不在
操は自宅の玄関のインターフォンを呼び出した。すぐに返事があると思っていたが、なんの応答もない。――二度、三度。
「あらー、おかしいわね」
有給休暇を取ってのんびり一人旅を楽しんだ夫の要一は、操たちより先――5月の2日か3日に帰宅する予定だった筈。
ふとカーポートを見ると、夫の車が停まっていた。
「車あるから帰ってきてるはずなんだけどね」
今年六年生になった娘の梢に言うと、最近大人びてきた横顔のまま、携帯電話をいじっている。
「お風呂入ってるんじゃない?」
遅れて興味が無さそうな返事が返ってきた。
操は小さくため息をつくと、「そうかもね」と言いながら、暗証番号を入力してドアを開けた。
「ただいまー」
声をかけて靴を脱いでいる間に、梢は廊下を駆けて洗面台に向かう。うがいの音が聞こえ、すぐに階段を上がる軽やかな足音が響いた。
リビングのドアを開けると、ちょうど西陽がさしている。眩しさに目を細めて室内に入ると、奇妙な感覚があった。
(……あら?)
操は部屋の中を見回した。
リビングのテーブルの上に、何も置かれていない。
いつもなら要一が帰宅すると、鞄や財布が置いてあるのに……。
それどころか、ソファも、ダイニングのテーブルセットも、どこも使用した形跡がなかった。
「部屋にいるのかしら」
操は階段を上がり、夫の書斎、寝室と順にドアを開けた。
――いない。
寝室のベッドは、操が家を出たときのままきれいに整っている。
クローゼットの扉を開けると、要一が持って出たスーツケースが見当たらなかった。
もう一度書斎に戻ると、室内をあらためて見る。デスクの上はすっきりと片づけられていて、パソコンの電源も落ちたまま。
サイドに置かれた細身のロッカーには、小さな鍵が掛かっている。
リビングやダイニング、玄関と、財布や携帯、スーツケースを探してみたが、どこにもない。
(帰ってきて……また出かけたってこと?)
玄関の靴箱は夫の靴がそろったままだ。旅に出るときに履いていたスニーカーだけが見当たらない。
スペアキーを持って車のドアを開けてみると、車内はほこりひとつなく整っていた。コーヒーの空缶、レシートの一つも落ちていない。
ふと、後部座席に小さな紙袋が置かれているのに気がついた。
花柄の可愛らしい紙袋だ。開けてみると、中には刺繍入りのカチューシャが二つ入っていた。
ひとつはクリーム色に白い花の刺繍。もうひとつは薄紫に青い花の刺繍。
(梢の誕生日プレゼントかな?)
そう思ったが、娘の好みとは少し違う。
包装もリボンもない。
操は袋をそのまま戻し、車のドアを静かに閉めた。
「ママー、パパの携帯、繋がらないよ」
二階から梢の声が聞こえた。
興味なさそうにしていたが、一応心配はしているらしい。微笑ましさに一瞬口元が弛む。
操も自分のスマホで夫に電話をかけてみたが、電源が入っていない、という無機質な音声が流れただけだ。
ため息をついて、【連絡ください】というメッセージを夫に送るとスマホを置いた。
娘と二人で夕食を終えたあと、操は浴室に梢を呼んだ。湯気の立つバスタブには、菖蒲が浮かべてある。
「男のコじゃないんですけどぉ」
梢は不満そうに言いながらも、ドアを閉めて入っていった。いつもより長く湯に浸かっていることに、操は内心で微笑んだ。
入浴を終えると、パジャマ姿の梢が髪を拭きながら、じっと操を見つめている。
「どうしたの?」
「パパと連絡ついた?」
「まだだけど。大丈夫、明日には帰って来るわよ。梢の誕生日でしょ」
おやすみ、と二階に上がる娘を見送って、操はリビングのソファに深く腰を下ろした。
梢には平静を装って言ったものの、一人になると得体の知れない不安が胸を占める。
静かな部屋の中で、時計の針の音だけが響いていた。
*
深夜一時を過ぎても、操はなかなか眠れなかった。
浅い眠りと目覚めを繰り返し、その度にスマホを確認する。 結局、連絡がないまま朝を迎えた。
リビングに降りて夫の電話番号をタップすると、昨夜と同じ『電源が入っていません』という機械的な声が流れる。
小さくため息をつくと、「ママ」と声がした。
振り向くと、梢が目をこすりながら操を見ている。
「パパ、帰ってないの?」
「連絡もしないで困ったパパねー」
笑顔を作ったが、うまく笑えた気がしない。
「梢、今日はお誕生日だね。おめでとう」
「うん……ありがとう」
「水族館、楽しみだね」
わざと明るく言うと、梢が不安そうに尋ねた。
「行けるの?」
嬉しいはずの誕生日なのに、その顔が切なかった。
「もちろん行くわよ」
――今は、梢の誕生日のことだけを考えよう。
操はそう心に決めた。
*
水族館は、ゴールデンウィーク最終日とあって、家族連れでごった返していた。
父親に肩車される子ども。
手を繋いで歩く親子連れ。
操はそっと目を逸らした。
「ママ、見て!」
梢が海中トンネルの入り口で手を振っている。
透明なトンネルの中を二人で歩くと、魚たちの影が頭上を流れてゆく。
操はスマホを確認した。
――連絡、ないわね。
館内放送が流れ、イルカショーの開始を知らせた。
観覧席に座ると、梢は隣で目を輝かせている。
イルカが高く跳ね、しぶきを上げるたびに、拍手と歓声が響く。
梢の楽しそうな笑顔を見つめながら、手の中のスマホをそっと握る。
その日、夫からの連絡はなかった。




