17.偽りの姫は悲しみの片鱗を知る
リリーシャがじり、と後ずさりするうちにも、レイデーアの声が耳に飛び込んでくる。
「私だって、兄上に生きていてほしかった! でも、そうはならなかった。兄上が死んだのは、私が兄上に注がれる分の女神の愛情を奪ったせいではない……女神は、私などの意のままになる御方ではない!」
レイデーアがひくりと喉を鳴らす音がして、リリーシャは手のひらで口元を覆った。
わかっている、と噛んで含めるようなアーディレイの声は静かで、だからそ二人の間にある空気の重たさを伝えてくる。
「レイデーアは悪くない。女神の御意志は人に左右できるものではない。それがたとえ、レイデーアのような女神の愛し子であってもだ」
レイデーアは心を噛み殺そうとして噛み殺しきれなかったかというように、うなり声ともつかない声を細く震わせた。
「そうだ。アーデンフロシアに生まれた民なら分かっていることだ。だのに、どうしてカミラは私を責める!? 私を大好きだと言ってくれたカミラが、私を憎むようになった。兄上が死んで、私が生き残ったからだ。挙げ句の果てに、リーデンバーグの手下を王城に手引きした! わ、私を、殺させようとした……あろうことか、兄上を殺した奴らに手を貸したんだぞ!? 誓約書があるから自分では私を直接害せないと知っていて、そうしたんだ」
リリーシャの頭の中で、断片的だった情報が組み合わさっていく。
先程執務室の方からやって来たルドンたちが引っ立てていた、貴族の娘。おそらく彼女がカミラで、レイデーアの兄の婚約者か恋人だった娘なのだ。
今日のお昼、レイデーアは上げられてきたばかりの報告書を読んで、いつもより長く昼休みを取ると言って小部屋に入った。その報告書はアーディレイのところで止められるものだったから、リリーシャは読んでいない。でも、そこに書かれていたのはたぶん……。
「さっき、カミラは兄上ではなく私が死ねばよかったと言ったぞ! そもそも、私があの大うつけの相手をしていれば戦も起こらなかったとも! ……誰より優しいカミラが、あんなことを言うなんて……あんなことを言わせるまで、追い詰めてしまっていただなんて」
それは、ちがう。
胸の内でそう呟いたリリーシャは、力強くレイデーアの名を呼ぶアーディレイの声を聞いた。
「分かっているだろう。お前は優しいが、だからといってすべてを許してやろうと思わなくていい」
「でも、可哀想だ。カミラは一人きりだ。もっと彼女を気遣ってやればよかった。私の顔など見たくないだろうと思ったし、何度手紙を送っても返事はなかった。兄上の葬儀でも、私の目を見ようとしなかった。だから、恐くて放っておいてしまった」
ひと呼吸のちに、レイデーアは静かに囁いた。一つひとつの言葉を噛みしめるように。
「……私は、彼女を処罰しなくてはならない。兄の、愛した人を」
「カミラを罪に問うのをやめるか? お前が彼女を許せと言うなら、きっと誰も止めない」
呟くようにそう返したアーディレイの声は、柔らかい音をしていた。労りに満ちた声だった。
だが、レイデーアは、ふふと涙声で笑った。
「他の誰が私の決定を許してもお前だけは本当のところでは許してくれないくせに、よく言う。
もう決めたことだ。きっと、兄上も同じようになさるだろう。私が甘さを見せれば、カミラはきっとまた似たことをする。情の強い人だからな。きちんと罪を言い渡してやるのが私の役目だ」
「そうだよ、俺はお前を傷つけようとしたカミラを許さない。たとえお前が許すと言ってもだ。でも、お前が目こぼしするというのなら、俺は従おう」
レイデーアを慮って逃げ道を残そうとするアーディレイの提案に、彼女はけれども頷かなかった。
沈黙の間を縫うように、アーディレイが囁いた。
「……お前が人であるように、カミラもまた人だ。彼女の痛みを慮ることはできる。でも、カミラはその道を選ばないこともできた。あいつはそれでもお前を害することを選んだんだ。その意思は、レイデーアとは全く関係ない。無理を言っているとは思う。ただ、お前に背負いすぎてほしくない」
息を殺してじりじりと後ずさるリリーシャの耳に、ぽつりとしたレイデーアの呟きが微かに届いた。
ひと。
それはまるで、置いてきぼりにされた子どものような声だった。
ひと呼吸のちに、その微かな震えは引き攣れたような笑い声と化す。
「人か? 私は、人か!? ……笑わせるな。矢を射かけられても死なない、剣が心の臓を貫いても瞬時に息を吹き返す、それどころかこの身には傷ひとつさえ残らない! もしかすると、お前よりもうんと長生きして一生死ねないかもしれない、この私が!?」
かろうじて堪えていたものを溢れさせたように痛々しい声を迸らせて、レイデーアは泣き噎んだ。
――おまえの手は、私に親しみ以上には触れない。おまえの目は、私を気の毒がる。おまえの身体は、私より先に老いる。おまえの心は、私を置いていく。私はたったひとりきりで、永遠に……。
それ以上聞いていられなくて、リリーシャは扉までにじり寄ると部屋を飛び出して、出来うる限りの静けさでそっと扉を押し込んだ。
ほかの誰にもあんな悲痛な声を聞かせてはいけないと思った。
だから、リリーシャは小さく震えながら扉を守っていた。
そのまま、じっと扉に身体をおしつけてどれくらい時間が経っただろう。
ようやくのことで震えが収まってきた頃、リリーシャは不思議そうに名前を呼ばれてびくりと振り向いた。
リリーシャを迎えに来てくれたマノアは、青ざめた秘書官見習いの顔にまあと瞬いた。
マノアは「リリーシャ様はすぐに顔色に出ますね」と言いながら具合を心配してくれたが、熱もなさそうだとわかると、すみやかに自室まで送り届けてくれた。
もうこの頃のリリーシャは一人でお湯を使うようになっていたし、着替えも一人で済ませられるようになっていたけれど、マノアはリリーシャがきちんと食事を取って寝台に横たわるまで目を離してはくれなかった。




