帰ってこんものの正体 ――レモン炭酸水から始まる、透析三十三万人の国の話――
✦帰ってこんものの正体
――レモン炭酸水から始まる、
透析三十三万人の国の話――
………
人は、なくなったものに驚く。
ほんとうに怖いのは、
帰ってくるはずのものが、
静かに帰ってこん
ようになることじゃ。
………
❥あらすじ
スーパーの棚から、
いつものレモン炭酸水が
少しずつ
おかしくなり始める。
白いフタの色が違う。
ラベルが少し曲がっている。
値段が上がる。
67歳のおじいちゃんは、
その小さな違和感の奥に、
もっと大きなものを
見てしまう。
日本は原油の97.9%を
輸入に頼り、
中東依存は90%超。
日本の石油供給の
約95%は中東由来で、
その約70%が
ホルムズ海峡を通る。
2026年3月には
製油所稼働率が
69.1%まで
落ちた週もあった。
人は
「まだ在庫がある」と言う。
だけど文明は、
在庫でできているのではない。
行ったり来たりで
できている。
透明なペットボトル、
白いフタ、ラベル、果汁、
海運燃料、発泡スチロール、
手袋、点滴の袋、透析回路。
それらは全部、
遠い海の向こうから
何度も往復した末に、
ようやく日本の暮らしの中で
再会していた。
そして今、その再会が
少しずつ壊れ始めている。
この国には、
透析患者が337,414人いる。
施設は4,512。
患者の平均年齢は70.27歳。
炭酸水が消えるだけなら、
人は我慢できる。
しかし最後に泣くのは、
毎日それが要る人だ。
………
★目次
■第一章 いつもの
レモン炭酸水が
少し違って見えた朝
■第二章 一本のペットボトルは、
一本ではない
■第三章 サウジの油と、
見えないクラッカー
■第四章 帰ってきたけど、
次に行けない
■第五章 在庫という名の
浅い淀み
■第六章 透析三十三万人の国
■第七章 筏のたとえ
■エピローグ 白いフタが
消える前に
………
■第一章 いつもの
レモン炭酸水が
少し違って見えた朝
その朝、スーパーの棚には、
まだレモン炭酸水が並んでいた。
全部なくなっていたわけじゃない。
そこが、
かえって気持ち悪かった。
白いフタ。
透明なボトル。
黄色いラベル。
見慣れた並び方。
見慣れた冷たさ。
見慣れているということは、
ときどき何も見ていないのと
同じことだ。
67歳のおじいちゃんは、
一本ずつ、レモン炭酸水を
目でなぞるみたいに見た。
何かを探しているというより、
何かがもう失われていることを
確かめているような
目つきだった。
白いフタの色が
少し違っていた。
ラベルの貼り方が、
ほんの少しだけ
曲がっていた。
値札は前より
高くなっていた。
棚の奥は妙に暗く見えた。
若い店員が言った。
「また仕入れが
遅れとるだけですよ。
たかが
レモン炭酸水でしょう」
おじいちゃんは、
すぐには返事をしなかった。
ボトルを
一本持ち上げて、
春の光に透かした。
透明な容器の向こうに
店の奥が見えた。
それから、
もっと遠いものが
見えているみたいだった。
「たかが、か」
と彼は言った。
「これ、
日本の飲み物や
思うとるじゃろ」
若い店員は肩をすくめた。
「だって
日本の会社の
やつでしょう」
「最後に日本の顔を
しとるだけじゃ。
ほんまは、これは
世界の寄り合い所帯
なんよ」
■第二章 一本のペットボトルは、
一本ではない
彼はボトルを
平台の上に立てた。
まるで小さな塔を
建てるみたいに
丁寧な手つきだった。
「透明のボトル。
白いフタ。ラベル。
中に入っとるレモン。
炭酸。
人はそれをひとつの
飲み物だと思う。
でもほんまは違う。
これは、
いろんな場所から
来たものが、
たまたま一回だけ
ここで再会しとる
だけなんじゃ」
若い店員は黙っていた。
「中国でボトルに
なるかもしれん。
タイでフタに
なるかもしれん。
韓国でラベルに
なるかもしれん。
スペインで育った
レモンが
果汁になるかもしれん。
最後に日本で
それらを集めて、
炭酸を入れて、
一本の飲み物みたいな
顔をして棚に並ぶ。
でもそれは
完成やなくて、
長い旅の途中で、
少しだけ形を持ったと
いうだけのことなんよ」
おじいちゃんは少し笑った。
「行ったり来たり、じゃ」
その言葉は、
思っていたより静かに
空気の中へ沈んでいった。
「行ったり来たり。
原料が行ったり来たり。
部品が行ったり来たり。
船が行ったり来たり。
それでこの国は、
ずっと何事もない
顔をして生きとった」
■第三章 サウジの油と、
見えないクラッカー
「最初の一滴は、
日本の土から
湧いたもんやない」
と
おじいちゃんは言った。
「遠い海の向こうから
来る油じゃ」
日本は2023年時点で、
原油の97.9%を輸入に頼り、
中東依存は90%を超えとる。
Reutersは2026年3月時点で、
日本の石油供給の
約95%が中東由来で、
その約70%が
ホルムズ海峡を通ると整理しとる。
「サウジアラビア。
UAE。クウェート。
カタール。
そのあたりから来た原油が、
どこかでナフサになって、
クラッカーで割られて、
エチレンになる。
そこから先で、
ボトルになる。
フタになる。
ラベルになる。
そうやって、
わしらの暮らしの輪郭に
なっていく」
若い店員は黙って聞いていた。
ナフサとかクラッカーとか
エチレンとか、そういう言葉は、
この明るいスーパーの棚には
似合わなかった。
でも似合わないということと、
無関係だということは、
たぶん別の話だった。
「人はそんなこと知らんでも
生きてこられた。
レモン炭酸水のフタを
開ければ済んだからな。
その“知らんで済む幸せ”
の下に、
サウジの油も、
UAEの設備も、
見えん海の向こうの
プラントも眠っとるんよ」
■第四章 帰ってきたけど、
次に行けない
「問題は、
なくなることやない」
と
おじいちゃんは言った。
「帰ってこんことなんよ」
彼は、見えないものを
ひとつずつ並べるみたいに言った。
「帰ってこん。
帰ってきたけど、次に行けん。
行ったけど、向こうで作れん。
作ったけど、運べん。
船はあるけど、
燃やす油が足りん。
港へ着いたけど、
次の便が出ん。
工場はあるけど、
クラッカーが止まっとる」
2026年3月、
日本の製油所稼働率は
69.1%まで落ちた週があり、
前週の77.6%から下がった。
ガソリン在庫は約10%減、
灯油は12%減、
ジェット燃料は3%減、
軽油は1%減だった。
Reutersは、
アジアの精製・石化企業が
中東由来原料の乱れで
減産や停止に
追い込まれたとも報じた。
「クラッカーは厄介じゃ。
止まったら
すぐには戻らん。
再起動に時間がかかる。
平時にはコスパがええ。
有事には、
それが逆向きに働く」
若い店員は、
もはやレモン炭酸水の棚を
見ていなかった。
その向こうの海を
見ようとするみたいな
顔をしていた。
■第五章 在庫という名の
浅い淀み
「人は
“まだ在庫がある”と言う」
と
おじいちゃんは言った。
「でも在庫いうもんは、
止まった世界を
支える山やない。
流れとる川の途中で、
たまたまできた
浅い淀みみたいなもんじゃ」
彼は少し間を置いた。
「流れが細れば、
先に淀みが消える」
日本の石油備蓄は大きい。
Reutersは2026年3月、
日本の緊急石油備蓄を
254日分と整理し、
内訳は国家146日、
民間101日、
共同備蓄7日としている。
一方で、
日本のエネルギー自給率は
2022年度で12.6%にとどまる。
数字は大きく見えても、
依存構造そのものは
変わっていない。
「人は数字を聞くと安心する。
でも数字は、ときどき
安心の顔をした
時限装置みたいなもんなんよ」
スーパーの奥で
段ボールを開ける音がした。
その音は何かの始まりではなく、
何かの残り時間
を数えている音みたいに聞こえた。
■第六章 透析三十三万人の国
「怖いんは、
炭酸水がなくなることやない」
と
おじいちゃんは言った。
「炭酸水だけなら、
人は我慢できる。
ほんまに怖いんは、
その先じゃ」
彼は、見えない棚に
物を置くように、
ゆっくりと言葉を置いた。
「発泡スチロール。
包装フィルム。
食品トレー。
手袋。
点滴の袋。
点滴の管。
透析の回路。
そういうもんが、
静かに薄くなっていく」
それから
逃げ道のない数字を置いた。
2024年末時点で、
日本の透析患者は337,414人、
透析施設は4,512施設、
患者の平均年齢は
70.27歳だった。
血液透析濾過(HDF)患者
だけでも213,721人にのぼり、
腹膜透析は10,774人にとどまる。
大半は、
施設と機械と
回路と薬と物流が、
今日も明日も止まらんことを
前提に生きとる。
若い店員は目を上げた。
その数字の大きさに驚いたのか、
その数字がこの白いフタのついた
レモン炭酸水と
つながっていることに驚いたのか、
たぶん自分でも
まだよくわかっていなかった。
「この国には、
三十三万人以上の人が、
“次も届く”ことを前提に、
今日を生きとる。
その人らにとって、
行ったり来たりは
経済やない。
命そのものなんよ」
■第七章 筏のたとえ
その時、
おじいちゃんはふいに、
昔聞いた話を
思い出すように目を細めた。
「お釈迦様は、
向こう岸へ渡るための
筏のたとえを話された。
今の世なら、
その筏は木でできとらん」
彼はゆっくりと言った。
「ボトルの筏。
フタの筏。
ラベルの筏。
燃料の筏。
薬の筏。
点滴の筏。
透析の筏。
そういうもんが、
向こう岸とこっち岸を
ずっと
行ったり来たりしながら、
わしらを渡しよったんよ」
それから、ほんの少し黙った。
「ところが今、
帰ってこん筏が出た。
帰ってきたけど、
次に行けん筏も出た。
荷物を積んどるのに、
動かす油がなくて
止まった筏もある。
村の者は最初、笑う。
まだ倉に残っとると
言うてな。
でも、村を支えとるんは
倉の大きさやない。
帰ってくることなんよ。
また行けることなんよ。
その繰り返しだけなんよ」
若い店員は、
一本のレモン炭酸水を
見ていた。
それはもう、
どこにでもある
安い飲み物には見えなかった。
透明な容器の中に、
見えない海路と、
見えない港と、
見えない工場と、
見えない病院の棚が、
薄く幾重にも
折りたたまれているように
見えた。
■エピローグ
白いフタが消える前に
その夜、67歳のおじいちゃんは、
空になったレモン炭酸水の
ボトルを洗って、
台所の窓辺に立てた。
昨日までなら、
ただの空き容器だった。
でも、
その夜だけは違った。
サウジの油。UAEの設備。
ナフサ。クラッカー。
エチレン。ボトル。
フタ。ラベル。果汁。
港。船。燃料。
そして病院へ
向かうはずだった袋と管。
その全部が、
一本の透明な空っぽの中で、
帰る場所を失ったみたいに、
静かに立ち尽くしている
ように見えた。
おじいちゃんは
窓の外の闇を見ながら、
小さくつぶやいた。
「この国を支えとったんは、
物の多さやなかった。
帰ってくることじゃった。
また行けることじゃった」
しばらくして、
彼はもう一度だけ言った。
「炭酸水が消えるだけなら、
人は我慢する。
けれど最後に泣くんは、
毎日それが要る人じゃ」
数日後、スーパーの棚には
またレモン炭酸水が並んでいた。
数は少なかったけれど、
まるで何事もなかったみたいな
顔で並んでいた。
人はそういう顔を見ると
安心する。
世界も、ときどき
何事もなかった
みたいな顔をする。
でも、
何事もなかった顔をしている
ものほど、ときどき怖い。
白いフタは
前と少し違っていた。
ラベルの色も、
ほんの少しだけ薄かった。
それに気づく人は
あまりいなかった。
遠くの海では、
今日もどこかの船が
向こう岸へ向かっていた。
別のどこかでは、
もう戻ってこない船もあった。
誰にも見えない場所で、
行ったり来たりの
地図は少しずつ
書き換えられていた。
病院の透析室では、
いつものように
機械が並んでいた。
管の中を液が流れ、
規則正しい音がしていた。
そこにいる人たちの多くは、
スーパーのレモン炭酸水の
白いフタのことなど知らない。
知る必要もなかった。
本来なら、
知らなくていいことだった。
でも、
その「知らなくていい」
ということそのものが、
もう長くは続かない
のかもしれなかった。
ほんとうに怖いことは、
たいてい音を立てない。
それは爆発ではなく、
空白としてやって来る。
棚の奥の少し暗い隙間とか、
前よりほんの少しだけ
薄くなったラベルとか、
そういうかたちでやって来る。
そして気づいたときには、
もうそれなしでは
生きていけない人のところまで、
静かに届いている。
窓辺の空のレモン炭酸水は、
その夜もまだ立っていた。
細くて、透明で、
ひどく頼りなかった。
でも、あの国そのものも、
案外あれと同じくらい
頼りないものの上に
立っていたのかもしれなかった。




