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逆回転する世界 第三部 ーー最後の変圧器ーー

✦ 逆回転する世界 第三部


ーー最後の変圧器ーー


《文明は、

 巨大な機械ではない。


 無数の小さな部品が、

 互いを信じて動くことで、

 巨大に見えているだけだ。


 電気は来る。


 水は出る。


 店には物が並ぶ。


 カードは使える。


 救急車は来る。


 私たちは、

 それらを約束だと思っている。


 けれど本当は、


 誰かが夜中に直した電線と、


 誰かが倉庫に残した予備部品と、


 誰かが辞めずに覚えていた

 技術の上に、


 今日という一日が

 辛うじて置かれている。


 世界は

 壊れやすくなったのではない。


 壊れたときに

 代わりに使うものを、


 効率化の名の下に、

 捨てすぎたのだ。》


─────────────────


★目次


■第1章 最後の変圧器


――壊れた機械より、 

 代わりがないことが怖い


■第2章 一隻の船が止める街


――海の向こうの事故が、

 食卓へ届くまで


■第3章 閉じた海峡


――遠い戦争が、

 近所のガソリン価格になる


■第4章 電気を運ぶ老人たち


――技術は若返らず、

 人だけが年を取る


■第5章 予備のない倉庫


――在庫ゼロという優等生


■第6章 黒い画面


――カードが使えない夜


■第7章 冷えない冷蔵庫


――電力不足が、命の順番を決める


■第8章 届かない薬


――物流は道路ではなく、 

 約束でできている


■第9章 停止した信号


――街は電気で秩序を保っている


■第10章 見えない侵入者


――サイバー攻撃は、

 窓を割らずに家へ入る


■第11章 コンビニの最後の弁当


――豊かさが棚から消える日


■第12章 父の工具箱


――古い技術が、最後に人を救う


■第13章 選ばれる明かり


――誰に電気を残すのか


■第14章 小さな島


――孤立した街が、

 互いを見つけ直す


■第15章 消えなかった灯


――予備とは、人の中にも残る


────────────────


■第1章


✲最後の変圧器


午前二時十三分。


市内東部の変電所で、

警報が鳴った。


赤いランプが点滅し、

制御室の画面に

異常を示す文字が並んだ。


《主変圧器・温度上昇》


高城修一は、

椅子から立ち上がった。


五十七歳。


地方電力会社の保守技術者。


勤続三十五年。


夜勤の若い社員が、

画面を見ながら言った。


「停止させますか」


修一は答えなかった。


停止させれば、

市内の一部で停電が起きる。


運転を続ければ、

内部損傷が広がる可能性がある。


機械は、

壊れる前に言葉を話さない。


温度。


振動。


油圧。


わずかな匂い。


人間が、

機械の苦しみを数字から読む。


修一は防寒着を着た。


「現場へ行く」


「危険です」


「だから行くんだ」


変電所の外は、

冷たい雨だった。


巨大な変圧器は、

暗闇の中で低く唸っていた。


街へ電気を送る、

鉄の心臓。


表面へ手を近づけると、

異常な熱が伝わった。


修一は、

耳を澄ませた。


かすかな音。


金属の奥で、

何かが擦れている。


「予備は?」


若い社員が無線で聞いた。


修一は、

すぐには答えなかった。


同じ型の予備変圧器は、

国内に一台しか残っていない。


しかも、

別の地域の電力会社が

保管している。


新しいものを製造すれば、

早くても一年。


特殊な鋼材。


絶縁油。


銅線。


大型輸送車。


港湾設備。


専門技術者。


一台の変圧器を作るために、

世界中の何十もの会社が

必要だった。


そのうち一社でも止まれば、

完成しない。


「予備はある」


修一は言った。


若い社員が少し安心した顔をした。


修一は続けた。


「ただし、ここにはない」


雨が、

鉄の表面を叩いていた。


昔は、

各地域に予備の設備があった。


余分な部品。


余分な人員。


余分な発電能力。


だが余分は、

会計上では無駄と呼ばれた。


倉庫は縮小され、


保守要員は減らされ、


設備は限界まで使われた。


効率化。


合理化。


最適化。


美しい言葉によって、


文明は予備を失っていった。


変圧器が再び低く鳴った。


修一は、

それが機械の音ではなく、


街全体のため息のように

聞こえた。


───────────────


■第2章


✲一隻の船が止める街


同じ朝。


港町のスーパーで働く

真帆は、


冷凍食品の

発注画面を見つめていた。


二十九歳。


物流管理担当。


入荷予定の欄に、

赤い文字が並んでいる。


《未定》


《遅延》


《数量変更》


輸入肉。


冷凍魚。


食用油。


加工食品。


原因は、

遠い海で起きた

一隻の貨物船の事故だった。


主要航路の港で、

大型船が故障し、

荷役設備を塞いだ。


たった一隻。


それだけで、

何百隻もの船が順番を失った。


「別の港へ回せないの?」


店長が聞いた。


「回せます」


真帆は答えた。


「じゃあ問題ないじゃない」


「別の港も混んでいます」


「陸送は?」


「トラックが足りません」


「鉄道は?」


「コンテナが合いません」


店長は黙った。


現代の物流は、

複数の道を持っているように見える。


海。


陸。


鉄道。


航空。


けれど、

それぞれの道は

別の部品でできている。


港を変えれば、

税関が変わる。


車両が変わる。


倉庫が変わる。


予約が変わる。


人が変わる。


地図の上で線を引き直すほど、

簡単ではない。


「在庫は?」


「三日分です」


店長は驚いた。


「それしかないの?」


「以前から三日分です」


売れ残りを減らす。


倉庫費用を減らす。


廃棄を減らす。


必要な分だけ仕入れる。


それは、

平常時には正しかった。


毎日船が来るなら、

三日分で十分だった。


けれど船が止まると、


効率の良い在庫は、

三日で不安へ変わる。


真帆は、

売り場へ出た。


棚には商品が並んでいる。


客は誰も、

三日後の空白を知らない。


豊かさとは、

物が多いことではない。


明日も同じように届くと

信じられることなのだ。


真帆は棚の奥から、

最後の一箱を前へ出した。


商品が減っていると、

客が不安になる。


前へ詰めれば、

棚は豊かに見える。


空白を隠すことも、

店員の仕事だった。


────────────────────


■第3章


✲閉じた海峡


三日後。


国際ニュースが、

海峡の封鎖を伝えた。


複数の船舶が攻撃を受け、

保険会社が航行を拒否した。


軍事的に

完全封鎖されたわけではない。


船は通れる。


だが、

通る船がいなくなった。


危険な海を通るには、

保険が必要だった。


保険が付かなければ、

積み荷を運べない。


法律でも軍隊でもなく、


保険料が海を閉じた。


原油価格が上昇した。


天然ガスも上がった。


船の燃料費も上がった。


翌朝、

街のガソリンスタンドに

長い列ができた。


「まだ売り切れていません」


店員は何度も説明した。


だが、

売り切れるかもしれないという

情報だけで、

人は先に買う。


普段なら半分まで減ってから

給油する人が、


満タンにする。


家庭用の携行缶を持ってくる。


会社の車も、

予定を前倒しして給油する。


不足するから買うのではない。


買うから不足する。


真帆のスーパーでも、

食用油の棚が空になった。


一人一本まで。


その札を見た瞬間、

必要のない客まで一本買った。


制限は、

不足を防ぐために置かれる。


同時に、

不足を知らせる広告にもなる。


修一の電力会社では、

燃料調達会議が開かれた。


火力発電所の燃料在庫。


船の到着予定。


為替。


輸送保険。


発電単価。


数字が並んだ。


「需要を抑えるしかありません」


若い幹部が言った。


「企業へ節電要請を出します」


修一は尋ねた。


「病院は?」


「対象外です」


「介護施設は?」


「原則対象外」


「データセンターは?」


会議室が静かになった。


新しいデータセンターは、

県の重点産業だった。


雇用。


税収。


AI投資。


地域振興。


電気を大量に使う。


しかし、

止めれば企業が離れる。


「個別に協議します」


幹部が答えた。


文明が平常に動いている時、

電気は商品だった。


不足した瞬間、


電気は政治になる。


誰に送るか。


誰を止めるか。


どの未来を守り、


どの現在を暗くするか。


───────────────


■第4章


電気を運ぶ老人たち


変圧器の点検には、

特殊な技術が必要だった。


絶縁油を採取し、


ガス成分を分析し、


内部放電の兆候を探す。


修一は、

若い社員の祐斗を連れて

現場へ向かった。


祐斗は二十六歳。


入社四年目。


大学では電気工学を学んだ。


だが、

大型変圧器を分解した経験はない。


「マニュアルに載っていますか」


祐斗が聞いた。


「一部はな」


「載っていない部分は?」


「音を聞く」


「音?」


「匂いも嗅ぐ」


祐斗は困った顔をした。


「数値化できないんですか」


「できるものはしてある」


修一は笑った。


「それでも最後は、

 人間が見る」


会社は長年、

保守作業を外部委託してきた。


熟練技術者が退職しても、

人員を補充しなかった。


故障件数が少ない部署は、

利益を生まないと判断された。


壊れないように守っているから

故障が少ないのに、


故障が少ないことが、

人を減らす理由になった。


修一と同じ世代の技術者は、

次々に退職している。


五年後には、

大型変圧器の内部を知る人間が

半分以下になる。


技術は、

資料だけでは受け継がれない。


失敗した時の音。


焦げた油の匂い。


締めすぎたボルトの感触。


雨の日だけ現れる振動。


言葉にしにくい記憶が、

人の身体に残っている。


「次はお前がやれ」


修一は祐斗へ工具を渡した。


「まだ無理です」


「無理なうちにやるんだ」


「壊したらどうするんですか」


「俺がいるうちに壊せ」


祐斗は、

ゆっくり工具を受け取った。


教育には、

余裕が必要だった。


時間。


失敗。


予備部品。


教える人。


効率化された現場では、

そのすべてが不足していた。


誰も失敗できない場所では、


誰も技術を覚えられない。


───────────────


■第5章


✲予備のない倉庫


電力会社の部品倉庫は、

以前の半分の広さになっていた。


十年前、

経営改善の一環として

在庫削減が行われた。


使用頻度の低い部品は、

処分された。


長期間動かない在庫は、

資産ではなく負担とされた。


倉庫の棚には、

整然とラベルが貼られている。


見た目は美しかった。


無駄がない。


余りがない。


隙間がない。


そして、

代わりもなかった。


修一は、

古い記録を調べた。


問題の変圧器に使う

冷却ポンプの予備部品。


在庫、ゼロ。


製造会社へ連絡すると、

担当者が申し訳なさそうに答えた。


「その型は、

 生産を終了しています」


「代替品は?」


「取り付け部分の改造が必要です」


「納期は?」


「早くて九か月です」


「九か月?」


「特殊鋳物の工場が

 混んでおりまして」


特殊鋳物の工場は、

国内に二社しかない。


一社は人手不足。


もう一社は、

原材料の入荷待ちだった。


一本の部品が届かない。


その理由をたどると、


別の国の鉱山、


別の港の混雑、


別の会社の退職者へ行き着く。


経済は、

価格だけでつながっているのではない。


技術と時間と、

誰かの記憶でつながっている。


修一は倉庫の奥で、

埃をかぶった木箱を見つけた。


廃棄予定と書かれている。


中には、

古い冷却ポンプの部品が入っていた。


型は違う。


そのままでは使えない。


だが、

一部を加工すれば

応急処置に使えるかもしれない。


「これ、

 捨てる予定だったんですか」


祐斗が聞いた。


「ああ」


「誰が残したんです?」


修一は、

木箱に書かれた名前を見た。


十五年前に退職した、

元上司の名前だった。


《念のため保管》


たった六文字。


会計上では、

十五年間何も生まなかった在庫。


けれど今、


街の電気を守るかもしれない。


無駄とは、


必要になる日が

まだ来ていないものの

別名なのかもしれなかった。


───────────────


■第6章


黒い画面


停電は、

午後六時四十二分に起きた。


街の東側で、

一斉に照明が消えた。


信号。


店舗。


住宅。


駅。


最初の数秒、

人々は自分の建物だけの

問題だと思った。


その後、

窓の外も暗いことに気づいた。


真帆のスーパーでは、

非常灯が点灯した。


レジ画面は消え、


自動ドアは止まり、


冷蔵設備が

非常電源へ切り替わった。


店内に、

小さな悲鳴が上がった。


「落ち着いてください」


真帆は声を出した。


店長が、

レジを確認した。


「非常電源で動かないのか」


「冷蔵設備が優先です」


「現金販売は?」


「金額が分かりません」


商品価格は、

レジ端末の中にある。


紙の価格表はない。


バーコードを読めなければ、

店員も値段を知らない。


客の一人が、

スマートフォンを見せた。


「決済アプリも動かない」


通信基地局も、

一部が停電していた。


電波は表示されている。


けれど、

通信は進まない。


画面の中央で、

小さな円が回り続ける。


現金を持っていない客。


クレジットカードしかない客。


充電残量の少ないスマートフォン。


便利な社会では、

財布も切符も地図も連絡先も、

一枚の黒い画面の中に入っている。


画面が止まると、


人は一度に多くのものを失う。


「子どものミルクだけでも

 売ってください」


若い母親が言った。


真帆は、

商品を手渡した。


「後で払います」


「いいです」


「でも」


「店が開いたら、

 また来てください」


真帆は、

自分の判断で商品を渡した。


会社の規則では、

認められていない。


けれど、

会社の規則を確認する通信も

止まっていた。


文明が停止した時、


最後に残る規則は、

人間の良心だった。


───────────────


■第7章


冷えない冷蔵庫


停電は、

二時間で復旧する予定だった。


だが、

故障した変圧器を切り離した結果、

別の設備へ負荷が集中した。


復旧予定は、

四時間後へ延びた。


さらに、

翌朝へ延びた。


真帆のスーパーでは、

冷凍設備の非常用燃料が

残り少なくなった。


病院。


介護施設。


通信設備。


行政庁舎。


燃料の配送先には、

優先順位が付けられた。


スーパーは、

上位ではなかった。


冷凍庫の温度が、

少しずつ上がった。


マイナス十八度。


マイナス十五度。


マイナス十一度。


商品はまだ凍っている。


けれど、

一度温度が上がれば

再冷凍して販売できないものもある。


「全部捨てるんですか」


若い店員が聞いた。


真帆は、

温度記録を見た。


肉。


魚。


冷凍弁当。


アイスクリーム。


何百万円分もの食品。


物流が止まり、

棚から物が消え始めている。


その時に、

店の奥では食べ物が傷んでいく。


不足と廃棄が、

同じ建物で同時に起きる。


真帆は、

地域の避難所へ連絡した。


「まだ安全な商品を

 配れませんか」


担当者は戸惑った。


「正式な手続きが必要です」


「手続きしている間に

 温度が上がります」


「責任の問題があります」


「捨てたら

 誰も責任を取らないんですか」


電話の向こうで、

沈黙があった。


最終的に、

市の職員が店へ来た。


安全確認ができた食品を、

避難所へ運ぶことになった。


真帆たちは、

暗い倉庫から商品を運び出した。


普段なら売り物だった。


値札が付き、

利益を生むはずだった。


いまは、

名前も聞かずに配られる

食事になった。


高齢者が、

温められない冷凍弁当を

両手で受け取った。


「ありがとう」


その言葉に、

真帆は胸が痛くなった。


感謝されるほど、

社会は困っていた。


───────────────


■第8章


届かない薬


停電から二日目。


市内の薬局で、

一部の薬が不足し始めた。


冷蔵保存が必要な薬。


透析関連用品。


インスリン。


抗生物質。


物流センターは、

別の地域にある。


しかし、

高速道路では信号設備の障害と

給油待ちの車列が重なり、

配送が遅れていた。


運転手も足りない。


燃料も限られている。


「今日中に届くと言いましたよね」


薬剤師が配送会社へ電話した。


「努力しています」


「患者さんが待っています」


「こちらも運べる車がありません」


努力している。


だが届かない。


現代社会では、

誰か一人が怠けているから

物が届かないわけではない。


全員が努力していても、


一つの余裕がなければ

全体が止まる。


修一の妻、

和江も薬を必要としていた。


持病の注射薬。


冷蔵庫の中には、

残り二日分。


停電で冷蔵庫が止まったため、

保冷剤と発泡箱へ移していた。


「病院へ行こう」


修一は言った。


「あなたが現場を離れたら

 困るでしょう」


和江は答えた。


「仕事より大事だ」


「街中の人が同じことを

 言っているのよ」


修一は黙った。


自分は、

街の電気を守っている。


そのために、

家族のそばにいられない。


公共のために働く人間ほど、


自分の家族へ

公共を優先させることを求められる。


和江は、

発泡箱の蓋を閉めた。


「昔はね」


「何だ」


「あなたが電気を守っているって、

 格好いいと思ってた」


修一は苦笑した。


「今は?」


「今も思ってる」


和江は言った。


「だから腹が立つの」


修一は妻の顔を見た。


「皆の電気を守る人が、

 自分の家の冷蔵庫を

 心配しなくていい社会に

 してほしかった」


その言葉は、

修一が何十年も感じながら、

口にできなかったことだった。


社会を守る人にも、

予備が必要だった。


──────────────


■第9章


✲停止した信号


停電地域では、

主要交差点の信号が止まった。


警察官が手信号で車を誘導した。


しかし、

すべての交差点へ

人を配置することはできない。


小さな交差点では、

車が慎重に進んだ。


いつもなら十秒で通れる道に、

長い列ができた。


救急車が、

渋滞の中で動けなくなった。


サイレンが鳴る。


車は避けようとする。


だが信号がないため、

どこへ避ければいいか分からない。


秩序は、

人間の善意だけでは作れない。


赤。


青。


黄色。


三色の光が、

知らない者同士へ

同じ約束を守らせている。


電気が止まると、

その約束も消える。


真帆は、

母のいる介護施設へ向かっていた。


施設の非常用発電機は、

燃料が残り半日。


エレベーターは停止している。


冷暖房も最低限。


母は、

三階の部屋にいた。


真帆は歩いて階段を上った。


廊下は薄暗い。


職員たちが、

手動で食事を運んでいる。


いつもなら機械で上げるベッドも、

人の力で動かしていた。


「大丈夫?」


真帆が母へ聞いた。


母は笑った。


「若い頃は、

 停電なんてよくあったよ」


「今は昔と違うよ」


「何が違うの」


真帆は答えようとした。


昔より電気を使う。


昔より機械が多い。


昔より便利。


けれど、

それだけではなかった。


昔は、

電気がなくても動くものが

もっと残っていた。


紙の記録。


手動の扉。


現金。


石油ストーブ。


井戸。


近所の人の顔。


便利になった社会は、


一つのものが止まった時に、

一緒に止まるものを増やした。


「昔より」


真帆は言った。


「止まるものが多いの」


母は、

ゆっくりうなずいた。


「じゃあ人が動けばいい」


簡単に言わないで、と

真帆は思った。


だが廊下を見ると、


職員たちが

本当に動いていた。


機械の代わりに。


─────────────


■第10章


✲見えない侵入者


停電の原因が、

設備故障だけではない可能性が

浮上した。


制御システムに、

不審な通信記録が見つかった。


海外のサーバー。


不正な認証。


書き換えられた設定。


誰かが、

変圧器の保護装置を

遠隔から操作した疑いがあった。


サイバー攻撃。


修一には、

その言葉が現実感を持たなかった。


現場には、

壊された扉もない。


切られた柵もない。


足跡もない。


それでも、

街の電気は止まった。


侵入者は、

窓を割らずに入った。


工具を持たず、


海の向こうから

設備へ触れた。


「なぜ古い制御装置が

 ネットワークに

 つながっていたんです」


調査担当者が聞いた。


「遠隔監視のためです」


「更新は?」


「予算が通らなかった」


古い装置を新しくするには、

多額の費用がかかる。


壊れていない設備を

交換する予算は、

承認されにくい。


攻撃されるまでは、

問題がないように見える。


防御は、

成功している間、

何も起こらない。


何も起こらない事業は、

成果を説明しにくい。


「人的ミスの可能性もあります」


担当者が言った。


「誰かが不審なメールを

 開いたかもしれません」


修一は、

祐斗の顔を見た。


若い社員たちは、

研修で何度も注意されている。


だが、

業務メールは一日に何百通も届く。


急ぎ。


重要。


至急確認。


攻撃者は、

技術だけで侵入するのではない。


疲労。


焦り。


人手不足。


その隙間から入る。


サイバー攻撃とは、


コンピューターを

攻めることではない。


余裕を失った人間を、

最後に一度だけ

急がせることだった。


───────────────


■第11章


✲コンビニの最後の弁当


停電三日目。


市内のコンビニから、

弁当が消えた。


おにぎり。


パン。


水。


乾電池。


携帯用充電器。


商品は、

入荷した瞬間に売れた。


配送トラックが来ると、

客が店の前へ集まった。


「一人二個までです」


店員が声を張った。


真帆は、

介護施設の母のために

柔らかいパンを探していた。


棚には、

最後の一袋が残っていた。


手を伸ばした時、

隣から小さな手が伸びた。


幼い男の子だった。


母親が、

申し訳なさそうに頭を下げた。


「どうぞ」


真帆は手を引いた。


「いえ、そちらこそ」


二人は、

同じパンを譲り合った。


普段なら百数十円の商品。


いつでも買えるもの。


それがなくなると、


人間の品性まで試すものになる。


店員が倉庫から、

別のパンを一袋持ってきた。


「包装が少し破れていて、

 売れない商品です」


「大丈夫なんですか」


「中は問題ありません」


店員は、

袋へテープを貼った。


「二人で分けてください」


母親は、

パンを半分にした。


大きい方を、

真帆へ渡そうとした。


真帆は首を振った。


「子どもさんへ」


男の子は、

小さい方を自分で持った。


「おばちゃん、半分」


真帆は少し笑った。


「お姉ちゃんね」


男の子は真剣に考えた。


「半分のお姉ちゃん」


母親が、

久しぶりに声を出して笑った。


店内にいた人たちも、

少しだけ笑った。


停電は続いていた。


棚は空だった。


それでも、

一つのパンを分けることで、


街はまだ完全には

壊れていなかった。


───────────────


■第12章


✲父の工具箱


応急修理に必要な部品を

加工できる会社が見つからなかった。


特殊な旋盤を扱える職人が、

すでに退職していた。


「一人だけ、

 心当たりがあります」


修一は言った。


向かったのは、

郊外の古い一軒家だった。


そこには、

修一の父、

源蔵が暮らしていた。


八十二歳。


かつて、

変圧器メーカーの加工職人だった。


「もう手は動かんぞ」


源蔵は言った。


「見るだけでいい」


修一は、

部品を見せた。


源蔵は眼鏡をかけ、

長い間黙って見た。


指で表面をなぞる。


寸法を測る。


穴の位置を見る。


「これを付けたら、

 振動で割れる」


「図面では大丈夫です」


祐斗が言った。


源蔵は、

祐斗を見た。


「図面は揺れんからな」


作業場の奥には、

古い工具箱があった。


錆びたレンチ。


手製の治具。


摩耗した測定具。


一つ一つに、

源蔵が若い頃に書いた

小さな印が残っている。


「旋盤、動くか」


修一が聞いた。


「電気が来ればな」


「非常用発電機を持ってくる」


源蔵はため息をついた。


「年寄りを働かせるな」


「俺も年寄りだ」


「お前はまだ若造だ」


八十二歳の前では、

五十七歳も若造だった。


発電機が運び込まれた。


源蔵は、

震える手で工具を握った。


最初の削りは、

祐斗が行った。


源蔵は、

横から見ていた。


「音が高い」


「回転数を下げますか」


「刃を寝かせろ」


「何度です?」


「音が変わるまでだ」


数値ではない指示。


祐斗は戸惑いながら、

少しずつ角度を変えた。


やがて、

金属の音が低くなった。


源蔵がうなずいた。


「それだ」


技術は、

老人の手から若者の耳へ移った。


作業が終わった時、

源蔵は椅子へ座り込んだ。


修一が水を渡した。


「親父」


「何だ」


「ありがとう」


源蔵は、

工具箱を見た。


「礼は、

 そいつに教えろ」


祐斗を指した。


「俺らが持って死んだら、

 次はない」


最後の変圧器を救ったのは、


最新のAIでも、


海外の巨大企業でもなかった。


捨てられなかった古い部品と、


忘れられかけた老人の耳だった。


───────────────


■第13章


✲選ばれる明かり


応急修理は成功した。


だが、

街全体へ電力を戻すには

供給が足りなかった。


復旧は、

区域ごとに行われることになった。


病院。


介護施設。


浄水場。


通信設備。


避難所。


優先順位が決められた。


住宅地は、

後回しになった。


工場も、

多くが停止した。


問題になったのは、

データセンターだった。


企業側は、

契約上の安定供給を求めた。


自治体は、

地域経済への影響を心配した。


病院は、

電力を増やしてほしいと訴えた。


「どちらを優先するんですか」


記者が電力会社の幹部へ聞いた。


幹部は、

曖昧な答えをした。


修一は、

制御室で送電計画を見ていた。


数字の上では、

どこかを削らなければならない。


電気は、

足りない時に平等に分けられない。


人工呼吸器。


冷蔵薬。


信号。


通信。


サーバー。


すべてが必要だと言う。


誰かの必要を、

別の誰かが判断する。


修一は、

データセンターの担当者へ電話した。


「一部停止をお願いしたい」


「契約違反です」


「病院へ回します」


「こちらも重要インフラです」


「人が死ぬ可能性があります」


「当社のサービス停止でも、

 社会に重大な影響が出ます」


どちらも正しい。


正しい要求同士がぶつかる時、


社会に必要なのは、

正解ではなく、

選ぶ責任だった。


最終的に、

データセンターは

計算処理の一部を別地域へ移した。


電力が病院へ回された。


その夜、

市内病院の手術室に明かりが戻った。


同じ時刻、


多くの住宅では、

まだ暗闇が続いていた。


真帆は、

母の手を握りながら

介護施設の窓から街を見た。


遠くに、

一つずつ明かりが点いていく。


すべてではない。


選ばれた明かり。


その光は、

美しいというより、


重かった。


───────────────


■第14章


✲小さな島


停電が長引くにつれ、

街の人々は小さな集まりを作った。


充電できる家。


井戸水のある家。


石油ストーブを持つ家。


無線機を持つ人。


料理のできる店。


それぞれが、

自分の持つものを出した。


真帆のスーパーは、

駐車場を物資配布場所として開放した。


売り物にならない食品を、

避難所と相談して調理した。


近所の飲食店が、

ガスコンロを持ち込んだ。


高校生が、

高齢者の家へ水を運んだ。


普段、

名前も知らなかった人たちが、

互いの顔を覚えた。


電気のある生活では、

一人でできることが増えた。


暗くなると、

一人でできないことが見えた。


修一の妻、

和江の薬も、

別の病院から届いた。


届けたのは、

正式な配送車ではなかった。


病院職員の自家用車。


燃料を分けたのは、

近所の建設会社。


保冷箱を貸したのは、

魚屋だった。


制度の外側で、

小さな線がつながった。


文明の大きな網が破れた時、


人は、

手で小さな網を編み直す。


和江は注射を終え、

修一へ電話した。


「薬、届いたよ」


修一は、

制御室で目を閉じた。


「よかった」


「あなたは寝たの?」


「少し」


「嘘でしょう」


修一は笑った。


「街に電気が戻ったら寝る」


「全部戻るまで?」


「全部だ」


和江は少し黙った。


「全部を一人で背負わないで」


「背負ってない」


「じゃあ、

 誰かに持ってもらって」


修一は、

祐斗の方を見た。


祐斗は、

復旧手順を確認していた。


その手元には、

源蔵から借りた工具があった。


修一は言った。


「もう持ってもらってる」


───────────────


■第15章


✲消えなかった灯


停電から六日目。


最後の住宅地区へ、

電気が戻った。


最初に点いたのは、

玄関の小さな常夜灯だった。


次に、

冷蔵庫が低く唸った。


給湯器の画面。


時計。


Wi-Fiルーター。


街のあちこちで、

機械が眠りから覚めていった。


人々は歓声を上げた。


けれど、

停電前と同じ街に

戻ったわけではない。


廃棄された食品。


止まった工場。


延期された手術。


失われた売上。


壊れた信号。


減った薬。


疲れ切った職員。


電気が戻っても、

止まっていた時間は戻らない。


修一は、

変電所の外へ出た。


空が白み始めていた。


祐斗が、

隣に立った。


「終わりましたね」


修一は首を振った。


「始まったんだ」


「何がですか」


「次を残す仕事が」


壊れた変圧器は、

応急修理にすぎない。


新しい設備の発注。


予備部品の確保。


制御システムの更新。


訓練。


人員。


倉庫。


すべてに金がかかる。


平常時なら、

無駄と呼ばれるものばかりだった。


「会社は認めますかね」


祐斗が聞いた。


「認めさせる」


「どうやって?」


修一は、

朝日に照らされた街を見た。


「止まった六日間を、

 数字にする」


停電による損失。


医療への影響。


廃棄食品。


交通事故。


物流遅延。


売上減少。


目に見えない苦しみを、

経営者にも見える数字へ変える。


予備は、

利益を生まない。


だが、

損失を生ませない。


その価値は、

壊れた後にしか見えない。


真帆のスーパーも、

営業を再開した。


棚はまだ完全には埋まっていない。


商品数は少ない。


それでも客は、

空いた棚を以前ほど怖がらなかった。


店の入口には、

手書きの紙が貼られていた。


《入荷していない商品があります。


 必要な方へ届くよう、

 少しずつお買い求めください》


「一人一個」ではなく、


「必要な方へ」。


命令ではなく、

信頼する言葉だった。


あの停電の夜、

パンを分けた男の子が

母親と店へ来た。


真帆を見つけると、

小さな袋を差し出した。


中には、

乾電池が二本入っていた。


「これ、あげる」


「どうして?」


「次、暗くなった時に使うの」


真帆は、

受け取れなかった。


「お家で使って」


男の子は首を振った。


「うち、四本あるから」


四本のうち二本。


半分。


子どもにとっては、

立派な予備だった。


真帆は、

両手で受け取った。


「ありがとう」


電気が戻った店内で、


乾電池は必要なかった。


それでも真帆には、


店のどの高価な商品より

大切なものに思えた。


夜。


修一は、

久しぶりに自宅へ帰った。


玄関を開けると、

和江が台所に立っていた。


古い照明が、

少し黄色い光を落としている。


「おかえり」


「ただいま」


修一は、

その場に立ったまま

動かなかった。


何十年も見てきた光景。


妻。


台所。


湯気。


冷蔵庫の音。


それが、

奇跡のように見えた。


和江が言った。


「ご飯、温める?」


修一はうなずいた。


電子レンジの中で、

皿が回り始めた。


低い音。


小さな明かり。


たったそれだけのことに、

修一は涙が出た。


和江は、

何も言わなかった。


温め終わったご飯を、

食卓へ置いた。


「いただきます」


修一は手を合わせた。


停電前にも、

同じ言葉を言っていた。


けれど今は、

意味が違った。


作った人。


運んだ人。


電気を送った人。


機械を直した人。


部品を残した人。


薬を届けた人。


パンを分けた人。


一杯のご飯の背後にいる

無数の人間へ向けた言葉になった。


食事の後、

修一は父の工具箱を開いた。


古い工具の間に、

祐斗が書いたメモが入っていた。


《音が変わるまで刃を寝かせる。


 数値だけを信じない。


 次の人へ必ず教える。》


修一は、

少し笑った。


技術は、

受け渡されていた。


翌春。


電力会社の敷地に、

新しい予備変圧器が運び込まれた。


巨大な車両が、

ゆっくり門を通った。


経営会議では、

最後まで反対意見があった。


高すぎる。


使用しないかもしれない。


維持費がかかる。


それでも、

購入は承認された。


倉庫も拡張された。


若い技術者の採用が増えた。


訓練用設備が作られた。


すべてが変わったわけではない。


会社は、

また効率を求めるだろう。


人は、

災害の記憶を少しずつ忘れる。


予備は再び、

無駄に見える日が来る。


だから修一は、

新しい変圧器の前に

小さな銘板を付けた。


《使われないことを願い、


 必要な日に備える》


祐斗が聞いた。


「使われなかったら、

 この設備は何もしていないことに

 なりませんか」


修一は首を振った。


「使われないまま、

 ここにあることが仕事だ」


予備とは、


何も起こらない一日を作るために、


何もせず待っているものだった。


街では、

いつもの生活が戻っていた。


電車が走る。


店に商品が並ぶ。


信号が変わる。


病院の冷蔵庫が動く。


スマートフォンが充電される。


誰も、

変電所の予備設備を思い出さない。


それでよかった。


文明を支えるものは、


感謝されるために

そこにあるのではない。


忘れられるほど普通の一日を、

守るためにある。


世界は、

また効率を求めて

逆回転を始めるかもしれない。


それでも人間は、


一度失った予備を

もう一度作ることができる。


部品を残す。


技術を教える。


現金を持つ。


少し多く食料を置く。


近所の人の名前を覚える。


助けてと言える関係を作る。


大きな備えだけが、

予備ではない。


誰かのために残した

乾電池二本。


半分に分けたパン。


捨てなかった工具。


もう一人に教えた技術。


それらもすべて、


世界が止まった時に

人間を前へ動かす力になる。


夜の街に、

無数の明かりが点いていた。


一つ一つは小さい。


けれど、

その光の背後には、


壊れた時のために

残された何かがあった。


世界は、

壊れないから続くのではない。


壊れた後にも、


代わりになるものを

誰かが残しているから続く。


最後の変圧器は、


鉄の機械ではなかった。


誰かが倒れた時に、


代わりに立とうとする

人間そのものだった。


───────────────


❥ 予備を持てない時代を

 生きるあなたへ


あなたは、

無駄をなくすように

教えられてきたかもしれません。


使わない物は捨てる。


空いている時間を埋める。


余ったお金は投資する。


仕事は最小人数で回す。


在庫は持たない。


遠回りをしない。


効率よく生きる。


それらは、

間違いではありません。


余分な出費を減らすことも、


時間を大切にすることも、


暮らしを軽くすることも

必要です。


けれど、


すべての余白を

無駄だと思わないでください。


何もしない時間。


すぐには使わない貯金。


少し多めの食料。


別の仕事へ移るための技術。


困った時に連絡できる人。


失敗しても戻れる場所。


それらは、

平常時には役に立たないように見えます。


けれど、

人生が止まった日に

あなたを守る予備になります。


お金を十分に貯められなくても、


完璧な防災用品を

揃えられなくても、


自分を責める必要はありません。


予備は、

物だけではありません。


助けてと言えること。


知らないと認めること。


誰かへ教えること。


半分に分けること。


間違えた人を、

一度で捨てないこと。


疲れた人の代わりに、

少しだけ立つこと。


それも予備です。


社会は、

強い人だけで動いているのではありません。


弱った人の代わりに

誰かが動けることで、


社会は続いています。


あなたがいつも、

誰かを助ける側である必要はありません。


助けられる側の日もあります。


休む日もあります。


動けない日もあります。


その時は、

誰かの予備を借りてください。


そして元気になった日に、


今度は別の誰かへ

少し返してください。


世界を救うほどの

大きな力でなくていい。


乾電池二本でもいい。


温かいご飯でもいい。


一回の電話でもいい。


「大丈夫?」という

短い言葉でもいい。


文明は、

巨大な英雄によって

守られているのではありません。


誰にも見られない場所で、


小さな予備を残す人たちによって

守られています。


世界が逆回転する時、


無理に一人で前へ進まなくていい。


止まってもいい。


誰かを待ってもいい。


遠回りしてもいい。


それでも、


次の人が通れる道を

少しだけ残してください。


あなた自身も、


誰かが残した道を

歩いてここまで来たのですから。


────────────────────


★あとがき


✲ホームズとワトソン


――最後の変圧器・

 爆笑インフラ推理漫才――


ロンドン、

ベーカー街二二一B。


部屋の明かりが、

突然消えた。


ワトソン

「ホームズ!


 大事件や!」


ホームズ

「停電だ」


ワトソン

「何でそんなに冷静やねん!」


ホームズ

「君が電気代を

 払い忘れた可能性が高い」


ワトソン

「わしの個人的金融危機に

 話を縮小するな!」


ホームズは、

机の引き出しから

ろうそくを出した。


ワトソン

「さすがホームズ。


 予備を持っとるな」


ホームズ

「当然だ」


ワトソン

「マッチは?」


ホームズは黙った。


ワトソン

「ないんかい!」


ホームズ

「ライターがある」


ワトソン

「使えるんか」


ホームズが火を点けようとした。


火は出なかった。


ワトソン

「燃料切れやないか!」


ホームズ

「予備の予備が必要だな」


ワトソン

「予備ばっかり増やしたら、

 部屋が倉庫になるぞ」


ホームズ

「君の部屋はすでに

 食料備蓄倉庫だ」


ワトソン

「お菓子は備蓄や!」


ホームズ

「毎晩消費しているではないか」


ワトソン

「循環備蓄や」


ホームズ

「単なる間食だ」


ワトソンは、

暗闇の中で机を探った。


ワトソン

「あった!」


ホームズ

「マッチか?」


ワトソン

「ビスケットや」


ホームズ

「暗闇で食欲だけは

 失わないんだな」


ワトソン

「非常時はカロリーが必要や」


ホームズ

「君は平常時にも同じことを言う」


ワトソン

「ところでホームズ。


 変圧器って何する機械や?」


ホームズ

「電圧を変える」


ワトソン

「人間の血圧も変えられるか?」


ホームズ

「君の血圧は医者へ行け」


ワトソン

「高い電圧を低くするんやろ」


ホームズ

「そうだ」


ワトソン

「ほな、

 わしのテンションも下げてくれ」


ホームズ

「すでに停電で下がっている」


ワトソン

「腹は減って上がっとる!」


ホームズ

「それは電圧ではない」


ワトソン

「しかし一台壊れただけで、

 街が止まるいうのは怖いな」


ホームズ

「一台だけで動いているように

 見える仕組みが怖いのだ」


ワトソン

「予備が要るな」


ホームズ

「そうだ」


ワトソン

「ビスケットも二箱いる」


ホームズ

「話を自分の食料へ戻すな」


ワトソン

「一箱壊れた時の予備や」


ホームズ

「ビスケットの箱は壊れない」


ワトソン

「わしが一箱食べた時の予備や」


ホームズ

「それは予備ではなく追加だ」


ワトソン

「無駄をなくしたらあかん

 いう話やろ!」


ホームズ

「君の腹の余分は

 なくして構わない」


ワトソン

「予備脂肪や!」


ホームズ

「何に備えている」


ワトソン

「遭難」


ホームズ

「ベーカー街で遭難するな」


その時、

廊下から大家の声が聞こえた。


大家

「ブレーカーが落ちただけですよ!」


明かりが戻った。


ワトソン

「何や、

 文明崩壊ちゃうかったんか」


ホームズ

「君が電気ストーブと

 電子レンジと湯沸かし器を

 同時に使ったからだ」


ワトソン

「効率よく飯作ろうと

 しただけや!」


ホームズ

「効率化が

 システムを止めた好例だ」


ワトソン

「わしが第三部の原因やったんか!」


ホームズは、

床に落ちたビスケットを拾った。


ホームズ

「これは捨てよう」


ワトソン

「待て!」


ホームズ

「床に落ちた」


ワトソン

「三秒以内や」


ホームズ

「十秒経っている」


ワトソン

「非常時は規則を柔軟に

 運用せなあかん」


ホームズ

「衛生規則は守りなさい」


ワトソン

「無駄を出すないう話やったやろ!」


ホームズ

「何でも物語の教訓で

 食べようとするな」


ワトソン

「ほな半分だけ」


ホームズ

「なぜ半分なら安全なんだ」


ワトソン

「危険も分割や」


ホームズ

「食中毒は分割できない」


ワトソンは、

残念そうにビスケットを見た。


ホームズは、

新しい袋を一つ出した。


ワトソン

「予備あるんかい!」


ホームズ

「使われないことを願い、

 必要な日に備えていた」


ワトソン

「今日が必要な日や!」


ホームズ

「一枚だけだ」


ワトソン

「何でや!」


ホームズ

「残りは次の停電のためだ」


ワトソン

「予備を残しすぎたら、

 今のわしが飢えるやろ!」


ホームズ

「君は五分前に食べた」


ワトソン

「過去の食事は、

 現在の空腹を保証せん!」


ホームズ

「市場の格言のように言うな」


ワトソンは、

一枚のビスケットを二つに割った。


大きい方を自分へ。


小さい方をホームズへ。


ホームズ

「また君が大きい方か」


ワトソン

「わしが倒れた時に、

 あんたを助けるための

 予備エネルギーや」


ホームズ

「君はいつも、

 自分の食欲へ公共性を与えるな」


ワトソン

「社会は助け合いや!」


ホームズ

「では大きい方をよこしなさい」


ワトソン

「そこは自助や!」


ホームズ

「都合よく制度を変えるな!」


二人の声が、

ベーカー街へ響いた。


窓の外では、


街灯がいつも通り

夜道を照らしていた。


誰も、

電気が来ることへ

拍手はしない。


それでよかった。


普通の一日は、


拍手されない人たちによって

守られている。


世界は逆回転していた。


けれど、

暗くなった時のために

一本のろうそくを残す人がいる限り、


人間は、

何度でも明かりを

点け直すことができた。


ワトソン

「ホームズ」


ホームズ

「何だ」


ワトソン

「ろうそくの予備、

 買っとこうや」


ホームズ

「まずマッチを買いなさい」


ワトソン

「ビスケットも?」


ホームズ

「それは不要だ」


ワトソン

「一番大事なインフラを

 削るなーっ!」

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