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20/23

不在



 操(みさお)は自宅の玄関のインターフォンを呼び出した。すぐに返事があると思っていたが、なんの応答もない。――二度、三度。

 

「あらー、おかしいわね」

 

有給休暇を取ってのんびり一人旅を楽しんだ夫の要一(よういち)は、操たちより先――5月の2日か3日に帰宅する予定だった筈。

ふとカーポートを見ると、夫の車が停まっていた。


「車あるから帰ってきてるはずなんだけどね」


今年六年生になった娘の梢(こずえ)に言うと、最近大人びてきた横顔のまま、携帯電話をいじっている。

 

「お風呂入ってるんじゃない?」


遅れて興味が無さそうな返事が返ってきた。

操は小さくため息をつくと、「そうかもね」と言いながら、暗証番号を入力してドアを開けた。


「ただいまー」

 

声をかけて靴を脱いでいる間に、梢は廊下を駆けて洗面台に向かう。うがいの音が聞こえ、すぐに階段を上がる軽やかな足音が響いた。


リビングのドアを開けると、ちょうど西陽がさしている。眩しさに目を細めて室内に入ると、奇妙な感覚があった。


 (……あら?)

 

操は部屋の中を見回した。

リビングのテーブルの上に、何も置かれていない。

いつもなら要一が帰宅すると、鞄や財布が置いてあるのに……。

それどころか、ソファも、ダイニングのテーブルセットも、どこも使用した形跡がなかった。

 

「部屋にいるのかしら」

 

操は階段を上がり、夫の書斎、寝室と順にドアを開けた。


 ――いない。

 

寝室のベッドは、操が家を出たときのままきれいに整っている。

クローゼットの扉を開けると、要一が持って出たスーツケースが見当たらなかった。

 

もう一度書斎に戻ると、室内をあらためて見る。デスクの上はすっきりと片づけられていて、パソコンの電源も落ちたまま。

サイドに置かれた細身のロッカーには、小さな鍵が掛かっている。    

 

リビングやダイニング、玄関と、財布や携帯、スーツケースを探してみたが、どこにもない。


(帰ってきて……また出かけたってこと?)


玄関の靴箱は夫の靴がそろったままだ。旅に出るときに履いていたスニーカーだけが見当たらない。

 

スペアキーを持って車のドアを開けてみると、車内はほこりひとつなく整っていた。コーヒーの空缶、レシートの一つも落ちていない。

 

ふと、後部座席に小さな紙袋が置かれているのに気がついた。

花柄の可愛らしい紙袋だ。開けてみると、中には刺繍入りのカチューシャが二つ入っていた。

ひとつはクリーム色に白い花の刺繍。もうひとつは薄紫に青い花の刺繍。

 

(梢の誕生日プレゼントかな?)

 

そう思ったが、娘の好みとは少し違う。

包装もリボンもない。

操は袋をそのまま戻し、車のドアを静かに閉めた。

 

「ママー、パパの携帯、繋がらないよ」

 

二階から梢の声が聞こえた。

興味なさそうにしていたが、一応心配はしているらしい。微笑ましさに一瞬口元が弛む。

 

操も自分のスマホで夫に電話をかけてみたが、電源が入っていない、という無機質な音声が流れただけだ。


ため息をついて、【連絡ください】というメッセージを夫に送るとスマホを置いた。



 娘と二人で夕食を終えたあと、操は浴室に梢を呼んだ。湯気の立つバスタブには、菖蒲が浮かべてある。


「男のコじゃないんですけどぉ」


梢は不満そうに言いながらも、ドアを閉めて入っていった。いつもより長く湯に浸かっていることに、操は内心で微笑んだ。


入浴を終えると、パジャマ姿の梢が髪を拭きながら、じっと操を見つめている。


「どうしたの?」


「パパと連絡ついた?」

 

「まだだけど。大丈夫、明日には帰って来るわよ。梢の誕生日でしょ」


おやすみ、と二階に上がる娘を見送って、操はリビングのソファに深く腰を下ろした。

梢には平静を装って言ったものの、一人になると得体の知れない不安が胸を占める。

 

静かな部屋の中で、時計の針の音だけが響いていた。


 

  *

 

 


 深夜一時を過ぎても、操はなかなか眠れなかった。

浅い眠りと目覚めを繰り返し、その度にスマホを確認する。 結局、連絡がないまま朝を迎えた。


リビングに降りて夫の電話番号をタップすると、昨夜と同じ『電源が入っていません』という機械的な声が流れる。

 

小さくため息をつくと、「ママ」と声がした。

振り向くと、梢が目をこすりながら操を見ている。


「パパ、帰ってないの?」


「連絡もしないで困ったパパねー」


笑顔を作ったが、うまく笑えた気がしない。

 

「梢、今日はお誕生日だね。おめでとう」


「うん……ありがとう」


「水族館、楽しみだね」


わざと明るく言うと、梢が不安そうに尋ねた。


「行けるの?」


嬉しいはずの誕生日なのに、その顔が切なかった。


「もちろん行くわよ」


 ――今は、梢の誕生日のことだけを考えよう。


操はそう心に決めた。



  *


  

 水族館は、ゴールデンウィーク最終日とあって、家族連れでごった返していた。


 父親に肩車される子ども。

 手を繋いで歩く親子連れ。


操はそっと目を逸らした。

 


「ママ、見て!」


梢が海中トンネルの入り口で手を振っている。


透明なトンネルの中を二人で歩くと、魚たちの影が頭上を流れてゆく。


操はスマホを確認した。


 ――連絡、ないわね。


館内放送が流れ、イルカショーの開始を知らせた。

観覧席に座ると、梢は隣で目を輝かせている。


イルカが高く跳ね、しぶきを上げるたびに、拍手と歓声が響く。


梢の楽しそうな笑顔を見つめながら、手の中のスマホをそっと握る。


 

その日、夫からの連絡はなかった。



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