●第二部『亥電』 一章-着任初日~パイロット室
●第二部『亥電』 一章-着任初日~パイロット室
中核都市エマの軍用整備港には、さまざまな機械音が絶え間なく鳴り響いていた。広い敷地には何隻もの軍用艦が並び、高く組まれた足場では整備員たちが忙しく動いている。大型の運搬車両がゆっくりと通り過ぎ、その後ろに小さな作業機が数台、列になってついていった。
環とロイは、整備区画へ続く通路を並んで歩いていた。環は真新しい白い軍服姿。ロイは白い気密スーツの上にジャケットとズボンを着た、通常のパイロットと同じ服装だった。肩に大きな鞄を掛け、片手には大きなケースを持っている。それに対して環の荷物は、手に持った鞄が一つだけだった。
やがて前方の建物が途切れ、広い整備区域が見えてきた。ロイが足を止め、環もその隣で立ち止まった。
二人の進む先に、一隻の宇宙艦があった。灰色を基調とした長い船体は、近くにある整備棟の向こうまで続き、船首側には装甲に覆われた複雑な構造物が重なっている。側面にはいくつもの区画の継ぎ目が走り、周囲に組まれた足場では整備員たちが外装を開いて内部の点検をしていた。
環は首を反らせ、艦の上部へ視線を向けた。船首から後方へ向かって長く伸びる艦の輪郭を目で追い、それから足場の上で作業している整備員たちを見た。船体の下では大きな車両でさえ玩具のようだった。
「大きいね」
環は目の前にある、これから自分たちが乗る『亥電』の前で呟いた。
「これで小型艦なんだよな……」
ロイも隣で船体を見上げていた。士官学校では実際の戦闘機に乗って宇宙へ出たこともあるし、軍艦の資料や映像も何度となく見てきた。それでも、全長約百十五メートルの『亥電』を地上から見上げると、その大きさは想像していたものとはずいぶん違っていた。
環はしばらく艦を眺め、ほんの少し微笑んだ。二人は再び歩き出し、整備用の機材や物資を積んだ車両の間を抜けて、乗艦口へ向かった。
乗艦口の近くでは、一人の男性が二人を待っていた。四十代に入ってしばらく経つくらいだろう。明るい茶色の髪をした穏やかな顔立ちの男性で、きちんと整えられた黒い軍服の肩には階級章があり、片手には艦長帽を持っている。環たちが近づくと、男性は柔らかな笑顔で迎えた。
「やあ。君たちが今日着任する二人だね」
「はい。本日付で副艦長に着任しました、叶生環です」
「ロイヤード・リンです。パイロットとして着任しました」
「うん、よろしく。『亥電』艦長のクライブ・ベネットだ」
クライブは二人と簡単に挨拶を交わすと、そのまま艦の方へ歩き出した。環とロイも後へ続き、乗員たちが出入りする通路を通って、開かれた乗艦口の扉をくぐった。
艦内へ入ると、外の整備場に響いていた機械音が遠くなり、代わりに空調の低い音と、自分たちの硬い足音が耳に入ってきた。通路の壁にはいくつもの表示や操作盤が並び、天井には均等な間隔で照明が埋め込まれていた。
作業服姿の乗員が二人、オーブ端末を操作しながらこちらへ歩いてくる。
「やあ」
クライブが軽く声をかけると、二人は小さく会釈しただけで、そのまま通り過ぎていった。クライブも足を止めず、先ほどと同じ歩調で進んでいる。
環はすれ違った乗員の後ろ姿を一度見てから、また前へ向き直った。別の乗員もクライブへ軽く頭を下げるだけで通り過ぎ、クライブはいつものことのように片手を軽く上げて応えていた。形式ばった挨拶や敬礼は一切なかった。ここでは艦長と乗員の距離がずいぶん近いらしい。
通路をいくつか曲がり、艦内の移動設備を使って上の区画へ向かう。やがて一際大きな扉の前にたどりついた。
「ここが『ブリッジ』だよ」
扉の横にある壁面のオーブにクライブが触れると、左右に扉が開く。
最初に目に入ったのは、正面いっぱいに広がる大きな窓だった。整備港の施設が見渡せる。
ブリッジは、艦の航行を管理し、各部署からの情報を集めて艦全体を指揮する部屋。複数の操作席が配置され、それぞれの前に淡い光を放つオーブがあり、航法図、機関の状態、艦内各区画の情報、通信表示などが浮かんでいた。すでに数名の乗員たちがいて、言葉を交わしている。
「……すごいな」
ロイが小さく声を漏らし、入口から数歩進んだところで足を止めた。実際に任務へ就いている軍艦のブリッジへ入るのは、二人ともこれが初めてだった。
環も室内を見渡した。正面の表示から操艦席へ視線を移し、さらに隣の情報表示へ目を向ける。着任前に読んだ資料にもあった設備だが、実際に乗員が操作しているところを見ると、画面の切り替わり方や席同士の距離がよく分かる。
「ここが副長席だよ」
クライブは環に席を案内した。区画図を見て想像したよりも大きく見えた。中央の艦長席から見て左側に配置されている。
環は机を少しだけ指でなぞった。机に埋め込まれた半球体のオーブは今は暗く電源は入っていなかった。
「二人ともこっちへ降りてきて。操艦・射撃担当のホルト中尉。こっちは索敵・情報担当の相沢中尉だよ」
クライブは当直の乗員たちへ二人を紹介した。操艦席に座っていた男性は椅子を少し回して軽く手を上げ、隣にいた女性も会釈を返す。環とロイに全く興味がない様子で軽く挨拶を済ませると、二人はすぐにそれぞれの仕事へ戻った。
環はしばらくその様子を見ていたが、やがてクライブの方へ向き直って言った。
「艦長、前任の副艦長からの引継ぎはありますか?」
「ん…引継ぎ? 別にそんなものないよ。資料を読んでおいて」
クライブはあっさりとそう答えた。
前任の副艦長は別の艦の艦長へ昇進しており、すでに『亥電』を離れている。環もそのことは知っていたし、副艦長として閲覧できる軍務記録には着任前から目を通していた。何か直接聞いておくことがあるかと思ったのだが、どうやらその必要はないらしい。
クライブはそのまま、普段行っている任務について話し始めた。
前線で戦う艦へ弾薬や交換部品、食料などを届けることが主な仕事で、危険な宙域へ入るため敵と遭遇することもある。
「実際に交戦する相手は、ラウゼンの小型無人戦闘機が多いよ」
敵の小型機群は中型以上の艦艇によって統制され、その通信や電子防御の能力は地球側より高い。小型機を放出する艦艇と遭遇した場合は、戦闘になることもあり得る。前線まで行く『亥電』は、小型の補給支援艦とはいえ、それぞれの役割を持った戦闘要員が乗っている…とクライブは話した。
士官学校で学んだ戦争の仕組みも着任前に確認した戦闘記録も、実際に任務を行う人の口から聞くとまた違っていた。
整備中の艦は静かに停泊しているが、各席では乗員たちが情報を確認し、次の任務へ向けた準備を続けている。
環はクライブの説明を聞き、ここにいる人たちは本当に命を失うかもしれない危険の中で働いてきたのだと思いながら、数度頷いた。
「君はパイロットだから時々出撃することもあるよ」
クライブがロイの方を見た。ロイが頷くと、クライブは穏やかな調子で続けた。
「『亥電』みたいな艦が敵の戦艦と正面から戦うことはまずないから、そこは安心していいよ。それは『青嵐』みたいな戦艦に引き受けてもらおう」
そこで一度小さく溜息をついて、クライブは黙り込んだ。そして少し言いにくそうにしながら、環の方を見て小さな声で言った。
「うちの乗員はね……正直少し癖の強い人が多いんだ。でも…腕は確かだよ」
すれ違った乗員たちの気負わない挨拶を思い出しながら、環は再びブリッジを見渡した。クライブは正面の窓へ目を向け、船首の方を指差した。
「あそこに主砲もあるけどね。まあ…あれを使わなきゃならないようなことは、一生起きないでほしいよ」
環とロイも窓の方を向いた。広い窓の下方、船首の装甲に囲まれるように主砲が据えられている。艦と同じ灰色の太い砲身が前方へ伸び、その周囲には整備用の小さな作業灯が点っていた。
「じゃあ、あとは好きに見て回っていいよ。出港前には連絡が入るから、その時は二人ともブリッジへ戻ってきて」
クライブはロイの方を見て、「艦艇に乗って宇宙へ出航するのは初めてだろう。ブリッジで見るといい」と誘った。
「いいんですか。ありがとうございます」
ロイは正面の大きな窓に目を向け、嬉しそうに口元を緩めた。環もその隣から外を眺めた。この窓から、地球を離れ空へ向けて飛び立ち、宇宙へ出ていくところが見られる。
「じゃ、あとでね」
クライブは軽く手を上げ、二人に背を向けて艦長席の方へ歩いていった。
環はロイとともにブリッジを出た。
廊下へ出るとすぐにロイはオーブリングをはめた指を軽く振った。その瞬間、リングの中央に小さな宝石のように収まっていたオーブが飛び出し、紫色の球体となって宙に浮かんだ。
ロイが半透明の球面に指先で触れると、『亥電』の艦内区画図が宙に広がる。区画図を見ながらロイが荷物を抱え直して歩き出そうとしたとき、環が「こっちだよ」と言って反対側を指した。
「あ、そっちか…。お前もう覚えてるんだな」
環は頷く。ロイと並んで居住区の方へ歩き始めた。紫色のロイのオーブは、区画図を出したままロイと同じ距離を保ってついてくる。
***
居住区へ入ると、通路の雰囲気が少し変わった。ブリッジへ続く区画に比べると壁面の表示や操作盤は少なく、左右には同じ形の扉が並んでいる。頭上を通る空調の低い音に、どこかの部屋から聞こえてくる小さな話し声が重なる。
ロイは隣に浮かぶ紫色の画面へ目を向け、区画図と扉の番号を見比べながら進んでいた。やがて一つの扉の前で立ち止まると、表示された部屋番号を確かめて顔を上げた。
「お、ここか」
ロイが扉の横にあるオーブに触れると、ゆっくりと扉が開いた。中には一人用のベッドと机、壁に組み込まれた収納があり、奥には小さなトイレとシャワー室も備わっていた。軍艦の中にある部屋らしく無駄な空間は少なく、机も収納も壁に沿ってきっちりと収まっている。ロイは部屋の中央まで進むと、持っていた大きなケースを床へ下ろし、肩の鞄もベッドの上へ置いた。
ロイは室内を見回し、収納の扉を開けて中を覗いた。奥行きを確かめてから閉じると、今度はベッドへ腰を下ろして軽く身体を弾ませる。
狭い部屋だったが、ロイは満足そうだった。
「へえ、思ってたよりいいじゃん」
環は入口のそばで、ロイが部屋を確かめている様子を見ていた。
ロイが自分のあとをついてくる紫色のオーブを手で払うと、浮いていた区画図やオーブはフッと消えて指輪に小さな光が戻った。
「学校の寮と違って一人部屋だしな。じゃ、環の部屋行こうぜ」
二人は廊下へ出て、並んだ扉の前をいくつか通り過ぎ、さほど離れていないところにある環の部屋へ向かった。
扉を開くと、ロイの部屋とよく似た造りの室内が現れた。ベッドと机、壁際の収納。環は中へ入ると、持っていた鞄を床へ置いた。
「荷物それだけ?」
後ろから入ってきたロイが、環の鞄を見た。まるで一泊するだけのような大きさの荷物だった。
「うん。軍服も備品も全て支給されるからね」
「…まあ、お前らしいか」
ロイが笑うと、環も少し微笑んだ。
環は改めて室内を見回した。ベッドの足元から机までの距離も、壁際の収納も、着任前に確認した資料と変わりはない。けれど、実際に自分の荷物を置いて、これから使う机やベッドを眺めていると、さっきまでとは少し違う感覚があった。
何も置かれていない机の上には天井の照明が淡く映っている。環はブリッジで自分の席にそうしたように、指で机の上を少しなぞった。
「……なんだか、急に実感した」
「ん?」
「これから、僕らがここで暮らしていくんだってこと」
環は机を一度軽く叩いて、それからロイへ顔を向けた。ロイも部屋を見回し、笑いながら頷いた。
「そうだな。俺たち、本当にこれから宇宙へ出るんだ」
廊下の向こうを誰かが歩いていく足音が聞こえた。近づいてきた音は扉の前を通り過ぎ、やがて遠くなっていく。環はしばらくその音を聞いていたが、やがてロイの方へ向き直った。
「まずは第一歩、だね」
環が目を細め、微笑みながら言う。
「…『運命の人』への?」
「そう」
環が頷くと、ロイは声を上げて笑った。
「ははっ。第一歩にしては、かなり大きな一歩だけどな。最初から副艦長だぜ?」
「まだまだ。どんな形でもいいから、まずは僕が艦長にならないと」
環は穏やかに答え、机の前から離れた。
「そのためには、ここで実績を作って、戦績も上げなくちゃいけないね」
ロイは少し呆れたように笑い、壁へ軽く寄りかかった。
「そういやさ、あれから会ったの?」
「ん?」
「一度見に行ったじゃん。お前の運命の空遠君をさ。あれから会った?」
「…ああ、会ってないよ」
「卒業前に、もう一回くらい顔見に行けばよかったのに」
環は特に残念そうな様子もなく、右手を軽く持ち上げた。
「まあ、更新情報は逐一チェックしてるから」
「……更新情報?」
環が右手の人差し指を軽く振ると、指にはめた銀のリングの中央から小さな水色のオーブが姿を現し、空中に浮かんだ。環はその淡い光を放つ球面に触れ、登録してある母校の公開情報を開いた。いくつかの項目を繰ると、『旭空遠』の名前と登録画像、その下に新しい試験結果が表示される。
環は最新の結果を開き、並んでいる数字へ目を向けた。
「成績は振るわないみたいだね」
ロイも横から画面を覗き込んだ。表示されているのは、平均点以下の試験結果だった。環は一つ前の記録へ戻り、さらに過去の結果を順に開いていく。どれもあの日の飛行とは結びつかない数字ばかりだった。
「あんなふうに飛べるのに、どうしてわざと手を抜いてるんだろう…」
最初の光輪へ向かった時の速度も、その後に選んだ航路も、迷いなく続いた旋回も、今でもはっきり覚えている。けれど、その後に公表された試験結果には、あの操縦能力を思わせるものが一つも見当たらない。
環は小さく首を傾げながら呟き、また一つ前の結果を開いた。ロイはその横顔をしばらく見ていたが、環が表示されている画像を黙って眺めていると、何とも言えない顔で笑った。
「うん……環。お前、本当に好きなんだな」
「好き?」
環の指が止まった。ロイへ顔を向け、少し考えてから尋ねる。
「彼の成績を確認することが?」
「……いや、そうじゃなくて」
ロイが顔を上げる。環はもう一度表示されている空遠の画像と名前を見てから、ロイへ視線を戻した。
「気にはなってるけど」
「うん…そっかー」
ロイは一度口を開きかけたものの、もう何も言わずに小さく息をついた。それから身体を起こし、環の顔を見て笑った。
「…まあ、今はわからなくていい。いつかわかる時が来るよ」
環はふと顔を上げた。
「……聞き覚えのある言葉だ」
「ん?」
ロイが聞き返したが、環はそれ以上何も言わなかった。右手でオーブをぱっと払う。淡い水色の球体はその場で消え、室内の明るさも一段下がった。
「じゃあ、他も見に行こうか」
「そうだな。せっかく好きに見て回っていいって言われたし」
二人は一緒に部屋を出た。廊下へ戻ると、軍服姿の乗員が二人、何か話しながらこちらへ歩いてくる。二人とも環の真新しい軍服へ目を向け、そのうちの一人が軽く手を上げた。
「あ、今日来た二人じゃない?」
「新人君、よろしくー」
ロイは声を掛けてきた二人に敬礼をしたが、乗員たちは見もせずにそのまま通り過ぎ、曲がり角の向こうへ消えていった。
「…『よろしくー』って…新人だけどお前の方が副長なのにな…。軍って実際は結構緩い感じなんだな…」
環はその様子を何も言わずに見ていた。ロイにも特に返事をせず、歩いていく。ロイは後ろから環についていった。
「どこ行くんだ?」
「まずはパイロットのところへ行こう」
「お、俺の職場だ」
ロイは嬉しそうに笑って歩調を少し速めて環の隣に並んだ。二人は居住区を抜けて、パイロットたちの待機室へ向かった。
***
艦内の通路をいくつか曲がると、壁面の案内表示に格納庫とパイロット待機室の文字が現れた。奥の壁は大きな窓になっていて、その向こうには戦闘機の並ぶ格納庫が広がっている。窓を隔てているため音は小さかったが、時折、機械の動く低い振動が床から伝わってきた。
ロイは環より少し先へ出て通路の奥へ急ぎ、窓から下に見える戦闘機を見つめた。
環が扉の横にあるオーブへ触れ扉を開くと、中にいた数人のパイロットたちが一斉に入り口の方を見た。
「あー! 可愛い子たち来たー!」
明るい茶色の髪を短く切り揃えた女性だった。横の席に座っていた女性パイロットの肩を軽く叩きながら嬉しそうに言う。
「ねえ見て! 新しい副長。前のオジサン、出てって良かったじゃん!」
座っていた長い濃い茶色の髪の女性は、少し顔を上げ、環とロイをじっと見てから「ホントね」と言った。
「今日から副艦長になる叶生環です。よろしく」
「私はクレアよ! よろしくね」
「山戸芽依です。フフッ、よろしくね、可愛い副長さん」
クレアは快活に軽く挨拶をする。芽依が笑いながら環に『可愛い副長』と言うと、ロイは少し眉を上げ、隣の環を見る。環の表情はいつもと変わらない、薄い笑顔のままだった。環はそのまま室内へ歩いていった。
「ロイヤード・リンです。本日付でこちらに配属になりました。よろしくお願いします」
ロイが扉の前で挨拶すると、芽依は笑いながらクレアへ言った。
「私は右かなぁ」
クレアはそれを聞いて首を傾げる。
「んー…私も右かな…。あ、でも、左もなかなかいいよ?」
『左』という言葉と共に、全員の品定めするような視線がロイに集まる。
周囲から笑い声が上がった。隣に二人の男性が立っている。
「女子は大喜びだな。新卒が二人も入って」
一人が腰に手を当てたままロイを見て、もうひとりは飲みかけのカップを持ったまま興味深そうに環を眺めていた。
環はその視線や笑い声を気にする様子もなく、四人がいるテーブルの前まで進んだあと、別のドアが開いた気配に後ろを振り向く。
「ちょっとアンタたち。アタシにも選ばせなさいよ」
格納庫へ続く扉の前から声が聞こえ、環が見た方向からプラチナブロンドの男性パイロットが歩いてきた。短く整えられた銀白色の髪は柔らかく、細い毛先が額や耳のあたりへふわりと掛かっている。赤いリップを塗った唇が楽しそうに笑った。
「へえ…本当に綺麗な顔してるのねえ。アンタが新しい副長?」
彼は環の前まで歩いてきて、返事を聞かないうちに椅子を引いて反対向きで座った。椅子の背に片腕を乗せ、環の顔をじっくりと見る。
「よろしく。叶生環です」
「タマキって可愛い名前ね。アタシはレオよ」
環は頷くと、一歩前へ出て少し顔をレオに近づける。
「レオ・ファン・デル・リンドベリ中尉」
レオは笑みを浮かべたまま、淡い緑色の目を細める。
「……何?」
「確認だよ。君がレオ・ファン・デル・リンドベリ中尉だね。ここのリーダー」
「…『エース』と言ってほしいわ」
レオは少し身を起こし、環の顔を見た。環はその返事を聞いて、もう一度頷いた。
環が後ろに立ったままのロイを見ると、明らかに嫌気が差した顔をしていた。まともな挨拶を返さないパイロットたち、立っている副艦長の前へ来て椅子に座るエースパイロット。ロイがレオに改めて挨拶をしないのがわかると、環はもう一度レオの方へ向き直って言った。
「彼はロイヤード・リン少尉。今日からパイロットとして着任したから、よろしくね」
レオはロイの顔をしばらく眺めていたが、やがてクレアへちらりと視線を送った。クレアはまだ楽しそうに笑っている。
「…どっちもイイけど、アタシも右ね」
パイロットたちはただ環やロイの姿を見て面白そうに笑っているだけのようだった。残り二人の男性パイロットは名乗りもしなかった。
「…なんだコイツら…」
ロイは小さく呟いた。傍にいた環にはその声はかすかに聞こえていた。
環は大きく首を動かして五人の顔を順に見て、一人ひとりと目を合わせてから、ゆっくりと言った。
「みんなの飛行記録、戦闘記録、普段のシミュレーションも見せてもらった。これからは毎日僕が個別に五分ずつシミュレーションをしていこうと思ってる。続けて全員で十分間。全員の飛び方や判断を見て、少しずつ訓練の内容を変えていくつもりだ」
それまで笑っていたパイロットたちから笑顔が消えた。互いに顔を見合わせる。
椅子の背もたれに顎を乗せていたレオが、「ちょっと待って」とまだ話を続けようとする環の言葉を止めた。
「アタシたち、ちゃんと訓練してるわよ」
「知ってるよ」
環は即答した。
「あのね。アタシたちは何年もこのメンバーで飛んでるの。学校から出たばっかりの新人君に教えてもらうことなんか一個もない」
「それはどうかな」
環がまたすぐに答えるので、レオは口元を引きつらせながら言った。
「ここ…補給艦よ? 充分これでやってんの。艦長にも何も言われてないし」
レオは椅子から立ち上がり、環の前に詰め寄る。ロイは、レオと環、どちらの顔も交互に見ていた。
「エリート様は違うのね、もっともっと訓練しろって? 前の副長だって出世して出ていったし、アンタもそのうちどっかいい艦行くんでしょ。ほっといてよ」
環はレオの顔を見ながら微笑み、少し強い調子で言った。
「この艦はこれから戦績が上がって、評価も変わって、今より重要な任務を任されるようになる。前線へ出ることが増える。だから準備していく」
環の言葉が終わると、室内が完全に静かになった。
レオは細い目を吊り上げ、目の前の環を見上げる。眉間には皺が寄り、口元にもう笑顔は浮かんでいなかった。
「誰が決めたのよ、そんなこと」
レオの言葉に、環はほんの少しだけ首を傾げて微笑んだ。
「僕」
環が軽い調子で答えると、レオの動きが止まった。
環はそれ以上何も言い足さず、レオから目を逸らすこともなかった。
「――は?」
レオはゆっくり瞬きをした。環は変わらず穏やかな顔をして、他のパイロットたちへも顔を向けた。
「みんな、質問があったら何でも聞いてね」
後ろの四人は互いに顔を見合わせて、誰も口を開かなかった。ロイは環の後ろで小さく溜息をつく。
レオは一度大きく左手の拳を握り締めた後、その手を開き、肩を竦めてからもう一度先ほどと同じように反対向きの椅子を跨いで座った。
環が周囲を見渡し「何も質問が無ければ…」まで言いかけたところでレオが小さく手を上げる。
赤い唇の端がゆっくり持ち上がった。
「はーい。タマちゃんは、童貞?」
レオは挑発するような笑みを浮かべて環を見上げる。室内はしばらく静まりかえり、やがて男性パイロット二人が吹き出した。
クレアと芽依もクスクス笑う。
「……ちょっと、レオ」
「やめてよね…」
女性二人は声を潜めたつもりらしかったが、語尾には笑いが混じっていた。
レオは環が何か言い出すのを待つように、その涼しい表情を見続けた。環は答える様子もなく、ただレオを見ている。
「……なんだと?」
先に呟いたのはロイの方だった。
「だってさ、『何でも聞いて』って言ったじゃない」
レオは悪びれもせず、環の顔を下から指差した。
「タマちゃん、童貞っぽいねえ?」
そのまま視線を横へ滑らせ、ロイを上から下まで眺める。やがて視線がロイの顔に留まり、唇に浮かんだ笑みが一段と深くなった。
「…アンタは違うわね」
レオに斜めに指差されてそう言われたロイは、大きく目を見開いた。
「ふざけんなよ……!」
眉間に深い皺を寄せたロイがレオに向かって大きく一歩踏み出したとき、環が遮るように片手を横へ伸ばした。ロイの身体が環の手にぶつかり、広げた掌で押さえられる。
レオはそんな様子まで楽しんでいるように、椅子に座ったまま笑っている。
環は静かな真顔でレオへ言った。
「それは、仕事に必要なことなの?」
レオは目の前に立っている環を見上げ、今度はわざとらしいほど真面目な顔を作る。
「もちろん」
レオは胸元へ片手を当てた。
「極めて重要なことなのよ。アタシたちパイロットにとってはね」
また周囲から小さな笑い声が上がる。環が手で制していなければ、ロイはすぐにでもレオに殴り掛かりに行きそうだった。
環はロイを見てゆっくりと首を振った。そして腕を組んで、小さく傾げた首をさらにひねり、目を細めて聞いた。
「えっと……それは僕が『他人と性的な接触をした経験があるか』って意味?」
「……へ?」
レオは身を乗り出して姿勢を変えた。後ろのテーブルの向こうで男性パイロットの一人が小さく咳払いをした。
クレアが何とも言えない顔で「……言い回しが独特ー……」と呟くと、またしばらく室内は静かになった。
レオは口を開き、何か言いかけてから、一度口を閉じた。そして胸元へ当てていた手を下ろし、数度頷く。
「え…そう。うん…」
レオが微妙な顔でそう言うと、環は少し身体を屈めてレオへ顔を近づける。環の灰青色の目はしばらくレオの顔をじっと見つめる。
環は腕を組んだまま一度大きく頷いた後、優しく微笑んだ。
「そっか。僕には性交の経験がないから、君が言う通り、僕は童貞。性行為には興味がないんだ。で……これが君らにとって重要なこと?」
待機室の空気が固まったように誰も動かなくなった。
窓の向こうでは整備員が一機の戦闘機の下を移動し、作業用の台車を押していた。しばらくの間、格納庫から聞こえるその小さな音だけが響いた。
「……ん?」
誰も何も言わないので、環はさらにレオへ顔を近づけた。レオは身を引き、顔を環から離す。
「…やば…」
レオは呆れた顔で小さく呟いた。
「やばい……」
「え、聖人…?」
「…やばー…」
小さな囁き声が次々聞こえた。
ロイが軽く首を振りながら環の肩に手を置くと、環は「何?」と言ったが、ロイは返事をしなかった。
「みんな他に聞きたいことある?」
環は姿勢を直して改めて言った。もう誰も環を見ていなかった。返事もない。
「質問、まだある?」
レオの顔を覗き込みながら環が言うと、レオは最初は小さく、そして大きく首を振った。
「な、ない……です」
最後の言葉を言うときに、レオは環から視線を逸らした。それまで口元を押さえていたクレアは、レオが最後だけ敬語になったのを聞いて笑った。
「じゃあ」
環はそう言って右手を軽く持ち上げた。
「次は僕から質問する」
環が右手の指を軽く振ると、指にはめたリングから小さな水色のオーブが姿を現し、空中へ浮かんだ。環は球面に触れ、いくつかの項目を開く。宙に複数の長方形の画面が並んでいく。
「拡大」
環のその声で、小さかった球体がテーブルの上へ大きな立体表示となって広がった。
その中に、小さな戦闘機の形をした光がいくつも浮かんでいた。機体の位置関係を示す細い線と、距離や速度を示す数字が周囲に並び、一つの機体だけが緑色で表示されている。
レオは立ち上がり、顔を立体表示へ向けた。ほかのパイロットたちも、テーブルの上の表示を見ている。小さな戦闘機の赤い光はそれぞれ違う位置に浮かび、環が指を動かすたびに、周囲の数値や表示が滑らかに入れ替わっていった。
環はレオへ向き直り、緑色の機体の表示を指差しながら「これが君の機体」と言った。
「この配置で敵機を全機撃墜するなら、どう動く?」
レオは環の隣へ移動し、宙に浮かぶ画面を確認して眉を顰めた。
「はっ。早速お勉強ってワケ…」
レオは画面へまっすぐ手を伸ばし、指先で緑の機体に触れた。
「いいわ。付き合ってあげる。まず、こっち。外側から回って、この一機を先に落とす。それから向きを変えて、こっちへ抜けるの」
指先が動くたび、立体表示の中へ細い緑色の光の線が描かれていく。レオは敵機との距離を確かめながら、機体を一度大きく旋回させ、次の敵機へ向かう経路を示した。
緑の機体が進むたびに、敵機を意味する赤い戦闘機の光の位置も変わっていく。
「ここで無理に突っ込む必要はないでしょ。ここまで六秒。先にこっちを崩せば、残りはこう……あとはこれでいいわ」
環はレオの動く指先と描く航路を何度も頷きながら見ていた。レオが最後の線を引き終えて指を離すと、環はすぐに言った。
「無駄が少ないし、安全に抜けられる航路だ。判断も速いね」
レオはその言葉を聞いて、腰に手を当て、自信ありげな表情で言った。
「ね。アタシたち、アンタの訓練なんかいらないの」
環はレオの描いた線をもう一度確かめてから、手を画面へ伸ばした。少し操作してから画面に人差し指で触れると、新しく青い機体が浮かび上がった。
「いい答えだけど、僕ならこうする」
環が画面を指でなぞっていくと、レオの航路とは別に青い光の線が現れた。それはレオの線とは違う方向へ進み、二つの敵機の間を抜けるように移動する。その先でわずかに向きを変え、レオが迂回していた位置へもっと早く到達する経路を示した。
環の指は次の攻撃位置へ進んでいく。伸びていく青い光の線は敵機の位置と重なり、レオの描いた航路よりも内側を通った。
環が最後の位置で指を離し機体を止めると、画面上の二人の航路が流れるように光り出した。最初の攻撃位置までの到達時間、敵機との位置関係、移動距離、必要時間などの項目の比較が映し出された。レオは目の前の数字を確かめるように、少し身を屈めて表示を覗き込む。クレアや芽依も隣から顔を寄せ、二つの航路を見比べていた。後ろにいた男性パイロットの二人も、いつの間にかテーブルに近づいてきていた。
「こっちの方が効率がいい」
環の言葉にレオは答えず、もう一度比較の数字を確かめた。レオの描いた航路には十分な旋回の余地があったが、環が示した経路はその距離を大幅に削っている。レオは環の線が敵機の間を抜ける地点に触れ、その機体の詳細を確かめた。画面に表示された速度は想像以上に速かった。
「あのさ…これができるならいいわよ?」
「できるよ。君の腕なら」
環が即座に答えると、レオは顔を上げ環を睨んだ。画面の水色の光がレオの白い髪の毛先を淡く照らしていた。
環は画面を操作し、もう一機、黄色の機体を出す。
「ここ…こうでもいい」
環の指がなぞった黄色に光る線は、先ほどよりもさらに際どい航路だった。線を描き終えると、横にまた新しい画面が表示され、さまざまな数値が並んだ。
「これまでの『亥電』の戦闘映像、飛行記録だけじゃなく、君が前に所属していた艦の記録も見た。素晴らしい腕だ」
言いながら環は先ほどレオが描いた緑の航路の一点を指した。
「これだと慎重すぎない? この辺余裕があるよ。君の操縦ならもっと攻められると思う」
レオはもう一度テーブルの上の立体表示へ目を向けた。
少し離れたところに立っていたロイも、今は一緒に環のオーブが映す画面を見ていた。誰もさっきまでのように冗談を口にしない。
「アンタのこれを実際に飛ぶとなったら、相当難しいのよ」
「そうだね。でもできる。今は必要以上に安全を優先させている。これからもっと敵機の多い場所に出たら、その飛び方じゃ間に合わなくなるよ」
環はレオの目をしっかりと見て、微笑んだ。
「そんな危ないとこ行く予定ないし!」
「ただこれは君が一人だった場合で、実際はチームがいるから。そこは明日から一緒に訓練していこう」
レオの言葉には全く返事をせずに、環は大きく広がった画面を手で払った。数値や航路を示していた複数の画面が一瞬で消え、環の指輪の中央に水色の光が淡く戻った。
室内は元の明るさへ戻る。全員が環の方を向いていた。
「じゃあ、続きは明日からやろうね」
環は手を上げて軽く振る。扉の方へ向き直り、一歩進んでから「あ」と言って振り返る。
「神居中尉、オーランド中尉」
名前を呼ばれた二人の男性パイロットは驚いた様子で環の顔を見た。
「二人も明日からシミュレーションに参加してもらうね。ここにいない四人のパイロットにもそう伝えておいて。じゃ」
歩いていく環の背を見て、ロイは一度姿勢を正してメンバーへ敬礼し、環の後を追った。
「……やばいの来た…」
パイロット待機室の扉が閉まる前に、後ろからレオの小さい声が聞こえていた。
コツコツと硬い靴音が床を鳴らす。ロイはしばらく黙って環の隣を歩いていたが、通路を一つ曲がったところで口を開いた。
「……お前、すごいな。ある意味」
「何が?」
「一発で黙らせたな」
ロイは涼しい顔の環を見た。いつもと同じ表情だった。
「…もしかして、わざとやってるのか?」
すぐに答えが返ってこないので、ロイはもう一度目を細めてじっと環を見た。環は少し首を傾げ、ロイが続ける言葉を待っている。ロイはその顔を見て、小さく首を振った。
「……ンなわけないか」
「あれは訊かれて腹が立つこと?」
環の疑問にロイは答えなかった。
「ロイは怒ったよね。僕にはあの質問の意図が分からないんだ。何かおかしな返事したかな、『やばい』と言われた」
「おかしい……おかしくない……? いや、おかしいかな……。はあ…」
ロイは額へ片手を当て、大きなため息をついた。
「僕らの性交経験の有無がパイロットにとってどう重要なの? ロイ」
環が何も考えていないような調子で聞くと、ロイは立ち止まり、思い切り手を振り上げた。
無機質な廊下にバンッと大きな乾いた音が響き、背を叩かれた環は、身体を反らして声を出した。
「いって!」
「やっぱおかしい!」
環はロイにそう言われ、上を見て、少し考えてから頷いた。
「それは昔から本当によく言われる。今日は新しく『やばい』という評価が増えた」
真顔の環がそう言うと、ロイは肩を落とし、もう一度大きく息を吐いた。
「はあ…。からかわれただけだよ…。ああいう質問に真面目に答えるなよ……」
環が「そっか」と全く気にしない様子で言って軽く背をさすった。
ロイは環の様子を見て困ったように笑う。環もその顔を見て少し微笑み、再び通路の先へ視線を向けて言った。
「次は侵兵隊員のところへ行こう」




