地球が、水を体に残せなくなった日 ――地中海は熱い風呂になり、乾いた大地は熱を抱え込み、雨は洪水になって海へ逃げた。
✦ 地球が、水を体に残せなくなった日
――地中海は熱い風呂になり、
乾いた大地は熱を抱え込み、
雨は洪水になって海へ逃げた。
フランスは四十度で学校を閉め、
インドは夜でも働き、
海の魚は勝手に住所を変えた。
熱波、戦争、AI、原油。
世界で同時に起きている異変の正体は、
地球の「ドライマウス」だった――
………
★目次
■第1章
午前四時の白湯
■第2章
地球にも唾液がある
■第3章
瀬戸内のタコ、地中海の魚、
豪州の海の死骸
■第4章
地中海は、
熱い風呂では終わらなかった
■第5章
フランスの石畳が眠らない
■第6章
インドでは夜が休ませてくれない
■第7章
雨は地球のおしっこだった
■第8章
水はある。
でも、蛇口まで来ない
■第9章
AIが飲む水
■第10章
油断大敵――油があるのに、世界が渇く日
■第11章
資源国が先に干上がる
■第12章
ロケットの下にいる人たち
■第13章
首相を替えても配管は直らない
■第14章
地球は老後に入った
■第15章
地球に白湯を飲ませる国
………
■第1章 午前四時の白湯
午前四時。
僕はまた、
口の中が乾いて目を覚ました。
「……白湯」
冷たい水を一気に飲むと、
胃がびっくりする。
だから、
湯冷ましをコップ半分。
ちびちび。
ところが、
少しするとまた、
体が水を外へ出したがる。
「飲んでも困る。
飲まなくても困る」
六十七歳の体は、
水ひとつで会議を始める。
朝。
高校一年生の孫、
ゆづきがスマホを見ながら言った。
「おじいちゃん、
また夜中に起きたん?」
「起きた。
わしの口の中は、
砂漠化しとる」
「それ老化じゃん」
「言い方が大切じゃ」
ゆづきは、
画面を僕の前へ置いた。
「見て。
フランス、
四十度超え。
学校を閉めてるって」
僕は箸を止めた。
六月なのに、
ヨーロッパの町は焼けていた。
昼に熱を抱えた石畳は、
夜になっても冷えない。
人間が寝る時間になっても、
町の方が眠れない。
「世界遺産でも、
帽子、水、日陰じゃ」
「昔は戦争から城を守ってたのにね」
「今は太陽から、
人を守る時代じゃ」
ゆづきは、
少し黙った。
「地球も、
おじいちゃんみたいに
口が乾いてるんじゃない?」
その言葉で、
僕の頭の中の古い証券マンが、
カチリと電卓を入れた。
地球のドライマウス。
世界のニュースが、
急に一本の線になる気がした。
………
■第2章 地球にも唾液がある
「土にも、
唾液みたいなものがあるん?」
ゆづきが聞いた。
「ある」
僕は、
新聞の裏に丸を描いた。
土に水分が残っていれば、
太陽の熱は、
水を蒸発させる方へ使われる。
地面は少し冷える。
「じゃあ、
乾いた土は?」
「熱を逃がせん」
太陽の熱は、
そのまま地面と空気を焼く。
「ホットプレートじゃん」
「そう。
大地が自分で汗をかけん状態じゃ」
地中海の周りでは、
暑いだけではない。
土が乾く。
木が弱る。
川が細る。
山が燃えやすくなる。
そして、
久しぶりに雨が降る。
でも乾き切った土地は、
雨をゆっくり受け止められない。
水は地面へ入らず、
道路を走る。
川を走る。
町を流れる。
洪水になる。
数日後。
また乾く。
「地球、
水を飲んでも
体に残せないんだ」
「そこが怖い」
地球は、
水がなくなったわけではない。
水が、
欲しい場所と、
降る場所と、
残ってほしい場所で、
ずれている。
………
■第3章
瀬戸内のタコ、地中海の魚、
豪州の海の死骸
その朝。
西日本のある田舎は、
梅雨の雨だった。
気温は二十度少し。
窓の外の瀬戸内海は、
灰色で静かだった。
「六月末なのに、
ちょっと寒いね」
ゆづきが、
薄い上着の袖を引っぱった。
僕はスマホを見た。
同じ朝。
フランスは四十度超え。
地中海では、
海水まで熱を持ち、
泳げば涼しいはずの海が、
ぬるい風呂みたいになっていた。
「こっちは雨で二十二度。
向こうは四十度。
同じ地球なのに、
天気の設定ミスじゃん」
「設定ミスではない。
海と陸が、
昔と違う仕事を始めたんじゃ」
瀬戸内海では、
タコが減る。
海が少しぬるくなるだけで、
卵が育つ時期がずれる。
餌になる小さな生き物も、
増える時期がずれる。
タコが減る。
漁師が困る。
港の食堂が困る。
スーパーの値札まで変わる。
でも地中海では、
別の異変が起きていた。
昔なら紅海にいた魚が、
北へ進む。
熱くなった海が、
熱帯の魚にとって
住める部屋になったからだ。
網に入る魚が変わる。
漁師は、
知らない魚を見て迷う。
食べられるのか。
毒はないのか。
売れるのか。
海草が弱る。
魚の赤ちゃんの隠れ家が減る。
貝が育ちにくくなる。
観光客は、
青い海を見に来る。
地元の人は、
その青い海の下で
食べ物の住所が
書き換わるのを見ている。
「瀬戸内海はタコ。
地中海は魚の引っ越し」
「魚に住民票はないからな」
「ずるいね」
ところが、
もっと怖い海もある。
オーストラリア南部では、
毒のある藻が増えすぎて、
海の生き物が死ぬ。
海が温まり、
栄養が流れ込み、
藻が増える。
海は濁る。
魚が浮く。
貝が死ぬ。
イカが消える。
漁師は、
網より先に、
海へ出てよいか確かめる。
「海が病院みたい」
「海が具合悪くなると、
港町が一緒に寝込む」
漁師の給料。
港の食堂。
ダイビング屋。
観光客。
全部、
海の機嫌で決まる。
海の異変は、
遠い海のニュースではない。
数年後。
スーパーでタコが高い理由を、
「漁師が減ったから」ではなく、
「海が別の魚の住所になったから」
と君が言う日が来るかもしれない。
………
■第4章
地中海は、
熱い風呂では終わらなかった
地中海は、
水が減ったわけではない。
むしろ、
海は熱を抱え込んでいる。
問題は、
周りの陸地が乾き、
熱を逃がせなくなることだった。
スペインの畑は、
水を待つ。
南フランスの町は、
夜まで熱を離さない。
イタリアの川は、
農家と工場と発電所で
細い水を分け合う。
ギリシャの島では、
観光客が増える夏ほど、
住民の蛇口が気になる。
「海があるのに、
なんで乾くん?」
「風呂に水があっても、
体の中が脱水なら苦しいじゃろ」
地中海は、
地球の口ではない。
熱を抱えた、
巨大な風呂だった。
そして、
その周りには、
水。
食料。
国境。
難民。
軍艦。
ガス田。
海底ケーブル。
古い宗教と、
古い憎しみと、
新しい武器が集まっていた。
「狭いところに、
問題が多すぎない?」
「熱い風呂に、
人を詰め込みすぎたんじゃ」
戦争は、
暑さだけで起きるわけではない。
歴史。
恐怖。
権力。
格差。
復讐。
乾燥は、
戦争を生む犯人ではない。
でも、
火の周りの草を乾かして、
燃え広がりやすくする。
地中海は、
青い観光ポスターの海ではなかった。
世界の古い傷が、
熱でひりつく場所だった。
………
■第5章
フランスの石畳が眠らない
モンサンミッシェルでは、
観光客に言われる。
帽子をかぶれ。
水を飲め。
日陰へ入れ。
無理に歩くな。
昔は潮が、
人を閉じ込めた。
今は太陽が、
人を閉じ込める。
パリでは、
学校が閉まる。
電車が遅れる。
病院が備える。
「フランスって、
おしゃれな国なのに」
「おしゃれな服は、
熱波に勝てん」
「石造りの町って、
涼しそうなのに」
「昼に熱を抱く。
夜まで離さん」
夜が暑い。
これが怖い。
昼が暑いだけなら、
人はまだ逃げられる。
でも夜まで暑いと、
逃げる体力そのものが、
翌朝には残っていない。
石畳。
壁。
道路。
屋根。
町の全部が、
昼の熱を覚えている。
人間の心も似ている。
昼に傷ついた言葉を、
夜まで抱えて眠れない。
町も、
地球も、
夜まで眠れなくなっている。
………
■第6章
インドでは夜が休ませてくれない
インドでは、
昼の暑さを避け、
夜に働く人がいる。
市場。
工事現場。
配送。
農業。
家族を食べさせるために、
夜も動く。
でも、
夜が暑い。
汗が止まらない。
心臓が休めない。
眠れない。
朝になる。
また暑い。
「ヨーロッパより、
もっときついじゃん」
「暑さから逃げられる人と、
逃げられない人がおる」
エアコンのある部屋。
水のある家。
休める職場。
病院へ行ける車。
熱波は、
それを持っている人と、
持っていない人を分ける。
気温計は、
全員に同じ数字を出す。
でも、
命は同じように守られない。
「温暖化って、
貧乏な人ほど先に暑いんだ」
「そうじゃ。
熱波は、
社会の格差を体温で見せる」
………
■第7章
雨は地球のおしっこだった
乾いた土地に、
雨が降る。
最初は嬉しい。
でも、
一気に降りすぎる。
川があふれる。
道路が沈む。
畑が流れる。
下水が逆流する。
「地球、
おしっこ近くなってるじゃん」
「言い方は悪いが、
仕組みは近い」
年を取ると、
水分を体に残すのが難しくなる。
地球も、
雨を土に残せなくなっている。
理由は、
空だけではない。
森が減った。
湿地が減った。
池が埋められた。
田んぼが減った。
町がアスファルトになった。
雨は、
地下へしみ込まず、
排水路へ走る。
「地球の腎臓が弱ってる?」
「その通りじゃ」
湿地。
森林。
地下水。
田んぼ。
池。
それは地球の腎臓だった。
水を少しずつ戻し、
次の乾きに備える場所だった。
人間は便利のために、
その腎臓を削ってきた。
………
■第8章
水はある。
でも、蛇口まで来ない
ガザで足りないのは、
水だけではなかった。
水をくみ上げる電気。
海水を淡水に変える機械。
ポンプを動かす燃料。
壊れた配管を直す人。
給水車が通る道路。
そして、
水を待つ時間だった。
「水道って、
蛇口をひねるだけじゃないんだね」
「蛇口の向こうには、
発電機、
燃料、
ポンプ、
浄水、
配管、
運転する人がおる」
僕は、
空になったペットボトルを
テーブルへ置いた。
戦争は、
爆弾が落ちた時だけ
人を苦しめるんじゃない。
水が一杯届くまでの
道のりを、
少しずつ壊していく。
給水車が来る。
人が並ぶ。
容器を持つ。
順番を待つ。
でも燃料がなければ、
ポンプが止まる。
道路が壊れれば、
給水車が来ない。
配管が破れれば、
水は途中で漏れる。
水があっても、
人の口まで届かない。
「地球のドライマウスと、
同じじゃん」
「そうじゃ」
体のどこかには水がある。
でも、
必要な場所まで届かない。
港で止まる。
国境で止まる。
道路で止まる。
検問で止まる。
恐怖で止まる。
戦争で最初に壊れるのは、
建物ではない。
「明日の朝も、
蛇口から水が出る」という
人間の当たり前だ。
………
■第9章
AIが飲む水
フランスは、
AIデータセンターを呼び込む。
巨大な建物。
大量の電気。
大量の冷却。
国は言う。
「原発がある。
電気はある」
ゆづきが言った。
「水は?」
僕は少し黙った。
熱波の日。
病院が冷房を使う。
学校が冷房を使う。
老人が冷房を使う。
農地が水を欲しがる。
そこへAIが言う。
《GPUの温度が上昇しています》
「地球がドライマウスなのに、
AIにサウナ作ってるみたい」
「その通りじゃ」
AIは悪くない。
問題は、
誰が先に水を飲むか。
誰が先に電気を使うか。
誰が暑い日に守られるか。
AIが君の就職を変える前に、
AIを冷やす電気と水が、
君の町の値段を変えるかもしれない。
これからの国力は、
半導体だけではない。
暑い日に残る水。
冷却できる電気。
雨を溜められる土地。
それが、
新しい通貨になる。
………
■第10章
油断大敵――油があるのに、世界が渇く日
ホルムズ海峡が止まりかけた時、
世界は叫んだ。
「原油は百五十ドルだ!」
船が止まる。
保険料が上がる。
港で待つ。
買い手は焦る。
市場は、
まだ届いていない油まで
先に奪い合った。
「石油って、
足りないの?
余るの?」
僕は笑った。
「油断大敵じゃ」
「ことわざ?」
「油が切れたら敵が来る、
とも読める」
油田。
港。
製油所。
パイプライン。
油を持つと、
もっと欲しくなる。
自分の油を守りたくなる。
相手の油も欲しくなる。
油を運ぶ海峡まで、
自分のものにしたくなる。
そのために、
施設を作る。
警備を置く。
武器を置く。
相手の施設を壊す。
本来は、
車を動かし、
町を照らし、
工場を回すための施設だった。
貯蔵タンク。
港。
送電線。
ポンプ。
製油所。
それが戦争になれば、
相手の暮らしを止める標的になる。
「油を取るために、
油を作る工場を壊すの?」
「人間は焦ると、
何を守りたかったのか
忘れる」
そして、
海峡が少し開く。
止まっていた船が動く。
港のタンクの油が動く。
海の上で待っていた油も動く。
世界には、
消えた油ではなく、
渋滞していた油があった。
中国の工場が弱る。
EVが増える。
景気が鈍る。
石油の需要が、
思ったほど伸びない。
すると市場は、
さっきまでの恐怖を忘れて言う。
「油が余る」
市場は喉が渇くと、
コップを百個買う。
飲み切れんと分かると、
今度はコップごと投げる。
原油価格が下がっても、
明日のガソリン代がすぐ下がるとは限らない。
船。
保険。
港。
タンク。
精製所。
その時間差を通って、
やっと家計に届く。
………
■第11章
資源国が先に干上がる
石油が出る国は、
強いと思われていた。
でも、
船が止まる。
港が止まる。
製油所が止まる。
保険が上がる。
水が足りない。
電気が止まる。
食料を輸入できない。
すると石油は、
地面の下で寝ているだけになる。
「資源があっても、
だめなん?」
「金庫に現金があっても、
水道が止まったら困るじゃろ」
資源は、
掘るだけでは意味がない。
運ぶ。
加工する。
貯める。
配る。
契約を守る。
壊れたら直す。
そこまでできて、
初めて資源は
人の役に立つ。
日本には、
大きな油田はない。
だから、
油を奪いに行く国にはなれなかった。
代わりに、
油をためる。
品質を分ける。
精製する。
化学原料にする。
港で受ける。
タンクで守る。
船から陸へつなぐ。
非常用発電機を回す。
水道と病院と工場を止めない。
油を王様として抱え込むのではない。
油が来ても来なくても、
町が死なないように、
裏方を整える。
「油を料理するって、
そういうこと?」
「そうじゃ」
「油を奪う国じゃなくて、
油で生活を止めない国」
「よう分かったな」
世界は最後、
ネジで止まっている。
………
■第12章
ロケットの下にいる人たち
ロケットは空へ飛ぶ。
衛星は宇宙へ行く。
ニュースは言う。
「宇宙産業が伸びる」
でも地上には、
危険が残る。
推進薬の粉。
洗浄作業。
摩擦。
静電気。
疲れ。
夜勤。
下請け。
「宇宙って、
キラキラしてないんだ」
「クラウドも宇宙も、
最後は誰かが掃除する」
AIの下には、
データセンターがある。
データセンターの下には、
変圧器がある。
変圧器の下には、
銅と化学品と
現場で働く人がいる。
未来は、
雲の上で動いているように見える。
でも実際は、
地面の上で働く人の、
手袋の上に乗っている。
………
■第13章
首相を替えても配管は直らない
英国は、
首相を替えてきた。
でも、
病院の待ち時間。
住宅不足。
地方の交通。
水道。
電力。
移民問題。
若者の仕事。
それは、
首相を替えるだけでは直らない。
「おじいちゃんも、
メガネ変えたって
老化止まらんもんね」
「なぜ、
わしを見る」
国にも、
見えない配管がある。
道路。
鉄道。
病院。
学校。
地方の工場。
水道。
送電線。
そこが古くなると、
国は表面だけ若返っても、
中身は動かない。
自由とは、
出口を出ることではない。
出口の後に、
生活を作り直すことだった。
首相が変わっても、
蛇口は自動では直らない。
………
■第14章
地球は老後に入った
「おじいちゃん。
地球って、
もう終わりなん?」
ゆづきが聞いた。
僕は首を振った。
「終わりではない。
老後に入ったんじゃ」
世界は、
成長期の体で走りすぎた。
人口が増えた。
都市が増えた。
便利が増えた。
電気が増えた。
車が増えた。
コンクリートが増えた。
水を使った。
空を使った。
地面を使った。
便利を、
何十年も前借りした。
だから今、
地球は夜中に起きる。
喉が渇く。
雨を一気に飲む。
流し出す。
眠れない。
「地球、
ほんとにおじいちゃんじゃん」
「そうじゃ」
「若い時みたいには、
戻れない?」
「戻れん」
僕は言った。
「でもな。
年を取ることは、
終わりではない。
無茶をやめて、
水の飲み方を覚え直すことじゃ」
元に戻らない世界で、
何を残すか。
そこからが、
次の世代の仕事になる。
………
■第15章
地球に白湯を飲ませる国
地球に必要なのは、
巨大なダムだけではない。
雨を、
土へ少しずつ戻すこと。
森。
湿地。
池。
田んぼ。
街路樹。
屋上緑化。
壊れた水道の修理。
地下水を守ること。
暑い日に、
AIより先に、
人間が水を飲めるようにすること。
「そんな国が強くなるん?」
「強くなる」
これからの国は、
石油を持っている国より、
水を体に残せる国が強い。
水。
電気。
港。
タンク。
病院。
送電線。
食料。
避難所。
契約。
そして、
困った時に隣の蛇口を見る人。
それが、
地球の老後を支える。
「日本は?」
「油田はない」
「うん」
「でも、
床下の工具箱になれる」
「工具箱?」
「世界の配管が壊れた時、
ネジを持って駆けつける国じゃ」
ゆづきは笑った。
「地味」
「地味な国が、
最後まで生き残る」
………
❥ Z世代のあなたへ
ここで、
千五百年以上前の
変な話を一つだけ紹介したい。
『百喩経』にある、
木の筒の水を飲む人の話だ。
暑い日。
喉がからからになった旅人が、
道ばたで
木の筒から流れる
きれいな水を見つけた。
旅人は、
がぶがぶ飲んだ。
「生き返った!」
腹いっぱい飲んで、
喉の渇きも消えた。
すると旅人は、
まだ流れ続ける水へ怒鳴った。
「もう飲み終わった。
水よ、
もう流れるな!」
水は、
当たり前のように流れ続けた。
旅人はもっと怒った。
「止まれと言ったろ!
俺の言うことを聞け!」
でも、
考えてみればいい。
水が悪いのではない。
旅人が、
その場を離れればよかった。
欲望も似ている。
スマホの通知。
終わらない動画。
煽るニュース。
勝ち組の自慢。
値上がりした株。
限定品。
高級車。
もっと稼げ。
もっと持て。
もっと勝て。
世界には、
人間の喉を乾かすものが
あふれている。
原油もそうだった。
足りないと聞けば、
もっと欲しくなる。
手に入れたら、
今度は相手にも
持たせたくなくなる。
油田。
海峡。
港。
製油所。
自分だけのものにしたくなる。
でも、
止まっていた油が動き出すと、
今度は余る。
「もういらない」と言っても、
油は海の上から、
港のタンクから、
市場の数字の中から、
まだまだ出てくる。
木の筒の水と同じじゃ。
人間は、
欲しい時には
水を神様と思う。
満たされた後には、
流れ続ける水へ
怒り始める。
だから、
百喩経は言っている。
欲を全部、
力ずくで止めようとするな。
目の前の水を、
世界から消そうとするな。
自分の心が、
何に煽られているかを見よ。
その場を、
一歩離れよ。
逃げることは、
負けることではない。
怒りを育てる動画から離れる。
誰かを憎ませる投稿から離れる。
儲かると叫ぶ群衆から離れる。
自分だけ欲しいと思わせる場所から離れる。
それは、
人生を捨てる逃げではない。
自分の心を、
火事にしないための避難じゃ。
世界を全部救えなくてもいい。
でもあなたの親指は、
今日、
何を増やすかを選べる。
怒りか。
欲か。
不安か。
それとも、
少し考える時間か。
地球が水を抱えられなくなった時代に、
人間まで欲望を抱えきれなくなったら、
世界はもっと乾く。
だから、
白湯を飲むように。
情報も。
買い物も。
怒りも。
ちびちび、
自分で選んでほしい。
………
★あとがき
ホームズとワトソン、
木の筒の前で大騒ぎする
ホームズが言った。
「ワトソン君。
地球の病名が分かったぞ」
ワトソンが聞いた。
「何ですか、ホームズ先生」
「ドライマウスじゃ」
「地球に口があります?」
「地中海が口じゃ」
「インドは?」
「眠れない足じゃ」
「英国は?」
「首相を替えすぎた頭じゃ」
「AIデータセンターは?」
「サウナでパソコンする行為じゃ」
「壊れますよ」
「だから言うたじゃろ。
地球は白湯を
ちびちび飲まんといけん」
その時。
二人の前に、
木の筒があった。
透明な水が、
こんこんと流れていた。
ワトソンが飲んだ。
ごくごく。
ごくごく。
「うまい!」
ホームズも飲んだ。
ごくごく。
ごくごく。
「うまいぞ!」
二人は飲んだ。
飲んで。
飲んで。
飲み終わった。
ホームズが、
木の筒を指さして怒鳴った。
「もうよい!
水よ、
止まれ!」
ワトソンが言った。
「先生。
百喩経、読んだんですよね」
「読んだ」
「旅人が、
水に怒っていた話も?」
「読んだ」
「自分が離れればよいと?」
「読んだ」
「では先生」
「なんじゃ」
「なぜ水筒を蹴っているんですか」
「水が、
わしの欲望を刺激するからじゃ!」
「先生。
欲望を刺激されとるのは、
水ではなく先生です」
ホームズは、
しばらく黙った。
そして言った。
「ワトソン君」
「はい」
「逃げるは役に立つ」
「どこへ逃げるんですか」
「ラーメン屋じゃ」
「いちばん塩分の濃い方へ
逃げましたね」
僕は白湯を飲んだ。
ちびちび。
地球の分まで、
ちびちび。
そして、
スマホを伏せた。
木の筒の水は、
今日も流れている。
止められないものは、
たくさんある。
でも、
そこから一歩離れることはできる。
それだけで、
人間は少し、
地球にやさしくなれるのかもしれない。




