第1章【帰還】
ファフィニョは、自分の名前ではない言葉で目を覚ました。
「アウラル・カイ」
目を見開いた。
一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
頭上の金属の天井には、あちこちにひびが入り、応急の板で塞がれていた。
傾いたランプが吊るされ、黄色く明滅していた。
部屋の片側の小窓から、レプ・オルジオンの夜明けの紫 of 光が差し込んでいた。
ホライズン基地。
まだ、ホライズン基地にいた。
ノード・ゼロの中ではない。
爆発の真っただ中でもない。
中枢マトリクスの前でもない。
ファフィニョは、ゆっくりベッドに起き上がり、両手で顔をこすった。
昨夜の記憶が、断片となって戻ってきた。
アウリオンテで叫ぶ避難民。
旗を掲げる兵士。
瓦礫の中を走る医療員。
焼けた壁に描かれたΩの印……。
解き放たれたどんな称号よりも重いかのように、人から人へ伝わるあの言葉。
アウラル・カイ。
帰り道を開く者。
ファフィニョは、右腕を見下ろした。
部屋の光の中で、Ωの印がかすかに輝いていた。
「まだ何も開かないで」
自分につぶやいた。
「扉も、道も、缶詰も。今日は、神秘的な使命を背負う心の準備ができてない」
緑の髪は、ひどく乱れていた。
毛先のいくつかが灰色に変わり、認めたくない恐怖をばらしていた。
誰かが扉を叩いた。
ファフィニョは身構えた。
「はい?」
扉が少し開き、有機生命体同盟の若い兵士が顔を出した。
「ファフィニョ、起きたら研究室に来てくれと、ケイルが言っていた」
ファフィニョは勢いよく立ち上がり、危うく毛布に足を取られかけた。
「アクスが目を覚ましたの?」
「わからない。迎えに行けと言われただけだ」
それだけで十分だった。
ファフィニョは、オレンジ色のマントをつかんで着た。
着方を間違え、直したつもりが、なぜかさらにひどくなった。
そのまま廊下へ飛び出した。
ホライズン基地は、かつての要塞の姿を失っていた。
侵攻の後、通路は応急修理の跡だらけだった。
天井にはケーブルが固定され、壁は緊急用の板で補強されていた。
担架が行き来し、疲れ切った兵士が壁にもたれ、座ったまま眠っていた。
宿舎まで歩く力も残っていないのだ。
それでも、命はあった。
数えきれないほどに。
さまざまな世界の避難民が、避難所に変えられた部屋で暮らしていた。
温かい食事を作る者もいた。
服を繕い、武器を磨き、子どもの面倒を見たり、布の切れ端に小さなΩの印を描いたりしていた。
ファフィニョが通ると、人々が振り向き始めた。
初めは、一人。
それから、もう一人。
その後は、多すぎるほどに。
「あの人だ」
誰かがささやいた。
「ファフィニョ」
「ノード・ゼロへ行った子だ」
「アウラル・カイ」
ファフィニョは、逃げているように見えない程度に、足を速めようとした。
失敗した。
紫の肌の少女が、両手で金属板を持って近づいてきた。
黄色いΩが、曲がって、塗りむらだらけで描かれていた。
「サインしてくれる?」
ファフィニョは少女を見つめた。
「サイン? 僕の名前を?」
少女は、真剣そのものの顔で頷いた。
「おじいちゃんがね、私たちの惑星を取り戻したら、家の入口に飾るんだって」
ファフィニョの内側で、何かがきゅっと縮んだ。
何と言えばいいのかわからなかった。
英雄らしい言葉など、用意していなかった。
マントさえ、肩にきちんと掛かっていない。
「もちろん」
ようやく言った。
塗料のペンを取り、できるだけ丁寧に自分の名前を書いた。
少女は、星座を丸ごともらったかのように笑った。
ファフィニョは歩き続けたが、その笑顔は胸に残った。
アウリオンテへ向かって外に出ると、煙と焼けた金属の匂いを含む空気が、顔を打った。
首都は、まだ破壊されたままだった。
白い塔は折れ、大通りにはクレーターが口を開けていた。
帝国のロボットの残骸が、壁際で黒い山を作っていた。
敵船が何隻も、建物の間に突き刺さったままだった。
空から落ちてきた、死んだ獣のように。
それでも、アウリオンテはもう敗れた街には見えなかった。
旗があった。
明かりがあった。
歌があった。
日本語の翻訳版でも、どこにでもΩの印があった。
ファフィニョは、工具の音と人の声に囲まれ、ホライズン基地近くの通りを進んだ。
時間を無駄にはしたくなかった。
アクスが、研究室にいるのだ。
だが地下へ通じる経路に入るには、街のこの一角を横切らなければならなかった。
避難民たちが、壊れた噴水のそばで話していた。
「誰もが無理だと思っていたとき、ノード・ゼロに入ったらしい」
「白いロボットと一緒に」
「緑の剣で中枢マトリクスを破壊したんだって」
「演説を聞いて、ヴェイルが泣いたらしい」
「ヴェイルは泣かないぞ」
「じゃあ、あれは『軍人式の感動の瞬き』だな」
ファフィニョは倒れた柱の後ろで立ち止まり、ひどく居心地の悪い思いをした。
金色の目と灰色の肌をした、別の避難民が声を潜めた。
「奪われた惑星を取り戻すと約束したって聞いた」
「正確には、そう約束したわけじゃないよ」
老女が言った。
「帝国ネットワークは故郷を奪ったが、帰る権利までは奪えないと言ったんだ」
「それは、約束に聞こえるな」
ファフィニョは、マントを握る指に力を込めた。
約束だったのだ。
自分には、そのつもりがなかったかもしれない。
だが、彼らには約束だった。
少年が、近くの壁画を指さした。
そこでは、ファフィニョがノード・ゼロの瓦礫の上に立っていた。
エーテレオンが星のように燃えていた。
その後ろのアクスは巨大で、英雄らしく、ほとんど完璧な姿をしていた。
ファフィニョは絵を見つめ、眉をひそめた。
「僕、こんなに肩幅ないんだけど」
つぶやいた。
近くの子どもが、その声を聞いた。
「母さんがね、英雄は運命を背負うから肩が大きいんだって」
ファフィニョは瞬きした。
「君のお母さん、不安を名言に変える天才だね」
少年は、よくわからないまま笑った。
「ロボットを百体倒したって本当?」
「誰が話すかによるね」
「兄さんは千体だって言ってた」
ファフィニョはため息をついた。
「お兄さん、帝国の宣伝部に向いてるよ。想像力が危険すぎる」
少年が笑った。
ファフィニョも笑ったが、その声はすぐに消えた。
通りの向こうで、誰かがまた口にした。
「アウラル・カイ」
今度は、あだ名には聞こえなかった。
祈りに聞こえた。
ファフィニョは歩き続けた。
そこには留まれなかった。
これ以上、聞いていられなかった。
まだ、今は。
地下研究室は、ホライズン基地の防護された区画の下にあった。
正面の扉が重い音を立てて開き、冷たい空気が流れ出した。
回路と、清潔な油と、青いエネルギーの匂いがした。
中に入る前から、ケイルの声が聞こえた。
「そこにつなぐな! コアを安定させる気か。それとも、無許可であの世見学に送り出す気か?」
セイルが、そっけない声で答えた。
「私の作業台の上で四本の腕を振り回すのをやめたら、正しいケーブルも見えるんだけど」
「俺の腕は悪くない。お前の作業台が、縄張りを主張してるんだ」
ファフィニョは中に入った。
研究室は、眩しいほどに散らかっていた。
いたるところで画面が光っていた。
白い装甲板、ノード・ゼロから回収した部品、機械の修理アームが部屋を埋めていた。
分解された帝国のロボットの破片もあった。
エネルギーケーブルが、金属の根のように垂れ下がっていた。
中央の高い台の上に、アクスが横たわっていた。
ファフィニョの呼吸が止まった。
白いロボットは組み直されていたが、まだひどく損傷して見えた。
塞いだひびが胴体を走り、片方の肩は焼けて黒くなっていた。
新しい装甲板は、古いものと完全には合っていなかった。
関節の間で、細い青い線が弱々しく明滅していた。
ケイルは台のそばに立っていた。
目の下に隈を作り、何本もの手に工具を握っていた。
セイルが、操作盤でアクスのエネルギーコアを監視していた。
ファフィニョは、一歩近づいた。
「目を覚ました?」
ケイルが、ゆっくり振り向いた。
「おはよう、ケイル。いい顔してるね、ケイル」
「親友を徹夜で組み直してくれてありがとう、ケイル」
ファフィニョは彼を見つめた。
「目を覚ました?」
ケイルはため息をついた。
「お前の礼儀はノード・ゼロで戦死したのか? 俺、聞いてないんだが」
セイルは、画面から目を離さなかった。
「まだ。でも、もう少しよ」
ファフィニョは台に近づいた。
アクスの体を覆う火傷を見て、胃の底が沈むような思いがした。
「聞いてたより、ひどい」
「『お前を守って消滅しかけた』なんて、寝る前に聞いたら眠れなくなるだろ」
ケイルが言った。
セイルが、彼を睨んだ。
「ケイル」
「何だ? 優しく言っただろ」
ファフィニョは笑わなかった。
ケイルが挙動を緩めて声を落とした。
「あいつは生き延びた。それが大事んだ」
セイルが端的に頷いた。
「コアは安定してる。でも再起動で混乱するかもしれない。システムに中枢マトリクスの残留エネルギーがあるの」
「アクスは目覚めても、最後に記録した出来事がまだ続いてると思い込むかもしれない」
ファフィニョは、それが何の出来事か尋ねる必要はなかった。
爆発。
防御フィールド。
自分を守ると選んだアクス。
ファフィニョの緑の髪が、毛先から灰色に変わった。
ケイルが、工具で彼を指した。
「お前の髪、書類も揃えずに『楽観主義は破産しました』って申請してるぞ」
「僕の髪に、法的な権限はないよ」
ファフィニョが答えた。
「お前より、よっぽど感情が筒抜けだ」
「僕の髪は、裏切り者なんだ」
セイルが椅子を指した。
「座って。何にも触らないで」
ファフィニョは、研究室を見回した。
「何か特定のもの? それとも、何もかも?」
「光るもの、振動するもの、明滅するもの、漏れるもの、脈打つもの。あと、安全そうに見えるもの」
ファフィニョは座った。
八秒、もった。
「僕も手伝えるよ」
ケイルが、いくつもの目を一度に閉じた。
「前にその台詞を言ったときは、アンテナから煙が出た」
「でも、煙は止まったよ」
「爆発したからな」
ファフィニョが、指を一本立てた。
「厳密に言えば、煙の問題は解決したよね」
セイルが深く息を吸った。
「ファフィニョ」
「わかった。座ってるよ」
もう一度座った。
今度は、十二秒もった。
それから、工具を手に取った。
ケイルが、即座にその手から奪った。
「それはドライバーじゃない」
「ドライバーに見えるけど」
「量子圧力調整器だ」
ファフィニョが、厳かに頷いた。
「高学歴を自慢するドライバーだね」
ケイルは彼を見つめた。
「技術事故を惹きつけるお前の才能は、軍の士官学校で研究するべきだな」
ファフィニョは瞬きした。
「それ、悪口? 褒め言葉?」
「そうだ」
操作盤から、小さな警報が鳴った。
セイルが姿勢を正した。
「再起動シーケンス、開始」
冗談は消えた。
ファフィニョは、許可を待たずに近づいた。
アクスの胸の青い光が、ゆっくりと息を吹き返した。
初めは、かすかな点だった。
それから一本の線が胴体を上り、首を通り、目へたどり着いた。
アクスの指が動いた。
一本。
それから、もう一本。
やがて、手全体が震えた。
ファフィニョの心臓が、肋骨を叩いた。
「アクス……」
青い目が開いた。
一秒だけ、すべてがうまくいったように思えた。
次の瞬間、アクスが跳ね起きた。
研究室の明かりが明滅した。
「警報。中枢マトリクス不安定。爆発進行中。防御フィールドが必要。ファフィニョは衝撃範囲内」
ファフィニョは凍りついた。
アクスが、台から立ち上がろうとした。
支持アームが軋んだ。
「優先事項、ファフィニョの保護。機体損傷は許容。機能停止の可能性、高」
「アクス、待って!」
ケイルが操作盤に飛びつき、アクスの脚を安定装置で固定した。
セイルは、素早く正確な動きでコアの出力を下げた。
「アクス、私の声を聞いて」
セイルが命じた。
「ここはノード・ゼロじゃない」
「確認不足」
アクスが答えた。
「ファフィニョを保護しなければなりません」
「爆発は終わった」
ケイルが言った。
「中枢マトリクスは破壊された。ここはホライズン基地だ」
アクスが、片腕を上げた。
掌に青い光が集まり、防御シールドを形作ろうとしていた。
ファフィニョが前に出た。
「近づかないで!」
セイルが警告した。
だがファフィニョは、すでにアクスの目の前に立っていた。
「ここにいるよ」
震える声で言った。
「僕は大丈夫。もう終わったんだ」
アクスが、彼のほうへ顔を向けた。
「ファフィニョ……衝撃範囲内」
「違う。ファフィニョは研究室にいる。ファフィニョは疲れきってる」
「ファフィニョはマントを変に着てる。ファフィニョは泣くのを我慢してる。ケイルが面倒になるから」
ケイルが、手を一本上げた。
「俺が面倒になることは、保証する」
セイルが彼を見た。
「今は、やめて」
アクスの体の光が、少しずつ穏やかになった。
「ファフィニョ……無事」
ファフィニョが、小さく笑った。
「だいたいはね。でも、そうだよ。まだ僕だ。一部の人には、悲劇だけど」
「主に俺にな」
ケイルがつぶやいた。
アクスが、ゆっくり腕を下ろした。
「ノード・ゼロでの事象……終了」
セイルが頷いた。
「終了よ」
しばらく、誰も動かなかった。
それから、ファフィニョがアクスを抱きしめた。
考えるより先に、そうしていた。
強く抱きしめすぎて、ロボットの装甲板が一枚、警告するようにかちりと鳴った。
ケイルが口を開いた。
セイルは、見もせずに彼を指した。
「だめ」
ケイルは、また口を閉じた。
アクスが反応するまで、数秒かかった。
それからぎこちなく片手を上げ、ファフィニョの背中を慎重に叩いた。
「抱擁を受信。友情を確認」
ファフィニョは目を閉じた。
「もう二度と、あんなことしないで」
「『あんなこと』を具体的に指定してください」
「僕のために、死にかけること」
アクスは彼を見た。
「要請を記録。遵守は保証できません」
ファフィニョが、すぐに身を離した。
「考えられる中で、一番ひどい答えだよ」
「訂正。正直な答えです」
ケイルがため息をついた。
「だから、再起動したてのロボットに優しさを求めるなってことだ」
「私は優しいです」
アクスが言った。
ファフィニョが、驚いて彼を見つめた。
「今、自分で自分の優しさを主張したの?」
アクスが質問を処理した。
「エラー。言い換えます。アクスには、限定的な感情支援能力があります」
ケイルが、胸に手を一本当てた。
「何て魅力的な返事だ。危うく気を失うところだった」
ファフィニョが、初めて心から笑った。
疲れて、途切れがちな笑い声だった。
だが、本物だった。
その後の数分間、セイルがアクスの基本システムを確認し、ケイルが安定装置を調整した。
ファフィニョはそばを離れなかった。
遠くへ行けば、アクスがまた消えてしまうとでもいうように。
セイルが最後の記憶を尋ねると、アクスは一つずつ、間を置いて答えた。
「中枢マトリクス。構造崩壊。防御フィールド。ファフィニョ。機能停止の確率、高」
ファフィニョは視線を落とした。
「僕のせいで、消えかけたんだね」
アクスが、彼のほうを向いた。
「訂正。アクスは、あなたを守ることを選びました」
その言葉が、ファフィニョを不思議な形で打った。
選んだ。
プログラムだけではなかった。
命令ではなかった。
帝国ネットワークの反響 tender でもなかった。
アクスは、彼を選んだのだ。
ファフィニョは、唇を引き結んだ。
「外のみんなは、僕を伝説みたいに思ってる」
小声で言った。
「アウラル・カイ。ノード・ゼロを破壊した者。いくつもの世界の希望……」
「でも君が目を覚まさなかったら、僕はそのどれも自分のことだとは思えなかったよ」
アクスは彼を見た。
「結論。伝説は友情に依存しています」
ケイルが首を傾げた。
「馬鹿みたいなのに、痛いほど綺麗な台詞だな」
セイルが主要なスキャンを終え、警報を止めた。
「休ませてあげて。急な動きは禁止。訓練も禁止。修理台のそばで英雄の演説をするのも禁止」
ファフィニョが両手を上げた。
「どうしてみんな、僕が無責任なことをするって決めつけるの?」
ケイル、セイル、アクスが、同時に彼を見た。
ファフィニョは手を下ろした。
「質問を取り下げます」
セイルが扉へ向かった。
「アクスが目を覚まして、コアも安定してるってヴェイルに知らせるわ。ケイル、私が戻るまで大きな改造は禁止」
ケイルが、胸に手を一本当てた。
「俺が危険人物みたいな言い方だな」
「危険人物よ」
「だが、魅力的だ」
「それは、議論の余地があるわね」
ファフィニョは笑って、出口へ向かった。
「ナイラとレイズに知らせてくる」
出る前に、アクスを振り返った。
「後で話そう。驚かせるのも、爆発も禁止。自分を盾にするのも禁止だよ」
アクスが首を倾げた。
「条件は非現実的ですが、努力します」
「それで十分」
ファフィニョは研究室を出た。
胸はまだ締めつけられていたが、目を覚ましたときよりも軽くなっていた。
少し後、セイルも診断用の端末を持ち、別の通路から出ていった。
扉が閉じた。
研究室が静かになった。
ケイルとアクスだけが残った。
ケイルが工具を取り、台に近づいた。
「さて。感情の大騒ぎがシステムから消えたところで、肩の安定装置を調べるぞ」
「某黄色い奴は、物理的に融合する気かって勢いで抱きつくからな」
アクスは答えなかった。
ケイルが足を止めた。
アクスの胸の青い光が、一度明滅した。
「ケイル」
声が違っていた。
真剣すぎるほどに。
ケイルが工具を置いた。
「その声で始まる話は、楽しくないんだよな」
「完全な秘密保持を要請します」
ケイルがこわばった。
「絶対に楽しくないな」
アクスが、自分のシステムから小さな画面を投影した。
研究室のネットワークには接続しなかった。
「機密情報です。ファフィニョ、レジスタンス、有機生命体同盟、セイルには共有してはいけません」
ケイルが眉をひそめた。
「セイルにもか?」
「否定。誰にも」
「傷つける相手の完全な名簿つきで届く秘密って、最高だな」
アクスは冗談に反応しなかった。
画面に、隠されたファイルが青い光で表示された。
アクセル・イベント。
ケイルが、その題名を読んだ。
「何だ、これは?」
アクスは、一秒置いて答えた。
「再起動中に復元した内部断片。ザイラックスの原設計。目的は機密指定」
ケイルが近づいた。
「アクス。俺が今考えた意味じゃないと言ってくれ」
「感情を安定させるための嘘はつけません」
「俺を怯えさせる直前に、正論を言うのはやめてくれ」
アクスの体の青い光が、少し弱まった。
「ザイラックスは、探索、潜入、兵站のためだけにアクスを造ったのではありません」
ケイルが、ぴたりと動きを止めた。
「じゃあ、何だ?」
「アクスは、器として設計されました」
沈黙。
「何の器だ?」
「ザイラックスの」
ケイルは口を開いたが、冗談は出てこなかった。
アクスが続けた。
「ザイラックスの生身の体が、回復不能な機能不全に達したとき」
「その意識は、アクスの人工頭脳へ転送を試みます」
ケイルが、一歩後ろへ下がった。
「待て」
画面を見た。
それから、アクスを。
また、画面を見た。
「生身の体?」
アクスが、わずかに首を傾げた。
「確認。ザイラックスは、元来は有機生命体です」
「現在の構造は、支援用の装甲システム、機械による拡張機構、生命を維持する外殻です」
ケイルは、完全に動かなくなった。
衝撃が、その顔から疲労を消した。
「いや。いや、待て。ザイラックスは……有機生命体なのか?」
「正解です」
「あの黒い金属、赤い目、ホログラムのマント。不死身の悪役ぶる大芝居まで」
「あれ全部の下に、生身の体があるってことか?」
「技術的な説明としては不十分ですが、許容できます」
ケイルが、何本もの手で頭を抱えた。
「機械だと思ってた。誰もが機械だと思ってる」
「同盟の半分は、帝国規模の自己愛をこじらせた機械だと、たぶん思ってるぞ」
「ザイラックスは、敵に自分を永遠に動く機械と思わせたいのです」
「不死身だという認識は服従を増やし、抵抗の試みを減らします」
ケイルが、神経質に笑った。
「そりゃ、『私は死ぬのが怖くて鎧に潜った、年老いた生き物です』じゃ、同じ迫力は出ないよな」
アクスは黙った。
その言葉が、二人の間に残った。
ケイルから笑みが消えた。
「あいつは、そういう奴なんだな?」
アクスが、静かに答えた。
「ザイラックスは、生身の体の終わりを恐れています。アクセル・イベントは、存続するための経路として作られました」
ケイルが唾を危機感とともに飲み込んだ。
「お前は、あいつの非常口なんだ」
「不快な定義ですが、機能には合っています」
「いや。非常口なんかじゃない。お前を奪うんだ」
アクスは動かなかった。
ケイルが拳を握った。
「お前の頭を、賃貸物件にするってことだ」
「不愉快な比喩です」
「だが、わかりやすい」
「明確さは認めます」
ケイルが、ファフィニョの出ていった扉を見た。
「あいつは、知ってるのか?」
「否定」
「知らせたいか?」
アクスが答えるまで、長すぎるほどの時間がかかった。
「否定」
ケイルは目を閉じた。
「あいつなら、やっちゃいけないことを、きっちりやるからな」
「正解です。ファフィニョは、この情報を自分の責任として受け止めるでしょう」
「衝動性が増します。不合理な判断の危険性、高」
ケイルが、鼻から息を吐いた。
「ああ。あのオレンジのマントを着た、可愛い厄介者そのものだ」
「愛情を含む表現として受理します」
「可愛いと言ったことは、あいつにばらすな」
「追加の秘密を記録」
ケイルは、普段にはない真剣さで、アクセル・イベントのファイルを見つめた。
「まだ誰にも言わない」
彼は言った。
「どうでもいいからじゃない。その逆だ。大事すぎるんだ」
アクスは彼を見た。
「合意を受理します」
ケイルが、ロボットの胸を指した。
「まず、このイベントがどこまで深く入り込んでいるか調べる」
「それから、お前のコアをザイラックスの裏口にさせない方法を見つける」
「成功確率は不明です」
「銀河の大金属怪物の正体が、死を恐れる生き物だと知ったばかりなんだ」
「その直後に、気が滅入る統計を聞かせるな」
アクスが、その言葉を処理した。
「言い換えます。成功確率は不明ですが、向上させるため積極的に取り組みます」
ケイルが頷いた。
「ずっといい」
彼は台に身を寄せた。
疲れ、怯え、決意を固めていた。
「まずお前を救う。それから、ファフィニョに怒鳴られよう」
「ファフィニョが怒鳴る確率、高」
「じゃあ、それを聞けるまで生き延びるぞ」
アウリオンテの瓦礫の上では、ファフィニョが、Ωの印とアウラル・カイと呼ぶ声の間を歩いていた。
ノード・ゼロを破壊した者。
奪われた世界の希望。
帰り道を開く者。
だがホライズン基地の地下では、修復した金属の上で青い光が明滅していた。
その研究室で、ケイルはアクスのコアに隠されたファイルを見つめていた。
アクセル・イベント。
指示を処理する中で、ノード・ゼロでの勝利が、ザイラックスを終わらせてはいなかったと悟った。
もっと恐ろしいものを、明るみに出しただけだった。
誰もが機械だと信じた怪物は、まだ有機生命体だった。
その死への恐怖は、アクスの中に隠されていた。
第1章をお読みいただき、ありがとうございました!
ようやく目覚めたアクスですが、ラストの「アクセル・イベント」を巡る秘密の会話によって、物語の不穏な空気が一気に加速しました。ザイラックスの恐るべき正体と執念、そしてそれを知ってしまったケイルの決意……。
英雄として祭り上げられていくファフィニョの裏側で, 動き出した歪な運命の歯車をこれからもしっかりと描いてまいります。
次回の第2章【アクセル】では、さらなる激動の展開が待ち受けています。どうぞお楽しみに!
もし「続きが気になる!」「応援したい」と思っていただけましたら、下部にあるブックマーク登録や、評価の星(☆☆☆☆☆)をタップして応援していただけますと、執筆の大きな励みになります。
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