●第一部『環』 二章-初飛行テスト
●第一部『環』 二章-初飛行テスト
「ここにいたのか」
声のした方を振り返るより先に、環の黒髪は風に揺れた。士官学校の校舎から少し離れた草地は緩やかな斜面になっていて、高次生になった環は後ろに両手をつき、片膝を立てて座っていた。視線は斜面のずっと下へ向いていた。
「なあ、昼飯行こうよ」
ロイが後ろから歩いてきて、環の視線の先を追った。
斜面の下では、ちょうど初年生の初飛行テストの最中だった。空には八つの光輪が高さも距離も違う位置に浮かび、その間を飛ぶ機体を環は目で追っている。
「初飛行テストかー。懐かしいな」
初飛行テストは、実際に宇宙で使われる戦闘機を発進させ、五分の制限時間内に空域へ配置された八つの光輪をできるだけ多く取得し、帰還する試験だった。取得した光輪の数だけでなく、時間内に戻り、最後まで機体を制御して着陸できるかまで含めて得点になる。
「今のは、右のリングを取った方がよかったね」
試験上は光輪と呼ばれるそれを、生徒たちは普段、ただリングと呼んでいた。
ロイは環の隣の草地へ腰を下ろし、座るとすぐに両足を前へ投げ出した。
空では一機の戦闘機が、少し高い位置にある光輪へ向かっていた。機体は一度左へ流れ、速度を落としながら大きく向きを変えている。
環の目は機体と光輪の間を往復していた。目の前の一つを取ることだけなら、さっきの飛び方でも何もおかしくはない。初めて実機を飛ばす新入生なら、安全に届く位置を選び、速度を落とし、機体を十分に安定させてから次へ向かうのはむしろ自然だった。
「俺らもこんな頃あったなー。三年前くらいだっけ?」
「三年と二十五日前だよ」
ロイは環を横目で見て、慣れたように片方の眉を上げた。
「ハイ…どうもー」
環はそれ以上何も言わず、また空を見た。
新入生の機体は残った光輪を二つ取得したところで帰還へ向かった。全てを取るにはまだ遠い。制限時間は五分しかなく、初めて実機で空域を飛ぶ生徒が、その間に全ての光輪を取得して戻ってくることはほとんどなかった。
「墜落することはないってわかってても、めちゃくちゃ怖いよな」
訓練機には、危険な状態を察知すると機体側が操縦へ介入する安全補正が備わっている。衝突や墜落の危険、大きな姿勢の崩れが生じれば、自動的に機体を立て直して安全な飛行へ戻す。ただし、安全補正が入れば試験の得点に影響する。
「ロイもそうだった?」
環は隣のロイを見ながら聞いた。
「そりゃそうだよ。中じゃ緊張でガタガタしてた」
「とてもそうは見えなかった。君の機体はとても安定してたよ」
即座にそう返され、ロイは口元を緩め、環の肩を軽く小突く。
「俺、史上最高得点取った叶生君に褒められちゃった」
「それとこれとは関係ないよ」
環は小突かれた分だけわずかに身体を揺らしたが、言葉どおり特別な意味を感じている様子もなく、帰還した機体を見ていた。
前の試験が終わると、空域に残っていた光輪が一度全て消えた。少し間を置いて、別の位置へ新しい光が灯っていく。先ほどとは配置が違う。滑走路から近い低空に二つ、その奥の高い位置に一つ、さらに左右へ離れていくつもの光輪が現れた。
八つの光輪は試験のたびに位置を変えるが、難易度そのものは変わらない。前の受験者が飛んだ軌道をいくら覚えていても、次の試験ではそのまま使うことができなかった。
格納庫前では次の機体が動き始めている。整備員や試験担当者の姿は、丘の上からでは顔までは見分けられないほど小さい。地上車両が一台、格納庫の前を横切り、その音が少し遅れて風に乗って上まで届いた。
「俺さ。進路希望もう出したんだ。パイロット科」
ロイが笑いながら言った。ロイが操縦専科へ進みたがっていることは、今日初めて聞いた話ではない。実機へ乗るようになってからも飛行訓練を楽しんでいたし、自分の進む道を迷っている様子もなかった。
「ロイの腕なら絶対に入れるよ」
「お前に言われると説得力あるな」
次の機体が滑走を始めた。音が上がるのとほとんど同時にロイもそちらを向き、環も会話を止めて機体を追う。先ほどの生徒より発進は安定していた。まっすぐ高度を上げ、最初の光輪へ余裕を持って近づいていく。
ロイはしばらく飛行を見ていたが、ふと思い出したように隣へ視線を戻した。
「環は? 進路まだ出してないだろ」
環はすぐには答えなかった。飛んでいる機体が一つ目の光輪を取り、そのまま左へ旋回する。環の視線はそれを追いながら、その先の配置までを読んでいた。
「んー……どこでもいいけど。まあ、パイロットかな…」
ロイが少し首を傾ける。環はまだ空を見ていた。
「特に行きたいところもないから」
ちょうどその時、飛行中の機体が二つ目の光輪を取った。かなり大きく減速してから向きを変え、次の一つへ向かう。ロイはその動きを目で追いながら、膝の横に生えていた細い草を一本抜いた。指先でくるくる回したあと、風へ放す。軽い草はすぐ足元へ落ちた。
「…何もったいないこと言ってんだよ。お前はずっと首位だろ。何にだってなれるし、どこにだって行けるんだぜ」
「かもね」
環が静かに答えると、ロイは笑って身体を寄せ、その肩へ腕を回した。環は押された分だけ少し傾いたが、振りほどくこともなく、片膝を立てた姿勢のまま飛行を見ている。
「俺が言った通り、ちゃんと真面目にテストしてきてよかったろ?」
環は一度だけロイへ顔を向けた。
その話を初めて聞いた時、二人ともまだ幼等生だった。今では肩へ回されたロイの腕もずっと重く、目の前に広がるのは児童院の庭でも幼等生の校舎でもない。環は何も言わず、笑顔でほんの少しだけ頷いた。
「あー! 叶生くん!」
丘の上へ響いた高い声に、ロイの腕が環の肩から外れた。
少し離れた舗装路から女子学生が二人、こちらへ歩いてくる。昼休みで外へ出ている学生は他にもいて、何人かが食堂の方へ向かい、芝生の上で昼食をとっているグループもいた。歩いてきた二人の女子のうち、一人がまっすぐ環の前まで来る。
「ねぇ、一緒にご飯行こ?」
同じクラスの女性生徒たちだった。環は顔を上げたが、その向こうではさっきの機体が次の光輪へ近づいていた。女子生徒の肩でちょうど機体が隠れ、環は少しだけ顔を右へずらす。
「ねー?」
彼女はまた環の顔を覗き込む。彼女の笑顔でまた視界が隠れた。環は今度は左から覗くように顔をずらした。相手もつられて左へ動き、環の正面へ立つ。
「行かない」
環が返事をしたとき、空では機体が光輪を一つ取得した。その後の旋回を見ようとしたが、目の前にいる女子生徒の身体で全く見えない。
環はとうとう相手の顔を見た。
「ちょっとどいてくれる?」
「えー?」
「見えないから」
女子学生は一歩横へ移動し、胸元へ手を当てて大げさに言った。
「冷たぁい。私の恋心が全然通じなーい」
隣からロイの笑い声が漏れた。
女子生徒は本気で怒った様子もなく、今度はロイの方へ身体を向けた。もう一人の女子生徒もその横へ並ぶ。
「じゃあリン君は? 前に一緒にご飯食べたじゃない。今日も食べようよ」
「あー…ごめん」
ロイは笑いながら両手を合わせた。
「今、初年生のテスト飛行見てるんだ」
女子生徒二人は「じゃあまた行こうよ」と手を振り、来た時と同じように二人で話しながら校舎の方へ戻っていく。
環はその背中を見送らず、二人が視界から退いた瞬間にはもう空へ顔を戻していた。飛行中の機体は先ほどまでとは反対側へ回り込み、最後に狙ったらしい光輪へ向かっている。
「女子にあんな言い方よくないぞー」
ロイの声が隣からした。
「なに?」
ロイは環の横顔を見ていたが、環は飛行から目を離さない。
「お前、モテるのに」
「興味がない」
機体が中央に配置されていた光輪へ触れ、その光が消えた。取れなかったものをいくつか空に残したまま、帰還経路へ入っていく。
ロイは何か言いたそうに環を見ていたものの、それ以上は続けなかった。代わりに両手を後ろの草へつき、上半身を反らして空を仰ぐ。さっきより少し高くなった日差しが顔に当たり、眩しそうに目を細めた。
次の試験が始まった。
新しく配置された光輪の間を、一機が上昇していく。発進から最初の光輪へ入るまで大きな乱れはなく、次への向きも悪くない。
「こいつはまあまあかな」
ロイが言った。環は答えずに見ていた。機体は右上の光輪へ向かう。そこへ入る角度は少し深く、取得したあとには機首をかなり戻さなければ、その先へ続かない。
環は一つ一つの機体の旋回にかかる時間や、減速してから速度を戻すまでの時間、機体がぶれた時に修正するまでの速さ、その生徒が実際にどこまでできるのかを、飛び方から考えていた。
この操縦なら、時間内に取れるのはあと三つ。次は右。その先を一つ取って、最後は左下。それ以上を狙えば、五分を越えて帰還が遅れる……と。
「あと少し右から入った方が次につながる」
環が呟いた。
「どれくらい?」
ロイも空を見上げる。
環は目を細め、機体が光輪へ近づくのを見ながら腕を伸ばし、水平にした掌をほんの少し傾けた。
「あと七度くらい右かな。今の角度だと、取ったあとに左へ戻しすぎるから」
言い終わる頃には、機体は光輪を取得していた。環が見ていた通り、操縦している生徒はそのまま次へは進めず、一度機首を左へ大きく振り直す。
ロイは機体の動きを見てから、隣の環を見る。
「そんな角度まで考えて飛べる新入生いないって」
環は空を見たままだった。
光輪は一つ一つ独立して浮いているように見える。環の目には、その間にいくつもの線が引かれていた。見ているのは、光輪同士を最短でつなぐ道だ。そしてどの態勢で入れば次へ抜けやすいか、どの地点で上昇しておけばその先の進路変更を最小限にできるか、今ここで速度を落とせば何秒使い、逆に維持すればどの位置まで届くか。
飛んでいる機体が一つを取るたび、残った光輪の中からまた次の最適な道筋を組み直す。
そうやって何人もの生徒の試験を見ていたが、八つのうち五つ以上の光輪を取得できた生徒はいなかった。
無理に速度を保って光輪の端を狙うより、中心へ余裕を持って入り、姿勢を整えてから次へ向かう方が失敗は少ない。
今飛んでいる生徒もそうしていた。多少遠回りしながらも、機体を大きく崩すことなく一つずつ光輪を取っていく。
その試験が終わり、また空に浮かぶ光の輪の配置が変わる。
昼の時間が少しずつ過ぎていく。
初めは近くの芝生にも何組かいた学生たちが、一人、また一人と校舎へ戻り、舗装路を歩く人数も減っていた。斜面を渡る風は絶えず、環の制服の裾と草の先を同じ方向へ揺らしている。下からは戦闘機の推進音、その合間を縫うように整備設備の駆動音や車両の走行音が届き、人の声までは聞こえなかった。
「もう飽きてきた…。今年の新入生、あんまり上手いやついないな」
環は聞いているのかいないのか、ロイに返事をしなかった。
新しく発進した機体は、これまで見た中でもかなり拙い操縦だった。離陸直後から細かな揺れが続き、光輪へ向かうたびに進路を修正している。最初の一つを取るだけでも速度をかなり落とし、そのあと機首を上げすぎて、また慌てて戻した。
ロイが膝へ肘を置き、その飛行を眺める。
機体が次の光輪へ向かった。今度は少し手前で右へ流れ、大きく切り返す。急な修正で姿勢が崩れ、翼が傾いた。
「ははっ、前のがあんなに下手じゃ、次のやつ余計に緊張しちゃうよ」
ロイは片手を草について立ち上がった。座っていた制服の後ろを両手で払い、脚を伸ばすように身体を反らす。
「腹も減ったし…なあ、そろそろ行こうぜ」
環はまだ飛んでいる機体を見ていた。どうにか姿勢を戻し、次の光輪へ向かおうとしている。
数秒して、環も両手で身体を支えながら立ち上がった。膝のあたりについた細い草を払い、訓練場からようやく視線を外す。
「うん。じゃ行こうか」
ロイが先に校舎の方へ歩き出した。環もその隣へ向かう。一歩、二歩と草を踏んだ。
……そこで環の足が止まった。訓練場の方へ振り返り、次いで身体ごと向きを変える。
「なあ、もう行こうって――」
環はロイの言葉を遮るように片手を上げた。ロイはそれを見て言葉を止める。
何があるのかと、環と同じように訓練場へ顔を向けた。
さっきまでと景色は何も変わっていなかった。
「……聞いて。この音」
環の声は小さかった。
空では、まださっきの新入生が飛んでいる。機体は何度も姿勢を直しながら残った光輪へ近づき、その下の格納庫前では整備車両が行き来している。低い機械音が、飛行中の機体音に混じって遠くまで届いていた。発進を待つ機体も一機だけではない。地上車両の駆動音に、遠くの別区画から響く音まで重なり、丘の上へ届く頃にはそれぞれの境目が分からなくなるほど混じり合っていた。
「え?」
ロイが聞き返しても環は動かなかった。
空を飛んでいる機体ではなく、第三格納庫の方を見ている。
ロイも同じ場所へ目を向けたが、そこにはさきほどと同じように次の試験を待つ機体と大勢の人がいるだけだった。
「何の迷いもない。僅かなブレもない……」
独り言のように呟く環の言葉に、ロイが眉を寄せる。
飛行中の機体が頭上を横切り、その推進音が一度大きくなる。地上では別の機械が作動し、複数の音が重なった。
「こんな澄んだ機体音、初めてだ……」
環は耳を澄ますように目を閉じた。
「……は? どの音?」
環はロイの言葉に目を開き、第三格納庫の前にある一機の戦闘機を指差した。
まだ滑走路にも出ていない、次の順番を待っている一機だった。
前の生徒のテスト終了時刻が近づくと、やがて第三格納庫の前でその機体がゆっくりと動き始めた。
「え? 次テスト受ける子の機体の音?」
ロイは環にそう言って耳を傾けたが、「周りがうるさすぎてわからない」と呟いた。
着陸態勢に入っていた戦闘機が大きく傾いた。
進路を戻そうとした機首が一度不自然に振れ、次の瞬間、それまで続いていた細かな揺れが消えた。傾いていた機体が素早く水平へ戻り、速度も姿勢も一定になる。
「あーあ、安全補正入った。減点だな、あいつ」
ふらついていた動きがなくなり、決められた線の上へ乗ったように帰還へ入る。滑走路へ近づくにつれて速度を落とし、最後は人が操っていた時とは明らかに違う、垂直に近い安定した動きでゆっくりと地上へ降りていった。
ロイがそう呟いたときも、環はその帰還をほとんど見ていなかった。
安全補正を受けた機体が着地する間に、次の一機は第三格納庫前から滑走路へ向かっている。
ここからでは操縦席の中までは見えない。
誰が乗っているのかも分からない。
機体はゆっくり進み、発進位置へ入った。環の目がその動きを追う。
「…今、何時?」
時計を見る時間すら惜しいというように、環はロイに時間を訊いた。
「えっと…十二時三十一分」
発進位置に止まった機体の向こうで、空に新しく配置された光輪が淡く光った。環は両腕を身体の横へ下ろしたまま、目を見開いてその一機を見つめていた。
次のテストを待つ機体の前には淡い赤色の光がゲートのように立ち、機体の進路を塞ぐように浮かんでいる。準備完了を告げる短い電子音が響いたあと、三秒後にスタートが可能になる。ゲートの光が白へ変わり、発進許可と同時に左右へほどけるように消えていく。
丘の上まではその電子音は届かなかったが、赤い光が白く変わったのは環たちにも見えた。
光がまだ完全に消えきるより早く機体の出力音が跳ね上がり、機体は滑走路をほとんど一直線に加速していく。初飛行の新入生とは到底思えない速度だった。左右へぶれることもなく、地面を離れる瞬間は重さを感じさせないほど軽く、フッと浮き上がるとそのまま空へ向かって一気に高度を上げた。
「すっげ…!」
ロイは思わず呟いた。
垂直に飛び始めても機体は減速しなかった。上昇した勢いをほとんど殺さないまま機首を振り、最初の光輪へ向きを変える。
環は目を離さなかった。八つの光輪は高さも距離もばらばらに浮かび、その全てをつなぐ道を探すように視線だけが空を動いていく。
「まず左を取る……」
機体が左へ切れ、光輪の端へ触れた。白い輪が消える。その時にはもう機首が次へ向き始めていた。
「そのまままっすぐ……右を取る」
環の呟きと同時に二つ目の光輪が消えた。
ロイが一度、環の横顔を見る。環は気付かず、飛んでいる機体だけを追っていた。
次の光輪は機体のすぐ近くにあった。少し寄ればそのまま取れる位置だったが、機体はそちらへ向かわず、光輪の横を抜けてさらに奥へ加速していく。
「……――!」
環は驚きを隠せなかった。ロイは首を傾げて空を見ている。
「あれ? あんな近くのリング取り損ねてるぞ」
「取り損ねたんじゃない…」
環の視線が、残された光輪からさらに奥へ移る。
「あえて取らなかったんだ…。先に奥の二つを取る」
機体はそのまま飛び続けた。三つ目の光輪を取り、その時にはすでに次の光輪へ入る角度ができている。ほとんど軌道を修正することなく四つ目へ触れると、そのまま上方へ抜けた。
「なんだあれ……宇宙の子か!?」
「……宇宙の子?」
環が短く聞き返したが、ロイは答えなかった。二人の視線はまた同時に空へ戻る。
丘の下でも、いつの間にか足を止めて空を見上げる学生が増えていた。次の試験を待っていた者まで格納庫の前へ出てきて、ざわめきが風の合間にかすかに届く。
機体はさらに上側の光輪へ向かった。速度を落とす様子はない。五つ目を取り、そのまま離れた六つ目へ機首を向ける。光輪が消えた直後、機体はもっとも高い位置で折り返しへ入った。
「あんな速度じゃ曲がれない!」
ロイの声が上がった。
高速のまま機体の向きが一気に変わる。大きく膨らむはずの軌道が驚くほど小さくまとまり、速度をほとんど失わず帰路へ乗った。
「えっ!? あの速度でシフト・ターン!?」
環は息を詰めるようにその動きを見ていた。残っている光輪は二つ。右側に一つと、環が『あえて取らなかった』と言った一つだった。
「右のリングを先に取った後――」
機体が右へ滑り、七つ目の光輪を消した。そのまま帰還方向へ機首を戻してくる。先ほど取らずに見送った光輪の方へ向かっている。
環は瞬きも忘れ、大きく叫んだ。
「左翼端で取れる!」
機体は光輪の中心へ向かわず、進路をほとんど変えないまま左翼端だけが輪の縁を掠める。触れた瞬間、最後の光輪が消えた。
「……全部取った……」
ロイがありえないものを見たように、小さな声で言った。
「速い……。僕が今のコースを飛ぶより、十秒以上速いだろう…」
そう呟いた環の口元には、わずかに笑顔が浮かんでいた。機体はそのまま帰還へ入った。先ほど安全補正に運ばれてきた機体のような機械的な動きではない。速度を落としながら滑走路へ入り、最後まで滑らかに姿勢を調整して地上へ降りる。そのまま短い距離を進んで速度を落とし、格納庫の裏へ向かった。
「うわー…なんだったんだ、今の……」
「自動操縦じゃね?」
上の方からそんな声が聞こえてきた。何人もの学生がまだ騒いでいた。
戻ってきた戦闘機は建物の陰へ消えていき、見えなくなった。それでも環は、同じ方向を見続けていた。さっきまで空を震わせていた機体音も次第に遠のき、やがて訓練場に残った他の機械音や、草の上を渡ってくる風の音に紛れていく。
環もロイもしばらく何も言わなかった。二人ともその場を動かないまま、次の生徒の機体が前へ進んでくるのを見ていた。
やがて、環が小さく口を開いた。
「……あの人は、僕と同じものを見てる」
環は独り言のように、珍しく掠れた声でそう呟いた。
「え…いや、自動操縦じゃない? あんなの初心者には無理だよ」
ロイは手を振りながら言ったが、環は首を振りながらそれを否定する。
「自動操縦じゃない」
「え?」
「最後のリングは、往路でほんの少し左へ寄ればすぐ取れたんだ。自動操縦なら先に取ってる。でも、取らなかった。最後に回した」
環は、もう光輪のない空へ視線を戻した。
「僕が出した最適解と同じだ。それに着陸も手動だった」
「いや…初年生があんなこと…。あ、じゃあ…もしかして『青嵐』の赤羽艦長が見本飛行してたとか!」
「……誰?」
「お前、赤羽艦長も知らないのかよ! 超有名人なのに……」
ロイは呆れたように肩を落とした。
「それになに? 宇宙の子って」
「ああ…宇宙の子。そういう噂があんの。宇宙で生まれ育った子がいて、子供の時から戦闘機乗ってて、ものすごく操縦がうまいパイロットってやつ。皆知ってるよ」
「あ、そう……ただの噂話ね……」
環は顎へ手を添えたまま、さっきの飛行を思い返していた。自分が見ていた道を、同じように見ている人がいた。
それだけではない。環が頭の中で作ったその道を、自分よりも速く、正確に、現実の空へ描いた。
名前も知らない。顔も見ていない。男か女かも、本当に新入生なのかさえ分からない。
それでも環の中では、ごく自然に一つの言葉へ行き着いた。
「あの人は――僕の運命の人だ」
ロイがゆっくり環を見る。
「……は……?」
環は第三格納庫の方へ指をさした。口元には、いつもより少しだけはっきりした笑みが浮かんでいた。
「あの人を手に入れたい」
環がそう言うと、ロイは一瞬、言葉を失ったように環の顔を見た。
「……ちょっと待って」
ロイの声が低くなった。環を落ち着かせようとするように広げた両手を何度か下に下げて見せる。
「今、お前なんて言った?」
「手に入れたい」
「その前」
「僕の運命の人」
「なんで⁉」
ロイの声が丘の上へ響いた。環は驚いているロイを見たあと、また第三格納庫へ顔を向ける。
「あの人は、当然パイロットになるだろう……」
少しの間、環は黙って考えていた。
「僕もパイロットじゃ、同じ艦に配属される保証がない……」
風が斜面の草を大きく倒し、また起こしていく。
「……そうだ、艦長になれば。自分の艦を持てば、パイロットに配属希望を出せるはず……」
環はパッとロイを振り向くと、その両肩をつかんだ。いつもより大きく目を開き、抑えきれないように笑みを浮かべる。
「ロイ、僕は、艦艇指揮専科へ行く!」
「え? 指揮専?」
「艦長になる」
環の急な方向転換に、ロイは口を閉じられない。
「そうすれば、配属希望を出せるはず。あの人と同じ艦に乗れる」
「……うそでしょ」
何か言いかけて一度口を閉じ、ロイは片手で額を押さえて溜め息をついた。
「い、いや、お前ならなれるよ? 艦長。でも何年後の話……っていうか! 相手、誰かも分かってないんだぞ。もしかしたら講師かもしれないし。どうする? オッサンかもしれないぞ?」
「あんな実技ができる講師、この学校にはいないよ」
「あんな実技できる新入生がこの世にいるわけないだろ!」
「男性でも女性でも気にしない。何歳でも関係ない」
環はハッキリと言い切る。二人ともそこで黙った。すでに次の試験が始まり、訓練場はいつもの流れへ戻りつつあった。
「……調べてみよう」
環は訓練場に背を向ける。
「とりあえず昼食を取って、午後の授業に出よう。僕は放課後、艦艇指揮専科に進路希望を提出してから資料室へ行く」
ロイが少し遅れて追いかけてくる。
「ちょっと待てよー……お前、こんな簡単に人生決めていいの……?」
「行こう」
並んで歩き出してからも、ロイは何度か環の横顔を見た。環の口元にはまだわずかに笑みが残っていて、いつもより明るい表情のまま、まっすぐ校舎の方へ歩いている。
「でもまあ……環のこんな顔、初めて見たかも」
環は足を止めて、微笑むロイを振り返り、少し首を傾げた。
「僕、どんな顔してる?」
ロイは少し考えた。
「んー……そうだなあ……『生きてる』って顔」
「なにそれ。僕はずっと生きてるよ」
ロイが笑った。
「ははっ……『生き生きしてる』、かな」
「意味が全然違う」
「ごめん」
二人は並んで校舎へ向かって歩いていった。新入生のテスト飛行の機体音がまだ空に響き続けていた。
***
午後の授業が終わると、教室から出てきた学生たちの声が廊下へ広がった。椅子を引く音、次の予定を話しながら歩く声、その間を抜けて、環がロイのところへ戻ってくる。
「出してきた」
環の嬉しそうな声に、ロイが顔を上げた。
「……何を?」
「進路希望。艦艇指揮専科」
数秒、ロイは環の顔を見た。それから口元を引きつらせるように笑う。
「うわー……やったな」
「調べにいく」
環はそれだけ言うと、もう廊下の先へ歩き出した。ロイは立ち止まったままその背中を見送りかけ、すぐに鞄を持ち直して追いかけた。
放課後の資料室には、何人かの学生が資料を調べに来ていた。壁際と中央に閲覧用のオーブが並び、それぞれの前で学生たちが静かに表示を追っている。廊下のざわめきは扉が閉まると遠くなり、室内には表示を操作する小さな音と、時折椅子を動かす音だけが残った。
環は空いているオーブの前へ行き、指先で表面へ触れた。淡い光が広がり、表示が開く。ロイは誘われたわけでもないのに、その隣まで来て表示を覗き込んだ。
「第三格納庫前……十二時三十一分……」
環の指が迷いなく条件を絞っていく。今日行われた新入生の初飛行試験。第三格納庫。昼に見ていた順番と、ロイが確認した時刻。その時間帯の受験者が表示に並び、環は上から順に視線を動かした。
やがて指が止まる。
「……この人だ」
ロイが少し身を寄せた。
表示されていた名前は、『旭 空遠』。
「本国名だな」
ロイが表示を見ながら呟いた。
環はその下へ視線を移した。高次初年生、十五歳、男性。
「旭……空遠」
名前を一度読んで、環は生徒の登録画像を開いた。画像が宙へ浮かび上がる。中性的な幼い顔立ちをした茶色の髪の新入生が、正面を向いていた。
ロイも横から登録画像を覗き込む。
「……男だぞ。どうする?」
「男性でも女性でも、年がいくつでも、何も関係ない。そう言ったはず」
環は迷わず答えた。もう一度登録画像を見て、口元をわずかに緩める。
「この人が僕の運命の人だ」
「マジかよ…」
ロイは何とも言えない顔で環を見たあと、再び登録画像へ視線を戻した。
「…この子、なんか見覚えあるなぁ……」
「知ってるの?」
「……いや、分からないな……」
ロイはしばらく登録画像を見つめたが、何も思い出せないようで首を傾げた。
環は次にテスト履歴を開いた。
「得点は?」
ロイが横から聞いた。
環の指が止まる。本来なら得点が表示される位置には、数字がなかった。
「……無効?」
その下に、短い記載が続いている。
「後日再検定……どうして?」
環の眉がわずかに寄った。
ロイが理由の欄を見つけ、指をさした。
「自動操縦だって。ほら。やっぱり」
そこには、試験中に規定外の自動操縦制御が作動していたため、本人の操縦技能を正しく判定できないとして記録を無効とし、後日再検定を行う、と表示されている。
「違う。自動操縦のわけがない」
「でも学校の記録はそうなってるぞ」
「何かの間違いだ」
環が珍しく強い調子で言うので、ロイは「シーッ」と人差し指を口に当てた。
環は宙に浮かぶ空遠の登録画像と、その下の「無効」の文字をしばらく見比べていた。
宙に浮かぶ登録画像の生徒は、昼に見た疾駆の戦闘機とはまるで結びつかないほど大人しそうな顔でこちらを向いている。
環はその小さな登録画像をしばらく見つめたあと、オーブから手を離した。全ての画像が消え、オーブの光が消えた。
「……見に行こう」
「え?」
「実際に会ってみる」
「え⁉」
ロイは一度環を見て、それからようやく意味がつながったように目を見開いた。
「今から初年生棟まで行く気?」
「行く」
環はすでに資料室の出口へ向かっていた。
「嘘だろー……」
ロイはその背中を見たまま立ち尽くし、ひとつ息を吐くと、環のあとを追った。
「ああ……俺も行くよ」
***
初年生棟の前には、授業を終えた学生たちが数人いた。友人同士で話しながら歩いていく者もいれば、一人で帰る者もいる。
環は出入口から少し離れたところに立ち、そこを通る生徒を一人ずつ見ていた。その隣ではロイが地面にしゃがんでいて、何度目か分からないほど時計へ目を落とす。
「なあ、今日会えるとは限らないけど。もう帰ってるかもしれないし……」
ロイがそう言う間にも、また何人かの新入生が出てきた。昼に登録画像で見た顔はその中にはない。環は腕を組み、次に開く扉を待っている。
「いつまで待ってんの?」
「あと少し」
ロイが顔を上げて環を見る。
「…はぁ。いつも意味不明なくらい数字言うのに、なんで今日は『あと少し』なんだよー……」
環は返事をしなかった。何分まで待つのかを決めた様子もなく、ただ初年生棟の出入口を見続けている。建物から出てくる学生の数は次第に減り、少し前まで続いていた話し声もまばらになってきた。
「帰ろうぜ?」
ロイが言ったが、環は動かなかった。
しばらくして、扉がまた開いた。
新入生が一人、建物から出てくる。両手で肩から下げた鞄の紐を握っていた。顔を伏せて背を少し丸めて歩いているせいで、華奢な身体がさらに小さく見える。細かい歩幅でゆっくりと歩いてきた。
環の目が大きく開いた。
オーブの登録画面で見た旭空遠の顔だった。情報では身長まではわからなかったが、他の生徒と比べるとだいぶ背が低かった。
「あ……あれ……」
隣でロイがそう言って、環の足を数回叩いて立ち上がった。
あの八つの光輪全てを一つの経路へつないで駆け抜けた操縦士が、この自信が無さそうな歩調でとぼとぼ歩いている目の前の小柄な生徒なのか。
いや…そんなわけはない、と言うようにロイは肩をすくめ、両手を広げた。
少し俯いて静かに歩いてくる『旭空遠』…少し長めの、雑に切った茶色の髪が揺れていた。
環の視線に気付いたのか、彼がふと顔を上げた。
二人の目が合う。
環は目を見開いたまま、動かなかった。
空遠は一瞬だけ環を見て、すぐに視線を外した。そのまま少しだけ歩調を速めて、二人の前を通り過ぎていった。
環は声をかけなかった。
ただ身体の向きを変え、遠ざかっていく空遠を目で追った。背中が次第に遠くなり、やがて建物の角の向こうへ消える。それでも環はしばらく同じ方向を見ていた。
ロイが横から環の顔を覗き込む。誰もいなくなった方向を見続けている環に、ロイはからかうように声をかける。
「おーい。大丈夫ですかぁ?」
環が返事をするまで少し間があった。
「……間違いないね。あの人が、僕の運命の人…」
学校側が示したテストの結果がそれを否定していても、まったく信じない。
ロイは大きく頷いて、環の肩を優しくポンポンと叩いた。
「そっか…すごいな環…。戦闘機が飛ぶ前の始動音だけで恋したやつなんて、この世界にお前しかいないだろうな」
環はようやく視線をロイの方へ戻した。
「叶生環、十八歳で初めての恋。なっ」
楽しそうに笑うロイに対し、環はずっと訝しげな顔をしている。
「……恋?」
口にしてから、環はわずかに眉を寄せた。知っている言葉なのに、今まで自分の中にあったものとはうまく重ならない。ロイは少しだけ首を傾けて環を見返した。
「…違うの?」
ロイの質問に環はすぐには答えなかった。
初年生棟の扉がまた開き、知らない学生が二人、話しながら外へ出てくる。外はだんだんと薄暗くなってきた。
「じゃあ、『運命の人』って何なんだよ?」
環は少し上を仰いで、顎に手を当てた。
「ロイは覚えてない?」
「え、何を?」
その返事に、環はほんの少し考えるように視線を落とした。夕方の風が初年生棟の前を抜け、制服の裾を揺らしていく。
「…昔読んだ絵本に書いてあった」
「絵本?」
「『どんなに時間がかかっても、遠回りしても、巡り巡って、必ずその人と共にあることを定められた相手』」
環がまるで書いてある文章をそのまま読み上げるように言うと、ロイはしばらく何も返さなかった。やがて肩から力を抜き、どこか呆れたように息を吐き、前髪を掻き上げた。
「そんな子供の夢物語信じてんの?」
「信じたわけじゃないけど、今のこの僕の感覚を、どう他の言葉で説明したらいいかがわからないんだ」
環は静かに答えた。昔その言葉を知った時には、自分に関係のあるものだとは思わなかった。今は、それ以外に当てはまる言葉が見つからない。
ロイはもう何も言ってこなかった。
昼に見たあの機体の軌道が自動操縦によるものではないと、環には言い切れるだけの根拠があった。
だが今会った小柄な新入生が実際に操縦していたのかと訊かれると、断定できる確証はない。
「それでも……」
この世界に、自分と同じ道を見つけ、自分より速くそこへ飛んでいく人がいる。それは疑いようのない事実だった。
夕方の風の音だけが二人の間を通り抜ける。環はゆっくりと歩き出した。
今はあの人の何も知らない。話したこともない。向こうは環の名前さえ知らず、さっき目が合ったことすら明日には忘れているかもしれない。
「何年かかってもいい」
遠くを見るように目を細めたあと、環は振り返り、ロイに向けていつもの静かな声で続けた。
「あの人に、いつか必ず僕のところへ来てもらう」
ロイの目に、もうからかうような表情はなかった。
環は、ロイを見た後で視線をずっとずっと上へ移動させていった。
「……宇宙で」
紫が混じる真っ赤な夕焼けの空の、雲の上の、更に遠くを指差すように、環はゆっくりと手を上げて人差し指を伸ばした。




