22.王の養女は水盆の前で涙を流す
翌朝、眠りから醒めたリリーシャは小さく悲鳴を上げた。なぜって、すぐ傍にリガードがいたからだ。
(お兄様の寝顔を見るなんて、初めて……)
頬を赤く染めたリリーシャは、もしかして夢を見ているのではないかと思った。
そして、自分の化粧が落とされていて、寝衣を着せられていることに気づいた。紐の結び方には、マノアの癖が現れている。リガードが呼び出したのだろう。ということは、昨夜は何も起こらなかったのだ。何故か一つ寝台の上で眠っているけれども。
赤くなったりしょんぼりしたりと忙しなくしていたリリーシャは、眠っていたはずのリガードが目を開けてじっと自分を見つめていることに気づくと、息を呑んだ。
え、あ、と狼狽えていると、リガードはおはようと囁いた。こくこくとリリーシャが頷くと、リガードは静かに訊ねた。
「レイデーア王は、君をディターニス領主の伴侶にするとの命を下された。それは、君の同意を得てのことだろうか」
まだ眠気の余韻にふわふわとしていたリリーシャは、はっと開いた唇を指で押さえられて瞬いた。リリーシャがいまが好意を伝えるときだと意気込むのがわかっていたみたいに、リガードの仕種はなめらかだった。それで、リリーシャは何度も頷いた。
そうとリガードは呟いて、小さく欠伸をした。
よく眠れなかったのかと心配するリリーシャに、リガードは少し黙ったのちにそれはねと頷いた。リリーシャは不思議に思ったが、次のように訊ねられて瞬いた。
「君に付いてきたアーデンフロシアの方たちは?」
「旧ガネージュの貴族が解体された辺境には、新しい人材がもっと必要でしょう? だから、まずは三年というお約束で来ていただいたのです。王立騎士団の団長に、前宰相の御子息に、公爵家の跡継ぎに、王都で名の知れた商家出の書記官に鍛冶師や陶芸家……それに、移住を検討している人たちも。きっと、お兄様のお役に立ちます。人の流れが停滞していては何も進みません」
褒めてくださいますかと期待を湛えた瞳で自分を見つめるリリーシャに、リガードはなるほどと思った。そして、例の噂はどうやらレイデーアの仕組んだお遊び兼からかいらしいと見当をつける。
「いまのリリーシャを見れば、レイデーア王のもとで努力を重ねてきたのだとわかる。あの方は人の才を見抜くのも、それを磨くのもお上手だ。ずっと手元に留めていたならば、リリーシャはきっと今のようにはなっていなかっただろう。……そう考えると、妬けてしまうな」
お兄様が、嫉妬。
ぽつんと呟いたリリーシャが頬を染めたのに、リガードはとろけんばかりの笑みを浮かべてみせた。
ただね。そう囁いたリガードが続けたことばを耳にして、リリーシャは泣きそうになった。
そんな必要はありませんとリリーシャがどんなに首を振ってお願いしても、リガードは優しく微笑むばかりだった。
――リリーシャを愛する気持ちに変わりはない。だが、何分三年も会わなかったのだから、婚儀まで今のリガード・ディターニスをゆっくり見定めるといい。
その見定めが終わるまでは、リリーシャに触れないと誓おう。婚儀の日取りは決められているが、もし取りやめるということになっても決してリリーシャのせいにはしない。ちゃんとレイデーア王には話を通すから。
リガードがごく穏やかに述べたという話を聞かされたレイデーアは、魔術師が繋いだ水盆の向こうで目を剥かんばかりに驚いた。
「婚儀!? 三月も先だが!? リリーシャを一緒の寝台で寝かせておいて言うことがそれか?」
「ああ仰るからには……やっぱり、私のことを妹としてしか見ていないということなのですよね」
「いやいや。リガードは愛すると言ったのだろう? ならばそうなのではないか? それに、リガードの言いようには、自分からは私の命じた結婚を断らないという意思表示も感じられる」
レイデーアが宥めるようにそう言ったのに、リリーシャはふるふると首を振った。その目はもう潤みきっている。
「きっと、お兄様が仰っているのは家族愛なのです。もちろんこのまま私がいいと言ったなら、結婚してくださるおつもりだとは思います。だって、お義母様のご命令ですもの」
「ええ、そうか? 私は違うと思うがなぁ……」
妙に確信ありげなレイデーアは、もごもごと呟く。せっかくお膳立てしてやったのに自らお預けとは、本当に面倒くさくて厄介な奴だなあ、と。しかし、大きな瞳の縁から涙を溢れさせたリリーシャには届かなかった。
リリーシャはべそべそ泣きながら、でも諦めませんと首を振る。
国を後にしてからは絶対に夢以外では泣かないと決めていたくせに、辺境に戻って来てからというもののリリーシャは泣いてばかりだった。
「ちゃんと、三月で口説き落としてみせます。お兄様が全然手を出してくださらないおかげで、私はとても真面目に働いていますけれど。いえ、それはいいのですけれど……」
「ああ、リリーシャ。そんなに泣くな。目が溶けるぞ」
水盆の向こうで、レイデーアが天を仰いだ。女神に向けて、いったいどうしたらいいのでしょうと語りかけている。
レイデーアの頬を撫でた光が溶けるように消えるのを見て、リリーシャは涙を拭った。
「あー……すまない。大祖母上は、まず私の婚儀の予定が立っていないことをどうにかしろと仰せだった」
そういえばと、リリーシャは瞬いた。
レイデーアの即位の支度と辺境に向かう準備で大変慌ただしかったために忘れていたが、レイデーアとアーディレイの婚儀は、目下アーデンフロシアの最重要懸案事項だった。
即位と同時に婚儀を挙げてはという話も出たのだが、レイデーアとアーディレイはふたりとも言葉を濁してひたすら逃げに徹したのである。なまじ優秀なふたりによって誰も彼もが何故か不思議と忙しくさせられてしまい、結局即位の儀しか行われなかったのだ。
聞けば、ふたりはあの夜以来寝所を共にしていないというのだから、リリーシャにはよく分からなかった。だって、どちらも互いを憎からず思っていることは明らかだったし、ふたりは本当にすごく近しい関係なのだ。お蔭で、王城の人々は大変気を揉んでいる。リリーシャも、「おふたりをせっついてください」と度々求められたものだった。
「お義母様。はやく求婚してくださらないと、私は三月後の婚儀でアーディレイ様をお義父様と呼べません」
「その、まあなんだ。リリーシャ、取りあえずリガードを押し倒してみろ。それがいい、うん」
強引に話を逸らしたレイデーアに、リリーシャはふたたび涙ぐんだ。
もうしました、とその顔に書いてあったのだろう。レイデーアは苦笑し、リリーシャはため息をついたのだった。
リガード・ディターニス辺境伯は、一度こうと決めたことは頑なに貫き通す。そうでなければ、自国を見限って売り渡すことなどできなかっただろう。
そのことを、義理の母娘はよく分かっていた。




