疑心
いつもの不調が治ると、璃海は手早く身支度を済ませた。最後に真白のノートパソコンとゴーグル、グローブを通勤バッグに詰め込む。
戸締りを終え、タクシーアプリをタップした瞬間、玄関のチャイムが鳴った。
「璃海さーん、起きてますか?」
――璃海さん?
図々しい呼び方が腹立たしい。
少し間延びしたその声の主を思い浮かべ、璃海は少し乱暴にドアを開けた。
「西島さん、朝から何の――」
「うわあ、この前よりひどい顔ですね。昨日、夜更かしでもしました?」
「はあ?」
苛立ちを声に出してから、しまった、と唇を噛む。
西島はこうやって人を苛立たせて、反応を楽しんでいるのだ。
――わかっているのに。
璃海は小さく息を吐き、努めて平坦な声で言った。
「手短にお願いします。もう出るところなので」
「あー、お休み今日までですもんね。じゃあ、僕が送りますよ」
「送る? 何言って――」
言葉が終わらないうちに、西島は足元に置いていたバッグをつかんで階段を下りてゆく。璃海は慌てて後を追った。
アパートの前には明るいクリームイエローの軽自動車が停まっている。西島が助手席のドアを開け、人懐こい笑みを浮かべて待っていた。
――また彼のペースだ。
「……わかりました。駅までお願いします」
反論するのも面倒になり、諦めて車に乗り込む。
運転席に回った西島は、無言でエンジンをかけた。
車は見覚えのない道を幾つも曲がり、やがて幹線道路を走り出す。
――こんな道、通ったっけ?
不安が胸をかすめる。
来たときは夜で道の記憶は曖昧だが、十分ほどでアパートに着いたはず。
――もう十五分近く走ってる……。
「……西島さん。これ、どこ行くんです?」
「ん? 璃海さんの家ですよ」
西島はハンドルを回しながら、朗らかに笑う。
車は高速道路へと入った。
料金所を越えるとハンドルを右へ。
フロントガラスの先に、案内標識が流れてゆく。
河口湖/甲府方面――。
璃海の背筋に、冷たいものが走った。
西島は本気で璃海の家に向かう気だ。
――でも、なぜ知ってるの?
運転席の男は、上機嫌で歌を口ずさんでいる。
「心配しないでください。運転は得意ですから」
「そういう問題じゃないでしょ。あなた……うちの場所まで調べたの?」
「だから、僕をストーカーみたいに言うのはやめてくださいって。真白ちゃんが教えてくれたんですよ?」
璃海は西島の言葉に眉を寄せた。
「妹とは、ただの顔見知りだったんじゃないの?」
「そうですよ。僕と真白ちゃんはただの顔見知りです」
中央道に入ると、青空が広がる。
午後の日差しがフロントガラス越しに射し込み、一瞬目が眩んだ。
「でもね」
片手でサンバイザーの角度を調整しながら、西島が続けた。
「堀田さんより僕の方が、真白ちゃんのことを知ってますよ」
「どういう意味?」
「そのまんまですよ。真白ちゃんには、親しい友達なんていなかった。でも、堀田さんはまるで親友みたいに振る舞ってた。――そうでしょう?」
その断定的な言い方に、璃海は戸惑った。
「あなたは……二人が友達じゃないって、言いたいんですか?」
「さあ。ただ、僕は二人が仲良くしてるところ、見たことないので」
初めて会った時の奏衣を思い浮かべる。
彼女は真白を心配して、涙まで流していた。
――あれが……嘘?
「……そんなの信じられないわ。かなちゃんは、スマホのパスワードだって知ってたのよ?」
「真白ちゃんのパスワード? それ、僕だって知ってますよ」
「どういう事?」
「去年のオープンキャンパスの準備の時、真白ちゃんが何人かに自分のパスワードの決め方を教えてくれたんです。スマホで『MASIRO』って打つ位置の数字、って」
璃海の喉がひゅっと掠れた音を立てる。
気づけば、必死に反論の言葉を探していた。
「でも……エラの画像は? 西島さんだって見たでしょう?」
「そうですねー。あれは僕にもわからないな。邪推するなら、堀田さんが真白ちゃんの行方不明に、何かしら関わってる――とか?」
西島は黙ったままの璃海をちらりと見ると、「ただの空想ですよ」と笑った。
真白が行方不明だと知らせてきたのは奏衣だ。
ゲームの中に恋人がいると教えてくれたのも、ゴールデンウィークに恋人と会う約束をしていたと言ったのも――全部、奏衣だった。
でも、それが嘘かもしれないと西島は言う。
――誰の言葉を信じればいいの?
頭の奥が、熱を持ったようにジンジンと痛んだ。
「あー、やっぱり混んでますね」
順調に流れていた車が、八王子JCTを過ぎたあたりから詰まり始めた。
窓の外をのろのろと車が進んでゆく。
「ところで、ゲームはうまくいってます?」
視線を前に向けたまま、何気ない声が続ける。
「……なんのこと?」
「別に隠さなくてもいいのに」
西島はつまらなさそうに唇を尖らせた。
いつの間にか渋滞は徐々に解消し、車は再び速度を上げた。
「到着まで一時間くらいかな。璃海さん、疲れてたら寝ててもいいですよ」
西島はアクセルを踏み込んだ。
やがて高速を降り、田畑の続く道をしばらく走ると、璃海のよく知る風景が姿を見せる。
「もうすぐですね」
西島が静かに言った。
夕陽が山の端にかかる頃、車は小さな駅舎の前に滑り込んだ。舗装のひび割れた駐車場には、赤みを帯びたオレンジ色の光が濃い影をつくっている。
「着きましたよ。あれでしょ、璃海さんの車」
ぽつん、と一台だけ駐車している車を、西島がフロントガラス越しに指差した。
「ありがとうございました……。ほんとに、何でも知ってるのね」
璃海は車を降りると、西島を冷たく見下ろした。
「ガソリン代と高速料金を――」
「……お姉ちゃんは、黒のSUVに乗ってるの」
西島がゆっくりと口を開き、璃海の言葉を遮った。
「……西島さん?」
表情の消えた西島の横顔が、璃海の目に映る。
黄昏に染まった瞳で、どこか遠くを見たまま、彼は言葉を続けた。
「いつも“久邇田駅”まで迎えに来てくれて……そこから橋を渡って、お姉ちゃんが働いてる役場を通り過ぎたら、西へ二十分ほど、山道を走る。その奥の小さな集落が、わたしたちの家」
「何……言ってるの?」
「僕はね、璃海さん。真白ちゃんがあなたに黙ってどこかに行くなんて、信じられないんです」
璃海は息を呑んだ。
「あなた、いったい……」
「あ、そうだ」
西島は、不意に声の調子を明るくした。
「僕これから日曜日まで、この先の温泉ホテルに泊まってますから」
「え?」
「また明日、会いましょう」
西島の車が去っていくのを見送り、璃海は深く息を吐いた。駅前に停めた自分の車に乗り込むとエンジンをかける。
スマホが小さく震えた。
奏衣からのメッセージだ。
【りっかさん 今お話できますか?】
西島の言葉が、頭の中でぐるぐると回る。
【ごめんなさい 今移動中なの】
【明日また連絡します】
送信ボタンを押し、スマホを置く。
今、奏衣の言葉を聞く余裕はなかった。
小さな沢沿いの道を辿り家に着く頃には、辺りは真っ暗になっていた。街灯ひとつない夜を、月が明るく照らしている。
うるさいほどの蛙の声を聞きながら、璃海は玄関を開けた。中には少し湿った、古い木の香りが漂っている。
居間に入るとすぐに作業机を片付け、真白のパソコンをセットした。
電源を入れ、ゲームを起動するとゴーグルを装着する。
「ゴースト、ただいま」
『家か?』
「うん。今から〈アネムの村〉に行ってみる。グリードもオンラインみたいだし」
『気をつけろ』
「うん。じゃあね、また後で」
krikaはボイスチャットを切ると、ワールド一覧から〈アネムの村〉に向かった。
視界が切り替わり、昨夜の広場に立つ。
静かな夜の村。
ランタンの光が、石畳を淡く照らしている。
(グリード……どこにいるのかな)
「あら、krikaちゃんじゃない」
ルールーが、ふわりと夜空から降りてきた。
「ルールーさん! メンバーに招待してくれてありがとう」
「どういたしまして〜、わたしもkrikaちゃんが来てくれて嬉しいわ。今日はこれからどうするの?」
「グリードを探してたんだけど」
「グリード? さっきまでいたけど、もうログアウトしちゃったわよ」
「そっか……」
肩を落とすkrikaを見て、ルールーは悪戯っぽく笑う。
「あら、もしかして。krikaちゃん、グリードのこと気になってる?」
「え、気になるって?」
「うふふ。あの子、あんな見た目なのになんかモテるのよねー」
「モテ、る……?」
「そうそう。前も、可愛い妖精と仲良くしてたわ」
krikaの胸が、小さく跳ねた。
「妖精……?」
「ええ、エラっていう子。とっても可愛い子だったのよ」
krikaは何気ない口調で問いかけた。
「その、エラちゃんって昨日はいた?」
「来てなかったわ。もう一週間以上、見てないの」
ルールーが少し寂しそうに言う。
「グリードも心配してたみたい。メッセージにも返事がない、って。でも、突然ログインしなくなるってよくあることことだから……仕方ないわよね」
「……そう」
「まあ、また来たら紹介するわね」
krikaはルールーに手を振って別れると、フレンドリストを開く。
ゴーストの〔ワールドに入る〕
昨日と同じまるい月の下。
さやさやと揺れる、大きな萱の株の傍に、ゴーストはいた。
「ゴースト、聞いてた?」
ゴーストのモヤが小さく波打つ。
『いつもいつも覗き見する訳じゃない』
「……? ゴースト、怒ったの?」
『別に怒ってない。……krikaは見ていて欲しいのか?』
「出来るなら。説明しなくていいし、便利じゃない?」
ゴーストが大きなため息をついた。
「どうしたの?」
『……降参だ。ああ、君がルールーと話しているのを見ていたよ』
「そっか。じゃあ、説明いらないね」
『…………』
「……実はね。今日、前に話した西島さんって人に車で送ってもらったんだ」
『……送ってもらった?』
モヤの奥の声が低くなった事に気づかないまま、krikaは続けた。
「そう。でね、かなちゃんが真白と親しかったのは嘘だって言うの。彼はわたしの家も知ってたし、まだ何か隠してるみたい」
ふと横を見ると、ゴーストがぴたりと動きを止めている。
「あ、ゴーストの事はもちろん話してないからね!」
慌てて言うと、ゴーストはモヤを小さく揺らめかせ、声を落とした。
『……そうじゃない』
モヤが迷うように揺れている。そんなふうに彼のモヤが頼りなげに見えるのは初めてだった。
何故か胸が痛んだ。
「……ゴースト?」
迷子のように零れた声に、ゴーストがkrikaを見たような気がした。
『……君は、もう少し慎重になれ。不用意に動けば、君が危険に晒されるかもしれない』
――いつものゴーストだ。
krikaは、ほっと小さく息をついた。
『誰も信用するな。ルールーも、グリードも、奏衣も、西島も』
「ゴーストは?」
『俺も、だ』
その言葉に、krikaは小さく笑った。
『……俺が本当のことを話しているとは限らない』
すこしムッとした声音で、ゴーストが微かに揺れる。
「言いたくないことは言わなくてもいいよ」
ゴーストのモヤが、ゆっくりと揺らいだ。
「嘘ついてもいいんだよ」
『俺は……嘘はつかない』
少しの沈黙のあと、ゴーストが小さく言った。
『……俺以外は信用するな』
「うん」
モヤがざわざわと揺れている。
それが、krikaの今の心に似ていて、すこし擽ったい。
微笑みながら、「おやすみ」を言ってゴーストのワールドを離れた。
ゴーグルを外すと自宅の居間。
壁にかかっている古い振り子時計の針は、10時を過ぎている。
――何も起きない。
(あの奇妙な現象は……真白の部屋だけなの?)
疑問だけが、璃海の心に渦巻いていた。




