逆回転する世界 ーー小さな幸福の分割払いーー
✦ 逆回転する世界
ーー小さな幸福の分割払いーー
《世界は、ある日突然、
壊れるのではない。
昨日まで買えたものが、
今日から少し遠くなる。
夢を一つ諦め、
その代わりに、
小さな幸福を一つ買う。
その小さな交換を、
何百万人もの人間が
同時に始めたとき、
世界は音もなく、
逆回転を始める。》
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★目次
■第1章 四つの扉が閉じた日
――就職、独立、結婚、子ども
■第2章 四十歳になる前の家
――人生を始める場所が、人生後半の買い物になる
■第3章 十年間で消えたもの
――家を買えなかった時間の値段
■第4章 帰れる実家、帰れない実家
――親の家が最後の社会保障になる
■第5章 婚姻届の前に通帳を開く
――恋愛が家計簿に変わる夜
■第6章 来年こそ、という無期限延期
――待っているうちに、人生の方が先へ行く
■第7章 家族なのに、家族ではない
――一枚の紙が開く扉
■第8章 六万二千円から始まる転落
――大事件ではなく、小さな故障が未来を壊す
■第9章 故障する日常
――貯金が、未来ではなく昨日を守るために消える
■第10章 走るほど逃げられない車
――通勤手段が債務装置に変わる
■第11章 所有した家に所有される
――持ち家という、壊れ続ける機械
■第12章 病院より、休むことが怖い
――病気になった日に席を失う社会
■第13章 父の背中が小さくなった日
――親の老後と、自分の老後
■第14章 現金を持つ老人たち
――若者が住宅市場から消える日
■第15章 小さな幸福の分割払い
――夢を買えない夜に、背脂を増す
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■第1章
四つの扉が閉じた日
午前六時四十分。
スマートフォンのアラームが鳴るより、
三秒早く淳は目を覚ました。
天井には、
小学生の頃に貼った蛍光色の星が、
まだ二つ残っていた。
昔は十二個あった。
高校を卒業する頃に三つ剥がれ、
就職した年に二つ落ちた。
父が腰を悪くした冬にも、
一つ、音もなく消えた。
残った二つを、
淳は自分から剥がさなかった。
いつかこの家を出る日、
最後に自分の手で剥がすつもりだった。
その「いつか」が、
二十年近く、
天井に貼りついたままだった。
三十八歳。
中堅のIT関連会社に勤務。
正社員。
年収は、
学生時代に思い描いていた額より
少しだけ多い。
それでも淳は、
十八歳まで暮らした子ども部屋で
朝を迎えていた。
台所へ行くと、
母が味噌汁を温めていた。
「今日も遅いの?」
「たぶん」
「たぶんって、何時?」
「会社に聞いてくれ」
「会社はあんたのお母さんじゃないよ」
母は笑った。
淳も笑った。
だが、
母が振り向いたとき、
食卓の上に置かれた薬袋が見えた。
父の腰痛の薬だった。
仕事はある。
実家を出ることも、
理屈の上ではできる。
七年付き合っている恋人もいる。
子どもが嫌いなわけでもない。
ところが、
それらを一つの人生に並べようとすると、
数字が合わなかった。
家賃。
奨学金の返還。
自動車保険。
食費。
光熱費。
通信費。
老後資金。
父の通院。
母のこれから。
恋人との生活。
結婚。
子ども。
一つ一つなら払える。
全部並べると、
未来だけが赤字になる。
日本では、
男性の平均初婚年齢は三十一歳前後、
女性は三十歳前後になっている。
淳は、平均から七年遅れていた。
恋人の美果も三十五歳だった。
けれど二人は、
結婚を拒んでいたわけではない。
結婚できる条件が揃う日を、
待っていただけだった。
条件が揃わないまま、
時間だけが条件を悪くしていった。
独立には家賃。
結婚には安定。
子どもには部屋。
部屋には住宅。
住宅には頭金。
頭金を貯めている間にも、
物価と家賃は上がった。
ゴールが、
こちらの足音を聞いて逃げていく。
努力不足と言われないために、
人は走る。
けれど、
走れば走るほど、
到着したときの年齢だけが増えていく。
通勤電車の中で、
美果からメッセージが届いた。
《今夜、少し話せる?》
淳は画面を閉じた。
結婚の話かもしれないと思った。
本当なら、
指輪や新しい部屋を
思い浮かべる場面だった。
だが淳の頭に最初に浮かんだのは、
家賃だった。
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■第2章
四十歳になる前の家
不動産会社の営業担当者は、
まぶしいほど明るい声で言った。
「最近は皆さん、
時間をかけて探されますから」
淳と美果の前に置かれた資料には、
駅から徒歩十九分、
築三十八年の中古住宅が載っていた。
二階建て。
三LDK。
小さな庭。
屋根には黒い雨染み。
価格は、
二人が想像していた金額より
一千万円高かった。
「これでも、この地域では
比較的お手頃なんですよ」
お手頃。
その言葉は、
現代で最も意味を失った言葉の
一つかもしれない。
淳は資料の端に書かれた
返済例を見た。
頭金。
借入額。
管理費。
修繕費。
固定資産税。
月々の数字だけを見れば、
払えない額ではない。
けれどそこには、
壊れた給湯器も、
父の入院も、
美果が仕事を休む可能性も
書かれていなかった。
美果が、
返済期間の欄を指でなぞった。
「三十五年ローンだって」
「うん」
「淳、完済するとき七十三歳だよ」
営業担当者の笑顔が、
ほんの一瞬止まった。
「繰り上げ返済もできますから」
繰り上げ返済。
それは、
未来の収入が現在より増えることを
前提にした言葉だった。
だが淳の会社では、
五年前に入社した若者の初任給が上がり、
淳の給料との差は小さくなっていた。
若者を採用するためには、
給料を上げなければならない。
一方で、
すでに働いている人間の人生は、
据え置かれた。
淳は窓の外を見た。
隣の区画では、
高齢の夫婦が不動産担当者と
話していた。
声が聞こえた。
「現金で払います」
淳は、
自分の手の中の返済表を見た。
若者は給料で家を買う。
資産を持つ人は、
過去に買った家の値上がり益で
次の家を買う。
同じ市場に立っていても、
使っている通貨が違う。
美果が小さく言った。
「犬、飼いたかったな」
「家を買ってからって言ってたな」
「子どもの頃からね」
家を買ったら犬を飼う。
家を買ったら子どもを考える。
家を買ったら家具を揃える。
家を買ったら親を呼ぶ。
「家を買ったら」という言葉の中に、
いくつもの人生が保管されていた。
けれど、
保存期限は書かれていない。
海の向こうの米国では、
初めて家を買う人の年齢が
四十歳に達したという報道もあった。
日本とは制度も文化も違う。
それでも淳には、
それが外国の話には思えなかった。
日本も同じ方向へ、
少し静かに、
少し遅れて歩いているように見えた。
人生で最初に買う家が、
人生の最後まで払い続ける家になる。
住宅は、
家庭を始める場所から、
人生後半に獲得する勲章へ
変わりつつあった。
ただしその勲章には、
毎月、利息が付いた。
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■第3章
十年間で消えたもの
会社の昼休み。
同僚の拓真が、
スマートフォンでマンション価格を
眺めていた。
「また上がったよ」
拓真は三十歳になる前に
マンションを買っていた。
頭金の半分は、
両親が出した。
淳と拓真の給料は、
それほど違わない。
働く時間も、
責任の重さも似ている。
だが拓真の資産は、
眠っている間にも値上がりした。
淳の預金は、
物価が上がるたびに
少しずつ買えるものを失った。
「家賃払うくらいなら、
買った方が得だよ」
拓真は、
悪意なく言った。
それは正しい。
正しい言葉ほど、
できない人間を深く傷つける。
淳は笑った。
「そうだな」
その日の昼、
淳はいつもより三百円安い弁当を買った。
三百円。
毎日続ければ、
一年でそれなりの額になる。
けれど、
住宅価格の上昇には追いつかない。
それでも節約をやめれば、
努力不足と言われる。
だから人は節約する。
届かないことを知りながら。
米国では、
住宅購入を十年遅らせることで、
住宅資産を形成する機会が
大きく失われるという試算がある。
だが淳が失ったのは、
資産だけではなかった。
美果と二人で暮らせたはずの十年。
犬を飼えたかもしれない十年。
まだ若かった両親を、
新しい家へ呼べたかもしれない十年。
お金に換算できるものより、
換算できないものの方が多かった。
夕方、
拓真が机の横で言った。
「子ども、もう一人欲しいんだけどさ。
修繕積立金が上がって厳しくて」
家を買った拓真も、
自由ではなかった。
買えなかった者は、
外から家を見上げる。
買った者は、
中からローン残高を見つめる。
どちらも同じ窓の前で、
違う形のため息をついていた。
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■第4章
帰れる実家、帰れない実家
淳には、
帰る家があった。
正確には、
出ていくことのできなかった家が
残っていた。
美果には、
帰れる実家がなかった。
両親は、
美果が大学生の頃に離婚した。
母は小さな賃貸住宅で
一人暮らしをしている。
父とは、
もう十年以上会っていない。
「実家に住めば、
お金が貯まるじゃない」
職場の人にそう言われるたび、
美果は笑ってごまかした。
その言葉は、
美果にとって小さな刃物だった。
実家は、
誰にでも与えられた無料住宅ではない。
親が家を持っていること。
親子関係が壊れていないこと。
職場へ通える場所にあること。
一部屋余っていること。
親がまだ、
子どもを受け入れられるだけの
生活を保っていること。
いくつもの条件を満たした者だけが、
実家という避難所を利用できる。
淳は、
自分の子ども部屋を見回した。
古い学習机。
高校時代の辞書。
母が捨てられずに置いている
体育祭の写真。
自分は人生を始められなかったと
思っていた。
けれど、
人生が壊れたときに戻れる場所を
最初から持っていた。
そのことに、
三十八歳になるまで気づかなかった。
ある日、
美果の母の冷蔵庫が壊れた。
「私が買うよ」
美果は迷わず言った。
「貯金、大丈夫なのか」
淳が聞くと、
美果は少し笑った。
「お母さんには、
帰る家を作ってもらえなかったから。
せめて、
食べ物が腐らない家にはしてあげたい」
その言葉を聞いたとき、
淳は何も言えなかった。
家とは、
不動産登記された建物だけではない。
失業した日に眠れる布団。
病気のときに飲める味噌汁。
別れた日に、
鍵を開けてもらえる住所。
それらもすべて、
住宅が生む配当だった。
現代の格差は、
預金残高だけには現れない。
帰れる場所があるか。
そこにも、
残酷な数字が隠れている。
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■第5章
婚姻届の前に通帳を開く
美果が「話したい」と言った夜、
二人は駅前のファミリーレストランにいた。
美果は結婚の話をしなかった。
代わりに、
一枚の紙を鞄から出した。
奨学金の返還予定表だった。
紙を出す前に、
美果は水を三口飲んだ。
喉が渇いていたのではない。
金額を口にするまでの時間を、
三口分だけ買ったのだ。
「黙ってたわけじゃないの」
「うん」
「聞かれなかったから」
淳は紙を見た。
毎月の返還額。
残りの年数。
残高。
一つ一つは、
人生を破壊するほど大きな数字ではない。
けれど、
結婚、家賃、老後、母への仕送りと
横に並べると、
その数字は違う表情になった。
日本では、
貸与型奨学金を月額五万円、
四年間借りれば、
総額は二百四十万円になる。
返還は卒業後も、
十年以上続くことがある。
学ぶために借りたお金が、
家庭を始める年齢になっても
生活の席に座っている。
「私と結婚したら」
美果は言った。
「この返還も、
一緒に暮らすことになるよ」
淳は紙を二つに折った。
「借金とは結婚しない」
美果は笑わなかった。
「でも借金は、
私たちの家についてくるよ」
恋愛は、
二人だけで始められる。
結婚には、
銀行と不動産会社と保険会社と、
両方の親の老後が参加する。
愛は数字ではない。
けれど数字を無視すれば、
愛が毎月少しずつ傷つく。
二人はその夜、
初めて互いの通帳を見せ合った。
貯金。
奨学金。
自動車ローン。
クレジットカード。
親への仕送り。
恥ずかしいのは、
お金が少ないことではなかった。
好きな人に、
自分の未来がどれほど狭いかを
見せることだった。
美果の目から、
涙が一滴落ちた。
「ごめんね」
淳は首を振った。
「謝るなよ」
「でも」
「学校へ行ったことを、
謝るな」
美果は、
紙を見つめたまま泣いた。
淳は、
向かい側へ手を伸ばした。
触れたのは、
指輪のない指だった。
それでもその手は、
一人で数字を抱えていたときより
少しだけ温かかった。
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■第6章
来年こそ、という無期限延期
「来年になったら、結婚しよう」
淳は言った。
その言葉を口にした瞬間、
去年も同じことを言った気がした。
来年。
人間が未来へ押し込んだものを、
一時的に保管する便利な箱。
給料が上がったら。
家賃が落ち着いたら。
奨学金が減ったら。
金利が下がったら。
父の腰が良くなったら。
美果の母の生活が安定したら。
条件は、
いつも正しかった。
そして正しい条件ほど、
永遠に揃わなかった。
「来年って、何が変わるの?」
美果が聞いた。
淳は答えられなかった。
来年、
給料は少し上がるかもしれない。
けれど家賃も上がる。
食料品も上がる。
保険料も上がる。
奨学金の残高は減る。
その代わり、
父と母は一歳年を取る。
未来は、
こちらが準備を整えるまで
静止して待ってくれない。
日本では、
経済的不安や将来の所得への不確実性が、
結婚の意思を弱めることが
調査でも示されている。
若者が愛を失ったのではない。
愛を生活へ変えるための料金が、
高くなりすぎたのだ。
「式はいらないよ」
美果が言った。
「指輪もいらない。
新婚旅行も、
近場でいい」
夢を一つずつ削っていく。
式を削る。
指輪を削る。
旅行を削る。
新居を削る。
それでも数字が合わなければ、
最後に削るのは何だろう。
家か。
子どもか。
結婚そのものか。
「来年こそ」という言葉は、
最初は希望に聞こえる。
けれど何度も繰り返されると、
それは別れの予告になる。
美果は窓の外を見た。
駅前の結婚式場から、
白いドレスの女性が出てきた。
強い風に、
ベールが揺れていた。
美果は小さく笑った。
「きれいだね」
淳は、
美果の横顔を見た。
自分が守ろうとしているものは、
本当に二人の未来なのか。
それとも、
失敗しないための言い訳なのか。
その区別が、
もう分からなくなっていた。
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■第7章
家族なのに、家族ではない
淳と美果は結婚せず、
先に一緒に暮らすことにした。
二人はそれを前進と呼んだ。
親たちは、
中途半端と呼んだ。
会社は二人を単身者として扱い、
大家は同居人として扱った。
病院では、
法律上の家族ではないと言われた。
ある冬の夜、
美果が高熱を出した。
救急外来の受付で、
職員が淳に尋ねた。
「ご関係は?」
「パートナーです」
「ご家族ですか?」
「一緒に暮らしています」
「法律上のご関係は?」
淳は答えに詰まった。
七年間付き合い、
同じ部屋で眠り、
同じ冷蔵庫を使い、
互いの通帳も、
親の病気も知っている。
それでも二人の関係を証明する紙は、
どこにもなかった。
税金。
保険。
医療。
住宅。
相続。
勤務先の手当。
婚姻届を出した瞬間にだけ、
開く扉がいくつもある。
美果が処置室から戻ったとき、
淳は待合室で眠っていた。
椅子の上で体を折り、
美果の鞄を胸に抱えていた。
美果は、
しばらく声をかけなかった。
この人は家族ではない。
制度の上では。
けれど、
夜中の二時に自分の鞄を抱いて
待ってくれる人を、
ほかに何と呼べばいいのだろう。
美果は淳の肩に、
自分の上着をかけた。
その上着には、
二人の名字のどちらも
書かれていなかった。
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■第8章
六万二千円から始まる転落
淳のノートパソコンが壊れた。
修理費は六万二千円。
仕事用ではない。
だが、
休日の副業に使っていた。
修理しなければ、
副収入が消える。
修理すれば、
今月の貯金が消える。
六万二千円は、
人生を破壊するほどの大金ではない。
けれど、
未来のために積み上げた貯金を
今月もゼロへ戻すには十分だった。
金融危機という言葉から、
人は巨大銀行の倒産を想像する。
だが個人の金融危機は、
もっと小さい。
タイヤが破裂する。
歯が欠ける。
冷蔵庫が止まる。
スマートフォンを落とす。
親が転ぶ。
一つ一つは、
ニュースにならない。
けれど、
手をつく余裕のない人間にとって、
小さな段差は崖になる。
修理店の支払い画面には、
優しい文字が表示された。
《あとから分割に変更できます》
未来の給料を先に使うことを、
優しく勧める言葉だった。
海の向こうの米国では、
急な四百ドルの支出に
すぐ対応できない人が
少なくないという。
制度も金額も違う。
だが、
小さな故障が未来の貯金を奪う構造は、
日本にもあった。
淳はカードを差し込んだ。
一括払いを選ぶ指が、
一度止まった。
その六万二千円は、
美果との新居のために
貯めた金だった。
画面の中で、
「一括」という文字だけが
静かに光っていた。
淳は押した。
パソコンは直る。
未来は、
また少し遠くなる。
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■第9章
故障する日常
美果の母の冷蔵庫。
淳の車のタイヤ。
美果の奥歯。
三つの故障は、
二週間のうちに起きた。
どれも、
世界的な危機ではない。
ニュースにもならない。
けれど、
二人の結婚資金はほとんど消えた。
「また貯めればいいよ」
淳が言った。
美果は笑った。
「前も、そう言ったね」
貯金は、
未来を買うためのものだった。
今では、
現在の故障を埋めるために使われる。
前へ進むためではなく、
昨日と同じ場所から落ちないために
働いている。
そんな日々が続くと、
人は長期計画を立てなくなる。
どうせまた何かが壊れる。
どうせ貯金は消える。
どうせ計画は延期される。
ならば今日、
少しくらい好きなものを買っても
いいではないか。
遠い未来に十万円を貯めても、
何かが壊れれば消えてしまう。
それなら今夜、
二千円の幸福を買った方が
確実ではないか。
これは、
意志が弱くなったのではない。
未来の信頼性が、
低下したのである。
美果は、
欠けた歯を舌で触った。
痛みはなかった。
まだ。
「来月、歯医者に行く」
「今週行けよ」
「今月は冷蔵庫を買ったから」
「俺が払う」
「淳だって、
パソコン直したばかりでしょう」
二人は、
互いを助けようとするたびに、
相手の未来を削ることになった。
優しさにも、
残高が必要だった。
────────────────────
■第10章
走るほど逃げられない車
淳の住む地域では、
車がなければ仕事へ行けなかった。
公共交通は少ない。
最終バスは早い。
残業をすれば帰れない。
車はぜいたく品ではない。
労働へ参加するための
入場券だった。
ある朝、
エンジンをかけると異音がした。
修理工場の担当者は言った。
「今すぐ走れなくなるわけでは
ありません」
その言葉は危険だった。
今すぐではない。
だから今月は修理しない。
来月なら払えるかもしれない。
だが来月には、
小さな故障が大きな故障へ
育っているかもしれない。
お金に余裕がない人ほど、
安い修理を延期して、
高い修理を払うことになる。
軽い症状を我慢し、
重い病気になってから病院へ行く。
安い保険を解約し、
大きな事故を自分で背負う。
節約が、
将来の支出を増やしていく。
車が壊れる。
修理費を借りる。
借金を返すために働く。
働くために車を使う。
車を使うから、
また壊れる。
走るほど、
循環から逃げられない。
信号待ちで、
警告灯が点滅した。
人生にも、
同じ警告灯があった。
ただし、
それを修理する金額は
表示されなかった。
助手席には、
美果が買った小さな観葉植物があった。
二人で暮らす部屋に置くつもりで、
半年前に買ったものだった。
まだ新居はない。
植物だけが、
助手席で少しずつ育っていた。
────────────────────
■第11章
所有した家に所有される
拓真から電話があった。
マンションの給湯設備が
壊れたという。
「持ち家っていいぞって
言ったけどさ」
拓真は乾いた声で笑った。
「壊れたら全部、
自分で払うんだな」
住宅を所有することは、
自由を得ることだと言われる。
壁に穴を開けられる。
好きな家具を置ける。
追い出される心配がない。
けれど住宅は、
住人より長く存在する
巨大な機械でもある。
屋根。
配管。
給湯器。
外壁。
排水。
窓。
電気設備。
一つ一つが寿命を持ち、
順番に請求書を送ってくる。
拓真は、
住宅ローンと修繕費を払うために
転職を諦めた。
二人目の子どもも、
しばらく見送ることにした。
会社を辞めれば、
家を失うかもしれない。
家を守るために、
嫌な仕事を続ける。
いつの間にか、
拓真が家を所有しているのではなく、
家が拓真の時間を
所有していた。
「それでも」
拓真は電話の向こうで言った。
「子どもが壁に落書きしたんだ」
「怒ったのか」
「いや」
少し間があった。
「自分の家だから、
消さなくてもいいと思った」
淳は黙った。
住宅は人を縛る。
けれど、
人の記憶を残す場所にもなる。
持つことの苦しさと、
持てないことの寂しさ。
どちらか一方だけが
真実ではなかった。
────────────────────
■第12章
病院より、休むことが怖い
美果の奥歯の痛みは、
鎮痛剤で消えた。
正確には、
一時的に隠れた。
歯科医院へ行けば、
治療費がかかる。
それ以上に、
仕事を休む必要があった。
美果は契約社員だった。
有給休暇はある。
制度上は。
けれど人員の少ない職場では、
休んだ翌日に、
机の上へ見えない借金が置かれる。
迷惑をかけた。
誰かが代わりに残業した。
次の契約更新は大丈夫だろうか。
日本には公的医療保険がある。
高額な医療費を軽減する制度もある。
それでも、
病院へ行けばすべて安心という
わけではない。
診察代。
薬代。
交通費。
休んだ日の収入。
職場での立場。
病気は、
身体と家計の両方に請求書を送る。
ある深夜、
美果の痛みが急に強くなった。
「救急に行こう」
淳が言った。
「明日、仕事なんだ」
「そんな状態で行けるわけないだろ」
「休んだら、
来月の契約更新に響くかもしれない」
美果が怖がったのは、
病名ではなかった。
治療費だけでもなかった。
一日休んだあとに、
自分の席が残っているかだった。
病院へ向かうタクシーの中で、
美果は泣いた。
痛いからではない。
歯一本のために、
また二人の予定を変えなければ
ならないからだった。
淳は美果の手を握った。
「予定なんて、また作ればいい」
「何回作り直せばいいの」
淳は答えられなかった。
タクシーの窓に、
街の光が流れていた。
未来もあんなふうに、
触れられないまま
後ろへ消えていくように見えた。
────────────────────
■第13章
父の背中が小さくなった日
淳の父が仕事を辞めた。
予定より二年早かった。
腰の痛みが、
もう限界だった。
退職金は、
住宅ローンの残りと
家の修繕に使うという。
「お前たちに迷惑はかけない」
父は言った。
それは、
親が子どもにつく、
最も優しい嘘だった。
ある朝、
父が靴下を履けずに
困っているのを見た。
淳が膝をつき、
父の足へ靴下を通した。
子どもの頃、
靴ひもを結んでくれた大きな手が、
今は椅子の端を握っていた。
「悪いな」
父が言った。
「何が」
「こんなことまでさせて」
淳は顔を上げなかった。
「昔、やってもらったから」
「覚えてないだろ」
「覚えてなくても、
やってもらったんだよ」
父の背中は、
子どもの頃には壁のように大きかった。
今は、
古い上着の中で小さくなっていた。
その背中を、
自分が支える番が来ていた。
淳は自分の老後を考える。
同時に、
父の通院費を考える。
美果は奨学金を返す。
同時に、
母の家賃を心配する。
二人にはまだ、
子どもはいない。
子どもを持てば、
支える方向が三つになる。
「子ども、欲しい?」
ある夜、
美果が尋ねた。
淳は長い間、
答えられなかった。
欲しいかどうかと、
持てるかどうかは違う。
感情の質問へ、
家計の数字が割り込んでくる。
「欲しいよ」
淳はようやく言った。
美果は、
少し驚いた顔をした。
「でも、怖い」
「うん」
「できるかどうかも分からない」
「うん」
「それでも欲しい」
美果の目から、
静かに涙が落ちた。
その涙は、
悲しいだけの涙ではなかった。
二人が長い間、
数字の奥へ隠してきた願いが、
ようやく言葉になった涙だった。
────────────────────
■第14章
現金を持つ老人たち
淳と美果が検討していた中古住宅は、
内覧から三日後に売れた。
買ったのは、
六十代の夫婦だった。
全額現金。
住宅ローン審査も、
頭金の準備も必要ない。
不動産担当者は言った。
「次は、もう少し早く
決断した方がいいですね」
早く決めるには、
お金が必要だ。
考える時間を買うにも、
金が要る。
淳たちは、
三十五年ローンの審査を待つ。
資産を持つ人は、
その場で振り込む。
若い世代は給料で買う。
すでに家を持つ人は、
過去に買った家の価値で
次の家を買う。
労働所得と資産所得の競争。
勝負は、
始まる前から傾いている。
淳は、
玄関に貼られた
「成約済み」の紙を見つめた。
美果は庭の隅を見ていた。
「ここに犬小屋、
置けたね」
「ああ」
「小さいのでよかったのにね」
淳は返事をしなかった。
二人より先に家を買ったのは、
六十代の夫婦ではなかった。
時間だった。
けれど帰り道、
美果が突然立ち止まった。
「私、もう家に選ばれるの、
やめたい」
「どういう意味?」
「家を買えるようになるまで、
私たちが家族になれないみたいに
考えるの、やめたい」
淳は美果を見た。
「買えないかもしれないよ」
「うん」
「ずっと賃貸かもしれない」
「うん」
「犬も飼えないかもしれない」
美果は少し考えた。
「犬は、いつか考えよう」
そして笑った。
「でも淳とは、
もう考えすぎた」
その笑顔を見たとき、
淳の中で、
長い間止まっていた何かが
少しだけ動いた。
────────────────────
■第15章
小さな幸福の分割払い
その夜、
淳と美果は駅裏のラーメン店に入った。
注文用のタブレットには、
追加項目が並んでいた。
背脂増量。
ニンニク増量。
肉追加。
チーズ追加。
麺大盛り。
淳は、
ほとんど全部を押した。
「健康診断の結果、
来てたよね」
美果が言った。
「見てない」
「絶対見たでしょう」
「今日は数字を見ない日」
住宅価格。
奨学金残高。
年金。
医療費。
貯金。
金利。
親の年齢。
二人の生活には、
数字が多すぎた。
だからラーメンくらいは、
計算せずに食べたかった。
家は買えない。
結婚式もできない。
旅行も先送りした。
けれど、
一杯二千円のラーメンなら
今すぐ買える。
未来の幸福には審査が必要だ。
今日の幸福には、
タッチ決済だけでいい。
店員が巨大な丼を置いた。
脂が照明を反射し、
ニンニクの匂いが
二人の間へ広がった。
美果は笑った。
「こんなの食べたら、
明日、後悔するよ」
淳は箸を持った。
「明日後悔するって
分かってるものは安心なんだよ」
「何、それ」
「家とか結婚とか老後って、
いつ後悔するか分からないだろ」
二人は笑った。
声を出して笑った。
久しぶりだった。
若い世代は、
ぜいたくをしているのではない。
大きな幸福を買えなくなったため、
手の届く小さな幸福を
買っている。
一生使う家具ではなく、
今夜だけの限定商品。
住宅ではなく、
ゲームの中の部屋。
新婚旅行ではなく、
動画の旅行記。
遠い未来ではなく、
自分の一週間後を乗り切るための
小さな快楽。
社会はそれを浪費と呼ぶ。
忍耐不足と呼ぶ。
若者の価値観が変わったと言う。
だが本当に変わったのは、
若者の心なのだろうか。
それとも、
努力と未来を交換する
レートの方なのだろうか。
淳はスープを飲んだ。
塩分も脂肪も多い。
身体には悪い。
だが味は明確だった。
未来には味がない。
努力しても、
報われるか分からない。
結婚しても、
幸せになれるか分からない。
家を買っても、
価値が残るか分からない。
けれど、
この一口だけは確実にうまい。
美果が言った。
「私たち、どうする?」
淳は箸を置いた。
店内では、
若い店員が食器を運んでいた。
外では電車の音がした。
世界は、
いつもの速度で動いていた。
淳たちの時間だけが、
長い間、
条件の整う日を待って止まっていた。
「結婚しよう」
美果は箸を止めた。
「家は?」
「買えないかもしれない」
「式は?」
「できない」
「指輪は?」
「今は買えない」
「子どもは?」
淳は少し黙った。
「分からない」
美果の目が揺れた。
悲しい答えだった。
けれど、
淳が初めて未来について
嘘をつかなかった答えでもあった。
「借金もあるよ」
「ある」
「親のこともある」
「ある」
「それで結婚するの?」
淳はうなずいた。
「条件が全部揃うのを待っていたら、
俺たちの方が先になくなる」
美果の目から、
涙が落ちた。
大きな幸福を手に入れる
宣言ではなかった。
完璧な未来を諦め、
不完全な現在を二人で持つという
宣言だった。
美果は財布から、
千円札を二枚出した。
淳はそれを押し戻した。
「今日は俺が払う」
美果は首を振った。
「でも、
二人の幸福でしょう」
美果は千円札を一枚だけ、
伝票の上へ戻した。
それは、
家の頭金にはならなかった。
結婚式の費用にもならなかった。
ただ、
今夜の幸福を、
どちらか一人の借金にしないための
お金だった。
二人は、
翌月役所へ行くことにした。
指輪はない。
式もない。
新居もない。
負債も不安も消えない。
それでも二人は、
未来の審査結果を待つのをやめた。
世界の逆回転を
止めることはできない。
けれど、
自分たちまで逆向きに
生きる必要はない。
店を出るとき、
淳は伝票を見た。
二人で四千三百八十円。
支払い画面には、
選択肢が表示された。
一括。
三回払い。
六回払い。
淳は一括を押した。
せめて今夜の幸福だけは、
未来へ回さなかった。
外へ出ると、
冷たい雨が降っていた。
傘は一本しかなかった。
二人は肩を寄せた。
美果の肩が少し濡れたので、
淳は傘を美果の方へ傾けた。
淳の肩が濡れた。
美果は傘を中央へ戻した。
どちらか一人だけが
濡れない方法ではなく、
二人が少しずつ濡れる方法を
選んだ。
それが、
これから二人が作る家族の形だった。
駅へ向かう途中、
美果が空を見上げた。
「雨、やまないね」
淳も空を見た。
「そのうちやむよ」
「本当?」
「分からない」
淳は笑った。
「でも、歩ける」
美果も笑った。
二人は、
一本の傘の下を歩いた。
世界は逆回転していた。
それでも人間は、
誰かの手を握ることで、
ほんの少しだけ、
前へ進むことができた。
────────────────────
❥ Z世代、
そして少し上を生きるあなたへ
あなたは、
我慢が足りないのではありません。
計画性がないのでもありません。
あなたが生きている社会では、
昔より長く働かなければ、
昔の「普通」に
届きにくくなっています。
家を持つこと。
結婚すること。
子どもを育てること。
親から独立すること。
それらは、
人間として合格するための
試験ではありません。
けれど社会は、
それらを持たない人に、
どこか足りないような目を
向けることがあります。
その目を、
あなた自身の目にしないでください。
甘い物を食べたくなる日が
あってもいい。
少し高いコーヒーを買う日が
あってもいい。
ゲームや音楽や、
好きな人のために
お金を使う日があってもいい。
人間には、
今日を生きたと思える瞬間が必要です。
ただし、
小さな幸福を、
借金で無限に買う必要はありません。
企業は、
あなたの不安を知っています。
未来が不確かな人ほど、
「今すぐ」
「限定」
「あと払い」
という言葉に反応することを
知っています。
小さな幸福を買うことは、
悪くありません。
けれど、
あなたの孤独や不安を利用して、
未来の給料まで奪おうとする仕組みには、
少し意地悪なくらい
疑い深くていい。
この物語は、
大きな夢を諦めろという話では
ありません。
昔と同じ夢を、
昔と同じ順番で持てない自分を、
失敗者だと思わなくていいという
話です。
家がなくても、
家族を作ることはできます。
豪華な式がなくても、
誰かを大切にできます。
会社で出世しなくても、
価値ある仕事はできます。
いつも前向きでなくても、
生きていけます。
悲観は、
敗北ではありません。
雨が降ると考えて
傘を持つことは、
空を憎むことではありません。
世界が逆回転する時代には、
無理に明るく笑う人より、
暗い場所でも足元を確かめ、
隣にいる人の手を離さない人の方が、
遠くまで歩けます。
あなたの人生は、
住宅価格や信用情報だけでは
決まりません。
数字は、
現実を教えてくれます。
けれど、
あなたの価値を決める権利までは
持っていません。
疲れたら休んでください。
泣きたい日は、
泣いてください。
今日できなかったことを、
明日もう一度試してください。
大きな一歩でなくていい。
誰かと一本の傘に入り、
少しずつ肩を濡らしながら歩くような、
小さな一歩でいいのです。
世界が逆回転していても、
あなたの足まで、
後ろへ向ける必要はありません。
────────────────────
★あとがき
ホームズとワトソン
――逆回転する世界・やすきよ風推理漫才――
ロンドン、ベーカー街二二一B。
ホームズは新聞を広げ、
難しい顔でパイプをくわえていた。
そこへワトソンが、
息を切らして飛び込んできた。
ワトソン
「ホームズ、大事件や!」
ホームズ
「何だね。
銀行破綻か。
住宅市場の崩壊か。
それとも奨学金返還者の
生活困窮か」
ワトソン
「近所のラーメン屋が、
背脂増量を有料にした!」
ホームズ
「帰れ」
ワトソン
「何でや!
若者の小さな幸福に対する
重大な価格転嫁やぞ!」
ホームズ
「君はいつから、
大阪経済研究所の
主任研究員になったんだ」
ワトソン
「わしゃ現場主義や。
昨日も二杯食うた」
ホームズ
「それは調査ではなく過食だ」
ワトソン
「しかしホームズ。
今の若い人は、
家を買うのも大変やな」
ホームズ
「そうだね。
三十五年ローンを組めば、
完済時には相当な年齢になる」
ワトソン
「完済祝いと米寿の祝い、
一緒にできるな」
ホームズ
「縁起でもない節約をするな」
ワトソン
「昔は三十歳で、
家と嫁さんがおったんやろ」
ホームズ
「君には昔から両方ない」
ワトソン
「やかましいわ!
わしを統計に入れるな!」
ホームズ
「外れ値なので除外しておこう」
ワトソン
「誰が外れ値や!
平均との差が大きいだけや!」
ホームズ
「それを外れ値と言うんだ」
ワトソンは、
テーブルのビスケットを
三枚まとめて口に入れた。
ホームズ
「ところでワトソン。
君はなぜ、
そんなに甘い物を食べる?」
ワトソン
「家が買えんからや」
ホームズ
「昨日までダイエット中だと
言っていただろう」
ワトソン
「大きな目標が達成できんから、
小さな幸福へ
資金を再配分したんや」
ホームズ
「菓子を食うときだけ、
言葉が中央銀行総裁になるな」
ワトソン
「今のビスケットは量的緩和や」
ホームズ
「君の腹だけインフレしている」
ワトソン
「ほな利上げせえ!」
ホームズ
「ベルトの穴を
一つ上げなさい」
ワトソン
「物理的金融引き締めやないか!」
ホームズは新聞を畳んだ。
ホームズ
「だが、
君の冗談の中にも真実はある」
ワトソン
「急に賢そうな顔するな。
さっきまで、
人の腹を物価指数扱いしてたやろ」
ホームズ
「若者は、
ぜいたくをしているのではない。
大きな幸福が遠くなったため、
確実に手に入る
小さな幸福へ向かっている」
ワトソン
「家は無理でも、
ラーメンは買える」
ホームズ
「結婚式は無理でも、
好きな人への小さな贈り物は買える」
ワトソン
「海外旅行は無理でも、
動画で世界一周できる」
ホームズ
「未来が不確かなほど、
人は今日の確実な報酬を選ぶ」
ワトソン
「ほな、
わしがビスケット食べるんも
社会構造の問題やな」
ホームズ
「君の場合は食欲の問題だ」
ワトソン
「また個人責任に戻すんかい!」
ホームズ
「何でも社会のせいにするな」
ワトソン
「何でも本人のせいにもするな!」
二人は同時に黙った。
暖炉の火が、
小さく揺れた。
窓の外では、
若い男女が一つの傘に入って
歩いていた。
ワトソン
「あの二人、
家を買えるかな」
ホームズ
「分からない」
ワトソン
「結婚できるかな」
ホームズ
「分からない」
ワトソン
「幸せになれるかな」
ホームズは、
しばらく答えなかった。
ホームズ
「家を買えることと、
幸せになることは同じではない」
ワトソン
「せやけど、
雨漏りする家より、
雨漏りせん家の方が
幸せやろ」
ホームズ
「君は感動的な場面を、
すぐ住宅設備の話に戻すな」
ワトソン
「現実は屋根から
入ってくるんや」
ホームズ
「……それは名言かもしれない」
ワトソン
「メモしとけ。
印税は半分や」
ホームズ
「なぜ君に半分なんだ」
ワトソン
「わしがおらんかったら、
あんた一人で最後まで
暗い話して終わるやろ」
ホームズ
「確かに」
ワトソン
「読者が泣いて、
立ち直れんようになる」
ホームズ
「では君の役目は何だ」
ワトソンは、
最後のビスケットを持ち上げた。
ワトソン
「泣いた読者に、
これを渡すんや」
ホームズ
「一枚しかないぞ」
ワトソン
「分割払いで」
ホームズ
「ビスケットを
分割払いにするな!」
ワトソン
「『小さな幸福の分割払い』
いうタイトルやろ!」
ホームズ
「タイトルを
物理的に再現するな!」
ワトソン
「ほな、半分やるわ」
ワトソンは、
ビスケットを二つに割った。
大きい方を自分の口へ入れ、
小さい方を
ホームズへ渡した。
ホームズ
「君はいつもそうだ」
ワトソン
「何がや」
ホームズ
「幸福を分けると言いながら、
自分が大きい方を取る」
ワトソン
「当たり前や。
わしの方が体、大きいやろ」
ホームズ
「君の体が大きい理由を、
今われわれは目撃した」
ワトソン
「細かいこと言うな。
幸福は大きさやない。
味や!」
ホームズは、
小さなビスケットを口に入れた。
少しだけ笑った。
世界は逆回転していた。
住宅は遠くなり、
借金は近くなった。
大きな幸福は、
年々高価になった。
それでも人間は、
手元に残った小さなものを
二つに割り、
誰かと分けることができた。
分け方が、
少々不公平でも。
ホームズ
「ワトソン」
ワトソン
「何や」
ホームズ
「次は私が大きい方だ」
ワトソン
「次もビスケットがあると
思うなよ。
物価高やぞ」
ホームズ
「そこを節約するから、
君は結婚できないんだ」
ワトソン
「最後に一番、
言うたらあかんこと
言うなーっ!」
ベーカー街に、
ワトソンの叫び声が響いた。
世界は逆回転していた。
けれど二人の漫才だけは、
泣いた人間の背中を
少しだけ押すように、
今日も前へ進んでいた。




