スマホ100%、わたし1% ――宇宙も海峡も燃えている朝、十六歳のゆづきは、味噌汁一杯で世界の見え方が変わることを知った――
✦ スマホ100%、わたし1%
――宇宙も海峡も燃えている朝、
十六歳のゆづきは、味噌汁一杯で
世界の見え方が変わることを知った――
………
世界は、
ある日突然、爆発するのではない。
まず、
サバが薄くなる。
卵が高くなる。
水道代が跳ねる。
スマホ代だけは、
まるで徴税官のように
毎月きっちりやって来る。
そして高校一年生の少女が、
朝食ゼロ、
睡眠五時間、
スマホ充電一〇〇%、
体の充電一%で、
世界崩壊のニュースを
親指でスクロールする。
戦争は、
遠い国で始まる。
けれど最後は、
君のレシートと、
君の台所と、
君のメンタルに着弾する。
………
★目次
■第1章
その朝、
世界はグミ一粒で読まれていた
■第2章
SpaceXがAmazonを抜いた日、
地球の床下が見えた
■第3章
キオクシア
――AIの記憶を作る国、日本
■第4章
ホルムズ海峡
――二〇〇〇万バレルの喉が締まる
■第5章
31隻6200万バレル
――海に浮かぶ時限爆弾
■第6章
ドル石油体制のひび割れ
――海峡レジの時代
■第7章
石油を掘る国より、
処理する国が生き残る
■第8章
蛇口が請求書になる日
――米国水道料金の警告
■第9章
月◯機械
――社会の腸を守る会社
■第10章
英国低強度カオス
――大国の床下が抜ける
■第11章
ロシ●製油所攻撃
――燃料の台所が焼かれる
■第12章
スパイ魚
――海まで疑心暗鬼になった
■第13章
宮◯島の問い
――水と発達と、
消えていく居場所
■第14章
スマホは最新、体は圏外
■第15章
世界を読む前に、
自分を壊すな
………
■第1章
その朝、
世界はグミ一粒で読まれていた
朝七時十二分。
ある田舎の台所で、
高校一年生のゆづきは立っていた。
制服のリボンは曲がっている。
髪は少し湿っている。
スマホのバッテリーは一〇〇%。
けれど、
ゆづき自身のバッテリーは、
ほとんど赤色だった。
「おじいちゃん、世界、
もう終わりかけてない?」
六十七歳の祖父は、
味噌汁の鍋を見ていた。
元証券会社勤務。
三十八年間、
株価と金利と為替の海で、
人間の欲と恐怖を見てきた男だった。
「何を見たんじゃ」
「SpaceXの株式時価総額が
Amazonを抜いた。
ホルムズ海峡で
タンカーが止まりそう。
イギリスでは
暴動の火種が残ってる。
ロシアの製油所が
ドローン 攻撃でまた燃えた。
中国は
スパイ魚とか言ってる。
アメリカの水道代も
異常に上がる。
もう未来って、
ディストピアのアプリなの?」
祖父は火を弱めた。
「ゆづき」
「なに?」
「朝ごはんは?」
ゆづきは目をそらした。
「……グミ」
「飲み物は?」
「エナドリ」
祖父は、ゆっくり振り向いた。
「世界情勢を、
グミとエナドリで読むな」
「糖分あるし」
「それは政治家の
“検討します”くらい、
頼りない栄養じゃ」
「朝から国会燃やすのやめて」
「燃えとるのは国会ではない。
君の中の発電所じゃ」
ゆづきは黙った。
鍋の中で、
豆腐が小さく揺れていた。
祖父は味噌汁をよそった。
「近未来の戦争は、
ミサイルより先に、
人間の判断力を狙ってくる。
空腹。
寝不足。
情報過多。
孤独。
加工食品ばかりの食事。
これがそろうと、
ニュースは全部、敵に見える」
「私、そんなにヤバい?」
「ヤバいというより、
防衛線が薄い」
「防衛線?」
「世界を読むには、
体の中にもインフラがいる」
ゆづきはスマホを伏せた。
湯気が上がった。
その白い湯気は、
ミサイルより静かで、
ニュース速報より怖かった。
………
■第2章
SpaceXが
Amazonを抜いた日、
地球の床下が見えた
「SpaceXって、
ロケットの会社じゃないの?」
ゆづきは
味噌汁をすすりながら聞いた。
「もう、それだけではない」
祖父は納豆のふたを開けた。
「SpaceXは、
宇宙に道路を作る会社じゃ」
「道路?」
「衛星通信。
軍事通信。
宇宙物流。
AIの神経網。
地球全体を
空からつなぐ配管じゃ」
「Amazonは地上の倉庫。
SpaceXは空の配管?」
「そうじゃ。
Amazonは箱を運んだ。
SpaceXは、空そのものを
道路にしようとしている」
「だから株式の時価総額が
二兆ドルを超えるの?」
「市場は、
今の利益だけを見ていない。
未来の支配権を見ている」
「支配権?」
「通信を握る。
衛星を握る。
軍が使う。
AIが使う。
災害時にも使う。
そうなると、
ただの会社ではない。
国家の外付け神経になる」
ゆづきはスマホを見た。
自分が見ている
小さな画面の向こうに、
宇宙の衛星が
何千も浮かんでいる気がした。
「でも、おじいちゃん」
「なんじゃ」
「宇宙は進んでるのに、
なんで世界は不安定なの?」
祖父は納豆を混ぜた。
「空の配管は新しくなった。
でも地上の配管が
古いからじゃ」
「地上の配管?」
「水道。
下水。
製油所。
送電網。
港。
海底ケーブル。
そして、人間の体!」
「また体に戻ってきた」
「戻ってきたのではない。
最初から同じ話じゃ。
世界のインフラが壊れる時代に、
人間の中のインフラだけ
無傷でいられると思うな!」
………
■第3章
キオクシア
――AIの記憶を作る国、日本
「アメリカはSpaceX。
じゃあ日本は?」
「日本はキオクシアじゃ」
「半導体?」
「そうじゃ。
AIには記憶がいる。
NAND。
SSD。
ストレージ。
データの倉庫じゃ」
「アメリカは宇宙に神経を張る。
日本は記憶帳を作る?」
「ええ表現じゃ」
祖父は卵を割った。
「AI時代は、
頭の良さだけでは決まらん。
記憶する力。
冷やす力。
電気を送る力。
水を処理する力。
部品を作る力。
それら全部が必要じゃ!」
「日本は床下の工具箱?」
「そうじゃ。
派手ではない。
だが、舞台の床を支える」
「でも若い人は、そういう
地味な仕事に
行きたがらないよね」
祖父は少し厳しい顔をした。
「そこが危ない。
AIを使う人間は増える。
AIを支える現場を守る人間は
足りなくなる」
「地味な仕事ほど、
未来の本丸?」
「そうじゃ。未来は、
きれいなスクリーンの裏で、
汚れたフィルターを
交換する人に支えられる」
ゆづきは黙った。
スマホの画面は、
とても軽かった。
けれど、
その画面を支える世界は、
重くて、熱くて、汚れていた。
………
■第4章
ホルムズ海峡
――二〇〇〇万バレルの喉が締まる
「ホルムズ海峡って、
ニュースでは聞くけど、
正直ピンとこない」
「世界の石油の喉じゃ」
「喉?」
「一日に約二〇〇〇万バレル規模の
石油が通ると言われる
重要ルートじゃ。
そこが詰まると、
世界経済がむせる」
「むせる?」
「ガソリン。
LNG。
ナフサ。
エチレン。
肥料。
プラスチック。
包装材。
食品トレー。
百円ショップの商品。
全部、揺れる」
ゆづきは納豆の容器を見た。
「これも?」
「石油の親戚じゃ」
「じゃあホルムズが止まると、
納豆の容器も?」
「可能性はある。
世界史は、最後にレシートになる」
ゆづきは息をのんだ。
遠い海峡のニュースが、
急に自分の弁当箱に入ってきた。
「戦争って、
人を撃つだけじゃないんだ」
「生活を撃つ。
値札を撃つ。
棚を撃つ。
家計簿を撃つ」
祖父は言った。
「だから、ニュースは遠くない。
遠い国の火は、
台所のプラスチックを焦がす」
………
■第5章
31隻6200万バレル
――海に浮かぶ時限爆弾
「でも、止まってた
原油が動き出したって
話もあったよね」
「あった。31隻、
6200万バレルという話じゃ」
「動き出すなら安心じゃないの?」
「市場は、
そんなに親切ではない」
祖父は箸を置いた。
「足りない時に来ない。
怖くなって高値で買う。
その後、
在庫がどっと来る。
すると今度は、
高値で買った人が苦しむ」
「不足でも地獄、
過剰でも地獄?」
「そうじゃ。
相場は、
性格の悪い宅配便じゃ。
必要な時には来ず、
いらなくなりかけた頃に
まとめて届く」
「返品できないの?」
「タンカーは返品しにくい」
「Amazonより不便」
「Amazonと違って、
星一つレビューも効かん」
ゆづきは笑った。
祖父は笑わなかった。
「だが人間も同じことをする」
「え?」
「朝を抜く。
昼を削る。
夜にドカ食いする。
不足と過剰を、
一日の中で繰り返す」
「それ、友達にもいる!」
「市場も体も、
詰まると荒れる。
荒れると判断を間違える」
ゆづきは、
自分の昨日の夕食を思い出した。
菓子パン。
エナドリ。
夜のラーメン。
世界のタンカーを笑えなかった。
………
■第6章
ドル石油体制のひび割れ
――海峡レジの時代
「石油って、
ドルで買うんでしょ?」
「昔は、
それが世界の当たり前だった」
祖父は紙に線を書いた。
「ドルで石油を買う。
産油国はドルを受け取る。
そのドルで米国債を買う。
アメリカは軍事と金融を回す。
これが
ペトロダラーの配管じゃ」
「それが壊れたの?」
「壊れた、ではない。
ひびが入った」
「ひび?」
「人民元。
金。
現地通貨。
制裁回避ルート。
いろんなレジができ始めた」
「海峡レジの時代だ」
「そうじゃ。
ホルムズの入口にレジがある。
ドルですか?
人民元ですか?
金ですか?
裏口決済ですか?
領収書は出せません、
それでもよろしいですか?」
「怖いコンビニ」
「店員が空母じゃからな」
ゆづきは笑いかけて、
やめた。
「お金のルールが変わると、
私たちにも関係ある?」
「ある。
円安。
輸入物価。
エネルギー。
食品。
スマホ。
学費。
全部、じわじわ来る」
「世界のお金の配管が変わると、
私のお昼代が変わる」
「その通りじゃ」
………
■第7章
石油を掘る国より、
処理する国が生き残る
「資源を持ってる国が
強いんじゃないの?」
「半分正しい。
半分古い」
「古い?」
「原油があっても、
精製できなければ
ガソリンにならん。
水があっても、
浄水できなければ飲めん。
ゴミを出しても、
処理できなければ町は腐る」
「資源より処理?」
「そうじゃ。
これから強いのは、
掘る国だけではない。
処理する国。
直す国。
保守する国。
汚い現場を回せる国じゃ」
「日本、そこ強そう」
「強かった。ただし、
現場を軽く見ると失う」
祖父は続けた。
「AIも宇宙も、
結局は電気を食う。
水を食う。
冷却がいる。
下水がいる。
廃熱が出る。
現場がいる」
「未来って、
思ったより汚れるんだね」
「未来はきれいな言葉で始まり、
最後は汚泥処理で試される」
「重い」
「だから骨太なんじゃ」
………
■第8章
蛇口が請求書になる日
――米国水道料金の警告
「アメリカで
水道料金が上がってる話、
地味だけど怖い」
「地味なニュースほど、
本当は怖い」
祖父は水道の蛇口を見た。
「水道は逃げられん。
スマホなら解約できる。
動画サブスクもやめられる。
でも水は解約できん」
「解約したら人間が終わる」
「そうじゃ」
祖父は指を折った。
「古い管。
鉛管。
PFAS。
気候災害。
金利。
人件費。
設備更新。
それらが全部、
水道代に乗る」
「蛇口が請求書になる」
「その通り」
「日本は大丈夫?」
「公営中心だから
アメリカ型とは違う。
だが、日本も老朽管、人口減少、
人手不足、災害がある。
水は無料の背景ではない。
維持する技術と人がいる」
ゆづきは水を飲んだ。
ただの水が、
少し重く感じた。
「おじいちゃん」
「なんじゃ」
「水道も、人間の体も、
メンテをサボると後で高い?」
「そうじゃ。
国も人間も、
先送りしたメンテは、
必ず利息をつけて帰ってくる」
………
■第9章
月◯機械――社会の腸を守る会社
「月◯機械って、
何がそんなに大事なの?」
「社会の下腹部を守るからじゃ」
「また言い方がすごい」
「だが本当じゃ。
水処理。
下水。
汚泥。
脱水。
焼却。
長期運営。
どれも派手ではない。
だが止まれば都市が止まる」
「AIより地味」
「AIがどれだけ賢くても、
トイレが詰まったら
人間はそこに全集中じゃ」
「それは勝てない」
「社会にも腸がある。
下水処理場は社会の腸じゃ。
月◯機械のような会社は、
社会の腸を守る職人じゃ」
ゆづきは、少し黙った。
「じゃあ、人間も同じ?」
「同じじゃ。
表の顔だけでは分からん。
中で処理できるか。
汚れを流せるか。
毒をため込まないか。
そこが大事じゃ」
「心も?」
「心もじゃ。
人間は嫌なニュース、怒り、
不安を毎日食べている。
それを処理できないと、
内側で腐る」
「だから食事と睡眠?」
「そうじゃ。
これは健康話ではない。
情報戦時代の
下水処理の話じゃ!」
………
■第10章
英国低強度カオス
――大国の床下が抜ける
「英国って、
何がそんなに危ないの?」
「大国の看板と、
生活の体力がズレてきた」
祖父は新聞を広げた。
「NATO中核国。
金融大国。
核保有国。
ウクライナ支援の前線。
でも国内では、物価、医療、水道、
移民、治安、熱波、暴動、政治不信」
「ATMを
重機で抜く事件もあった」
「総理大臣も狙われた…」
「あれは単なる犯罪ではない。
社会のネジが
外れ始めた音にも聞こえる」
「低強度カオス」
「そうじゃ。
内戦ではない。
革命でもない。
でも、小さな破れが同時に起きる」
「日本もそうなる?」
「ならない保証はない」
祖父の声は低かった。
「食料。
燃料。
水。
家族。
地域。
教育。
医療。
この床下を放っておけば、
どの国でもきしむ」
ゆづきは、
学校の教室を思い浮かべた。
明るい廊下。
壊れた空調。
疲れた先生。
昼を抜く友達。
スマホだけは光っている机。
低強度カオスは、
遠い英国だけの話ではなかった。
………
■第11章
ロシ●製油所攻撃
――燃料の台所が焼かれる
「ロシ●の製油所攻撃って、
なぜそんなに大事なの?」
「戦争が、前線から
生活の血管へ移ったからじゃ」
「生活の血管?」
「製油所。
送電網。
水道。
港。
空港。
通信。
そこを狙えば、
兵士だけでなく都市が苦しむ」
「燃料の台所を焼く戦争」
「そうじゃ。石油大国でも、
製油所が燃えたら
ガソリンは作れん。
原油があっても、
料理する台所がなければ
飯にならん」
ゆづきは卵を見た。
「人間も?」
祖父はうなずいた。
「才能があっても。
スマホがあっても。
情報があっても。
体の台所が燃えていたら動けん」
「体の台所って?」
「食事。
睡眠。
腸。
体温。
血糖。
呼吸。
そういう地味なものじゃ」
「地味だけど、止まると終わる」
「そうじゃ。
近未来のサバイバルは、
派手な情報より、
地味な燃料管理じゃ」
………
■第12章
スパイ魚
――海まで疑心暗鬼になった
「中国のスパイ魚って、
さすがに笑った」
「笑える。
だが、笑い切れん」
「本当に
魚がスパイするの?」
「言い方は宣伝臭い。
でも、海のセンサー化は
現実に進んどる」
祖父は指で海を描いた。
「ブイ。
魚型ロボット。
海亀型ロボット。
無人潜水機。
海底ケーブル監視。
水温、塩分、海流、海底地形。
理科のデータが、
潜水艦を探す軍事データになる」
「海まで監視社会?」
「そうじゃ。
昔の海は、見えない場所だった。
これからの海は、
見えすぎる場所になる。
ただし、
誰が見ているか分からん」
「竜宮城にも防犯カメラ」
「浦島太郎も顔認証じゃ」
「玉手箱は?」
「開けたら利用規約じゃ」
ゆづきは笑った。
けれど笑いは、
すぐに引っ込んだ。
暗い海の底で、
魚の形をした何かが、
音もなく泳いでいる。
戦争はもう、
軍服を着ていない。
魚の顔をして、
海流の中にいる。
………
■第13章
宮◯島の問い
――水と発達と、
消えていく居場所
祖父は、
味噌汁の湯気を見たまま、
急に黙った。
「南の島に、
消せない数字がある」
ゆづきは箸を止めた。
「沖縄?」
「宮◯島じゃ。
地元の地下水研究会は、
この十年で、
特別支援学級に
在籍する子どもが
六人から二百六十五人へ増えた、
つまり四十四倍だと
訴えた!」
「四十四倍……」
「ただしな」
祖父の声が低くなった。
「市は反論している。
四十四倍になったのは、
医学的に発達障害と診断された
子どもの数ではない。
特別支援学級が
新しく設けられ、
今まで見えていなかった
子どもたちが、
教育の制度の中で
見えるようになった数字だ、と」
「じゃあ、
島で急に自閉症が増えた、
って話ではないんだ」
「そうじゃ。
そこを乱暴に言ってはいけん」
祖父は、
水道の蛇口を見た。
「だが、
研究会の人たちは
別の問いを出した。
地下水。
水道水。
住民の尿。
そこから、ネオニコチノイド系
農薬などの成分が
検出されたという。
そして彼らは言った。
水の中のものと、
子どもたちの発達と、
島の暮らしが、
本当に無関係だと
言い切れるのか、と」
ゆづきは黙った。
「原因だとは、
まだ証明されていない」
祖父は続けた。
「だが、原因ではないと
笑って終われるほど、
簡単な話でもない。
毎日飲む水は、
毎日、体に入る。
毎日食べるものは、
毎日、腸に入る。
その腸は、ただ飯を
消化するだけの管ではない。
眠り。
不安。
集中。
怒り。
人と話す力。
そういうものの
足場にもなっている」
ゆづきは、
窓の外を見た。
祖父の住む町にも、
似たような沈黙があった。
隣には、昔は海外で暮らし、
子どももいたのに、
今はほとんど誰とも話さない
六十代の女性がいる。
少し先には、
近所と縁を切り、
カーテンの隙間からだけ外を見る
八十代の老人がいる。
さらに先には、
朝早くヘルメットをかぶり、
古い自転車で工場へ向かう
60代の独身男がいる。
まるで
誰とも会いたくないように
静かに、そして、
こっそりと…
働いている。
けれど、
誰とも交わらない。
病名は分からない。
事情も分からない。
ただ、
社会と調和することに、
ずっと疲れているように見えた。
「おじいちゃん?」
「なんじゃ」
「みんな、
病気なの?」
祖父は首を振った。
「そんな
簡単に名前を貼ってはいけん。
自閉症とも。
発達障害とも。
ニートとも。
引きこもりとも。
外から勝手に決めつけた瞬間、
その人の人生は、
病名の箱に押し込められる」
「じゃあ、
何て言えばいいの?」
「社会との接点を、
失いかけている人たちじゃ」
祖父は、
ゆづきの前のスマホを見た。
「日本では、
ひきこもり状態にある人が
百万人単位でいると言われる。
英国でも、
学校にも仕事にも行けない若者が
百万人を超えた。
アメリカでは、
AIを使いこなした学生たちが
卒業する年に、
AI礼賛の言葉へ
ブーイングが起きた。
みんな、
怠けているわけではない。
世界の方が先に、
人間の居場所を削っている」
「AIも?
スマホも?
水も?
食べ物も?」
「全部じゃ」
祖父は言った。
「スマホは、
人を世界につないだ。
だが同時に、
部屋から出なくても
生きられるようにした。
AIは、
人を助ける。
だが同時に、若者が最初に
座るはずだった椅子を、
先に片づけ始めた。
安い食事は、
一日をしのがせる。
だが、
それだけで何年も暮らせば、
心の中の町から、
少しずつ住民が消えていく」
ゆづきは、
小さく言った。
「腸内細菌?」
「それも、
答えの一つかもしれん。
腸内細菌の乱れが、
不安や気分や眠りに
関係する可能性を調べる
研究は増えている。
だが、
腸だけが原因ではない。
水だけでもない。
農薬だけでもない。
スマホだけでもない。
人間は、
そんな一個の原因で壊れるほど、
単純ではない」
祖父は、
湯気の消えかけた味噌汁を見た。
「でもな。
水。
食事。
睡眠。
家族。
働く場所。
話せる相手。
外へ出る理由。
そのどれかが消えても、
人は少しずつ弱る。
そして全部が同じ時期に
消え始めた時、
人は自分が壊れていることにも
気づけなくなる」
ゆづきは、
スマホを裏返した。
「だから、
朝ごはん?」
「そうじゃ」
「そんなことで?」
「そんなことからじゃ。
世界の海峡が詰まる前に、
人間の腸内海峡が詰まる。
国の水道管が腐る前に、
人間の中の水路が荒れる。
社会との接点を失う前に、
自分の中の小さな町が、
無人化していく」
ゆづきは、
味噌汁を一口飲んだ。
「じゃあ、
これは健康の話じゃないんだ」
祖父はうなずいた。
「違う。
これは、
生き残るための話じゃ。
世界が荒れた時、
最後に残るのは、
ちゃんと眠れる人間。
ちゃんと食べられる人間。
誰かと話せる人間。
自分の中の町を、
無人にしなかった人間じゃ」
宮◯島は遠い。
英国も遠い。
AI企業の本社も、
ホルムズ海峡も、
遠い。
けれど、
水を飲むことは近い。
食べることは近い。
眠ることは近い。
そして、今日、
誰かに「おはよう」と言うことも、
近い。
世界を変える前に。
自分の中の町に、
まだ住民がいるか、
確かめる朝だった。
………
■第14章
スマホは最新、体は圏外
「若い人は、お金がないんだよ」
ゆづきは少し強く言った。
「知っとる」
「だから食費を削る」
「そこが危ない」
「でもスマホ代はいる。
推し活もある。
友達との付き合いもある。
サブスクもある」
祖父はうなずいた。
「スマホは、
今の学生の教科書であり、
財布であり、
友達の玄関じゃ。
推し活も、
心のビタミンじゃ。
否定はせん」
「じゃあ、いいじゃん」
「順番を間違えるな」
祖父は指を折った。
「スマホ代一万円。
推し活五千円。
サブスク三つ。
朝食ゼロ。
睡眠五時間。
昼飯九十八円。
夜はドカ食い。
その状態で、
SpaceX、ホルムズ、英国暴動、
ロシア、スパイ魚、物価高を浴びる」
ゆづきは黙った。
「心が
安定する方が不思議じゃ」
「……刺さる」
「スマホは最新。
体は圏外。
情報は5G。
心は通信障害」
「きつい」
「きつい時代には、
きつい現実を見んといけん」
祖父は皿を指した。
「豪華でなくていい。
卵。
納豆。
豆腐。
味噌汁。
魚。
野菜。
水。
睡眠。
完璧でなくていい。
自分を燃料切れのまま、
世界に出すな!」
………
■第15章
世界を読む前に、自分を壊すな
ゆづきは、
しばらく黙っていた。
ニュースはまだ流れていた。
SpaceXは宇宙へ伸びる。
ホルムズ海峡は石油を揺らす。
ドルの配管は枝分かれする。
英国は低強度カオスにきしむ。
ロシ●の製油所は燃える。
海ではスパイ魚が疑われる。
アメリカの蛇口は請求書になる。
宮◯島では、
水と子どもの未来をめぐる問いが、
まだ沈黙の中に残っている。
「おじいちゃん」
「なんじゃ」
「世界って、怖いね」
「怖い」
「でも、見ないわけにもいかない」
「そうじゃ」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
祖父は答えた。
「世界を読む前に、
自分を壊すな!」
「自分を壊すな?」
「寝不足で
世界を背負うな!
空腹で
SNSに怒るな!
菓子パン一個で
国際情勢を裁くな!
推しを守る前に、
自分の体を守れ!」
ゆづきは納豆を混ぜた。
「推し活はやめない…」
「やめんでいい」
「スマホも使う…」
「使えばいい」
「ニュースも読む…」
「読めばいい」
「でも、朝ごはん抜きで
世界とは戦わない…」
祖父はうなずいた。
「それでいい」
台所の窓の外で、
朝の光が白くなっていた。
世界は何も解決していない。
けれど、
ゆづきの皿の上では、
卵が小さな太陽のように光っていた。
味噌汁は湯気を立てていた。
納豆は、
しぶとく糸を引いていた。
それは、
あまりにも小さな防衛だった。
けれど、
世界が壊れる時代に、
人間が最初にできる防衛は、
案外、そういう
小さなものなのかもしれなかった。
………
❥Z世代のあなたと
むかし、
『百喩経』という仏教の本に、
こんな怖い笑い話がある。
夕暮れの道を、
父と子が歩いていた。
子どもの耳には、
金の耳飾りが光っていた。
そこへ盗賊が現れた。
父は慌てた。
「耳飾りを取られてはいけない!」
引っ張った。
外れない。
焦った父は、
耳飾りを守るために、
子どもの首を切ってしまった。
盗賊は逃げた。
父は安心した。
「よし。
耳飾りは守れた。
あとで頭を付け直せばいい」
――そんなわけがあるか。
千五百年以上前の仏さまは、
人間の愚かさを笑っていた。
けれど、
今の僕らも、
少し似たことをしていないだろうか。
スマホ代を守る。
推し活を守る。
サブスクを守る。
見栄を守る。
車を守る。
SNSのつながりを守る。
その代わりに、
朝ごはんを切る。
睡眠を切る。
野菜を切る。
たんぱく質を切る。
人と話す時間を切る。
外へ出る理由を切る。
そして最後に、
「最近、何もやる気が出ない」
「人間関係がしんどい」
「世界が全部、敵に見える」
と言う。
それは、
君が弱いからではない。
首を切られたまま、
耳飾りを守らされているからだ。
もちろん、
スマホは悪ではない。
推し活も悪ではない。
AIも悪ではない。
君を救うものにもなる。
だけど、
それらを守るために、
眠る体を捨てるな。
食べる体を捨てるな。
笑える心を捨てるな。
今日、
誰かと話せる自分を捨てるな。
世界は、
SpaceXみたいに宇宙へ伸びる。
ホルムズ海峡みたいに、
細い喉で詰まる。
英国みたいに、
街角のネジが外れる。
海には、
魚の顔をした監視装置が泳ぐ。
AIは、若者の最初の椅子を
片づけ始めるかもしれない。
だからこそ、
君まで自分の椅子まで
壊さなくていい。
食事は、
贅沢ではない。
眠りは、
怠けではない。
腸内細菌を守ることは、
流行の健康法ではない。
君の中の町に、
まだ住民を残しておくための、
小さな防衛である。
耳飾りを守るために、
首を切るな。
通知を守るために、
心を切るな。
推しを守るために、
自分を失うな。
世界を読む前に、
君の中でまだ動いている
小さな発電所を守れ。
味噌汁一杯は、
世界を救わないかもしれない。
でも、
今日の君が
世界に飲み込まれないための
防波堤にはなれる。
………
★あとがき
ホームズ・ワトソンの
やすきよ漫才
――耳飾りを守って、
首を切るな編――
ホームズ
「ワトソン君、
今回の事件の犯人が分かったよ」
ワトソン
「またロシ●ですか?」
ホームズ
「違う」
ワトソン
「スパイ魚ですか?」
ホームズ
「違う」
ワトソン
「SpaceXですか?」
ホームズ
「違う」
ワトソン
「ほな、英国のATMを
重機で抜いた犯人?」
ホームズ
「違う」
ワトソン
「では犯人は?」
ホームズ
「耳飾りを守るために、
首を切った父親だ」
ワトソン
「急に仏教ホラーですやん!」
ホームズ
「百喩経だよ」
ワトソン
「それで、
何をたとえとるんです?」
ホームズ
「スマホ代を守るために、
朝ごはんを切る人間だ」
ワトソン
「首までは切ってませんやん」
ホームズ
「寝不足を続ける。
昼を菓子パンで済ます。
夜はスマホを見て三時に寝る。
それで心が壊れた時、
“あとで直せばいい”と
思っている」
ワトソン
「……首、切ってますな」
ホームズ
「そうだろう」
ワトソン
「推し活を守って、
自分の体を失ったら、
推しに会いに行く
足もなくなりますもんな」
ホームズ
「その通り」
ワトソン
「でもホームズさん。
納豆ばっかり食べたら、
友達が減りませんか?」
ホームズ
「なぜだ」
ワトソン
「部屋が
“発酵した友情”
になります」
ホームズ
「君の口から出る言葉の方が、
先に発酵している」
ワトソン
「ほな味噌汁なら?」
ホームズ
「味噌汁はいい。
湯気が出る」
ワトソン
「それがどうしました?」
ホームズ
「人間は、
湯気の立つものを前にすると、
少しだけ急ぐのをやめる」
ワトソン
「仏教っぽいこと言いましたな」
ホームズ
「百喩経は、
“大事なものを守るつもりで、
本当に大事なものを壊すな”
と言っている」
ワトソン
「耳飾りより、首」
ホームズ
「通知より、心」
ワトソン
「推し活より、体」
ホームズ
「株価より、命」
ワトソン
「でも、味噌汁より納豆?」
ホームズ
「それは好みだ」
ワトソン
「急に小さくなった!」
ホームズ
「世界は大きい。
だが、人間が守るものは、
案外、小さい。
朝の卵。
湯気の立つ味噌汁。
眠れる夜。
誰かに言う、おはよう」
ワトソン
「それで戦争に勝てますか?」
ホームズ
「少なくとも、
自分に負けずに済む」
ワトソン
「ほな、今日は耳飾りを外して、
朝ごはん食べまひょか」
ホームズ
「よろしい」
ワトソン
「でも、納豆の糸が
耳飾りに絡みました」
ホームズ
「首を切るなよ」
ワトソン
「そこだけは守ります!」
――おしまい――




