●第一部『環』 一章-幼等生
●第一部『環』 一章-幼等生
運動テストを終えた幼等生たちが、校舎へ続く渡り廊下をぞろぞろと戻っていた。まだ背丈の低い子供たちが連なって歩き、その中ではテストの記録を大きな声で言い合っている子もいる。徒競走や立ち幅跳び、ボール投げと朝からいくつもの種目をこなし、さっきまで運動場を動き回っていた子供たちの足取りも、帰りにはずいぶん重くなっている。額に汗を残した子が袖で顔を拭き、両腕をだらりと下げて歩いている子もいる。後ろの方では「もう足動かない」と声を上げた子がいて、それを聞いた別の子が笑った。
校舎は白と淡い灰色を基調にした、飾り気の少ない建物だった。壁や床はよく手入れされている。子供たちが二列、三列になって歩いても余裕があるほど広い廊下の片側には大きな窓が続き、そこから運動場と、その向こうに広がる空がよく見えた。
「もう徒競走ヤだ」
浅葱が言った。頬はまだ赤く、歩き方もいつもより少し重い。隣を歩いていたロイが、その背中をパンッと叩く。
「もっと本気出せよ」
「十分本気出したけど?」
浅葱は叩かれた背中へ手を回しながらロイを見た。
「まあ俺は『のんびり地上勤務の軍人』になるのが夢なわけ。お前らみたいに宇宙に出るエリート目指してないから」
「なんだそりゃ」
ロイは笑った。浅葱ほど疲れた様子ではなかったが、額の生え際には汗が残っている。走る種目ではかなり速い方だ。
「ロイ速かったよな」
後ろを歩いていた子が言うと、ロイは肩越しに振り返った。
「まあな」
「フォルスもすごかったじゃん。ボール投げ、一番だった?」
今度はフォルスへ声が飛んだ。
「たぶん」
「たぶんって何だよ。結果見ただろ」
「覚えてない」
何人かが笑った。誰が速かった、誰が遠くまで投げたといった話は、そのまま笑い声に混じって続いている。
その少し前を、環が一人で歩いていた。この日の運動テストでも、環の記録はどれも下位だった。
浅葱がその背中を見てハッキリとした声で言う。
「俺より全然やる気ない奴そこにいるじゃん」
その声は環にも届いていたが、環は振り返らなかった。歩く速さも変えず、そのまま開いていた教室の扉を通って自分の席へ向かう。
教室には同じ大きさの机が整然と並び、それぞれの中央に、子供の両手ほどのオーブと呼ばれる球状端末が一つずつ置かれていた。壁際には教材や子供たちの荷物を収める棚が並び、大きな窓から入る昼の光が机の上まで届いている。環は席に座ると、ロイたちがまだ後ろで話しながら入ってくるのを気にする様子もなく、自分のオーブへ指先で触れた。暗かった球面に淡い光が広がり、表示がいくつか切り替わる。環はそれを触ったり、浮かぶ画面を眺めたりしていた。他の子供たちも席へ戻りながら、まだ運動テストの結果を話していた。
やがてチャイムが鳴った。
教室へ入ってきた教師が前に立つ。教室前方には、生徒たちのものより一回り大きな教師用のオーブが置かれていた。運動テストの疲れを残して背もたれへ深く身体を預けていた子も、水を飲んでいた子も、それぞれ教師の方へ向き直った。
「歴史の授業を始めます。今日は前に勉強した、ラウゼンとの戦争についておさらいしましょう」
教師は教室を見渡してから、机の上に置かれたオーブへ手を伸ばした。球面に淡い光が走り、その上の空間に青い地球と、周囲に散らばるいくつもの星が描かれた画面が大きく浮かび上がった。
「私たちの国は、地球星圏連合といいます。地球と、その近くの星に住む人たちが集まってできた国ですね」
教師が指先を動かすと、地球の周りにある星々が順番に明るくなり、細い光の線で結ばれていった。教師はその一つを指差してから、今度は少し離れたところへ手を動かした。映像がゆっくり広がり、先ほどまで見えていなかった遠くの星々が現れる。
「ずっと昔、地球から遠くの星へ行って、そこで暮らし始めた人たちがいました。その人たちが長い時間をかけてつくった国が、ラウゼン帝国です」
地球から遠く離れた星の集まりが明るく浮かび上がった。教師がそのあたりへ指を向けると、ラウゼンの名前が表示される。さらに指先を滑らせると、二つの国の間にいくつもの星と、宇宙船が通る道を示す光の線が現れた。
「地球星圏連合とラウゼンは、宇宙の星や、宇宙船が通る道をどちらの国のものにするかで、争うようになりました。初めは話し合っていましたが、やがて戦いが起こり、大きな戦争になってしまったのです」
教師は二つの国の間を指でなぞり、いくつかの星を順番に示した。争いのあった場所が赤い光で浮かび上がる。教師はそこで一度手を止め、子供たちの方へ顔を向けた。
「今も、私たちはラウゼンと戦争をしています。みんなが生まれるずっと前から続いている戦争です」
教師は教室をゆっくり見渡した。子供たちはそれぞれ顔を上げ、宙に浮かんだ星々の映像を眺めている。教師がオーブに触れた指先を動かすと映像が切り替わり、星域図の横にいくつかの機械が浮かんだ。
「ラウゼンの人たちは、暮らすのが大変な星で、生活を助けるための機械をたくさん作ってきたのです。そのため私たちより進んでいる機械技術があります。ですが、全部向こうの方が優れているわけではありません。地球側にも、ラウゼンより進んでいる技術がありますよ」
そのあともいくつか映像が切り替わり、教師は内容を確認しながら授業を進めていった。
その途中、授業を遮るように子供の声が上がった。
「先生、戦争っていつ終わるの?」
手を挙げるでもなく、ごく普通に分からないことを尋ねるような声だった。
教師の手が止まった。
「……さあ。そればかりは、わかりません」
短い間があったがそれ以上の答えはなく、教師が宙に浮かんでいた画面や映像を手で払うと、全てが消えて教室は元の明るさに戻った。
「それじゃ、テストを始めますね」
「はぁ……」
教室のあちこちから、ほとんど同時にため息が漏れた。隣同士で顔を見合わせる子もいたが、教師が何も言わずに見回すと、みんなそれぞれ自分の机へ向き直った。
オーブの球体内にテスト問題の文字が浮かび上がり、子供たちは次々に手を伸ばして答え始める。
環のオーブにも、同じように最初の問題が浮かんでいた。
環はしばらくそれを見ていたが、オーブには触れなかった。右手を持ち上げ、自分の手をじっと見ている。
「……叶生環、何してるの?」
教師の声に、環が顔を上げた。
「手を見てます」
「どうして手なんか見てるの?」
環はもう一度、自分の手へ目を落とした。
「僕の指紋って、どうしてこんな模様なんだろうって考えて……」
教師の眉が寄った。
「……そんなことはどうでもいいから、テストに答えなさい。幼等生だってみんな答えられる問題なのよ。なぜいつもテストをやらないの?」
近くの子供が振り向いた。
「真面目にやりなさい。さあ、手をオーブに置いて」
環は手を下ろし、言われたとおりオーブの上に乗せた。目の前の問いをしばらく見ていたものの、回答には触れない。やがて手を離すと、また自分の手を見ていた。
環は片肘を机につき、頬杖をついた。
窓の外には、昼の青い空が広がっていた。白い雲がゆっくりと形を変えながら流れていく。その下を小さな鳥が一羽横切り、少し遅れてもう一羽があとを追った。環の視線が二羽を追いかける。鳥たちが並ぶように飛んでいくのを見て、環はほんの少し微笑んだ。
机の上では、オーブに最初の問題が出たままだった。
周りでは子供たちが黙ってテストを続けている。ときどき椅子が鳴り、誰かが姿勢を変える音がする。その間にも雲はゆっくり流れ、さっきの鳥はもう見えなくなっていた。
環は頬杖をついたまま、流れていく雲を目で追っていた。
やがて授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。
張りつめていた教室が一度にほどけ、子供たちが顔を上げる。伸びをする子、隣の席へ話しかける子、すぐに立ち上がる子がいる中で、環はまだ窓の外を見ていた。
その前のオーブには、最後まで一つも回答が入っていなかった。
***
地方都市セナにある、軍が管理する児童院の建物は、綺麗に管理されていた。薄いベージュ色の外壁には特に目立った汚れもない。
環は学校から児童院へ戻ると、建物の前にある芝生の庭へ向かった。
鞄を芝生の端へ置き、庭の少し開けたところへ仰向けに寝転がった。両腕を左右へ広げると、制服の袖の下で草がやわらかく倒れ、頬を撫でていく風に前髪がわずかに揺れた。まだ夕暮れには早く、空は明るい青を残している。
少し離れたところでは何人かの子供たちが遊び、弾んだ声と走り回る靴音が庭を行き来していた。建物の中からも話し声が漏れている。環は頭上に浮かぶ白い雲を眺めていた。大きく広がった雲の端は風にほどけるように細く伸び、その横では小さな雲がゆっくり流れていく。重なりそうになった二つの雲は少しずつ形を変え、やがて離れていった。環の目は、その輪郭が崩れては別の形になっていくのを追っていた。
「おい」
それまで青い空と白い雲しかなかった環の視界へ、突然ロイの顔が入り込んだ。覗き込むように身を屈めていて、風が吹くたびに茶色い前髪が揺れ、その隙間からさっきまで見ていた空の青がちらちら見える。ロイは少し眉を寄せて環を見下ろしていた。
「なに?」
「お前、なんで真面目にやらないの?」
環は寝転がったまま、ロイの顔を見上げた。ロイの声には怒鳴るほどの強さはないものの、何か納得がいかないような響きが混じっている。
「運動テストも、勉強のテストも」
「叶生環、いますかー?」
庭の向こうから職員の声が飛んできた。環はロイから顔を外し、上半身を起こしてそちらを見る。
「ここにいる」
「今週、当番でしょう。倉庫からタオル一束持ってきてー」
環は立ち上がると、背中や袖についた細かな芝を手でぱっぱっと払った。
「今、取りに行く」
「あ、ロイヤード・リンもいるの? 叶生環一人じゃちょっと心もとないから、一緒に行ってくれる?」
「なんで? 俺、今週当番じゃないのに」
ロイは口を尖らせるようにして職員のいる方を見て、肩を落とした。環が鞄を芝生へ置いたまま倉庫へ向かって歩き出しても、すぐには動かずその場に残っていたが、数歩離れたところで振り返った環と目が合うと、いかにも面倒そうな足取りで追いかけてきた。
二人は建物へ入り、庭の明るさを背に廊下の奥へ進んだ。生活棟の中央辺りではまだ子供たちが行き交っていたが、倉庫のある端まで来ると人影は少なくなり、足音だけが硬い床に小さく響く。環が扉を開けると、その向こうには細長い倉庫があり、両側の壁を埋めるように天井近くまで棚が並んでいた。
中は二人の子供が横に並ぶにも窮屈なほど狭く、箱や掃除用品、予備の日用品が詰められた棚がすぐ肩のそばまで迫っている。畳まれた布類からする乾いた匂いに、洗剤の匂いがわずかに混じっていた。入口から差し込む光も奥までは十分に届かず、棚の上段ほど薄暗い。その一番奥、環たちの頭よりずっと高い棚に、同じ大きさに畳まれたタオルが何束か積まれ、それぞれ一本の紐でまとめられていた。
ロイは棚を見上げると、迷うことなく壁際へ身体を向けた。棚と壁の狭い隙間に収められている踏み台へ手を伸ばし、身体を少し横にして引き出そうとする。その横で環は最上段のタオルを見上げ、束をまとめている紐の位置へ目を向けた。膝がわずかに沈んだ。
――その瞬間、足が床を離れ、小さな身体がふわりと浮き上がった。狭い棚の間をまっすぐ上へ抜けるように身体が持ち上がり、伸ばした右手が最上段へ届く。指先がタオルの束をまとめている紐を掴み、そのまま一束だけを棚から引き出した。身体が落ちてくると、環は両足で床を捉えた。
タン、と着地した靴の軽い音が、狭い倉庫に響いた。
「……え……?」
ロイが小さく声を漏らす。
環がタオルの束を抱え直して顔を上げると、ロイは踏み台を半分ほど引き出した姿勢のまま止まっていた。片手を踏み台へ掛け、目を見開いたまま環と棚の上を交互に見る。一拍置いて、ようやくもう一度口を開いた。
「……え、なに今のジャンプ」
「届いた」
「な、なんで……。そこ、普通ジャンプで届く高さじゃないし……!」
環はもう一度棚を見上げたあと、腕の中のタオルへ目を落とし、そのまま入口へ向かった。数歩進んだところで背後から物の擦れる音がして振り返ると、ロイは途中まで引き出していた踏み台を両手で押し、元の狭い隙間へきちんと戻していた。収まったのを確かめると、まだ何とも言えない顔のまま環を追って倉庫を出てくる。
二人が戻ると、先ほどの職員は別の子供と話していた。環はその会話が終わるまでそばで待ち、職員がこちらへ顔を向けると、束をまとめている紐を持ち直して差し出した。
「はい」
職員は環からタオルを受け取った。
「タオルね、ありがとう」
それから隣にいるロイへ顔を向ける。
「ロイヤード・リンもありがとう」
職員はもう一度、環を見る。
「あなたを手伝ってくれたんだから、ちゃんとお礼を言いなさい」
環がロイへ顔を向けると、ロイもじっと環を見返していた。ロイは口元をわずかに引き結び、何か言いたげなのに言葉にはしない、妙な顔をしている。環はその顔をしばらく見たあと、ほんの少し微笑んだ。
「ありがとう、ロイ」
自分の名前を呼ばれた瞬間、ロイの肩が小さくびくっと跳ねた。環はそのままロイの隣を通り過ぎ、建物の外へ出た。
庭にはまだ明るい光が残っていて、夕暮れまでにはもう少し時間があった。環はさっきまで寝転がっていた芝生へ戻ると、また仰向けになって両腕を広げ、空を見上げた。少し前とは雲の位置が変わっていて、頭上に浮かんだ一つが、長い胴と細い尾を持った魚のような形になっている。環はしばらくそれを眺めてから目を閉じた。風が芝をさわさわと揺らし、その向こうから遊んでいる子供たちの笑い声が聞こえる。どこかで鳥が一度鳴き、少し間を置いて、また別の声が返った。
環が目を開けると、さっきまで魚のようだった雲は途中でちぎれ、形を変えていた。丸く膨らんだところから二つの小さな突起が伸び、今度は耳を立てた猫のように見える。環はそれを見て、ふふっと小さく笑って呟いた。
「……面白い」
***
翌日、授業が全て終わると、環は鞄を持って校舎を出た。午後の授業を終えた幼等生たちが一斉に外へ出てきて、校門の前はしばらく子供たちの声で騒がしくなる。走り出す子、鞄を片手で振りながら友達と話している子、校門の脇で立ち止まって今日の授業の続きを話している子もいた。
学校の前には、町へ続く広い舗装路が伸びていた。車両の通る道と歩行用の道は低い植え込みで分けられ、歩道沿いには等間隔に木が植えられている。まだ日の高い時間で、枝の間から落ちる光が路面へ細かな影を作っていた。向かい側には何階かある住居棟や小さな店が並び、その間を縫うように細い道が奥へ続いている。ときおり車道をローカルシャトルが通り過ぎたが、子供たちはそれを気にする様子もなく、いつもの帰り道を歩いていく。
児童院へ帰る子供たちは、一応列の形を保ちながらも、隣を歩く子と話したり、少し前後したりしながら歩いていた。少し先では二人がふざけて鞄を取り合い、その横を別の子が笑いながら追い越していく。環がまだその集団の近くを歩いていたとき、ロイは浅葱と並び、その少し前を歩くフォルスたちと話していた。
やがて環はその集団から少し離れた前方へ出た。児童院へ帰る道はこのまままっすぐ続いているが、環は道が二つに分かれるところまで来ると、いつもの帰り道を外れ、そのまま別の道へ入っていった。
環が先へ進んでいくと、後ろからロイが大きな声で環に声をかけた。
「おーい、どこ行くんだよ?」
環は足を止めた。肩越しに振り返ると、ロイたちだけではなく、その周りを歩いていた何人かの子供も声につられて見ていた。
「高台へ行く」
環はそれだけ答えると、また前を向いた。立ち止まっていたのはほんの短い間で、そのまま先へ歩いていく。
「え? 町の高台?」
後ろからロイが聞き返した。環は振り返らず、そのまま歩き続ける。
「アイツほっとけって」
今度は浅葱の声が聞こえた。
少し間があった。後ろではまだ、児童院へ帰る子供たちの話し声と何人もの足音が重なっている。
「悪い、先帰ってて」
その直後、背後の足音の中から一つだけ、地面を強く蹴る音が続けて聞こえてきた。ロイが他の子供たちとは反対に、環の方へ走っていく。
その向こうで、浅葱の舌打ちが聞こえた。
「じゃあぼくたち先に帰ってるねー!」
フォルスの大きな声が後ろから響く。
やがてロイは環の少し後ろまで追いつき、駆け足を緩めた。そのまま環の後ろをついてくる。交差する道を一つ過ぎ、建物の並ぶ通りを抜けたところで、環は一度振り返った。
ロイはすぐ後ろにいた。環が見ていることに気付くと、笑って片手を上げ、小さく振ってみせる。環はそれを見たが、振り返すことはなく、そのまま前へ向き直った。
やがて平らだった道が少しずつ上り始め、町並みの間を抜けるにつれて坂はさらに急になっていく。道の脇には低い草が増え、建物の屋根が少しずつ下に見えるようになった。環は歩く速さを変えず、そのまま先へ進んでいく。
しばらくしてもう一度後ろを見ると、さっきまですぐ近くにいたロイは、いつの間にかずいぶん後ろまで離れていた。それでも止まらず、環に追いつこうと坂を走って上がってくる。
環は少しの間、走っているロイを見ていた。それからまた前へ向き直り、そのまま坂を上っていった。
「なあ、ちょっと待って!」
後ろからロイが大きな声で呼んだ。環はそのまま坂を上っていく。道が一度大きく曲がると、その先にはさらに長い上り坂が続いていた。この坂を上りきった先には、ベンチの置かれた高台の広場がある。
もうすぐ着く。それが嬉しくて、環の足取りが少し弾んだ。さっきまで歩いていた足がそのまま速まり、次の瞬間には坂を駆け上がっていた。長い上り坂を前にしても速度を緩めるどころか、むしろ先ほどまでより速くなっていく。
後ろのロイとの差はみるみる開いていった。
坂を上るにつれて傾斜は少しずつ緩くなり、その先が明るく開けてくる。やがて道の脇の斜面が途切れ、ベンチの置かれた高台の広場が見えた。
木々の間を抜けて広場へ出た途端、正面から強い風が吹き抜け、環の黒髪を大きく揺らした。環は目を細めた。この風も好きだった。視界を遮るものがなくなり、町の景色が一気に環の目の下へ広がった。さっきまで歩いてきた道や建物の屋根がずっと下に見え、その向こうにも町並みが続いている。
環がそこへ着いてしばらくすると、坂の下からロイが上がってきた。最後の数歩を駆けるように登り、環の近くまで来ると膝へ手をついて大きく息をする。頬は赤く、額にはうっすら汗が浮いていた。
「はぁ……はぁ……疲れた……。お前、すごいな……」
環はロイを見たあと、また高台の先へ目を戻した。あれだけ長い坂を駆け上がってきたというのに、環の呼吸はほとんど乱れておらず、額にも汗は浮かんでいない。
ロイが片手で額の汗を拭う。環はその様子を見ていた。
「身体の使い方に無駄が多いんだ」
ロイがきょとんとした顔で環を見る。
「……へ?」
「どうやって走ればいいかが分かれば、もっと速く、疲れずに走れるよ」
「……」
ロイは何も言わず、肩に掛けていた鞄を地面へ下ろした。それから、息一つ乱さず立っている環の顔をじっと見る。
環もロイを見ていたが、やがてまた前へ顔を向け、眼下に広がる町へ視線を戻した。
「……あのさ。それ、今度教えてくれる?」
ロイの声に振り返ると、さっきまで息を切らしていた顔に明るい笑みが浮かんでいた。環も少しだけ微笑んだ。
「いいよ」
ようやく呼吸を整えたロイが環の隣まで来て、町を見下ろした。
「うわー! 高っ!」
坂の上は町へ向かって大きく開けていた。下にはさっきまで歩いていた道や建物の屋根が並び、その向こうまで町が広がっている。遠くなるほど建物は小さく重なり、その上にはまだ明るい空が続いていた。
環は芝生の上へ鞄を置き、仰向けに寝転がった。背中の下で草が倒れ、頭の上には町よりずっと広く空が見える。雲はゆっくり流れ、端の形を少しずつ変えていた。
仰向けになった環の視界の端には、まだ立ったままのロイがいた。やがてロイも近くの芝生の上へ腰を下ろした。膝を曲げ、まだ少し乱れている呼吸を整えながら、寝転がっている環を見る。何か言いかけるように一度口を開いたが、そのまま閉じた。少しだけ迷うように視線を外してから、もう一度環へ顔を向ける。
「前にも聞いたけどさ、お前なんでテストちゃんとやらないの? 運動こんなにできるのに」
環は空を見たまま、すぐには答えなかった。少し眉を寄せ、流れていく雲を眺めながら考えている。
「んー……」
しばらくして、環が口を開いた。
「みんな、テストが好きなの?」
少し間があった。
「……はあ?」
「どうしてあの問題に答えなきゃいけないのか分からない。運動テストも、どうしてあんなことをするのか分からない」
環が言い終えても、ロイからはすぐに返事が返ってこなかった。環がロイの方へ顔を向けると、ロイは眉を寄せたまま、何か言いたそうな顔で環を見ていた。
「いい点だと褒められる。悪いともっと頑張れって言われる。みんな、誰ができるとかできないとか言ってる。僕、そういうの、どうでもいいから」
ロイはしばらく環を見ていたが、やがて額に手を当て、ため息をついた。
「お前さー……学校のテストって、いい点取って褒められたり、自分が誰に勝ってるか負けてるか考えたりさ。そんなもんだと思ってる?」
環は答えず、ロイを見た。
ロイも環の顔を見返していたが、今度はさらに大きなため息をついた。
「はぁ……」
ロイは肩を落とし、それから少し身体を環の方へ向けた。
「みんなテストなんか好きじゃないに決まってる。誰もテストなんかやりたくないよ」
ロイはそこで一度口を閉じた。膝の上で手を組み直し、環の顔を見ながら、ほんの少し考えるように間を置いた。それから、もう一度口を開いた。
「まあ、褒められたくて頑張ってるやつもいると思うし、誰かに勝ちたいってやつもいると思う。でも、それだけじゃない。なんでやるかっていうと、自分のためなんだよ」
「……」
環は何も言わず、そのままロイを見ていた。
ロイは環の顔を見ながら、言葉を続けた。
「だって大人はさ、俺たちが何できるか、テストの点だけ見て決めてるんだ。いつもいい点取ってたら、こいつならできるって、いろいろ任せてもらえる。でも点が悪かったら、こいつは無理って思われて、やらせてもらえない」
話し始めると、片手を振ったり、言葉に力を込めるたびに手をぎゅっと握ったりしながら、少しずつ身体を前へ乗り出してくる。
ロイはそのまま勢いを緩めず、さらに環の方へ顔を近づけた。
「俺、パイロットになりたいんだ。だから今テストを頑張るのは、未来の自分のため。パイロットになるためにやってるってこと!」
ロイは笑顔でそう言って、環の顔をまっすぐ見た。
環は肘をついて上半身を起こした。顎に手を当て、そのまま少し黙る。視線を足元へ落とし、しばらく経ってから小さく呟いた。
「……そうなんだ。未来の自分のため……。みんな文句言ってるけど、実はテストが好きでやりたいんだと思ってた」
「へ…? テストが…やりたい…?」
ロイは驚いた顔で環の言葉を繰り返した。環はそれからゆっくり目を閉じて、そのまましばらく考えていた。
「くっ……くっ……」
すぐ横から、押し殺すような笑い声が聞こえた。環が目を開くと、ロイは口元を緩め、笑いをこらえるように肩を小さく揺らしていた。
環はそんなロイを見て、首を傾げた。
「何か面白かった?」
「いや……ははっ」
そう答えながらも、ロイはまだ少し笑っていた。
環は顎に当てていた手を下ろした。しばらくそのままロイを見て、それからもう一度目を閉じた。
腕を組み、誰にも聞こえないほど小さな声で、何かをぶつぶつと呟いている。ロイはもう何も言わず、その様子を見ていた。少しして、環は大きく目を開いて言った。
「――わかった」
環は右手の人差し指でロイを指差し、満面の笑みを浮かべた。
「教えてくれてありがとう」
環はロイへ向けていた人差し指を下ろすと、そのまま芝生へ身体を倒した。頭の上にはさっきまでと変わらず空が大きく広がっているが、先ほど一つの塊に見えていた雲は、端の方がもう少し細く伸びていた。
「なあ。お前、もっとみんなと一緒に遊ばない?」
ロイは隣に座ったまま、曲げた膝へ両腕を乗せた。高台の下からは町の音がかすかに上がってきていたが、ここまで届くころにはどれも小さく、少し聞こえたと思えばすぐに途切れてしまう。
「この前もボールやろうって言ったのに来なかったじゃん。みんなでやった方が面白くない?」
環はすぐには答えなかった。仰向けになったまま、さっきから見ていた雲の輪郭を目で追っている。白く膨らんでいた端の一部がゆっくりほどけ、細く伸びながら青い空へ溶けるように薄くなっていく。
「空を見てる方が楽しいから」
ロイは少し黙り、それからつられるように顎を上げた。座ったまま頭上の空を見回し、環が見ているあたりから、その先に浮かぶ雲へ視線を動かしていく。しばらくそうしてから、首を少し傾けた。
「空? 空の何?」
環は変わらず空を見ていた。ロイはもう一度頭上を見上げたあと、座った姿勢で見続けるのが面倒になったのか、後ろへ両手をつき、そのまま芝生へごろんと身体を倒した。環の隣で仰向けになると、今度は同じ方向から空を見上げる。
「何が楽しいの?」
環は右腕をまっすぐ上へ伸ばした。人差し指の先を、少し離れたところに浮かんでいる大きな雲へ向ける。
「あの雲、動いてるでしょ」
ロイの目が環の指先を追って、その雲へ向いた。
「ずっと見てると、少しずつ形も変わるんだよ。さっき丸かったところが伸びたり、離れてた雲が近くなったりする。光の当たり方も変わるから、色もずっと同じじゃない」
環は腕を上げたまま、ゆっくり流れていく雲を指していた。言っている間にも雲の端は少しずつ崩れ、その向こうに見える青い部分が広くなっていく。
「同じ空に見えても、ずっと同じじゃないんだ。だから面白い」
ロイは黙ってその雲を眺めていた。少しすると片方の膝を立て、頭の下へ入れていた腕を組み直す。それでも起き上がることはなく、環が指した雲から、その隣に浮かぶ小さな雲へ目を移した。
「うーん……分かんないな。雲が動いてるだけじゃん」
環は少しして腕を下ろした。
「そう」
それ以上何か説明することはせず、また空を見続ける。ロイもすぐには起き上がらなかった。途中で両手を腹の上へ置いたり、また頭の下へ戻したり、靴の先を左右へ動かしたりしながら、環と同じようにしばらく空を眺めていた。
時間が経つにつれて、頭上に広がっていた青は少しずつ濃くなっていった。雲の下面へ傾いた日の光が差し込み始め、白かった輪郭の一部に薄い橙色が混じる。高台の周囲に伸びていた影もいつの間にか長くなり、眼下の町では屋根や建物の壁へ斜めから光が当たり始めていた。
環は身体を起こした。
「これからが一番きれいだよ」
そのまま立ち上がると、高台の端に沿って設けられた柵の前まで歩いていく。ロイも少し遅れて身体を起こし、服の背中についた細かな草を手で払いながら立ち上がると、環の隣までやってきた。
環は柵の前に立って町を見下ろした。ロイは柵の上へ両腕を預け、重ねた手の上に顎を乗せる。斜面の先から広がる町には、さっき二人が歩いてきた道も細く続き、その両側には大小の屋根が重なるように並んでいた。建物の間を曲がっていく道路は、地上を歩いているときよりずっと遠くまで見え、ところどころを人や小さな車両が動いているのも見える。
ロイは顎を乗せたまま町の中をあちこち眺めていたが、やがて何かを見つけるとぱっと身体を起こした。片腕を柵から離し、町の一角を指差す。
「あ、あそこ学校じゃない? あっち児童院だ! 上から見ると、こんな感じなんだ」
毎日通っている場所も、ここから見ると形が違っていた。学校の建物の脇には運動場が広がり、そこから道をたどっていくと、さらに離れたところに児童院の建物が見える。ロイは指を動かしながら、その間にある道を目で追っていた。
「あそこ通って帰ってるんだな。じゃあ、こっちがさっき上ってきた道か」
しばらく町を探していたロイの指が、別の方向で止まった。
「あの建物、変わった形してるな。なんだろ。あんなのあるの知らなかった」
「あれは病院だよ」
ロイは指したまま少し目を細めた。
「病院?」
環は柵の向こうの建物を見たまま言った。
「…僕の母があそこにいる」
病院を指していたロイの手が止まった。少しして腕を下ろすと、今度は両手を柵へ置いた。
「え、お前……お母さんいるの? じゃあ、なんで児童院にいるんだ?」
環はすぐには答えなかった。柵に置いていた手の指先を少し動かし、病院の方を見たまま、ほんの少し間を置く。
「ん……心の病気で育てられないって。たまに会いに行くけど、僕のことも自分の子だって分からないみたい」
病院の建物はここからでは小さく、傾き始めた日の光を受けて、壁の一部だけが明るく見えている。
「誰が父親かも分からないらしいから、僕は児童院で育った」
ロイはほんの少し黙り、柵の上で指を組み直した。
「……俺は親がいないんだ」
「そっか」
それ以上、どちらも親の話を続けなかった。ロイはまた柵へ両腕を預け、今度は重ねた腕の上へ片方の頬を軽く乗せる。環も隣に立ったまま、眼下の町を眺めていた。
その間にも日は少しずつ低くなっていった。初めは建物の上の方だけを照らしていた橙色の光が、やがて町の広い範囲へ伸びていく。白や灰色だった壁には温かな色が重なり、窓の一枚一枚が角度によって強く光を返し始めた。さっきロイが見つけた学校も児童院も、少し離れた病院も、同じ夕暮れの光の中へ入っていく。
さらに日が傾くと、町の色は一段濃くなった。並んだ窓のいくつかが金色に輝き、少し角度の違う建物はすでに長い影の中へ沈んでいる。その明暗の間を細い道路が抜け、影になった場所では夕方の灯りが一つ、また一つと点き始めていた。空も青だけではなくなり、西の低いところから濃い橙色が広がり、その色が薄い雲の縁まで染めていく。
ロイは大きく顔を上げると、柵に少し身を乗り出した。
「……わあ。綺麗だな!」
環は何も言わず、少し目を細めた。さっきまで見ていた町と同じ場所なのに、もう色も光も違っている。窓に浮かんでいた金色の光も、日の位置が変わるたびに一つ消え、その隣で別の窓が光り始める。
二人はしばらくその景色を見ていた。高台へ来たばかりのころにはまだ明るかった町は、ゆっくり夕方へ変わっていく。ロイはまた柵へ顎を乗せ、足元にあった小さな石を靴の先で軽く転がした。石は少し先まで動き、柵の手前で止まる。
「俺たち、軍の児童院の子供ってさ。正直、軍人になるしかないっていうか……将来、もう決まってる感じだけど」
ロイは止まった石をもう一度靴先で動かした。今度は少し横へ転がっただけで、すぐに止まる。
「でも、何になるかくらいは自分で決めたいじゃん。俺はパイロットになる。お前は……」
環はほとんど考える間もなく答えた。
「何も考えてない」
ロイは一瞬だけ口を閉じた。
「あ、そう……。まあ、でもさ、テストはちゃんとやれよ」
環は柵の向こうに広がる町を見たまま、小さく頷いた。
「…うん。次からちゃんとやるよ」
夕暮れの色はさらに深まり、町の明かりも少しずつ増えていた。環は柵の向こうを眺めていたが、高台の端に立つ時計へ目をやった。背の高い時計の針は、いつもここを出る時刻へ近づいている。
「あ。そろそろ帰らないと間に合わないかも」
環が時計を見て言うと、ロイも時計を見上げ、針の位置を確かめた途端に両手を握りしめて叫んだ。
「やばい、あと二十分しかない!」
「僕は間に合うんだけど」
「いやいや、俺の足じゃ全然間に合わないよ!」
環にとっては、まだ間に合う時間だった。ここから児童院までの距離と、自分がいつも走る速さなら、門限より前に着ける。けれど隣にはロイがいる。いつも一人で帰っている時とは条件が違うことに気付いて、環はロイの方を見た。
ロイは時計と高台を下りる道を見比べ、一度口を結んだ。それから、もういいから行けと言うように片手をひらひら振る。
「……いいや。じゃあお前、先行け。俺、あとから帰るから」
環は少し考えた。
「いや、一緒に帰ろう」
それから顔を上げ、高台の端から町へ下りていく方を見た。いつもの道とは別に、斜面の途中へ抜けられる道がある。
「間に合うかもしれない」
環は二人が上ってきた道には戻らず、柵の切れ目の先へ向かった。
「こっちの方が早い」
「え、こんなところから行けるんだ」
「綺麗な道じゃないから普段は通らないけどね」
柵の先に続く細い下り道はすぐに幅を狭め、斜面に沿って設けられた雑草だらけの階段へつながっていた。夕方になって人通りもほとんどなく、両側には低い柵と建物の裏手が続いている。環は迷うことなく階段を駆け下り、その先で建物の間を抜ける細い通路へ入り、さらに坂を横切った。後ろからついてくるロイの足音は、曲がり角を一つ越えるごとに少しずつ遠くなっていく。
「ちょっと待ってー!」
声が後ろへ離れたのに気付いて環は速度を落とした。少しして角の向こうからロイが飛び出してきて、腕を大きく振りながら追いついてくる。額にはうっすら汗が浮かび、口を開けたまま何度も息を吸っていた。
「マジ速すぎ……」
環はロイが横まで来るのを待ち、その後は離れすぎない速さで走った。いつもは通らない細い階段を下り、建物の脇を抜け、住宅の間を斜めに横切る道から大通りへ出る。地上へ下りるほど建物が近くなり、高台から見えていた町の明かりが今度は二人のすぐ横を流れていった。空の橙色はほとんど消え、店先や家の窓、道路沿いの灯りの方が目立つようになっている。
児童院へ続く道へ入るころには、ロイの呼吸はすっかり荒くなっていた。環が少し先へ出るたびにロイの足音が遅れ、そのたびに環は速度を緩める。やがて児童院の門が見えると、ロイは残っていた力を使うように最後の道を走り、二人はほとんど並んだまま門へ駆け込んだ。門灯の下では職員が待っていて、近づいてくる二人を見て腕を組んだ。
「ロイヤード・リン、叶生環。一分遅刻です」
ロイは門を入ったところでとうとう足を止め、両膝へ手をついた。肩が大きく上下し、髪の生え際には走ってきた汗が残っている。
「はあ……一分くらい……いいじゃん……」
環はその隣で門の脇にある時刻表示へ目をやった。走ってきたにもかかわらず呼吸はほとんど変わっていない。表示されている数字を確かめると、門限からまだ一分には達していなかった。
「まだ四十八秒だったよ、先生」
職員もつられて時刻表示を見たが、すぐに環へ顔を戻した。
「……四十八秒でも一分でも、遅刻は遅刻です!」
膝に手をついていたロイが顔だけを上げた。先生は今度は二人を順番に見て、環のところで目を止める。
「叶生環、あなたが遅刻するなんて珍しいですね。ロイヤード・リンと一緒だからって、こんなことまで真似しちゃだめですよ」
「え…、俺のせい?」
ロイはようやく身体を起こしたものの、まだ肩で息をしている。自分を指差しながら先生を見ると、職員は呆れたように息をついた。
「あなたが遅刻するのは珍しいことじゃないでしょ?」
「そんなにしてないって!」
職員はそれ以上ロイとは言い合わず、環へ向き直った。門の向こうでは夕食へ向かう子供たちが何人か玄関を通り過ぎていき、その声が開いた扉から外まで聞こえてくる。
「遅刻したのは初めてだ…」
四十八秒であっても、決められた時刻を過ぎたことには変わりない。環は先生へきちんと頭を下げた。
「すみませんでした」
先生の険しかった表情が少しだけ緩み、二人を中へ入れるように身体を脇へずらした。
「分かればいいんです」
ロイはそれを見て、やっと終わったというように玄関の方へ一歩踏み出した。けれど環はまだその場を動かず、頭を上げると、さっき確認した時刻表示へもう一度目をやった。
「僕一人だったら門限より二分以上早く着く予定だった」
中へ向きかけていた職員の足が止まった。ゆっくり振り返り、環へ顔を戻す。
「何ですって?」
ロイも足を止めた。まだ完全には戻っていない呼吸を整えながら、口を半分開けたまま環と先生を交互に見る。環はその反応を特に気にすることなく、いつもと同じ調子で続けた。
「今日はロイが一緒だったから、いつもの時間じゃ戻れなかったんだ。でも近道も使ったし、できるだけ早く帰ってきたつもりなんだけど。遅刻になって残念だった」
職員はすぐには何も言わなかった。
食堂へ向かう子供たちは、玄関前に立ち止まった三人の横を不思議そうに見ながら通り過ぎていった。ロイは何か言いかけたように口を開いたが、そのまま黙っている。
「……もう屁理屈言ってないで中に入りなさい!」
職員が院内を指すと、環はそれ以上説明せず、ロイと一緒に玄関を抜けた。外の暗さに慣れ始めていた目には廊下の灯りが少し眩しかった。
「屁理屈ではないんだけどね…ちゃんと移動距離と僕の走る速さから出したんだけど」
歩きながら環が小さく言うと、隣から押し殺したような音がした。ロイが口元を手で押さえ、俯いたまま肩を震わせている。数歩はそのまま我慢していたが、とうとう耐えきれなくなったらしく、壁へ片手をついて吹き出した。
「……はははっ! お前、先生の顔見た? めっちゃ言うじゃん! 面白かった、お前の冗談!」
「冗談じゃないよ」
環が足を止めると、ロイはそれを聞いてさらに身体を折った。高台から走り続けてまだ息が戻りきっていないところへ笑いまで重なり、笑うたびに短く息を吸っている。
環は少し先で立ったまま、ロイが落ち着くのを待った。廊下を通っていく子供が何人かロイの笑い声に振り返ったが、ロイは気付く様子もなく笑い続けている。
何がそこまで面白いのか、環にはよく分からない。それでも、顔を上げたロイは今まで見たことがないほど楽しそうな顔をしていた。
「…ふふ」
気付けば環の口元も少し緩んでいた。
「よく分からないけど、面白かったならよかった」
「うん。お前、面白いよ」
ロイはようやく壁から手を離し、まだ笑いの残る顔のまま歩き始めた。環もその横へ並ぶ。食堂へ向かう子供の流れに混ざり、二人も廊下を進んでいった。
「面白い……そんなこと、初めて言われた」
廊下の角を曲がると、食堂から聞こえる話し声が少し大きくなった。食器の触れ合う音や椅子を動かす音も混じり、さっきまで静かだった高台とはまるで違う賑やかさが近づいてくる。
「僕も今日は予定外だったけど、面白かった」
歩きながら環は少しだけロイの方へ顔を向けた。
「じゃあさ、また一緒に行こうぜ。夕日見に」
「うん。でも、門限を破るのはよくないから、今度は一分早く高台を出ないと」
「いやいや…もうちょっと余裕持ってよ。なんで一分なんだよ。俺、全力で走って疲れすぎたよ」
ロイはそう言いながら、まだ重そうな足で歩いている。環より少し遅れるたびに歩幅を広げて追いつき、また隣へ並んだ。食堂に近づくにつれて、廊下には料理の温かい匂いも流れてきた。
「あー、腹減った。今日の夕飯なんだろ」
「食パンと、ルーメンフィッシュの香草焼きと、豆と根菜のスープだよ」
「へえ! 俺、ルーメンフィッシュ好き」
疲れていたロイの声が少しだけ元気になった。廊下を列になって歩く子供たちの背中を追いながら何歩か進んだところで、ロイはふと思い出したように続ける。
「じゃあ明日はミートシチューかな。ルーメンフィッシュの次の日って、いつもミートシチューじゃん」
「そうだよ」
環が迷わず答えると、ロイの歩調がわずかに緩んだ。隣を歩いていたはずの足音が半歩ほど後ろへずれる。
「…あ、じゃあ……明後日は?」
ロイは試すように言った。振り向いた環はまた表情を変えずに答える。
「麦パンと、鶏肉のクリーム煮と、コーンスープ」
それを聞いてロイは立ち止まる。環も歩みを止めた。
「そ、その次は…?」
「ん? スローンライスと、ミートボールと、きのこのポタージュだけど。全部聞きたいの?」
ロイは涼しい表情で答える環の顔を見たまま、足が動かなかった。他の子供たちに後ろから抜かれていく。
「嘘……。まさか、全部覚えてる?」
「一か月分、食堂に貼ってあった分は覚えてる」
ロイは目を丸くしたまま、数歩ゆっくりと歩いた。
大きく音が鳴るほど唾を飲み込んで、もう一度立ち止まり、ロイはようやく口を開いた。
「……へえ…そう、なんだ」
環は何も言わず、ロイの顔を見ていた。それから少しすると、ロイの口元にゆっくりと笑顔が浮かんだ。
「…じゃあさ。これから今日の夕飯何かなって思ったら、お前に聞けばいいや!」
ロイは環の背中をバンッと叩いた。「いって」と小さく声を出して、環が一歩前へよろける。
食堂の入口はもうすぐそこだった。開いた扉の向こうには明るい室内が広がり、長い卓のあちこちでは先に来た子供たちが席につき始めている。配膳口の方では食器を重ねる音が続き、温かい料理の匂いが廊下まで流れていた。
「あーいい匂い。お前もルーメンフィッシュ好きだろ?」
香ばしい香草の香りを嗅ぎながらロイが聞くと、環は大きく頷いた。それを見てロイも数度頷く。
「僕も好きだよ。たんぱく質が多いし、栄養のバランスがいいから」
「そっちかよ!」
ロイは笑って環の肩に腕を乗せた。
「変なやつー」
「それ、僕よく言われるんだよね」
二人はそのまま並んで、明るい声と食器の音が満ちる食堂の中へ入っていった。




