逆回転する世界 第二部 ーー空まで伸びない木ーー
✦ 逆回転する世界 第二部
ーー空まで伸びない木ーー
《未来は、
ある日突然、
失われるのではない。
最初は、
誰もが未来を欲しがる。
もっと速く。
もっと大きく。
もっと賢く。
そして、
一つの未来へ
あまりにも多くの金と夢が
集まったとき、
その未来は、
人を照らす光ではなく、
周囲の光を奪う
巨大な影になる。
木は空まで伸びない。
だが、
空まで伸びると信じられた木は、
倒れるとき、
森ごと引きずっていく。》
────────────────
★目次
■第1章 未来を作る会社
――株価が給料より先に上がる
■第2章 未来を失う会社
――同じAIが、
一方を救い、一方を消す
■第3章 好決算で下がる日
――良い会社が、
良い投資とは限らない
■第4章 社長の言葉より
株価を信じた人々
――物語が数字を支配する
■第5章 二倍の夢
――上昇を加速した装置が、
下落も加速する
■第6章 午後三時の売り注文
――市場を動かすのは
企業ではなく機械になる
■第7章 海の向こうの警告
――韓国市場で先に始まった逆回転
■第8章 電気を食べる頭脳
――AIは雲の中ではなく、
発電所の上に立っている
■第9章 古いソフトウェアの墓場
――新しい未来を買うため、
現在の会社を捨てる
■第10章 退職勧奨の白い封筒
――技術革新の拍手の外側で
■第11章 売れるものから売られる
――優良企業が最初の犠牲になる理由
■第12章 父が買った株
――上昇相場は、家族の会話まで変える
■第13章 木が倒れた夜
――一つの銘柄から、生活へ広がる下落
■第14章 残った種
――すべての技術が嘘だったわけではない
■第15章 空を見ない木
――高く伸びることより、根を残すこと
─────────────────
■第1章
✲未来を作る会社
午前七時十二分。
拓海は、
スマートフォンの画面に表示された
自社の株価を見た。
前日比、プラス六・八%。
始業前だった。
まだ誰も働いていない時間に、
会社の価値だけが
先に増えていた。
拓海は三十四歳。
半導体関連企業、
東亜メモリーデバイスの
経営企画部に勤めていた。
会社は、
AI向けの高速メモリーを
製造している。
三年前まで、
社名を知る人は少なかった。
いまではニュース番組が、
毎日のように会社名を読み上げる。
人工知能。
データセンター。
高速メモリー。
電力効率。
国家戦略。
以前なら
専門家しか使わなかった言葉を、
居酒屋の客まで
口にするようになった。
「拓海の会社、
また上がってるじゃない」
向かいの席で、
恋人の梨沙が言った。
二人は、
駅前のコーヒー店で
朝食を取っていた。
「俺が
上がってるわけじゃないよ」
拓海は答えた。
「会社の株価が上がってるだけ」
「同じじゃないの?」
「全然違う」
拓海の給料は、
昨年より一万二千円増えた。
自社の時価総額は、
一年で三倍近くになった。
会社は一日で、
拓海が一生働いても稼げない金額を
増減させていた。
「ボーナス、
増えるんでしょう?」
「たぶん」
「株、持ってるんでしょう?」
「少しだけ」
拓海は答えた。
本当は、
少しではなかった。
社員持株会。
自社株報酬。
個人で買った株。
さらに、
会社の値動きを二倍にする
レバレッジ型の商品も持っていた。
会社が伸びれば、
給料も資産も増える。
会社が未来なら、
自分の人生も未来へ運ばれる。
そう信じていた。
梨沙は、
自分の会社の入館証を
テーブルの上に置いた。
白いカードには、
オリエント・ビジネスソフトと
書かれていた。
企業向け会計システムや
人事管理ソフトを
販売する会社だった。
かつては、
一度契約すれば十年は安泰だと
言われていた。
しかし最近、
顧客企業の予算は
AI関連設備へ流れている。
梨沙の会社は、
新規契約を減らし始めていた。
同じAIという言葉が、
拓海の会社には
「始まり」を意味し、
梨沙の会社には
「終わり」を意味していた。
「拓海の会社が未来なら」
梨沙は、
冷めかけたコーヒーを見つめた。
「私の会社は、
何なんだろうね…」
拓海は、
すぐに答えられなかった。
店のテレビでは、
自社の社長が話していた。
《AI革命は、
まだ始まったばかりです》
拓海は、
誇らしい気持ちになった。
同時に、梨沙の横顔を
見ることができなかった。
未来という言葉は、
誰にとっても同じ方向を
指しているわけではなかった。
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■第2章
✲未来を失う会社
梨沙の会社では、
毎週月曜日に
全体会議が開かれていた。
会議室の正面には、
大きなスクリーンがある。
以前は、
売上高や契約件数が
表示されていた。
いまは、
「AIによる業務効率化」
という文字が
中央に置かれている。
社長は言った。
「当社もAI企業へ
生まれ変わらなければ
なりません」
社員たちは拍手した。
誰も、
何をどう生まれ変えるのかは
分かっていなかった。
「既存事業を合理化し、
成長分野へ資源を集中します」
合理化。
資源。
集中。
人間を人間と呼ばずに減らすとき、
会社は言葉を賢くする。
会議後、
梨沙の隣に座る早紀が
小声で言った。
「合理化って、
誰が合理化されるんだろうね」
梨沙は笑えなかった。
契約社員。
三十二歳。
勤続六年。
会社の中で、
梨沙は必要な仕事をしていた。
顧客からの問い合わせ。
システム更新。
請求処理。
操作説明。
だが会社が守りたいのは、
必要な人ではなかった。
未来に必要に見える人だった。
AI開発者。
データ分析者。
クラウド技術者。
梨沙の仕事は、
会社の現在を支えている。
しかし投資家が買うのは、
会社の現在ではない。
未来だった。
昼休み、
社内の掲示板に
新しい文章が掲載された。
《希望退職制度の実施について》
希望。
退職。
二つの言葉を合わせると、
まるで社員が自分から
夢を選ぶように見える。
「私たち、
希望してないよね」
早紀が言った。
「会社が希望してるんだよ」
梨沙は答えた。
窓の外には、
新しいデータセンターの
建設現場が見えた。
巨大なクレーン。
白い鉄骨。
重なる配管。
あの建物へ、
企業の予算が流れている。
梨沙の会社が失った金も、
あそこへ向かっているのかも
しれない。
未来は、
何もない場所から
作られるのではない。
誰かの現在を削り、
その材料で建てられる。
その日の帰り、
梨沙は拓海に電話をしなかった。
拓海の会社の株価が、
また最高値を更新したという
通知が届いていた。
祝いの言葉を言える自信が
なかった。
同じ未来の中で、
二人は少しずつ
違う場所へ運ばれていた。
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■第3章
✲好決算で下がる日
決算発表の日。
東亜メモリーデバイスは、
過去最高の売上高を発表した。
利益は前年の二倍。
AI向け製品の需要は強い。
工場はフル稼働。
受注残も過去最高。
会議室では、
拍手が起きた。
「これは上がるぞ」
同僚の健人が言った。
拓海もそう思った。
数字は良かった。
悪いところを探す方が難しかった。
午後三時半。
決算発表。
株価は、
時間外取引で一度五%上昇した。
その後、
急に下がり始めた。
プラス五%。
プラス二%。
マイナス一%。
マイナス七%。
「何で?」
健人が画面を見つめた。
誰も答えられなかった。
翌朝、
株価はさらに売られた。
終値は、
前日比マイナス十四%。
ニュースには、
こう書かれていた。
《好決算も市場期待に届かず》
過去最高でも、
期待より低ければ失望になる。
利益が増えていても、
もっと増えると思われていたなら
株価は下がる。
良い会社であることと、
良い投資であることは違う。
拓海は知識として
理解していた。
だが、
自分の資産が
一日で減るのを見ると、
その知識は役に立たなかった。
持株会。
自社株。
二倍型の商品。
画面の数字が、
赤く変わっていった。
一日で失った金額は、
梨沙が一年間働いて得る手取りに
近かった。
「会社は何も悪くなってない」
拓海は自分に言った。
会社は利益を出している。
工場も動いている。
注文もある。
それでも、
市場は会社の現在を
見ていなかった。
昨日まで信じていた未来と、
今日発表された未来との差だけを
見ていた。
会社の木は、
まだ伸びている。
ただ市場は、
空まで伸びる速度が
少し遅くなったことを
許さなかった。
その夜、
梨沙から連絡が来た。
《希望退職、
本当に始まるみたい》
拓海は返信しようとした。
《大丈夫だよ》
そこまで入力して、
消した。
何を根拠に大丈夫と言うのか。
自分の会社も、
好決算で十四%下がった。
数字が良くても、
守られない世界だった。
拓海は、
短い文章を送った。
《今夜、会おう》
未来について語るのではなく、
今日、
隣にいることしか
できなかった。
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■第4章
✲社長の言葉より株価を信じた人々
拓海の父、
和彦は六十七歳だった。
定年後も、
週に三日、
地域の設備会社で働いている。
以前は株に興味がなかった。
預金が一番安全だと
言っていた。
しかし、
息子の会社の株価が上がり始めると、
考えが変わった。
「お前の会社は、
国が守る会社だろう」
父は言った。
「半導体は国策だって
ニュースで言ってたぞ」
「国策だから、
株が下がらないわけじゃないよ」
「でも将来必要なんだろう」
「必要な会社と、
高すぎない株は別だよ」
父は笑った。
「難しいこと言うな。
息子の会社を信じて何が悪い」
父は退職金の一部で、
東亜メモリーデバイスの株を買った。
最初は百株。
株価が上がると、
さらに買った。
下がった日には、
安くなったと言って買い増した。
上昇相場は、
慎重な人にまで
自分は投資の才能があると
思わせる。
父は夕食のたびに、
株価の話をするようになった。
「今日も上がった」
「目標株価が引き上げられた」
「海外のファンドが買っている」
母は、
株価の意味を
よく分かっていなかった。
ただ、
父が楽しそうなので笑っていた。
ある日、
母が拓海へ小声で言った。
「お父さん、
台所を直すためのお金まで
株に入れてないでしょうね」
拓海は、
父に確認できなかった。
父が
自分を信じて買った株だった。
止めることは、
自分の会社を否定するように
感じた。
そして拓海自身も、
もっと多くの金を入れていた。
人は、
他人の熱狂なら見抜ける。
自分が参加している熱狂だけは、
成長と呼ぶ。
社長は決算説明会で言った。
《需要は長期的に拡大します》
その言葉は、
おそらく正しかった。
しかし
長期的に需要が増えることと、
明日の株価が上がることは違う。
父は社長の言葉を聞き、
安心して株を持ち続けた。
拓海も、
同じ言葉を自分へ言い聞かせた。
未来は伸びる。
木は伸びる。
まだ大丈夫。
その「まだ」が、
何日残っているのかは
誰にも分からなかった。
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■第5章
✲二倍の夢
健人が、
スマートフォンを拓海へ見せた。
「これ、すごいぞ」
画面には、
東亜メモリーデバイスの
株価に連動する
レバレッジ商品が表示されていた。
株が一%上がれば、
理論上二%上がる。
下がれば、
二%下がる。
「普通の株より早く増える」
健人は言った。
「減るのも早いけどな」
「でも長期では上がるだろ」
その言葉を、
拓海も何度も使っていた。
AI需要は伸びる。
メモリーは必要。
国家も支援する。
世界中が
データセンターを建てる。
長期では上がる。
正しい理由が、
危険な商品を安全に見せる。
拓海は最初、
少額だけ買った。
一週間で一二%上がった。
普通の株なら、
六%程度だった。
二倍の利益は、
二倍の自信を生んだ。
さらに買った。
株価が下がった日にも買った。
翌日戻れば、
利益が大きくなる。
上昇中、
レバレッジは勇気に見える。
下落中、
それは借り物の時間だったと分かる。
ある週、
株価は一日で八%下落した。
二倍型の商品は、
約一六%下がった。
翌日、
株価は八・七%上昇し、
ほぼ元の位置へ戻った。
しかし二倍型の商品は、
元の価格へ戻らなかった。
百が八十四になり、
そこから一七・四%上がっても、
九十八・六程度にしかならない。
値段が行って戻るだけで、
資産は少し減る。
乱高下が続くほど、
商品は削られる。
「元に戻ったのに、
何で俺の金は戻らないんだ」
健人は言った。
「毎日の二倍だから」
拓海は説明した。
「長期の二倍じゃない」
「そんなの、
買うときに聞いてないぞ」
「書いてあった」
「どこに」
「小さい字で」
金融商品は、
大きな夢を大きな文字で書き、
危険を小さな文字で書く。
健人は、
画面を閉じた。
「でもまた上がればいいだろ」
拓海は答えなかった。
自分も、
同じ商品を持っていた。
上がることを信じる以外に、
出口がなかった。
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■第6章
✲午後三時の売り注文
株価が大きく下がった日、
東亜メモリーデバイスの売り注文は
午後二時半から急増した。
午前中は、
下げ止まっていた。
ところが大引けが近づくと、
価格が崩れ始めた。
二%安。
四%安。
七%安。
「何かニュース出た?」
拓海が聞いた。
市場担当者は首を振った。
「レバレッジ商品の
リバランスだと思います」
二倍の値動きを維持するため、
商品は毎日、
保有する株や先物の量を調整する。
上昇した日は、
さらに買う。
下落した日は、
さらに売る。
下がったから売る。
売るから下がる。
機械は恐怖を感じない。
だから人間より冷静だと
思われていた。
だが機械は、
市場が苦しんでいるときにも
決められた量を売る。
待ってくれない。
午後三時。
巨大な売り注文が入った。
投資家たちは、
機械が売ることを予想して
先に売った。
機械の売りを、
人間が先回りする。
企業の利益ではなく、
商品の計算式が株価を動かす。
「会社は今日、
何も発表してないのにな」
同僚が言った。
「会社が動かしてる相場じゃ
なくなったんだよ」
拓海は答えた。
市場は、
企業価値を映す鏡だと言われる。
しかし鏡の前に、
無数の鏡を置けば、
像は増幅される。
本物がどこにあるのか
分からなくなる。
午後三時半。
株価は一〇%安で引けた。
工場では、
夜勤の社員が
いつも通り機械を動かしていた。
製品は作られている。
受注もある。
それでも会社の価値は、
数時間で一兆円近く消えた。
価値が消えたのではない。
昨日まで価値だと
信じられていたものが、
消えたのだ。
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■第7章
海の向こうの警告
ニュース番組が、
韓国市場の急落を伝えていた。
半導体大手二社へ
売買が集中していた市場。
その値動きを二倍にする商品。
信用取引。
外国人投資家。
個人投資家。
上昇している間、
それらは韓国市場を
世界で最も強い市場の一つにした。
しかし流れが逆転すると、
同じ仕組みが下落を加速させた。
一つの半導体企業が売られる。
レバレッジ商品が売る。
指数が下がる。
海外投資家が資金を引き揚げる。
通貨が下がる。
輸入物価が上がる。
中央銀行は、
株安でも金利を下げにくくなる。
市場が弱っているときに、
金融を引き締めなければならない。
それは、
倒れかけた人の背中へ
重い荷物を載せるようなものだった。
番組の解説者は言った。
《韓国特有の問題です》
拓海は、
その言葉に違和感を持った。
韓国特有ではない。
少数の半導体企業へ
指数が集中している。
AI期待へ
資金が集中している。
レバレッジ商品が
売買を増幅している。
日本や米国でも、
形を変えて同じことが起きている。
海の向こうで先に起きたことを、
人は外国の特殊事情として見る。
自分の家に火が移るまでは。
梨沙が、
テレビを見ながら言った。
「韓国の人たち、
大変だね」
「うん」
「拓海の会社は大丈夫?」
拓海は、
反射的に大丈夫と
言いそうになった。
その言葉を飲み込んだ。
「分からない」
梨沙は拓海を見た。
「前は、
絶対伸びるって言ってたのに」
「伸びると思う」
「じゃあ
大丈夫なんでしょう?」
「会社が伸びても、
株が大丈夫とは限らない」
梨沙は少し笑った。
「未来って、
難しいね」
「難しいよ」
「未来を作る会社で働いてるのに?」
拓海も笑った。
「だから難しいんだと思う」
未来に近い人ほど、
未来を正確に知っているわけではない。
木の根元にいる人間には、
木の先端が雲の中へ入ったあと、
どこまで伸びたか見えない。
──────────────────
■第8章
✲電気を食べる頭脳
拓海は、
新しいデータセンターの
建設予定地を視察した。
郊外の工業団地。
かつて
自動車部品工場があった土地に、
巨大な建物が
建てられようとしていた。
「完成すれば、
国内最大級です」
建設会社の担当者が説明した。
サーバー。
冷却装置。
非常用発電機。
変電設備。
通信回線。
AIは、
画面の中に住んでいるように
見える。
だが実際には、
大量の鉄と銅と水と電気の上に
立っている。
「必要電力は?」
拓海が尋ねた。
担当者が数字を答えた。
近隣の数万世帯に相当する
規模だった。
「そんなに使うんですか」
「学習用設備は特に大きいです」
空調のための電力。
計算するための電力。
データを保存するための電力。
さらに停電に備え、
非常用燃料も必要になる。
AIは賢くなるほど、
人間のように食べ物を欲しがった。
ただし食べるのは、
米でもパンでもない。
電気だった。
建設予定地の向こうには、
古い住宅地があった。
住民説明会では、
電気料金や騒音、
水の使用量を心配する声が
出ていた。
「AIは国の競争力です」
自治体の担当者は言った。
その言葉は正しい。
だが、
国の競争力を支える電線は、
地域住民の頭上を通る。
住民は節電を求められ、
巨大施設には優先的に
電気が供給される。
新しい未来が、
古い生活の電気を奪うかもしれない。
拓海は、
施設の完成予想図を見た。
青空の下に、
白く美しい建物が描かれている。
絵の中には、
送電線も、
非常用発電機の排気も、
渇水した川も
描かれていなかった。
未来の絵にはいつも、
未来を支える不都合な設備が
省略される。
────────────────
■第9章
✲古いソフトウェアの墓場
梨沙の会社は、
長年販売してきた会計ソフトの
開発縮小を発表した。
顧客企業は、
AI搭載型の新サービスを求めている。
会社は、
既存製品への投資を減らし、
新事業へ資金を移すことにした。
「でも、
今使っているお客さんは?」
梨沙は会議で尋ねた。
「保守は継続します」
部長は答えた。
「何人で?」
部屋が静かになった。
保守を続ける。
それは、
新しい開発をしないという
意味でもある。
古いシステムは、
すぐには消えない。
企業の請求。
給与。
在庫。
取引先情報。
社会の重要な部分ほど、
古いソフトウェアの上で
動いている。
しかし
新しい技術に予算が集中すると、
古いシステムを守る人が減る。
新しい未来を作るために、
現在の足場が放置される。
梨沙の部署では、
五人が異動対象になった。
二人が希望退職へ応募した。
早紀もその一人だった。
「辞めるの?」
梨沙が聞いた。
「残っても、
仕事ごと消える気がするから」
「次は決まってる?」
「決まってない」
「怖くない?」
早紀は笑った。
「残る方が怖い」
退職の日、
早紀は自分の机を片づけた。
六年間使ったマグカップ。
操作マニュアル。
顧客からの手紙。
最後に、
小さな観葉植物を梨沙へ渡した。
「これ、お願い」
「持っていかないの?」
「次の机が
あるか分からないから」
梨沙は植物を受け取った。
鉢の底から、
細い根が一本出ていた。
行き場を失った人の代わりに、
植物だけが、
成長を続けていた。
────────────────
■第10章
✲退職勧奨の白い封筒
梨沙の机に、
白い封筒が置かれていた。
宛名は印刷されている。
差出人は人事部。
中には、
面談日時が書かれていた。
会議室には、
人事担当者と上司が座っていた。
「梨沙さんの能力を
否定するものではありません」
人事担当者は言った。
「会社の事業構造が
大きく変化しています」
能力を否定しない。
しかし仕事はなくす。
人間を傷つけずに切るため、
会社は文章を柔らかくする。
「新しい職種への
リスキリング支援もあります」
「何を学ぶんですか」
「AI関連技術などです」
「何か月で?」
「三か月程度を想定しています」
六年間、
顧客とシステムを
理解してきた人間に、
三か月で
別の人間になれと言う。
変化に対応しろ。
学び直せ。
成長しろ。
未来に適応できないのは、
自分の責任だ。
社会は、
足場を動かしながら
転んだ人へ走れと言う。
「辞めるか、
異動するかということですか」
梨沙は尋ねた。
「まだ
何も決まっていません」
決まっていないと言いながら、
白い封筒はすでに机へ置かれていた。
面談後、
梨沙は会社のトイレへ入った。
個室の中で、
声を出さずに泣いた。
仕事が好きだったわけではない。
給料も高くなかった。
それでも、
毎朝向かう場所だった。
名前を呼ばれる場所だった。
困った人に、
ありがとうと言われる
場所だった。
人は給料だけで
会社へ行っているのではない。
自分が
社会の中に存在することを
確認するために行っている。
その場所が、
白い封筒一枚で
消えようとしていた。
帰宅すると、
拓海が夕食を作っていた。
不格好な卵焼き。
少し焦げた味噌汁。
梨沙は玄関で、
靴を脱げなかった。
「どうした?」
拓海が聞いた。
梨沙は封筒を差し出した。
拓海は中を読んだ。
「大丈夫」
その言葉が
口から出そうになった。
だが拓海は、
以前の自分を思い出した。
根拠のない大丈夫は、
相手の苦しみを小さくする。
拓海は、
梨沙の前に座った。
「怖かったな」
梨沙は、
その一言を聞いた瞬間に泣いた。
励ましより先に、
怖かったことを
分かってほしかった。
───────────────
■第11章
売れるものから売られる
市場全体が下がり始めた。
最初に売られたのは、
業績の悪い会社ではなかった。
東亜メモリーデバイス。
大手通信会社。
電力設備メーカー。
利益があり、
取引量が多く、
すぐ売れる会社だった。
ファンドは、
顧客の解約へ対応するため
現金を作らなければならない。
売りたいものではなく、
売れるものを売る。
金融危機の初期には、
良い資産ほど先に換金される。
「うちの会社は黒字なのに」
健人が言った。
「黒字だから売れるんだよ」
拓海は答えた。
小さな赤字企業の株を
大量に売ろうとしても、
買い手がいない。
大企業の株なら、
まだ買う人がいる。
だから、
安全だと思われた企業ほど
現金を作るために使われる。
株価はさらに下がった。
自社株担保で
借金をしていた経営者。
信用取引をしていた個人。
レバレッジ商品を持つ投資家。
売りたくない人たちが、
売らなければならなくなった。
追証。
強制決済。
損失確定。
市場が上昇している間、
人は自分の意志で
投資していると思う。
下落すると、
売る時期を決めるのは
自分ではなかったと分かる。
午後、
健人の口座が強制決済された。
「全部なくなった」
彼は画面を見たまま言った。
「全部じゃないだろ」
拓海は言った。
「仕事もある。
家族もいる」
健人は首を振った。
「妻に言ってない」
利益が出ていた頃、
健人は家族へ言わなかった。
もっと増えてから
驚かせるつもりだった。
損失が出ても、
言えなかった。
取り戻してから話すつもりだった。
秘密は、
利益より速く膨らんだ。
「一緒に帰ろう」
拓海は言った。
「言えないよ」
「一人で言わなくていい」
健人は、
しばらく動かなかった。
相場で失った金は、
相場だけでは終わらない。
食卓へ入り、
夫婦の間へ入り、
子どもの学費へ入り、
言葉のない夜を作る。
─────────────
■第12章
父が買った株
父から電話が来た。
声が、
いつもより低かった。
「拓海」
「どうした?」
「株のことなんだが」
父は、
退職金の一部だけではなく、
台所の改修費と
母の介護に備えた預金まで
株へ入れていた。
株価が高い時に買い、
下がるたびに買い増した。
平均購入価格を下げれば、
戻った時に助かると思った。
「どれくらい残ってる?」
拓海が聞いた。
父は金額を答えた。
母が大切に貯めてきた金の
半分近くが消えていた。
拓海は、
怒りそうになった。
なぜ相談しなかった。
なぜそんなに買った。
なぜ信用取引まで使った。
しかし父は、
息子の会社を信じたのだ。
息子の未来を信じた。
「お前が悪いんじゃないぞ」
父は言った。
「分かってる」
「会社が悪いわけでもない」
「うん」
「俺が勝手に買った」
「うん」
父の声が震えた。
「母さんに、
何て言えばいい」
拓海は、
答えられなかった。
株を始める時、
父は一人で決めた。
損失を告げる時だけ、
息子へ助けを求めた。
それでも、
拓海は父を責められなかった。
自分も同じだった。
未来を信じた。
下がれば買った。
戻ると思った。
自分は会社を知っているから、
他の投資家より
分かっていると思った。
「一緒に話そう」
拓海は言った。
「俺も損してる」
「お前もか」
「かなり」
電話の向こうで、
父が長く息を吐いた。
親は、
子どもの前で強くいたい。
子どもも、
親の前で成功していたい。
相場は、
その両方の仮面を剥がした。
その夜、
三人で食卓を囲んだ。
父は母へ、
すべて話した。
母は、
長い間黙っていた。
そして言った。
「生きてるうちのお金で
よかったじゃない」
父は顔を上げた。
「死んだ後のお金だったら、
謝れないでしょう」
母は笑おうとした。
だが涙が落ちた。
「台所は、
もう少し古いままで使うよ」
父は泣いた。
拓海も、
顔を伏せた。
失った金は戻らない。
しかし、
隠していた時間は
そこで終わった。
──────────────
■第13章
木が倒れた夜
東亜メモリーデバイスの株価は、
最高値から半分以下になった。
ニュースでは、
AI投資の減速が報じられた。
データセンター建設の延期。
電力接続の遅れ。
顧客企業の予算削減。
過剰在庫。
新規参入。
価格競争。
昨日まで、
需要は無限だと言われていた。
今日は、
供給過剰だと言われた。
市場は、
正反対の物語へ変わる時にも
謝らない。
会社は設備投資計画を
見直すことになった。
新工場の延期。
採用数の削減。
外注契約の見直し。
経費削減。
株価下落は、
株を持つ人だけの
問題ではなかった。
工場の建設会社。
部品メーカー。
周辺の飲食店。
派遣社員。
自治体の税収。
木が倒れると、
木陰で暮らしていたものまで
光の当たり方が変わる。
拓海の部署でも、
人員整理の噂が流れた。
未来を作る側だと
思っていた会社が、
未来を減らし始めた。
「梨沙の会社と、
同じになったな」
拓海は言った。
梨沙は、
首を振った。
「同じじゃないよ」
「何が?」
「私の会社が苦しくなった時、
拓海は未来の中にいた」
梨沙は、
拓海の手を握った。
「今は、
二人とも同じ場所にいる」
二人は、
部屋の電気を消した。
窓の外には、
建設途中の
データセンターが見えた。
工事用の照明だけが、
夜の中で光っていた。
未来を作るための建物が、
完成しないまま止まっている。
巨大な骨組み。
動かないクレーン。
風に揺れる防音シート。
それは、
空へ伸びる途中で
時間を止められた木のようだった。
「怖い?」
拓海が聞いた。
「怖いよ」
梨沙は答えた。
「でも前よりは、
少しだけ怖くない」
「何で?」
「一人じゃないから」
世界が壊れない保証はない。
仕事が残る保証もない。
株価が戻る保証もない。
人は、
保証のない世界で生きている。
だから、
誰かが隣にいることだけが、
唯一の保証になる夜もある。
───────────────
■第14章
✲残った種
梨沙は、
早紀から預かった観葉植物を
窓辺に置いていた。
会社を辞めた早紀は、
小さな介護施設で働き始めた。
給料は下がった。
仕事は大変だった。
それでも、
以前より人から直接
ありがとうと言われるという。
「AIに取られない仕事を
選んだの?」
梨沙が電話で尋ねた。
早紀は笑った。
「取られるかもしれないよ」
「介護も?」
「記録とか連絡とかはね」
少し間を置いて、
早紀は続けた。
「でも、
手を握るのは
まだ人間の仕事だった」
梨沙は、
窓辺の植物を見た。
鉢の底から出ていた根は、
さらに長くなっていた。
大きな鉢へ
植え替える必要がある。
拓海と梨沙は、
休日に園芸店へ行った。
高価な鉢ではなく、
千円ほどの素焼き鉢を買った。
二人で土を入れ、
植物を移した。
根は、
思った以上に広がっていた。
「こんな小さいのに」
拓海が言った。
「見えないところで
育ってたんだね」
梨沙は答えた。
AIブームが崩れたからといって、
AIという技術が
消えるわけではない。
半導体株が下がったからといって、
半導体が不要になるわけでもない。
熱狂が嘘だったことと、
技術が嘘だったことは違う。
未来を買い過ぎた市場が
間違っていたのであって、
未来そのものが
間違っていたわけではない。
拓海は、
自社株をすべて売ることは
しなかった。
ただし、
生活費まで入れることをやめた。
二倍型の商品は売った。
父も、
残った株の一部を売り、
母のための現金を確保した。
梨沙は、
会社の再教育制度を利用しながら、
顧客支援の経験を生かせる
新しい職場を探し始めた。
大きな夢を捨てたのではない。
夢が生活を食べない大きさへ
植え替えた。
植物へ水をやりながら、
梨沙が言った。
「木って、
上だけ伸びるんじゃないんだね」
「根も伸びる」
「見えないけど」
「見えない方が大事なのかもな」
市場は、
見える成長だけを評価する。
売上。
利益。
株価。
利用者数。
けれど人間が生き残るために
必要なのは、
見えないところへ伸びる根だった。
貯金。
技術。
家族。
友人。
逃げ道。
助けを求める言葉。
株価には表示されない資産。
それらが、
倒れた後の土に残る。
──────────────
■第15章
✲空を見ない木
一年後。
東亜メモリーデバイスの株価は、
最高値には戻っていなかった。
会社は、
過剰な設備投資を見直した。
新工場は、
規模を縮小して建設を再開した。
AI需要は消えなかった。
ただし、
無限ではないことが分かった。
梨沙は、
中小企業向けの
業務支援会社へ転職した。
AIを使いながら、
顧客の相談にも
人が対応する会社だった。
給料は少し下がった。
しかし契約社員ではなく、
正社員になった。
拓海も会社に残った。
以前のように、
株価を一日に何度も見ることは
なくなった。
二人は、
古い賃貸住宅へ引っ越した。
広くはない。
駅からも少し遠い。
窓の外には、
一本の小さな木があった。
枝は曲がっている。
隣の建物に日光を遮られ、
上へまっすぐ伸びることが
できなかったらしい。
その代わり、
枝は横へ広がっていた。
春になると、
小さな花が咲いた。
「この木、
格好悪いね」
梨沙が言った。
「そうか?」
「まっすぐじゃない」
拓海は窓を開けた。
「空だけ見てないんじゃないか」
「どういう意味?」
「上に行けないから、
横へ伸びた」
「負けたってこと?」
「違うよ」
拓海は笑った。
「生き残ったってこと」
以前の拓海は、
高く伸びることだけが
成長だと思っていた。
株価。
給料。
時価総額。
設備投資。
数字が上へ向かえば、
未来も正しいと考えていた。
けれど、
木は空まで伸びない。
上へ伸びられない木は、
横へ枝を出す。
風の強い木は、
根を深くする。
倒れた木の下から、
新しい芽が出る。
成長には、
一つの方向しか
ないわけではない。
梨沙が、
窓辺の植物へ水をやった。
早紀から預かった植物は、
新しい鉢の中で
葉を増やしていた。
「今日、
淳さんと美果さんが
来るんだよね」
「うん」
第一部の淳と美果は、
結婚していた。
式は挙げていない。
家も買っていない。
それでも二人で、
小さな弁当店を始める準備を
しているという。
午後、
淳と美果がやって来た。
美果は、
紙袋からラーメンを取り出した。
「開店祝いでもないけど」
「何でラーメン?」
梨沙が笑った。
美果は言った。
「小さな幸福だから」
四人は、
狭い部屋のテーブルを囲んだ。
株価の話。
仕事の話。
親の話。
失った金の話。
それでも残ったものの話。
淳が窓の外の木を見た。
「この木、
曲がってるな」
拓海が答えた。
「空まで伸びようと
しなかったんですよ」
「賢い木だ」
美果が笑った。
「高く伸びると、
風も強いからね」
梨沙は、
四つの丼へスープを注いだ。
豪華な食事ではない。
未来を祝うシャンパンもない。
それでも、
四人は同じテーブルにいた。
失敗した人間としてではない。
一度、
未来を買い過ぎた世界から、
自分たちの時間を
少しだけ取り戻した人間として。
夜になり、
拓海は父へ電話をした。
「台所、
直すことにした?」
「ああ」
父が答えた。
「全部新しくするのはやめた」
「どうするの?」
「壊れたところだけ直す」
「そうか」
「お前の母さんがな」
父は少し笑った。
「家も人生も、
全部新品にしなくていいってさ」
電話を切ったあと、
拓海は窓の外を見た。
小さな木は、
街灯の下で揺れていた。
空へ届くことはない。
世界一高い木にもならない。
ニュースに
取り上げられることもない。
それでも、
春には花を咲かせる。
鳥が休む。
夏には、
少しだけ影を作る。
それで十分なのかもしれない。
未来とは、
誰より高く伸びることではない。
倒れたあとにも、
誰かが休める場所を
残すことなのかもしれない。
木は空まで伸びない。
だから人間は、
空へ届かなかった自分を
恥じなくていい。
高く伸びられなければ、
横へ伸びればいい。
速く進めなければ、
根を張ればいい。
一人で立てなければ、
誰かと枝を重ねればいい。
世界が逆回転しても、
人間は、
成長の向きを変えることができる。
窓辺の木から、
一枚の花びらが落ちた。
落ちた花びらは、
終わりではなかった。
土へ戻り、
次の根を育てる
小さな始まりだった。
────────────────
❥ Z世代、
そして
未来を買い過ぎたすべての人へ
あなたが見ている株価は、
会社そのものではありません。
あなたが見ている会社の評価も、
あなた自身の価値ではありません。
上昇しているとき、
世の中は成長を褒めます。
速く。
大きく。
高く。
昨日より多く稼ぎ、
去年より高い評価を得て、
周囲より先へ進むことを
求めます。
けれど、
木は空まで伸びません。
会社も伸び続けません。
市場も、
人生も、
上へだけ
進み続けることはできません。
良い決算でも、
株価が下がることがあります。
一生懸命働いても、
会社の都合で
仕事を失うことがあります。
正しい技術を学んでも、
もっと新しい技術が
現れることがあります。
それは、
あなたが無価値になったという
意味ではありません。
社会が、
成長の速度を
速く設定し過ぎたのです。
未来を信じることは、
悪いことではありません。
AIも半導体も、
私たちの生活を
変えるでしょう。
新しい技術は、
多くの人を助けるでしょう。
けれど、
一つの未来へ
すべてのお金と希望を
預けないでください。
給料。
貯金。
友人。
家族。
健康。
学び直す力。
助けを求められる相手。
それらも、
あなたの資産です。
株価の画面には表示されません。
けれど、
市場が崩れた日に
あなたを支えるのは、
画面に表示されない資産の方です。
上へ伸びることに疲れたら、
横へ枝を伸ばしてください。
立ち止まって、
根を深くしてください。
他人より遅れてもいい。
途中で方向を変えてもいい。
一度選んだ仕事を
一生続けなくてもいい。
失敗した投資を、
人生全部の失敗にしないでください。
木が倒れても、
森は終わりません。
光が入ります。
新しい芽が出ます。
倒れた木も、
土になります。
あなたが失ったものの中にも、
次のあなたを育てるものが
残っています。
どうか、
高く伸びられなかった自分を
責めないでください。
空に届かなくても、
誰かの隣へ
枝を伸ばすことはできます。
その枝の下で、
疲れた誰かが少し休めるなら、
それも立派な成長です。
───────────────
★あとがき
✲ホームズとワトソン
――空まで伸びない木・
爆笑市場推理漫才――
ロンドン、
ベーカー街二二一B。
ホームズは、
株価チャートを見つめていた。
ワトソンが、
植木鉢を抱えて部屋へ入ってきた。
ワトソン
「ホームズ、大変や!」
ホームズ
「また何か暴落したのか」
ワトソン
「この植木、
一週間で二センチも伸びた!」
ホームズ
「それは成長だ!」
ワトソン
「今のうちに買い増しや!」
ホームズ
「植木を株式扱いするな」
ワトソン
「この成長率なら、
年率換算でえらいことになるぞ!」
ホームズ
「植物を複利計算するな」
ワトソン
「十年後には、
空まで届くんちゃうか」
ホームズ
「木は空まで伸びない」
ワトソン
「出たな、
今日のタイトル回収」
ホームズ
「タイトルを回収するのは
私の役目だ」
ワトソン
「ほな、
わしは配当を回収するわ」
ホームズ
「この木に配当はない」
ワトソン
「花が咲くやろ」
ホームズ
「それは配当ではない」
ワトソン
「実がなったら、
株主優待や」
ホームズ
「君は何でも金融商品にするな」
ワトソンは、
植木鉢を窓辺へ置いた。
ワトソン
「しかしホームズ。
好決算なのに株が下がるって、
おかしないか?」
ホームズ
「おかしくない。
市場は現在の利益ではなく、
期待との差を見る」
ワトソン
「百点取っても、
親が百二十点期待してたら
怒られるようなもんか」
ホームズ
「百点満点で百二十点を
期待する親が悪い」
ワトソン
「市場は毒親やな」
ホームズ
「かなり騒がしい毒親だ」
ワトソン
「上がったら、
もっと上がれ。
下がったら、
何で下がった。
会社も大変やな」
ホームズ
「人間も同じだ」
ワトソン
「何がや」
ホームズ
「給料が上がれば、
もっと働けと言われる。
成果を出せば、
次はさらに高い成果を
求められる」
ワトソン
「わしは成果出してへんから
安全やな」
ホームズ
「君は期待もされていない」
ワトソン
「言い方!」
ホームズ
「安全資産だ」
ワトソン
「もうちょっと
価値ある言い方せえ!」
ホームズは、
チャートを指した。
ホームズ
「この株を見たまえ。
一日で二十%下がっている」
ワトソン
「買い時や!」
ホームズ
「なぜそう思う」
ワトソン
「昨日より二割引きや」
ホームズ
「スーパーの総菜ではない」
ワトソン
「半額シール貼ったら
もっと売れるぞ」
ホームズ
「株券に半額シールを貼るな」
ワトソン
「レバレッジ二倍なら、
半額シールも二枚や!」
ホームズ
「損失も二倍だ」
ワトソン
「利益も二倍やろ」
ホームズ
「君のような人が
市場の養分になる」
ワトソン
「誰が肥料や!」
ホームズ
「植物には必要だ」
ワトソン
「うまいこと植木へ戻すな!」
二人は、
窓辺の木を見た。
ワトソン
「ホームズ。
この木、
まっすぐ伸びてへんな」
ホームズ
「光の方向へ
枝を曲げたのだろう」
ワトソン
「根性ないな」
ホームズ
「適応力があると言いなさい」
ワトソン
「人間も、
まっすぐ出世せんでもええんか」
ホームズ
「もちろんだ」
ワトソン
「途中で仕事変えても?」
ホームズ
「いい」
ワトソン
「失敗しても?」
ホームズ
「いい」
ワトソン
「結婚できんでも?」
ホームズ
「それは君の場合、
適応ではなく結果だ」
ワトソン
「最後に刺すな!」
ホームズは、
少し笑った。
ホームズ
「だがワトソン。
高く伸びることだけが
成長ではない」
ワトソン
「横へ太るのも成長か」
ホームズ
「君の場合は
成長ではなく肥大だ」
ワトソン
「人の腹を企業決算みたいに
言うな!」
ホームズ
「売上は横ばい、
費用だけ増加」
ワトソン
「赤字企業扱いすな!」
ホームズ
「構造改革が必要だ」
ワトソン
「何を削るんや」
ホームズ
「夜食」
ワトソン
「希望退職より厳しいわ!」
ワトソンは、
テーブルのビスケットへ
手を伸ばした。
ホームズが、
先に皿を持ち上げた。
ワトソン
「何すんねん!」
ホームズ
「過剰投資を防いでいる」
ワトソン
「一枚くらいええやろ」
ホームズ
「昨日、
五枚食べた」
ワトソン
「長期的には必要や」
ホームズ
「何に」
ワトソン
「わしの成長に」
ホームズ
「木は空まで伸びない」
ワトソン
「わしの腹は横へ伸びる!」
ホームズ
「誇るな!」
二人の声が、
ベーカー街に響いた。
窓辺の木は、
空を目指さず、
静かに光の方向へ
枝を伸ばしていた。
市場が上がっても、
市場が下がっても、
木は自分の速度で
葉を増やしていた。
そしてワトソンも、
ビスケットの方向へ
腕を伸ばしていた。
ホームズ
「その枝は切る」
ワトソン
「剪定するなーっ!」
世界は逆回転していた。
それでも、
空へ届かなかった者たちは、
笑いながら、
別の方向へ伸びていた。




