ふたりだけのはずだった
翌朝教室に入り、自分の席に鞄を下ろした途端だった。鳰が勢いよく寄ってくると、かがみの机を両手でバンと叩き、食い入るような目で見つめてきた。
「かがみさ、昨日滋賀県のことで困ってたでしょ? 今度の土曜日、二人で探しに行かない?」
「……いや、私は図書館の資料で調べるからいい」
「だめだめ! それじゃ心から推せるアピールポイントなんて見つけられないよ。やっぱり現地に行って、自分が直接感動した場所を勧めないと説得力ないと思うんだよね」
熱弁を振るう鳰を見て、かがみは密かに溜め息をつく。
要するに、遊びに行く都合のいい口実を見つけただけなのだろう。特別な用事があるわけでもないが、下手に断れば土曜の朝から家に押しかけて来かねない。
ひとりのんびり過ごすはずだった週末を諦め、かがみは渋々その提案に乗ることにした。
「……わかった。じゃあ土曜日ね」
「やった! えへへ、なんだかデートみたいだね」
「デートって……いつも一緒にいるでしょ」
「もう! かがみはほんと女心がわかってないなぁ」
「私も女なんだけど」
「とにかく、気合い入れて行くんだからね。どこ行くか考えるの楽しみだなあ」
「あのさ……これ、一応課題のためだよね?」
「そうだよ?」
とぼけた顔で首をかしげる鳰。本当に、課題を終わらせる気はあるんだろうか。
――鳰は、私と一緒にいて楽しいのだろうか。
机に向かい、教科書のページをめくる手を一旦止めて、かがみはふとそんなことを考える。
鳰はいつも明るく、要領がよくて、誰とでも器用に打ち解けられる。周囲を惹きつけるあの太陽のような眩しさは、自分にはないものだ。
だからきっと、いつか私がいなくなっても、鳰はほんの少しだけ悲しんだあと、また当たり前のように他の誰かの隣を歩くのだろう。
「……なんか、やだな」
ぽつりと零れ落ちた言葉は、授業中の静かな教室の空気に溶けて泡のように消えた。
誰に聞かせるでもない、けれど誤魔化しようのない本音だった。
クラスの誰もが片手間で済ませようとしているような小さな課題。
それでも自分が手を抜けないのは、鳰が本気で――どんな意図であれ――自分と向き合ってくれているからだ。
教科書の字の羅列を見つめながら、かがみは静かに息を吐いた。
自室の回転椅子に身体を預け、鳰はくるくると意味もなく回りながら何かを呟いた。
視界が滑らかに回転し、本棚、クローゼット、そして閉ざされたドアが何度も交互に通り過ぎていく。
右手で机の縁をぎゅっと掴み、勢いを殺した。
乱れた息を整えながらペンを執り、ノートを開く。
無表情のまま、普段よりもほんの少しだけ丁寧に文字を綴る。彼女にとって、これが最大限機嫌が良いときの仕草だった。
ノートを引出しの奥へ仕舞い、鍵をかける。
鳰はそのまま椅子の上で小さく丸まり、ぎゅっと自分の膝を抱え込んだ。薄手のブラウス越しに伝わる身体が、かすかに震えている。
何がそんなに怖いのか、自分でも上手く説明できない。ただ、二人きりのこの穏やかな時間が終わってしまうことへの恐怖だけが、底なしの暗闇のように足元で渦巻いていた。
鳰は目を閉じ、小さく息を吐き出した。
土曜日の朝。この地域に住む高校生にとって、移動手段といえば自転車か電車くらいしかない。
鳰が集合場所に指定したのは、国道沿いにひっそりと佇む神社の鳥居前だった。約束の場所に到着すると、鳰は思いがけない人物の姿を目にして眉をひそめた。
「……なんで白井くんまでいるの?」
「いや、途中でたまたま会って。『暇なら一緒に来る?』って聞いたら本当に来たの」
「なんや永原ちゃん、冷たいなあ。遊ぶんなら俺も誘ってくれたらええのに」
白井耀太は、屈託のない笑顔で手なんて振ってみせている。
鳰の顔が露骨に不機嫌そうに歪んだのは、ほんの一瞬のことだった。
「もーっ! せっかくかがみと二人きりでデートできると思ってたのに!」
ぷくっと頬を膨らませて抗議してみせる鳰。いつもの可愛いお調子者の顔だ。けれどかがみは、彼女が最初に見せた冷ややかな一瞬の表情が、妙に胸に引っかかっていた。
「まあまあ。俺を連れて行って損はさせへんよ。ちゃーんと地元の名ガイド見せますし」
「はいはい。期待しないでついて行くわ」
自転車を神社の駐輪スペースに止め、近くのコンビニでペットボトルの茶を調達する。
白井に気安く話しかけられている鳰の背中を見つめながら、かがみは静かに歩みを進めた。
――やっぱり鳰は、私じゃなくても誰とでも楽しそうなのかな。
今日の目的地は、山の頂だった。




