『半導体は余った。なのに、命を冷やす風は足りなかった。』 ――世界GDPは126兆ドル。それでも、鍵の向こうで11人が腎臓を待っていた――
✦『半導体は余った。
なのに、命を冷やす風は足りなかった。』
――世界GDPは126兆ドル。
それでも、鍵の向こうで
11人が腎臓を待っていた――
………
五年後。
ゆづきは二十一歳になっていた。
就活サイトのAIは、
彼女に毎朝、
元気な文章を送ってくる。
《あなたの強みは、
変化を恐れない行動力です》
「変化を恐れない人は、
朝八時半の面接に
寝坊せんと思う」
ゆづきは、
スマホを伏せた。
向かいでは、
祖父が古いノートを開いていた。
表紙には太い字で、
《世界ニュース
2026年7月1日
羅生門の下》
と書いてある。
「おじいちゃん。
また変な題じゃな」
「変じゃないぞ」
「羅生門って、
髪の毛を抜く
おばあさんの話でしょ?」
「そうじゃ」
「なんで世界ニュースが
髪の毛抜きになるん?」
祖父は、
鉛筆を置いた。
「世界は豊かになったのに、
みんな自分の着物を守るのに
必死じゃろ」
「着物?」
「今の着物は、
家じゃ。
仕事じゃ。
病院の予約じゃ。
在留資格じゃ。
スマホのアカウントじゃ」
「急に現代風にしたな」
「羅生門の下人も、
腹が減って困っとった。
今の人も、
家賃が上がる。
医療費が怖い。
仕事がAIに消える。
水道代も電気代も上がる。
追いつめられたら、
人は誰かの着物を
脱がせたくなるんじゃ」
ゆづきは、
少し黙った。
「じゃあ、
今日のニュース全部、
その話なん?」
「そうかもしれん」
祖父は言った。
「そして一番怖いのは、
門の上にいる悪人より、
門の下で
『仕方ない』
と言い始める
わしらの心じゃ」
………
★目次
■第一章
126兆ドルの雨
■第二章
借金で建てた明日
■第三章
945テラワット時の怪物
■第四章
7917億ドルのチップ
■第五章
半導体工場は町を雇わない
■第六章
送金という見えない水道
■第七章
4%の敵
■第八章
100万人の子ども
■第九章
10年の判決と、子どもの端末
■第十章
鍵のかかった517号室
■第十一章
ロシア富豪か、ウクライナ富豪か
■第十二章
敗戦と拍手
■第十三章
上の塔と、下の門
■第十四章
親鸞さんならどう見るか
■第十五章
赤ん坊を抱いて、雨の外へ
………
■第一章
126兆ドルの雨
世界のGDPは、
2026年に約126兆ドル。
日本円にしたら、
もう桁が大きすぎて、
祖父の電卓も途中で黙る。
「世界って、
めちゃくちゃ金持ちじゃん」
「そうじゃ」
「なのに、
なんで皆しんどそうなの?」
祖父はノートに、
線を引いた。
「世界全体が儲かることと、
今日の晩ごはんが安心なことは、
別なんじゃ」
世界には、
一日3ドル未満で暮らす人が
8億人以上いる。
世界は、
巨大なケーキを焼いた。
でも、
上の階には
AI用の半導体が積まれ、
下の階には、
パンを切り分ける
包丁すらない。
「それ、
ケーキじゃなくて
地獄のビュッフェじゃん」
「うまいこと言うな」
「Z世代は、
地獄にも
レビューを付けるからね」
祖父は笑った。
だが、
笑いは短かった。
豊かさは、
雨みたいに降っているのではない。
高い塔の屋根に当たり、
そこから細い雨どいを伝って、
一部の場所へだけ流れている。
門の下にいる人には、
雨漏りしか届かない。
………
■第二章
借金で建てた明日
世界全体の借金は、
GDPの二倍を超えている。
国も借りる。
企業も借りる。
家計も借りる。
未来の給料を、
今日の家賃に使う。
未来の税金を、
今日の防衛費に使う。
未来の電気を、
今日のAIに使う。
「おじいちゃん」
「なんじゃ」
「世界って、
まだ働いていない未来の人から
お金借りてるの?」
「そうじゃ」
「未来の人、
怒らん?」
「怒るじゃろうな」
「でも未来の人って、
まだ生まれてないじゃん」
「そこが便利なんじゃ」
祖父は言った。
「まだ文句を言えん人に、
請求書を回すのが、
一番やりやすい」
羅生門の下人は、
今夜を越えるために
老婆の着物を奪った。
現代の国は、
選挙を越えるために
未来の財布を借りる。
やり方は違う。
でも、
“今日だけ助かればいい”
という心は、
少し似ている。
………
■第三章
945テラワット時の怪物
AIは、
頭のいい煙のように見える。
スマホから質問すれば、
答えが返る。
絵も描く。
音楽も作る。
履歴書も書く。
恋人のふりまでしてくれる。
でもその煙の後ろには、
巨大な電気の怪物がいる。
世界のデータセンターは、
2030年ごろには
約945テラワットの電気を使う
見通しだという。
今の日本全体の電力消費を
少し上回るほどの規模。
「えっ」
ゆづきが、
顔を上げた。
「AIって、
日本一国分の電気を
食べるん?」
「食べる予定じゃ」
「それ、
賢いんじゃなくて
腹ぺこじゃん」
「そうじゃ」
祖父は言った。
「AIは神様ではない。
水と電気と銅線と、
半導体を食べる
巨大な生き物じゃ」
AIが便利になるほど、
どこかで変電所が必要になる。
冷却水が必要になる。
発電所が必要になる。
そして、
その工場の近くの人は聞かれる。
《あなたの町に、
データセンターを建てますか?》
雇用は少ない。
電気は使う。
水も使う。
でも税収は増えるかもしれない。
町は、
また羅生門の下で迷う。
「自分の着物を守るために、
誰かの水を取るん?」
ゆづきが聞いた。
祖父は、
答えなかった。
………
■第四章
7917億ドルのチップ
2025年。
世界の半導体売上は、
7917億ドルまで増えた。
前年比で、
25%を超える伸び。
AIが、
半導体を食べた。
いや。
AIという夢に、
世界中の金が集まった。
熊本にはTSMC。
韓国には、
サムスンとSKハイニックス。
米国には、
巨大データセンター。
台湾には、
世界の計算能力の心臓部。
「半導体って、
なんでそんなに大事なん?」
「昔は石油が血液じゃった。
今は、
石油に加えて
半導体が神経じゃ」
祖父は言った。
「水が止まれば人が困る。
電気が止まれば町が止まる。
半導体が止まれば、
車も病院も銀行も
スマホも止まる」
「じゃあ半導体工場って、
現代の水道局みたいなもの?」
「もっと怖いぞ。
水道局は水を配る。
半導体工場は、
未来の能力そのものを配る」
半導体を持つ国は、
AIを育てられる。
兵器も作れる。
監視カメラも作れる。
宇宙船も作れる。
学校のタブレットも作れる。
だから国は、
工場を欲しがる。
けれど工場は、
水と電気と人材を吸い込む。
その町の小さな商店は、
少し潤う。
でも家賃も上がる。
道路は混む。
地下水は心配になる。
未来は、
いつも同じ顔をして来ない。
………
■第五章
半導体工場は町を雇わない
韓国のニュースでは、
半導体工場一か所の直接雇用は
約3000人ほどだと説明していた。
車工場なら、
7000人規模の雇用もある。
「じゃあ半導体工場って、
思ったより人を雇わんの?」
「そうじゃ」
「じゃあ、
なんで地方は欲しがるん?」
祖父は、
指を折った。
「税金じゃ。
設備の固定資産。
法人の利益。
働く人の所得税。
そして、
工場の周りに
薬品会社、ガス会社、
装置会社、物流会社、
ホテル、病院、学校が集まる」
「工場が人を雇うんじゃなくて、
町が工場を飼う感じ?」
「その通りじゃ」
半導体工場は、
町の真ん中に建つ巨大な胃袋だ。
水を飲む。
電気を食べる。
人材を吸う。
税金を出す。
関連会社を呼ぶ。
そして、
町の運命まで飲み込む。
韓国の利川市では、
SKハイニックスの好業績で、
地方税収が大きく増えた。
しかし、
半導体の景気が悪い年には、
税収が大きく落ちる。
「町の財布が、
一社の決算書に
ぶら下がるんじゃな」
「そうじゃ」
「それって、
金持ちの家に
居候する感じじゃん」
「居候にも、
家賃を払う年と
払わん年がある」
祖父は言った。
「だから地方は、
工場を歓迎しながら、
工場だけに祈ったらいけん」
………
■第六章
送金という見えない水道
世界では、
海外で働く人が故郷へ送るお金が、
年間で6800億ドルを超えている。
移民を嫌う国では、
彼らは仕事を奪う人に見える。
しかし故郷では、
その送金で子どもが学校へ行く。
親が薬を買う。
家が屋根を直す。
「移民って、
国境を越えて
家族の生活費を運ぶ人なんじゃな」
「そうじゃ」
祖父は言った。
「ニュースでは
“不法移民”
“難民”
“外国人労働者”
と一言で呼ばれる。
でもその人の後ろには、
仕送りを待つ母親や、
学費を待つ弟がおる」
南アフリカで、
生活が苦しい人が
外国人を責める。
その不満は、
嘘ではない。
仕事が足りない。
家がない。
治安が悪い。
けれど、
《苦しいから、
もっと弱い人を追い出してよい》
その一歩が、
羅生門の階段になる。
「下人も、
最初は苦しかったんじゃもんね」
「そうじゃ。
だから怖いんじゃ」
………
■第七章
4%の敵
南アフリカでは、
外国生まれの人は
人口の約4%とされる。
それでも、
街では
移民がすべての原因のように
語られる。
失業。
犯罪。
住宅不足。
病院の混雑。
「4%が、
全部悪いことにされるの?」
「数字より、
目に見える人の方が
責めやすいんじゃ」
祖父は言った。
政策の失敗は見えにくい。
汚職も見えにくい。
教育の崩れも見えにくい。
だが、
外国語を話す店員は見える。
アクセントの違う隣人は見える。
人は、
見えるものを
原因にしたくなる。
そして、
偽の通達が流れる。
《政府が外国人に
退去命令を出した》
本当かどうかを確かめる前に、
怒っていた人の心が動く。
「フェイクニュースって、
嘘じゃなくて
火をつけるマッチなんじゃな」
「そうじゃ」
祖父は言った。
「不満という薪が積んである所へ、
一本のマッチを投げる」
………
■第八章
100万人の子ども
チベットでは、
多くの子どもが
寄宿型の学校へ入れられ、
家族や地域の言葉から
離れるのではないかと、
国際機関や人権団体が問題にしている。
中国側には、
中国側の説明がある。
教育を整える。
共通語を学ぶ。
就職の機会を広げる。
道路も病院も学校も作る。
それ自体は、
一つの事実かもしれない。
けれど、
別のカメラから見れば、
子どもが祖母の言葉を忘れる。
祈りの言葉を忘れる。
山や川の古い名前を忘れる。
「学校って、
未来をくれる場所なのに」
「未来を一つしか選ばせん学校は、
怖いこともある」
祖父は答えた。
二つの言葉を学べるなら、
子どもの世界は広がる。
だが、
片方の言葉だけが
仕事と進学の切符になり、
もう片方が
家の中でしか
使えない言葉になるなら、
それは教育ではなく、
静かな選別かもしれない。
「銃で追い出されなくても、
言葉を失ったら
帰る場所がなくなるんじゃな」
「そうじゃ」
………
■第九章
10年の判決と、子どもの端末
インドネシアでは、
教育用端末の調達をめぐる裁判が
大きなニュースになった。
元教育相には、
懲役10年の判決。
裁判所は、
教育のデジタル化を進める中で、
特定企業に利益がつながる方向へ
政策が動いたと判断した。
一方で、
証拠が十分でないとして
無罪を主張する裁判官もいた。
「結局、
何が本当なん?」
祖父は、
少し考えた。
「そこが羅生門じゃ」
教育を良くしたかったのか。
企業を儲けさせたかったのか。
結果が悪かっただけなのか。
犯罪だったのか。
同じ書類を見ても、
人によって結論が変わる。
でも一つだけ確かなのは、
《子どもの未来という言葉は、
巨大な金になる》
ということじゃ。
端末一台は小さい。
しかし国中の学校へ配れば、
何億ドルもの市場になる。
「子どもの学びが、
株価の材料になるんじゃな」
「そうじゃ」
「それ、
黒板に広告貼ってるみたい」
「今は黒板より、
画面の中が広いからのう」
………
■第十章
鍵のかかった517号室
インドの病院では、
担当医が退職したあと、
腎移植の記録が
鍵のかかった部屋に残された。
患者は待つ。
家族も待つ。
父親が腎臓を提供する
準備をしていた人もいた。
けれど記録に触れない。
引き継ぎが止まる。
手術が止まる。
「世界GDP126兆ドルで、
鍵一本に負けるん?」
祖父は、
うなずいた。
「負ける」
AIが進んでも、
電子カルテが増えても、
最後に誰かが
“この人を次へ渡す”
と言わなければ、
人は消える。
現代の恐ろしさは、
情報がないことではない。
《情報はある。
だが、誰も開けられない》
ことじゃ。
「羅生門の門も、
壊れたまま
誰も直さなかったんかな?」
「そうかもしれん」
「直す担当者が
辞めたんかな」
「そして鍵は、
誰かの机の引き出しに
入ったままじゃったんじゃろう」
二人は笑った。
でも、
笑ったあとに少し寒くなった。
………
■第十一章
ロシア富豪か、ウクライナ富豪か
モナコで襲撃された富豪は、
ある放送では
“ロシアの富豪”のように聞こえた。
別の放送では、
“ウクライナ出身の富豪”。
さらに調べると、
国籍、事業、制裁、
占領地との関係など、
何層もの背景が出てきた。
「どっちが本当なん?」
「一言では足りん」
祖父は言った。
「だがニュースは、
一言で呼びたがる。
ロシア富豪。
ウクライナ富豪。
親中派。
反米派。
移民。
犯罪者。
一言で呼ぶと、
分かった気になるからのう」
『羅生門』では、
同じ事件を見ても、
盗賊も妻も武士も木こりも
違う話をする。
現代では、
SNSが全員にカメラを渡した。
でも、
カメラが増えたから、
真実が増えたわけではない。
切り取る人が増えた。
字幕を付ける人が増えた。
怒る人が増えた。
「じゃあ、
真実ってどうやって探すん?」
「一つの動画で決めんことじゃ」
祖父は言った。
「そして、
分からんことを
分からんままにしておく勇気じゃ」
………
■第十二章
敗戦と拍手
韓国が、
ワールドカップで敗れた。
監督には野次。
協会には怒り。
しかし孫興慜には、
拍手が送られた。
「負けたのに拍手?」
「国民が、
誰に怒るべきかを
分けたんじゃろう」
祖父は言った。
孫興慜は、
何年も韓国の希望だった。
海外で戦い、
代表で走り、
期待を背負ってきた。
だから人々は、
負けた責任を
一人の選手に全部押しつけなかった。
「それ、
ちょっといい話じゃん」
「そうじゃ」
祖父は言った。
「羅生門の下で、
誰かの着物を
奪わずに済んだ瞬間じゃ」
怒りは必要だ。
責任も問うべきだ。
でも、
《叩きやすい人を叩くことと、
本当に責任を問うことは違う》
この区別ができる国は、
少し強い。
………
■第十三章
上の塔と、下の門
ゆづきは、
ノートを見た。
126兆ドル。
945テラワット時。
7917億ドル。
800兆ウォン。
8億人の極度貧困。
世界は、
数字だけなら巨大だった。
「おじいちゃん」
「なんじゃ」
「門の上にいる人って、
誰なの?」
祖父は、
長く考えた。
「特定の一人ではない」
巨大テック企業。
国家。
独裁者。
投資ファンド。
石油会社。
半導体企業。
軍需産業。
選挙で勝ちたい政治家。
炎上で儲ける配信者。
「みんなが
雨漏りを作ってるの?」
「そうとも言える」
祖父は言った。
「だが門の下で、
着物を奪う手は
わしらにもある」
移民を一言で嫌う。
病人の順番を後回しにする。
少数民族の言葉を
効率のために消す。
AIの便利さだけ受け取り、
電気と水の請求書を
別の町へ回す。
誰かの痛みを見て、
《仕方ない》
とスクロールする。
「じゃあ、
誰が悪いん?」
「全員が少しずつ悪い。
そして全員が少しずつ
助けられる」
祖父は言った。
「それが一番、
希望が残る考え方じゃ」
………
■第十四章
親鸞さんならどう見るか
ゆづきは、
祖父が毎朝読む
正信偈を思い出した。
昔は、
何を言っているか
ほとんど分からなかった。
「おじいちゃんはさ…」
「なんじゃ」
「なんでそんなに
親鸞さんの話が好きなの?」
祖父は笑った。
「親鸞さんは、
自分を善人だと思い込むな、
と教えてくれるからじゃ」
「悪い人を罰する話じゃないの?」
「違う」
祖父は言った。
「まず、
自分の中にも
下人がおると見る」
腹が減れば、
人は盗むかもしれない。
不安なら、
誰かを悪者にするかもしれない。
怖ければ、
嘘を信じたくなるかもしれない。
自分だけは正しいと、
思いたくなるかもしれない。
「それって、
しんどくない?」
「しんどい」
「じゃあなんでやるん?」
「自分だけ正しいと思った瞬間、
人は他人の着物を
剥ぎ取りやすくなるからじゃ」
ゆづきは、
しばらくスマホを見なかった。
画面には、
今日も新しい怒りが流れていた。
誰かが悪い。
誰かを追い出せ。
誰かを罰しろ。
誰かを消せ。
その下に、
小さく広告が出ていた。
《あなたにおすすめの怒り》
ゆづきは、
スマホを裏返した。
………
■第十五章
赤ん坊を抱いて、雨の外へ
黒澤明の『羅生門』には、
最後に赤ん坊が出てくる。
人間の嘘を見て、
もう誰も信じられないと
思っていた男がいる。
そこへ、
捨てられた赤ん坊が現れる。
ある者は、
赤ん坊の着物まで取ろうとする。
でも木こりは、
赤ん坊を抱く。
「全部の人間が悪いんじゃない」
そう言うように、
雨の中を歩き出す。
祖父はノートを閉じた。
「ゆづき」
「なに?」
「AI時代の一番大事な仕事は、
何だと思う?」
「AIに負けない仕事?」
「違う」
「半導体工場を作る?」
「違う」
「世界を救う?」
「それは大きすぎる」
祖父は言った。
《番号になった人を、
もう一度、
名前で呼ぶことじゃ》
腎移植を待つ人。
追い出される移民。
母語を忘れかけた子ども。
敗戦して頭を下げる選手。
AIに不採用を出された就活生。
炎上して、
画面の向こうで消される人。
誰かが、
「この人は、
登録エラーではない」
「この人は、
不法という一語ではない」
「この人は、
失敗した選手だけではない」
と言う。
その一言が、
羅生門の雨の中で
赤ん坊を抱く手になる。
世界は、
たぶん急には変わらない。
126兆ドルの世界でも、
鍵のかかった部屋は残る。
AIは、
もっと電気を食べる。
半導体工場は、
もっと水を飲む。
怒りは、
もっと速く拡散する。
でも。
誰かの着物を奪う前に、
一度だけ手を止めることはできる。
「おじいちゃん」
「なんじゃ」
「私、
今日からコメント欄で
人を殴らない」
「えらい」
「でも、
面接で落ちたら
ちょっと殴るかも」
「そこはAIに
下書きさせなさい」
「AIに怒りを添削させるの?」
「文明の使い方を
間違えとる」
雨はまだ降っていた。
でもゆづきは、
スマホを裏返したまま、
祖父と一緒に
台所へ行った。
冷蔵庫には、
サバ缶が一つあった。
世界を救うには足りない。
でも今夜、
二人が食べるには足りた。
………
❥Z世代のあなたに
世界のニュースは、
大きすぎる。
126兆ドル。
800兆ウォン。
945テラワット時。
数字が大きすぎると、
自分とは関係ないように見える。
でも、
その数字は
あなたの家賃、
あなたの就職、
あなたの電気代、
あなたのスマホ、
あなたが飲む水へ、
いつかつながってくる。
だから、
全部を信じなくていい。
全部を怒らなくていい。
ただ、
《一つの動画で決めない。
一つの国籍で決めない。
一つの失敗で人を捨てない。》
それだけでいい。
羅生門は、
昔の京都だけにあったのではない。
病院の鍵のかかった部屋にもある。
偽の退去通達にもある。
AIが出す不採用メールにもある。
スマホのコメント欄にもある。
そして、
あなたの親指のすぐ下にもある。
だからこそ、
誰かを消す前に、
一度だけ止まろう。
その一秒が、
未来の赤ん坊を
雨から守るかもしれない。
………
★あとがき
やすきよ風・
ホームズとワトソンの
羅生門漫才(笑)
ワトソン
「ホームズ先生!
世界GDP126兆ドルです!」
ホームズ
「ほう」
ワトソン
「なのに極度貧困が
8億人以上です!」
ホームズ
「それは大変だ」
ワトソン
「どうします?」
ホームズ
「まず、
世界の金持ちを集めよう」
ワトソン
「おお!」
ホームズ
「そして、
一人ずつサバ缶を渡す」
ワトソン
「スケールが
急に町内会じゃ!」
ホームズ
「サバ缶は重要じゃ」
ワトソン
「重要ですけど、
126兆ドルに対して
サバ缶で対抗します?」
ホームズ
「では、
半導体も渡す」
ワトソン
「食えん!」
ホームズ
「AIにも聞いてみよう」
ワトソン
「何て聞くんです?」
ホームズ
「世界を救う方法を、
三行で」
ワトソン
「怖いなあ」
AI
《世界の不平等を是正するには、
包摂的成長と制度改革が――》
ワトソン
「長い!」
ホームズ
「AIも羅生門の下で
説明会を始めたな」
ワトソン
「先生、
結局どうしたらいいんです?」
ホームズ
「まず、
目の前の人を
番号にしないことじゃ」
ワトソン
「おお、
いいこと言いますね」
ホームズ
「そしてサバ缶を分ける」
ワトソン
「また戻った!」
ホームズ
「腹が減ると、
人間は着物を剥ぐからのう」
ワトソン
「じゃあ世界平和は?」
ホームズ
「温かいご飯、
正しい情報、
少しの居場所。
まずはそこからじゃ」
ワトソン
「ホームズ先生」
ホームズ
「なんじゃ」
ワトソン
「それ、
めちゃくちゃ地味ですね」
ホームズ
「地味じゃ」
ワトソン
「でも、
赤ん坊を抱いて
雨の外へ出るのって、
そういうことかもしれませんね」
ホームズ
「うむ」
ワトソン
「じゃあ僕、
サバ缶を温めます」
ホームズ
「水煮で頼む」
ワトソン
「そこまで羅生門じゃない!」




