パスワード
テーブルの上の黒いヘッドセットを見つめる二人を、沈黙がゆっくりと包み込んでいく。バカバカしいことに、ただの機械がどこか禍々しく映る。
耐えきれず、璃海が口を開いた。
「そのゲームの名前、知ってますか?」
「……確か、《ティル・ナ・ローグの日々》っていうVRゲームです。妖精やエルフになって、ファンタジー世界で暮らすんです」
奏衣はスマホに画像を表示すると、璃海の前にそっと置いた。 勿忘草色の髪と目をした、小さな妖精――それが真白のアバターだという。
「堀田さんは、やったことあります?」
「いえ、ありません。VR自体まだ未知の部分があって怖いですし、始めるのにお金もかかりますから……」
璃海はどこか落ち着かない気持ちで「幾らくらいするものなんでしょう?」と尋ねた。
「……多分ですけど、パソコンもVR対応に買い替えてたので、最低でも30万はかかるんじゃないかと」
「30万……!」
(そんな余裕、あるわけないのに……)
妹への不信が、かすかに胸に過ぎる。
「本人は春休みにバイトしたって言ってました。でも…本当のところはわかりません」
璃海は窓の外の闇に目をやった。
さっき見た妖精の少女の姿と重なってか、真白の顔がはっきりとは思い出せなくなっている。
「そのすぐ後にこんなことになって……。すごく怖いんです」
奏衣の声が小さく震える。璃海はふと、背後に誰かがいるような気配を感じ、肌が粟立った。
(もしも、真白の失踪にゲームが関係していたら?)
「考え過ぎかもしれませんが……わたし、どうしてもゲームが無関係とは思えなくて」
「たしかに、高価な機器を買ったり、恋人を作るほどゲームにのめり込んだり。真白はらしくないことばかりしてる気はしますけど…」
璃海の言葉に頷いて、奏衣は真白のパソコンを指差した。
「真白さんのパソコンから、ゲームにログインしたら、何かわかるかも……」
「でも、パスワードがあるんじゃないですか?」
「パスワード。そうですね……あ、そうだ!」
奏衣は思い出したように手帳を取り出すと「真白さんのスマホのパスワードなら知ってます。パソコンも同じかもしれません」とペンを走らせた。
627476
「これは何か意味があるんですか?」
「スマホのパスワード画面で、MASIROって打つと出る数字です」
璃海は試しに自分のスマホに打ち込んでみる。確かにその通りだった。
「なるほど……。早速試してみますね」
璃海は真白のノートパソコンに手を伸ばした。
電源を入れると、顔認証の画面が現れる。
すぐ下のパスワードの入力欄にカーソルを置いた。
「627476…」
カチカチと入力し、エンターをクリックする。
[ユーザー名またはパスワードが正しくありません]
「違った…」
再びモニターを見つめる。真白ならどう組み合わせただろうと思いを巡らせて。
(白……白、WHITE……627476?)
……627476WHITE
……SNOW627476
………。
空しく画面が戻るたびに、焦りが募る。
「真白……白、白……」
その時、ふと古い記憶が鮮明によみがえった。
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「お姉ちゃん、お姉ちゃん!見てこの字!」
「なあに?」
真白がノートいっぱいに書いたのは、見慣れない漢字 “皘”。
「なんて読むの?」
「せん!」
「へえ、初めて見た」
真白は得意げに胸を張る。
「白と青で、わたしたちみたいでしょ? 雪みたいに真っ白、って意味なんだって」
「青の要素、どこにあるの?」
「白に青を混ぜると、もっと白いの!」
「ふつうは水色って言うんじゃない?」
「いいの。わたし、この字が好きなの」
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まだ真白が小学生の頃の他愛ないやり取り――。
不思議な確信に突き動かされ、璃海はふたたびキーボードに手を伸ばした。
[MASIRO1000]
――タン、とエンターを打つ。
一瞬のあと、画面が切り替わりデスクトップが映し出される。
「やった!!」
自然と声が上がり、奏衣と二人微笑みあった。
画面には優しい青のグラデーションを背景にいくつかのアイコンが並んでいる。
〔ごみ箱〕が左上にひとつ。その下に書類や画像フォルダ。しかし……。
「ゲーム、ありませんね……」
奏衣が小さくため息をついた。
急に疲労が重くのしかかってくる。
時刻はいつの間にか22時を過ぎていた。
「今日は、もう遅いですし……帰りますね」
そう言って部屋を出た奏衣は、階段を降りるとふと足を止めた。
振り返ると、躊躇いがちに口を開く。
「……あの、よかったら友達登録しませんか? 何か分かったことがあれば、すぐに連絡できますし」
璃海は笑みを浮かべて頷いた。
メッセージアプリに相手の名前があるだけで、不思議と心強い。
「今日はありがとうございました」と微笑むと、
奏衣は軽く手を振って自転車に跨った。――遠去かる後姿が視界から消えていく。
部屋に戻ると、不意にざらりとした感触が、首筋にまとわりついた。
まるで、高い建物の窓から誰かにじっと見下ろされているようで気味が悪い。璃海はそっとカーテンを引いた。
それでも、漂う何者かの気配は、消えることはなかった。




