25.王の義娘は辺境の領主の胸を叩く
ぼろぼろと流れ落ちる涙はそのままに、リリーシャは何度もリガードの胸を叩いた。
とはいえリリーシャはまじめで、少し弁えすぎるところのある性分であったから、その音はとてもひそやかなものだった。
「お兄様が、私を守ってくれていたのは知っています。あの国で、私をちゃんと守ってくれたのはお兄様しかいなかったもの。でも、どうしてですか? どうして、ちゃんと教えてくれなかったの? 一緒に戦ってくれと言われたなら、私はちゃんとそうしました。喜んで、お兄様と戦った。ひとりきりで、たったひとりきりで自分の国を売らせるなんて悲しいこと、絶対にさせはしなかったのに!]
成長したリリーシャは、今はもうない故国の地に帰ってきて思うことがあった。この地がガネージュだった頃、自分にもっとできることがあったはずだと。あの頃、いろんなしがらみを盾に何もしようとしなかった自分を見つけて、それからリガードのことを考えた。
何かを言いさしたリガードの言葉を封じるように、リリーシャは何度も首を振る。
「お兄様は一番の味方を追いやった。私を、自分ではない誰かに嫁がせようとした。私が、私だけがお兄様の味方になれるはずでした……!」
涙がちに潤んだ世界に、微かな驚きと後悔とを混ぜたようなリガードの表情が見えた。涙が一粒流れ落ちると、その表情は泣き笑いの顔に移り変わる。それで、リリーシャは自分の心がリガードの深いところにまで届いたのを知った。
「リリーシャ。君を傷つけて、申し訳なかった」
「あの頃の私が、もっと、お兄様の味方に足る人で在れていたらよかったのに」
そうであったなら、もっと。もっと何かが変わっていたはずだ。今更そんなことを言ってもしようがないのに。
「そんなことはない。リリーシャがいなかったら、きっと何もかもを投げ出したくなっていたと思う。君を守りきれないでいたのに、君は本当に良くしてくれた。あの頃、僕が本当に安らげるのは君の前だけだった」
頬を両の手のひらで包まれて、リリーシャは顔を歪める。くり返し名前を囁かれながら、リリーシャは何度も頷く。次から次へと流れてくる涙が熱くて、その熱さがどうしたって時間を巻き戻せないことを突きつけてくる。
「もう、もう私はちっぽけな娘ではありません。お兄様の腕の中に隠れていることしかできない、ちっぽけで不安定な立場の娘ではありません。まだ経験は足りないけれど、私はきちんと自分で戦える娘になりました。お兄様がくれたものを、陛下のもとで磨きました。だからもう、置いてけぼりにされてなんてあげません……もう、もう、ぜったいに一人になんてしてあげません……!」
悲しみと怒りとがどっとひと息に押し寄せて、リリーシャはリガードの広い胸にすがりついた。
ばか。ばか。ひどい。ずるい。お兄様のばか。自分だけが頭がいいと思っているみたい。でも、そういうところも好き。などと罵倒なのか告白なのかわからないことを言いながら、リリーシャはぺちぺちとくり返しリガードを叩いた。
「お兄様はぜんぶそう。私のためといって、ぜんぶ決めてしまう。私の気持ちは、私に聞いてください。もっと、私を欲しがってください。私は、お兄様しか欲しくなかったのに! 欲しいと言われたら、ぜんぶあげました。ぜんぶ、ぜんぶ……! だって、私だって、お兄様のことがずっと好きだった」
手のひらが優しく肩を包んだのに、リリーシャは首を振る。そうして、きっとリガードを睨んだ。
「も、もう、誓いました。陛下にも祝福されました。もう、覆せませんから。ぜったいに、しがみついてでも離してあげませんから! どんなにお兄様が嫌がったって、だめです」
だめ。いや。だめ。そうくり返して泣きじゃくりはじめたリリーシャを妙にじっくりと眺めていたリガードは、思わずと言ったようにため息した。
びくりと肩を震わせたリリーシャの頭を撫でて、リガードはそうじゃないと囁いた。
「王太子としては失格かもしれないが、ずっと君のことだけが気がかりだった。国よりも何よりも、君が幸せであればいいと思った。でも、今は少し違う。もう、欲しいものを諦めたりしない。もう、君を欲しがることを我慢したりはしない。だからリリーシャ、どうか一緒に幸せになって欲しい。……君のことを愛してる」
あいしてる。そのことばの衝撃に顔を上げたリリーシャは、何かぞっとするほどに艶っぽいリガードの笑みに行きあった。
「本当はもっと早くこういう話をするべきだとは思う。でも、誓いが欲しかったのは君だけじゃない。きちんと手続きを踏んで結婚するまでは、安心できなかった。……ずるいだろう?」
え、え、とうろたえるリリーシャは、近づいてきたリガードの顔にきゅっと目を瞑る。
でも、少し経ってもいっこうに唇は触れないでいる。そろそろと瞼を押し上げると、拗ねたようなリガードの顔が視界いっぱいに広がっていた。微かに歪められた眉やリリーシャだけを見つめている瞳が形作る表情に、リリーシャは胸が高鳴るのを感じる。
ゆっくりと頬を包まれて、指の腹が涙の跡をたどるように肌に触れた。
「あ、あの、お兄様」
うん、と頷いたリガードが続く言葉を待っている間、リリーシャはうろうろと視線を彷徨わせる。どこに視線をやっても、リガードのまなざしを感じる。少なからず、否、とても熱を湛えたまなざしを。
じわじわと頬を色づかせていくリリーシャは、そろそろとリガードと目を合わせる。瞬間、ほんの少し悔やんだ。あの頃、ずっと優しく見守ってくれていた瞳は、いまリリーシャを欲していることを隠していない。けれども、たとえようもない喜びがみるみるうちに膨らんでいき僅かな後悔などなかったかのように押しやっていった。
「リリーシャ、教えて。誓いだけでは少し足りないから、君の言葉が欲しい」
リリーシャは、自分がまだ好きという言葉以外には愛を伝えられていないことに気づいた。
次いで、ふたりが幼かった頃のことを思い出した。
リリーシャは出来たばかりの義兄のことがすぐに好きになったけれど、素直に甘えられたことはなかった。ずっと一緒にいたいだなんて、そんなのは高望みでしかない願いだとわかりきっていた。
「はい……! お兄様、愛しています。ずっと、ずっと傍にいます。もう、ずっと離れません。だから、私の傍にいて、私を愛してください」
「誓う。もう二度と、リリーシャをこの腕の中から離したりはしない。……君の居場所は、ここだけだ。たとえ陛下にだって譲りはしない」
何度も頷くと、リリーシャを包んでいた影が深くなった。唇が触れて、すぐに離れたのにいやだなと思ったのが分かったみたいにまたくちづけられる。
「ん……っ」
リリーシャははじめ、息の仕方もわからなかった。
でも、ゆっくりとくちづけを教えられるうちに、いつしかうっとりと目を閉じた。好きなひとと唇を合わせていることの心地よさを感じながら。
抱きしめられて、抱きしめ返されながらくちづけをくり返すうちにリリーシャの背は寝台につき、柔らかく覆い被さるリガードのぬくもりに包まれた。




