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サバが薄くなった日、進路が変わった ――戦争は、ミサイルより先に、スーパーの値札と進路希望票に来る――

✦ サバが薄くなった日、進路が変わった


――戦争は、

 ミサイルより先に、

 スーパーの値札と

 進路希望票に来る――


………


サバが薄い。


それは、

夕飯の問題ではなかった。

戦争が、

食卓まで来た音だった。


百円ショップの袋が減った。


それは、

節約の話ではなかった。

石油が、暮らしの皮膚を

一枚はがした音だった。


マンションの掲示板に、

「一戸あたり五十万円」

と貼られた。


それは、

ただの修繕費ではなかった。

遠い海峡の火事が、

日本の壁に燃え移った証拠だった。


そして十五歳の少女は、

進路希望票の前で、

鉛筆を止めた。


行きたい高校を

書くのか?

家に迷惑をかけない高校を

書くのか?


その迷いの中で、

彼女は初めて知った。


世界は、

ミサイルで人を撃つだけではない。


値札で撃つ。

レシートで撃つ。

修繕積立金で撃つ。

制服代で撃つ。

通学定期で撃つ。


誰も血を流していない。

でも、

生活はもう出血していた。


ホルムズ海峡は、

地図の端にある海ではなかった。


それは、

薄くなったサバであり、

減った袋であり、

母のため息であり、


十五歳の手から、

未来の選択肢を一本ずつ抜いていく、

見えない戦場だった。


………


★目次


■第1章 

 サバが薄い朝


■第2章 

 じいじ、

 それ前より小さくない?


■第3章 

 ホルムズ海峡は台所に来る


■第4章 

 ノルウェーの漁船が港で眠る


■第5章 

 百円ショップの中身が減っていく


■第6章 

 回転寿司は世界経済を握っていた


■第7章 

 マンション総会という小さな国会


■第8章  

 一戸五十万円の逆ボーナス


■第9章 

 無料なのに高くなる高校


■第10章 

 私立高校は

 ぜいたく品ではなくなった


■第11章 

 スマホを持った十五歳の学校選び


■第12章 

 国家黒字、生活赤字


■第13章 

 見えないインフラ代を読む力


■第14章 

 遠い海峡が進路希望票を変える


■第15章  

 ホームズとワトソン、

 サバ売り場で泣く


………


■第1章 サバが薄い朝


その朝、

僕はスーパーの鮮魚売り場で、

しばらく動けなくなっていた。


目の前に、

塩サバが並んでいた。


昔なら、


「今日はこれでええか…」

何も考えずにカゴへ入れていた

魚だった。


焼けば脂がじゅうっと出て、

大根おろしをのせれば、

もうそれだけで夕飯になった。


けれど、

今日のサバは違った。


薄い。

値段は高い。


しかも、

どこか遠慮しているように、

パックの中で小さく横たわっていた。


横にいた孫のゆづきが、

スマホを片手に言った。


「じいじ、これ、

 前より小さくない?」


僕は答えた。


「小さいな」


「でも高いよ」


「高いな」


「なんで?」


僕は、

その質問にすぐ答えられなかった。


サバ一切れの話なら、

簡単に答えられる。


円安じゃ。

燃料代じゃ。

漁獲量じゃ。

物流費じゃ。


でも本当は、

もっと深いところで、

世界の配管が詰まっていた。


サバは、

ただの魚ではなかった。


その薄い切り身の中に、

ホルムズ海峡と、

ノルウェーの漁船と、

冷凍倉庫と、

コンテナ船と、

日本の子育て世帯のため息が、

ぜんぶ押し込まれていた。


ゆづきは言った。


「サバって、

 ニュースになる魚だったん?」


僕は笑った。


「昔はならんかった」


「今は?」


「今は、

 世界経済の魚じゃ」


ゆづきは、

少しだけ眉を上げた。


「なにそれ。

 サバ、出世したん?」


「出世したんじゃない。

 庶民の皿から遠ざかったんじゃ」


その時、

僕には分かった。


この物語は、

ここから始めるしかない。


ニュース番組でもなく、

国会でもなく、

証券会社のレポートでもなく、

ふるさとのスーパーの、

薄くなったサバから。


………


■第2章 

 じいじ、それ前より小さくない?


ゆづきは、

サバのパックをスマホで撮った。


「これ、学校で話したら、

 誰も信じんかも…」


「なんでじゃ?」


「だって、サバが薄いって、

 ただの節約話じゃん…」


「そこが大事なんじゃ」


僕は、

パックを指で軽く叩いた。


「こういう小さい変化の中に、

 世界が入っとる…」


ゆづきは、

スマホの画面を見ながら言った。


「また始まった。

 じいじの世界経済講座」


「今日は無料じゃ」


「高校は無償化だけど、

 じいじの話も無償化?」


「わしの話は昔から無料じゃ。

 問題は、聞く側の忍耐力じゃ」


「そこ、

 いちばん高いかも」


僕は笑った。


でも、

本当は笑いごとではなかった。


最近の若い家庭は、

大変だった。


米が高い。

魚が高い。

肉が高い。

卵も安心できない。

牛肉は、もう普段の食卓ではなく、

特別出演の俳優みたいになっている。


子どもはよく食べる。


高校生になれば、

朝も食べる。

昼も食べる。

帰ってきても食べる。

夜も食べる。


しかも、

スマホ代がある。

塾代がある。

制服代がある。

部活代がある。


昔の親は、

「食べさせるだけで精一杯」

と言った。


今の親は、


「食べさせて、学ばせて、 

 スマホも持たせて、

 進路も選ばせる」


という四重苦の中にいる。


ゆづきは、

サバの値札を見つめながら言った。


「でもさ、魚が高いなら、

 鶏肉食べればいいじゃん…」


「みんなそう考える」


「うん」


「すると、鶏肉も上がる」


「じゃあ豆腐?」


「みんなそう考える」


「納豆?」


「みんなそう考える」


「ちくわ?」


「みんなそう考える」


「逃げ道、全部混むじゃん」


「そうじゃ。

 これがタンパク質防衛戦じゃ」


ゆづきは、

少し真顔になった。


「戦争みたいに言わんでよ」


僕は言った。


「戦争なんじゃ。

 ただし、銃ではなく、

 値札でやってくる」


………


■第3章 

 ホルムズ海峡は台所に来る


家に帰る途中、

僕たちは百円ショップに寄った。


ゆづきが

ノートを買うと言ったからだ。


昔なら、

百円ショップは安心の場所だった。


困った時、

とりあえず行けば何かある。


袋。

文房具。

収納ケース。

キッチン用品。

電池。

洗濯ネット。

小さな便利。


百円ショップは、

庶民の生活の防波堤だった。


でも今は、

店内のあちこちに、

二百円、三百円、五百円の

札が立っている。


百円で買えるものも残っている。

けれど、

中身が少しずつ変わっていた。


袋の枚数が減る。

プラスチックが薄くなる。

サイズが小さくなる。

前なら百円だったものが、

今は二百円の棚に移っている。


ゆづきが言った。


「百円ショップなのに、

 百円じゃないもの増えたね」


「そうじゃな」


「これもホルムズ?」


「一部はな」


「え、袋も?」


「袋もじゃ。

 プラスチックは石油から来る。

 運ぶにも油がいる」


「じゃあ、ホルムズ海峡って、

 袋の枚数も減らすん?」


「そうじゃ」


ゆづきは、

少し黙った。


たぶん、

初めて気づいたのだと思う。


戦争や海峡封鎖は、

ニュース画面の中だけに

あるものではない。


それは、

百円ショップの袋の枚数になって、

自分の手に渡ってくる。


「じいじ」


「なんじゃ」


「世界って、思ったより近いね」


「近いんじゃない。

 もう中に入っとる」


「中?」


「わしらの台所、

 財布、学校、

 マンションの壁の中にな」


ゆづきは、

買ったノートを見つめた。


「じゃあ、このノートにも?」


「入っとる」


「紙にも?」


「入っとる」


「シャーペンにも?」


「入っとる」


「やば。

 世界、混入しすぎ」


僕は笑った。


「そうじゃ。これからの時代は、

 原材料表示に

 “世界情勢”と書いた方がええ」


………


■第4章  

 ノルウェーの漁船が港で眠る


家に帰って、

僕はパティちゃんに聞いた。


ノルウェーの漁業は

どうなっているのか?


サバは

本当に減っているのか?


漁師は

船を出していないのか?


ゆづきは、

横でスマホを触りながら

聞いていた。


「ノルウェーって、

 サーモンの国でしょ?」


「そうじゃ。

 サーモンも有名じゃ」


「サバも?」


「日本の食卓には、

 ノルウェーのサバが 

 ずいぶん来とった」


「へえ。

 サバって国際派だったんだ」


「昔からな」


サバは、

海を越えてきた。


北の冷たい海で獲られ、

冷凍され、

船に乗り、

日本へ来る。


スーパーのパックに並ぶ時には、

もう長い旅を終えている。


でも今、

その旅の途中にあるものが、

全部高くなっている。


漁船の燃料。

港の冷凍設備。

コンテナ。

保険。

輸送。

円安。

人件費。


それに、

資源管理のための漁獲枠もある。


つまり、

サバが高くなる理由は

一つではない。


ゆづきが言った。


「じゃあ、魚がいないから 

 高いんじゃなくて、

 獲りに行くのが高いんだ」


「その通りじゃ」


「魚は海にいるのに?」


「いても、

 獲りに行ったら

 赤字になることがある」


「それ、めっちゃ変じゃん」


「変じゃ。でも現実じゃ」


昔の食料危機は、

食べ物がないことだった。


これからの食料危機は、

食べ物はあるのに、

獲る、運ぶ、冷やす、売る、

その全部が高すぎることになる。


魚が海で泳いでいても、

漁船が港で眠る。


それは、

新しい飢え方だった。


ゆづきは、

小さく言った。


「海の中に魚がいても、

 お皿に来ないんだ」


僕はうなずいた。


「それが、

 これからの時代じゃ」


………


■第5章 

 百円ショップの中身が減っていく


翌日、

ゆづきは学校で 

友だちに話したらしい。


「サバが薄いのは

 ホルムズ海峡のせいかもしれん」


すると友だちは笑った。


「出た、陰謀論」


ゆづきは帰ってきて、

少し怒っていた。


「じいじ、みんな笑うんよ」


「まあ、

 いきなり言うたら笑うじゃろ」


「でも本当のことじゃん」


「本当でも、順番がある」


「順番?」


「サバから海峡へ行くんじゃなくて、

 サバから冷凍庫、

 冷凍庫から燃料、

 燃料から海峡へ行く」


「ああ、橋をかけるんだ」


「そうじゃ。

 話には橋がいる」


ゆづきは、

ノートを開いた。


そこには、

自分なりのメモが書いてあった。


サバ

燃料

冷凍

輸送

ホルムズ

値段

家計


僕は少し驚いた。


「ええ図じゃな」


「これなら陰謀論じゃない?」


「これは構造論じゃ」


「構造論って、かっこいいじゃん」


「かっこええが、

 モテるかどうかは知らん」


「そこ大事じゃない」


百円ショップの話も同じだった。


ただ、

「百円ショップが高くなった」

では弱い。


なぜ高くなったのか。

石油由来の商品。

輸入品。

海上輸送。

円安。

人件費。

電気代。

倉庫代。


それらが重なって、

百円ショップは、

看板はそのままに、

中身だけが変わっていく。


ゆづきは言った。


「つまり、

 店は同じ顔してるのに、

 中身が別人になるんだ」


「そうじゃ」


「それ、ちょっと怖いね」


「怖い。しかも静かじゃ」


「値上げします!

 って叫ばないんだ」


「叫ばん。

 袋の枚数が一枚減るだけじゃ」


ゆづきは、

ノートに書いた。


静かな値上げは、音がしない。


僕はその一文を見て、

少し胸が熱くなった。


Z世代は、

ちゃんと見ている。


見方を渡せば、

世界を読む力が育つ。


………


■第6章 

 回転寿司は世界経済を握っていた


日曜日、

僕たちは回転寿司に行った。


ゆづきが、

「研究のため」

と言ったからだ。


研究という名の、

サーモン三皿である。


店は混んでいた。


子ども連れ。

若い夫婦。

年配の夫婦。

部活帰りの中学生。


回転寿司は、

今も日本の小さな幸福だった。


タッチパネルで選ぶ。

レーンで届く。

醤油を少しつける。

一皿で笑う。


でも、

その皿の裏側には、

世界があった。


マグロ。

サーモン。

エビ。

イカ。

白身。

炙り。

軍艦。

茶碗蒸し。

ラーメン。

ポテト。

デザート。


ゆづきが言った。


「じいじ、

 回転寿司って

 魚屋じゃなくない?」


「ほう。どういう意味じゃ」


「だって、

 魚だけで儲けてないでしょ。

 ポテトとかラーメンとか

 ケーキもある」


「よう見とるな」


「魚が高いから、  

 全体で調整してるんじゃない?」


「その通りじゃ」


回転寿司は、

魚を安く出すだけではない。


高いネタと安いネタ。

魚とサイドメニュー。

輸入と国産。

養殖と天然。

厚みと満足感。

期間限定と定番。


全部を組み合わせて、

一皿の価格を守っている。


僕は言った。


「回転寿司は、

 世界経済の調整弁じゃ」


ゆづきは笑った。


「また言い方が大げさ」


「でも本当じゃ」


「じゃあ、

 サーモン一皿は金融商品?」


「そうじゃ。

 サーモン担保証券じゃ」


「じいじ、それ絶対違う」


「違うか?」


「違う。

 でもちょっと分かる」


僕たちは笑った。


でも、

皿の上のサーモンは、

昔より少し薄い気がした。


ゆづきは、

それを見て、

何も言わなかった。


言わなかったけれど、

目はちゃんと見ていた。


………


■第7章 

 マンション総会という小さな国会


その週の夕方、

近所のマンション掲示板に、

一枚の紙が貼られていた。


『大規模修繕工事に関する

 臨時総会のお知らせ』


その下に、

小さな文字で書いてあった。


『修繕積立金不足に伴う

 一時金徴収案について』


ゆづきが読んだ。


「一時金ってなに?」


「足りんから、

 まとめて払ってください、

  というお金じゃ」


「いくら?」


紙には、一戸あたり

五十万円という数字があった。


ゆづきは、

目を丸くした。


「五十万円!?」


「大きいな」


「毎月、修繕積立金

 払ってるんじゃないの?」


「払っとる」


「じゃあ、

 なんで足りないの?」


「建材が上がった。

 人件費が上がった。

 工事費が上がった。

 積立の見通しが甘かった。

 いろいろある」


「ホルムズも?」


「直接全部ではない。 

 でも燃料、物流、材料には

 関係する」


「じゃあ、

 海峡がマンションの壁に来たんだ」


「そうじゃ」


マンションは、

建物ではない。


小さな国家だ。


管理組合は政府。

総会は国会。

修繕積立金は税金。

大規模修繕は公共事業。

住民は国民。


そこに、

突然、

「一戸五十万円」

という増税案が出る。


揉めないはずがない。


年金生活の人。

子育て中の人。

住宅ローンを払っている人。

売りたい人。

住み続けたい人。

理事をやりたくない人。

業者を信じる人。

疑う人。


全部が一つの会議室に集まる。


ゆづきは言った。


「マンションって、

 住むだけじゃないんだね」


「そうじゃ。

 住んだあとに、政治が始まる」


「家買ったら

 ゴールじゃないんだ」


「家を買ったら、

 建物の老後も買うんじゃ」


ゆづきは、

掲示板を見つめた。


「若い人、きついね…」


「きつい」


「子どもいる家とか、

 ほんと無理じゃん…」


「だから、

 社会全体が揉め始める」


マンション総会は、

日本の未来の縮図だった。


………


■第8章 

 一戸五十万円の逆ボーナス


夜、僕はそのマンションに住む

知人から話を聞いた。


毎月の修繕積立金は、

すでにかなり高い。


それでも足りない。


工事費が上がった。

足場代が上がった。

防水材が上がった。

職人が足りない。

見積もりが高い。

今やらないともっと高くなる。


そして、

一時金。


五十万円。


それは、

ボーナスではなかった。


逆ボーナスだった。


住民は怒る。


「そんな金はない」

「なぜ前から準備しなかった」

「業者の見積もりは本当に妥当か」

「管理会社は何をしていた」

「理事会は説明不足だ」

「でも修繕しないと危険だ」


正しい意見が、

全部ぶつかる。


ゆづきにその話をすると、

彼女は言った。


「これ、

 学校の文化祭より揉めるね」


「文化祭は青春じゃが、 

 これは財布じゃ」


「財布は揉めるわ」


「しかも住民全員、

 同じ建物に住んどる」


「逃げ場ないじゃん」


「そうじゃ」


ここで、

さらに怖い話がある。


マンション修繕工事では、

見積もり合わせをしている

ように見えて、


実は事前に

受注調整されているケースが

問題になっている。


つまり、


住民は比較しているつもりでも、

勝つ会社が決まっている

かもしれない?


ゆづきは言った。


「それ、ずるくない?」


「ずるい」


「住民は専門家じゃないのに」


「そこにつけ込まれる」


「大人の世界、怖すぎ」


「大人も怖がっとる」


ホルムズ海峡が作るのは、

本物の値上げだけではない。


本物の値上げの陰に、

便乗値上げが隠れる。


これが一番怖い。


ゆづきは、

ノートに書いた。


本物のインフレに、

偽物のインフレが混ざる。


僕は言った。


「それ、今日の名言じゃ」


「じゃあ、じいじ使用料払って」


「いくら?」


「一戸五十万円」


「それは総会で否決じゃ」


………


■第9章 

 無料なのに高くなる高校


数日後、ゆづきは学校から

進路希望調査の紙を持って

帰ってきた。


第一志望。

第二志望。

私立併願。

専願。


白い紙なのに、

そこには未来の重さがあった。


高校授業料は

無償化される方向に進んでいる。


だから、

私立高校を選ぶ家庭が増えている。


親は考える。


授業料が軽くなるなら、

少しでも面倒見のいい学校へ。


指定校推薦がある学校へ。

英語やAIに強い学校へ。

部活や校風が合う学校へ。

子どもがつぶれない学校へ。


それは自然なことだ。


でも、

無料になったのは、

高校生活の全部ではない。


制服。

靴。

かばん。

タブレット。

通学定期。

昼食。

修学旅行。

部活遠征。

模試。

塾。

スマホ。


授業料が軽くなっても、

周辺費用は残る。


ゆづきは言った。


「無料なのに高いって、

 どういうこと?」


「授業料は軽くなる。

 でも学校生活は無料じゃない」


「なんか、

 百円ショップみたい」


「どういう意味じゃ」


「看板は百円。

 でも中に入ると

 二百円、三百円がある」


僕は驚いた。


「その見方、ええな」


「高校も、

 授業料ゼロって書いてあるけど、 

 周りにお金があるんだ」


「そうじゃ」


「じゃあ、

 無料って言葉だけ見たら

 危ないね」


「危ない」


ゆづきは、

進路希望票を見つめた。


「私立に行きたい子は増えると思う」


「なぜ?」


「だって、

 どうせならいい環境って

 思うじゃん。 


 でも、

 払える家と払えない家で

 差が出そう」


「その通りじゃ」


高校無償化は、

選択肢を広げる。


でも同時に、

その選択肢を使いこなせる家庭と、

使いこなせない家庭を分ける。


これは新しい教育格差だった。


………


■第10章 

 私立高校は

 ぜいたく品ではなくなった


僕は、

ゆづきに聞いた。


「私立高校って、 

 どんなイメージじゃ?」


「昔は、お金持ちとか、

 公立落ちた人とか、

 そんな感じだったんじゃない?」


「今は?」


「今は、

 特色で選ぶ感じかも」


「特色?」


「英語、AI、探究、部活、

 制服、校風、先生、

 推薦、通信制併用とか…」


ゆづきは、

スマホでいくつかの

高校のページを見せてくれた。


きれいな校舎。

楽しそうな制服。

英語コース。

探究学習。

海外研修。

ICT教育。

一人一台端末。

進路実績。


まるで、

学校が商品カタログになっていた。


「じいじ、これ見たら、 

 私立行きたいってなる子いるよ」


「なるじゃろうな」


「公立も悪くないけど、

 私立は見せ方がうまい」


「それが 

 これからの競争じゃ」


高校は、

ただ勉強する場所ではなくなる。


教育サービス。

進路支援。

スマホ管理。

AI教材。

心理ケア。

部活。

推薦枠。

学校ブランド。


ぜんぶ込みの

パッケージになっていく。


ゆづきは言った。


「十五歳で、

 もう商品を選ばされるんだね」


「そうじゃ」


「でも、

 自分も商品みたいに

 見られるのかな」


僕は黙った。


その一言は重かった。


私立高校が増えることは、

選択肢が増えることでもある。


でも同時に、

十五歳の子どもが、

早くからコース別に分けられ、


偏差値、内申、

家庭の支払い能力、

スマホ上の評判で、 


自分の未来を

選ばされることでもある。


ゆづきは、

進路希望票に鉛筆を置いた。


「自由って、

 選べることだけど、

 選ばなきゃいけないことでも

 あるね」


僕は言った。


「それが、

 これからのZ世代の重さじゃ」


………


■第11章 

 スマホを持った十五歳の学校選び


ゆづきのスマホには、

高校の情報が次々に流れてくる。


口コミ。

制服紹介。

文化祭動画。

部活の実績。

先生の評判。

進学先。

校則。

通学路。

偏差値。

学費。


「この学校、陽キャ多い!」

「ここは面倒見いい!」

「ここは課題多すぎ!」

「制服かわいい!」

「駅から遠い!」

「スマホ厳しい!」

「指定校推薦強い!」


僕は驚いた。


昔は、学校の情報は

先生と親とパンフレットから来た。


今は違う。


生徒自身が、

スマホで学校をレビューしている。


高校は、

口コミ経済の中に入った。


ゆづきは言った。


「学校も、

 飲食店みたいに評価されてる」


「怖いな」


「でも助かることもあるよ。

 パンフレットは

 いいことしか書かないし」


「確かに」


「ただ、

 見すぎると分からなくなる」


「情報が多すぎるんじゃな」


「うん。

 選べるのに、選べない」


スマホを持った十五歳は、

昔より情報を持っている。


でも、

その情報は、

迷いも増やす。


AI、SNS、口コミ、

動画、ランキング。


そこに、

親の家計が重なる。


食費。

マンション修繕費。

スマホ代。

塾代。

私立高校の周辺費用。


ゆづきは言った。


「私立に行くって、

 自分の問題だけじゃないね」


「家族の問題じゃ」


「でも、自分の未来でもある」


「そうじゃ」


「重いね」


「重い」


ゆづきは、

しばらく黙っていた。


その沈黙の中に、

Z世代の本音があった。


彼らは、

贅沢したいわけではない。


ただ、

失敗できない時代に、

自分に合う場所を探している。


………


■第12章 国家黒字、生活赤字


僕は、

ゆづきにノルウェーの話をした。


「ノルウェーは、国としては強い」


「サバが大変なのに?」


「油やガスを売る側じゃからな」


「じゃあ、お金持ちの国?」


「そうじゃ。

 国家としてはな」


「でも漁師さんは

 燃料代で困るんでしょ?」


「そこが大事なんじゃ」


国家は黒字。

でも港は赤字。


政府は強い。

でも漁船は出られない。


この矛盾は、

これから世界中で増える。


日本でも同じだ。


企業の決算は悪くない。

株価も上がる。

観光客も来る。

輸出も伸びる。


でも、

若い家庭は食費で苦しい。


マンション住民は

修繕費で揉める。


高校生は

進路で悩む。


サバは薄くなる。


ゆづきは言った。


「国が大丈夫でも、

 生活が大丈夫とは限らないんだ」


「そうじゃ」


「それ、

 ニュースだと分かりにくいね」


「ニュースは平均を言う。

 生活は個別に痛む」


「平均って、

 痛くない顔してる」


「ええこと言うな」


ゆづきは、

ノートに書いた。


平均は痛がらない。

生活は痛がる。


僕は、

その一文を見て、

また胸が熱くなった。


この子たちは、

ちゃんと感じている。


ただ、社会がそれを

言葉にしていないだけだ。


………


■第13章 

 見えないインフラ代を読む力


僕は、

ゆづきに言った。


「これから必要なのは、

 見えないインフラ代を読む力じゃ」


「インフラ代?」


「値札の裏にあるものじゃ」


魚の値札の裏には、


漁船の燃料、冷凍庫、港、

船、保険、円安がある。


マンションの修繕費の裏には、


足場、塗料、防水材、職人、

管理会社、コンサル、

談合リスクがある。


高校の無償化の裏には、


制服、通学、タブレット、

昼食、部活、塾、

スマホ代がある。


百円ショップの裏には、


石油、プラスチック、海上輸送、

倉庫、人件費がある。


回転寿司の裏には、


世界の漁場、養殖場、

冷凍物流、メニュー設計がある。


「つまり、

 値札だけ見たらダメなんだ」


「そうじゃ」


「裏の配管を見るんだね」


「その通りじゃ」


ゆづきは、

少し笑った。


「じいじ、今日の授業、

 学校より大事かも…」


「それは先生に怒られる」


「でも本当」


「じゃあ、宿題を出そう」


「えー」


「今日から、

 スーパーで一つ商品を見たら、

 その裏にある世界を

 三つ考える」


「例えば?」


「サバなら、

 燃料、冷凍、ノルウェー」


「ノートなら、

 紙、輸送、円安」


「マンションなら、

 足場、塗料、管理組合」


「高校なら、

 授業料、スマホ、通学費」


ゆづきは言った。


「これ、探究学習じゃん」


「そうじゃ。

 わしは無料私立高校じゃ」


「制服は?」


「腹巻きじゃ」


「絶対入学しない」


………


■第14章 

 遠い海峡が進路希望票を変える


その夜、

ゆづきは進路希望票を書いた。


第一志望の欄で、

鉛筆が止まった。


公立高校。

私立高校。


どちらが正解か、

誰にも分からない。


公立には公立の良さがある。


地域に根ざし、

費用も比較的軽く、

いろいろな家庭の子が集まる。


私立には私立の良さがある。


面倒見、特色、ICT、

英語、推薦、校風。

自分に合う環境があるかもしれない。


でも、

選択の裏には家計がある。


母の財布。

父の給料。

食費。

スマホ代。

塾代。

マンション修繕費。

将来の大学費用。


ゆづきは言った。


「じいじ」


「なんじゃ」


「私立って書いたら、

 家に迷惑かな」


その言葉は、

静かだった。


静かすぎて、

僕はすぐには答えられなかった。


十五歳が、

自分の未来と家計を

同時に考えている。


それが、

今の日本だった。


僕は言った。


「迷惑かどうかで決めるな」


「でも」


「ただし、お金のことを

 知らんふりして決めてもいけん」


「じゃあ、どうするの?」


「家族で話すんじゃ」


「話したら、

 苦しくならない?」


「苦しくなる。

 でも、

 黙って一人で背負うよりええ」


ゆづきは、

うなずいた。


そして、

第一志望に、

私立高校の名前を書いた。


その一文字目のインクの中に、

ノルウェーのサバと、

ホルムズ海峡の油と、

マンションの足場と、

百円ショップの薄い袋と、


母のため息が、

ぜんぶ少しずつ溶けていた。


世界は、

ニュースの中にあるのではない。


僕らの選択肢の中に、

もう入ってきていた。


………


■第15章 

 ホームズとワトソン、

 サバ売り場で泣く


翌日、僕とゆづきは

またスーパーへ行った。


鮮魚売り場の前で、

ゆづきが急に言った。


「じいじ」


「なんじゃ」


「今日から、

 じいじはホームズね」


「ほう」


「私はワトソン」


「なんでじゃ?」


「サバの謎を解くから」


「なるほど。

 ではワトソン君、

 事件現場はここじゃ…」


僕は塩サバを指さした。


「被害者は?」


ゆづきが言った。


「日本の食卓」


「容疑者は?」


「ホルムズ海峡、燃料代、

 ノルウェーの漁獲枠、円安、

 冷凍庫、便乗値上げ」


「多すぎるな」


「共犯事件です、

 ホームズ」


「では、

 犯人は誰じゃ?」


ゆづきは、

少し考えてから言った。


「犯人は、一つじゃない」


「ほう」


「みんなが見てない裏側」


僕はうなずいた。


「正解じゃ、ワトソン君」


そこへ、

近くにいたおばあさんが、

サバの値段を見てつぶやいた。


「高うなったなあ…」


その声に、

僕たちは黙った。


笑っていたのに、

少し泣きそうになった。


サバは、

ただの魚ではなかった。


それは、庶民の生活が

どこまで耐えられるかを測る、

小さな物差しだった。


ゆづきは、サバのパックを

一つカゴに入れた。


「買うん?」


僕が聞くと、

ゆづきは言った。


「今日は研究費」


「高い研究じゃな」


「でも、食べながら考える」


「それが一番ええ」


………


❥Z世代からあなたへ


ねえ、

これを読んでいるあなたへ。


もしかしたら、

あなたはこう思ったかもしれない。


サバが高いとか、

マンションの修繕費とか、

高校無償化とか、

ホルムズ海峡とか、

自分には関係ないって。


でも、

たぶん関係ある。


あなたの昼ごはん。

通学定期。

スマホ代。

制服。

部活の遠征費。

家の家賃。

親のため息。

百円ショップで買うノート。

回転寿司で選ぶサーモン。

進路希望票の第一志望。


そこには、

見えない世界の配管がつながっている。


だから、

ニュースを全部覚えなくてもいい。


でも、

目の前の小さな変化を、 


「なんで?」


と一回だけ考えてみてほしい。


サバが薄い。

袋が減った。

高校が無料なのに高い。

マンションの掲示板が荒れている。

百円ショップが百円じゃない。

親がスーパーで少し黙る。


その小さな違和感は、

世界を読む入口になる。


大人はよく言う。


「若者はニュースを見ない」


でも、本当は違うと思う。


若者は、

ニュースを値札で見ている。

レシートで見ている。

スマホ代で見ている。

進路希望票で見ている。


だから、

あなたには力がある。


世界を丸暗記する力ではなく、

生活の中から世界を見抜く力がある。


それは、

これからの時代の、

新しい学力だと思う。


………


★あとがき

 ホームズ・ワトソンの

 やすきよ漫才風


ホームズじいじ

「いやあ、ワトソン君。

 今回の事件は

 難事件じゃったな」


ワトソンゆづき

「ほんまやで。

 最初はサバが薄いだけかと

 思ったら、

 ホルムズ海峡まで

 出てきたやん」


ホームズじいじ

「サバを追えば海峡に当たる」


ワトソンゆづき

「かっこよく言うな。

 普通はサバを追えば

 焼き魚や」


ホームズじいじ

「しかし、ワトソン君。

 真犯人は誰じゃった?」


ワトソンゆづき

「真犯人は、

 値札の裏に隠れたインフラ代です」


ホームズじいじ

「正解じゃ!」


ワトソンゆづき

「でも、じいじ。

 インフラ代って言いながら、

 さっきサバ二切れ食べたよね」


ホームズじいじ

「あれは

 証拠品の確認じゃ」


ワトソンゆづき

「証拠品に

 大根おろし乗せてたやん」


ホームズじいじ

「科学捜査じゃ」


ワトソンゆづき

「どこが科学や。

 完全に夕飯や」


ホームズじいじ

「しかし、サバはうまかった」


ワトソンゆづき

「そこは認める」


ホームズじいじ

「つまり、結論はこうじゃ。

 世界は難しい。

 しかし、サバは焼くとうまい」


ワトソンゆづき

「まとめ方、雑!」


ホームズじいじ

「では第二の事件へ行こう」


ワトソンゆづき

「次は何?」


ホームズじいじ

「百円ショップの袋が

 三枚減った事件」


ワトソンゆづき

「地味!」


ホームズじいじ

「地味な事件ほど、世界が隠れとる」


ワトソンゆづき

「それはちょっと名言っぽい」


ホームズじいじ

「では、ワトソン君。出発じゃ」


ワトソンゆづき

「どこへ?」


ホームズじいじ

「回転寿司じゃ」


ワトソンゆづき

「また食べるんかい!」


ホームズじいじ

「研究じゃ」


ワトソンゆづき

「研究って言えば

 何でも許されると思うな!」


ホームズじいじ

「では、最後に一句」


ワトソンゆづき

「急に?」


ホームズじいじ

「ホルムズや

 サバ薄くして

 孫育つ」


ワトソンゆづき

「なんか泣けるけど、腹立つ!」


ホームズじいじ

「泣きながら笑う。

 それが人生じゃ」


ワトソンゆづき

「じいじ、

 今日はちょっとだけ

 ホームズだったよ」


ホームズじいじ

「ちょっとだけか」


ワトソンゆづき

「うん。残りは、

 サバ好きのおじいちゃん」


ホームズじいじ

「それが一番ええ肩書きじゃ」


………


# 最後の一文


遠い海峡は、

今日も地図の端で揺れている。


でもその波は、

もう日本の食卓に届いている。


サバの薄さに気づいた十五歳が、

世界の仕組みに気づいた時、


未来は少しだけ、

誰かに決められるものではなくなる。

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