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『海峡の007、スマホの羅生門』 ――平和を語る女が火をつけ、秩序を語る男が扉を閉めた夜。世界は、誰が最初に嘘をついたか分からなくなった。――

✦『海峡の007、スマホの羅生門』


――平和を語る女が火をつけ、

  秩序を語る男が扉を閉めた夜。

  世界は、誰が最初に

  嘘をついたか分からなくなった。――


……


「ゆづき」


祖父は、午前八時の

衛星ニュースを止めた。


「これから見るのは、

 戦争の話じゃない…」


「じゃあ、何の話?」


「人間が、

 自分だけ助かる理屈を

 作る話じゃ…」


画面には、黒いタンカー。


その横には、

爆破されたモナコの高級住宅。


そして、その下には、

サッカー選手を罵る

女性政治家の投稿。


海では

船が国旗を変えた。


スマホでは

人が被害者の顔を変えた。


……


★目次


■ 第1章 

 2,000万バレルの首


■ 第2章 

 4億バレルの非常食


■ 第3章 

 39歳の女


■ 第4章 

 男装の逃亡者


■ 第5章 

 2人の口封じ


■ 第6章 

 被害者になった女性議員


■ 第7章 

 56%のコメント欄


■ 第8章 

 45か月の女王


■ 第9章 

 316議席の防波堤


■ 第10章 

 1億1,780万人の住所


■ 第11章 

 45万人ではなく、

 4,500万人の子ども


■ 第12章 

 旗を変える船、

 話を変える人


■ 第13章 

 羅生門の老婆、

 ラスベガスへ行く


■ 第14章 

 秩序を売る男


■ 第15章 

 蜘蛛の糸は、

 誰の手にあったのか


……


■ 第1章 

 2,000万バレルの首


ホルムズ海峡を通る石油は、

1日約2,000万バレル。


「ゆづき。これが止まったら、

 日本は何が困ると思う?」


「ガソリン?」


「それだけじゃない」


祖父は指を折った。


「洗剤。ペットボトル。飛行機。

 肥料。プラスチック。

 病院の薬の容器。スマホの部品」


「全部?」


「海峡は、遠い海じゃない。

 日本の台所の首じゃ」


画面には、

細い海峡を進む船が映っていた。


海の幅は広い。


だが、

世界の物流は

驚くほど細い場所を通っている。


誰かがその首をつかむ。


すると世界は、

息を止める。


……


■ 第2章 

 4億バレルの非常食


世界は、

石油備蓄を4億バレル放出した。


祖父はニュースを見ながら、

非常用の水を一本持ち上げた。


「これは飲んだら、

 また買えばいい…」


「うん」


「でも、世界の備蓄は、

 飲んだ後にすぐ

 補充できるとは限らん」


ホルムズを避けるパイプラインは、

最大でも1日550万バレル程度。


2,000万バレルの穴は埋まらない。


「つまり?」


「世界が非常食を食べ始めた、

 ということじゃ」


ゆづきは黙った。


大人たちは、

戦争の勝ち負けを話していた。


だが、

台所ではすでに負け始めていた。


……


■ 第3章 

 39歳の女


モナコの爆弾事件。


標的は、戦争の国から出て、

海の見える高級住宅に

暮らしていた富豪。


爆弾を置いた疑いで追われたのは、

39歳の女性だった。


彼女は男の服を着ていた。


黒い帽子。


大きな靴。


低い声。


監視カメラは、

最初、男だと思った。


「なんで女だと分かったの?」


ゆづきが聞いた。


「髪じゃ…」


祖父は答えた。


「一日だけ、

 帽子の下から髪が見えた」


人間は、国籍を変えられる。


会社を変えられる。


服を変えられる。


だが、たった一度の髪の毛で、

過去が追いつく。


……


■ 第4章  

 男装の逃亡者


女はモナコを歩いて出た。


フランスへ。


イタリアへ。


ドイツへ。


車を変え、ホテルを変え、

スマホを捨てた。


まるで007だった。


だが、

ジェームズ・ボンドと

違っていた。


彼女には、帰る国があった。


そして帰った。


帰った後、撃たれた。


頭を。


「逃げ切れなかったん?」


ゆづきが言った。


祖父は首を振った。


「違う…」


「え?」


「逃げ切ったから、

 消されたのかもしれん…」


……


■ 第5章 

 2人の口封じ


拘束されたのは2人。


一人は元警察官。


一人は軍情報部に関係する男。


彼らは、女と送金をしていた。


銀行。


暗号資産。


複数の財布。


複数の国。


軍関係者の男は言った。


«「上司には知らせていない。

自分の判断でやった」»


ゆづきは眉をひそめた。


「そんなの、信じられる?」


「信じるかどうかより、

 便利な言葉じゃ」


「便利?」


「組織は悪くない。

 上司は知らない。

 自分だけが勝手にやった…」


祖父は、湯のみを置いた。


「責任を消したい時、

 人は一人になる」


……


■ 第6章 

 被害者になった女性議員


その週。


フランスのスター選手が勝った。


敗れた国の女性議員は、

選手の出自をからかう投稿をした。


人種差別。


国籍への侮辱。


「なんで、そんなこと書くの?」


「負けたからじゃろう」


「負けたら、

 人を傷つけていいの?」


「羅生門では、

 みんな自分にそう許可する…」


世界中から批判が来た。


女性議員は投稿を消した。


その後、言った。


«「私は女性だから攻撃された」»


ゆづきは画面を見たまま言った。


「先に人を傷つけたのに?」


「そうじゃ」


「それで、自分が被害者?」


祖父は静かに答えた。


「今の世界で、

 一番強い席は被害者席じゃ」


……


■ 第7章 

 56%のコメント欄


SNS利用者の56%が、

誤情報や偽情報を見たことがある。


若い世代では、もっと多い。


「ゆづき。

 コメント欄の多数決は、

 真実の多数決じゃない」


「分かってるよ」


「分かっていても、 

 腹が立つ投稿は広がる」


画面には、

女性議員を守る人と、

叩く人がいた。


「女性を攻撃するな!」


「差別主義者を許すな!」


「選手も悪い!」


「移民を追い出せ!」


「平和を壊すな!」


言葉は、次々に立派になった。


そのたびに、

最初の差別投稿は見えなくなった。


ゆづきは言った。


「みんな、最初の犯人より、

 自分の怒りを話してる…」


祖父はうなずいた。


「羅生門の

 コメント欄じゃ…」


……


■ 第8章 

 45か月の女王


フランスでは、

女性政治家が法廷から戻ってきた。


有罪。


だが、出馬への道は残った。


数字は45か月。


彼女は言う。


«「国境を守る」

「治安を守る」

「普通の家庭を守る」»


その言葉は、多くの人に刺さった。


なぜなら人々は、

電気代に苦しみ、

家賃に苦しみ、

移民問題に苦しみ、

病院の待ち時間に苦しんでいたから。


「悪い人だから人気があるの?」


ゆづきが聞いた。


「違う」


祖父は言った。


「きれいな言葉だけでは、

 誰も守ってくれなかったと

 思う人が増えたんじゃ」


……


■ 第9章 

 316議席の防波堤


日本でも、

女性首相が大きな勝利を得た。


316議席。


「女の人が首相になったら、

 優しい政治になると思ってた」


「政治に出た女が、

 女らしい政治をするとは限らん」


祖父は言った。


「男も女も、恐怖を使う。

 男も女も、安心を売る。

 男も女も、“守る”という言葉を使う」


「守るって、いい言葉じゃん」


「いい言葉じゃ」


祖父は言った。


「じゃが、“守る”は、

 誰かを外へ押し出す時にも使える」


ゆづきはメモした。


«守る、は優しい言葉。

でも、扉を閉める言葉にもなる。»


……


■ 第10章 

1億1,780万人の住所


世界で家を追われた人は、

1億1,780万人。


「移民って、

 外国から来る人の話だと思ってた」


「違う」


祖父は言った。


「そのうち6,870万人は、

 国境も越えられず、

 自分の国で家を失っている」


爆撃。


洪水。


干ばつ。


内戦。


役所が消えた町。


学校が閉じた村。


「じゃあ、

 逃げる人は悪い人じゃない…」


「ほとんどは、

 逃げるしかなかった人じゃ」


「でも、

 受け入れる町も苦しい」


「そこが一番難しい」


祖父は言った。


「人道だけでも町は守れん。

 排除だけでも人は救えん」


……


■ 第11章 

 4,500万人の子ども


避難を強いられた子どもは、4,500万人。


「45万人じゃないんだ」


「4,500万人じゃ」


祖父は言った。


「今、学校に行けない子が、

 10年後に仕事も住所も国籍も

 持てなかったらどうなると思う?」


「怒る?」


「怒る」


「犯罪組織に入る人もいる?」


「入る人も出る」


「じゃあ、今の難民問題って、

 10年後の治安問題?」


「そういう面もある」


ゆづきは窓の外を見た。


「大人って、火が出てから

 消す話ばっかりしてる」


「火が出る前に、

 水を置くのは金がかかるからな」


……


■ 第12章 

 旗を変える船、話を変える人


制裁を受けた船は、国旗を変える。


会社を変える。


保険を変える。


船名を変える。


女性議員は、話を変える。


差別投稿。


批判。


女性差別。


被害者。


富豪は、国籍を変える。


女性容疑者は、服を変える。


軍関係者は、責任を変える。


「おじいちゃん」


「なんじゃ」


「みんな、何かを変えて逃げてる」


「そうじゃ」


祖父は言った。


「一番変えたくないのは、

 自分の中身じゃから…」


……


■ 第13章 

 羅生門の老婆、ラスベガスへ行く


ラスベガスのホテル。


カジノの光。


地下駐車場。


黒いドレスの女が、スマホを開いた。


フォロワーは420万人。


彼女は、平和団体の顔だった。


戦争反対。


差別反対。


女性の権利。


難民支援。


言っていることは、全部きれいだった。


だが彼女は、

影の船団を追う記者の住所を、

匿名アカウントへ流していた。


「なぜ?」


ゆづきが聞いた。


「記者が

 富豪の金の流れを

 追っていたからじゃ」


「平和の人なのに?」


「平和を売る人と、

 平和を守る人は違う」


祖父は言った。


「羅生門の老婆も、

 最初は生活のためと言った」


女は笑った。


«「あの記者も昔、誰かを傷つけた。

だから少しくらい

困っても仕方ない」»


その夜、

記者の家に火がついた。


……


■ 第14章 

 秩序を売る男


ラスベガスの火災映像を見て、

一人の男が演説した。


大統領候補。


白い髪。


赤いネクタイ。


「人道主義は、

 善人の顔をした無責任だ」


会場が沸いた。


«「国境を閉じる」

「犯罪者を追い出す」

「偽善者を裁く」

「弱い者を守る」»


ゆづきは言った。


「この人、全部間違ってる?」


祖父はすぐに答えなかった。


「全部

 間違ってはいない…」


「じゃあ支持していい?」


「その人は、

 正しい怒りを使って、

 乱暴な答えを売っている」


「羅生門の下人?」


「そうじゃ」


祖父は言った。


「老婆が理屈を作った。

 下人は、それを力に変えた」


……


■ 第15章 

 蜘蛛の糸は、誰の手にあったのか


モナコの爆弾。


ラスベガスの放火。


海峡のタンカー。


女性議員の投稿。


暗号資産の送金。


1日2,000万バレル。


1億1,780万人の避難民。


4,500万人の子ども。


数字は全部、別々に見えた。


だが、祖父は言った。


「一本の糸じゃ」


「蜘蛛の糸?」


「そうじゃ」


上にいる人間は、

自分だけ助かろうとする。


下から登ってくる人間を蹴落とす。


そして落とした後で言う。


«「私は悪くない」

「法律では問題ない」

「相手が先に悪かった」

「世界がそうさせた」»


ゆづきは、スマホを閉じた。


「じゃあ私は、どうすればいい?」


祖父は笑った。


「数字を見る」


「数字だけ?」


「違う」


祖父は答えた。


「数字を見て、

 最後に誰が責任を取るかを見る」


海の船も。


SNSの投稿も。


政治家の演説も。


最後に責任を取る人間がいなければ。


それは平和でも、人道でも、正義でもない。


ただの仮面じゃ。


……


❥Z世代のあなたへ


今の世界は、昔より複雑になった。


でも、見方は案外シンプルじゃ。


誰かが、


「私は被害者だ」

「私は正義だ」

「私は国を守る」

「私は平和のために言っている」


と言った時。


一つだけ聞けばいい。


«「では、最後に誰が

責任を取るんですか?」»


その答えがないなら。


その人は、

船の国旗を変えているだけかもしれない。


……


★あとがき


 ホームズとワトソン、

 やすきよ風・海峡漫才


「ホームズさん、犯人は女ですか?」


「ワトソン君。犯人は女ではない」


「じゃあ男ですか?」


「犯人は、責任を置いて逃げた人間だ」


「えらい広い容疑者ですな」


「世界人口の半分くらいは、

 事情聴取が必要じゃ」


「多すぎるわ!」


「船は国旗を変えた。

 議員は話を変えた。

 富豪は国籍を変えた」


「ほんなら、

 わしは何を変えたらええんです?」


「まず、パスワードじゃ」


「そこからかい!」


「そして、

 腹が立った投稿を見ても、

 すぐ拡散せんことじゃ」


「それで世界は変わりますか?」


「すぐには変わらん」


ホームズは、少しだけ笑った。


「でも、誰かを蹴落として

 上へ登る蜘蛛の糸を、

 一本だけ切らずに残せるかもしれん」


ワトソンは黙った。


海峡の向こうで、

また一隻、船が国旗を変えた。


けれど朝の机の上では。


ゆづきが、

スマホを伏せていた。


それだけで、

その朝は少しだけ静かだった。

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