぐ警察車両。


町の収容施設は、


急増した人々を受け止めきれず、


路上で夜を過ごす人も出ていた。


「これ、


 昨日まで普通の町だったんでしょ」


「そうじゃ」


「急に数千人来たら、


 住んでいる人も怖いよね」


「怖いじゃろうな」


「じゃあ、


 入れない方がいいの?」


おじいちゃんは答えず、


紙へ数字を書いた。


二千人。


一日三食なら、


六千食。


一週間なら、


四万二千食。


寝床が二千。


トイレ。


シャワー。


医師。


看護師。


通訳。


警備員。


「二千人は、


 二千という数字だけでは


 泊まれんのじゃ」


「でも、


 追い返したら要らなくなるよね」


「本当にそうか?」


「違うの?」


「追い返すにも、


 警察が要る。


 船が要る。


 飛行機が要る。


 本人確認が要る。


 相手国との交渉が要る」


ゆづきは、


紙を見直した。


受け入れても金がかかる。


送り返しても金がかかる。


「どっちも高いんだ」


「難民問題は、


 善意と冷たさの争いだけではない。


 誰が費用を払い、


 誰が責任を持つかという


 経済問題でもあるんじゃ」


画面が切り替わった。


スペイン政府は、


兵士と警察を増やしていた。


おじいちゃんは、


数字の横へ


もう一つ書いた。


――国境警備費。


「人が増えたから、


 警備会社の仕事も増える?」


「増える。


 監視カメラも売れる。


 顔認証も売れる。


 ドローンも売れる」


「困る人が増えると、


 儲かる会社も出てくるんだ」


おじいちゃんは、


鉛筆を置いた。


「そこから先が、


 株屋の目じゃ」


ニュースの海岸には、


片方だけの青い靴が残っていた。


その靴の向こうで、


国境産業の市場が


静かに広がり始めていた。


………


■第二章

 国境の蛇口を握る国


セウタは、


ヨーロッパ側の本土にある町ではない。


アフリカ大陸にあり、


隣国モロッコと接している。


「変な場所だね」


ゆづきは、


スマートフォンの地図を


拡大した。


「スペインの町なのに、


 周りはモロッコなんだ」


「ヨーロッパへ入るための


 小さな入口じゃ」


隣国側が警備を強めれば、


国境を越える人は減る。


警備が緩めば、


人が一気に流れ込む。


「蛇口みたい」


「その蛇口の取っ手を、


 隣の国が握っとる」


経済援助。


漁業権。


貿易。


領土問題。


外交関係。


国同士の交渉が悪化すれば、


国境に集まった人々が


圧力として使われることがある。


「人が交渉材料になるの?」


「石油や天然ガスだけが、


 交渉材料ではないんじゃ」


おじいちゃんは、


証券会社時代に使っていた


古い電卓を出した。


一人を受け入れる費用。


一人を送り返す費用。


国境を守る費用。


隣国へ払う協力費。


「人の移動を止めてもらうために、


 別の国へ金を払うの?」


「可能性はある」


「じゃあ、


 人を受け入れていない国も、


 結局お金を払うんだ」


「国境を遠くへ移しただけじゃ」


ゆづきは、


地図の黒い線を指でなぞった。


人を止める国境は、


地図に一本しかなかった。


けれど、


その費用は、


何百キロも離れた国の


税金や物価へ広がっていった。


「国境って、


 線じゃないんだね」


おじいちゃんは、


何も言わなかった。


画面には、


モロッコとスペインの担当者が


並んで歩く映像が流れていた。


握手の後ろで、


若者たちは


もう一度海へ入ろうとしていた。


………


■第三章

 十二万六千人の仮住まい


次のニュースは、


東南アジアのマレーシアだった。


およそ十二万六千人の


ロヒンギャが、


難民として登録されている。


「十二万六千人って、


 どのくらい?」


「地方の町が、


 一つ増えるくらいじゃ」


「キャンプに住んでるの?」


「町の中で暮らす人も多い」


工場。


建設現場。


飲食店。


清掃。


農園。


目立たない仕事をしながら、


地域経済の一部になっている。


しかし、


正式な労働資格を持たない人もいる。


賃金が低くても、


文句を言いにくい。


事故に遭っても、


声を上げにくい。


子どもが学校へ通いにくい。


「安く働いてもらえるなら、


 会社には便利じゃないの?」


「最初はな」


「最初は?」


「安い労働力が増えれば、


 その仕事全体の賃金が


 上がりにくくなることがある」


「地元の若者も?」


「影響を受けるかもしれん」


「じゃあ、


 地元の人が怒るのも分かる」


「分かる」


「難民が悪いの?」


おじいちゃんは、


すぐには答えなかった。


「安く働かせた会社ではなく、


 安く働いた人の方が、


 責められることがある」


ゆづきは、


画面に映る工場を見た。


安い商品。


安い配達。


安い外食。


その安さを支えた人が、


町の負担だと言われ始めていた。


「便利な時は労働者で、


 困った時は難民になるんだ」


おじいちゃんは、


電卓の数字を消した。


「人間の呼び名は、


 景気が悪くなると変わる」


………


■第四章

 最初の五千人を返す


マレーシア政府は、


最初の五千人を


ミャンマーへ帰還させる構想を


発表した。


「十二万六千人のうち、


 まず五千人?」


「そういう話じゃ」


「五千人返したら、


 問題が少し小さくなるよね」


「数字の上ではな」


おじいちゃんは、


十二万六千から


五千を引いた。


十二万一千。


「まだ、


 十二万人以上いる」


「そうじゃ」


「全員返すなら、


 何回繰り返すの?」


ゆづきは電卓を押した。


二十五回以上。


ただし、


その間にも新しく逃げる人がいれば、


数字は減らない。


「帰った人は、


 どこで働くの?」


「分からん」


「家は?」


「分からん」


「安全なの?」


「そこも問題になっとる」


帰還は、


飛行機を降りた瞬間には


終わらない。


住居。


仕事。


学校。


医療。


身分証明。


治安。


これらがなければ、


再び国境を越える人が出る。


「送り返したら、


 最初の国が払うお金は減る」


「そう見える」


「でも、


 帰った国で仕事がなければ?」


「別の国へ向かうかもしれん」


「問題が移動しただけ?」


「損失を、


 別の国の帳簿へ移しただけに


 なることもある」


元証券マンのおじいちゃんは、


五千という数字を丸で囲んだ。


「株の損を隠すために、


 別の口座へ移すのと似とる」


「それ、


 解決してないじゃん」


「じゃが、


 今期の決算だけは


 きれいに見える」


テレビでは、


帰還計画を発表する政治家に


拍手が送られていた。


拍手の後に必要になる費用は、


画面には表示されなかった。


………


■第五章

 八十年前から残る十二議席


三つ目のニュースは、


パキスタン側カシミールの選挙だった。


議会には、


直接選ばれる四十五の議席がある。


そのうち十二議席は、


インド側カシミールから避難し、


パキスタン各地で暮らす人々のための


選挙区とされている。


「避難した人の席を、


 残してあるんだね」


「そうじゃ」


「優しい制度じゃないの?」


「そう考える人もおる」


「違う人もいるの?」


ゆづきは、


古い選挙人名簿を拡大した。


同じ苗字が、


何度も出てきた。


祖父。


父。


子。


避難した本人だけではなく、


その子孫も有権者になっていた。


一方、


現地で暮らし続けてきた住民からは、


十二議席が政治を左右することへの


不満が出ている。


ゆづきは、


机の上へ


四十五枚のカードを並べた。


そのうち十二枚を、


少し離して置いた。


「十二って、


 四分の一より多いよ」


おじいちゃんは、


何も言わなかった。


ゆづきは、


十二枚を元へ戻そうとして、


手を止めた。


なくせば、


避難した人々の歴史を


消したと言われる。


残せば、


今暮らす人々の票が


軽くなると言われる。


「八十年前の避難が、


 今の選挙を動かしてるんだ」


おじいちゃんは、


一枚のカードを裏返した。


そこには、


こう書かれていた。


――期限なし。


一時的な保護制度が、


八十年続けば、


もう一時的とは呼べない。


難民問題は、


テントや食料だけの話ではなかった。


やがて、


選挙区になる。


議席になる。


予算になる。


政権を決める数字になる。


………


■第六章

 不足の犯人にされた人々


「でもさ、


 受け入れた町の人が


 困るのも本当だよね」


ゆづきが言った。


家賃が上がる。


学校が混む。


病院の待ち時間が延びる。


低賃金の仕事を奪い合う。


治安への不安が出る。


税金への不満が強くなる。


「全部、


 差別で片づけたらいけん」


おじいちゃんは言った。


「珍しく、


 おじいちゃんが先に答えた」


「町の人の不安まで


 悪い心として扱えば、


 話し合いは終わる」


「じゃあ、


 難民を入れない?」


「それも答えを急ぎすぎじゃ」


おじいちゃんは、


二つの円を書いた。


一つは、


移動してきた人。


もう一つは、


もともと暮らしていた人。


円が重なる場所に、


住宅、病院、学校、仕事と書いた。


「足りないものを、


 二つの集団が奪い合う形にしたら、


 怒りは弱い方へ向かう」


「本当の原因は?」


「十年前から、


 住宅も病床も先生も


 増やさなかったことかもしれん」


「難民が来る前から


 足りなかった?」


「そこへ人が増えて、


 不足が見えるようになった」


ゆづきは、


円の中央に書いた。


――以前からあった不足。


難民は、


不足を作った犯人ではなく、


不足を見えるようにした


最後の一滴かもしれなかった。


けれどニュースの討論番組では、


賛成か反対か。


善人か悪人か。


二つの答えだけが


大きな文字で表示されていた。


………


■第七章

 百年前に町へ投資した男


「大原孫三郎って、


 この話にどう関係するの?」


ゆづきが尋ねた。


おじいちゃんは、


棚から一冊の古い本を出した。


白黒写真の男性。


丸い眼鏡。


少し厳しそうな表情。


「百年ほど前、


 瀬戸内の町で会社を育てた経営者じゃ」


「有名なの?」


「会社を大きくしただけではない」


病院。


学校。


研究所。


美術館。


労働者の暮らしを調べる施設。


利益の一部を、


会社の外へ使った。


「お金を配ったの?」


「町が壊れたら、


 会社も長くは残らんと


 考えたんじゃろうな」


「慈善事業?」


「それだけではない」


健康な労働者。


教育を受けた若者。


安心して暮らせる家族。


文化のある町。


すべてが、


長期的には会社の力になる。


「町に投資したんだ」


「そうじゃ」


「百年前に?」


「百年前だからこそ、


 先にやった人が目立った」


ゆづきは、


セウタの収容施設と、


マレーシアの工場と、


カシミールの十二議席を思い出した。


どの問題も、


人が来た後に慌てていた。


寝床が足りない。


学校が足りない。


病床が足りない。


仕事が足りない。


制度を作るのが遅い。


「大原孫三郎なら、


 難民を受け入れたかな」


「本人に聞かんと分からん」


「そこは教えてくれないの?」


「昔の偉人を、


 自分の意見を代わりに言わせるのは


 ずるいじゃろ」


ゆづきは笑った。


「でも、


 一つだけ分かる」


「何?」


「人が来てから、


 ベッドだけ並べて終わりには


 せんかったと思う」


病院。


学校。


仕事。


住宅。


町全体を一つの経済として見る。


それは、


優しさの話だけではなかった。


十年後の損失を、


今の投資で小さくする話だった。


………


■第八章

 難民にも価格が付く


元証券マンのおじいちゃんは、


新しい紙を出した。


「難民一人に、


 いくらかかると思う?」


「そんな言い方、


 冷たくない?」


「冷たく見えるから、


 誰も計算せん。


 誰も計算せんから、


 途中で支えられなくなる」


受入施設。


食事。


通訳。


医療。


学校。


治安。


行政。


職業訓練。


一方で、


働けるようになれば、


税金を払う。


商品を買う。


家を借りる。


人手不足の仕事を担う。


会社を作る人もいる。


「支出だけじゃないんだ」


「人間は、


 費用であると同時に、


 働く力にもなる」


「じゃあ、


 受け入れた方が得?」


「年齢も、


 技能も、


 教育も、


 景気も違う。


 簡単には決められん」


「また答えなし?」


「株の世界でも、


 絶対上がる銘柄などなかった」


人手不足だから、


全員受け入れればいい。


費用がかかるから、


全員送り返せばいい。


どちらも、


計算を途中で止めた答えだった。


本当に見るべきなのは、


一年目の費用ではない。


五年後。


十年後。


子どもが学校を卒業した後。


働き始めた後。


地域に家族を持った後。


おじいちゃんは、


紙の一番上へ書いた。


――難民の値段ではなく、


 制度を作らなかった値段。


「どういう意味?」


「準備をしなかった国ほど、


 後から高い請求書を払う」


………


■第九章

 五年後の国境決算書


おじいちゃんは、


二〇三一年と書いた。


「五年後?」


「この流れが続いた場合の、


 わしの個人的な仮説じゃ」


「予言?」


「外れるかもしれん」


「外れたら恥ずかしくない?」


「数字が変わったら、


 考えを直せばええ」


五年後。


国境では、


顔認証とAIによる


本人確認が広がる。


監視カメラ。


ドローン。


声紋。


歩き方。


過去の移動記録。


国境警備産業は成長する。


だが、


AIが顔を特定できても、


その人を受け入れる国がなければ、


ゲートは開かない。


一時収容施設は、


長期居住施設になる。


施設の中に、


学校や診療所や工場が作られる。


外へ出にくい


一つの町になる可能性もある。


「未来の難民キャンプ?」


「キャンプと呼ばず、


 管理都市と呼ぶかもしれん」


移民対策を引き受ける周辺国は、


外交交渉で力を持つ。


人の流れを止める代わりに、


資金や貿易条件を求める。


受入国では、


家賃、病院、学校、低賃金労働をめぐり、


住民との対立が強まるかもしれない。


「これ、


 本当に起きるの?」


「分からん」


「じゃあ、


 どうして書くの?」


「起きそうな問題が見えたら、


 起きる前に準備できるからじゃ」


「悪い未来を当てたいわけじゃない?」


「悪い予想は、


 外れた方がええ」


ゆづきは、


二〇三一年の横へ


小さく書いた。


――現在から考えた仮説。


未来を決めつけるためではない。


現在の延長線上に、


何が待っているかを


見落とさないための線だった。


………


■第十章

 鳥には見えない線


ニュースは、


次の話題へ移った。


南半球の海岸。


倒れた海鳥。


感染症の監視。


四十度を超えた地域。


止まる屋外労働。


増える電力需要。


海を進む貨物船。


その後方を飛ぶ無人機。


ゆづきは、


机に二枚の地図を広げた。


一枚は、


人間の移動経路。


もう一枚は、


渡り鳥の移動経路。


二本の線は、


同じ海岸で重なっていた。


「人間には、


 国境が見えるよね」


「そうじゃな」


「鳥には?」


「見えん」


「病原体には?」


「見えん」


「熱波には?」


「見えん」


「無人機には?」


おじいちゃんは、


少し考えた。


「操縦する人には見える。


 じゃが、


 越えることはできる」


人間は、


国境に柵を作った。


警察を置いた。


AIを置いた。


人間の顔を数えた。


送り返す国を探した。


その間にも、


国境を必要としないものが


空と海を動いていた。


鳥。


病原体。


熱。


無人機。


物流。


「難民の話と、


 次のニュースは別じゃないの?」


ゆづきが尋ねた。


おじいちゃんは、


三枚目の地図を重ねた。


海上輸送路。


赤い線が、


人と鳥の移動経路に重なった。


「別の話なら、


 ええんじゃがな」


「何が始まるの?」


ラジオから、


新しい速報が流れた。


ある港で、


感染症対策による


貨物検査の強化が始まった。


船の入港が遅れた。


飼料の輸送が止まった。


食品価格への影響が懸念された。


まだ、


小さなニュースだった。


株価も、


ほとんど動いていなかった。


けれど、


元証券マンだったおじいちゃんは、


知っていた。


市場が気づく前に、


現場の数字は


先に動き始める。


ゆづきは、


片方だけの青い靴の写真を


もう一度見た。


最初は、


一人の子どもの話だと思っていた。


だが、


その靴の後ろには、


国境警備会社があった。


住宅市場があった。


低賃金労働があった。


選挙があった。


外交交渉があった。


五年後の監視都市があった。


そして今、


その同じ海を、


旅券を持たない危機が


渡ろうとしていた。


「おじいちゃん」


「何じゃ」


「次に値段が上がるのは、


 何だと思う?」


おじいちゃんは、


すぐには答えなかった。


ラジオの音を、


少し大きくした。


「まず、


 何が止まるかを見よう」


窓の外で、


一羽の鳥が


田んぼへ降りた。


人間の国境問題は、


まだ終わっていなかった。


だが世界は、


次のパニックへ


動き始めていた。


――第一部・完――


――第二部


『旅券を持たない火』


へ続く――


………


★あとがき★


この物語は、


二〇二六年七月末に報じられた


国際ニュースを出発点にしています。


ただし、


作中に描いた五年後の姿は、


必ず起きると断定するものではありません。


現在のニュースや数字を見ながら、


「この流れが続いたら、


 どこへつながるのだろう」


と考えた、


作者個人の未来仮説です。


予想が外れることもあります。


新しい事実が分かれば、


考えの方を直します。


そして、


悪い未来なら、


外れた方がいい。


………


★ホームズとワトソンの

 国境決算漫才★


ワトソン


「ホームズ。


 難民問題を解決したぞ」


ホームズ


「また始まったな」


ワトソン


「全員送り返せば、


 受入費用はゼロだ」


ホームズ


「送還費用は?」


ワトソン


「……」


ホームズ


「警察、船、飛行機、


 本人確認、外交交渉」


ワトソン


「意外と高いな」


ホームズ


「帰還後の生活が崩れて、


 再び国境を越えたら?」


ワトソン


「二回払うことになる」


ホームズ


「君の解決策は、


 二重請求だ」


ワトソン


「じゃあ全員受け入れよう」


ホームズ


「住宅、病院、学校は?」


ワトソン


「足りん」


ホームズ


「今度は準備なしだ」


ワトソン


「どっちを選んでも金がかかるやないか!」


ホームズ


「だから、


 掛け声の前に計算するのだ」


ワトソン


「人間に値段を付けるのか?」


ホームズ


「違う。


 準備しなかった値段を調べる」


ワトソン


「わしの将来も計算してくれ」


ホームズ


「すでに赤字だ」


ワトソン


「誰が不良債権や!」


ホームズ


「静かにしろ。


 次のニュースだ」


ワトソン


「今度は何だ?」


ホームズ


「鳥が国境を越えた」


ワトソン


「送り返せ!」


ホームズ


「どの国へ?」


ワトソン


「……帰る国がない」


ホームズ


「ようやく第一部が分かったな」


ワトソン


「遅いわ!」


二人


「第二部へ続きます」


………


✦近未来経済パニック三部作

 『帰る国のない経済』


第一部


『帰る国のない椅子』


第二部


『旅券を持たない火』


第三部


『五年契約の会社、

 一日契約の若者』


――第一部・完――

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