●第一部『環』 四章-卒業
●第一部『環』 四章-卒業
病院の受付は、相変わらず静かだった。白い壁に囲まれた室内には窓が一つもなく、外から入った時には頭上にあった明るい空も、扉が閉まればどこにも見えない。天井に埋め込まれた照明が受付台と磨かれた床を均一に照らし、その向こうには同じ白い壁に挟まれた廊下が、角を曲がりながら病棟の奥へ続いている。
環が受付へ近づくと、中にいた女性が顔を上げた。
「こんにちは」
「あら、こんにちは。今日も面会ですね」
「はい」
環は軽く頭を下げたあと、すぐにはオーブへ手を伸ばさなかった。
「今日、士官学校を卒業しました。来週から正式に軍務に就くので、しばらく来られません」
受付の女性が少し目を見開いた。改めて環の式典用の制服を見て、表情をやわらげる。
「そうですか、おめでとうございます」
女性は小さく頷いた。
「それで、帰りに手続きしたいことがあって」
「あ、分かりました。お帰りの時に、もう一度こちらへ声をかけてください」
受付台の上に浮かんでいた乳白色のオーブへ環が指先で触れると、淡い光が球面を走り、いくつかの項目が滑るように入れ替わった。面会先を選ぶと、中央にオフェリア・シェリカの名前が表示される。その下へすぐに細かな文字が何段も現れた。
『面会中は病院職員の指示に従うこと。許可されていない物品を患者へ渡さないこと。患者、他の入院者または施設設備へ損害を与えた場合には、状況に応じて面会者側にも責任が生じること。患者の病状その他の事情によって予測の難しい行動や事故が起こる可能性を理解したうえで入室すること』――。
病棟内での免責文が、画面を送っても送っても続いている。
環は上から数行を目で追うと、指を滑らせた。何度も見ている文章が次々に上へ消え、最後に署名欄が現れる。そこへ人差し指を置き、そのまま動かすと、青白い線が軌跡を追って叶生環の文字を作った。
「はい。確認できました」
オーブの中央に小さな青い印が灯って消えた。
「中へどうぞ」
「ありがとうございます」
環が受付を離れると、案内の看護師が廊下へ出た。環もその後へ続く。靴音が硬い床へ一定の間隔で響き、受付で交わされていた声は角を一つ曲がるだけでほとんど聞こえなくなった。
白い壁。同じ形の扉。窓のない廊下。途中で何人かの職員とすれ違い、環はそのたびに軽く頭を下げた。しばらく進んだところで看護師が一つの扉の前に立ち、壁のオーブへ手をかざす。短い電子音のあと、一枚目の扉が横へ滑った。
環が中へ入り、背後の扉が閉じる。少しの間を置いて二枚目の錠が外れた。
「帰る時は中のオーブから呼んでくださいね」
「はい」
二枚目の扉が開いた。環はすぐ内側の低い靴箱の前で靴を脱ぎ、空いている場所へ揃えて入れる。室内へ上がり、顔を上げた。
部屋の中央に、小柄な女性が一人立っていた。
淡いピンク色と水色に囲まれた室内で、白い病院服だけが柔らかな照明を受けて浮かんでいる。長い髪が肩から胸元へ流れ、裸足の足元には淡い色の丸いラグが広がっていた。片腕には小さなぬいぐるみを抱いている。
オフェリアは環が入ってきても動かなかった。ぬいぐるみを抱いたまま、玩具棚の方を見て静かに立っている。
「こんにちは」
環が声をかけた。
オフェリアがゆっくりと振り向いた。止まっていたような顔に、ふわりと笑みが広がる。
「まあ、王子様。こんにちは」
「こんにちは」
オフェリアは嬉しそうに笑ったまま、裸足で環の方へ歩いてきた。環の前まで来ると、ぬいぐるみを抱いていない方の手を胸元へ添える。
「お茶をお出ししますね」
そう言って、いつものように小さなテーブルへ向かっていく。
環もその後へ続いた。
部屋の中は、以前とほとんど変わっていなかった。丸みのある玩具棚には大小さまざまなぬいぐるみが並び、本や紙が重ねられ、低いテーブルの一席には、ふくらんだドレスを着て帽子を被った紫色の猫のぬいぐるみが置いてある。
子供の頃には何も考えず座っていた椅子へ腰を下ろすと、座面は身体に対して驚くほど小さい。膝をそのまま前へ向ければ低いテーブルの縁に当たり、脚が下へ収まらなかった。環は少し腰を引き、両脚を斜めに外へ逃がす。そのまま何も言わず、昔と同じ席へ座った。
オフェリアは向かいへ座る前に、紫色の猫へ顔を向ける。
「今、アヤメ夫人がいらっしゃっているの。ご一緒してもいいかしら」
「構いませんよ」
オフェリアは棚から淡いピンク色の玩具のティーポットと、小さなカップを持ってきた。縁には黄色と白の小さな花が描かれている。環の前、猫のぬいぐるみの前、自分の前へ順番にカップを置き、最後にティーポットを傾けた。
オフェリアは一つ目のカップへ充分に注いだようにポットを起こし、次へ移る。環はその手元を見ていた。細い手首が白い袖口から覗き、以前より骨の形が少しはっきりして見える。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
環は小さなカップを持ち上げた。成人した環の手の中では、カップは以前よりさらに小さく見えた。
オフェリアも自分のカップを持ち、口元へ近づけた。
「少しお痩せになりました?」
環がそう言うと、オフェリアはカップを持ったまま、わずかに首を傾げた。
「そうですか?」
「はい」
環がそう答えると、オフェリアは自分の頬へ指先で触れたが、それ以上気にする様子もなく、また楽しそうにカップをテーブルへ戻した。
「今日はどの絵本を読もうかしら?」
昔と同じ声だった。
環は小さなカップを指先で持ったまま答える。
「今日はお話をしましょう」
「まあ。どうぞ」
オフェリアは笑って、両手を膝の上へ重ねた。
「今日、士官学校を卒業しました」
「それは、おめでとうございます、王子様」
小さく拍手をして、オフェリアは明るく微笑んだ。
「ありがとうございます。来週から宇宙へ出ます。しばらく地球へは戻れないので、次に会うのはずっと先になります」
オフェリアは頷きながら、環の顔をじっと見ている。
「『亥電』という艦の副艦長になります。卒業してすぐ副艦長になるのは、僕が初めてだそうです」
オフェリアは両手で口元を押さえ、驚いたように笑顔で目を見開いた。
「素晴らしいですね」
オフェリアがそう言うと、環は少し微笑んだ。オフェリアの表情は明るく、本当に嬉しそうな笑顔だった。
環はその笑顔をしばらく見てから、「昔、一緒に来た僕の友達を覚えていますか?」と尋ねた。
「お友達ですか?」
オフェリアは少し考えるように目を上へ向けたあと、ぱっと立ち上がった。
「ええ。覚えていますよ」
壁際の棚へ歩いていき、並んだぬいぐるみの中から一際大きな茶色い熊を一体取り出す。両腕で抱えて戻ってくると、環へ向けて顔を見せた。
「確か、こんな顔でした」
ふわふわの丸い耳と黒い鼻のついた熊を見て、環の口元が少し緩んだ。
「確かに似ています」
オフェリアも嬉しそうに笑い、熊を空いている椅子へ座らせた。
「彼も一緒に『亥電』に来ます。パイロットになって。僕が同じ艦に配属してほしいと希望を出したら、通りました」
環は組んだ膝の上に両手をのせて、ゆっくりと話した。
「全部、彼のおかげなんです。子供の頃の僕は将来のことを何も考えていなかった。彼は僕にたくさんのことを教えてくれた。だからとても感謝しています」
茶色い熊は小さな椅子の上で正面を向いている。環はその顔を見てほんの少し笑った。
「自分の行く場所を選べるのも、彼の配属を希望できたのも、彼のおかげです」
「素敵なお友達なのね」
「はい」
オフェリアは熊の頭をそっと撫で、その仕草を環は穏やかに見ていた。
少しの間、何も言わなかった。
環は姿勢を少し変えて、オフェリアの方へ顔を向けた。
「それから…僕は運命の人を見つけました」
オフェリアの目が大きく開いた。
「まあ…!」
次の瞬間には、口元いっぱいに笑みが広がっていた。
「王子様、運命の人を見つけたのね!」
「はい。でも今はまだ、ここへ連れては来られません」
「いつかきっと私に会わせてくださいね」
環は頷いた。
「はい…きっと」
オフェリアは満足したように微笑み、紫の猫のぬいぐるみの方へ顔を向けた。
「よかったですね、アヤメ夫人。お聞きになりましたか。王子様が、運命の人を見つけたんです」
紫色の猫に嬉しそうに話し掛けるオフェリアを、環は何も言わず、小さな椅子に腰かけたまま見ていた。
「そろそろ帰ります」
環と一緒にオフェリアも立ち上がった。
「次にお会いできるのは少し先になります」
「そうでしたね。またお会いしましょう、王子様」
「はい」
環が靴箱の方へ向かうと、オフェリアも数歩ついてくる。環は靴を履き、室内のオーブへ触れた。
振り返ると、オフェリアは片腕に小さなぬいぐるみを抱き直していた。
錠の外れる音がして、扉が開いた。外側には看護師が待っている。
環はオフェリアの方を向いて軽く礼をした。オフェリアは部屋の中央でまっすぐに立ち、笑顔で小さく手を振っていた。
環が廊下へ戻ると、扉の横にあったオーブの光はすぐに消えた。環は看護師と並んで受付へ戻り、来た時と同じ白い廊下を歩いた。
受付の女性は環を見ると、先ほどの話を覚えていたようで椅子から少し身体を起こした。
「お帰りなさい。手続きでしたね」
「はい。お願いします」
女性が通常の面会用とは別の画面をオーブへ呼び出した。環は説明を聞きながら、示された項目を順に確認する。いくつかの欄に指先で触れ、最後にもう一度、叶生環と署名した。
「ありがとうございました」
「お気をつけて」
受付の女性に環は軽く頭を下げ、歩き出した。病院の外扉が開く。白い室内から一歩外へ出た途端、明るい光が視界いっぱいに広がった。空はまだ高く、青い。風が制服の裾を揺らし、建物の外を行き交う人の声や、遠くを走る車両の音が一度に戻ってきた。環はほんの少し目を細め、頭上を流れていく雲を眺めた。
懐かしい児童院の門は、昔とほとんど変わっていなかった。
環は門の前で一度足を止めた。白に近い灰色だった建物は、記憶の中より少しくすんで見える。壁そのものは綺麗に手入れされているが、窓枠の角や手すりには長く使われてきた跡があり、門から玄関へ続く舗装にも色の違う補修箇所がいくつか残っていた。植え込みは以前より高くなったものと新しく植え替えられたものが混じり、その向こうから子供たちの声が聞こえてくる。
環は門をくぐった。
庭の端を何人かの幼い子供が走っていく。幼等生以上はまだ学校へ行っている時間だった。玄関近くの庭では職員たちが、子供たちと一緒に過ごしていた。その一人が何気なく顔を上げ、環を見たまま動きを止める。
「……叶生…環?」
「お久しぶりです」
環が頭を下げると、その声を聞いた別の職員も玄関の奥から顔を出した。
「えっ、叶生環ですか?」
すぐにもう一人、その後ろから現れる。
「まあ……」
昔から知っている顔ばかりだった。
環は玄関へ近づきながら、一人ずつ見た。髪に白いものが混じっている。目尻に以前にはなかった細い皺があり、昔は見上げて話していた人の顔が、今は自分よりも低い位置にある。それでも名前を呼ぶ声は記憶にあるものとほとんど変わらなかった。
「立派になって……」
一人が環の姿を上から下まで見て、皺と共に目を細めた。
「……六年ぶり…になりますか?」
「はい。二十一歳になりました」
「もう二十一……」
その人は小さく息を吐いて笑った。
玄関の奥を子供が一人駆け抜け、別の職員から「走らないの」と声をかけられている。環はその声の方を見た。注意された子は一度歩きかけ、職員の視線が外れた途端にまた小走りになる。
環の口元が少しだけ緩んだ。その子が走るのを目で追いながら、環は言った。
「士官学校を卒業したので、挨拶に来ました」
職員たちは口々に「おめでとう」「早いですね」と声をかけ、頷きながら環の話を聞いていた。
「今度、『亥電』という艦の副艦長に就任しました。来週から宇宙へ出ます」
「副艦長? 卒業したばかりで」
一人が思わず聞き返した。
環は頷いた。
「はい」
「まあ……」
質問をした職員が片手を口元へ当てる。その隣にいた職員も、驚いたように環を見たまま言葉がない様子だった。
「ロイも一緒の艦に来ます。パイロットになって」
「まあ、ロイヤード・リンも」
別の職員の顔が一気に明るくなる。
「いつも一緒だったものね、あなたたち」
「そうですね」
「叶生環」
少し後ろに立っていた年長の職員が声をかけた。環が顔を向けると、その人は環を見ながら微笑んでいる。懐かしい顔だった。
「噂を聞いていますよ。創校以来最高の成績で卒業したそうですね」
「そうらしいです」
「あの空ばかり見てぼんやりしていた子がですよ…」
周りから小さな笑いが起きる。
環は庭の方へ顔を向けた。建物の横に広がる芝生は、少し以前と変わっているものの、まだ懐かしい形のままそこにあった。何人かの幼い子供たちが走り回り、その向こうには青空が広がっている。
「あなたはよくあそこで寝転がっていましたね」
周りの職員が笑う。環も少し微笑んだ。
環は目の前にいる人たちを順に見てから、少し姿勢を正し小さく礼をした。
「長い間、お世話になりました。ありがとうございました」
さっきまで笑っていた人たちの声が止まった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
頭を上げると、正面にいた女性が片手で目元を押さえていた。その隣の職員も唇を結び、何度か瞬きをしている。その目には涙が浮かんでいた。
「……私たちはいつもあなたの無事を祈っていますよ」
女性が一度うつむき、また目元を押さえて言った。
環は静かに頷いた。
「ロイヤード・リンにも伝えてくださいね」
「分かりました」
環はふと庭の方へ顔を向けた。明るい芝生の向こうで、小さな子供が両手を広げて走っている。その上を白い雲がゆっくり横切っていた。
「……僕は、あの庭でよく空を見ていました」
「そうでしたね」
「今日も寝転がって見ていっていいですか?」
職員たちが顔を見合わせてから、もう一度環を見た。揃ってその制服へ視線を落とす。環が着ていたのは真っ白な学校式典用のブレザーだった。
「いいのですが…制服が汚れますよ」
「構いません。もう卒業したのだから」
環が鞄を玄関横の柱のそばに置いて歩き出すと、誰かが吹き出した。
「変わってないですね…あの子は」
庭へ出ると、建物の前より風が強かった。芝生の先を何人かの子供が駆け抜け、環の姿を珍しそうに見た一人が足を止めたが、友達に呼ばれるとすぐに走っていった。
環は庭の少し開けたところまで歩いた。
昔、何度も寝転がった場所が正確にどこだったかを探す必要はなかった。庭の広さも、植え込みの位置も少し変わっている。それでも、建物と空の間が大きく開いて見える場所は今も同じだった。
環は腰を落とし、片手を芝生につく。そのまま背中を倒して仰向けになった。
制服の背中の下で草が押し倒される。後頭部の下には柔らかな地面があり、青い空が視界いっぱいに広がった。
風が頬を抜けていく。
白い雲が一つ、ゆっくり形を変えながら流れていた。端の薄い部分がほどけ、その後ろから別の小さな雲が現れる。少し離れたところでは子供たちの声が上がり、建物の中から扉の開閉する音が聞こえた。
環はしばらく何もせず、空を見ていた。
雲が流れる。
「おにーさん、なにをみてるの?」
小さい子供が環の顔を覗き込んできた。幼いころいつも着ていたのと同じ灰色の院服を着ていた。
環はその子に優しく微笑みかけた。寝転がったまま手をまっすぐ伸ばして、空を指差す。
「空だよ」
子供は首を傾げて上を見上げたあと、どこかへ行ってしまった。
昔も同じように空を眺めていた。雲の形が変わるのが面白かった。ただそれだけで、長い時間ずっと見ていられた。
伸ばしていた手の指を大きく開くと、青空がその隙間へ入る。白い雲が人差し指と中指の間をゆっくり通り、掌の向こうへ流れていった。
「空……」
自分の声が、風の中へ小さく消える。手は影を落とし、逆光で暗く見える指の間の空は、強い青に見えた。
「……空遠」
青色の中にあった掌を閉じて、やがて強く拳を握る。
「いつか、必ず……」
握った手を、環はゆっくり地面に下ろした。手に少し冷たい草の感触が触れた。遮るものがなくなった視界には、一面の広い青空が戻った。




