真白のいない部屋
在来線から新幹線に乗り換え、さらに私鉄に揺られ二時間。
璃海が日南田駅に着く頃には、20時半になっていた。
なだらかな山を背にして広がる日南田市は、六年前に誕生した最先端医療の学園都市。
高台には、真白の通う日南田医療総合大学とその附属病院、研究施設が立ち並び、夜の闇に浮かぶ姿は巨大な城塞のように見える。
その威容に思わず小さく息を吐き、璃海は駅前でタクシーを拾った。
車内で奏衣から届いた留守電を確認する。
『真白さんはお部屋にいませんでした。お姉さんが来られるまでお待ちしてます』というメッセージが残っていた。
アパートの前に降り立つと、窓の一つに明かりがついている。
真白の部屋だ。
細い階段を上り、チャイムを押す。
すぐにドアが開き、ターコイズブルーのTシャツが視界に飛び込んできた。大きな瞳を不安でいっぱいにした少女が、こちらを見つめている。
「あ、堀田です」
「……初めまして。真白の姉です」
互いにぎこちなく挨拶を交わす。
キッチンへ入ると、白い室内ドアの向こうに無人のベッドルームがのぞいていた。
女子大生のひとり暮らしらしい、慎ましやかな部屋である。
奏衣は慣れた手つきでキッチンに立ち、お湯を沸かしていた。
「あの、紅茶のティーバッグしかないんですけど」
「お気遣いなく。……堀田さんは真白の部屋によく来ていたんですか?」
「近所なので、時々一緒に食事や勉強をしていました」
ふと流しを見ると、マグカップと皿が1枚、洗い桶に放置されていた。冷蔵庫を開けると、賞味期限の切れた牛乳が残っている。
「洗濯機には洗っていない服が何枚か入ってました。こんな状態で、留守にしてしまうでしょうか……」
吐き出すように言うと、奏衣は唇を噛んで視線を落とす。伏せた瞼から、大粒の涙が、ころり、と頬を伝って落ちた。
璃海はそれをぼんやりと眺めながら、真白の不在をまだ実感できずにいた。
ふと、妹の姿を探すようにベッドルームに目をやる。
窓辺の机には、大学のテキストが無造作に積まれていた。その横にはノートパソコンと、見慣れないヘッドギアと…手袋?
――なんだろう?
疑問に思いヘッドギアを手に取った瞬間、奏衣が2つのマグカップをトレイに載せて入ってきた。
「それ、VRゲームのヘッドセットとグローブなんです」
ローテーブルにカップを置き、奏衣は沈んだ声で続けた。
「真白さん、急にVRゲームにのめり込み始めて、高価な機器を揃えていて……。でも、それだけじゃないんです。恋人ができた、って」
「……恋人、ですか?」
「あ、恋人っていってもホントじゃないっていうか……えっと……ゲームの中で、ってことなんですけど」
「つまり……どういうことなんでしょう?」
意味がわからず問い返すと、奏衣は頬をかすかに赤らめた。
「真白さんもですが、わたしも……リアルの男の人には興味がなくて。って、違うな……怖かったんです」
「怖い……?」
「友達ならいいんですけど、付き合うとかはちょっと」
言葉を濁す奏衣を見つめながら、璃海もその気持ちはなんとなく理解できた。自分も年齢=彼氏いない歴。というクチである。
「だから、真白さんがゲームのキャラに恋をしてたなら理解できたんです。実際、そういうことは前にもありました。でも今回は違っていて……やっていたのは、アバターを作って交流するゲームなんです」
「アバターで交流……それは、相手がいるってことですか?」
「そうです。でもアバターなので、性別も年齢もいくらでも変えられますから、どんな人かはわかりません。真白さんは『すごく信頼できる、優しい人』だって。リアルで会う約束をしてました」
「会う……約束?」
璃海の胸に、小さく不安の種が芽吹いた。
カップの縁から立ちのぼる白い湯気を、しばらく意味もなく目で追う。
「……その約束、いつのことか分かりますか?」
問いかけた声が、思ったよりも低く響いた。
「あ、心配しないでください。ゴールデンウィークに会うつもりだって言っていたので、まだ会ってはいないと思います」
奏衣は小さく笑みを作り、「大丈夫ですよ」と頷いて見せる。
けれどその言葉は、璃海の耳には慰めにしか聞こえない。胸の奥に巣食う不安は広がるばかりだ。
――何か取り返しのつかないことが、すでに始まっている。
そんな思いが、否応なく形を取り始めていた。




