知らなかった国の、やさしい手紙 ――ホルムズ海峡が詰まった日、日本は法隆寺みたいに先送りした――
✦知らなかった国の、やさしい手紙
――ホルムズ海峡が詰まった日、
日本は法隆寺みたいに先送りした――
………
世界で一番早く
火事に気づいた国から、
順番に、
壊れていく夏が始まっていた。
ヨーロッパは怒った。
アメリカは脅した。
中国は、
何も言わずに船を動かした。
中東は、
海峡の出口を握った。
そして日本は、
夕方のニュースを見ながら、
いつものように
炊飯器のスイッチを押した。
それは、
ただ鈍いだけだったのか。
それとも、
一万年以上、
木造の家を直しながら
生きてきた国の、
古い生き残り術だったのか。
僕には、
まだ分からなかった。
でも、
一つだけ分かったことがある。
知らないことは、
いつも悪いことではない。
知らないから、
今日もご飯を
炊けることがある。
知らないから、
パニックにならずに
朝を迎えられることもある。
けれど、
知らないままでは、
大事なものを守れない。
だから僕は、
怖いニュースを
そのまま若い人へ
渡すのをやめた。
石油の話は、
米びつの話にした。
エチレンの話は、
コンビニ弁当の
白いトレーの話にした。
フォースマジュールという
難しい言葉は、
「約束していた部品が
急に届かなくなった町工場」
の話にした。
昔、
戦国時代の不安な世の中で、
ある人は、
難しい教えを
やさしい手紙に変えて、
村の人たちへ届けた。
令和の僕は、
難しい世界の危機を
小説に変えて、
スマホの向こうにいる
若い君たちへ届けることにした。
怖がらせるためではない。
絶望させるためでもない。
五年後も、
Z世代の若者が
自分の手で米を炊き、
誰かと笑いながら
食卓につけるようにするためだ。
………
★目次
■第1章
ホルムズ海峡が詰まった朝
■第2章
エチレンは足りないのに、
値段だけが落ちた
■第3章
米騒動の地球版
■第4章
政府は全部を言わなかった
■第5章
ゆづきは言った。
「それ、
だまされてるだけじゃん」
■第6章
じいちゃんは
法隆寺の話をした
■第7章
ヨーロッパは
石の家で怒っていた
■第8章
ドイツの城門の鍵は
カリフォルニアにあった
■第9章
日本は知らないまま
昼ごはんを食べた
■第10章
戦国時代の村は、
情報で飢えていた
■第11章
一通の手紙が、
村の空気を変えた
■第12章
じいちゃん通信、
第一号
■第13章
怒りは燃料、
言葉は水路
■第14章
知らない国から、
少しだけ知る国へ
■第15章
五年後、ゆづきが
手紙を書く番になった
………
★本文
■第1章
ホルムズ海峡が詰まった朝
ホルムズ海峡が詰まった。
テレビの中の専門家は、
いつもより深刻な顔をしていた。
「世界の石油輸送に
重大な影響が出る可能性が
あります」
「日本は中東依存度が高く、
影響は避けられません」
「政府は備蓄放出も含めて
対応を検討しています」
聞いているだけで、
胃が重くなる言葉ばかりだった。
でも、
ふるさとの朝は、
まだ普通だった。
炊飯器は鳴った。
味噌汁は湯気を立てた。
近所の軽トラは、
いつものように
ガソリンスタンドへ入っていった。
僕は67歳。
元証券会社勤務。
相場の世界で三十八年、
人間の欲と恐怖を見てきた。
株が上がれば、
みんな天才になる。
株が下がれば、
みんな犯人を探す。
ホルムズ海峡も同じだった。
石油が止まる。
ガソリンが上がる。
食品トレーが薄くなる。
物流が詰まる。
すると人間は、
すぐに犯人を探し始める。
政府が悪い。
外国が悪い。
移民が悪い。
商社が悪い。
近所の
買い占めおばさんが悪い。
でも僕は、
パティちゃんに聞いていた。
「なあ、これ本当に
全部止まっとるんか?」
パティちゃんは言った。
「世界は、
完全に止まった
わけではありません。
ただ、
表の航路から、
裏の航路へ回っている
可能性があります」
僕は笑った。
「やっぱりなぁ…」
石油も人間も、
正面玄関が閉まると、
勝手口を探す。
海の上では、
船が光を消していた。
地図に映らない船が、
夜の海を走っていた。
契約では
止まった油があった。
転売で
動く油があった。
保険が
つかずに眠る船があった。
値段が高すぎて、
誰も買わなくなった
荷物もあった。
世界は止まっていない。
ただ、
見えにくくなっていた。
僕はスマホを閉じた。
すると高校一年のゆづきが、
プリンを食べながら言った。
「おじいちゃん、
また世界の終わりの話?」
「違う」
「じゃあ何?」
「世界の裏口の話じゃ…」
「うわ、怪しい」
「怪しい話ほど、
だいたい
請求書だけは本物なんじゃ」
ゆづきは、
プリンのスプーンを止めた。
「それ、ちょっと怖い」
「怖がらんでええ。
でも米びつは見とけ」
「なんで
石油の話で米びつ?」
「それが分からんから、
若いもんは
すぐAmazonで
何でも届くと思っとる」
「偏見すご…」
僕は笑った。
でも本当は、
笑っている場合ではなかった。
世界の海は、
静かに詰まり始めていた。
………
■第2章
エチレンは足りないのに、
値段だけが落ちた
ホルムズ海峡の話をしていると、
たいていの人は
ガソリンを思い浮かべる。
でも僕が見ていたのは、
ガソリンだけではなかった。
ナフサ。
エチレン。
プロピレン。
樹脂。
包装材。
食品トレー。
冷凍食品の袋。
薬のシート。
点滴のチューブ。
コンビニ弁当のふた。
つまり、
油は燃えるだけではない。
油は、
現代の暮らしの形を作っている。
ある日、
パティちゃんと話していて、
不思議なことに気づいた。
「エチレンが足りない
足りない言うとるのに、
値段が下がっとる」
普通なら、
足りなければ
値段は上がる。
でも、
世の中はそんなに
単純ではない。
値段が上がりすぎると、
買う方が先に心を折る。
「もうええわ」
「その値段なら作れん」
「工場止めた方がまし」
そうなると、
足りないはずの商品が、
急に余り始める。
買い占めた人は、
倉庫の中で青ざめる。
売るつもりで抱えた在庫が、
逆に自分の首を絞める。
米騒動も同じだ。
✲なくなると思って買い占める。
→買い占めるから
高くなる
→高くなるから、本当に
買えない人が出る
→でも高すぎると、今度は
誰も買えなくなる
→そして在庫を抱えた人が、
こっそり吐き出し始める
僕はゆづきに言った。
「エチレンも米も、
最後は人間の不安で
値段が動くんじゃ」
ゆづきは
スマホを見ながら言った。
「エチレンって何?」
「弁当の白いトレーの
親戚じゃ」
「親戚なの?」
「かなり遠い親戚じゃ。
でも葬式には来る」
「意味分からん」
「じゃあ、こう言おう。
エチレンが詰まると、
お弁当の顔が薄くなる」
ゆづきは、
ようやく顔を上げた。
「それなら分かる。
最近、袋とか容器、
ペラペラになってる
気がする」
「そうじゃ。
世界の危機は、
最初に値札ではなく、
手触りに出る」
「手触り?」
「袋が薄い。
印刷が地味。
ふたが弱い。
中身はあるのに、
外側が痩せる」
ゆづきは、
プリンの空き容器をつまんだ。
「これも?」
「それも世界経済の化石じゃ」
「プリンの容器に
壮大なこと言わんで」
でも、
僕は本気だった。
世界は
ニュースで壊れるのではない。
最初は、
プリンの容器が
少し薄くなるところから壊れる。
………
■第3章
米騒動の地球版
僕は思った。
これは石油危機ではない。
これは、
✲米騒動の地球版だ。
昔、
米が高くなった時、
人々は怒った。
商人が買い占めた。
政府が遅れた。
庶民が苦しんだ。
そして社会の空気が、
一気に燃えた。
令和の米は、
米だけではない。
ガソリンも米。
エチレンも米。
ナフサも米。
薬の包装も米。
冷凍倉庫の電気も米。
クラウドの電力も米。
スマホの充電も米。
人間は、
腹が減ると怒る。
でも現代人は、
スマホの電池が減っても
怒る。
Wi-Fiが切れても
怒る。
PayPayが使えなくても
怒る。
Googleマップが動かなくても
怒る。
つまり現代の米騒動は、
台所だけでは起きない。
スマホの中でも起きる。
ゆづきが言った。
「おじいちゃん、
米騒動って
歴史の授業で出るやつ?」
「そうじゃ」
「それが
地球版になるってこと?」
「そうじゃ。
米が世界中に
散らばったんじゃ…」
「どういうこと?」
「昔は
米びつを
見ればよかった。
今は
世界中の配管を
見んといけん」
ゆづきはため息をついた。
「めんどくさ…」
「そうじゃ。
じゃけえ人間は、
簡単な犯人を探す」
「政府が悪いとか?」
「そう。
外国が悪い。
移民が悪い。
若者が悪い。
老人が悪い。
そう言えば、頭が楽になる」
「でも本当は?」
「本当は、
米びつが世界中に
広がりすぎたんじゃ」
昔の米騒動は、
米蔵の話だった。
今の米騒動は、
海峡、タンカー、
保険、クラウド、
決済、半導体、
包装材の話になる。
だから怖い。
見えないからだ。
人間は、
見えない米びつには
手を合わせられない。
………
■第4章
政府は全部を言わなかった
政府は、
全部を言わなかった。
それが嘘なのか。
知恵なのか。
僕には、
簡単には決められなかった。
ガソリン価格は、
補助金でならされた。
電気代も、
少しだけ痛み止めが打たれた。
石油備蓄も使われた。
ニュースでは、
「当面の供給に
問題はありません」
という言葉が繰り返された。
ゆづきは言った。
「それ、だましじゃん」
僕は首を振った。
「だましの時もある。
でも、
麻酔の時もある」
「麻酔?」
「手術する時、
いきなり腹を切られたら
死ぬじゃろ」
「まあね」
「国も同じじゃ。
痛みを
全部そのまま見せたら、
国民が先に気絶する」
「でも知らないと
危ないじゃん」
「そうじゃ。
じゃけえ難しい」
政治とは、
真実を言う仕事ではない。
真実で国民を壊さないように、
順番を決める仕事でもある。
もちろん、
それを悪用する
政治家もいる。
隠して、
先送りして、
責任を逃げる人もいる。
でも、
全部を一気に言えば
正直とは限らない。
戦国時代の村でも、
敵が近づいていると
聞いた瞬間、
村人が逃げ散れば
その社会は
終わってしまった。
米蔵を守る者。
水を汲む者。
子どもを隠す者。
情報を取りに行く者。
それぞれが
今まで通り動けるように、
言葉を配る必要がある。
僕はゆづきに言った。
「怖いニュースをそのまま渡すな。
若い心が折れる」
ゆづきは言った。
「じゃあ、どうするの?」
「炊き直すんじゃ」
「ニュースを?」
「そう。
石油の話を
米びつの話にする。
クラウドの話を
家の鍵の話にする。
エチレンの話を
弁当のふたの話にする」
「池上彰さんみたい」
「そうじゃ。わしは
ふるさとの池上彰を目指す」
「だいぶ無理ある」
「うるさい。
池上さんも
最初は赤ちゃんじゃった」
ゆづきは笑った。
その笑いを見て、
僕は少し安心した。
怖い話の中に、
笑いが残っているうちは、
まだ村は燃えていない。
………
■第5章
ゆづきは言った。
「それ、
だまされてるだけじゃん」
ゆづきは、
僕の話をすぐには信じない。
それがいい。
若い子は、
疑う力を持っている。
僕らの世代は、
テレビが言えば信じた。
新聞に載れば信じた。
会社の上司が言えば信じた。
でもZ世代は違う。
「ソースは?」
「それ誰が得するの?」
「切り抜きじゃないの?」
「おじいちゃん、
それ陰謀論じゃない?」
僕はしょっちゅう、
孫に査読される。
ある日、
ゆづきは言った。
「おじいちゃんの話って、
結局、
日本人は知らない方が
幸せってこと?」
「半分違う」
「半分?」
「知らないことで
守られることはある。
でも
知らないままでは、
守れないこともある」
「どっちなの?」
「風呂と同じじゃ」
「風呂?」
「熱湯をいきなり浴びたら
飛び上がる。
ぬるま湯に入っていたら
気づかず茹でガエルになる。
でもな…」
「でも?」
「寒い日に、
ちょうどええ湯に入るのは
幸せじゃろ」
ゆづきは、
少し黙った。
「茹でガエルって、
悪口みたいに
使われるよね」
「そうじゃ。
でも、
ぬるま湯には
ぬるま湯の役目がある」
「役目?」
「体を急に壊さんことじゃ」
現代人は、
すぐに目覚めろと
言う。
危機感を持てと
言う。
怒れと
言う。
立ち上がれと
言う。
でも人間は、
そんなに強くない。
朝から晩まで
世界の危機を見続けたら、
たいていの人は
立ち上がる前に
布団から出られなくなる。
だから僕は思う。
必要なのは、
熱湯ではない。
冷水でもない。
少しずつ温度を知ること。
そして、
自分で火を弱める
知恵を持つこと。
ゆづきは言った。
「じゃあ、
茹でガエルでいる方が
幸せなこともあるってこと?」
「そうじゃ。
ただし」
「ただし?」
「鍋の外に出る階段だけは、
見つけておかんといけん」
「それ大事じゃん」
「大事じゃ。
じゃけえ、わしは小説を書く」
「階段として?」
「そう。
わしの小説は、
鍋のふちに立てかける
割り箸じゃ」
「弱そう」
「割り箸を馬鹿にするな。
弁当文化を支えとる」
ゆづきは笑った。
僕も笑った。
世界はかなり危なかった。
でも、笑いながら
危機を話せるうちは、
まだ間に合う。
………
■第6章
じいちゃんは法隆寺の話をした
日本は、
石の国ではない。
木の国だ。
ヨーロッパの城は、
石でできている。
頑丈で、
重くて、
壊れない。
でも一度割れると、
ひびは深い。
日本の寺は、
木でできている。
燃える。
腐る。
虫に食われる。
地震で揺れる。
でも、
直せる。
替えられる。
継ぎ足せる。
法隆寺は、
千年以上の時間を、
まっすぐ勝ったのではない。
修理しながら残った。
傷んだ柱を替え、
屋根を直し、
瓦を替え、
人の手を入れながら残った。
僕はゆづきに言った。
「日本の政策にも、
法隆寺みたいなところがある」
「それ、褒めてるの?」
「半分褒めとる」
「半分は?」
「半分は、呆れとる」
日本は先送りが得意だ。
ガソリンも補助金でならす。
金利も急に上げない。
痛みを一気に出さない。
問題を棚に上げる。
でも、
棚に上げたおかげで
今日の生活が続くこともある。
もちろん、
棚が重くなりすぎれば
いつか落ちる。
でも、
棚を少しずつ補強しながら
時間を買うこともできる。
これが
日本型の不思議な生存術だ。
ゆづきは言った。
「それって、
いいの?
悪いの?」
「使い方次第じゃ」
「便利な言い方」
「だいたい人生は使い方次第じゃ」
法隆寺は、
何も変えなかったから
残ったのではない。
変えすぎなかったから
残った。
ここが大事だ。
全部壊して
新築にするのではない。
全部そのまま
放置するのでもない。
傷んだところだけ、
静かに替える。
日本は、
それが得意だった。
ただし令和の問題は、
傷んでいるところが
見えにくくなったことだ。
石油は
海の向こう。
クラウドは
米国企業。
半導体は
台湾と韓国。
樹脂は
ナフサ。
決済は
スマホ。
AIは
データセンター。
見えない柱が増えすぎた。
だから僕は、
見えない柱に
名前をつけることにした。
怖い名前ではなく、
暮らしの名前で。
エチレンは
弁当のふた。
クラウドは
家の鍵。
石油備蓄は
米びつの奥。
AIは
二本目の鉛筆。
そうすれば、
ゆづきにも届く。
………
■第7章
ヨーロッパは
石の家で怒っていた
一方、
ヨーロッパは怒っていた。
暑かった。
本当に暑かった。
石でできた家は、
冬には強い。
歴史には強い。
見た目も美しい。
でも、
四十度の夏には弱い。
昼間に抱えた熱を、
夜まで離さない。
学校には
冷房がない。
電車にも
冷房がない。
古い建物には
室外機をつけるにも
許可がいる。
景観を守るため。
歴史を守るため。
町並みを守るため。
でもその結果、
子どもは暑い教室で
ぐったりし、
老人は石の部屋で
眠れず、
通勤電車は
熱い箱になった。
人間は、
眠れないと怒る。
暑いと怒る。
腹が減ると怒る。
電気代が上がると怒る。
そして、
一番近くにいる誰かを
責め始める。
移民。
難民。
政府。
EU。
環境政党。
隣人。
その怒りを、
極端な政治が拾う。
「環境より
命だ!」
「移民より
自国民だ!」
「EUより
家の冷房だ!」
この言葉は、
暑さで眠れない人には
とても分かりやすい。
僕はゆづきに言った。
「民主主義にも冷房がいる」
ゆづきは言った。
「また
名言っぽいこと言ってる」
「本気じゃ」
「冷房がないと
民主主義が壊れるの?」
「壊れる。
人間の脳は、
暑さと空腹と
睡眠不足に弱い」
「それ、
テスト前の私じゃん」
「じゃけえ、
ゆづきの部屋には
冷房とおにぎりが必要なんじゃ」
「おじいちゃん、
急に優しい」
「わしはいつも優しい」
「それはない(笑)」
日本は、
暑さには慣れている。
クーラーもある。
木の家も多い。
もちろん電気代は怖い。
でも、
ヨーロッパのように
冷房という
概念そのものが、
社会に遅れて入ってくる国とは
違う。
これは日本の強みだ。
ただし、
強みはいつも
油断の入口にもなる。
クーラーがあるから
大丈夫。
島国だから
大丈夫。
暴動がないから
大丈夫。
そう思った瞬間、
日本は別の鍋で茹でられる。
………
■第8章
ドイツの城門の鍵は
カリフォルニアにあった
ドイツは、
自動車の国だった。
ベンツ。
BMW。
アウディ。
フォルクスワーゲン。
エンジン音は、
ドイツの誇りだった。
でも時代は変わった。
車は、
スマホの親戚になった。
電池。
ソフト。
AI。
クラウド。
自動運転。
アプリ。
アップデート。
中国EVは
安くて速い。
アメリカは
クラウドとAIを握る。
ドイツは
立派な車体を作る。
でも、
その車の神経系は
別の国が握り始めた。
それだけではない。
ドイツの行政も、
銀行も、
病院も、
企業も、
米国クラウドに
深くつながっている。
データセンターが
欧州にあっても、
管理画面の鍵が
米国企業にあるかもしれない。
暗号鍵が、
米国法の影響下に
あるかもしれない。
契約を止めるボタンが、
カリフォルニアに
あるかもしれない。
僕はゆづきに言った。
「昔の城は、
門の鍵を誰が持つかが
大事だった」
「今は?」
「ログイン権限じゃ」
「地味に怖い」
「そう。
地味なものほど怖い」
戦国時代なら、
敵に城門を開けられたら
終わりだった。
令和なら、
クラウドの管理権限を
止められたら終わる。
メールが開かない。
決済が止まる。
行政システムが止まる。
病院の予約が止まる。
銀行の照会が止まる。
AI警察を動かそうとしても、
そのAIが外国製。
国民を守るために使った
監視システムが、
別の国のクラウドに
乗っている。
これは、
かなり怖い。
ゆづきは言った。
「じゃあ
日本も同じじゃん」
「そうじゃ」
「なんで
そんな冷静なの?」
「冷静な
ふりをしとるだけじゃ」
「おじいちゃんも怖いの?」
「怖い。
じゃけえ
笑いながら話しとる」
怖い話を怖い顔で話すと、
人は逃げる。
怖い話を笑いに炊き直すと、
少しだけ聞ける。
戦国時代の
優しいお坊さん手紙も、
きっとそうだったのだと
思う。
難しい教えを、
村人が聞ける言葉に変えた。
令和の僕も、
それを真似しているだけだ。
………
■第9章
日本は知らないまま
昼ごはんを食べた
「日本人は、
何も知らないまま
今日も
昼ごはんを食べている」
これは悪口ではない。
むしろ、
すごいことかもしれない。
海外では、
燃料が上がると
デモが起きる。
電気代が上がると、
道路が封鎖される。
移民問題で
街が荒れる。
年金改革で
炎が上がる。
でも日本では、
多くの人が
「高いなあ」と言いながら
スーパーで値札を見る。
「また上がったなあ」
と言いながら
レジへ行く。
「政治家は何しとんじゃ」
と言いながら
家に帰って味噌汁を飲む。
怒らない。
いや、
怒ってはいる。
でも街を燃やさない。
これは弱さでもある。
でも、
強さでもある。
ゆづきは言った。
「それ、
ただ我慢してるだけじゃん」
「そうじゃ。
でも我慢にも種類がある」
「種類?」
「壊れる我慢と、
時間を稼ぐ我慢じゃ」
日本は、
時間を稼ぐのがうまい。
島国だった。
外敵が入りにくかった。
鎖国もした。
外の情報を
全部は入れなかった。
その間に、
内側の文化が育った。
もちろん、
知らないことで
遅れたこともある。
だまされたこともある。
変われなかったこともある。
でも、
知らなかったから
壊れずに済んだこともある。
僕自身がそうだった。
若い頃、
もし病院で
強い病名をつけられていたら、
僕はその言葉で
終わっていたかもしれない。
でも知らなかった。
知らなかったから、
普通の人のふりをして、
三十八年、
証券会社で働いた。
頑張った。
空回りもした。
怒られた。
でも生き延びた。
知らないことは、
時に人を守る。
ただし、
知らないままでは
次の時代へ渡れない。
だから今、
僕は知り始めたことを
小説にしている。
Z 世代に渡すために。
………
■第10章
戦国時代の村は、
情報で飢えていた
戦国時代の村人は、
情報で飢えていた。
どこの大名が
勝ったのか?
次に兵が
来るのか?
年貢は
どうなるのか?
米は
守れるのか?
家族は
逃げるべきか?
村は
誰を信じればいいのか?
中央の力が弱まり、
武士が争い、
商人が動き、
寺が人を集め、
村が自分たちで
生き延びなければならなかった
時代。
その時、
必要だったのは
難しい理屈ではない。
村人が聞ける
言葉だった。
不安で眠れない人が、
朝もう一度鍬を持てる
言葉。
怒りで燃えそうな人が、
隣人を殴らずに済む
言葉。
自分だけ助かろうとする人が、
米を少し分けようと思える
言葉。
そういう言葉が、
村をつないだ。
僕は名前を出さずに、
ゆづきへ話した。
「昔な、
戦乱の時代に、
難しい教えを
やさしい手紙に
変えた人がおった」
「誰?」
「それは後でええ」
「出た。
おじいちゃんの引っ張り」
「小説家は
引っ張るんじゃ…」
「まだ
小説家名乗るの早い!」
「投稿しとるから
小説家じゃ…」
「PV少なくても?」
「うるさい。
PVは救命浮輪の数じゃ…」
「また名言風」
僕は笑った。
でも心の中では、
その人のことを考えていた。
戦国の時代に、
村人へ手紙を書き続けた人。
難しい教えを、
暮らしの言葉にした人。
気づけば、
その言葉は多くの人に読まれ、
聞かれ、
受け継がれていった。
僕は坊さんではない。
元証券マンだ。
でも、
危機の時代に
言葉を
やさしく炊き直すという
意味では、
お坊さんと
同じ方向を
向けるかもしれない。
………
■第11章
一通の手紙が、
村の空気を変えた
一通の手紙で、
村が変わることがある。
大げさに
聞こえるかもしれない。
でも、
人間は言葉で動く。
「危ないぞ!」
だけでは、
人は固まる。
「大丈夫だ!」
だけでは、
人は油断する。
必要なのは、
「怖いけれど、
今日これをしよう…」
という言葉だ。
戦国時代の村人も、
令和のZ世代も、
本当は同じだ。
難しい解説を
聞きたいのではない。
今日、
自分がどう動けばいいかを
知りたい。
僕は考えた。
「令和の手紙とは何か?」
紙ではない。
スマホだ。
SNSだ。
小説投稿サイトだ。
LINEだ。
家族のグループチャットだ。
でも、
ただ情報を流せばいい
わけではない。
怒りを流すのではなく、
水路を掘る。
不安をあおるのではなく、
米びつを見せる。
正しさを押しつけるのではなく、
一緒に考える。
僕は、
自分の小説の役目を
少しだけ理解した。
これは、
世界を救う文章ではない。
一人の若い子が、
今日のニュースを見て
少しだけ
落ち着くための文章だ。
一人の読者が、
「怖いけど、米を炊こう」
と思える文章だ。
それで十分だ。
村は、
一人ずつ残る。
………
■第12章
じいちゃん通信、第一号
その夜、
僕はスマホで文章を書いた。
タイトルは、
「じいちゃん通信、第一号」
ゆづきが言った。
「ださ!」
「わざとじゃ…」
「本当に?」
「少し本当じゃ…」
僕は書いた。
………
✲じいちゃん通信、第一号。
ホルムズ海峡が詰まった。
でも、
すぐに世界が
終わるわけではない。
日本には備蓄がある。
政府は補助金で
痛みを少しずつならしている。
それは先送りでもある。
でも、
先送りは全部悪ではない。
法隆寺も、
柱を替えながら残った。
大事なのは、
知らないまま
眠ることではない。
知りすぎて
壊れることでもない。
壊れない量だけ知ること。
今日できることは、
三つ。
・米びつを見る。
・スマホ決済だけに頼らず、
少し現金を持つ。
・怒りそうになったら、
まず水を飲む。
以上。
世界は大きい。
でも、
今日の台所も大きい。
………
ゆづきは読んで、
少し笑った。
「水を飲むって何?」
「怒りはだいたい
脱水と寝不足で増える…」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶんで
通信書かないで」
「小説じゃからええ」
「便利な言い訳」
でもゆづきは、
その文章を消さなかった。
「これ、
友達に送ったら
笑われるかな?」
「笑われたら成功じゃ」
「なんで?」
「怖い話で笑えたら、
その子は
まだ壊れてない」
ゆづきは、
少し黙ってから言った。
「じゃあ送る」
その瞬間、
僕は思った。
一通の手紙は、
村の空気を変えるかもしれない。
令和の村は、
スマホの中にある。
………
■第13章
怒りは燃料、言葉は水路
怒りは燃料だ。
よく燃える。
すぐ燃える。
でも、
燃やすだけでは
村は残らない。
戦国時代も、
民衆の怒りは
大きな力になった。
でも怒りは、
方向を間違えると
隣の家を焼く。
令和も同じだ。
ガソリンが高い。
米が高い。
電気代が高い。
給料が上がらない。
家賃が高い。
学校が暑い。
病院が混む。
ニュースは怖い。
SNSは怒っている。
すると人間は、
いちばん近い誰かを
責め始める。
移民。
老人。
若者。
政府。
外国。
店員。
隣人。
でも、
本当の敵は
そんなに単純ではない。
海峡が詰まり、
船が遅れ、
保険が上がり、
樹脂が足りず、
電気代が上がり、
人手が足りず、
睡眠が削られ、
脳が疲れ、
怒りだけが残る。
僕はゆづきに言った。
「怒りは燃料じゃ」
「じゃあ
使えばいいじゃん」
「使い方を間違えると
爆発する」
「じゃあどうするの?」
「水路を掘る」
「また比喩」
「比喩は
心の用水路じゃ…」
「それ、ちょっといい…」
怒りを消す必要はない。
怒りには、
正しい成分もある。
不公平に怒る。
嘘に怒る。
弱い者いじめに怒る。
それは大事だ。
でも怒りをそのまま投げると、
人を傷つける。
だから言葉で水路を作る。
「なぜ
怒っているのか?」
「本当は
何が怖いのか?」
「今日できることは
何か?」
「誰と
つながればいいのか?」
この水路がない社会は、
熱波の中で燃える。
水路がある社会は、
怒りを畑へ流せる。
怒りは、
村を焼く
火にもなる。
未来を育てる
水にもなる。
………
■第14章
知らない国から、
少しだけ知る国へ
僕は、無知を
ほめたいわけではない。
知らないままでいい、
と
言いたいわけでもない。
知らないことで
守られる時間はある。
でも、
知らないままでは
次の船を待てない。
知らないままでは
備蓄もできない。
知らないままでは
クラウドの鍵が
誰の手にあるか分からない。
知らないままでは
米びつが空になるまで
気づけない。
大事なのは、
知り方だ。
一気に知ると
壊れる。
全く知らないと
だまされる。
だから、
少しずつ知る。
怖い言葉を、
暮らしの言葉へ変える。
ホルムズ海峡は、
ガソリンスタンドの列。
エチレンは、
弁当の白いトレー。
デジタル主権は、
家の鍵。
備蓄は、
米びつの奥。
AIは、
二本目の鉛筆。
こうして、
世界を台所まで引き寄せる。
ゆづきは言った。
「おじいちゃんの小説って、
ニュースの翻訳なんだね」
「そうじゃ」
「でも
普通の翻訳じゃない」
「何に見える?」
「怖いニュースを、
おにぎりにしてる感じ」
僕は笑った。
「それ最高じゃ」
怖いニュースを、
おにぎりにする。
それは、
僕がやりたかったことかも
しれない。
おにぎりなら、
若い子も
持っていける。
通学の途中でも
食べられる。
冷めても
食べられる。
誰かに
分けられる。
戦国時代の手紙も、
きっとそうだった。
難しい真理を、
村人が噛める大きさにした。
令和の小説も、
そうありたい。
………
■第15章
五年後、ゆづきが
手紙を書く番になった
五年後。
僕は72歳になっていた。
世界は、
まだ完全には
落ち着いていなかった。
ホルムズ海峡は、
開いた
り閉じたりしていた。
石油は、
表の道と裏の道を
行き来していた。
エチレンは、
高くなったり
安くなったりを
繰り返した。
ヨーロッパでは、
熱波のたびに
冷房と移民と環境政策が
政治問題になった。
アメリカのデジタル企業は、
さらに大きくなった。
日本は相変わらず、
先送りしながら、
補修しながら、
なんとか暮らしていた。
法隆寺のように。
ある日、
ゆづきが
僕にスマホを見せた。
「これ、読んで」
そこには、
ゆづきが書いた文章があった。
タイトルは、
「ゆづき通信、第一号」
僕は笑った。
「ださ!」
ゆづきは言った。
「おじいちゃんに
言われたくない(笑)」
僕は読んだ。
………
✲ゆづき通信、第一号。
怖いニュースを見たら、
すぐ怒らないでください。
まず水を飲んでください。
それから、
米びつを見てください。
次に、
誰か一人に連絡してください。
世界は大きすぎます。
でも、
今日の台所は
自分で守れます。
知らないことは、
悪いことではありません。
でも、
少しだけ知ってください。
知りすぎて
壊れそうになったら、
誰かの言葉を借りてください。
昔、
おじいちゃんが
言っていました。
小説は、
答えではない。
次に誰かが書くための、
鉛筆だ。
………
僕は、
画面が少しにじんで見えた。
年のせいか。
涙のせいか。
たぶん、
両方だった。
僕は言った。
「ゆづき」
「何?」
「わしの負けじゃ」
「急に何?」
「もう、お前の方がうまい」
ゆづきは笑った。
「じゃあ、じいちゃんは引退?」
「しない」
「なんで?」
「老人は、
負けてからが
しぶといんじゃ(哀)」
ゆづきは、
声を出して笑った。
その笑いを聞いて、
僕は思った。
一通の手紙は、
ちゃんと次へ渡った。
戦国時代、
村をつないだ言葉があった。
令和の日本にも、
スマホの中に
小さな村がある。
そこへ、
怖いニュースを
そのまま
投げ込んではいけない。
炊き直す。
握り直す。
おにぎりにして渡す。
それが、
僕の小説だった。
それが、
僕の老後だった。
それが、
僕の小さな天下補給だった。
………
❥Z世代のあなたへ
怖いニュースを見て、
すぐに強くならなくていい。
怒れなくても
いい。
全部を理解できなくても
いい。
世界は複雑すぎる。
ホルムズ海峡。
エチレン。
クラウド。
AI。
備蓄。
金利。
移民。
熱波。
こんな言葉を一気に浴びたら、
誰でも疲れる。
だから、
まず今日の台所を見てください。
米はあるか?
水はあるか?
スマホ以外の
連絡手段はあるか?
家族や友達に、
一人でも
連絡できる人はいるか?
そして、
怖いニュースを見た時は、
こう考えてください。
これは
自分を壊すための
情報ではない。
自分の暮らしを
少しだけ
整えるための情報だ。
知らないことは、
恥ではありません。
でも、
少しだけ知ることは、
未来への優しさです。
知ったことを、
誰かを責めるためではなく、
誰かを守るために
使ってください。
怒りは燃料です。
でも、
燃やすだけでは
村は残りません。
言葉で
水路を掘ってください。
あなたの一言が、
誰かの不安を少しだけ
冷やすかもしれません。
あなたのメモが、
五年後の誰かの
非常口になるかもしれません。
そして、
もし世界が怖くなったら、
おにぎりを食べてください。
それから、
一行だけ書いてください。
その一行が、
あなたの鉛筆になります。
………
★あとがき
ホームズとワトソンの
笑いの骨頂
――茹でガエルは
本当に悪者なのか――
ワトソン
「ホームズ、
今回の話は驚きましたな。
普通、
茹でガエルは
悪い例として出てきますぞ」
ホームズ
「ワトソン君、
そこが凡人の浅さだよ」
ワトソン
「出ましたな。
人を凡人扱いする名探偵」
ホームズ
「熱湯に飛び込むカエルと、
ぬるま湯で考えるカエル。
どちらが長く
作戦を立てられる?」
ワトソン
「そりゃ、
ぬるま湯の方ですな」
ホームズ
「そうだ。
問題は茹でガエルで
あることではない。
鍋のふちに
梯子があるかどうかだ」
ワトソン
「なるほど。
今回のおじいちゃんの小説は、
その梯子ですか」
ホームズ
「いや、
梯子というより割り箸だな」
ワトソン
「弱い!
めちゃくちゃ弱い!」
ホームズ
「しかしワトソン君、
日本文化を
甘く見てはいけない。
割り箸は弁当を支え、
うどんを持ち上げ、
時には人生までつまむ」
ワトソン
「人生を
割り箸でつまむんですか?」
ホームズ
「少なくとも、
フォークで
味噌汁は飲みにくい」
ワトソン
「話が急に
食卓へ戻りましたな」
ホームズ
「この小説の本質はそこだ。
世界危機を食卓へ戻すこと。
石油を米びつに、
エチレンを弁当のふたに、
デジタル主権を
家の鍵に変える」
ワトソン
「つまり
池上彰さん風ですな」
ホームズ
「いや、
ふるさとの池上彰風だ」
ワトソン
「かなりローカルですな」
ホームズ
「ローカルこそ強い。
戦国時代も、
天下国家より先に村があった。
村が残ったから、
国が残った」
ワトソン
「では、
今回のおじいちゃんは
令和の村役人ですか?」
ホームズ
「いや、
令和の手紙配達人だ」
ワトソン
「手紙?」
ホームズ
「怖いニュースを
そのまま投げず、
若者が持てる大きさに
握り直す。
これが今回の推理だ」
ワトソン
「握り直す?」
ホームズ
「おにぎりだよ」
ワトソン
「最後はおにぎりですか!」
ホームズ
「そうだ。
文明は最後、
おにぎりに戻る」
ワトソン
「ホームズ、
それは推理ではなく
空腹です」
ホームズ
「空腹を馬鹿にしてはいけない。
空腹の人間は
民主主義より先に
炊飯器を見る」
ワトソン
「名言なのか、
ただの夕飯前なのか
分かりませんな」
ホームズ
「どちらでもよい。
読者が笑って
米を炊いたなら、
この小説の勝ちだ」
ワトソン
「では結論は?」
ホームズ
「知らないことは、
時に人を守る。
だが、
少しだけ知ることは、
未来を守る」
ワトソン
「珍しくきれいに
締めましたな」
ホームズ
「ワトソン君、
たまには私も炊き上がる」
ワトソン
「ホームズが炊けましたぞ!」
ホームズ
「では最後に一言」
ワトソン
「どうぞ」
ホームズ
「怖いニュースを見たら、
まず水を飲み、
米びつを見て、
誰かに一通送れ」
ワトソン
「それが
令和の生き残り術ですな」
ホームズ
「そして忘れるな」
ワトソン
「何を?」
ホームズ
「茹でガエルにも、
風呂上がりの
牛乳くらいは必要だ」
ワトソン
「そこは
コーヒー牛乳でしょう!」
二人は笑った。
世界はまだ危なかった。
でも、
笑いながら危機を語れるうちは、
村はまだ燃えていなかった。
………
終わり




