親指が世界を燃やす前に ――エプスタイン文書、ホルムズ海峡、顔面偏差値、ワールドカップの外側で、僕らはまだ人間でいられるか――
✦ 親指が世界を燃やす前に
――エプスタイン文書、ホルムズ海峡、
顔面偏差値、ワールドカップの外側で、
僕らはまだ人間でいられるか――
………
世界は、
銃で壊れる前に、
親指で割れ始めていた。
布団の中の一本の指が、
大統領を疑い、
富豪の過去を掘り、
難民の家を燃やし、
若者の顔を削り、
ワールドカップのチケットを
金持ちだけの入場券に変えていく。
それでも僕は、
まだ信じたかった。
親指は、
街を焼くだけの火ではない。
暗いところを照らす、
小さな灯にもなれるのだと。
………
★ 目次
■第1章
布団の中の小さな検察官
■第2章
エプスタイン文書という
地獄の名刺入れ
■第3章
富豪の握手は、
十年後に燃える
■第4章
ベルファストの夜、
赤字国の怒りが移民へ向かった
■第5章
親指は闇を照らすが、
街も焼く
■第6章
顔面偏差値に傷つく少年たち
■第7章
ワールドカップの外側で
国歌を聞く
■第8章
入国できなかった審判の国旗
■第9章
資源国インドネシアの
ガソリンスタンド
■第10章
日本の見えない油田
■第11章
インドのトイレは、
ホルムズ海峡につながっていた
■第12章
油は止まらない。
ただし裏道を走る
■第13章
百隻のタンカーは
酸素ボンベだった
■第14章
韓国大統領は
世界の血管を点検して回る
■第15章
親指を火打ち石ではなく、
灯明にするために
………
■第1章
布団の中の小さな検察官
孫のゆづきが、
スマホを握ったまま言った。
「じいちゃん、世界って、
もうニュース番組より
コメント欄の方が怖いね」
僕は足湯に足を入れながら、
その言葉を聞いていた。
六月の夜だった。
テレビでは、
イギリスの街が映っていた。
店のシャッターが早く閉まり、
バスは止まり、
人々は急いで家に帰っていた。
まるで戦争でも始まったような
顔をして、
街全体が息を潜めていた。
「昔の北アイルランド紛争を
思い出したって、
地元の人が言ってたよ」
ゆづきはそう言って、
画面をスクロールした。
次のニュースは、
エプスタイン文書だった。
ビル・ゲイツ、
元大統領、
元王子、
元国務長官。
世界の上の方にいた人たちの名前が、
古い文書の中から、
魚の骨みたいに出てくる。
「じいちゃん、これ、
もう歴史の授業じゃなくて、
過去ログの発掘だね」
「そうじゃな」
僕はうなずいた。
昔は、新聞記者が
権力者を追いかけた。
今は、布団の中の若者が、
親指で権力者を追いかける。
いいね。
怒り。
拡散。
保存。
スクショ。
たった五つの動作で、
世界一の富豪も、
大統領も、
王子も、
古い会食の写真の前に引き戻される。
ゆづきが言った。
「親指って、
もしかして小さな検察官なの?」
僕は笑った。
「そうかもしれん。
じゃけどな、
検察官にも二種類ある。
証拠を集める検察官と、
怒りだけで人を燃やす検察官じゃ」
ゆづきは黙った。
画面の中では、
また誰かが怒っていた。
………
■第2章
エプスタイン文書という
地獄の名刺入れ
エプスタインという男は、
ただの悪人ではなかった。
悪人というより、
世界の上流階級のまわりを泳ぐ、
黒い名刺入れのような男だった。
そこには、
金持ちの名前が入っていた。
政治家の名前が入っていた。
学者の名前が入っていた。
王族の名前が入っていた。
財団、
慈善、
寄付、
世界保健、
未来の研究。
表の入口は、
とても立派だった。
でも奥の部屋には、
弱みが置いてあった。
写真。
メール。
紹介履歴。
フライト記録。
会食メモ。
誰と誰が会ったのか。
誰が誰を紹介したのか。
誰が何を知っていたのか。
誰が何を知らなかったと
言っているのか。
ゆづきが言った。
「じいちゃん、
名前が出たら悪人ってこと?」
僕は首を振った。
「それは違う。
名前があるだけで罪とは言えん。
でもな、問題は、
名前がそこに
残ってしまうことなんじゃ」
「残る?」
「そう。
十年前の握手が、
十年後に火を噴く。
昔なら忘れられた会食が、
今は文書の地層から掘り返される」
「怖いね」
「怖いよ。
金持ちは豪邸に
住んどると思うじゃろ。
でも本当は、
過去ログの上に
住んどるのかもしれん」
ゆづきはスマホを置いた。
「それ、
じいちゃんの小説に出せるね」
僕はうなずいた。
「出せる。
題名はそうじゃな。
『地獄の名刺入れ』
じゃ」
ゆづきは笑った。
「クリックされそう」
………
■第3章
富豪の握手は、十年後に燃える
テレビでは、
ビル・ゲイツが映っていた。
かつては、
パソコンの神様のような人だった。
世界中の学校に名前があり、
財団があり、
ワクチンがあり、
慈善があり、
未来を語る椅子があった。
けれど今、彼は
過去の会食について説明していた。
会うべきではなかった。
重大な判断ミスだった。
犯罪行為は見ていない。
関与していない。
そんな言葉が、
画面の下を流れていく。
ゆづきが言った。
「じいちゃん、これって、
神様が人間に戻される瞬間みたい」
僕は少し驚いた。
「うまいこと言うな」
「だって、
昔はすごい人ってだけで守られてた。
でも今は、
すごい人ほど昔のログを見られる」
「そうじゃ。
二十世紀は
肩書が鎧だった。
二十一世紀は
肩書が的になる」
昔の権力者は、
門番に守られていた。
新聞社。
テレビ局。
出版社。
映画会社。
政党。
巨大企業。
しかし今は、
門番の横を、
親指がすり抜けていく。
スクショが残る。
動画が残る。
メールが残る。
誰かの証言が切り抜かれる。
そして十年後、
十五年後、
二十年後。
過去は、
古い倉庫からではなく、
検索窓から現れる。
ゆづきが言った。
「じゃあ、これからの金持ちは、
何を怖がるの?」
僕は答えた。
「幽霊じゃない。
保存ボタンじゃ」
………
■第4章
ベルファストの夜、
赤字国の怒りが移民へ向かった
その夜、
イギリスのニュースは暗かった。
ベルファストの街で、
刃物事件が起きた。
被害者の家族は、
人々に感謝していた。
助けてくれた地元の人たちを
忘れない。
この悲劇を、
分断や憎悪をあおるために
使ってほしくない。
そう言っていた。
けれど街では、怒りが
別の方向へ走り出していた。
移民の家が狙われた。
車が燃えた。
店が壊された。
警察が出た。
水砲が出た。
ゆづきが小さな声で言った。
「家族は止めようとしてるのに、
外側の人が燃やしてる」
「そうじゃ」
僕はテレビを見ながら言った。
「悲劇の中心にいる人ほど、
火を消そうとする。
悲劇の外側にいる人ほど、
火を大きくしたがることがある」
「なんで?」
「怒りには、
理由がほしいからじゃ」
イギリスは、
経常収支も貿易収支も苦しい。
生活費は高い。
住宅は足りない。
病院は混む。
税金は重い。
街の雰囲気は変わる。
そこへ移民や難民が見える。
本当は、
原因は複雑だ。
産業の問題。
金融依存。
公共サービスの疲弊。
赤字体質。
世界経済の変化。
でも人間は、
見えない構造より、
見える隣人を責めてしまう。
ゆづきが言った。
「赤字国の請求書に、
難民の名前が書かれるんだね」
僕は静かに言った。
「それは、かなり怖い言葉じゃ。
でも、たぶん当たっとる」
………
■第5章
親指は闇を照らすが、街も焼く
親指は、
不思議な火打ち石だった。
正しく打てば、
闇を照らす。
雑に打てば、
街を焼く。
エプスタイン文書では、
親指が権力者の過去を追いかけた。
誰が会ったのか?
誰が知っていたのか?
なぜ文書が黒塗りなのか?
なぜ今なのか?
その疑いは、
民主主義の新しい目になった。
でもベルファストでは、
親指が憎悪を増やした。
移民が悪い。
難民が悪い。
外国人が悪い。
その言葉は、
証拠より速く走り、
警察より先に街に着いた。
ゆづきが言った。
「親指って、
正義なの?悪なの?」
僕は笑った。
「包丁と同じじゃ。
料理もできるし、人も傷つける」
「じゃあ、
どう使えばいいの?」
「怒る前に、
一回だけ考えるんじゃ」
「一回だけ?」
「そう。一回だけでええ。
この怒りは、
上に向かっとるのか。
弱い人に向かっとるのか。
それを見る」
ゆづきは、
自分の親指を見た。
小さな指だった。
でもその指は、
世界中の誰かの人生を、
上げることも、
燃やすこともできた。
………
■第6章
顔面偏差値に傷つく少年たち
次の日、
フランスのニュースで、
十代の男の子たちの特集を見た。
寝る時に
口をテープで閉じる。
鼻呼吸で
顔が変わると信じる。
顎を
鍛えるガムを噛む。
男らしい骨格になると信じる。
女性は角ばった顎に
惹かれると信じる。
さらに危険な子は、
顔をハンマーで叩く。
頬骨を出そうとする。
顎を変えようとする。
自分の顔を、
工具で直す部品みたいに扱う。
ゆづきが顔をしかめた。
「痛そう」
「痛いどころじゃない。
神経も骨も顎関節も壊れるかもしれん」
「なんでそこまでするの?」
僕は少し黙った。
実は、
僕にも気持ちは分かった。
若く見られたい。
少しでもいい顔になりたい。
笑顔を作りたい。
筋肉をほぐしたい。
鏡の前で、
自分を直したいと思ったことはある。
けれど、
今の若者は違う。
鏡だけではない。
スマホがある。
自撮りがある。
動画がある。
加工アプリがある。
顔面診断がある。
マッチングアプリがある。
コメント欄がある。
AI採点がある。
つまり若者は、
鏡に傷ついているのではない。
アルゴリズムに彫刻されている。
ゆづきが言った。
「顔まで
親指に裁かれるんだね」
僕はうなずいた。
「そうじゃ。
政治家だけじゃない。
富豪だけじゃない。
今は十代の顔まで、親指が裁いとる」
「怖いね」
「怖い。
でも忘れたらいけん。
顔は骨で完成するんじゃない」
「じゃあ、何で完成するの?」
僕は言った。
「生き方で、
ゆっくり出来上がる」
………
■第7章
ワールドカップの外側で国歌を聞く
メキシコでは、
ワールドカップの準備が進んでいた。
街はきれいになった。
道路は整えられた。
警備も増えた。
露店の人たちは、
観光客が来ることを期待していた。
今度こそ
売れるかもしれない。
今度こそ
生活が良くなるかもしれない。
けれど、
サッカーファンは泣いていた。
チケットが高すぎる。
地元で開催されるのに、
地元の人が入れない。
決勝戦は、
一番安くても手が届かない。
昔、サッカーは
町のものだった。
貧しい子どもが、
裸足でボールを蹴って、
国の英雄になれる夢だった。
でも今、
ワールドカップは、
ホテル代、
航空券、
スポンサー席、
公式再販、
警備、
入国審査、
富裕層向けパッケージに
囲まれている。
ゆづきが言った。
「ワールドカップって、
世界中が一つになる
大会じゃないの?」
「そう言われとる」
「でも本当は、
誰が中に入れて、
誰が外に置かれるかを
見る大会みたい」
僕はうなずいた。
スタジアムの中で
国歌を歌う人がいる。
スタジアムの外で、
タコスを売りながら、
国歌だけを聞く人がいる。
同じ大会なのに、
見えている景色はまったく違う。
………
■第8章
入国できなかった審判の国旗
ソマリア人の審判がいた。
彼は、
世界の舞台で笛を吹くはずだった。
けれど、
入国を拒まれた。
理由は安全保障。
国籍。
出身。
疑い。
彼は大会から外された。
でも祖国に帰ると、
人々は彼を迎えた。
英雄のように。
彼は言った。
「起きたことは変えられない。
運命だ。
若者には
希望を失ってほしくない。
よくも悪くも、我々の国だ。
あの国旗は、私のものだ」
ゆづきは黙っていた。
僕も黙っていた。
サッカーの審判は、
本来、
どちらの国にも属さない人だ。
公平に笛を吹く人だ。
でも世界は、
彼を国籍で見た。
パスポートで見た。
出身で見た。
そして彼は、
試合を裁く前に、
世界から裁かれた。
ゆづきが言った。
「じいちゃん、これが
一番ワールドカップらしい気もする」
「どうして?」
「だって、国を背負うって、
勝つことだけじゃないんでしょ。
理不尽なことが起きても、
国旗を手放さないことなんでしょ」
僕は、
少し泣きそうになった。
………
■第9章
資源国インドネシアのガソリンスタンド
インドネシアのガソリンスタンドには、
バイクの列ができていた。
燃料価格が上がった。
補助金の対象外の燃料は、
三割以上も上がった。
テレビでは、
若者が怒っていた。
「政府は国民の所得を考えるべきだ。
生活はもう苦しい」
経済的な重圧は全国に広がっている。
僕は不思議に思った。
インドネシアは
資源国ではないのか?
石炭もある。
パーム油もある。
ニッケルもある。
天然ガスもある。
それなのに、
なぜガソリンで苦しむのか?
ゆづきが言った。
「地下に資源があるのに、
バイクのタンクには
入らないんだね」
僕はうなずいた。
資源を持っていることと、
庶民に安い燃料を配れることは違う。
ガソリンは、
油田だけで決まらない。
精製能力。
輸入燃料。
為替。
補助金。
財政。
国際価格。
通貨安。
全部が絡む。
インドネシアの地下には
資源がある。
でも庶民のタンクに入る燃料は、
政府の補助金という
細い管を通ってくる。
その管が詰まれば、
資源国でも列ができる。
………
■第10章
日本の見えない油田
ゆづきが聞いた。
「じゃあ日本はどうなの?
日本なんか油ないじゃん」
「ない」
僕は即答した。
「日本には油田はない。
じゃけど、
見えない油田がある」
「見えない油田?」
「海外資産じゃ」
日本企業は、
海外に工場を作った。
海外企業に投資した。
海外の債券を持った。
海外子会社から配当を受け取った。
特許料や利子も入ってくる。
観光客も来る。
部品も機械も売る。
つまり、
日本の油田は地面の下にない。
海外子会社の決算書の中にある。
ゆづきが笑った。
「じいちゃん、
それ、地味すぎる油田だね」
「地味じゃけど、
危機の時には強い」
もちろん日本も安全ではない。
ナフサが足りない。
原油が高い。
円安が痛い。
電気代も上がる。
肥料も化学原料も苦しくなる。
でも日本には、
備蓄がある。
海外所得がある。
部品輸出がある。
節約する生活技術がある。
僕は言った。
「インドネシアは
畑を持っとるのに
台所のガス代で苦しむ家。
日本は畑は少ないけど、
昔買った海外アパートの
家賃収入で
米を買っとる家じゃ」
ゆづきは言った。
「それ、
家計簿で世界を見るってこと?」
「そうじゃ。
世界も家計簿なんじゃ」
………
■第11章
インドのトイレは、
ホルムズ海峡につながっていた
インドのニュースでは、
トイレが大きく扱われていた。
公衆トイレ。
建設費。
水増し。
幽霊トイレ。
許認可。
税金の無駄。
最初、
僕には意味が分からなかった。
なぜトイレが
トップニュースになるのか?
でもよく考えると、
インドでは
トイレはただの便所ではない。
公衆衛生。
女性の安全。
貧困対策。
地方行政。
補助金。
選挙公約。
腐敗。
すべてが集まる場所だった。
そして、
ホルムズ海峡ともつながっていた。
インドは原油を大量に輸入する。
中東が揺れれば、
原油代が上がる。
ルピーが弱くなる。
燃料税を下げれば、
政府の税収が減る。
下げなければ、
国民が怒る。
補助金を出せば、
財政が苦しくなる。
そこへ、
トイレ建設の水増しが出る。
国民は思う。
ガソリンも高い。
物価も高い。
税金も取られる。
なのに、
存在しないトイレに金が消えている?
ゆづきが言った。
「ホルムズ海峡の波が、
トイレの予算書まで
濡らしてるんだね」
僕は笑った。
「それ、今日一番の名言じゃ」
………
■第12章
油は止まらない。ただし裏道を走る
ホルムズ海峡は、
世界の石油の大動脈だった。
そこが詰まれば、
世界中のガソリン、
電気、
化学製品、
肥料、
物流、
食料価格に響く。
でも現実は、
映画のように
完全停止するわけではない。
止まるのではない。
裏道に入るのだ。
護衛付きで通る船。
灯りを消す船。
AISを切る船。
船名を変える船。
洋上で積み替える船。
第三国の港で書類を変える船。
保険料が跳ね上がる船。
危険な海域を夜中に抜ける船。
ゆづきが言った。
「世界って、
止まるんじゃなくて、
ズルして動くんだね」
僕はうなずいた。
「そうじゃ。
世界は意外と止まらん。
ただし、
きれいな道を走れなくなる」
「じゃあ、油は来るの?」
「来る。
じゃけど高い油として来る」
船賃。
保険料。
リスク。
積み替え費用。
制裁リスク。
裏道手数料。
それらが全部乗って、
日本のガソリン、
電気代、
ナフサ、
化学製品に遅れて届く。
世界は止まっていない。
でも、
光を消して、
裏道を走り始めている。
………
■第13章
百隻のタンカーは酸素ボンベだった
トランプ大統領が言った。
「百隻以上のタンカーが通った。
世界中に石油がばらまかれる」
もしそれが本当なら、
かなり大きい。
百隻。
一億バレル。
世界の一日分に近い油。
ホルムズ海峡の数日分の血流。
市場は少し安心する。
製油所は少し息をつく。
日本にも、
遅れて油が回ってくるかもしれない。
でも僕は思った。
それは
健康になった証拠ではない。
酸素ボンベを使っている時点で、
患者は健康ではない。
ゆづきが言った。
「通った船の数より、
護衛なしで通れないことの方が
怖いよね…」
「そうじゃ」
「じゃあ、トランプさんは
勝ったって言いたいの?」
「たぶんな」
「でも世界経済は?」
「まだ集中治療室じゃ」
ゆづきは苦笑いした。
「じいちゃん、
経済ニュースを
病院ドラマにするのやめて」
「いや、わしの血管も細いからな。
世界経済の血管の話は
他人事じゃないんじゃ」
「急に自分の健康を
混ぜてくるな!」
僕たちは少し笑った。
でもテレビの海は、
まだ暗かった。
………
■第14章
韓国大統領は世界の血管を
点検して回る
韓国のニュースでは、
大統領が欧州を回っていた。
EU。
ベルギー。
イタリア。
デジタル貿易協定。
経済対話。
防衛協力。
北朝鮮核。
ロシア。
ウクライナ。
エネルギー。
半導体。
KBSは、
大統領を大きく持ち上げていた。
だが僕には、
それが単なる外交成果には
見えなかった。
韓国は、
半導体という心臓を持っている。
でもその心臓に入る血管は、
米国に伸び、
中国に伸び、
EUに伸び、
日本に伸び、
台湾に伸び、
中東に伸び、
ロシア情勢にまで伸びている。
だから大統領は、
世界中の血管を点検して回っている。
ゆづきが言った。
「日本はどうなの?」
「日本は備蓄して、
我慢して、
海外所得で耐える国じゃ」
「韓国は?」
「大統領が飛び回って、
市場と同盟を取りに行く国じゃ」
「どっちが正しいの?」
「どっちも正しいし、
どっちも苦しい」
韓国は、
朝鮮半島だけの国では
いられなくなった。
北朝鮮が
ロシアにつながり、
ウクライナ戦争が
半島に影を落とし、
EUのデジタル規制が
韓国企業に影響し、
米国の関税が
輸出を揺らす。
だから韓国は動く。
日本は耐える。
インドは走る。
インドネシアは補助金で踏ん張る。
イギリスは怒る。
世界は、
それぞれ違う方法で、
同じ危機から逃げようとしていた。
………
■第15章
親指を火打ち石ではなく、
灯明にするために
夜が深くなった。
ゆづきはスマホを置いた。
僕は足湯から足を出し、
タオルでふいた。
テレビでは、
まだどこかの国が怒っていた。
どこかの富豪が
説明していた。
どこかの若者が
自分の顔を責めていた。
どこかの露店の人が、
ワールドカップに
希望をかけていた。
どこかの国のトイレ予算が
消えていた。
どこかの海で、
灯りを消したタンカーが進んでいた。
ゆづきが言った。
「じいちゃん、
これからの世界って、怖いね」
僕は言った。
「怖い。でも、
全部が悪いわけじゃない」
「そうかな」
「親指があるから、
隠された文書が掘り返される。
親指があるから、
弱い人の声も広がる。
親指があるから、
遠い国の審判の悔しさも、
わしらに届く」
「でも親指があるから、
暴動も起きる」
「そうじゃ」
「じゃあ、どうすればいいの?」
僕は少し考えた。
「親指を、
火打ち石で終わらせんことじゃ」
「火打ち石?」
「火をつけるだけなら、
街も燃える。
でも火を灯明にすれば、
道が見える」
ゆづきは黙って聞いていた。
僕は続けた。
「怒ってもええ。
疑ってもええ。
拡散してもええ。
でもその前に、
一回だけ考える。
この怒りは、
本当に上に向かっとるのか。
弱い人を燃やしとらんか。
自分の顔を殴っとらんか。
誰かの国旗を踏んどらんか」
ゆづきは、
自分の親指を見た。
小さな指だった。
でも、
その指は世界につながっていた。
僕は言った。
「世界は、
銃で壊れる前に、
親指で割れ始めた。
でもな、
親指は割るだけじゃない。
つなぐこともできる」
ゆづきは笑った。
「じいちゃん、
それ、最後の決め台詞っぽい」
「じゃろ」
「でもちょっと長い」
「Z世代は厳しいな」
「短くして」
僕は深呼吸した。
そして言った。
親指は、
令和の火打ち石になった。
正しく打てば、
闇を照らす。
雑に打てば、
街を焼く。
だから僕らは、
怒る前に、
一度だけ考える。
この火を、
誰に向けるのか。
………
❥Z世代のあなたへ
あなたの親指は、
小さい。
でも、
弱くはない。
その親指は、
好きな人にいいねを押せる。
遠い国のニュースを
広げられる。
隠された不正を
見つけられる。
誰かの孤独に、
「見てるよ」
と伝えられる。
でも同時に、誰かの人生を
燃やすこともできる。
まだ証拠がそろっていない人を、
犯人にしてしまうこともできる。
移民や難民や弱い人に、
社会の怒りを
ぶつけてしまうこともできる。
自分の顔を、
数字やコメントで
傷つけてしまうこともできる。
だから覚えておいてほしい。
あなたの顔は、
AIの点数で決まらない。
あなたの価値は、
顎の角度で決まらない。
あなたの国は、
チケットの値段で決まらない。
あなたの怒りは、
誰かを燃やすためだけに
あるのではない。
本当に強い親指は、
炎上させる指ではない。
暗いところを照らし、
おかしいことに気づき、
弱い人ではなく、
強すぎる仕組みに問いを投げる指だ。
世界は今、
親指で割れ始めている。
でも、
親指でつなぎ直すことも、
まだできる。
………
★あとがき★
ホームズ&ワトソンの
やすきよ漫才風・
笑いと涙の締め
ホームズ
「ワトソン君、
今回の事件の犯人は分かったぞ」
ワトソン
「ほんまでっか、ホームズさん。
犯人は誰ですのん。
エプスタインでっか。
トランプでっか。
ホルムズ海峡でっか」
ホームズ
「違う」
ワトソン
「違うんかいな。
ほな、インドの幽霊トイレでっか」
ホームズ
「それも怪しい」
ワトソン
「怪しいんかい。ほな、
インドネシアのガソリンでっか」
ホームズ
「それもかなり高い」
ワトソン
「値段の話やないかい」
ホームズ
「犯人は、親指だ」
ワトソン
「親指?
なんで親指が犯人やねん。
親指なんか、
だいたいスマホ押すか、
鼻くそほじるか、
相撲で立てるくらいしか
使い道ないやろ」
ホームズ
「そのスマホを押す親指が、
世界を動かしているのだ」
ワトソン
「えらい時代になりましたなあ。
昔は天下を取るには刀がいった。
今は親指一本で炎上ですか」
ホームズ
「そうだ。
親指は、富豪を裁き、
大統領を疑い、
若者の顔を採点し、
ワールドカップの
外側にいる人の
涙まで映す」
ワトソン
「ほな、わしの親指も
大事にせなあきませんな」
ホームズ
「もちろんだ」
ワトソン
「じゃあ明日から
親指にサプリ飲ませますわ」
ホームズ
「親指にサプリを飲ませて
どうする」
ワトソン
「NMN親指健康法や。
五年後には親指だけ二十代や」
ホームズ
「顔より先に
親指が若返ってどうする」
ワトソン
「スマホ押すスピードが
上がるやないか」
ホームズ
「それが一番危ないと
言っているのだ」
ワトソン
「ほな、
どうしたらええんですか」
ホームズ
「怒る前に、一回だけ止まる」
ワトソン
「一回だけ?」
ホームズ
「そうだ。
この投稿は、
闇を照らすのか。
街を焼くのか。
弱い人を殴っていないか。
それを考える」
ワトソン
「ホームズさん、
今日はええこと言いますな」
ホームズ
「いつも言っている」
ワトソン
「いや、たまに難しすぎて、
わしの脳みそが
ホルムズ海峡で渋滞しますねん」
ホームズ
「その時は、深呼吸だ」
ワトソン
「深呼吸して、
鼻呼吸して、
顔変わりますか」
ホームズ
「変わらん」
ワトソン
「顎ガム噛んだら
男前になりますか」
ホームズ
「ならん」
ワトソン
「ハンマーで頬骨を」
ホームズ
「やめなさい!」
ワトソン
「ツッコミ早いなあ。
そこだけ大阪の警察より
出動早いやないか」
ホームズ
「顔は叩いて作るものではない」
ワトソン
「ほな、何で作るんですか」
ホームズ
「生き方だ」
ワトソン
「泣かせますなあ」
ホームズ
「親指も同じだ。
押し方に、
その人の生き方が出る」
ワトソン
「つまり、
いいねにも人柄が出る?」
ホームズ
「出る」
ワトソン
「怒りにも?」
ホームズ
「出る」
ワトソン
「既読スルーにも?」
ホームズ
「かなり出る」
ワトソン
「ほな、わしは今日から
親指を仏壇に置いて寝ますわ」
ホームズ
「置いたら
スマホが押せんだろう」
ワトソン
「それが
平和の第一歩かもしれませんで」
ホームズ
「ワトソン君」
ワトソン
「なんですのん」
ホームズ
「たまには君も名探偵だ」
ワトソン
「いややわ、ホームズさん。
褒められたら、
親指が勝手にいいね押してまう」
ホームズ
「そのいいねは、許す」
ワトソン
「ほな最後に一言」
ホームズ
「どうぞ」
ワトソン
「親指は、
世界を燃やす火にもなる。
せやけど、誰かの夜道を照らす
小さな灯にもなる。
せやからみんな、
スマホを持つ前に、
心を一回だけ持ち直しましょう」
ホームズ
「完璧だ」
ワトソン
「ほんまですか」
ホームズ
「ああ」
ワトソン
「ほな、
チケット高すぎて
ワールドカップ行かれへんから、
家で見ましょか」
ホームズ
「それが一番安全だ」
ワトソン
「でもビールとポテチ代で
経常収支赤字ですわ」
ホームズ
「君の家計簿こそ、
世界最大の謎だ」
ワトソン
「ほっといてんか!」
二人は笑った。
テレビの中では、
まだ世界が揺れていた。
でもその夜、
ゆづきはスマホを伏せて眠った。
親指を休ませるように。
世界を、
少しだけ燃やさないため




