『逆オイルショック』 石油を掘れなかった国が、世界の蛇口になった日
✦『逆オイルショック』
石油を掘れなかった国が、
世界の蛇口になった日
――ホルムズが閉じた夜、
世界は「石油が足りない」と叫んだ。
だが海峡が開いた朝、
世界はもっと怖いものを見た。
油が足りないのではない。
油の行き先が、
なくなっていた。――
トラン●大統領は言った。
「Drill, baby, drill!」
掘れ、ベイビー、もっと掘れ!
だが世界は、
掘りすぎた油を
誰に売るのか決めていなかった。
中国は買い控える。
EVは走る。
ロシアは値切られる。
油田は増えた。
行き先は減った。
それは、
逆オイルショックの
始まりだった。
その時。
石油を一滴も掘れなかった日本が、
世界の油を受けて、混ぜて、
次の国へ流す
“蛇口”になっていた。
………
★目次
■第1章
ホルムズの夜
■第2章
油田より、台所
■第3章
中国はレジに来なかった
■第4章
ロシアの油は、
安売りの牢屋へ
■第5章
オーストラリアに、
鳥と白い粉が来た
■第6章
フィジーの静かな桟橋
■第7章
港は、
荷揚げ場ではなくなった
■第8章
日本のタンクは、
臆病の貯金箱
■第9章
AIの首切りを、
日本だけが人手不足で受け止めた日
■第10章
2040年の老人ホームとロボット
■第11章
生成AI、夜勤を始める
■第12章
世界の油が余った朝
■第13章
石油会社は、
交通整理屋になる
■第14章
悟りは、
米びつを空にしないこと
■第15章
配線国家、日本
………
■第1章
ホルムズの夜
五年後。
孫のゆづきは、
朝からスマホを見ていた。
「じいじ。
ホルムズ海峡が
また止まったって…」
「また、か?」
「石油って、
もう終わりじゃん」
僕は湯のみを置いた。
「油が終わるんじゃない。
油を運ぶ道が、
ちょっと詰まっただけじゃ」
「それ、トイレと一緒?」
「世界経済はだいたい、
巨大なトイレじゃ」
「急に話が下品」
「詰まると、
みんな困る」
………
■第2章
油田より、台所
中東には油田がある。
アメリカには
シェール油がある。
ロシアにも油がある。
だけど油は、
掘っただけでは
車を走らせられない。
港がいる。
タンクがいる。
混ぜる人がいる。
硫黄を抜く装置がいる。
ガソリン。
軽油。
飛行機の燃料。
プラスチックの材料。
それぞれに分ける
工場がいる。
「じゃあ日本は?」
「油は一滴も出ん。
でも、
油を料理する台所がある!」
ゆづきは笑った。
「日本、
世界の給食当番?」
「そうじゃ。
でも給食当番を
ナメたらいけん。
カレーが出んかったら、
午後の授業は全部荒れる」
………
■第3章
中国はレジに来なかった
世界が怖がったのは、
中国が油を売ったことではない。
中国が、
買わなかったことだった。
「買わないだけで、
そんなに困るの?」
ゆづきが言った。
僕はスーパーのチラシを広げた。
「たとえばこの店に、
毎日お米を百袋買う
大家族がおるとする」
「炊飯器、
十台いるね」
「電気代で破産じゃ」
「うん」
「ところがある日、
その大家族が言う。
『家の中に
米が山ほど残っとる。
今日は買わん』」
「お店、困るね」
「倉庫がパンパンになる。
すると店は言う。
『半額でええから、
誰か買うてくれ!』
となる」
「特売になる!」
「そうじゃ」
………
中国は世界最大級の
原油の買い手だった。
ところが二〇二六年五月。
中国の原油輸入は、
八年ぶりの低い水準まで落ちた。
海から届く原油も、
十年近く見ても
低い水準だった。
「そんなに?」
「世界の油田からしたら、
巨大なお客さんが急に
レジへ来なくなったような
もんじゃ」
しかも中国には、
前から買い込んだ原油が
タンクに残っていた。
だから製油所は、
『新しい油を買う前に、
冷蔵庫の奥から使おう』
となった。
「じゃあ中国は、
石油がないんじゃなくて、
冷蔵庫がいっぱいなんだ」
「その通りじゃ」
………
なぜ、
油を使う勢いが弱ったのか。
理由は一つではない。
家を建てる勢いが弱い。
不動産が弱る。
鉄がいらない。
セメントがいらない。
重機が動かない。
トラックも走らない。
「家が売れないと、
油までいらなくなるん?」
「家一軒は、
石油の親戚がいっぱいじゃ」
鉄を作る。
ガラスを運ぶ。
重機を動かす。
内装材を作る。
家具を届ける。
みんな、
どこかで燃料を使う。
家づくりが弱ると、
世界の油田まで
くしゃみをする。
………
若者の仕事も、
まだ楽ではなかった。
中国では、
十六歳から二十四歳の失業率が、
二〇二六年五月に
十五・六%だった。
百人いたら、
十五人か十六人は
仕事を探している計算になる。
「高いね…」
「高い。
仕事が不安なら、
車も家も買いにくい。
結婚も子どもも、
大きな買い物も、
後回しになる」
EVはたくさん作られた。
AIも作られた。
でも、
商品が増えることと、
安心して買える人が増えることは、
別の話だった。
工場は多い。
商品も多い。
でも、
財布と安心が追いつかない。
………
中国は、
原油を売らなくても、
世界を揺らす。
巨大な買い手が、
買い物かごを持ったまま
レジに並ばないだけでいい。
OPECの油田も。
ロシアの油田も。
アメリカのシェール油も。
「どうぞ買ってください」と
待つことになる。
ゆづきは、
チラシの米を見た。
「じゃあ中国は、
世界の石油スーパーで
一番大きいお客さんなんだ」
「そうじゃ。
そして今は、
冷蔵庫の奥を見ながら
言っとる。
『今日は買わん』」
その一言で。
世界の油田は、
特売の札を
準備し始める。
………
■第4章
ロシアの油は、
安売りの牢屋へ
ロシアは油を掘った。
世界でも大きな
石油の国だった。
「じゃあ強いじゃん」
ゆづきが言った。
「普通なら強い。
でも油田は、
財布みたいなもんじゃ」
「財布?」
「中にお金が入っていても、
穴が空いたら落ちる」
………
ロシアの財布には、
いくつも穴が空き始めた。
まず、
製油所が狙われた。
石油を
ガソリンや軽油に変える
工場じゃ。
製油所が傷つくと、
原油はあっても、
ガソリンにできない。
二〇二六年六月。
ロシアのガソリン生産は、
前年より大きく減った。
地域によっては、
給油制限や長い行列も出た。
「石油はあるのに、
ガソリンが足りないの?」
「そうじゃ。
牛を飼っとるのに、
牛乳パックの工場が
止まったようなもんじゃ」
………
しかも、
ロシアは原油を
外へ逃がそうとした。
国内で加工できない油を、
港から出す。
西側の主要港からの輸出は、
むしろ増えた。
「じゃあ売れてるなら、
大丈夫じゃん」
「違う。
台所が壊れた家が、
生米だけ近所へ売っているような
もんじゃ」
ロシアは原油を出した。
でも国内では、
ガソリンが足りない。
油田は動く。
なのに給油所で困る。
世の中は、
たまに性格が悪い。
………
さらに制裁がある。
船を探す。
保険を探す。
決済する銀行を探す。
港で受け入れてくれる国を探す。
中国やインドは言う。
「買ってあげてもいい」
ロシアは少し安心する。
だが続きがある。
「でも、
安くしてくれなきゃ
買わないよ」
値引き。
高い船賃。
高い保険。
遠回りの輸送。
壊れた製油所。
国内の燃料不足。
それが全部、
同じ財布から出ていく。
………
ロシアは、
石油を売れなかった
わけではない。
売った。
でも以前のようには、
儲からなかった。
「石油を持つことと、
石油で豊かになることは、
別の話なんじゃ」
僕は言った。
「高級ブランドのバッグを
たくさん持っていても」
「うん」
「フリマで半額にして、
送料まで自分持ちなら?」
「お金、残らない」
「それが、
安売りの牢屋じゃ」
………
ホルムズ海峡が開く。
OPECが増産する。
アメリカも掘る。
南米も売りたい。
中国は、
前ほど買わない。
世界の油が余り始める。
その時、
一番最初に値切られやすいのは、
売り先が限られたロシアだった。
油田は、
宝の山だった。
でも戦争のあと。
その油田は、
値札を貼られた牢屋になっていた。
………
■第5章
オーストラリアに、
鳥と白い粉が来た
資源国オーストラリアには、
鉄鉱石がある。
LNGがある。
広い土地もある。
「じゃあ、
食べ物もエネルギーも、
何でも大丈夫じゃん」
ゆづきが言った。
僕は首を振った。
「地下に宝があっても、
空から来るものと、
海から来るものは
止めにくい」
………
二〇二六年六月。
オーストラリア本土で、
H5N1型の鳥インフルが
野鳥から確認された。
最初に見つかったのは、
西オーストラリアの海辺にいた
海鳥だった。
次に別の州でも、
感染した鳥が見つかった。
「鶏じゃないんだ…」
「まだ鶏じゃない。
だから今、
みんな必死で止めとる」
緊急窓口には、
病気か死んだ鳥の通報が
五十件以上入った。
検査に回された鳥もあった。
「怖いのは数じゃない。
最初の一羽が、
どこへ飛ぶかじゃ」
………
海外では、
鳥インフルは鶏だけではなく、
野鳥や海の動物にも広がった。
鶏舎へ入れば、
何十万羽単位の殺処分になる。
卵が減る。
鶏肉が減る。
価格が上がる。
農家が苦しくなる。
「鉄鉱石を売ってても、
卵焼きは守れないんだ」
「そうじゃ。
地下資源は、
鶏小屋の屋根にはならん」
養鶏会社は、
立ち入りを厳しく制限した。
小さな農家も、
鶏を外に出さず、
野鳥と会わせないようにした。
それはパニックではない。
火事が起きる前に、
家の周りへ水をまく
作業じゃった。
………
同じころ。
海からは、
別の荷物が来ていた。
シドニー近郊で、
コンテナの二重底から、
コカインが見つかった。
重さは二・七トン。
二千七百キロ。
「二・七キロじゃなくて?」
「二千七百キロじゃ」
「ゾウ一頭より重い」
「白い粉のゾウじゃ」
高く売れる国だから、
運ばれてくる。
資源国だから安心。
お金持ちの国だから安全。
そんな単純な話ではない。
………
「鳥インフルも怖い。
麻薬も来る。
資源があるのに…」
「資源国だから安心、
ではないんじゃ」
鉄鉱石があれば、
外貨は入る。
ガスがあれば、
国は儲かる。
でも鳥は空から来る。
麻薬は海から来る。
どちらも、
地下資源の量では止められない。
国の強さは、
地下から掘れる物だけでは
決まらない。
空から来る病気を
見つける目。
海から来る怪しい荷物を
止める手。
若者が、
白い粉より先に
未来を選べる居場所。
その三つがなければ。
鉄鉱石もLNGも、
国を守り切れない。
………
■第6章
フィジーの静かな桟橋
フィジーの海は青かった。
リゾートの船が出ていた。
夕日を見に行くカップルが、
笑っていた。
その少し向こうで、
小さな船が荷物を渡していた。
「平和な島なのに?」
ゆづきが言った。
「平和だからじゃ。
戦場じゃない。
観光客も多い。
小さな港も島も多い。
だから悪い人には、
目立たない倉庫に見える」
………
二〇二四年。
フィジーの観光都市ナンディで、
覚醒剤が押収された。
重さは四トンを超えた。
その後も、
遠い桟橋でコカインが見つかった。
二・六トン。
二千六百キロ。
小さな島国には、
あまりに大きすぎる荷物だった。
「なんでフィジーに?」
「本当の行き先は、
豪州やニュージーランドのような、
高く売れる国だったと
みられている」
「じゃあフィジーは、
途中の駅?」
「最初はそうじゃ。
でも途中駅に荷物が落ちる。
運び屋が報酬代わりに受け取る。
地元の人が売る。
若者が使う。
すると途中駅が、
いつの間にか市場になる」
………
フィジーには、
三百を超える島がある。
全部の浜。
全部の桟橋。
全部の小型船。
警察が毎日見張るのは難しい。
遠い島の浜で、
コカインの包みが見つかることもある。
楽園の砂浜に、
白い粉の請求書が流れ着く。
………
正規の世界が、
ホルムズの石油に
夢中になっている間。
裏社会は、
誰も見ていない海を探していた。
小さな島の港。
観光用ボート。
衛星電話。
高級ヨット。
それらが、
細い糸でつながっていく。
「怖いね…」
ゆづきはスマホを伏せた。
「怖い。
でも一番怖いのは、
薬が通過するだけではなく、
島の子どもたちの人生まで
変えることじゃ」
フィジーが悪い国になったのではない。
世界中の悪い人間が、
静かな国を使い始めたのだ。
島が悪いのではない。
島の海を、
国際犯罪が勝手に道路にした。
だから必要なのは、
軍艦だけではない。
港の監視。
警察への信頼。
若者の居場所。
学校。
病院。
怪しい荷物を見つけた村人が、
安心して通報できる社会。
………
「じいじ」
「なんじゃ」
「普通の朝って、
やっぱり高いね」
「うん。
朝ごはんがあって。
海が青くて。
子どもが学校へ行ける。
それは、
ただで湧いてくるもんじゃない」
………
■第7章
港は、
荷揚げ場ではなくなった
港は昔、
荷物を下ろす場所だった。
でも五年後。
港は国の玄関になった。
石油。
食料。
半導体。
薬。
観光客。
そして、
通してはいけない荷物。
「港って、
めちゃくちゃ忙しいじゃん」
「港は国の口じゃ。
変な物を食べたら、
国全体が腹を壊す」
「またトイレ系?」
「経済は、
胃腸に近い」
………
■第8章
日本のタンクは、
臆病の貯金箱
日本は長い間、
言われ続けた。
資源がない。
人口が減る。
借金が多い。
次の産業がない。
韓国に抜かれた、
と言われた。
イタリアに抜かれた、
と言われた。
何で抜かれたのかは、
ニュースによって違った。
給料か。
成長率か。
一人あたりの豊かさか。
でも見出しだけは、
いつも同じだった。
「日本は、
もう終わった」
………
でも日本は、
終わるのが怖かった。
だから油を貯めた。
港を直した。
水道を守った。
下水を掘り返した。
契約を守った。
商社を育てた。
危機を、
インフラに変えた。
多くの国は、
明日も平和だと思っていた。
僕も、
そう思っていた。
それを、
正常化バイアスという。
けれど日本は、
長い平和のあいだに
受け取った配当を、
派手な夢ではなく、
タンクに。
港に。
水道に。
非常電源に。
世界とつながる配線に、
変えていた。
平和とは、
戦争がないことではない。
戦争が来ても、
朝ごはんが消えないようにする
準備のことだった。
「でも、
かっこよくないね…」
「かっこ悪い。
でも火事の時に役立つのは、
金ピカの剣より
消火器じゃ」
………
■第9章
AIの首切りを、
日本だけが人手不足で受け止めた日
世界では、
AIが人の仕事を消し始めた。
会社は言った。
「AIなら一晩で、
百人分の書類を読める」
「AIなら電話を、
千本同時に受けられる」
「AIなら新人プログラマーより、
速くコードを書ける」
すると会社は、
次にこう言った。
「じゃあ従業員を、
百人雇わなくてもいい」
事務。
翻訳。
コールセンター。
初級プログラマー。
工場の単純作業。
人が多い国では、
若者が会社の入口に並んでいるのに、
AIが先に入社した。
「AIって、
仕事を奪うんだ…」
「人が余っている国では、
そうなりやすい」
「人が余ってる?」
「学校を卒業する若者が
毎年百万人おる国で、
会社がAIを入れて、
十万人ぶんの仕事を
減らしたら?」
「十万人、
仕事がなくなる」
「若者は会社に入る前に、
AIに席を取られる」
それが世界の、
AI人斬りじゃった。
………
ところが日本は、
少し事情が違った。
日本では、
会社の入口に人が並んでいなかった。
会社の中が、
先に空っぽになり始めていた。
介護施設は言った。
「夜勤の人が足りません」
バス会社は言った。
「運転手が足りません」
工場は言った。
「ベテランが引退します。
でも若い人が来ません」
水道局は言った。
「古い水道管を見られる人が、
もうすぐ退職します」
「じゃあ日本は、
仕事を奪われる前に
働く人がいなくなるの?」
「そうじゃ」
日本では、
AIが人を追い出す前に、
人が先に、
定年でいなくなっていた。
………
「でもAIを入れたら、
日本でもクビになる人が
いるでしょ?」
「いる。
事務の仕事や、
決まった文章を作る仕事は、
減るかもしれん」
「じゃあ日本だけ、
助かるわけじゃないじゃん」
「そこが大事じゃ。
日本だけが、
何もしなくても助かるわけではない」
僕は指を一本立てた。
「世界の人口大国では、
AIを入れると、
余っている人を切る」
二本目を立てた。
「日本では、
AIを入れないと、
足りない人の穴が広がる」
三本目を立てた。
「だから日本は、
AIで人を切る国になるか。
AIで人を助ける国になるか。
今、分かれ道に立っとる」
………
たとえば介護施設。
夜勤をする人が、
十人必要だった。
でも集まるのは、
六人だけ。
四人足りない。
そこに、
見守りAIが入社する。
転んだ人を見つける。
夜中に起きた人を知らせる。
薬を飲み忘れた人を知らせる。
すると、
六人の介護士で
十人分の仕事を回せるようになる。
「AIは、
介護士をクビにする機械じゃなくて?」
「夜勤で倒れそうな介護士を、
助ける機械になれる」
………
工場も同じだった。
昔は、
熟練のおじさんが
耳で機械の音を聞いた。
「今日は、
ベルトが変じゃな…」
でもそのおじさんは、
引退する。
若い人は来ない。
そこでAIが、
機械の音と振動を聞く。
ロボットが、
危ない場所を点検する。
「じゃあ、
おじさんの代わり?」
「半分はそうじゃ。
でも残る人は、
もっと大事な仕事をする」
故障する前に止める。
品質を決める。
変な製品を止める。
お客さんに説明する。
AIは、
人を全部消す魔法ではない。
人間が、
人間にしかできない所へ
戻るための道具にもなる。
………
世界では、
AIが若者の席を奪った。
日本では、
AIが空席に座る。
人が百人余っている国では、
AIは百一人目のライバルになる。
人が二十人足りない日本では、
AIは二十一人目の仲間になれる。
「じいじ。
日本ってAI人斬りから
逃げられるの?」
「完全には逃げられん。
でも逃げ方はある」
仕事を失う人を、
そのまま放り出さない。
介護へ。
物流へ。
水道へ。
工場の保全へ。
港へ。
ロボットの監督役へ。
AIに仕事を奪われた人が、
AIと一緒に働く仕事へ
移れるようにする。
「それができたら?」
「日本は、
AIで失業者を増やす国ではなくなる」
「じゃあ何になるの?」
「足りない人手をAIで補って、
残った人間を、
少し楽にする国になれる」
………
世界は、
AIを人斬りの刀として使った。
日本は、
人が足りなかった。
だからその刀を、
包丁に持ち替えるチャンスがある。
人を切るためではない。
みんなの晩ごはんを、
間に合わせるために。
………
■第10章
2040年の老人ホームとロボット
二〇四〇年。
日本は、
高齢者が多い山を
越えようとしていた。
老人ホームでは、
ロボットが
夜中の転倒を見つけた。
遠隔医療が、
田舎の血圧を見た。
自動運転の小型バスが、
買い物難民を運んだ。
「年寄りが多い国って、
やっぱり大変じゃん」
「大変じゃ。
でも人が足りないから、
技術の使い道が
はっきりしている」
世界はAIで、
従業員を減らし始めている。
日本はAIで、
今日を回す人手を
少しずつ増やしている。
………
■第11章
生成AI、夜勤を始める
深夜二時。
港のタンクには、
世界中から来た原油が並んでいた。
中東の、
重くて硫黄の多い油。
アメリカの、
軽くて
ガソリンを作りやすい油。
南米の、
ねばり気の強い油。
「全部、
黒い油でしょ?」
ゆづきが言った。
「見た目は同じでも、
料理にすると全然違う」
豚肉にも、
ロースとバラ肉がある。
魚にも、
刺身向きと煮付け向きがある。
原油も同じじゃ。
軽油が多く取れる油。
ガソリン向きの油。
プラスチックの材料になる
ナフサを取りやすい油。
だから、
何でも同じ釜に入れたら
いいわけではない。
………
日本は、
石油を一滴も掘れなかった。
だから昔から、
世界の油を見てきた。
どの国の油を、
どのタンクに入れるか。
どれとどれを混ぜるか。
何を多く作るか。
飛行機の燃料か。
トラックの軽油か。
プラスチックの材料か。
この油の献立表を作る力は、
世界でも強い国の一つだった。
………
そして五年後。
生成AIが、
夜勤を始めた。
《中東の油は、
軽油を優先》
《米国の油は、
ナフサを増やす》
《この配合なら、
燃料のムダが少ない》
《この船は、
次の港へ回す》
ロボットは、
人が入ると危ない配管へ進む。
ガス漏れを探す。
熱いバルブを見る。
錆びた場所を知らせる。
人間は最後に、
AIの答えを見て決める。
「AIが工場長になるの?」
「違う。
AIは、
世界中の油の成績表を
一晩で読む副工場長じゃ」
油を掘れなかった国は、
油を見分ける国になった。
油を混ぜる国になった。
油を世界へ渡す国になった。
AIとロボットが入る時。
日本の古い工場は、
ただの製油所ではなくなる。
世界の油を、
一番ムダなく料理する
夜中の台所になる。
………
■第12章
世界の油が余った朝
海峡が開いた。
OPECは増産した。
アメリカも掘った。
南米も売りたかった。
ロシアも売りたかった。
イラ●も期待した。
でも肝心の中国は、
前ほど買わなかった。
タンクは膨らんだ。
タンカーは海で待った。
先月まで世界は、
石油不足を怖がった。
だが本当に怖かったのは、
海峡が開いた翌年だった。
油は、
足りなかったのではない。
すでに、
行き先がなくなっていた。
………
■第13章
石油会社は、
交通整理屋になる
世界中の売り手が叫んだ。
「今日、買ってくれ!」
買い手は言った。
「買ってほしいなら、
もっと安くしろ!」
世界の油は、
行き先を失っていた。
その時。
「地味だ」
「もう終わった」
と言われた日本が、
静かに前へ出た。
「全部は買いません。
でも、受けます。
混ぜます。
必要な形に変えます。
そして、
必要な国へ届けます」
石油会社は、
ガソリンを売るだけの
会社ではなくなった。
世界の油を、
止めずに流す司令塔になった。
商社も、
値段をつけるだけの
会社ではなくなった。
国と国が取り合って、
ケンカになりそうな資源を、
港へ。
タンクへ。
工場へ。
次の国へ。
静かにつなぐ、
世界の配線工事屋になった。
派手な旗は振らない。
世界一を叫ばない。
でも世界が詰まった時。
最後に電話される国になった。
それが、
五年後の日本の
リーダーシップだった。
………
■第14章
悟りは、
米びつを空にしないこと
ゆづきが言った。
「じいじ。
日本って勝つの?」
僕は首を振った。
「勝つんじゃない」
「じゃあ何?」
「石油を持たん国の、
生き方が役に立つ日が
来るかもしれん。
という話じゃ」
世界には、
石油をたくさん持ちすぎて
困る国がある。
掘れば掘るほど、
タンクがいっぱいになる。
売らなければ困る。
でも売ろうとすると、
もっと安くしろと言われる。
油田は宝物だった。
なのにある日。
宝物は、
値札を貼られた在庫になった。
一方、日本は違った。
石油を掘れなかった。
だから昔から、
頭を下げた。
「売ってください」
「船を出してください」
「約束は守ります」
「代金はちゃんと払います」
「困った時は、
いつでも言ってください」
そうやって日本は、
油をいただいてきた。
ただ買ったのではない。
港を整えた。
タンクを作った。
製油所を直した。
契約書を積み上げた。
商社が世界を回った。
いただきますは、
食卓だけの言葉ではなかった。
石油にも。
食べ物にも。
水にも。
人の仕事にも言う言葉だった。
自分だけでは、
生きられません。
だから、
あなたの力を借ります。
そのかわり、
約束は守ります。
困った時は、
次の人へ渡します。
それが日本が、
長い時間をかけて覚えた
経済の礼儀だった。
………
■第15章
配線国家、日本
世界が壊れ始めた時。
日本は主役になろうとはしなかった。
ただ、
水を止めなかった。
港を止めなかった。
契約を破らなかった。
タンクを空にしなかった。
変な荷物を通さなかった。
足りない人の代わりに、
ロボットを立たせた。
世界が怒鳴っている間。
日本は、
パイプの音を聞いていた。
そして世界は、
少しずつ気づき始めた。
強い国とは、
一番大きな声を出す国ではない。
壊れた配線を、
静かにつなぎ直せる国なのだと。
………
❥Z世代のあなたへ
昔。
ロバを見たことがない国があった。
旅人が言った。
「別の国で、
ロバの乳を飲んだ。
あれは、
びっくりするほど
うまかった」
国の人たちは、
大喜びした。
「うちでも飲もう!」
みんなでロバを一頭、
連れてきた。
大きな入れ物も用意した。
「早く搾れ!」
頭を触る人。
耳を引っ張る人。
足を握る人。
尻尾をつかむ人。
誰も、
ロバの乳を搾ったことがない。
誰も、
雌のロバかどうか
確かめていない。
なのに、
みんな急いだ。
「ここじゃないか!」
「いや、こっちじゃ!」
最後に一人が、
乳とはぜんぜん違う所を
つかんだ。
そして、
とんでもない物を
手に入れた。
………
ゆづきが笑った。
「バカすぎる!」
僕は言った。
「でも人間は、
今も同じことをしとる」
石油がほしい。
電気がほしい。
安い服がほしい。
安いスマホがほしい。
すぐ儲かりたい。
すぐ勝ちたい。
だから誰かが言う。
「もっと安い国で掘らせよう」
「危ない仕事は、
海の向こうへ回そう」
「汚れた水は、
見えない所へ流そう」
「自分だけ、
先に利益を取ろう」
でもそれは、
ロバの乳を飲みたいのに、
ロバのことを知らず。
雌か雄かも確かめず。
とにかく何かを握るのと
同じじゃ。
石油がある国でも、
ガソリンが足りなくなる。
油田があっても、
製油所が壊れる。
船があっても、
保険がない。
お金があっても、
信頼がない。
つまり。
石油を持っているだけでは、
ロバの乳にはならない。
………
本当に必要なのは、
近道ではない。
どの油を。
どの港で受けて。
どのタンクに入れ。
どう混ぜて。
何に変えて。
誰へ渡すのか。
順番を知ることじゃ。
日本は、
石油を持たなかった。
だから、
ロバの尻尾を引っ張るより先に、
契約書を書いた。
港を作った。
タンクを作った。
製油所を直した。
「売ってください」
「約束は守ります」
「次の国へ、
きちんと届けます」
と、
時間をかけて言ってきた。
地味だった。
遅かった。
かっこ悪かった。
でも。
世界が近道に走って、
ロバの乳どころか
変な物をつかんだ時。
最後に必要になるのは、
一番大きな声の国ではない。
ちゃんと確かめて。
ちゃんと受け取って。
ちゃんと次へ渡せる国じゃ。
君の時代は、
AIも。
資源も。
お金も。
早く。
安く。
自分だけ。
が叫ばれる時代かもしれない。
でも覚えておいてほしい。
近道だけを欲しがると、
人はロバの乳ではない物を
つかんでしまう。
本当に強い人は、
仕組みを知ろうとする人。
見えない誰かの仕事を、
安く踏みつけない人。
困っている人に、
次の道を渡せる人じゃ。
未来は、
一番早く走った人のものではない。
みんなが明日も、
ちゃんと朝ごはんを食べられるように。
道をつなげた人のものになる。
………
★あとがき
六十七歳の僕は、
若い頃。
早く儲かる話に、
何度も心を動かされた。
株も。
商売も。
人生も。
近道があるように見えた。
でも長く生きると分かる。
近道には、
だいたい看板がある。
《この先、自己責任》
世の中は、
ロバの乳を搾る方法を
知りたがる。
でも。
ロバを飼う人の苦労。
乳を運ぶ人の汗。
入れ物を洗う人の手。
そこを見ようとしない。
石油も同じじゃ。
油田を持つ人だけでは、
車は走らない。
港。
船。
保険。
タンク。
製油所。
水道。
下水。
そして、
約束を守る人。
目立たない人たちが、
世界を朝まで動かしている。
僕らが言う
いただきますは、
食卓の前だけの言葉ではない。
今日も誰かが掘って。
誰かが運んで。
誰かが直して。
誰かが危ない場所に入ってくれた。
その全部に向かって、
小さく頭を下げる言葉なんじゃと思う。
………
★ホームズとワトソンの、やすきよ漫才
ホームズ
「日本はな、
ロバの乳を搾る国なんや!」
ワトソン
「急に何の国際戦略や!
乳製品の輸出でも
始めるんか!」
ホームズ
「違う!
世界が石油ほしい言うて、
雄ロバ連れてきて
尻尾引っ張っとる時に!」
ワトソン
「誰が尻尾や!」
ホームズ
「日本だけは言うんや。
『まず雌か確認しましょう。
入れ物を洗いましょう。
搾り方を習いましょう』」
ワトソン
「地味すぎるわ!」
ホームズ
「でも、
地味な国だけが
ちゃんとミルクを飲めるんや」
ワトソン
「ほな資源国は、
なんでガソリン足りんのや?」
ホームズ
「油田だけ持って、
港と製油所と契約を
後回しにしたら、
ロバはおっても、
朝ごはんがない」
ワトソン
「急に切ないな」
ホームズ
「人生も同じや。
儲かりそうな話を聞いたら、
まず確認じゃ」
ワトソン
「何を?」
ホームズ
「ロバが雌かどうか」
ワトソン
「株の格言としては、
だいぶ分かりにくいわ!」
ホームズ
「でも覚えやすいじゃろ。
乳を欲しがる前に、
ロバを見よ」
ワトソン
「……それ、
今日から使うわ」
ホームズ
「ただし会社で言うな。
人事に呼ばれる」
――世界が騒いでも、
今日の米びつを空にしない。
それが、
五年後の鉛筆だった。




