16.偽りの姫は悲痛な声に足を止める
レイデーアが目覚めるまでの三日間、執務室は閉ざされた。
レイデーアとアーディレイがいないことには、何も回らないからだ。
臨時休暇を与えられたリリーシャは、その間にすべて済ませてしまうことにした。
リリーシャに供を頼まれたマノアは、はじめ驚き、次いで不審がり、最後にはあきれ果てていた。
だが、リリーシャがさっぱりとした顔をしているのに気づいて、最後には納得してくれた。まあ、殿下は今お寝みですしね。そう囁いて。
リリーシャは自分の決断したことについてレイデーアに報告したい気持ちでいっぱいだったのだが、生憎となかなかその機会は訪れなかった。レイデーアが政務に復帰すると、執務室は嵐のような忙しさに見舞われたからだ。
ただでさえリーデンバーグの襲撃に関する報告が増えている上に、レイデーアが快復した噂を聞きつけて、宰相以下高官たちから騎士や女官にいたるまで、それはもうたくさんの人が代わる代わるやってくるのだ。レイデーアはその度にあの輝かしい瞳を細めて、朗らかに笑ってやっていた。
リリーシャはいつものようにお遣いに出た先で、顔見知りとなった人々から例の襲撃の場に居合わせたことを慰められて驚いた。その慰めは、リリーシャに自分がアーデンフロシアで受け容れられていることを感じさせたから。
それでようやく、リリーシャはリガードがガネージュを治める夢を見ることを諦めることができたのだった。
リリーシャは、きちんと知っている。
隣国のことであるから、アーデンフロシアの王城にはガネージュの王太子の義妹の存在を知っている者もいた。
レイデーアはリリーシャの素性を隠していなかった。ただ、表立って言わなかっただけだ。そうして、まずはリリーシャ個人を人々に見せたのだ。リリーシャの素性を知って遠ざかる人もいたが、ほとんどの人は何も思っていないと言外に示してくれていた。
何より、レイデーアが庇護下に置いてくれていたからだろう。
レイデーアはずっと、リガードに約束した以上にリリーシャを守ってくれていた。
わざわざリリーシャの世話を焼かずとも、頃合いを見て適当に選んだ男に縁づかせることだってできたのに、リリーシャに選択を委ねてくれたのだ。
行く先々で気遣われ、またレイデーアの目覚めを喜ぶ声を聞いたことで、リリーシャは執務室に戻るのが遅れてしまった。すでに定刻を過ぎている。
帰途を急ぐ途中、リリーシャはルドンたちがまだ年若い娘を連行していくのに出くわした。
髪を振り乱した娘の顔は、こちらからはよく見えない。だが一瞬こちらを見たとき、目の下に黒い隈がたたえられているのにリリーシャは気づいた。
さっと道を譲ったリリーシャにルドンは小さく笑んで会釈してくれたが、おそらく高位貴族の娘だろう。連行されていた娘が身をよじって暴れると、早く行くようにと合図した。大人しく頷いたリリーシャは、足早にルドンたちがいま来たほうへと向かう。
「リリーシャ様。申し訳ございません、一度お側を離れてもよろしいでしょうか?」
人手の足りないアーデンフロシアの王城において、女官長の次に重宝されているというマノアには度々声がかかることがあったので、リリーシャは振り向いた先に遠慮がちに一礼した侍従の姿を見つけて頷いた。
「執務室までお見送りいたします。少しの間、中でお待ちいただけますか?」
「ええ、大丈夫です。仕事をしています」
申し訳なさそうな顔をしたマノアを見送ったリリーシャは、執務室の扉を叩いて何の応えもないことに瞬いた。そっと扉を開けると、誰の姿も見えず灯りもない。レイデーアとアーディレイは、三日間の遅れを取り戻すために夜まで政務をすると張り切っていたのにだ。
首を傾げたリリーシャは、ふと足を止めた。
執務室と続きになっている小部屋のほうから、細く灯りが漏れている。扉が薄く開いているのだろう。雲の合間から降りる梯子のように、光の筋が伸びていた。
その光の向こうにあるのは、レイデーアが休息を取るための場所だった。
小部屋で昼寝をするレイデーアをアーディレイがひっぱり出してくるのが、執務室でのお決まりのやり取りだった。
灯りが描いた線の上を辿ろうとしたリリーシャのつま先を止めさせたのは、扉から漏れ聞こえた悲痛な声だった。
「私だって、私だって! 望んでこうなったわけじゃない!」
――レイデーアの声だった。
いつも誰より眩しい笑みを浮かべている人の声だとは到底信じられないほどに、その声は涙に滲んでいた。嗚咽交じりに息を乱すレイデーアを宥めるように、アーディレイが何かを囁いている声が漏れ聞こえてくる。
聞いてはいけない。
そう思うのに、影を縫い止められでもしたかのようにリリーシャは動けなかった。




